1. 名谷教会
  2. 2024/05/19:聖霊に導かれて
2024-05-19 36:40

2024/05/19:聖霊に導かれて

2024/05/19 聖霊降臨祭礼拝

鎌野直人師

ローマ人への手紙 -18


00:01
大変ご無沙汰をしております、鎌野直人でございます。
いつも覚えてお祈りくださっていることを心から感謝します。
もう、ここから離れて14年経つという、
生まれたばっかりの子がもう中学生、卒業服するかなというぐらいになるという、
それだけ経ちましたが、本当にこのようにこのところに来させていただいて感謝します。
うちの子どもも大きくなりまして、
小学生だった娘と息子ですけれども、
今は娘は一緒に住んでいて、大阪まで働いています。
息子はアメリカに行っちゃって、今は留学して勉強しているという、
もうみんないい歳になっちゃいました。
私もいい歳になってしまいましたので、時間が過ぎるのはあっという間だなと思っております。
よくこの近くは通っていました。
けいめいで子どもたちに行っていましたので、
けいめいのことでいろいろとやってきていましたので、
この辺はよく通っていました。
全然知らないところではない。
町も変わっていないなと思いながら、
豊田はなくなりましたけどね。
いろいろと変化もありながら、
久しぶりに来させていただいて懐かしいなと思っております。
ですから、昔からおられる方はよく存じ上げていますし、
昔よく祈っていた方々もおられたり、
いろんな方が来られてよかったなと思いながら、
今日は皆さんの顔を見ることができて、心から感謝をしております。
一言お祈りをして、今日の御言葉を取り据えていただきます。
天の神様、あなたの恵みと憐れみが今日も豊かにあることを感謝いたします。
あなたがお一人びとりを集めてくださり、
何よりもあなたがこのところに、
巫女イエス・キリストをあらわしてくださり、
精霊によって御言葉を通してあなたを知ることができることを感謝いたします。
この日も集めてくださったあなたが御言葉を通して私たちにお語りくださり、
私たちがその声をお爽やかに聞きつつ、
今日も共に集まり導かれて、
この週もそれぞれのところで歩むことができるようにお導きください。
それぞれの祈り、願いを抱えていますし、
それぞれの本当に心配事もありますが、
神様がそれを御存じであり、導いていてくださることを信じます。
憐れてくださり、この明大仁教会のお一人びとりと、
またはこの地域、この北相馬の地域も豊かに
あなたの祝福がありますようにお願いをいたします。
また今日、加藤先生御夫妻は平方希望教会での御奉仕でありますが、
先生方の働きも豊かに祝福し、
先生方が豊かに用いられて、あなた御自身の栄光を
この教会を通して、教会の方々とともに表すことができるように
強め支えてください。お願いをいたします。
今しばらくの時、私たちは御言葉に耳を傾けます。
03:00
あなたがお語りください。
待ち望みつつ、私たちの救い主であるイエス・キリストの皆によって
お祈りをいたします。アーメン。
クリスチャンの生涯というのは退屈なものでしょうか。
クリスチャンという人は真面目であると、
変なことはしないよな、とか言われたりもするのかもしれません。
ただ、聖書を読んだり、
2000年の歴史の中の様々なクリスチャンの人たちの伝記を
読んだりすると、いや、クリスチャンの生涯というのはむしろ
冒険旅行のようなものであると。
今日、ペンテコステでありますが、
ペンテコステは聖霊が来られたことをお祝いする
その日でありますけれども、
言うならば冒険旅行、それもこの聖霊に導かれた冒険旅行である。
そういう風に理解することができるんじゃないでしょうか。
実は今日はローマ人への手紙を読んでいただきましたが、
この手紙においても、この手紙を書いたパウロという人は
クリスチャンの生涯を言うならば旅路に例えています。
表面的に読んでいくと何のことかなとよく分からないのですが、
パウロがこのところで使っている言葉を注意深く読んでいくと、
ああ、なるほどなと、これはこういう旅路なんだなということに気づくわけです。
実は聖書というのは旧約聖書もあります。
ローマ人の手紙は新約聖書ですが、
この旧約聖書の中に出エジプトキーというのがあります。
そこで実は、エジプトをイスラエルの民が出た後、
アラノを旅する、そういう旅のことが書かれています。
実はパウロは、エジプトを出てきたイスラエルの民が
アラノを旅するその旅の姿と、クリスチャンの歩みを
例えているわけです。
出エジプトキーに描かれている旅路というのは、一言で言うとこういうことです。
エジプトというところで奴隷だったけれども、
そこから救い出されて脱出した。
そしてアラノを通ってシナイサンというところに行って、
そこで立法をいただいた。
その執法をいただいた後、さらにアラノを旅して
約束の地に向かっていく。
そういうエジプトを出てシナイサンに行って、
アラノを通って約束の地に行くという、そういう旅路です。
それはアラノですから、食べるものがありません。
しかし神様がマラとウズラを備えて、
神様が水を備えて、
人が住めないようなところを通っていくような冒険旅行です。
冒険旅行ですから、命が、命の危険が
いつもそこにあるような冒険旅行。
そういう冒険旅行にクリスチャンの歩みというのは
例えられるのだと描いているわけです。
06:00
このクリスチャンというのは一体どういう人か、
振り返ってみますと、
実はクリスチャンというのはどういう風に始まるかというと、
まず福音を聞くことから始まります。
イエス様がメシアである、キリストである
旧約聖書で語られたことに従って
神様から与えられた使命を果たすように
神様から使われてきた、使わされてきた。
そして、ご自身の使徒、そこからの復活によって
この方こそキリストです、メシアです
ということが明らかにされている。
この方がだから今、天に昇られて
全世界の王として支配しておられるのだ。
ローマ人の手紙の1章のところに書かれているわけですが、
このイエス・キリストが約束されたように来られて
死者の中からよみがえによって
今、王としてこの世界を支配しておられる。
この知らせ。
十字架にかかってよみがえられた方がこの世界の王である。
この知らせを聞いたときに
ああ、そうだ、この方が王なんだ。
と思うようになる。
それは私たち人間の力ではありません。
神様が働いてそのうちの人のうちに
ああ、そうなんだ、イエス様がこの世界を王として
十字架にかかってよみがえられた方が王として収められているんだ。
そのことを信じる信仰が与えられる。
このように良い知らせ福音を聞いて
神様の恵みによって信仰が与えられた人が
クリスチャンであり、そこからクリスチャンの冒険旅行は始まるわけです。
こういうクリスチャンのことを
今日読んでいただいた8章の
12節から読んでいただきましたが、その直前の9節から11節で
いろんな表現で表しています。
8章9節を見ると
そういう人はキリストのものである。
キリストに属する。
キリストが持っているものである。
また8章の10節を見ると
キリストがその人のうちに住んでいる。
キリストがのうちにおられる。
さらには単にキリストがというだけではありません。
11節を見ると
イエスを死人のうちからよみがえらせた方の見たまが
精霊がその人のうちに住んでいる。
このような形で同じことです。
キリストのものである。
キリストがおられる。
見たまがそのうちに住んでいる。
これは全部同じクリスチャンの姿を描いている。
福音によって信仰が与えられる。
それはキリストのものとなる。
キリストがうちに住んでくださる。
見たまが共に歩んでくださっている。
09:00
じゃあ、冒険旅行。
いろんな漫画とか、冒険旅行は描かれていますけれども、
それは一体どういうものなのか。
先ほども言いましたように、
シツエジプトの旅とクリスチャンの冒険旅行は
よく似てますよ、という話をしました。
このシツエジプトのイスラエルの
アラノの旅はどんなものだったか、
ちょっとお話をしようと思います。
それは、彼らがアラノの旅をするときに
彼らは宿泳をするわけです。
留まるわけです。キャンプを張るわけですが、
その真ん中に幕屋というところがありました。
そしてそこには神様の栄光が留まっていた。
神様の栄光が留まっていて、
単にそこにずっといるわけではありません。
雲の柱、火の柱となって
導いていってくださる。
この神様の栄光が雲の柱、火の柱となって
導いて、それが進むときは
一緒に人々は旅をする。
雲の柱、火の柱が留まると
そこに宿泳を張って留まる。
というならば、この神様の栄光、
雲の柱、火の柱によって導かれた冒険旅行というのが
シツエジプトのアラノの旅でした。
クリスチャンにとって雲の柱、火の柱があるのでしょうか。
皆さんが読むときにですね、
雲の柱、火の柱が見えるとか言って、
たぶん住んでおられる方はおられないと思います。
見えないです。
けれども、
精霊が私たちにとって
雲の柱、火の柱となって
導かれる。
見た場が住んでいるもの
というのは
精霊が私たちの
雲の柱、火の柱となって
導いていってくださる
この精霊に導かれて
旅をする人のことを言っているわけです。
ですから、そういう風に導かれるわけですよね。
私たちのナビに導かれてというわけですよね。
ナビに導かれるというのは
どういうことかというと、
私たちはカーナビに頼っているわけです。
どこかの
明太の教会に来るのにカーナビがないと
違うところに行っちゃう。
いくらぐるぐる回っても見つからないみたいなことが
知らない初めて来られる方はあったりするわけですが、
なかなか外から見えないので、ここは。
それで困ったことも
いたときありましたけれども。
この雲の柱、火の柱によって導かれるということは
これがなかったら私たちは歩むことができない。
私たちは、実は私たちが気づいているか否か別にして
精霊なしには
実現できない冒険旅行を旅している。
このことを
今日の歌詞の8章の12節で
私たちには義務がありますという
この義務があるという表現で言っている。
義務があるなんとなくね
なんかしんどい表現なんですけど
追い目がある。追っている。塞いがある。
12:03
そういう意味です。
精霊がなかったら私たちは旅を続けない。
神がなかったらいけないのと同じで
精霊がなかったら私たちは
旅ができない。だから精霊に追っている。追っているんだ。
これなしでは私たちは冒険旅行を続けることができないんだ。
それだけ依存しているんだ。
追っているわけですね。
だから私たちはその後に
肉に従ってとか
肉に対する義務というのと反対で
霊に従って霊に導かれて生きており
霊に対して追っているわけです。
考えたら私たちの生涯が
神の霊、精霊に追っているというのは
よく考えたらそうなんですよ。
私たちがどうやってクリスチャーになったか。
皆さんが一生懸命偉いことをしていても
修行をしてクリスチャーになったのか。
私は修行をしてクリスチャーになりましたという方が
おられるかもしれませんが
でも多分違うなと思うんですね。
私たちがクリスチャーになったのはどうしてか。
父なる神様がイエス様を送ってくださった。
そのイエス様が死んで蘇ってくださった。
この方のゆえに
精霊がこのペンテコステの日に送られてきた。
そしてその精霊が働いて私たちはクリスチャーになったんです。
この良い知らせを私たちが聞き
良い知らせを聞いたときに
福音を聞いたときに
神の霊が働いて
私たちはクリスチャーになった。
信仰をいただいた。
私たちはこのチチコ精霊の三密体の神に追っているんです。
この方なしでは実は私たちにはクリスチャーになってなかった。
私たちの力ではない。神が私たちをクリスチャーとしてくださった。
私たちはすべて神に追っている。
それを別の言い方で言うならば
精霊に追っているんです。
この方なしには
私たちは生きていけない。
導かれた旅を続けることができないわけです。
こういう神様と精霊である方と
クリスチャーの関係というのは
もうちょっとよく考えると
もうちょっと深く考えようとすると
その関係に例えるとよくわかるわけですね。
ある人が結婚して夫婦になりますということは
どういうことかというと
自分の夫もしくは妻、配偶者になる方以外の
男性もしくは女性との関係に
完全な終止符を打つということです。
打たないでやると後でややこしくなりますね。
それを打たないで続けていると
それはいわゆる不倫といったり
勧引といったりされるわけです。
そうしたら週刊誌に載って
ややこしくなるということになるわけです。
だから健全な夫婦関係を保つためには
夫婦、配偶者以外との
そういう特別な関係というのは
15:01
完全に切る必要があります。
これを切らないと後でややこしくなります。
もう皆さんご存じのことだと思います。
クリスチャンと神様の関係もそうです。
私たちは精霊に全てを負っているこの方なしでは
旅を続けられないということは
それ以外のものと
ある意味で手を切らなければいけない。
だからこの十二節のところで
肉に従って生きなければならないという
肉に対する義務ではありません。
と言っているんです。
御霊と反する肉を捨てなさい。
そうでないとそれは
要ならば結婚でいう不倫であり
それは聖書でいう偶像崇拝だ。
こういう関係を切りなさい。
ということを十三節のところで
御霊によって身体の行いを殺すという
かなり身体の行いを殺すという
かなりグロテスクと言いますか
厳しいと言いますか
はっきりとした表現を使うことで
殺しなさい。
そことの縁を切断を切りなさいというわけです。
いつももし
精霊に追っているんだから
そこにのみよって他はやめる。
そういうことをしないならば
実は私たちは死に導かれていく。
十三節に
もし肉に従って生きるなら
あなた方は死ぬことになります。
そのままだったら
霊にのみよる
精霊にのみよる
導きで生きないとしたならば
私たちは死んでしまうのだ。
シュツエジプトのお話でもそうでした。
神様なんかいらんや
というふうに言い出した人たちは
途中でみんな
死んでしまったわけです。
私たちもそうなってしまう旅の途中で
のたれ死にしてしまうよ
と言うんです。
だから
見たまによって
お前が死ぬのだよと
肉よ、罪よ、死よと宣言する。
神様がイエス・キリストにおいて
なしてくださったんだから
肉よ、死ぬのだ。
身体の
罪に導かれる歩みは
死ぬのだと言うんです。
死なさいと言うわけですね。
それを殺すというわけです。
いやいや、それって難しいじゃないですか。
いや、頑張ってやっても
そんなことできないから困ってるんですよ。
皆さんそう言うと思います。
当然そうなんです。
頑張ったって
私たちのうちには
そういうものに対して
NOという力はありません。
だから
自分が自分の力で
一生懸命殺す
ということをしようとしても
無理なんだよ。
そんなドアナイスですよね。
ここでヒントになるのが
見たまによって
18:00
身体の行いを殺す
神様だ。
命の精霊が
私たちを導いてくださる
この方が
恵みによって
これを殺す力を与えてくださる
恵みを与えてくださる
それを喜んで日々受け入れて
行くときに
それが私たちを通して
殺してくださる。
私たちが殺そうとしたって
死なないですか。
心配なくていいんだけど
何を心配するかよく分かりませんけど
精霊が
その方が
導いてくださる方が
殺してくださる。
変な話ですが
こういう風に
罪とか死が死んで
精霊が生きていくときに
私たちは本当に
命に満ちた歩みをすることができる。
私たちを
私たちの身体を
あたかも支配しているような
罪、死、憎というものが
見たまによって殺される
これまでとは違った旅路を
選ぶことができる
生涯なんです。
死に向かって
ああもう死に向かって
もう下り坂だ
というような
悲劇的な旅路ではなくて
いつでも
どんなときでも
命に向かって歩む旅路
そういう旅路を
進むことができるんです。
でもですね
旅をしててね
時々不安になることあるじゃないですか
本当にゴールに行くのかしらと
ちゃんとした方向に進んでいるのかしらとね
ナビがあってもね
ナビほんまかいな
なんか全然違うとこ行くやねんけどと
時々こう思って
ナビ間違ってるんちゃうかと
なんか変な道に入っていて
大丈夫なのと思ったり
そういうことが私たちはあるわけであります。
本当にゴールに行くのかわからない
クリスチャンの冒険旅行も
本当にゴールに行ってるのか
どうなんかなと
迷いのことはしょっちゅうあるわけです。
でも見た目に導かれるのは
自分たちは確かにゴールに進んでいるんだ
目的地に向かって旅をしているんだ
そういう確信が与えられる旅なんです。
その確信は何なんでしょうか。
それは
私たちは神の子なんだ。
私たちは神の子なんだという確証が
与えられている旅路なんです。
私たちは神の子だ。
出エジプト紀のところを見ると
出エジプトの際に
主はイスラエルの子と
私の子と呼んでいます。
私の子であるイスラエルを
私は救い出したと
イスラエルというその民の父として
神様はこの向き合われたわけです。
救い出したイスラエルのためよ
あなた方は神の子なんだ
私たちも言うならば
イエス様の十字架と復活によって
救い出されたものです。
21:00
罪という名の悪い王の支配から
救い出されて
今ミタマという聖霊という
雲の柱、火の柱によって導かれている
そして神様は日々私たちに
あなたは私の子だよと
語りかけてくださる。
だから神様が日々
あなたは私の子だよと
語りかけてくださる
その確証を与えられて歩むとき
私たちはそうだ
今どういうところを通っていくか
そこが分からない道かもしれない
でも神様が今日
あなたは私の子だと言っている限り
私はゴールに向かって走っているんだと
進むことができるわけです。
だからこの後
このようにいうわけですね。
十四節で
このミタマに導かれる人は皆神の子供です。
あなた方は人を再び恐怖に陥れる
奴隷の霊を受けたのではなく
子とするミタマを受けたのです。
このミタマによって私たちは
アバチチと叫びますとあります。
私たちは恐怖に陥れる
奴隷の霊によって導かれるんじゃない
聖霊というのは
恐怖によって私たちを支配しないんです。
したがわなかったら叩かれるとか
そういうですね、恐怖で私たちを支配するのが
聖霊ではありません。
いろんなものを私たちは恐怖で支配します。
そうじゃない。
子として導き
あなたは子なんだよ、私の子なんだよと
神様の声を日々聞かせてくださって
このことが確かな限りは
あなたはちゃんと旅路を進んでいるんだから
心配しないでいいよと言ってくださるんです。
私たちは神様のことをアバチチを
私の父よと
お父さんはというのは
歌手の名前じゃなくてですね
ヘブル語の私の父という意味なんですけども
パフォーマンスすみません。
年寄りのそういう話が出ちゃうんですけども
自分のね、お父さんでない人を
お父さんと呼ぶのはできないじゃないですかね。
結婚されてぎりのお父さんに
お父さん、言いにくいよな
何々さんとかってね
言うわけですが
お父さん、本当のお父さんにお父さんと言いなさい。
私たちは神様をチチと呼んでいる。
チチと呼んでいる限り
ああ、そうだ私はこの方をチチと呼ぶことができるんだ
私は見た目によって導かれている神の子なんだと
私たちは日々確信を持つことができるんです。
よく考えてください。
私たちは天におられる私たちのお父さんと呼んでいるわけです。
主の祈りで祈っています。
私たちは主の祈りを祈ることに
ああ、そうだこの方が私の天におられるお父さんで
私はこのお父さんの子供なんだ
主の祈りを祈るごとに私たちは神の子だ
24:02
と確証を与えられるわけです。
神様をチチよと呼ぶことができるのは
私たちがイエス様の十字架と復活によって
神の子とされているからだ
驚くことです。
主の祈りを唱える
チチなる神様と祈る
それは御霊に導かれている証拠だ
信仰が与えられている証拠だ
神の子である証拠だ
なんかそこまでやると単に
唱えたらええんちゃうかな
チチなる神様、チチなる神様、チチなる神様
って言ったらええんちゃうかという風に
言うかもしれません。
単に唱えるではないですよね。
十六節にこうあります。
御霊御自身が私たちの霊とともに
私たちが神の子供であることを
証してくださいます。
私たちがチチなる神様
お父さんと祈る祈りは
私たちが
私たちを導いてくださっている
精霊とともに
語る言葉なんです。
私たち言葉が軽い時代に生きています。
フェイクニュースとかね
嘘を言っても全然大丈夫とかね
そういうところであります。
一生懸命本当のことを言っても
いやあれは嘘だフェイクニュースだ
なんか言われて一生懸命言った言葉が
全く価値を持たないように
言われる時代に生きています。
記憶にないとかね。
記録にあるけど記憶にないというのは
ずるいだなと思うんですけども。
と言ってしまう時代です。
でも聖書が言っている私たちが
言葉に出すというのは
それは私たちが自分自身の全てを
持って語るんです。
無理やり作って
言うことがあるかもしれません。
でも
天の神様と
父なる神様と
祈る時私たちは
私たちの内から
精霊が私たちの内に与えてくださって
湧き上がってくる言葉
父なる神様というのは
変な言い方だけど
私たちの全人生をかけて
父なる神様
祈る言葉なの。
それは私たちが祈っていますが
精霊が
私たちにそのような言葉を語らせてくださる
私たちを導いてくださる方が
そう言わせてくださる
その方が証人として
そうだよねって言ってくださる
いいねって言ってくださる言葉なんだ。
そのような祈りの呼びかけをできるということは
神の子なんです。
信仰をいただくということはそういうことです。
御霊に導かれて
生きるというのはそういうことです。
あば父よ、私のお父さんと
そのように祈る祈りは
精霊が
27:00
私たちの冒険旅行を導く精霊が
私たちに与えてくださる
言葉なんだ。
それを祈るとき
ああそうだ私は
いろんな変なところを通っているけど
でもちゃんとこの冒険旅行を
歩み続けているんだ。
カーナビで変な道を行っているけども
ちゃんとこれは最後まで
導いてくださる旅なんだと
祈る旅ごとに
私たちは確信しているのです。
じゃあどこがゴールなんでしょう。
じゃあどこのゴールに
向かっていくんでしょうか。
最初にお話ししたのは
私たちは御霊に導かれている
そして御霊にすべて依存している
私たちは神の子である
ということを話しましたが
もう一つ私たちが何者であるか
ということが書かれています。
17冊に子どもであるなら
相続人でもあります。
神の子だということは
あなたは神の相続人だ。
その時私たちは
キリストと栄光を
共に受けるために
苦難を共にしているのですから
神の相続人であり
キリストと共に
共同相続人なのです。
私たちは
神様が与えてくださる
素晴らしいものを
キリストと共にイエス様と共に
相続するそういう約束だ。
私たちは
遺産をもらうことができる
旅なのです。
普通は私が死んだら
誰かが死んだらもらえるのですが
私たちは旅路の向こう側にあるのは
その遺産相続
なわけです。
この相続することに向かって
私たちは進んでいます。
一体何を相続するのでしょう。
出雷地の時では
イスラエルの民は
火の柱に導かれて
荒野を旅して
そして神様が彼らに
与えてくださったのは
カナンの地、約束の地でした。
そういう約束の地への旅でした。
私たちが
精霊によって導かれる
その旅で
相続するものは何でしょうか。
それは全世界です。
全ての世界です。
クレシアにとって約束の地はどこか小さな土地とか
そんなんじゃない。
遺産として神様から
与えられるんです。
精霊がこれらを
全部
私たちに与えて
くださるんです。
それをイエス・キリストとともに
私たちは一緒にこの全部の世界を
相続するのだ。
そういうすごいゴールが
待っている。すごいです。考えたらすごいですね。
これ、俺のもんか。
美しい光景を見て
新学校から
大阪湾が一望できるんですが
これ、俺のもんか。すげえとか思う
ことができるんです。
でも相続したら
30:01
自分の好きなようにすることができるんでしょうか。
私が思うままに
相続したものをすることができるんでしょうか。
そうじゃないです。
相続するということは
相続したものを
適切に管理して
預かっているもの
いただいたものを
より良くする
責任がありますよね。
もらったものを
全部使い果たしてしまう
相続した人って
なんやこいつっていうふうに
言われるじゃないですか。ごくつぶしいじゃないですけどね。
そうじゃないです。
相続したものは
それをよく管理して
より良くする。
私たちは神の子として
遺産として相続する
全世界をよりよく
管理する
確信をこの世界とともに
預かるわけです。
そのゴールです。
だから私たちは
この全部の世界は神様から私たちに相続されるのだ。
だから
今から
相続されるものは
今から大事にしたらいいじゃないですか。
今から大事にして
歩め始める。
御霊に導かれて
神の子の確信を与えられて
今この世界を
私たちは
納め始めていく。
この世界を良くしていくという
そういう
冒険が
私たちクリスチャーに与えられた
冒険旅行なのです。
どのようにしてこの世界を
納める、遺産として
与えられる確信のあるものを
統治していくのでしょうか。
無力によって
やるんでしょうか。
権力によってやるんでしょうか。
テクノロジーによってやるんでしょうか。
どれも違います。
8章の17節でさっきさらっと言いましたが
気になる表現があります。
それは
私たちはキリストと
栄光を共に受けるために
ここまではいいんですが
苦難を共にしているのですか。
苦難を
共にしているというのはあまり聞きたくない言葉です。
私たちは
イエス・キリストと共に
苦しむことによって
この世界を
納めるのです。
今この世界をあたかも納めているような
罪や死というのは
私たち
クリスチャンがいるときに
迫害と
苦難を与えます。
その苦難は私たちクリスチャンが
敗北している印ではないんです。
私たちクリスチャンが
世界をイエス・キリストと
共に納めている
印なんです。
イエス・キリストが
十字架にかかられたということは
私たちも
キリストと共に
33:01
苦しみを受けている
そのとき私たちは
実はこの世界を
キリストと共に
納め始めているんだということです。
私たちは教会が
例えば日本とかいろんなところで中心的に
立派な大きな働きをするということを
すごく願うわけです。
でもそうじゃなくていいんですよ。
教会が
日本では少数派で
本当に少ないんです、クリスチャンは。
その中で何やクリスチャンかと
迫害を受けたりすることが
あるわけです。
クリスチャンとして歩む中で
苦しみを通ることはあるわけです。
それは
私の信仰が足らないからとか
私がダメだからとか
私たちは思いがちなんですが違うんですよ。
私たちは
困難に直面し苦しみに直面している
今全体で日本の教会がそうでしょう。
それは私たちは
キリストとともに使命を果たそうとして
苦しんでいるんです。
困難の中で神様
この痛みと苦しみをどうしたらいいんですかと
私たちが悩み歩んでいるときに
私たちは
その歩みを通して
使命の一端を果たしているんです。
将来キリストとともに
全世界を相続することの
証は今世界とともに苦しんでいることなんです。
私たちが
悲しみと苦しみと
迫害に遭っているとき
むしろ私たちはこの世界で
神の子としての使命を
果たし
始めているんです。
困難には意味があるんです。
私たちはそういう
冒険旅行なんです。
困難と苦しみの中で
そのことを通して使命を果たしていく
冒険旅行を私たちは
向かっている
それに向かって
私たちは歩んでいるんです。
逆にうまくいきすぎているとき
というのはちょっと
ほんまええんかなと
むしろ私たちは思ったほうが
いいのかも。
私たちクリスチャンが冒険旅行を歩んでいる
ということでずっとお話をしてきました。
イエスキリストとともに
精霊が雲の柱
火の柱となって
私たちを導いてくださる
そういう冒険旅行を進んでいるのだ。
その冒険旅行は
確証がないような旅ではない
本当に行っているのか分からないような旅ではない
神のこと
神様を父と呼ぶことによって
神の子という確証が与えられて
確かに進んでいるんだという
分かる冒険旅行である。そして
将来与えられる全世界という
キリストとともに相続するものが
分かっている。
今私たちが苦難と迫害の中
十字架の道をキリストとともに歩むとき
私たちは今
使命を果たしているんだ
ということを
36:00
確証することができる冒険旅行なんです。
だから日々
私たちは御言葉によって
励まされつつ
神様、父なる神様と
祈ることによって励まされつつ
御霊に導かれて
私たちに目に見えない
雲の柱、火の柱です。
しかし確かに御言葉によって
私たちを導いてくださる精霊です。
その冒険旅行を
続けようではありませんか。
それは神様が
賜物として与えてくださった
信仰による歩み
御霊に導かれた
冒険旅行なんです。お祈りをいたします。
36:40

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