00:01
アーメン
今のシリーズのメッセージに、ピッタシのサンディでした。
サンディの中の皆さん、おはようございます。
よくいらっしゃいました。
いつものように周りの方と握手しながら、爽やかな声で挨拶させてもらいました。
よくいらっしゃいました。
それでは一言お祈りいたします。
愛する神様、今日もこうして、私たち一人一人を神様が覚えてくださりまして、
また名を呼んで、主の宮に私たちを集めてくださり、ありがとうございました。
主を覚え、また信仰を保ち続けて、そしてこうして、共に集まって礼拝できるこのおめでとうを感謝いたします。
今から、神様の御言葉に耳を傾けて、神様が語られる御言葉に、私たちが信仰を持って応答し、そして伝うことができますように、我々の信仰を強めてください。
どうぞ、命の御言葉、今日のマナーを、今日の力を、一人一人に、主をどうぞ漏れなく降り注いでくださいますように、お願いをいたします。
感謝して、家様の御名によってお祈りいたします。
アーメン。
はい、今日は、家様の清い休館というシリーズメッセージの3回目です。
まじわり、ということです。
皆さんは、家様という、聞いたらですね、まず家様のどんな姿が、頭に思い浮かぶんでしょうか。
説教される家様ですか。あるいは、一生懸命祈られる家様でしょうか。あるいは、伝説される家様の姿でしょうか。
いろいろですね、あると思うんですけれども、その中の、私たちが忘れてはいけない、知っておいていただきたいことは、
まじわる家様、まじわりをする家様。福音書をですね、皆さん、よく観察して、よく見ますと、
家様は、人々とよく出会って、そして食事を共にしたり、話し合ったりすることを、
家様はですね、案外に楽しんでおられたんですね。
今日の御言葉も、その一つの重なりです。
国人や、あるいは主税人、彼らはその当時、社会的には、何と言うんでしょうか、疎外される、そういう人々だったんですね。
03:09
誰でも、相手にしてくれない。
そのような人々に、家様はですね、彼らと共にして、共に食卓についてですね、食事をしたり、話し合ったり、おしゃべりをしたり、そうされたんですね。
ですから、家様はですね、祈りばかり、伝道ばかりされた方ではありません。
時には、宴会を楽しまれる家様。時には、おしゃべりをする家様。
まじわり、人々ですね、出会って、まじわりを楽しむ、家様なのです。
あるですね、僕先生がですね、話し合っている中で、このまじわり、まじわるの言葉のギリシャ語は、コイノニアという言葉なんですよね。
皆さんも聞いたことがあるかと思いますが、そのコイノニアという言語の意味が、日本語訳でまじわるですね、まじわり。
これは何か物足りないんじゃないか、ちょっと平凡すぎんじゃないか、と言ってですね、その先生は、コイノニアはまじわりじゃなくて、寝食い会議にしたいと。
と言ってですね、話を聞いて、なるほど、インパクトある役だなと思ったんですけどね。
家様は、今日のマタリの福音書を見ても、またヨハネの福音書第2章を見てもですね、人々と出会って、そこでまじわりを持って、
そしてその人々の悩みや喜びを共にする、それを同情する、かえりみる、それを家様は大事にしておられたんです。
家様はですね、人々と出会って、政治の話ばっかりされていなかったじゃないか、私は思うんですね。
もちろん政治の話もされたでしょう。それがメイン主にされたと思いますけれども、福音書を見ますとですね、教えてもらったわけですけれども、
私も日本語とか英語とかあるいは韓国語、他の役にはあらわれていない言語を見たらわかる、家様はダジャレをよくよくされたんです。
日本語で言うと、いかがですかとかですね、ふとんがふとんだとか、そういうのがありますけれども、ギリシャ語にもペフル語にもですね、
家様はダジャレをよくよくされたんです。家様はですね、とても人間的な人間を持っておられました。
06:04
家様もね、完全な人間であられましたから、いろいろな話をしたり、次第の人だったら家族の話もしたり、さまざまなですね、いろんな話をして、
そして彼らの都合を折り返して、心を折り返して、共にすること、集まることを主にしておられたと思うんですね。
今日、共に御言葉から教えていただきたい。そして、申し上げたいことは、家様は人々と出会うことを、それを大事にしておられて、
話し合ったり、食事をしたりして、主にやっての交わりを持つことを、家様はとても大事にしておられたんです。
みなさんは、ここに五千人以上、時々家様について、家様のおまけを聞いていました。
そして夕方になって、それぞれお腹が空いて、そのときに家様は弟子たちに食べ物を与えなさいと。
そして、なんと、五千人以上のお世辞と一緒に食事をされたんですね。あの場面を、みなさん、想像してみてください。
喜んで、たわしに長投げ様がわいわいですね、食事をされたと思うんです。
ヘブル・ウィットの手紙、四章、十五節章、一箇所を見てみたいと思います。
今日はちょっと多めに、聖書・佛書を開きたいと思いますが、まずはヘブル・ウィットの手紙、第四章、十五節です。
新約聖書、四百二十八ページです。よろしいですか。
それでは十五節、ヘブル・ウィットの手紙、第四章、十五節、一緒に読みたいと思います。
三杯。私たちの大差異は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。
罪は犯されませんでしたが、すべての点で私たちと同じように試みにあわれたのです。
イエス様はですね、私たち人間の弱さに同情できない方ではない。同じ人間なんです。
私たちの弱さをご存知であられる。そして、共にすることを楽しんでおられ、集まることを楽しんでおられた。
09:05
皆さん、私は僕として、明沢教会の様子を覚えですね。
今の旅にですね、両断に教会がイエス様にならって、共に集まる、共に話し合う、共に交わりを持つ、共に祈り合う、
共に悩みも打ち明け合う、共に喜ぶ、共に泣く、そのような教会でありたいなと、私は思うわけなんですよね。
皆さんももちろん、そうですね、願っておられると思うわけですが。
皆さん、人々はですね、どんなところに集まってくるんでしょうか。
魚はですね、餌があるところに集まってくるわけですが、私たちは魚でも動物でもないですから。
単純にですね、ご馳走があるからといって、人々が集まってくるわけではないと思うんですね。
本当に棲みある、麗しい、交わりがある、精神を打ち明けることができる教会。
自分の恥ずかしいところも、共に話し合って、相談に乗ってもらう、慰め慰められる、
そして、イエス・キリストを頭として使える、信じる教会。
そのような、本当にそのような教会でありたいんですね。
ローマ書、十二章をちょっと見てみましょう。
ローマ人への手紙、十二章、十五節。
ローマ人への手紙、十二章、十五節です。
309ページですね。
では、ご一緒に読みましょう。
3、喜ぶ者と一緒に喜び、泣く者と一緒に泣きなさい。
皆さん、これが、神様が願われる教会の麗しい姿ではないでしょうか。
喜ぶ者と一緒に喜ぶ、心を一つにするわけなんですね。
そして、泣く者に、お前のことは自分でやる、じゃなくて、
泣く者と心を一つにして、慰め合って、一緒に泣くこと。
それが、教会の麗しい在り方ではないでしょうか。
もちろんですね、教会は、まじわりばかり、そこでばかり、そうしないといけないと思うんですね。
12:10
キリストを支える信仰を持っていなければ、教会として流れはないと思います。
しかし、信仰は深い。
しかし、何の交流も、交わりも、助け合いも、愛も、全ても、全くないという教会でしたら、これは砂漠なんですよね。
教会は、もちろん信仰は当然のことです。当たり前のことです。
その上に、イエス様が、よくよく人々と出会って、話し合い。
そこから、愛が伝わる。
励まし合う。祈り合う。愛し合う。
そのような、教会の品型を、私たちに示してくださったわけなんです。
だから、それを私たちが、よく見て、習わなければならないと思うわけなんですよね。
私が、久しくわれわれしている、当国のある先輩の先生ですけどね。
その先生の得意は、さっきの言葉を借りて言いますと、飯食い勃開なんですね。
だから、もう食事ばかりしているわけではないです。
本当によく祈る、そして素晴らしいメッセージをされる先生ですけれども、
その先生の勃開においての一つの神道と言いましょうか、自分なりの哲学があるわけですが、
口が開かれば心が開かれる、というんですね。
そして、その教会に、その先生よりも、はるかに年配の教老さんが10人以上いますけれども、
その先生は、その教老さんとすごく少しのつどいを持って、お手紙出したり、笑ったり。
そういう時には、会議とか教会の話はなかなかしないんですね。
個人的な話、最近のつどいや子供の話や夫婦の話や、そういう話をよくする。
それをよくよく持つわけなんです。
その先生が勃開している教会のあの町は、韓国の中でも男の方は頑固で韓国一の町なんです。
なかなか勃開が難しい町なんですね。
こういうことはよくないと思うんですけれども、あの町には招兵されたくないと言われるほどの、
本当にそういう町に行って、教会がすごく恵まれて、低くされている。
前任の先生は、なかなか教老さんとはうまくいけなくて、近くに教会を立ててしまって、分離されたんですね。
15:05
でもこの先生がその教会にいてですね、なんと2年が経っていないうちに、教老の方々や教会の皆さんがですね、
本当に従順な質疑のようにですね、良い関係を持っている。
その秘訣をですね、あの一度聞いた、見たことがあります。
そしたらめちくいと言っている。
皆さん、イエス様は罪人や臭税人や貧しい人々、疎開されている人々とよく出会って、よくともに、心をともにしていたんですね。
食べ物とか御馳走は、それは単なる手段なんですよね。それが目的ではない。
心を一つにする。同情をする。変えりみることなんです。
でも僕は、私たちの明治教会が、主にあって信仰の良い教会、そして主にあって心から交わる教会でありたいと、
そして誠の交わりと誠の愛に満ちる教会でありたいと、そう願っております。
ではですね、私たちがイエス様に喜ばれる、交わる教会となるためには、具体的にどうすればいいんでしょうか。
その二つのことをイエス様から、それから聖者の御言葉から教えていただきたいと思いますが、
その前に一つですね、こうお話をしていきたいと思いますが、
去年ですね、私がうちの車の車検本、自分で受けに行ったんですね。
意外と高いですから。初めてですけど、自分でやってみたんですね。
それで書類を書くわけなんですよね。出したら、ここここ間違っているから、
あの机の上にある品型を見て、よく書きなさいって書きました。
出せたら、ここはここが間違っています。2回も返されてるしね。出したんですね。
去年もですね、モンポモンさん、教会の取るために県庁にいて大変苦労しかったと思うんですけれども。
皆さん、品型というものはその通りにしなくてはならないんですね。品型通りにしなくて、
今、自分が書いているから、100枚書いてもダメなんです。教会の品型はまずイエス様です。
それからもう一つは、特に人の働きに書かれている初代教会が教会の品型なんです。
18:02
教会の品型はこうあるべきだ。生徒はこうあるべきだと、品型をイエス様のお品型を通して、
人の働きに書かれている初代教会の品型を通して、教会はこうあるべきだと、私たちに品型を示しているわけなんです。
だから、私たちはその品型をよく見て、よく習って、その通りにすれば、神様に喜ばれる教会になるわけなんです。
自分は、いやもう、品型がどうでも自分に作りたい。こんな教会にやりたい。返させます。喜ばれません。
その一つは、教会の品型のその一つは、「共に」という言葉です。あるいは、「一緒に」という言葉です。
人の働きを見てみましょう。いくつかの箇所を見てみたいと思いますが、まず人の働き第一章一章の22節、228ページですね。
22節を一緒に読みたいと思います。
3.すなわち、ヨアネのバプテスマから始まって、私たちを離れて天に挙げられた日までの間、いつも私たちと行動を共にした者の中から、誰か一人が私たちと共にイエスの復活の表人とならなければなりません。
この箇所と、もう一箇所。2章の44節です。よろしいですか。
3.信者となった者たちは皆一緒にいて、一切のものを共有にしていた。
皆さん、この二つの箇所の共通点は何だと思いますか。
一緒にですね、22節には共にとあります。2回も出てきます。
それから44節には、信者となった者たちは皆一緒にいて、皆さん、教会は一緒に、共に。
当たり前ですけどね、うるわき愛に満ちた交わりを持つためには、一緒にいなければならないんですよね。交わりが立たないんです。
でも、これほど私たちに実践を求めることはないかなと思うわけです。
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イエス様はいつも弟子たちと共にいない。
この第一世のですね、人の働き第一世の、イスカリオテユダの代わりに弟子になった、名前がいいですね、
高略と一緒に働き、待ってあったですね、この人もずっと弟子たちと彼らの群れといつも共にいた。
皆さん、イエス様はいつも弟子たちやあるときは数人、あるときには数十人、あるときには数千人と共にいない。
皆さん、教会は、教会の生徒は全て家族なんですね。
皆さん、皆さんの夫婦の関係、あるいは家族の関係、家族はなぜ親しくて近いんでしょうか。
いつも共にいるからです。
夫婦が何で他の人と比べて近いでしょうか。
いつも共にいるから。朝も昼も夜も共にいるんですね。
嬉しいときにも悲しいときにも共にいる。健康なときにも病んでいるときにも共にいる。
だから家族なんです。
だから家族が近いんです。
生徒が、教会が本当の弓手の兄弟姉妹になるためには、
宗法に兄弟姉妹と書いてあるからといって兄弟姉妹の関係が成立されるわけではないと思うわけなんですね。
共にいる時間、共に交わる時間、共に祈る時間、共に礼拝する時間を、共に奉仕をする時間を持っていくときに、
そのときに私たちがその間で、
麗しい兄弟姉妹の家様に喜ばれる交わりの関係が、その花が満開したわけなんです。
例えば皆さん、ある夫婦が結婚したとしましょう。結婚日が終わって、その日から50年間ずっと別れていたとしましょう。
あるいは普通に1時間しか会っていないという夫婦があったとしましょう。
それは本当に麗しい夫婦らしい夫婦と言えないんじゃないですか。
それは法的には夫婦と言えるかもしれませんけれども、実際的には夫婦でもないかもしれない。
本当の夫婦は健康なときにも病んでいるときにも、喧嘩をしたときにも、嬉しいときにも、
24:04
ときには喧嘩したり、ときには和解したり、共にいる。
それが本当の意味での夫婦の関係なんですよね。
教会もそうなんです。
家様が示してくださった教会の生徒のひな形は、共にすることです。
共にいることです。
どうか皆さん、キリストにあって、主にあって、兄弟姉妹たちと共にいる時を、時間をもっともっと多く持とうではありませんか。
皆さん、私たちは、よく時間を多めに持って共にいる人に習います。
子供が親にならうことは何ででしょうか。
いつも一緒に暮らすからなんですね。
うちの子供が、私とかはんなにならうことは、一緒に暮らすから。
共に食事をしたり、共に笑ったり、共にいろいろなことをする間に、習うわけなんです。
自分が生んだ子供と言っても、何十年も別れていて、後から会っても、あんまり習っていないんですね。
顔はどこに似ているかもしれませんけど、全く生活習慣やすべては似ていない。
共に時間を過ごすときに、私たちは親に似ていくように、キリストと共にいるとき、
親子の兄弟姉妹たちと共にいる時間を持てば持つほど、私たちの親子がより親子に似ていくわけなんです。
だから、皆様よく一休館の生活のサイクルをよく考えて見ていただきたいんです。
自分は果たして誰とどんな人とよく会って、よく時間を持っているのか。
それを見たら、その人々から影響を受けて、知らずのうちに似ていくわけなんです。
それを、いや、そうじゃないと否定したいかもしれませんけれども、いや、そうなんです。似ていくわけなんです。
ですから皆さん、親子の友、親子の兄弟姉妹たちと共にいる時間をもっともっと増やして、
27:06
集まって、そして主にある交わりを持っていきたいと、そう願っております。
これがイエス様が示してくださった、教会の生徒の品方なんですね。
二つ目は、共にいる、共にするためには、何をすればいいのでしょうか。何をしなければならないのでしょうか。
集まることです。
それをちょっと見てみましょう。今度は丸子の福音書です。
丸子の福音書、まずは2章から見てみましょう。
2章の2節です。66ページですね。
では、ご一緒に、3、はい。
それで多くの人が集まったため、戸口のところまで隙間もないほどになった。
この人たちは、イエスは御言葉を話しておられた。
もう一箇所、同じ丸子の福音書、4の1節です。
では、3、はい。イエスはまた湖のほとり、正しい数の群衆が身元に集まった。
イエスは湖の上の船に乗り、そこに腰を下ろされ、群衆は皆、一人の陸地にいた。
皆さん、この2章の2節と4章の1節に書かれている共通の言葉は何でしょうか。
集まることです。集まる、集まる。
皆さん、天国の始まりは、集まりから、集いから始まります。
共に集まって、一緒に心を一つにして、そして集まって御言葉をいただく。
集まって礼拝をする。集まって奉仕をする。
集まって楽しく食事をしたり。
そうして、一緒にある関係が深まっていくわけなんですね、皆さん。
この丸子の福音ですね、2の2節や4の1節を見たら、
人々が、群衆が、時には一つの家に満杯になるほど、時には怯たかしい群衆が、
イエス様がおられるところに、実は集まってきたんです。
だから、これが教会のあれからです。
集まってくる。イエス様がおられるところに、集まってくること。
30:01
そこに御言葉が飾られ、そこに宿にある交わりがあり、そしてそこからお塩をいただき、
そこから救いが起こる。癒しが起こる。悔やかみが起こる。
そこで、神に出会うことが起こるわけなんです。
この全てのことが、集まるときに、それが始まるわけなんですね。
集まらないと、何にも起こりません。そうなんですよね。
もう一箇所、また見ていただきたいと思います。
千葉の働きをですね、またやっぱり見ていきたいと思いますが、
さっきの千葉の働き第2章、46節です。231ページですね。46節。
一緒に読みましょうか。3、そして、毎日心を一つにして宮に集まり、
家でパンを炊き、喜びと真心を持って食事を共にし、アーメン。
もう一箇所、5章12節。このところが印を付けていただいて、5章12節を見てみましょう。
教会の品方がここに書かれているわけですね。5章12節です。
3、また人たちの手によって多くの印と不思議な技が人々の間で行われた。
皆は一つ心になってソロモンの牢にいた。
もう一箇所、13章44節ですね。人の働き13章44節。256ページです。よろしいですか。
ご一緒に3、次の安息日にはほとんど町中の人が神の言葉を聞きに集まってきた。
今読んでいただいた3つの箇所の共通は、集まる、集まって、神の言葉を聞きに集まってきた。
皆さん、これが教会なんです。教会の品方、教会の現形の人の働きの教会ですね。
昨日も集まって、今日も集まって、明日も明後日も集まる。それが職員の品方なんです。
と言ったら、この初代教会の人々は、本当に暇で暇で、時間が余りすぎて集まってきたのでしょうか。
33:08
そうではないと思います。今の私たちより彼らはもっと忙しくしている。
この時代は本当に貧しい時代でした。彼らは良い職員に働かならないんです。
良い職員に働いても、ローマからものすごく多くの税金が取られてしまった。
だから、もう食べて生きるためには、様々な仕事をしなくてはならないんですね。
また、この群れの中には、パウロがジェンドスの時に、コリントとかエフェンソーの人たちを見たらわかるように、奴隷だった人々もあったわけなんですね。
朝から晩まで、日が昇って日が沈むまで、一日中働く奴隷たちも一緒に集まるわけなんですよ。
それだけではないんですよね。彼らはローマの迫害が厳しいぐらいでした。
集まったら、それが発覚されたら、牢屋に入れられて、あるいは帰省されてしまう。
だけども、彼らは昨日も集まり、今日も集まる、明日も集まる。
御言葉が語られるところに、親子の友がいるところに、集まってくる。
それが教会の品形なんですね。これが生徒の張様なんです。
教会の品形であるこの御言葉が、人の働きの教会が、家様が教会はこうあるべきですよと示してくださったとおりにすればいいんですね。
皆さん、集まるのが教会の命なんです。私は確信します。
集まることをやめたりするときに、教会は、生徒は、命を失ってしまいます。これは明らかなことです。
なおかつは、みなさんが、昨日も集まり、今日も集まる、明日も集まる、よくよく集まる教会になりたいです。
そしてですね、もう恋愛が終わってですね、パパパロパパロとかですね、午後のうちにみんな帰ってきても、
そういう姿になるので、別れたくない。もっと話をしたい。共に祈りたい。
そういう本当に愛のリレーションシップある教会になりたいです。
そういった思いを持っていたこの牧師は、去年ですね。
みょうだに教会に今までなかったような多くの集いが増えて、みなさんは驚かされたかもしれません。
36:02
このように、みなさんに申し上げたい。牧会者は、イエス・キリストによって教会の羊会といって立たされたものです。
生徒のみなさんは、羊の群れです。
羊会は、羊群れの都合をよく知っています。
今、水を飲まなくてはならないのか。栄養必要なのか。太っているのか。ダイエットしなくてはならないのか。
あるいは、草をもっと食べなくてはならないのか。
それをよく見て、判断をして、そして何とかして差し上げるわけなんです。
いい分が足りなかったら水を飲むように。
栄養が不足なったら、いい草を食べるように。
導くわけなんですよね。水のあるところに、あるいは草のある牧場に導くわけなんです。
しかし、羊会が羊を導くときに、羊には三つのパターンの応答があるかと思います。
羊に水のほとりに行きましょう。
草のところに行こうと言っても、ついていかない羊があるかもしれません。
あるいは、導かれて牧場に、あるいは川のほとりに行くんだけども、食べない。
そういう羊があるかもしれません。
三つ目のパターンは、川や牧場に導かれていったら、よく飲んだり食べる羊があるかもしれません。
羊会は、飲まない羊の口を開けて、水を入れたり草を入れることはしません。
動物の羊にもそうしないわけです。牧会者も同じ気持ちだと私は思います。
皆さんが、もっと神様に仕えることができるように、その場を設けてさせてあげる。
皆さんが神様にもっと祈ることができるように、その時を設けて差し上げたい。
共に交わりを持ってほしいから、その場を設けて差し上げたい。
御言葉をもっと学べるように、その時を作って差し上げたい。
それが羊会の気持ちなんです。
それが羊会である牧会者に責任があるわけなんですね。
39:07
私の知り合いの選挙主が、あの時に会って話をしているときに、
彼がこういう話を、アドバイスみたいに私にこう話をしてくれたことがあります。
彼は、「先生、神戸さんも30人、40人余りなのに、一週間、何でこんなに忙しくしているんですか。歩道歩きなさいよ。」
神戸さんはね、「集まりましょう、集まりましょう。」言ったら、もうみんな嫌がれるよ。
私はね、日曜日の礼拝一回しかしてない。
たまに集まりはたくさん作らない。
私の居会は、創典時とかに、もう2、3年しか来てなくて、
集まりましょう、集まりましょう、何年言っても来ないから、もう創典やめまして。
日曜日とかにもしない。
でも、集まりましょう、言ったら、息子様もストレスがたまるから、お互いにストレスをたまらないようにしましょう。
諦めた。
日曜日の礼拝一回しかしない。
神戸先生の話は、どうせ言っても来ないとは、20年、3年経っても来ないから、やめたほうが精神的にも、
あなたの身体の健康のためにいいかもしれませんよ、とアドバイスされて、
私の話を聞いて、私はどう答えたと思いますか、みなさん。
よんぼくちさん。
それはいいですね、と答えたと思います、みなさん。
私は、こう言いました。
先生は、そういうふうにしてください。
私は、1人が集まろうが、2人が集まろうが、
集まる人が集まってきて、恵まれれば、それで私は十分です。
集まる人は恵まれ、神戸が生徒し、良い働き人になる。
このような、ある意味での地道な働きをしていけば、いつかは、教会が集まってくる教会。
祝にある交わりを求める教会。
共に礼拝することを楽しむ教会。
喜ぶ教会。
もう集まりたくて、共にいたくて、たまらない、そういう教会に変わるのではないか。
私はそう思います、と言っていたのですが、そしたら、私は、はははは、笑っていたのです。
私より、日本での選挙の働きは先輩ですけどね。
聖書一冊を見てみたいと思います。
ヘボル人への手紙、第10章、25節です。
437ページです。
文章2章、ある人々のように、一緒に集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、
42:13
彼の日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。
皆さん、この御言葉を覚えていらっしゃるんです。
この回答がですね、宣教の訳には、このように訳されています。
ある人たちの習慣に倣って、集会を起こったりせず、むしろ励まし合いましょう。
その一個は、言っているんですけれども。
皆さん、集まりをやめたりすることも、実は習慣なんです、癖なんです。
御言葉はそうありますね。
ある人たちの習慣に倣って、集会を起こったりせずとありますから、
集会を、礼拝を、基督会を、集まることを起こったりする、それは習慣なんです。
自分が行かない、自分が今日は休むんじゃなくて、実は行かない、集まらない、
そう思ったりしている習慣に、実は私たちが、皆さんが支配されている訳なんです。
それを気づいていないだけなんです。
二つも一つだと思います。
集まるのを喜ぶ習慣に自分が支配されているのか、
集まるのをやめたりする習慣に自分が支配されているのか、
どっちか一つなんです。
皆さんはどっちの方でしょうか。
皆さんよく覚えていただけますか。
神様の望みは、私たちがよくよく集まって、
共に話し合う、愛し合う、交わりを持つ、祈り合う、礼拝すること、
それが神の御心なんですよね。
ところが、シャタンは私たちが集まることができないように忙しくさせるんです。
何かの事柄がしょっちゅう起こるんです。
朝に水曜日になったら何かが起こる。
土曜日の夜になったら何かが起こる。
そして教会に行けないように、集まることができないように邪魔をしているんです。
それを私たちは見抜いていかなくてはならない。
そして祈りを持って戦って、それを打ち破って、
集まることに励まし合って洗礼しなくてはならない。
私たちがこのヘブロビタの手紙の御言葉のように、
彼の日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。
どうするんですか。ますます集まろうではありませんか。
これが教会の品型なんですね。
45:02
私たちがよくよく集まって、交わりを持って、
聖教を学んで、祈り合う、礼拝をする。
その時に、天上では神様が、信仰の先輩が、
皆さんの信仰を持って天に召された皆さんのおじいちゃんおばあちゃん、
あるいは教会の誰々さんが天で喜んでおられるでしょう。
今日も明堂には誰々さんが集まっている、うれしいなと喜ぶでしょう。
反面、他さんは悲しんでいるかもしれない。
ある人々の習慣のように、集まることをやめたりして、
そうしていたら、天では神様も、我らの信仰の先輩たちも、
天使も悲しんで泣いているでしょう。
サタンは笑ってにっこりしているでしょう。
教会の在り方を共にすることで、
集まることに、そこから神にある神の交わりが、
愛の交わりが、信仰の花が、
その次編133編は、教会の麗しい姿を私たちに示してくださっているんですね。
見よ、兄弟たちが一つになって共に踏むことは、
何という幸せ、何という楽しさであろうと。
皆さん、この御言葉が、心の告白になりたいんです。
告白になりたい。
御説を終えたいと思います。
御言葉が奨励して進めて進めているように、
主にあって、兄弟姉妹たちと共に集まり、
祈り合う、恋愛する、話し合う、
その中であたりの人口が、また人性が、人格が成熟していくことを目指して歩んでいこうではありませんか。
お祈りだと思います。