00:03
みなさん、おはようございます。新しい一月が始まりました。神様はですね、私たち一人一人の上に、家庭の上に、また、私の教会の上に、
豊かに祝福してくださることを、心からお祈り申し上げます。それでは、いつものように、メッセージの前にですね、お互いに拍手したり、挨拶をしませんか。
ありがとうございます。よくいらっしゃいました。はい、それでは一言お祈りいたします。
義のために博愛されているものは幸いです。天の御国はその人たちのものだから。
神様、今日もこの御言葉から、神の身胸と、あなたの身を教えに預かりたいと、質に願っております。
どうぞしよう。あなた様ご自身がお語りくださいますように。そして、その御言葉、教えられた御言葉通りに生きる力を、上からお与えください。
神様の皆によってお祈りいたします。
義のために博愛されているものは幸いです。天の御国はその人たちのものだから。
第1回目から一つ一つ、この八福について教えていただきました。
このマタイノクイーションの第5章の御言葉はですね、いわゆる三乗水群といいまして、
イエス様がその当時の人々に、またイエス様についていた弟子たちに、これからあなた方が歩む生き方は、今までのものと全く違った新しい生き方ですよ。
03:01
それは御国の民としての生き方だということを、一つ一つですね、長く語られて教えられた御言葉であります。
ところがですね、3冊からずっとこのマタイノクイーションですね、5章、6章、7章、ずっと読んでいきますと、
このイエス様の当時も、いや、今日もですね、普通の人々が好むような、そういう教えではないんじゃないかなという気がします。
例えば、3冊の御言葉を見ますと、「心の貧しいものは幸いです。」とあるんですね。
4冊の、「悲しむものは幸いです。」と。
まあ、5冊のですね、「新和なものは幸いです。」とは、そうだなと思われるかもしれませんけれども、
貧しいものが、悲しむものが、今日は10冊のですね、クライマックスのようにですね、迫害されているものが幸いですという御言葉が語られているんですね。
つまり、それは今までの生き方と新しい生き方、全く違った生き方、それがイエス様に従っていく生き方ですよ、というメッセージではないでしょうか。
今日は10冊の最後ですから、3冊からですね、復習のような振り返りですね、少しずつ触れていきたいと思うんですね。
イエス様の当時も、今の時代も、人々は金持ちになりたいんです。成功したいんです。貧しいよりは、富んだ人生を歩みたいんです。
ワンケイの家よりは、2階3階のお庭もあって、車も2台3台停められる、そういう家に住みたいんです。
ところが、イエス様はですね、もちろん心の貧しいとおっしゃいます。
イエス様が教えられる、そしてイエス様が立てようとしているこの新しい生き方は、その幸いは、心の貧しいということです。
つまりそれですね、神様の御前に立つと、自分には何一つ誇りと思うべきことは何一つないと。
それを自覚して、それを認めている人。
06:05
神の御前に、自分のこの魂がまるでですね、空っぽのように神の御前にお見せすることも、誇ることも、
神様、これはいいんじゃないですか、これを見てほしいと、そう言うべきことが何一つもない。
だから、神の恵みによらなければ、救われることもありませんし、神の愛によらなければ、この空っぽのこの魂をですね、見させていただけないものなんだ、自分は。
それを悟る人は、心の貧しい人です。
だからその人こそ、天の御国の持ち主になるわけなんです。
四節は、喜ぶものは幸いです、ではありませんね。悲しむものは幸いです。
この悲しむはですね、単なる自分の傷や痛みのゆえに悲しむというよりは、
あるいは自分が貧しいから、あるいは自分がうまくいっていないから、
単なる何気なく悲しむ、そういった悲しみではなく、自分の内側にあるこの咎、穢れ、あるいは欲望、それを見るたびにですね、神の御前に悲しんで泣かざるを得ない、それをわかっている人、そして実際に主の御前にですね、
シトパウルがですね、ローマ書第7章で語られたように、したいことはせずに、したくないことをしているこの自分、見言葉通りにいきたいんだけれども、それが時にはできていないこの自分の、この罪や穢れのあるいは弱さのゆえに、神の御前で悲しむということなんです。
だから皆さん、この悲しみは、黒い矢のための悲しみなんですね。このように、主の御前に悲しむ者を、主は慰めてくださるんですね。許してください。
二つ目の御説は、「乳和なものは幸いです。」と語られました。この乳和は、単なるですね、優しい、あるいはこの静かな、そういう仕立てとか気象を意味するのではありません。
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これは家様の品性であって、御霊様の品性であります。愛であって、寛容で、忍耐で、慈しみで、憐れむこと、それがこの乳和なんです。
だから、このような乳和な人は、御霊と家様の品性に預かっている人を、主はですね、地を受け継ぐという祝福を与えるという、この地はこの地上の土地ではないんですね。働く天と働く地。永遠の神の不二のことなんですね。
その次の六説は、「義に飢え渇くものが幸いです。その人たちは道足りるから。」とありました。何に飢え渇いているんだろう。
物に、富に、欲に、様々なものに、飢え渇くものではなく、義、つまり神の公義であって、神の国であって、神の忍耐、それに飢え渇くものは幸いですと語っておられます。
つまり、神の忍耐に飢え渇くものです。自分の人生に、自分の内側に、あるいは家庭に、あるいはこの教会に、この国にですね、神のご忍耐を求める人。
主よ、あなたはここにいて下さい。忍耐して、福で収めて、我らを導いて下さい。あなたの栄光をあらわして下さいと、それを常に求める人。
その人たちは、たとえ肉体的には満たされていなくても、その霊は、そしてその永遠の命は満ち足りる、という神様の約束のメッセージでした。
七つ、憐れみ深いものは幸いです。その人たちは、憐れみを受けるからです。この憐れみは、神様の憐れみです。
憐れみを受けるべき、何かの値とか資格を持っている人を憐む、そのくらいの憐れみじゃなくて、全く憐れみを受けるべき、何の値も資格も条件も持っていない人が憐れまれること。それが神様の憐れみなんですね。
その憐れみを、私たちもいただいて、自分自身に対して、人々に対して、イエス様が神様が無条件に憐れんでくださるように、その人々が憐れみを受けるんですね。
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その次は八つでした。心の強いものは幸いです。その人たちは、神を見るからです。どんな人は神を見るんでしょうか。どんな人は神の栄光を見るんでしょうか。心の強いものです。
いくら立派な仕事を持っていても、化粧して変身をしていても、良い洋服を着ていても、立派なお家に住んでいても、心の強さ、それが最も大事なことであって、神様はそこを見られるということです。
そして、死はそれを良しとされて、その人だけが神を見るということですね。
九節。平和を作るものは幸いです。その人たちは、神の子供と呼ばれるから。
この平和は、この時にも申し上げましたけれども、二人の間にふさがれている隔ての壁を取り壊す、そしてそれを一致させる、その力が平和であります。
だから、そこには犠牲が伴われるということです。
イエス様が神様と私たちを一致させるために、和解させるために、命を捨てる犠牲を払われたんですね。
だから、この平和を作るためには、そこに犠牲の汗や犠牲の涙が伴われるということです。
そして、今日はこの八福の最後の十節です。
なんと三節最初と十節最後のその幸い祝福は一緒なんですね。
三節と十節を皆さん比較していただきたいんですけれども、天の肉にはその人たちのものだからと、後半の節が一緒ですね。
だから、この八福は結果的には一つであって、本当に私たちが求めるべき、欲するべき幸いは何なのか、それは神の御国であるということなんです。
15:07
神の御国は神の支配であって、神の臨在であって、神の栄光なんです。
ところが今日の十節は、ちょっと厳しいメッセージですね。
義のために迫害されているものは幸いです。迫害されているものが幸いなんです。
それがイエス様が教えられる生き方なんですね。迫害されたい人は少ないかもしれません。
ところがイエス様の教えは、迫害されているものは幸いですと。
実際に今日の日本だけを見てみましょう。私たちが日本で住んでいるわけですから。
この日本にいるクイッチャンが大きく迫害されることはメタにないと思うんですね。
今の時代ですよ。昔はありましたけれども。
まだこれからどうなるかわかりませんけれども、今はイエス様を信じているから、
おぼやけで処刑されたり、刑務所に入れられたり、あるいは仕事を迫害されたり、
そういったことはメタにないかと思います。
ところがこの御言葉ですよ。この十節を素直に受け止めるんだったら、
私たちが本当に幸せに信仰生活をしていきたいと思うんだけれども、
もしもイエス様を信じるために、この99%以上のノンクイッチャンの世界の中で、
一度も迫害されたことがない、迫害を拭っているとならば、
私たちはこの御言葉やそのままを受け入れるのなら、幸いな人ではないんです。
天皇御国は私たちのものではないんです。なぜでしょうか。迫害されていないから。
もちろん今日の迫害はあらゆるいろんな意味での迫害があるかと思います。
迫害はまず御言葉から見ていきましょう。十一節、十二節。十一節と十二節と一緒に見たいと思います。
これは時代と関係なく、どの時代にも同じく当てはまる迫害に当てはまる御言葉だと思うんですね。
18:11
十一節、十二節と一緒に読みたいと思います。
私のために人々があなた方を罵り迫害し、ありもしないことで悪行を浴びせるとき、あなた方は幸いです。
喜びなさい、喜び踊りなさい。天ではあなた方の報いは大きいから。
あなた方より前にいた侮辱者たちを人々はこのように迫害したのです。
少なくとも皆さん、十一節の御言葉のように私たちは生きなければなりません。
イエス様を信じるその信仰のゆえに、あるいはそのイエス様を明かししているから、
あるいはその家族や親族や周りの人々に、知り合いの人々にイエス様を述べ伝えているがゆえに、
時には罵られること、迫害されること、悪行を浴びせられること、無視されること、
もけものにされること、そういうことがあるはずだと私は思っています。
つまり、原理を言いますと、イエス様を信じるがゆえに迫害される。
その迫害は、おさらされそういうことがあるかもしれませんけれども、
肉体的に、あるいは精神的に、あるいは経済的に、あるいは社会的に、
それは言葉であれ、あるいは身体的なものであれ、何かのよくないことをされる、受けるということがあるはずだと思うんですね。
この御言葉通りに生きようとするならば、イエス様の時代に、
またこの人の働きとか、初代の時代のクリスチャンは、本当にですね、この御言葉を補言をしなくてですね、
この御言葉通りに、通りに生きようとしない。
だからそこには迫害がありました。
悪行を犯しされることがありました。
のけものにされることがありました。
打たれることがありました。
しかし彼らは、それを今日の十二節のように喜んでいました。
喜んで踊っていました。
あれでしょうか。
天で報いが大きいからだ。
私はですね、この地上のもの、世のものの報いに目を奪われている時がしばしばあるのではないかなと思います。
21:10
天の報いなんて、それは今もないし、手にないし、見えませんし、そんなことはいらん。
今のものが大事じゃないかと、そう思ってですね、
天の報いを忘れるとか、あるいは無視したり、そして今この目の前にある報いだけを求めている私たちがここにあるのではないでしょうか。
皆さん、この三女水君の御言葉は、当時のデスタシーだけれどと話しています。
デスタシーは、イザヤ教を信じていた人たち。
その周りは、大地とや立派としたパリサイ人、サラダ高い人、あるいは熱心とのような人々がたくさんいてですね、
彼らはみんなイザヤ教を信じていて、このイエス様をもう滅したわけなんですから、
今までの生き方、今までのあの宗教は、これは偽りだった。
それを捨てて、全く新しい人生をスタートする彼らに、イエス様は、あなた方は私についていきたいのか。
そうするならば、そこには迫害があるんですよ。迫害されるあなた方こそ、幸いな人生なんですよ、とイエス様がおっしゃいましたね。
その時に、いやそれは嫌ですとですね、もうやめた人はいたかもしれませんけど、デスタシーはついていきましたね。
イエス様が、このイエス様に従っていく人々に、どんなことが起こるんだろうか。
特にこの迫害に関して、イエス様が語られた見言葉がですね、いくつかありますけれども、そこをちょっと開きたいと思うんですね。
まずは、ヨハネの福音書15章20節です。
ヨハネの福音書15章20節。私の持っている聖書は、新約212ページです。
それでは、20節を一緒に読みたいと思います。
3.しもべはその次に勝るものではない。と私があなた方に言った言葉を覚えておきなさい。
もし人々が私を迫害したなら、あなた方も迫害します。
もし彼らが私の言葉を守ったなら、あなた方の言葉をも守ります。
24:04
そこにですね、もし人々が私を迫害したなら、あなた方をも迫害します。とイエス様がはっきりと言われました。
もう一箇所、その次の16章33節です。
215ページ、33節ともご一緒にお読みしましょうか。
私がこれらのことをあなた方に話したのは、あなた方が私にあって平和を持つためです。
あなた方は世にあっては患難があります。しかし勇敢でありなさい。私たちはすでに世に勝ったのです。アーメン。
ここにですね、世にあって何がありますか。患難がありますよ。
この世で生きている限り、私がイエス様を信じるクリスチャンである限り、患難があると。しかし勇敢でありなさい。世に勝ったのだけ。
またもう一箇所見てみましょう。第二手もて3の12節です。
416ページです。
この12節は今日のマサヤノクイーション5章10節をですね、このパウロ先生はこのように解説しているんですね。
この12節を心に留めていただきたいなと思うんですね。
さあ12節、第二手もて3の12節を一緒に読みたいと思います。
確かにイエスとイエスにあって、経験に生きようと願う者は皆迫害を受けます。アーメン。
皆さんはイエス様のイエス・キリストにあるクリスチャンですね。経験に生きようとしておられるんですよね。
そうするならば、そう願う者は皆ですよ。皆迫害を受けるんです。
もう一箇所、第一ペテロ4の14節。
457ページです。
それでご一緒に読みたいと思います。
もしキリストの名のために非難を受けるなら、あなた方は幸いです。
27:06
なぜなら、英雄の御霊、すなわち神の御霊があなた方の上に留まってくださるからです。アーメン。
この14節も今日の私の5章10節と同じなんですね。一緒なんですよ。
もしキリストの名のために非難を受けるなら、伝道していて、あるいは赤きをしていて、御言葉を守ろこしている。
そのためにですね、非難を受けるなら、あなた方は幸いです。これを信じようではありません。
英雄の御霊、すなわち神の御霊があなた方の上に留まってくださるからです。
いつの間にか今日のキリスト教は教会で講談で、祝福や許しや恵み沿いた繁栄のメッセージが多く増えているのではないかなと思います。
しかし、今日ですね、少しだけ調べただけでも、こんなに多くの非難を受ける患難がある、迫害される人が幸いですと御言葉がですね、
この新約だけではなく、旧約聖書を読めば読むほど、数え切れないほどたくさん書かれているんですね。
しかし、教会ではなかなか信仰の上に迫害され、患難があれ、非難を受けることを喜びにしましょうというメッセージは、なかなか語られているのではないでしょう。
もちろん、それも大事なメッセージであります。
恵みがあります。許しもあります。
しかし、それは神の御言葉の一部分に過ぎないものではないでしょうか。
十字架を追って家様について行く道はですね、初代教会の神と人々は十字架を追って、
家様を信じるというとは、つまりいつ死んでもおかしくないという信仰の決断がそこにありました。
十年、ほぼ十年前でした。十年前、十二月。トルコにですね、聖地十年を生かしていただきましたけれども、
カタコンベのようなところがトルコにもあるんですね。ローマにもありますけれども、ローマは地下にありますけれども、
30:03
トルコにはですね、もう誰も住んでいない荒農のような砂漠のようなところに行ったらですね、きのこのような山があるんです。
ものすごい柔らかいんですね。もう手でもそれを掘り出すことができるというところがありますけれども、
もうふねくねですね、蟻の巣のような洞窟があってですね、そこに初代の苦力者たちが信仰の上に救済を受けて、
そして結局君はそこに逃げて共同生活としていたわけなんですけれども、でもそこまでローマ帝国はやってきてですね、捕まって処刑されたわけなんですね。
皆さん、十字架を追って生きる信仰は、そこには非難が、患難が、迫害が、それ私たちは目をそらしてはいけないと思いませんでしょうか。
十字架を追う信仰、今日のキリスト教にそれこそ必要な信仰ではないでしょうか。
ですから皆さん、イエス様の御言葉通りにですね、私たちが伝道するならば、イエス様を信じたら祝福されますよ、それもいいんですけれども、
イエス様を信じたら迫害されますよとも伝道しなければならないかもしれません。
そうしたら、一人でも許可に来ないかもしれませんけれども、御言葉だから述べ伝えなければならないのではないでしょうか。
人ヨハネの弟子に、ヨハネの目記録に書かれているスミルナ教会の巨大の監督であったポリュカルホスという先生がいました。
彼はですね、本当にヨハネの使徒であって、そのスミルナ教会を神の御言葉通りに導いて教えてですね、背負わせた立派なクリエイターでした。
あの時はネロの時代であって、厳しい、激しい迫害がある時代でした。
そして、86歳のこの老人のポリュカルホスが捕まってですね、あのローマのコロステムのような闘技場で拒経されることになりました。
そしてですね、その執行官が彼に最後のチャンスを与えようとして、こう言いました。
33:02
キリストを呪え、そうすれば助けよう。
その時にためらうことなく、このポリュカルホスはこう答えました。
その答えはですね、キリスト教の歴史では有名な証なんだけれども、こう言いました。
私は86年間キリストに従い続けてきましたが、その間、主はたった一度も私に不幸をお与えにならず、恵みのみを与えてくださいました。
こんなにまで私を愛してくださった今日、どうして呪うことができましょう、と答えたんですね。
そこでですね、その執行官がですね、またこう言ったんですね。
もし命令に従わなければ、お前は猛獣の餌食にするがよいのか。
たとえどのようにされても光栄に味かってくさる神の身元に行くだけです、とポリュカルホスは答えました。
たとえど、執行官がまたこう言うんですね。猛獣を恐れないなら、火で焼き殺されてしまう。
と言ったらですね、火であれ猛獣であれ、しばらく燃えてすぐに灰になるでしょう。
本当に恐ろしいのは、来るべき審判の死と永遠の刑罰であります。
そのようにですね、彼は答えてですね、なんとポリュカルホスの顔は喜びと確信に満ちあうれて、
微笑んでですね、あの人の働き発祥のステファノのようにですね、微笑んで火で焼き尽くされて準備。
皆さん、イエス・キリストを信じる信仰、たったその一つのゆえに、この巨大教会のクリスチャンは死の覚悟をみんな持っていました。
毎年出版されている世界キリスト教基礎情報、日本語に言うとですね、こういう部発本があるんですね。
そこには、それぞれ国のキリスト教の情報や、博売や、そういった数字とか書かれているんですけれども、
最近の統計を見ますと、毎年どれぐらいの人数が皆さん、進行のゆえに処刑されたり、重発されたり、準拠していると思いますか、皆さん。
36:01
何人ぐらいになると、皆さんお考えですか。毎年ですよ。なんと30万人が進行のゆえに準拠されているんです。毎年です。
そうしたならば、一日約800人ぐらいが、全世界どこかでイエス様を信じる進行のゆえに殺されているわけなんですね。
そこには、またこういう数値があります。だから、クリスチャンであるならば、準拠者になる可能性は200人の1人だそうなんです。世界的それはですね、一つにすれば。
それが選挙地であれば、50人の1人だそうなんです。そしてもし、アマゾンとか、あるいはそういった厳準のような、そういうところで選挙している選挙地であれば、20人の1人は準拠される可能性があるということです。
確かにですね、日本は宗教が保障されて、そういう宗教活動ができること、究極法人も語ることができる、そういう本当にある意味で幸せな国の中で、進行生活が守られていること、それも本当に感謝ですけれども、
でも、99%以上のノンクリストの中で、私は進行を伝えて、勇敢であって、果たして死難を受けて迫害されて、患難があるんだろうかということを、感慨させられる今日の言葉ではないです。
イエス様は教えられました。義のために迫害されているものは幸いです。天皇御国はその人たちのものだから。
本人がここにいるから、ちょっと言いにくいところがありますけれども、君兄弟が結構前から、学校の自宅の駅の手前で、週に1回から2回、1時間ほど連動しているんですね。
通りがかる人々に、イエス様の救いのお小屋で述べてされている。それを、感慨する人よりはしなくたり、他にされることがあったかと思います。
しかし、私たちの内側には、このイエス・キリストをどれほど誇りと思っているのだろうか。ものすごく宝であるから、誇りであるから、これを聞きたくないと言っている家族であろうが、誰であろうが、これをしっかりと教えて伝えて紹介し続けているのだろうか。
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どこまで私たちは、このキリストの十字架を保護するという、本当に誇りと思っているのかということを、今日、この朝、示されるメッセージであります。
先週の水曜日の教育の教師・知事会がありました。そこで、女性の先生が横浜のところで、マシダ・クリスタン・センターという教会をしていらっしゃる先生の講演がありました。
子どもだけの信徒の計算のために、教会は何らかの働きをしなければならない。そして、周りには教徒が5つぐらいあるらしいですね。
そして、回りながら、週に1回、2回、ずっとこの手書きを巻いて伝導している。そういう話をしわされて、最後の午後の終わりに、ある教会の夫人の方が質問をしました。
そういう学校の前で、そういうトラブルを反映したり、そうしたら迷惑になるじゃないですか。何か言われたり、そういうことはあるのではないでしょうか。それが余計に教会の伝導をさまさけるものにはなりませんか。そういうふうな質問がありました。
その時に、その先生の答えがありまして、そして最後にこう言いました。どの時代も信仰と福音をもべ使えるにあたって嫌われる、嫌がられることはどの時代もある。それを避けようとするならば、伝導はできないのではないでしょうか。
もちろん、そこには知恵が必要かもしれませんけれども、嫌がられるから、何とか迷惑になるから、こう言われるから、何もできずにずっとぼじこもっているだけで、福音は広がっていかないのではないでしょうか。そういうふうに、その先生はお答えになりました。
今日お配りしました、この第二例外のご案内お願いをちょっと語っていただきましたけれども、そうなんです皆さん。私たちがですね、個人的であろうが、一緒であろうが、教会的であろうが、私たちはこの時代において、このイエス・キリストを誇りと思うべきではありませんし、何らかの形でもべ伝えなければなりませんし、
その金庫に建っていくことがイエス様が教えられる生き方ではないでしょうか。
メッセージを分けたいと思います。
イエス様は、「義のために迫害されている者は幸いです。天皇御国はその人たちの者だから。」と言われました。
42:11
イエス様を信じるが故に、観覧があり非観があり、憧れ、憧れがあるのでしょうか、皆さん。これからまたあるかもしれません。
そんな中で、それを喜びとしようではありませんか。イエス・キリストを述べ伝えること、この私たちが抱いている、このイエス・キリストをですね、最後の誇りと思ってほしいですし、それを述べ伝えていただきたいと、そう願っております。
この道が信仰の道であって、幸いな道であって、天皇御国を所有する信仰者の道ではないでしょうか。お祈りいたします。