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2026/04/19:使徒信条(1)私は信じる
2026-04-19 30:27

2026/04/19:使徒信条(1)私は信じる

2026/04/19 聖日礼拝

加藤満牧師

創世記 15:1-6


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サマリー

この礼拝では、加藤満牧師が「使徒信条」の最初の部分、「私は信じる」について解説しました。使徒信条は聖書そのものではないものの、1000年以上にわたり教会の信仰のエッセンスとして、また異端と正当信仰を区別する物差しとして大切にされてきました。その起源は、初代教会の信仰告白や、3世紀の洗礼式における問答に遡ります。使徒信条は三位一体の神への告白であり、その一つ一つの言葉は、異端や国家権力と対峙し命を落とした殉教者たちによって守られてきた重みを持っています。 続いて、「信じる」とは何かについて、創世記のアブラハムの物語を通して掘り下げました。アブラハムは、子孫に関する神の約束が現実と乖離している状況で不安を感じていましたが、神は彼を星空へと導き、その計り知れない大きさを指し示しました。アブラハムは、理解を超えた神の約束を「アーメン(その通りです)」と受け入れ、それが彼の義と認められました。これは、働く者への報酬ではなく、不完全な者を義と認める神を信じる信仰の重要性を示しています。 パウロは、アブラハムの信仰とイエス・キリストを信じる信仰を重ね合わせ、私たちの救いは、理解できるからではなく、計り知れない神の愛と御業(十字架と復活)をそのまま「アーメン」と受け入れることから始まると語りました。信仰とは、神を知るために信じることであり、理解できないことの中にこそ神の約束が進んでいることを受け入れることです。私たちは、小さくした神ではなく、無限の愛の中に自分が捉えられている事実に「アーメン」と言うべきだと結びました。

祈りと礼拝の導入
それでは、短くお祈りをいたします。
恵みと憐れみに富んでおられる、私たちの父なる神様、
今日も私たちを主の御前へと招いてくださり、
あなたは葵で礼拝ができますことを感謝いたします。
本当に春となってきました。
気候の寒暖はありますが、しかし、祈られたように、
本当に豊かな喜びの季節が、私たちに訪れてきました。
主は、どうかこの季節の中でも、
あなたの恵みを私たちに豊かに教えてくださいますように。
何よりもイエス・キリストが、
御自身を十字架に捧げられるほどまでに、
私たち一人一人を愛し抜いてくださっているという事実。
そして、その愛は今も変わらず、
出かつ、死から甦えられたイエス様の永遠の命が、
私たちに与えられていて、
死と共に永遠に生き続けるその希望と約束のうちに、
私たちが今持ち運ばれている、
その恵みを深く知る季節となりますように、
どうか導いてください。お願いいたします。
神様、本当に人と人とが分かり合えず、
争いが続く世の中にあります。
御言葉を下さいと賛美を致しました。
私たちは本当に、あなたからの御言葉によって、
作り変えられ、整えられ、
そして、あなたの愛を生きる者へと、
あなたは変えようとして下さっています。
どうかあなたのお取り扱いに素直に答えることができますように、
あなたの言葉を素直に受け入れることができますように、
目と耳と心とを開いて下さって、
あなたが今日この時も、
導きを与えて下さいますようお願いいたします。
ここに来たくても来れないお一人一人がいることを覚えております。
傷んでおられる方、自宅におられる方、
施設におられる方、お一人一人の上にも、
あなたの支えと守りと祝福を豊かに
与えて下さいますようお願いいたします。
これからの時はあなたへと委ねます。
主が御言葉を開き、語って下さいますように。
イエス・キリストの皆によってお祈りをします。
アーメン
使徒信条の紹介とその重要性
この春から、8月の末にかけて、
ご一緒に、
使徒信条を順に見ていけたらと願っております。
何度かお話をいたしましたが、
キリスト教には、
三要問、三つの重要な文章と呼ばれるものがあります。
一つは主の祈り、もう一つは実会、
そしてもう一つが使徒信条なんですね。
主の祈りと実会は、以前見ましたから、
最後の使徒信条を一緒に見ていこうということです。
ですが、一つご一緒に意識したいことは、
使徒信条というのは、
これまで見てきた主の祈りと実会とは、
大きな違いがあります。
何が違うかと言いますと、
この言葉は、
聖書そのものの言葉ではないということです。
主の祈りと実会というのは、
聖書の中に書いてありますが、
実は使徒信条は、聖書の中を探しても、
どこにも書いてはいません。
当然、これは、
聖書の御言葉に根差しているわけですが、
しかし、直接的な神様からの啓示の言葉ではないんですね。
そんなものを学ぶ必要があるのかと思われるかもしれませんが、
しかし、それでも学ぶ意味があるとするならば、
この使徒信条、信条というのは、
信仰の過剰ですね。
信仰を一個一個、これは信じるということの過剰書なんですが、
その使徒信条は、
一千年以上もの間、
教会の信仰のエッセンスとして大事にされてきました。
使徒信条は実は伝道のためにも用いられてきました。
洗礼準備のためにも用いられてきました。
そして教会を整えるための教会訓練としても用いられてきた、
実は万能の言葉なんですね。
加えて、この使徒信条というのはもう一つは、
いわばキリスト教遺端と正当信仰というものを区別するための物差しとして
ずっと大事にされてきました。
今でも遺端の教会は使徒信条を告白しません。
そのような意味では、とても大事な言葉なのです。
なので、ご一緒に学ぶ意味はあるかなと思いますし、
一つ一つの項目、その背景にある聖書の御言葉に触れながら、
改めて、私たちは何を告白しているのか。
私たちは一体何を信じているのか、
そのことをご一緒に深めていけたらと願っています。
今朝は使徒信条の諸論と、そして一つ目の告白、
私は信じるということに少し目を向けていきたいと思っています。
使徒信条の起源と発展
まず一つ目、使徒信条の諸論を少しお話をしますが、
使徒信条というのは一体何なのかということですね。
実は、新約聖書の中にすでに初代の教会が、
自分たちの信仰告白はこれだと告白してきた言葉があります。
ちょっとだけ目を止めたいのですが、
ローマ人への手紙の10章の5節というところをご覧いただけるでしょうか。
ローマ人への手紙の10章の5節。
おそらく個人連動で用いられる方が多いかもしれませんが、
失礼、10章の5節じゃないですね。
あれ?
失礼、9節です。
10章の9節です。失礼しました。
10章の9節です。
ちょっとお読みしますと、新約聖書の314ページの上の段にありますが、
ローマ人への手紙の10章の9節、こういうことをパウロが言っています。
なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、
あなたの心で神はイエスを使者の中からよみがえらせたと信じるなら、
あなたは救われるからですと聖書が語ります。
これは今もその通りです。
私たちの信仰告白の根幹は、イエスは主であるという告白です。
ここで告白されていることは2つですね。
イエスは主であるということ。
そしてもう一つ、そのイエスを神は使者の中からよみがえらせたということです。
この2つはつながっていますね。
いわば使者の中から神がよみがえらせたということは、
イエス・キリストの十字架の死というのは、呪われて死んだ、神に呪われて死んだものではなくて、
あの十字架こそが旧約聖書のイスラエル、いわばユデア人が待ち望んだメシアに期待される通り、
イエス様は十字架の死に至るまで忠実であり続けた。
あれは呪われて死んだのではない。
神に従った上で死んだのだということが、
イエスを使者の中からよみがえらせたということを信じるかということの大事なところです。
そして、それゆえに復活されたイエス様、神によってよみがえらせたイエス様は、
今や天に挙げられ、神の右に指し、世界の王、主となられた。
初代教会はそのことを述べ伝えたわけですが、
そのイエス様が世界の王であり主であるお方が、
あなた自身の人生の主であること、あなた自身の人生の王であることを、
あなたは信じますか。
そう告白しますか。
受け入れますか。
初期のキリスト教会はまさにそのように信仰を確認し伝導してきたわけですね。
このような、ある種素朴とも言えるような信仰告白は、
おおよそこのあと百年後ですね、少し変化をしていきます。
3世紀の初頭にヒッポリウトスというキリスト社がいますが、
彼が残した文章、3世紀の文章が残っているんですね。
その中で、このヒッポリウトスがある人に洗礼式を授ける時に、
その洗礼のやり取りの言葉が、いわば使徒信条の最初の元になった言葉だと言われます。
ちょっと読むので、洗礼式を想像しながら少し聞いていただけたらと思います。
ヒッポリウトスがこう聞きました。
あなたは全能の神である父を信じますか?
はい、私は信じます。
洗礼によって乙女マリアから生まれ、ポンティオピラトの下で十字架につけられて死に、
三日目に死者の家から復活し、天に上って父の右に座し、
聖者と死者を裁くために来られる神の子イエスキリストを信じますか?
はい、私は信じます。
聖なる教会の中で、洗礼を信じますか?
はい、私は信じます。
実はこれがヒッポリウトスの文章の中で残されている洗礼式の提携文です。
これは今お聞きになられてお分かりの通り、だいぶ今の使徒信条に近いですね。
加えてここからよく分かることは、使徒信条は三位一体の神様に対する告白なんです。
父なる神、子なる神、聖霊なる神を私たちは信じると告白する。
そのような告白ですね。
そしてこの問答形式が、一人称の私は信じるという告白には、おそらくすぐになっただろうと言われます。
それが使徒信条の前身である、説教用詞にも書きましたが、
コ・ローマ信条というものが残っております。
このコ・ローマ信条というのは後に通称、使徒たちの信条とだんだん呼ばれていきます。
だんだん言葉が近づいてきました。
使徒たちの信条という言葉は重たい言葉です。
なぜなら3世紀、4世紀というのは実にキリスト教遺産がたくさん出てきまして、
聖徒と遺産を区別する戦いがずっと続いたんです。
その中で、聖徒であるというのはどういう言葉で表現されるか。使徒的であるという言葉で表現される。
いわばイエス様の十二弟子使徒たちの教えに直結している教えだ。
当時の教会はこの使徒信条、そのよう使徒的な使徒たちの信条、コ・ローマ信条をそのように認めたわけですね。
そして少しだけこの3世紀から以降のことをお話をするならば、
この時代のキリスト教遺産というのは様々なものが現れました。
イエスは神ではなく人間である。
この逆もありました。イエスは純粋な神であって人間ではない。
もしくは、神様とイエス様は神なんだけれども、
精霊なる神は神ではないでしょう。
そのような遺産も現れてきます。
なんとなくわかりますね。
そしてこれは今なおキリスト教遺産の中で継承されているものです。
エッファの書になんかこれと近いこと言いますね。
ただその度にキリスト教会は会議を開いていきました。
そして例えば、キリストは神であるという告白はニカイヤ信条で採決をされました。
キリストは神であり、同時に人間なんだ。
キリスト教の二世一人格という教理がありますが、
それはカルケゾン信条というもので確認をされました。
三民一体の神は等しく、混同せず、分離をしていない、
ということはアタナシオス信条というもので確認をされていきました。
ただこれらのことが確認されていくためには実に多くの準教者の血が流されていきました。
キリスト教の信仰が整えられていくというのは
準教者の血をなしには語れない、そのような歴史です。
そして使徒信条はこれらの信条を包含しながら
教会の寄って立つ正当的信仰告白の結晶なんです。
実は使徒信条が文明として一番最初に書かれるのは
8世紀になったからです。だいぶ後なんです。
いわば初期の教会が始まってから大よそ700年かけて
この信条は正式に教会の寄って立つべき告白であると採決されていきました。
それだけにスタンディ・ハワワスという信学者がこういうことを述べました。
信条の言葉一つ一つがかつての遺憾や国家権力と対峙し
命を落とした準教者たちによって守られたものである。
信条を告白するとは自分をその準教者たちの列に連ねることであり
その血の代価を理解せずして告白することは
言葉の真実味を書く行為であると彼は述べました。
私はそうだなと思います。
そういう意味では毎週毎週礼拝でこの信条を告白いたしますが
ある種そのような重さを受け止めながら
私たちはこの信条を告白していきたいと思うのです。
さて、諸論を終えまして最初の告白の内容に少し目を止めてまいりましょう。
「私は信じる」という告白
二つ目のポイントですが、今朝目を止めるのは
私は信じるという告白です。
もうお気づきでしょう。
使徒信条を告白しているときに気づくことは
父なる神、子なる神、精霊なる神を
私は信じるという言葉で統一して告白をされていきます。
いわばそれはとても大切な告白ですね。
ただ改めて思うのですが
じゃあ私たちは神様を信じる信じると言いますが
信じるって一体どういうことなんでしょうか。
そのことを端的に語っているのが
今朝お読みいただいた創世紀の15章の
このアブラハムの歌唱であると思います。
創世紀15章の1節から6節を今朝読んでいただきました。
アブラハムの信仰と神の約束
これはアブラハムのストーリーの途中ですが
大体皆さん内容はご存知かと思います。
アブラハムは最初神様に召されて生まれ故郷を出ていっています。
そのような旅路の中で彼を支えたのは
神様が彼に約束なさったことでした。
いわくそれは
あなたの子孫にこの地を与えると神様はカナンに住むアブラハムに
アブラムに言いましたし
そしてそれだけじゃない
あなたの子孫を通してこの世界を私は祝福する
だからあなたから子孫が生まれるんだということを
神様は約束なさいました。
その祝福をよりどころに神様に従っていくアブラムです。
しかし現実はなかなかそうはうまくいきませんでした。
ただ年月が過ぎていくだけで
アブラムとサライの夫婦の下にはなかなか子供が生まれなかったのです。
そして15章に至ってアブラムはだんだん怖くなっていきます。
この約束は本当に守られていくのだろうか
実現するのだろうか
15章の1節を見ていただくと
1節2節を見ていただくと
その幻のうちにアブラムに現れます。
これらの出来事の後
主の言葉が幻のうちにアブラムに臨んだ
アブラムよ恐れるな
私はあなたの盾である
あなたへの報いは非常に大きいと言われる
しかしアブラムにとって一番の報いは子孫が与えられることです。
そしてその気配は未尽も感じない
非常に大きいと言われるのだけれども
彼は恐れているのです。
本当に主よそれを成してくださるのですか
ですから2節3節に彼はこう言います。
アブラムは言った
神主よあなたは私に何をくださるのですか
私は子がないままで死のうとしています
私の家の相続人はザマスコのエリエゼルなのでしょうか
さらにアブラムは言った
ご覧くださいあなたが子孫を私にくださらなかったので
私の家のしもべが私の後取りになるでしょうと
肉迫するように近づいていくようにアブラムは訴えます
主よ私は子供が与えられません
だからうちのしもべが後取りになるんでしょうと
不安なアブラムは自分の頭の中で考える精一杯の解決策を神様に提示します
もう無理でしょうと
だからもうあのエリエゼルがなるんですね
はいわかりましたはっきりそう言ってくださいみたいな
そのような形です
これは実に見えるところの現実に基づいた合理的な判断です
アブラムはもうおじいちゃんなんですよ
さらにもうおばあちゃんです
だからもう目に見える現実的で実に合理的で理性的な判断で言うならば
これしか手がないでしょう
そう判断しながらもう神様そうなんですねという
しかし神様はこのアブラムをどうしたか
15章の5節を見るならば主は彼を外に連れ出されるのです
そしてこうされました
さあ天を見上げなさい
星を数えられるなら数えなさい
さらに言われた
あなたの子孫はこのようになると言われるのですね
少し想像していただきたいと思いますしお聞きしたいのですが
満天の星空を皆さんご覧になられたことがあるでしょうか
私は幸いなことに実は東北に行ったとき
北方というのは街はずれが真っ暗なんですね
街灯もほとんどないような真っ暗で
でも冬場は空気が澄んでますから星空が本当にきれいに見えるんです
だから時々観光費を買って星空を見ながらボーッとしに行ったんですけれども
圧巻の星空ですよ
そして首が痛くなるくらいずっと見上げて目が離せなくなるような星空です
でもその星空を見上げながらボーッと見ているうちに
私もその時にこの見言葉が思い浮かびました
満天の星空を見ながらこの星空の星を数えられるなら数えてみなさい
でもそれを見ながらその時にふと気づかされたことがありました
ああ神様これは無理ですね
星空の端から一個一個一個人間が数えていっても数えきれないですよ満天の星空は
でこのお菓子をそのことにその時になんかこのお菓子の意味がなんとなくわかったのです
そうかそういうことか数えてみようと
しかし数えきれないんです
そして首はこの星空を見せながら
あなたの子孫はこうなるというアブラハムの一番懸案事項であった
あなたの子孫の話をされる
それは一体何を言っているのか
あなたの中ではその計画は今進んでいないかもしれない
しかし星空を見ろと数えきれない
把握しきれない
それはあなたにとって神の技
子孫を与えるという神の技は数えきれないし
把握しきれないし
理解しきれないし
そして探りきれない
満天の星空を通じて神様がアブラムに伝えたかったことは何でしょうか
それは神とそして神の御技はあなたの手中には収まらない
あなたの手中には収まらない
あなたの理性などでは計りきることなどできない
その御自身の大きさを神様はアブラムに見せたのです
あなたの中では私はとどめきれていないよ
しかしその神が同時に言われることは
あなたの子孫はこの世になる
あなたとの約束はまだ終わっていないよと言われるのです
そういう私はでもあなたの約束はまだ実現するために動いているよ
語られているよというのです
あなたはそれを信じるか
あなたの理解を超えたところで
なおも神があなたとの約束を進めれているということを
そのままあなたは信じるか
それがこの時の神様の問いかけです
「信じる」ことの意味とアブラハムの義
そして不思議とアブラムの心から疑念が消え
15章の6節彼はどうしたか
アブラムは主を信じた
アブラムは主を信じた
それでそれが彼の義と認められたというのです
この信じたという言葉実はこれはよく言われますが
ヘブル語でアーマンという言葉なんです
アーマンというのは後にギリシャ語で言うところの
アーメンの元になった言葉だと言われます
アーメン私たちお祈りでよく言いますが
アーメンという言葉はこれは
確かですとかその通りですという言葉です
いわばアブラムがここで主を信じたということは
その満天の星空を見てアーメンと言ったんです
その通りです主よ
その通り確かにそうですねと
その現実をそのまま彼が受け入れたということです
理解しきれない神の導きをそのまま確かに主よ
その通りですと受け止めること
状況が好転したからもしくは解決策が見えて
納得したから信じたのではありません
状況は変わらず解決策はまだ見えないんです
しかし私という人間はこの星々を作られた
圧倒的な神様の中にその主宙の中に
確かに今置かれているアーメンなんです
私たちがよくしがちな勘違いは
何か自分のことを人間として理性が肥大化するときに
人間は私を大きいものとして
神様さえも何か自分の認識の中で
全部捉えられるというような傲慢な姿勢を取ります
神はそうでしょう結局神様はそういう人なんでしょう
というふうに自分の理解できる範囲で神様を信じようとします
しかしそれは理解しているのであって信じているのではありません
むしろ私たちがしなければならないことは
私の中にいる神を私の主宙に収まる神を信じるのではなくて
むしろ計り切ることのできない神様の中に自分がいるということ
その方に自分のすべてが運ばれているということ
そしてその方があなたをご自身の命以上に愛しておられるということ
その圧倒的な信じがたい事実の前に
驚きながらもそのままアーメンということです
アーメン
それが信じるということです
このアブラムの信仰を後にパオロがローマ人への手紙の4章で取り上げております
ちょっとだけそこも開きましょう
ローマ人への手紙の4章というところで彼はこういうことを言っています
ローマ人への手紙の4章の4節から5節を読みします
新約聖書の302ページの下の段にあります
3節から読みますね4章の3節から
聖書は何と言っていますか
アブラムは神を信じた
それでそれが彼の義と認められたとあります
働く者にとって報酬は恵みによるものではなく
当然支払われるべきものとみなされます
しかし働きがない人であっても
不経験な者を義と認める方を信じる人には
その信仰が義と認められますと彼は語りました
これは何をやっているのか
パウロはアブラハムの信仰とイエス様を信じるということを
重ねて語っているんですね
あれと一緒だよ
あの驚くほどの満天の星空を見ることに対して
アーメンとアブラハムが言ったことが信仰であるならば
それは同じように
あのイエス様の十字架と復活を信じることも同じだよというのです
私たちが神の前に義とされるのは
報酬ではない
何かをしたからその代わりとして
救われるのではない
私たちが正しいから
もしくは聖書の教えをすべて理解ができたから
私たちは救われたのではない
神様が一方的に
圧倒的な救いの見業をなされたのです
神の御子が
罪人のために命まで捧げて十字架に進まれた
当たり前のように聞いてますが
これを落ち着いて考えるのは理解ができないことです
理解ができないことです
そのようにして神が私たちを愛された
そして神はその神に従い続けた御子を
蘇らされた
天に引き上げ今や世界の王となされた
どれも信じがたいことです
でもこれは使徒信条で告白されていることです
そして
そのような驚くような大きすぎる神の御業
神の愛
私たちはそれをそのまま
アーメンと言いなさいと言われています
アーメンと言いなさい
不経験なものを義と認める方を
信じる人には
その信仰が義と認められますとパウロは語りましたが
私たちは全部が何かが分かったから信じるのではない
信じきれないお方だということをそのまま
ああそうですねアーメンと受け入れる
それが信仰です
そしてここには書きませんでした
中世のアタナシウスという人が言った言葉は
誓いを求める信仰ということを彼は語りました
私たちは分かったから信じるんじゃない
分かるために信じていくんだと語りました
その通りなんです
私はそう思います
神を知っていくが故に
神を分かっていきたいと思うが故に
私たちは信じる
どっちが先なのか信じる方が先なんです
そのままアーメンとそれでも受け入れていく
私たちが毎週一心情を告白いたします
しかしそれはその心情に告白されている事柄が
全部がああ理解しきれないなと
全部驚いたらいいんです
でも驚きながらアーメンと告白していく
私は信じます
アブラムに主がなされたことを
私たちにもしてほしいなと思うのです
私たちは地上の連続線上の中で
神様を理解しようとします
私の理性で私の現実こうだし
あんまり変わらないから
だからもうダメなんだ
神様早くダメだと言ってください
しかし主は今朝私たちに
あなたの視点を天に向けると語る
満天の星空は広がっている
あなたに神を把握しきることなどできない
でも信じるんだと招かれる
あなたが理解しきれないところで
あなたがそうではないと思うところで
しかし神の約束はなおも進んでいるんだ
そのことを信じなさいと招かれる
わからないことはあってよいのです
わからないことはあってよい
この肩に全てを委ねて歩めばいいのだ
そうつぶやきながら
私たちの中で小さくしてしまった神様を
信じるのではない
限りない愛の中に
神の無限の愛の中に
私は今捉えられているんだという事実に
アーメンと言う
そのように驚きながら
アーメンと告白するお互いでありたいのです
アブラムは主を信じた
それで彼の義とそれが彼の義と認められた
お祈りをいたします
30:27

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