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2026/04/26:使徒信条(2)天地の造り主を信じる
2026-04-26 31:41

2026/04/26:使徒信条(2)天地の造り主を信じる

2026/04/26 聖日礼拝

加藤満牧師

創世記 1:1-5


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サマリー

この礼拝では、「私は天地の造り主を信じる」という信仰告白に焦点を当て、人間の存在意義と創造主である神の愛について深く掘り下げています。現代社会における偶然論や無神論的な考え方に対し、聖書は世界と人間が偶然の産物ではなく、神の愛と意味を持って創造されたと教えています。創世記の天地創造の記述を通して、神が混沌とした世界に秩序を与え、生命を満たし、特に神の似姿として人間を創造されたプロセスが語られます。人間は神の管理するものとして特別な役割を与えられ、創造されたすべてのものは神によって「非常に良い」とされました。さらに、人間は神の栄光を表すために創造されたと説明され、神の素晴らしさ、清さ、慈しみ深さ、愛が、世界と人間を通して目に見える形で表されることが強調されます。イエス・キリストは、父なる神との愛の交わりを通して、この神の栄光を完全に体現されました。最終的に、私たちは神の作品として、神の愛の対象として創造されたかけがえのない存在であり、神の目に「高価で尊い」とされていることを受け入れることが重要だと結ばれています。

祈りと導入:偶然論への問いかけ
それでは、短くお祈りをさせていただきます。
恵み深い天の父なる神様、今日も私たち一人一人をあなたの御前へと招いてくださり、
主を仰ぎ、礼拝ができる幸いを感謝いたします。
どうか、今日この礼拝のうちにもあなたの御臨在が現されて、
あなたがどれほど私たちを愛してくださったのか、十字架を仰ぎながら、
その十字架の父様によって罪許され、神のことされ、
三神に甦えられた復活の命が、今私たちにも与えられ、
永遠なる主と共に生きる、確かなその主と共に生きる人生を歩んでいる。
その恵みをまた豊かに覚えることができますように、
主が私たちに御言葉を開いてください。お願いいたします。
様々なことが世界では起きていますし、私たちの周りでも起きています。
ここに来たくても来れない一人一人がいること、
神のもとに来たくてもそれが隔てられている一人一人がいることも覚えていますが、
主がどうか、その一人一人を知り、
作られた主御自身が愛をもってまた招いてくださいますように、
そのところで、あなたの愛に触れることができますように、
どうか導いてください。お願いいたします。
これからのひととき御言葉を開いてくださいますように、
あなたに期待をして、イエス・キリストの皆によってお祈りをいたします。
アーメン。
この世界も、そして私という存在も、
全ては偶然の産物であって、
そのような世界と私には意味などないと、
仮に皆さんに言われたらどう思われるでしょうか。
この世界は偶然にできたんですよ。
あなたが生まれたのも偶然ですよ。
そうなったときに私たちは、
自分の生きる意味というものを定めることができるでしょうか。
おそらくこういう、何と言いますかね、
考え方というのは、科学万能主義と言ったらいいんですかね。
科学が全てを解き明かせるという人たち、
もしくは無神論、
神様なんかこの世界にいませんよという人たちにとっては、
当たり前の世界観かもしれませんし、
おそらく私たちが外に出てからこのことを言ったら、
半分ぐらいの人が、そうかもしれないなと納得するような、
そういう意見かもしれません。
ただですね、一つこの考え方が難しいのは、
偶然生まれたに過ぎない私が、
生きる意味を見出すことが果たしてできるんでしょうかということです。
偶然生まれたに過ぎない存在は、
生きる意味を持つことができるのでしょうか。
これ結構難しいと思うんですね。
天地創造の神学:神の愛と秩序
最近AIが流行っていますけれども、
実は私時々AIといろいろと議論するんです。
その中で、こういうふうに聞きました。
あなたは優れた哲学者です。
この世界と人間が全て偶然によるなら、
それでも人間が生きる意味を提示してくださいと言いました。
それと近代から現代と限ったのですが、
さまざまな哲学者の意見が出てくるわけですね。
こういうふうに人間が生きる意味がある。
こんな苦難の中で、こういうところで人間が生きる意味を見出してきたよと。
フランクルの言葉なんか有名でしたね。
あなたが人生を問うのではなくて、人生にあなたは問われている。
人生に対してあなたは責任がある。
でもですね、人生は別に人格ではないので、
人格がない人間に問われたところで、
何の責任も本当はないでしょうということは言えるでしょうし。
そしてまた、周りの人間との人間関係の中で生きることに意味がありますよと言いますが、
人間関係がむしろ自分を束縛するもので、
そこから解放されたいと思っている人からしたら、
その論は通じませんよねみたいなことを、ずっとごたくを私から並べていってですね。
最終的にこういうことを言われました。
あくまでAIとの議論ですが、
すべてが偶然とする世界観を突き詰めれば、
それでも生きるという理由を私は挙げることができません。
むしろ最後の方は、近代では反出生主義という哲学の思想がありますよ。
反出生主義、いわば生まれたこと自体が外訳である。
その生まれたこと自体が外訳であるとする、
そういう人間の思想に対して行き着くところはそこだという。
そういう本があります。
その本は人間はそんなに捨てたものじゃないよということを言っているわけですが、
しかしですね、あくまでAIとの議論です。
ただ私は結構ショックを受けました。
ああそうか、とどのつまり偶然に生まれた世界と偶然に生まれた私という存在は、
生きる意味を探すというのは実に困難である。
だから儚く命は捨ててもいいものになっていくのかもしれません。
そういうことを思うと、
今朝私たちがご一緒に見ていく信仰告白はとても大事なものだなと思います。
今日ご一緒に目を向けたいのは、
私は天地の作り主を信ずという告白です。
私は天地の作り主を信ず。
先ほど読んでいただきましたが、
聖書というのは、
はじめに神が天と地を創造されたという書き出しから始まります。
それはいわばこの世界も、いいや、
この世界の中に生きている私たちも、
神様が意味を持って創造されたということ、
それを告白するものです。
私たちは自らの生とか命が偶然に出来上がったものではなくて、
神様の愛によって必然的に生み出された世界であり、
命であり、私であるということを力強く告白しているのが、
この告白なんです。
私は天地の作り主を信ずる。
そのことを覚えながら、これは一体何を告白しているのか、
今日は2箇所の聖書の箇所に目を向けて見ていきたいと思います。
説教用紙に少しポイントを挙げさせていただきましたが、
第一に私たちが目を向けたいのは、創世紀の1章です。
ここに書いてあるのは、神の愛による創造なんだということが書かれてあります。
創世紀の書き出しの箇所を先ほど読んでいただきましたが、
創世紀1章というのは、1章全体が、
7日間を通して神様が世界を創造されたという、
そのプロセスが書かれているその場面です。
この箇所を見るときに私たちはよくしがちなのは、
世界が7日間で創られたのか、
もしくはビッグバンから始まって何億年もかけて世界が創られたのか、
みたいな科学的な話をしがちなんですが、
それも大事ですが、しかし、
聖書という書物が意識しているのは、
どのように世界が創られたか以上に、
どのような神様の見思いによってこの世界が創造されたかなんです。
この創造の中に神様のどのような思いが働いているかということなんですね。
ちょっと見ていくと、
細やかな神様の愛の配慮が満ち溢れているのです。
先ほど1章の5節まで読んでいただきましたが、
創造の一例として3節から読み始めますと、
こういう言葉があります。
神は仰せられた。光あれ。
すると光があった。
神は光を良しと見られた。
神は光を闇と分けられた。
神は光を昼と名付け、闇を夜と名付けられた。
夕があり朝があった。第一日。
神様の創造の身技の特徴というのは、
ここに主には3つ現れてきます。
1つは、神は仰せられた。
神様が言葉にされたことが創造されていくという、
言葉による創造ですし、
あとその創造されたものを、
神様は良いものと見られている。
良しとされた。
そして3つ目、これが一番今日大事ですが、
神はそれを分けられたということです。
この分けられたというのは、
創造の1日目から3日目に書かれている言葉なんですが、
創造の身技って7日目が休みですけれども、
3日間とあとの3日間できれいに区分されるんですね。
最初の3日間は何をするかというと、
神様は言葉によって世界を創造し、
それを分けるという作業をされるんです。
それは見ていただいたらお分かりかもしれません。
第1日には光と闇を分けます。
そして第2日目には空と海を分けるわけです。
大水を上と下に分けられる。
そして3日目には、
その下の大水を大地と海とに分けられるのですね。
分けるとは一体何を意味しているのでしょうか。
これは一言で言うならば、
秩序を創造しているんですね。
2章にありますけれども、
地は膨沢として何もなかった。
闇が大水の表の上にあった。
膨沢として何もなくという言葉は、
いろいろな解釈がなされますが、
簡単に言うならばこれは、
ゴチャゴチャになっていたということです。
カオスの状態でゴチャゴチャになっていた。
そしてそのゴチャゴチャの中に、
神様は秩序を作って整えていく。
そのために分ける。
私は皆さんに2階の牧師室を見せられないんですが、
ゴチャゴチャなんですよね。
でも大概、部屋も掃除するときって
皆さんも覚えあるでしょうけれども、
ゴチャゴチャの部屋を掃除にするとき、
だいたい最初にまず分けるじゃないですか。
これは台所のもの、
これはまず洗濯機に入れるだとか、
これは本棚にしまうだとか、
まず分けますよね。
分けた後にそれをちゃんと整えていく。
神様が創造でなさっているのも、
実はそういうことなんですね。
場所を分けながらそうすることで、
ゴチャゴチャになっている混沌の世界に
生活の場所を生み出していかれる。
そして神様はそのようにして、
まず命が済む土台を整えていかれるのです。
あだかも愛する子供を迎えるために、
部屋を完璧に整え、
必要なものを買い揃えていく親のように、
細心の注意を払いながら、
この3日間で分けて整えていかれる。
そして4日目から6日目に書いてあるものは何でしょうか。
この分けた世界に命を満たしていくんですね。
太陽と月という時間を、
というかそういう周期を作りながら、
その後には海と空と、
そして大地に動物と植物を満たしていく。
命がそこに満たされていきます。
そしてその創造の冠として6日目に作られたのは人間です。
人間が最後に創造をされました。
特に創世記を見ると分かるのは、
人間は他の動物と作られ方が微妙に違うということです。
人間の創造の出来事は26節に書いてあります。
1章の26節に、
神は仰せられた。
さあ人を我々の形として、我々のに姿に作ろう。
こうして彼らが海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、
海の上を這うすべてのものを支配するようにしようと言われて、
主は人間を創造されました。
人間は神の形に創造されているというのは、
聖書を通してとても大事な概念です。
人は神の形に創造された。
いわば胃がたでスポッとくり抜かれるように、
神様の肩にポーンと人間は抜き出された。
それはなぜか、他の動物とは違い、
人間はこの世界にある動植物も含めて、
非存物全体と言いますけれども、
それを神様と一緒に支配をするためである。
支配というのは、これは昔誤解されて、
人間がこの世界何してもいいや、みたいな取られ方をしましたが、
そうではない。これは元の意味は、管理する。
神とともにこの世界を管理するものとして、人間は創造されました。
いわばこれは、人間にしかできない特別な重大な役割を果たすものとして、
人間は創造された。大事に大事に創られた。
そしてこの創造したすべてのものを見て、神様が31節に言われたことは、
神は自分が創ったすべてのものを見られた。
みお、それは非常によかったと言います。
非常によかった。
よかったという言葉、これはヘブル語で頭部という言葉ですけれども、
これは機能的に従前に動いているということも意味します。
神が創られた世界は、とても美しく、そして機能的にも美しく、
従前にそれは綺麗に動いていた。
人間が共に治めるということも従前に動いていた。
神様の計画通り、完璧な秩序を持って存在し、
動いているこの世界に対する非常によかった。
創造の目的:神の栄光のために
神様の深い満足の言葉ですよ。
ああ、本当にいいものができたですよ。
それが創造のこの身技です。
こう見ていくとわかりますが、世界の最初はカオスなんですよ。
混沌としてごちゃごちゃとしている。
しかしそれが、神様の言葉によって美しい秩序ある世界、
意味のある世界になっていったのですね。
そしてその創造の冠は人間です。
神様がこの箇所を見るときに私たちが思うのは、
神様は人間が創造されたその瞬間に非常にいいと言っているんです。
私たち人間が何かを成し遂げる前にです。
私たちの存在そのものを見て神様が言われたのはめちゃくちゃいいなんです。
あなたはとてもいい。
それは私たち人間存在もそしてこの世界も根底的には、
神様は肯定的に見ておられるんです。
神様はこの世界を素晴らしいものとして創造したし、
素晴らしいものとして見ている。
だからこそそれが崩れていくのを心痛められるのでしょう。
ご存知だと思いますが、創世紀の3章で、
人間がこの後善悪の知識に目をたべて崩れていきますね。
第一は呪われますね。
それは何か、秩序立てて美しく作られた世界が逆戻りしていくんですよ。
混沌へと向かっていく。
そしてそれは旧約聖書の歴史を見ていったらよくわかりますね。
混沌としていく。
そして混沌とした世界がまた秩序立てて回復していくのは何によるのか。
イエス・キリストという神の言葉によってです。
初めに言葉があった、言葉は神と共にあった、言葉は神であった。
実はこれはヨハネの福音書の1章につながるんです。
そして私たちはそのイエス・サモン主としている、
実は私たちも共にこの世界の秩序のごちゃっとしたものを分けて回復していくものへと招かれていく。
ただ1つ目のポイントだから私たちは、
まずこの私たちという世界と想像は神様の愛によって肯定されている美しい世界なんだ、
美しい私なんだということを受け止めたいと思います。
ただもう1つ進んで目を向けていきたいのは、
じゃあ私たちは一体何のために想像されたのかということです。
2つ目のポイントは、私たちは神の栄光のために想像されたというのが聖書の語ることです。
イザヤ書の43章に書いてあります。
ちょっとお開きいただけるでしょうか。
イザヤ書の43章、有名な箇所ですね。
イザヤ書43章の1節から7節というところをちょっとお読みします。
旧約聖書の1237ページ、1237ページの下の段にあります。
イザヤ書43章の1節から7節というところをお読みいたします。
だが今主はこう言われる。
ヤコブよ、あなたを想像した方。イスラエルよ、あなたを形作った方が。
恐れるな、私があなたをあがなったからだ。
私はあなたの名を呼んだ。あなたは私のもの。
あなたが水の中を過ぎる時も、私はあなたと共にいる。
川を渡る時も、あなたは押し流されず。
火の中を歩いても、あなたは焼かれず。
炎はあなたに燃えつかない。
私はあなたの神、主、イスラエルの聖なるもの、あなたの救い主であるからだ。
私はエジプトをあなたの身の代わりとし、クシュとセパをあなたの身代わりとする。
私の目にはあなたは高架で立っており、私はあなたを愛している。
だから私は人をあなたの代わりにし、国民をあなたの命の代わりにする。
恐れるな、私があなたと共にいるからだ。
私は東からあなたの子孫を起こさせ、西からあなたを集める。
北に向かっては引き渡せといい、南に向かっては引き止めるなという。
私の息子たちを遠くからこさせ、娘たちを地の果てからこさせよ。
私の名で呼ばれるすべてのものは、私の栄光のために私がこれを創造した。
これを形づくり、またこれをつくったと語られます。
私たちは一体何のためにこの世界に創造されたのでしょう。
何のために私たちは生きているのでしょう。
単にこの世界を創りました。単に私たちは生きています。
それだけの理由で創られたと聖書は書いていませんね。
神様がここで言われたのは、私の栄光のために私がこれを創造したと語られる。
栄光のために。
神様の栄光ということを聞きますと、何か捉えようが難しいものかもしれませんが、
簡単に言うならば、いわば神様の素晴らしさ、神様の清さ、慈しみ深さ、そして圧倒的な愛が、
人間をはじめ、この世界全体を通して目に見える形で表されたということです。
神の栄光を表すために創造したというのは、神様の素晴らしさをその存在を通して表すために私たちは創造された。
聖書の神学の世界に一般啓示と特殊啓示という言葉がありますが、
一般啓示というのはまさに神が作られたこの世界は全て神の素晴らしさを啓示しているとする立場です。立場というか理解です。
私はそれはその通りだと思います。
私たちは春になって花が咲くじゃないですか。桜を見るじゃないですか。美しいなあ、素晴らしいなあ。
でもそれは神様って素晴らしいなあということですよ。神様って美しいなあということです。
そしてそのために世界は、そして私たちは創造されました。私たちもそうです。
神様は全能のお方なのです。来週見ますが全能の神です。
しかし全能の神というお方はたった一人、茫漠な世界の中でいることを望まれたお方ではない。
神は同時に愛なのです。愛であるということは対象を求める。対象を求めるというのは何か。
そのためにこの世界も人間も創造された。神の愛の対象として、神と愛の関係に生きるものとして創造された。
そのあふれんばかりの愛を分かち合うことを願われて、世界も人間も創造された。
神様に創造された世界も私たちも、この神様の素晴らしさを映し出すような鏡のようなものであるということが第二コリントで言われますね。
栄光から栄光へまるで鏡を映すかのようにということが書かれますが、まさにそうですよね。
そして私たちは福音書を前まで見ましたが、このことを完全に体現されていたのはイエス様でしたね。
イエス様がご自身で言われました。私を見た人は父を見たのですと。
その通りに、イエス様は父なる神様との愛の交わりに行きました。
イエス様を通して父なる神様の慈しみ深さ、人々へ届いていく勇気も愛も行動も全てが表されていきました。
そして罪人を救うために自らの命の中でも捧げられたあの十字架に向かうその生き様も、全てそれは神様の栄光を豊かに表すものでした。
主の素晴らしさを表すものでしたね。
この方を受け入れた人々、すなわちその名を信じた人々には神の子供となる特権を与えになったと聖書は語ります。
神の子供として生きる、神を信じて神の子供となるということを聖書は語ります。
でもそれは何か特別なものになろうということではないです。
あなたを作られた神様の本来あなたに作られたその素晴らしさを生きていきましょうということなんです。
あなたの創造のうちに神が宿したあなたの素晴らしさを神の前に回復させられながら生きていきましょう。
断絶ではなくて愛をもって生きていけるものへと回復させられていきましょう。
それを通して神様って素晴らしいなということを表していきましょうということです。
ただ私たちは神の栄光のために生きると聞きますと何か特別なことをしなければならないと思いがちです。しかしそうではありません。
私たちが神の栄光を表して生きるとはどういうことか。
それは今日のイザヤ書の43章の1節にありますが、
恐れるな。私があなたをあがなったからだ。私はあなたの名を呼んだ。あなたは私のものであるというこの約束ですね。
そう言われる神様の約束。そしてとても有名な言葉です。
私の目にはあなたは高下でたっとい。私はあなたを愛している。
神様の栄光を表すというのは何か特別なことをしなければ栄光が表されないということではないでしょう。
むしろ、あえて言うならば、Doingで表すことばかりではない。
むしろ、私が神様の前にどういう存在であるのかということを喜ぶことが栄光を表すということなんです。
いわばBeingってやつです。
私もKJKというところで叩き込まれたのは、キリスト社はDoingよりBeingだということです。
何をする以上にあなたは神様の前にどういう存在として見られているのか、それをちゃんと先に受け入れましたかということです。
それは私たちは書いてある通りです。神様の目に高下でたっといんですよ、私たちは。失敗もするし罪も犯す。でも高下でたっといんです。
そしてそれをアーメンとあなたは受け入れましたかということです。そこからしか始まりませんよ。
そしてそのようにDoingがいつでもBeingから始まるように、神様に愛されている存在であるという事実を喜ぶところから、私たちの歩み、栄光を表す生き方は始まってまいります。
そのように生きる姿そのものが作り主の素晴らしさを指し示す栄光となっていく。神様を喜ぶんですよ。
エペソーションの2章の10節には、私たちは神の作品として創造されたということも書かれます。
私は芸術に疎いですが、しかしおそらく優れた芸術作品というのは、その作品を見たらその背景に作り手の熱というか、そういう素晴らしさが、才能や感性が見えてくるんじゃないでしょうか。
私たちは神に作られた作品です。そうであるならば、私たちはよく卑下しがちですが、私はダメだ、私はダメだ。
でも、この世はあなたを見て神様を見るんです。あなたを見て神様を見る。
神様との愛の関係の中で生き生き歩む中で、そこに神様の栄光が最も美しく輝き出てきます。
それは人間もそうでしょうし、改めてこの世界すべてがそのように作られています。
一つお話をしてもう終わりますが、神が天地の作り主であるということに、みなが恐れる異形の念を持った、人類全体が異形の念を持った出来事が一つあります。
それは1968年、もうご存知の方もいらっしゃるでしょう。アポロ8号が月面の周回を帰ってきたその出来事です。
私は87年生まれなのでリアルタイムじゃないんですが、アポロが地球から飛び出してですね、月面の周回を回って帰る、有人飛行で帰るという奇跡みたいなそのようなミッション。
そして確実に月の周回をこうやって周回をするときに、月の陰に入るときは、それは真っ暗の世界で地球との通信が途切れるんですね。
しかしその月の陰からアポロ8号がこう顔を出してきたときに、地球との通信が回復する。
そのときに有名なアースライズと言われるんですかね、青い青い地球が月の陰から撮られたという写真があるんですよ。またネットで見てみてください。
美しいんですよ地球が。めちゃくちゃ美しい。それはまさに真っ暗闇の宇宙の中に、死の世界の中に一つだけそこに存在する宝石箱みたいな、そのような美しい地球がある。
そのときに宇宙飛行士の方が地球との通信が回復したときに最初に言ったのは実は創世記の一章なんですよ。
地球の皆さんこんにちは。初めに神は天と地を創造した。から始まる創世記の一章を読んでいった。
私は宇宙に行ったことがありませんので感動が言葉自体にしか分かりませんが、しかし真っ暗の死の世界の中で地球というのは奇跡そのものです。
命がそこにあるのは奇跡そのもの。
彼らが目指した月も美しく輝きますが、それは地球の美しさの日ではないのです。
私たちは日々その地表に立ってますから、そしてそのところで見る人間関係しかありませんから、その美しさを忘れがちかもしれません。
しかし私たちが生きるこの世界、そして私たちという存在は偶然では説明できない、美しく神に創造された存在である。
そのことはおそらくどこか、そういうタイミングに気づくときがあるのではないでしょうか。
神の愛によって守られ、神の栄光を映し出し、神によって良しと宣言された世界に私たちは生きている。
私たちは暗黒の宇宙の中にあって、そこだけ神の配慮によって整えられた、その世界に生きている、神に愛されている命そのものなんですね。
私は天地の作り主を信じるという告白を今日は見てまいりました。
そのような世界と私なんだということに、アーメンというのが実はこの告白を告白するということでしょう。
私たちは何かね、自分で自分のことを否定しがちですが、しかし私が今呼吸をしていること、野に咲く花が美しいこと、絶望の淵にあってもなお今日も生かされているということ、
そのすべてはあなたの人生を良しとされる神様の愛の眼差しそのものであり、あなたを通してご自身の栄光をあらわそうとしている神様の熱情のあらわれにおかなりません。
最初の話に戻りますが、私たちは、声を大にして言いましょう。偶然の産物ではありませんよ。私たちは偶然の産物ではない。
意味のない漂流者でもない。神がその栄光を分かち合うため、最高の知恵と愛の配慮を尽くして作り上げられたかけがえのない作品である。
たとえ世界が、そして時に自分自身が、私なんかには価値がない、そう呟いても、作り主である神様が今日私たちにおっしゃられる。
あなたは私の目に光華でたっとい、あなたは非常に良い。あなたは非常に良い。
そのことをアーメンと受け入れますか?そこなんです、今日は。そのことをアーメンと受け入れますか?
共に私たちは、私は天地の作り主を信じると告白をいたしましょう。あなたの存在こそが、神様の愛を明かしする光であることを覚えましょう。
一言お祈りをいたします。
31:41

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