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2026/04/12:岸辺に立っておられる主
2026-04-12 19:55

2026/04/12:岸辺に立っておられる主

2026/04/12 聖日礼拝

加藤歩名牧師

ヨハネの福音書 21:1-19


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サマリー

復活のイエス様と出会った弟子たちは、漁の失敗や自身の弱さから戸惑いを感じていました。しかし、イエス様は岸辺に立ち、彼らが気づく前にすでに共にいてくださいました。イエス様は、弟子たちの失敗や弱さを責めるのではなく、温かい食事を用意し、愛をもって語りかけ、羊を飼うという使命を託されました。イエス様は、私たちの弱さを知った上で「私に従いなさい」と招いてくださり、その招きは私たちを生かす最高の約束です。

礼拝の始まりとイースターの振り返り
お祈りをお捧げいたします。
天の神様、主の皆を賛美いたします。
先日私たちはイースターを迎え、
イエス様の復活を喜び祝いました。
十字架にかかられたイエス様は死に討ちかかれ、
よみがえられた。
今や復活のそのイエス様の命が
私たちに及んでいることを覚え、
はかり知れない神様の御業を
褒めたたえ感謝いたします。
今朝も主が愛しておられるお一人を一人とともに
御前に集められ、
礼拝の恵みに預からせていただいています。
主の前に共に安息を得、
共に養われることを願います。
どうぞこの時を導いてください。
御言葉の時を感謝いたします。
神様が私たちに恵みをお語りください。
イエス様の皆によってお祈りをいたします。
アーメン
先週私たちはイースターを迎え、
主の復活を共に喜び祝わせていただきました。
可愛いイースターエッグと共に撮った写真は
もう注文してますので
来週には皆さんにお渡しできると思います。
とても皆様の笑顔が素敵なお写真でした。
また今日は無事天気が守られたと思います。
午後から御前礼拝に向かいたいと思います。
先に召された方々を思い、
よみがえりと再会の希望を覚えて
礼拝の時を持ちたいと願っています。
日常への回帰と弟子たちの戸惑い
さて、華やかなお祝いの後に
必ず訪れるものがあります。
それは
いつもの変わらない日常です。
復活の主を喜んだ
さて、その後自分は
どう歩んでいこうか。
今日の歌書は
そんな私たちの問いに静かに
深く答えてくれると思います。
すみません、今日も長い歌詞を読んでいただいたなと思いますが
今日の歌書に登場するのは
ペテロをはじめとする弟子たちです。
彼らはすでに
復活のイエス様と何度かお出会いしていました。
しかし彼らの心にはまだ
戸惑いが残っていたように思います。
3節を見ますとペテロが言いました。
私は寮に行くと。
他の弟子たちも私たちも一緒に行くと
船に乗り込んで寮に行ったのです。
ペテロはかつて漁師をしていたことはご存知だと思います。
イエス様に従う中で
しばらく離れていた
かつての自分の生活に
ここで戻っていったということです。
イエス様の復活を見た後ならば
本来ならば
喜びにあふれていても良さそうなのに
なぜかこの歌詞はどこか陰りを感じさせてきます。
3節にあるように
その夜は何もとれなかった。
一晩中かつての経験を頼りに
ペテロたちは網を下ろしましたが
一匹の魚もとれなかったのです。
夜の湖の冷たさ
網を引き上げるために感じる
手応えのなさ
彼らの心には
こんな思いがあったかもしれません。
これからこんな自分は
どうやって生きていけばいいのか
こんな自分に
何ができるのだろうかと
彼らの中には
迷いと虚しさがあったと思われます。
これは私たちにも
重なるところがあるなと思わされるのです。
大きな恵みを経験しても
教会の外に出れば
いつもの生活
いつもの悩みが待っています。
それはまるで
ペテロたちが見つめていた
空っぽの網を見つめるような
現実なのかもしれません。
岸辺に立つイエス様
でも
その夜が明けようとするときに
イエス様は岸辺に立っておられたと
聖書は書いてあります。
弟子たちは最初
それがイエス様だとは
わからなかったと書いてあります。
そこにおられるのに
すぐそばにおられるのに
気づくことができなかった。
ネガティブな表現に聞こえますが
ここには大切な慰めがあるな
と思わされているのです。
それは
イエス様は
私たちが気づくよりも前に
ずっと前に
すでに私たちの現実の
ただ中に来ておられる
ということです。
私たちは苦しいとき
神様はもうどこかに
行ってしまわれたのかと
神様はどこにおられるのですかと
叫びたくなります。
でもイエス様は
そんな私たちを遠くから
見ておられるのではないのです。
岸辺に立っておられる
イエス様
私たちが網を引く
そのすぐそばで
人生の岸辺に静かに
立っておられるお方です。
弟子たちが誰も気づけなかった
というのは
イエス様は特別な姿ではなく
ごく普通の人として
イエス様の言葉に従い、大漁を得る
そこに立っておられた
私たちの何気ない
日常の中に
溶け込むようにして
共におられるということです。
特別な奇跡
目に見える
印がないときでも
静かな臨在を持って
イエス様は私たちと
共にいてくださっています。
さてイエス様は
この福説を読みたいと思います。
イエスは彼らに言われた
子供たちよ
食べる魚がありませんね。
彼らは答えた
ありません。
イエスは彼らに言われた
船の右側に網を打ちなさい。
そうすれば取れます。
そこで彼らは網を打った。
すると
おびただしい数の魚のために
もはや彼らには
網を引き上げることができなかった。
かつて漁師だった
彼ら
誰かわからない
その人の言葉に
長年のプライドを捨てて
その一言に
小さく従ったときに
網が破れんばかりの魚が
取れた。
これは弟子たちにとって
何か思い出す出来事が
あったと思います。
デジャブだったと思います。
それは
ちょっとお開きできる方は
共に読みたいと思いますが
この
ルカの福音書5章
において
イエス様が
行ってくださった
大量の奇跡です。
炭火と食事の準備、イエス様の愛
ルカの福音書5章
4節から6節を
お読みいたします。
話が終わると
シモンに言われた。
深みに漕ぎ出し
網を下ろして魚を取りなさい。
するとシモンが答えた。
先生私たちは
網に一つ取れませんでした。
でもお言葉ですので
網を下ろしてみましょう。
そしてその通りにすると
おびただしい数の魚が入り
網が破れそうになった。
これは彼らがまだ
本当に漁師だけをしていた
時の話です。
あの時も何も取れなかった。
でも
主の言葉に従った時
それが満たされた
という経験。
この記憶が
よみがえった。
そして彼らは
主だと言ったのです。
主だ。
はっとさせられ
イエス様を思い出したのであります。
さて弟子たちが
岸に上がっていきました。
するとそこには
炭火が起こされ
魚とパンが用意されていました。
パチパチと火のはぜる音や
魚の焼ける匂いが
そこにはあったと思いますが
これこそが
主の深いご愛だな
と思わされます。
私は個人的には
ペテロの裏切りとイエス様の赦し
この場面が大好きです。
弟子たちが魚を
取る前から
帰ってくる前から
イエス様がすでに
食事を準備してくださっていた
ある方が
この場面のことを
このように分かち合ってくださったのが
私は印象に残っています。
その方はこう言いました。
私はずっと
この場面を見ていて
イエス様は何か
魔法のように炭火を起こされ
魚を用意されていたと
今まで思っていました。
チャラーと手を伸ばしたら
もうそういうのが備わるような
そんな魔法をイエス様は
行っていたと思っていました。
でも今は
心を込めて
一から火を起こし
魚を取り
パンをこね
私たちと同じように
手間をかけて
ご用意くださった
そんなイエス様の姿の方が
今の私は想像できます。
その方は
そんなように分かち合ってくださったのです。
イエス様が自分のために
朝早くから
そんな風に動いて
準備してくださっていたと
想像すると
とても心が温かく
嬉しくなると思います。
さあ朝の食事をしなさいと
使命の委託と従うことの意味
イエス様は言われました。
聖書において
食事を共にするとは
あなたは私の家族だ
という受け入れの印です。
イエス様は
私たちが何かの役に
立つことよりも
まず
イエス様が備えてくださる
恵みを受け取り
そこで
安心していこうことを
求めておられるお方です。
まずゆっくり休み
失礼しました。
まずゆっくり休み
家族として
イエス様と安心する時間を
過ごしてほしい。
さてそういう温かい光景が
見える場所であるのですが
同時に
この時のペテロの心が
どうだったかも
私たちは知りたいと思います。
ペテロにとって
この時間は
ただ温かい喜び
の時ではなかったと思うのです。
ペテロは
岸辺に上がって
炭火を見た時
体が
一瞬すくんだかもしれません。
それはあの
忌まわしい夜
自分が死を
知らないと裏切った
その時に当たっていた火と
同じ音がしていたかも
知れないからです。
イエス様を三度も知らないと
言ってしまった
自分の記憶を
ペテロは抱えていました。
でもそんなペテロに対して
イエス様は
彼を責めることは
なさいませんでした。
用意されたのは
温かい食事と炭火
主が用意されたのは
裁きの火ではなく
凍えた体を温める
空腹を満たすための
愛の火でした。
もう自分はだめだ。
もう何もできない。
そう思う時が
私たちにはあると思います。
でもイエス様は
そんな私たちに
私の備えたものを
食べなさい。
ゆっくり休みなさい。
私はあなたと
共にいると
語りかけてくださるのです。
さあペテロのことを
休ませてくださった
イエス様は
この後このように
問われました。
十五節から
十五節をお読みします。
書き括弧のところ
ヨハネノコシモン
あなたはこの人たちが
愛する以上に
私を愛していますか。
そしてこの後も
ヨハネノコシモン
あなたは私を愛していますかと
三度問われたわけです。
ペテロが三度
イエス様を否んだ失敗を
その傷跡を
一つ一つ触れて
癒すために
再度イエス様は
ペテロに問われました。
あなたは私を愛していますか。
イエス様は
ペテロのことを
失敗する前の
まっさらな状態に
戻そうとされたわけでは
ありません。
失敗を知り
自分の弱さを知ったペテロを
そのまま新しく
戻されたのです。
もし失敗がなかったら
ペテロは自分の強さで
歩み続けたかもしれません。
でも今
自分の弱さを知ったからこそ
彼はこの後
他人の弱さに寄り添える
没解者へと
変えられていきました。
死は私たちの過去を
なかったことに
されるお方ではありません。
思い出したくない
過去の記憶も
すべて包み込み
新しい祝福へと
変えてくださるお方です。
そして三度
ペテロに問われた後
イエス様はこう
ペテロに託されました。
私の羊を飼いなさいと
私の羊を飼いなさいと
これは特別な能力がある人への
命令ではありません。
死を愛するという
私たち
一人一人に与えられている
招きです。
この長い人生の中で
誰かのために
祈り
寄り添い
そこに存在し続けて
来られた方が
たくさんおられると思います。
それはもうまさに
主の羊を飼う
という尊い働きを
してこられた
ということだと思います。
この歩みは
教会にとっても
イエス様にとっても
私たちは忘れないで
いたいと思うのです。
私たちはもう
主の羊を飼う
働きへと
召されまたそれを
行っているお互いです。
そして最後に
イエス様はペテロに言われました
十九節
私に従いなさいです。
私に従いなさい。
この言葉は
かつてペテロが
網を捨てて
最初の日と
同じ言葉です。
マルコの一章の十七節に
イエス様はペテロに向かって
私について来なさい
とおっしゃった
記事があります。
このペテロに語られた
今ペテロに語られた
私に従いなさいは
より深い意味が
込められていると思います。
それは
自分の強さで頑張って
ついて来いではありません。
あなたを知っている私が
あなたを支える
だから安心して
ついて来なさい
そういう招きです。
もう年だから
もうできることは少ない
そう感じられる時が
あるかもしれません。
しかし主に従うということは
今日与えられた
その場所で
今の私が
主の愛を信じて
一歩踏み出して
十字架で
イエス様ご自身の
命を持って
貫かれた
私への愛を信じて
私たちは今日
生きるのです。
主は今も
岸辺に立っておられます。
私たちが
網に大量
網に魚でいっぱいの
時にではなくて
空っぽの網を見つめている
ような時に
そして私たちを見つめ
静かに
でもはっきりと言われます。
私に従いなさいと
私たちの人生は
終わりに向かっているのではありません。
復活の主によって
日々新しくされ
養われ
次の一歩へと
導かれている途上です。
そうして焦りを
感じる時にも
過去の後悔に
心とらわれる時にも
イエス様は
岸辺に立って
私たちを見つめておられます。
さあ食事をしなさい
私に従いなさい
そう招いておられます。
この言葉は
ただの命令ではありません。
私たちを生かす
最高の約束であることを
覚えたいと思います。
一言お祈りをいたします。
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