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2021-02-14 38:05

2021/02/14:そこにイエスを見た

2021/02/14 聖日礼拝

斎藤亘師

ヨハネの福音書 -18

00:02
おはようございます。
2月半ばを迎えておりますが、私の記憶の中でも、この時期でこんなに暖かい日曜日・聖日を迎えたというのはあまりないのではないかと思うくらい、大変暖かい日を、そしてまたこの礼拝を迎えできて大変感謝しております。
皆さんも祈っておられる、ユン先生もこうして1回、2回という治療のその工程を終えて、そして退院されて、これから通院でもって第3回目の抗がん剤治療に入るということを聞いておりますので、
なお私たちは慎重にこのことを覚えながら、その1回1回が最善であるようにと願っており、またお祈りを続けていきたいとお願いしております。
一言お祈りをいたします。恵み深い一生を、こうして温かな2月半ばのこの聖なる日を、主の日を共に迎え、礼拝を捧げていきますこの幸いをありがとうございます。
ユン先生もこうして思いもしないような病気と、また入院と、そしてまたなおこれからも続くであろう治療の中にあります。
そうした中でこのようにお会いしてくださって、一緒に礼拝、お見舞いにお捧げできるこの幸いをありがとうございます。
すべてをお見せのある主がこの中に共にいますことを、そしてまた私たちの必要とするものを、そこにこの答えとしてご臨在くださっていることを覚えます。どうぞ導いてください。
とうとう主の皆によって、一言お見舞いにお捧げいたします。
今朝のこの歌唱は、皆さん方もよくご存知のインスタメッセージでよく開かれる歌唱の一つであります。
ですから私もインスタの時に、あるいはその後に、この歌唱からいくつか教えられたところを御用したことがありますが、
今朝改めて読んで、そして私たちにとってこのイエス様がよみがえられたということはどういうことなのかということを確認しながら、私たちの信仰をそこに備えさせていただきたいと願っております。
03:00
最近は、私もいくつかの理事会や、あるいは委員会などに加わっておるんですが、最近はオンラインで、特にZoomを用いての会議でありますので、話が食い違ってしまったり、重なってしまったり、いろいろありますけれどもね。
しかしそういう形であれ、この1年間そういう形での会議が行われてまいりました。
その中でお一人、私も少し1歳、2歳、3歳の若いのでしょうかね、この先生が思いもしないようなコロナに遭いまして、そしてそれからの大変苦しい期間があったようでありますが、
ご自分でその病室でおって、静まっておりますときに、もう何もできないわけですから、それから部屋を出るわけにもいかないので、もう隔離されたような、そういう中で、どこも探していけません。
なんなく歩いてくださいと看護婦さんが言うもんですが、その通りやりましたと言って、ちょっと苦い笑いされておりましたけれども。
そのときに目想をしながら、改めて思ったことは、この創世記の一章には神様の早々の業がずっと書いてあります。
その一日が終わるときに夜が来て、そして朝が来るという、そういう閉じ方と言いましょうかね。
そのときに、なぜかこの言葉が深く自分の心に留まった。
私も思い出すのですが、新学生のころに、祈祷会のときに、まだ一年生だったかな、そういうときだったと思いますけれども。
この夜が来て、そして朝が来る。
そのときに私も同じようなことを、私の場合の感じ方はちょっと違うんですけれども、
なんでこんな当たり前のことが、こんなふうに毎日毎日聖書を書いているんだろうか。夜が来て、そして朝が来る。
そういう自分のそのときの疑問というのでしょうか、そういう思いを、
ですから証ではなくて、なんでなんだろうかという証をいたしました。
しかし、そのときにおられましたこの沢村五郎という先生が、じっとこちらに見ましてですね、
06:05
なんかまずいこと言ったのかなと思いながら、ちょっと頭をすくめるような感じで、首をすくめるような感じで、先生どうしちゃうんだろうか。
そしたら、そうだね神様は、当たり前のことを当たり前のようになさる方だ。夜が来て、そして朝が来る。
しかし私たちは、ときに朝を迎えて、そして夜私たちは大きな失望の中でもって、
ああ今日もこんなになってしまったという、そういう思いを持つんじゃなかろうか。
でもその夜が終わって朝が来るということは、本当にこれは、言うならば聖書らしい表現であり、また大きなメッセージをそこに表しているんだ。
なんかそういう意味のことを教えたことを心に残っておりまして、朝が来てそして夜が来る、これは私たちの世界の当たり前のこと。
夜が来て朝が来る。その夜が来るというときに、そこに至るまでに、私たちはいろんなつらいことも悲しいことも、あとは喜ばしいことも、諸々のことを経験し、しかしそこでやがて一日が終わる。
けれども朝が来るという、これは大変素晴らしいことだな。どんな人にもこの朝が来る。
私たちは今朝、この2月にいらないようなと言いましょうかね、こんな穏やかな暖かなこの2月のその18時14日の朝をご一緒に迎えました。
皆さん方の中にはそういう方いらっしゃらないと思いますけどね。
はぁーと言って、夕べなんであんなことを言っちゃったんだろうか。あんなことをやってしまったんだろうか。
そういうこの失望の中でもって夜を迎えて、今晩眠れないかなと言ってエビキをかいて休みなさる方もいらっしゃるかと思うんですが。
けれども朝が来たらね、ああ今日もこういう新しい一日が来たと言ってこの心を新しく迎えていく。
私はこの復活というこの事実がですね、この朝が来るというところに、
今日のこのイエス様がおいてくださったその思いと言いましょうか、それを思うんですね。
弟子たちにとりましてはね、イエス様を裏切ったという忌々しいその日以来、
09:07
一日一日が、もうどん底のようなそういう思いの中で、暗い気持ちの中でもって、というのもどうにもならないんですね。
そしてこの箇所を見てまいりますと、この二十章の一節を見ると、
終の初めの日、朝まだ暗いうちにマリアさん、それからペトロ、名前は出ておりませんけれどももう一人の弟子という、
おそらくこれヨガネだろうと言われておりますけれども、この人たちがイエス様を棚敷の中でもって埋葬した、そこに行った。
ところが彼らは一体どうなんだろうか、別の箇所ではね、婦人たちが行った。
あの大きなね、墓の前に置いた石を、私たちのこの力ではとてもじゃないけれども、覗くできないし。
それよりも、その兵隊たちがね、何かこのイエスという、彼は生きている時に面白いことを言った。
だからそういうことが起きないように、見張っておこうというようなことでもって任命をされて、そして墓盛りをしていたわけです。
ですから行ったところで、あの人たちが私たちをむげにこの死霊の獣にしてしまうだろうとか、いろいろな思いで行った。
そういう、このイエス様の墓に向かう人たちの姿が各府県署にそれぞれに記されています。
ここではマグダラのマリアと、それからシモン・ペトロ・ヨガネ、彼らが行った。
ところが、そこには墓の出口を覆っていたその石が覗けられて、一体誰がどこへという、当然のこの思いでしょう。
その奥を見たら、イエス様をこのところに御遺体を王様にあたって、この衣服をそこにつけておりましたけれども、それがきちんと畳んで、そしてそのイエス様の御遺体はどこにもない。
誰かはきっとそういうふうにして、余生を持っていったのかわからないし、けどあの仏教の兵隊たちの目を朝向いて、そんなことができたんだろうかなという思いで。
そういうところですよ、ここね。
けれどもこのペトロとヨガネは、その現場を見ても、イエス様が復活されたという、そこには思いがいたなかったみたいです。
12:11
ただ悲しみの中にあるこのマグダムのマリアさんだけは、そこに残って、そして一体どうなったんだろうか。
イエス様はどこに連れ行かれたんだろうか、そうした人の気配を感じた。
しかも彼女に向かってなぜ泣いているのか、彼女はそこでもっと自分の思いをそこで話したようであります。
ただここに14節、彼女はこう言ってから後ろを振り向いた。するとイエスが立っておられるのを見た。
しかし彼女にはイエスであることがわからなかったと書いてあります。
彼女の後ろに復活されたイエス様がそこにおられた。
その方を見ているのですが、この見たという、このギリシャ語の意味の中にはなんかぼやーっと見ている。
実は私はこれは手前の聖書とか原稿を見るのにはいいのですが、皆さん方の顔はこうしないと見えないのです。
ぼやーっと見えているので、皆さんがぼやーっとしているのではないでしょう。
こっちのメガネがそういうメガネなものですから大変失礼なんですけれども、
しかしマリアさんはそんなメガネをかけておったわけではないでしょうけどね。
けれどもその方がどういう方か、まさかとも思わない。
ただぼやーっとこう眺め見るような感じでもって見たんでしょうね。
しかしその後の彼女に対するイエス様の呼びかけから、マリアはその方がどういう方かということを知ったときに、
ラボに行って、イエス様に今日できるなら拍手をとしたんでしょうね。
そしたら触っちゃいけないと言われて。
でもこのことが彼女の、この時から彼女のイエス様に対しての思いが大きく変わった。
葬られたイエス様じゃなくて、よみがえられたイエス様。
私は後ろを振り向いたとするとイエスが立っておられるのを見た。
15:01
親とであっても、しかし自分の背後によみがえられたイエス様がいらっしゃったということに、
改めてこの後のやりとりでもって気づくわけです。
私は復活のイエス様は、ここにも大切なメッセージとして私たちにお与えくださっていると思うんですね。
弟子たちにとってもそうです。マリアさんにとってもそうです。
悲しみのどん底の中でもって、もはや行き場を失ってしまった彼らは、一体この後どうしたらいいんだろうかという。
しかも弟子たちからそうならば、特にペトロからはそういうならば、
この方をミスミスとらわれ人にし、そしてまた十字架につけられるということをそこで目撃していながら、どうにもできなかった。
他の弟子たちも同じです。
彼らはイエス様が捕らえられたということを知った時から、もうクモの子を散らすように、その関わりを恐れて、そして去ってしまった。
こういう過去というもの、愛してやまないその方を裏切ったというこの思いは、弟子たちも、
そしてマリアさんにしても深い惨機の中にあったとも、これはどうにもならない事実ですよね。
ちょっと話が変わりますけれども、もう何十年、四十年、五十年も前の話でしょうかね。
当時大きな不安と、そしてまたどうなんだろうか、どうなったんだろうかという、そういう思いもしないような大事件が起きまして、
吉野部ちゃんという、あるいは名前を聞いて思い出される方もいらっしゃると思うんですが、その犯人はこの男の子を捕らえ、誘拐して、
そしてこの親元に、男が身に着け取ったものを送っては、いかにも生きているかのようにして身の白気を取る。
随分と新聞を、ニュースを賑わした悲惨な事件が起きました。
18:01
後に、時間がかかりましたけれども、やがてその警察の手がですね、だんだん彼の身近に及んでいって、そしてついに逮捕される。
凶悪な、そんな顔つきのそういうものかという、その辺におられる、おるおっちゃんたちと同じ、変わらない。
ですから周りの人は、事件がだんだん赤みになってきて、何であの人が、そういうことでした。
けれど彼は、やがて、死刑の判決を受けて、その日を迎えていくわけです。
で、その時に、彼の残した辞世の句っていうんでしょうかね、非常にこの印象に残っているんですけれども、
おびたたしき、煙は吐けど我が過去は焼きてはくれぬ、ごみ焼却炉。
という、まあ彼の心情でしょう。とんでもないことをやってしまった。
その、お産後にとっても、また残された家族にとっても、またこのことによって世間を騒がしてしまった、この大勢の人々にも、
ああもう自分は、どうにもならないことをやってしまった。
彼の独業から、その焼却炉の手ぶりが立つのを、彼は見たのかもわかりません。
あのごみの方がまだね、幸せじゃないか。
けれどもそれに比べて私の、そういうとんでもない過去は、ごみ焼却炉と言うのも、焼いてはくれない。
いつも大きな大きな重荷が、自分を抑え込んでしまっているという、そういう思いでしょう。
あのごみと一緒に、自分の過去も、本当はごみ焼却炉で全部、焼いてもらったらどんなに幸せかと、
彼はそんな気持ちで持ってその歌を、読んだのかわかりません。
私たちは、そういうどうにもならない過去という思いが、人それぞれにもあるわけですね。
弟子たちの、この場面においての彼らは、同じようだと思いますよ。
特にペテロは、イエス様が、やがて私が捕らえられていくということを、弟子たちに話された時に、
そんなことは決してさせません、というような、そういうことを、まあ賊っぽく言うのは、単価切った人ですよね。
21:06
ところが、それこそその舌が乾かないうちに、イエス様が言われた通りのことを、彼は自分の身に起きることを、そこで経験しました。
もう後悔しても後悔しても、どうにもならない。
ですから彼は、あのイエス様が、ペテロのところに連れて行かれて裁判を受けるという、その場に行った姿はどうなんだろうか。
何にも悪いことをなさっていないこの方が、どういう処置を受けるだろうかという、恐れ恐れついていった。
その時に、女中さんから、今あの人とあんた一緒じゃなかったの、これまでと言われて。
私はあんまり、あの人は係りがないんだとか、知らないんだとかという、3度もイエス様とのそれを、そこで断ち切った。
まあそういうことがありますから。
もう過去がなお続けて大きな、この過去として自分の身に起きてくるという、そういう経験の持ち主ですから、ペテロにとってこの忌まわしい過去。
もうできたらこれも、全部生産できたら、どんなにいいだろうか。
そのペテロの、いうならば、背後にもイエス様はおられたわけですよね。
この場面では、マリアさんの後ろと書いてありますから。
しかし、ペテロにとっても、その忌まわしい出来事と、そういうこの過去を何とか断ち切りたいと思っても、それも物足りない。
他の弟子たちも同じ。
私は、後ろを振り向いた。
そこにイエス様がおられた。
夜が来て、そして朝が来るという。
何かそこに、神様が私たちに対する思いやり。
それ以上の救い。
それは、旧約創世紀にもって記されている、夜が来て、そして朝が来るという言葉ながら。
まさに、イエス様の身を通して私たちは、経験させていただいている。
私たちの過去は、全部、夜とともにその方に魅せられている。
そして、宙飛河において魅せられている。
24:00
そして、私たちは、新しい復活されたイエス様と朝を迎える。
私たちは、何という復活が、私たちにもたらせている恵みというものを感じます。
イエス様の復活というのは、そのように、この膜棚のマリアニ・ヒロ、彼女にとっても消しがたい過去があったわけでしょう。
福井書では、彼女のことを、以前に、この女から7つの悪霊を追い出されたという、イエス様がなさった事柄をそこに書いておりますし、
ですから、そういういろんな曰くがそこにあったんでしょう。
でも、それだけに彼女にとっても、忌まわしい自分の過去に、イエス様は、よみがえられたお方として、改めてお立ちになって、そしてその過去の全部を引き取ってくださった。
そして、よみがえられたという事実をね、弟子たちのところに伝えに行きなさいと言われて、
彼女はもう来る時は足もむく、そしてもう気持ちもどうなんだろうか、という思いでもって、こう墓まで来ましたでしょう。
しかし、この方が自分の後ろに立ち、そしてマリアよと言って呼んでくださった、そこで私たちの死がよみがえられたという事を彼女は信じた。
ですから、この事を弟子たちのところに言って、私はイエス様によみがえられた事を、今、お目にかかったんです、私は信じたんです、と言って、そのそれをもたらせる。
後にして、昨日ならば、その夕方の時に、そういう彼女の話を聞いた弟子たちがそこに集まって、そして、へえ、へえ、と言ってですね、けどそんな事はないだろう、と。
もう少し後に出てくるこのトマスなんかは、たまたまそこに言わせなかったためにですね、私、あなた方がそれは信じたかしら、けど私には信じられないと言って、一人ですね、このイエス様がよみがえられたという事を否定したわけですよ。
それぐらい復活ということならば、当時の弟子たちにとっても、何回もそれを耳にしているにかかわらず、ペトロたちもこの墓場で生きながらでも、イエス様の御遺体が見つからなかったという、その事を当時の息子に、イエス様がよみがえられたという事には、心向かなかったんですね。
しかしイエス様は、彼らが集まるその中に、シャロームという言葉でもって、そこに臨んでくださったわけですね。
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そして、本当にイエス様がよみがえられたという事を、そこで彼らは一応信じた。
たった一人、そこに言わせなかった。トマスだけは、いやあ、と言って彼は、それを信じなかったんです。
しかし、やがてそのトマスにも、御自分が受けられたその傷跡を示しながら、そして言った時に、
我が主、我が神、と言ってトマスは、改めてイエス様に対する信仰を告白したわけですよ。
ちょっとあれですけれども、他の聖人の人たちは、イエス様の神聖という事を否定するわけですよ。
ですからこういう聖書にね、我が神という、全然違う表現の仕方でやってます。
けれども、この言葉はね、短いだけに、別の表現と言ってもその表現は当たらない。
それをね、エフマの聖人から救われてきた一人がその事を言っておりました。
この聖書の言葉だけはね、どう変えて別の自分たちの都合のようにやっても、そうならないんですよ。
彼らは、新世界約聖書という、そのエフマの聖人の聖書を持っておりますけれども。
けれどもしかし、トマスが言ったこの言葉は、信じることのできなかったそういう中から、復活の主にお会いし、
しかもその御手には十字架の印がそこにしっかりと記されている。
彼は思わずそこでね、我が主、我が神と、最高の信仰告白をここでしているわけです。
復活というのは、本当にこのような、どんな過去を持ってきても、あるいはどのような秘伝の中に置かれ、
あるいは周りがどんなに受け止めていても信じられなかった自分という、そういう中で、
それでもイエス様はね、そういう中で、彼の過去のためにも、振り向くとそこにイエス様がおられたという、この言葉に象徴されるように、
私たちの過去のすべての中に、あるいは私たちが置かれているそういう厳しい状況の中においても、
ふと振り向くと、ああ、イエス様だったと言って、その方をそこで礼拝し、我が主、我が神よと言って、
どのような礼拝と言いましょうか、そこで持ってます、このような礼拝を信じ続けている。
30:00
しかもそれだけではない。
このイエス様は、振り向いて、そしてそこで持って、初めて気がついたという、
確かに私たちの過去にも光を当てなさって、そしてそういう過去から私たちをお救いくださっている方ですけれども、
同時に、マリアに言われた、このことを弟子たちに伝えなさい、
特に私の兄弟たちと言ってますよね、本当に哀れに恵みを感じます。
自分のことを否定し、関わりを恐れて去っていった彼らを、それでも私の兄弟たち、
そう言って、そしてイエス様は、この事実を彼女に伝えなさいよと託される。
私はそういう意味で言うと、マリア様は、復活選挙の最初にそれをもたらせた人ではないかと思う。
私たちの信仰生活においても、復活という事実が、
それが信仰によって私たちのうちに本当に信じられ、理解された時に、
このことは、私だけのこととしては、とどめ起こることはできないわけです。
それを次の人にも次の人にも、復活のメッセージこそが、今日の教会をたらしめている。
教会の歴史は、そういう闇の時間も経験しました。
けれども、どのような中にも、復活されたこの方が、その教会をよみがえらせ、新たにして、
そしてそこからまた、さらにこの福音が伝えられて、そして私たちのうちに及ぶ。
もう時間がありませんが、私が新学校におった頃だと思いますが、
100万人の福音というのが、今もありますけれども、
週間次第ぐらいの大きい最初に出たのは、そういう雑誌でした。
私はその100万人の福音を読んでいった中に、
この選挙主たちが、南米のエクアドルで選挙に向かっているという、それを記しておりましたので、興味深くそれを読んどったんですね。
そうしたら、連続もので、それをずっと記録として、このノルハズが終わってしまった。
33:07
一体どうなったんだろうかなと思っておりましたら、
2ヶ月か3ヶ月か後の、その100万人の福音に、実は彼らは、そのアウフがそこの中に入っていって、
そしてそこで彼らは斬殺されたというような、殉教したという、そういうような事件ですよね。
私はね、私の今をこうしてクリスチャンとしておる、こんな時代でもそういうことがあるんだなと思って、
非常に印象に残ったんです。その後どうなったんだろうか。
ところがその後ですね、やがてこの選挙主たちの殉教のそれを聞いた人たちは、
アメリカの新学校においてそれがアピールされた時に大勢の献身者が起こされた。
ところがアウ家族に対してその福音の手を述べたのは、亡くなった選挙主たちの奥さんであるとかお姉さんであるとか、
彼女たちがこのアウ家族のところに行って、そして福音をその後主人が残した大切な使命としてそれを成した。
やがてアウ家族の中にクリスチャンがこの大勢を起こされた。
私はそのアウ家族の一人、東京の交絡園で行われたビリグラム先生の大きな集会にだったでしょうか、迎えられて、
そして、失礼しました、これはオランダのアムセルダムであった電動車会議の時に田舎から出てきたような一人の男性をビリグラムがそこで持って紹介した。
彼らは皆さん方も知っているようにアウ家族の、そしてまた大きな衝撃を与えた選挙主たちがそこで殺される、殉教するというような言葉がありましたけれども、その時の調本人なんです。
一人は一番最初に槍を向けた、今が犯人というわけでしょうね、法律的には。
けれどもしかし、法律で裁けないような社会ですから。
ですから、やがて彼らはそこからイヤシ様のことを知り、そして自分たちが手にかけたあの人たちが自分たちにこの福音を伝えるべきだったということを後々に知って、そしてやがてそのアウ家族全体がクリスチャンになった。
36:01
特にその二人はですね、そういう中で今は牧師の一人としてやっているという、そういう紹介をビルグラム先生がなさったんですね。
私はびっくりしました。
新学生というそういう時代に見た出来事、しかもそういう見換えのうちに、そういう中でもっとこのクリスチャンが生まれ、そしてそこでまた新たに選挙の技が進むという。
イヤシ様の復活というのは、どんなに大きな大きな人を変えてやまない、あるいは国を変えてやまない、あるいはその主力を変えてやまない大きな力というものがそこにあるんだなということを見ましたけれどもね。
本当に神様って、イヤシキリストが復活されたというこの事実のもとにおいて、私たちのどんな心も全部それを受け止めて。
そしてさらに新たなものとして私たちを、この尊い事実を伝える復活の承認として、今日私たちをお持ちくださっている。
皆さん私たちもこうして、今礼拝を捧げておりますけれども、礼拝を守る、礼拝を捧げるというこの事自体がですね、それこそキリスト復活の事実を明かししている、そういうことでもあるわけですね。
言うならそういうことなんですよ。私たちが礼拝を守るということならば、イエス様が復活された、このことを私たちは今今日身をもって、そのことを世間に一般社会に伝えている、そういうことですね。
どうぞ、礼拝を復活の主との出会いのときとして、またそこから新たにされていでいくときとして、私たちは内心の礼拝を大切にし、そして呼びかえられたこのお方を私たちの中心に、いつも納めてこの方を表していきたい。お祈りいたしましょう。
38:05

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