00:01
どうぞ、ご着席ください。
聖書をお読みいたします。
本庁の聖書箇所は、使徒の働き18章、18節から23節までです。
新約聖書の266ページをお見てください。
本庁は、聖書の朗読は宮原経代です。お願いいたします。
聖書をお読みいたします。
新約聖書の266ページ、上の段の左の方。
使徒の働き18章、18節から23節までです。
パウロは、なお長らく滞在してから、兄弟たちに別れを告げて、シリアへ向けて出版した。
プリスキラとアクラも同行した。
パウロは、一つの誓願を立てていたので、ケンクレーヤで神を剃った。
彼らがエペソに着くと、パウロは二人をそこに残し、自分だけ街道に入って、ユダヤ人たちと論じた。
人々はもっと長く留まるように頼んだが彼は聞き入れないで、
神の御心ならまたあなた方のところに帰ってきますと言って別れを告げ、エペソから船でした。
それからカイザリアに上陸してエルサレムに乗り、教会に挨拶してからアンテオケに下って行った。
そこにしばらくいてから彼はまた出発し、ガラテアの地方及びフルギアを次々に巡って、全ての弟子たちを力づけた。
以上でございます。
続いて聖火隊の賛美、新聖火303番に続きまして、内田牧師より主にある道路王者たちと題して説教をしていただきます。
内田牧師より主にある道路王者たちと題して説教をしていただきます。
内田牧師より主にある道路王者たちと題して説教をしていただきます。
内田牧師より主にある道路王者たちと題して説教をしていただきます。
03:28
内田牧師より主にある道路王者たちと題して説教をしていただきます。
内田牧師より主にある道路王者たちと題して説教をしていただきます。
内田牧師より主にある道路王者たちと題して説教をしていただきます。
内田牧師より主にある道路王者たちと題して説教をしていただきます。
内田牧師より主にある道路王者たちと題して説教をしていただきます。
内田牧師より主にある道路王者たちと題して説教をしていただきます。
おはようございます。
今日もまたこうして礼拝を捧げ得る特権をありがとうございます。
一言お祈りをして今日の御言葉をいただきたく願っております。
愛する者たち互いに愛し合いましょう。
愛は神から出ているのです。
恵み深い天の父なる神様、
今日も私たちに命を与えてこの水戸へと導いてくださり感謝をいたします。
この安息日をあなたが導いてくださり、
また様々なものから開放されて、
06:00
ただあなたのみを拝するこの尊いひとときをありがとうございます。
神の義をまず第一に求めてここに集いました一人一人を、
今主が御手の中でどうぞ愛をもってお支えくださり、
また天からの豊かな恵みとまた力を与えて、
それぞれにお使わしくださいますようお願いをいたします。
あなたは愛であり、またあなたから愛が出ていることを、
今日も覚えて皆をあがめます。
どうぞこの愛をあがぺえを私たちにももう一度覚えるときとしてくださり、
また私たちがこのあがぺえに満たされたものとなることができるように、
御言葉を通して教えてくださいますようお願いをいたします。
子どもたちのハンドベルが聞こえてきます。
御子の御高譚をお祝いする幸いなときが近づいておりますが、
私たちにとりましては、
イエス様がこの哀れな罪深いものを救うために、
この世に来てくださったというこのことを思うことは、
この時だけではなく、日々そのことを覚えて十字架を仰いで、
そしてまたよみがえりのこの死をも日々覚えて
会いましていただけるように助けてください。
どうぞ今からの御言葉のひとときをも祝福してくださるようお願いをいたします。
私たちがもう一度御言葉の前にひれ伏して、
そしてあなたを心から愛し、またあなたに従えるものとして
謙遜なものとしてどうぞ証を立てていくことができるように、
一人一人を満たしてくださるようお願いをいたします。
今日用意されたプログラムの一つ一つが祝福されていますことをありがとうございます。
捧げる礼拝、捧げる思いをいつも覚えて、
あなたに全てを捧げするその献身を新たにするときともならしてください。
それぞれお一人お一人、またはその御家庭が祝福されることも神様は願っておられます。
どうぞ今からの御言葉のひとときをおいだねし、
イエス様の尊い皆によってお祈りいたします。
アーメン。
週報にも書きましたが、アドベントが来週から始まりますので、
首都の働きの公開説教は一時お休みをさせていただいて、
来週からクリスマスメッセージに入らせていただきますが、
もう一月、二月ぐらい前からプログラム、説教の予定を出すということでありましたので、
ちょっと来週は紙編の二十三編ということで気がつかなかったんですが、
09:01
その、たとえ二十三編であっても、そこにイエス様がいてくださるし、
そこに神様が私たちの救いのために来てくださったという、
そのメッセージはきっとあるに違いないと私は信じています。
今日も、この首都の働きの十八章からともに見て、
そしてここから神様は今日何を語ってくださるのか、そう期待しております。
私自身もここを開く前は、ここから何を神様が示してくださるのか、本当にわからないんですね。
そして読んで向き合っていくうちに、意外な展開を神様が示してくださる。
こんなところにそういうメッセージがあるのかという驚きでありますが、
またそれが御言葉に向かう醍醐味でもあろうかと思うんです。
この十八章の一節のところで、パウロはアテネを去ってコリントへ行ったと書いてございます。
後パウロはこのコリントにできた教会に手紙をあてていますが、
それが新約聖書にありますコリント日の手紙であるわけです。
そのコリントに行ったときに出会いをいたします。
二節、ここでこのコリントでアクラというポント生まれのユダヤ人及びその妻プリスキラに出会った。
この二人はクラウデオ帝がすべてのユダヤ人をローマから退去させるように命令したため、近頃イタリアから来ていたのである。
パウロは二人のところに行きとあります。
このパウロがアテネを去ってコリントに行った。
そのコリントにアクラとプリスキラという夫婦がいたわけですね。
このアクラとプリスキラにしましても、ローマにいたんですが退去させるという命令が出たためにイタリアからコリントに来ていたわけです。
お互いがそこで出会ったということ。
私たちはこの出会いということを聖書の中からさまざま見ていますが、私たちも何もわからずにあるところに行った。
ある人もそこに行っていた。
そういうところで出会うということがありますね。
ただ挨拶を交わす程度の出会いではなく、その出会いがその後ずっとお互い祈り合い支え合い、また一緒に奉仕したり、時には離れることもありますが、
12:03
でもその絆というんでしょうか、それはずっとつながっていくという、そういう出会いというものを私たちは経験するものであります。
私たちはそういう人と人との出会いを偶然で済ますのか、それともこれはやはりその背後にあって神様が導いてくださって私たちを出会わせてくださったんだととるのか。
それで大きく違うと思うんですね。
この世の中のことをすべてが偶然で済まされるなら、それほど味気ない虚しいものはないと思うんです。
しかし一つの出会い、私たちがこれを信仰で神様が私たちを導き、そして出会わせてくださった、そう受け取るときに、そこには大きな恵み祝福、神様のご計画、素晴らしい祝福がそこにあるんだなとそう思うんです。
禅の言葉で一語一礼という言葉を皆さんもご存知だと思うんですが、これに通じるものがあろうかと思うんですね。
そのお茶の会でその時に出会う人、それはもう一生で一度の出会いかもしれない。
ですからそのお茶を立てる主人はこの人にもう心を込めて真心を込めてその人に尽くすという、そういう大切さを言っているわけですね。
そして客人は客人でこの主人が自分にしてくださる、そのことをしっかりと受けとめてそれに応えていく。
そういう一つの出会いを大切にしていこうという、そういう思いはパウロにしろプリスキラ、アクラにしてもあったんだと思うんですね。
これは間違いなく主が合わせてくださったんだ。
彼らはお互いにそのことをしっかりと受けとめて、同じ主に仕えていったという、そのことが書かれてあるわけです。
そして今日の見言葉にありますように、週報に書きましたローマ人への手紙の十六章の三節から四節、パウロは後、このように振り返っているわけです。
キリストイエスにあって私の同僚者であるプリススカとアクラによろしく伝えてください。
この人たちは自分の命の危険を犯して私の命を守ってくれたのです。
この人たちには私だけではなく、違法人のすべての教会も感謝しています。
この人たちは自分の命の危険を犯してまでと書いていますが、皇后薬成書では確か、自分の首を差し出してまでもというようなそういう表現であったと思うんですが、
15:13
このアクラとプリススカに出会い、そして彼らと一緒に奉仕できたパウロにとりましては、どんなに心強かったか、どんなにありがたかったか、そんなことを後彼は振り返っているわけであります。
そして三節にもありますように、パウロにしろこの夫婦にしろ同業者であったので、その家に住んで一緒に仕事をした。彼らの職業は天幕づくりであった。
天幕づくりという同じ職人でありましたから、それをしながら政権を立てて、そして首に仕えていったということ。このことが書かれてあるわけです。
ここになぜアクラとその妻プリスキラがローマからこのコリントに来ていたのかということが少し書かれていました。
当時このローマ帝国の支配者でありましたクラウデオ帝がこのローマにいる、すでにローマにいたキリスト社たちが騒動を起こすというような、そういうことによって彼は迫害をして退去させた。
もう出ていくようにということですね。ここにすべてのキリスト社をローマから退去させた、ではなくすべてのユダヤ人をローマから退去させるように命令した。
この当時最初のキリスト社たちはユダヤ教からの回収者ですね。ですからすべてのユダヤ人がイコールキリスト社ではなかったわけです。
しかしもうローマにいるユダヤ人、誰がキリスト社で誰がキリスト社でないのか、このクラウデオ帝、彼らにとっては当局にとってはもうわからないし、もうそんなことはどうでもいい。
とにかくユダヤ人であるキリスト社たちが騒動を起こすなら、もうユダヤ人すべてを退去させよう。そういうことがあったんだろうと考えられるわけです。ですからすべてのユダヤ人をローマから退去させるように命令した。
その中にアクラとプリース・キラがいたわけです。彼らは当然キリストを信じるキリスト社であったことは言うまでもありません。
そのコリントで5節、「そしてシラスとテモテがマケドニアから下ってくるとパウロは御言葉を教えることに専念し、イエスがキリストであることをユダヤ人たちにはっきりと宣言した。」
18:12
ここにパウロの説教がどういう説教であったのか。彼はアテネで一つの反省すべきことがありました。
哲学者たちと論じた。いくら論じてもそれは虚しいものであるということを彼はわかったわけですね。
そしてこのコリントでは彼は何を語ったのか。それはイエスがキリストであることをユダヤ人たちにはっきりと宣言した。
私たちは聖書を通してイエスキリスト、キリストイエス、またはイエスキリスト、あるいは私たちお祈りでもイエスキリストの皆によってと言います。
このイエスキリストというのは内田雅春というような名字と名前ではないんです。
ここにありますようにイエスがキリストであるというのがイエスキリストなんです。というのは世界には多くの言語があります。
日本語だったらはとかがとか主語があって〜は〜ですとかあるんですが、英語でもI am you areとか中学生に戻っていただいたらわかるんですが、そういう動詞があって続きますよね。
でも世界の中の言語のいくつかはそういう助詞のようなものがない、あるいはB動詞のようなものがない、そういう言語があるんですね。
ですからイエス、キリスト、そう続けるとイエスはキリストであるという、そういう言語があるんですね。
ですから私たちが常々言っておりますこのイエスキリストというのはイエスはキリストなんだ、イエス、イエスというのはたくさん当時いました。
イエスという名の人はたくさんいました。しかしこのイエス、あのイエス、なざれのイエス、死からよみがえったあのイエス、十字架にかかってそして私たちの罪のために死んでよみがえられたあのイエスはキリストなんだ。
すなわち油注がれたもの、救い主なんだ。それがイエスキリスト。このことをパウロははっきりとユダヤ人たちに宣言した。
私たちはこのことを通してもう一度私たちが聖書を通してイエスキリストと出た時、あるいは私たちが口でイエスキリストと言う時、それはイエスはキリストなのだということを信仰告白として私たちは言っているのだということをここでも覚えたいと思うんです。
21:09
そしてこの古倫都に彼らは十一節で、そこでパウロは一年半ここに腰を据えて彼らの間で神の言葉を教え続けた。一年半古倫都に滞在して、そして彼らは今度はエペソというところに行くということが後に書かれてあります。
このようにしてパウロたちはアテネ、また古倫都、そしてエペソ、そして後いろいろと彼らはカイザリア、あるいはまたエルサレム、そこからまた安定沖に下ってフルギアの次々をめぐっていろいろ彼らはまたその伝道の旅を続けていったということですね。
その十八節のところで先ほど読んでいただきました。パウロはなお長らく滞在してから兄弟たちに別れを告げてシリアへ向けて出版した。そのときプリスキラとアクラも同行した。
この古倫都で出会ったアクラ、プリスキラ、この夫婦がパウロとともにまたこの伝道旅行に行っているということがここに出ているわけです。この夫婦は一体何をしているんだろうか。
もちろんローマにいたわけですが、そこから古倫都に来て、そしてパウロたちと出会って、パウロたちがエペソに行く。そのときにもまた一緒について行く。
もう彼らはただ単なる夫婦ではない。この二人は主の道路者、主の使い人、神道伝道者と言われる。そういう人たちでもあったんだろうと、そのように思うわけであります。
ですからこの十八章を見ていきますときに、パウロたちの伝道活動は去ることながら、このアクラとプリスキラ、プリスキラとアクラ、この夫婦のことが私の目につくわけです。
二節でパウロがアクラというポント生まれのユダヤ人及びその妻プリスキラに出会ったということが一回出ています。十八節でパウロたちがシリアに向けて出版したときにプリスキラとアクラも同行したということが二回出ています。
そしてもう一箇所は二十六節。パウロたちはエペソから次のところに行くんですが、プリスキラとアクラはそこに滞在して、二十四節からさてアレキサンドリアの生まれで有名なアポロというユダヤ人がエペソに来た。
24:12
そして二十六節、彼は街道で大胆に話し始めた。それを聞いていたプリスキラとアクラは彼を招き入れて、神の道をもっと正確に彼に説明した。
この十八章で三回この夫婦の名前が出てくるということを思うときに、この二人は一体どういう人たちなんだろうかという思いが湧いてくるわけであります。
彼女たちは天幕づくりの職人であり、それで世紀をたてながら何をしておったのか。彼らは主に仕えていた。そこにパウロが来て、そしてパウロと同じように一緒になって殿堂の働きをした。
パウロはこの二人を信頼し、そしてエペソに残して、自分たちはまた次のところに行くから、エペソの群れを守ってくださいということで、この二人はわかりました。
そしてこのエペソで教会形成に携わっていたんだろうな、そういうことがここからわかるわけであります。
このパウロにとって、このアクラ・プリス・キラは本当に信頼のできる、そして時に自分の身に危険がおへんだ時にも自分の首を差し出してまで、自分の命をもかえりみず私を守ってくれたという、そういう二人であった、そうパウロは告白しているわけです。
どんなことがあったのかということは具体的に書いていませんが、おそらくパウロが迫害にあって、このパウロというものを差し出せと、お前のところに隠れているんじゃないか、それはわかっているんだと。
そんなことで、おそらくアクラとプリス・キラは、このパウロに手をかけることは私たちが許さない、もしこのパウロに手をかけるならまず私たちを差しなさい、あるいは首をはねなさい、そのような劇迫る姿勢で臨んだんだろうな。
おそらくこのアクラとプリス・キラという人は、他の人たちにも信頼をされ、そしてこの人たち、この二人を一目置いていたのかもしれない。いろいろなお世話をして、みんなから慕われていたのかもしれない。
ですから、このアクラとプリス・キラの言うことなら、もう知りづかざるを得ない、というようなことでもあったんだろうか。そんなことを思うわけです。たびたびのこの危険な目にも彼らは守ってくれた。
27:19
おそらくパウロはこのローマ人への手紙でも、彼らに対する感謝を述べているわけですね。アクラとプリス・キラにはくれぐれもよろしく、彼らは本当に助けてくれた。そのアクラとプリス・キラ、そういうパウロの感謝、あるいは教会も皆さんが感謝していますという、そういうお言葉をいただいて、彼らはどんな思いだったでしょうか。
おそらく、私たちは何もできませんが、ただ自分たちに言われることを精一杯しているだけにすぎません。そんなに礼を言われることはありません。私たちはただただ主に仕えているものにすぎません。一緒に主をあがめましょう。主に感謝しましょう。そんな人たちだったんだろうな、そう想像するわけです。
私たちはこの十八章を通して、このアクラとプリス・キラという人たち、この人たちがなぜここまでパウロたちを守り、あるいはパウロたちの伝道を支え、そして自らも同じこの伝道の働きに預かり、教会建設に預かることができたのか。そんなことを思うんです。
おそらくここで言っているのは、アクラがパウロを支えたとか、その妻であるプリス・キラが皆さんをよくもてなし、そしてお世話をし、そして教会の建設に携わったというのではなく、この夫婦に限ってはアクラとプリス・キラ。
プリス・キラとアクラ。常にそのように書かれている。要するにこの夫婦が一緒になって主に仕えて、そして人々の世話をなし、そして働きをなしていった。このところから私たちは、この夫婦の在り方ということをこのところから示されるわけであります。
この二人が主に仕えていた。そのことを知ったパウロは、このエペソの教会にあてた手紙の中で、夫婦のことが書いてあるというのを皆さんもご存知だと思うんです。
30:07
私も結婚式の詩式を頼まれたときには、この箇所をいつも開けるんですが、エペソの五章を開けていただいたら感謝であります。
エペソ人への手紙の五章ですね。この教会にアクラ、プリス・キラたちはいたわけです。そして伝道の働き、また教会建設の働きをしたということ。
そしてその中に、妻たちよ夫たちよという言葉が出てくるわけですが、パウロの頭の中には、アクラとプリス・キラのそのイメージがきっとあったのではないか、そんな思いがするわけです。
エペソの五章の二十節から読んでいきます。
いつでも全てのことについて私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。キリストをおそれたっとんで互いに従いなさい。
妻たちよ、あなた方は主に従うように自分の夫に従いなさい。なぜならキリストは教会の頭であって、ご自身がその体の救い主であられるように、夫は妻の頭であるからです。
教会がキリストに従うように、妻も全てのことにおいて夫に従うべきです。
夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のためにご自身を捧げられたように、あなた方も自分の妻を愛しなさい。
キリストがそうされたのは御言葉により、水の洗いをもって教会を清めて聖なるものとするためであり、ご自身でシミやシワやそのようなものの何一つない、清く傷のないものとなった栄光の教会をご自分の前に立たせるためです。
そのように夫も自分の妻を自分の体のように愛さなければなりません。自分の妻を愛する者は自分を愛しているのです。
誰も自分の身を憎んだ者はいません。かえってこれを養い育てます。それはキリストが教会をそうされたのと同じです。私たちはキリストの体の部分だからです。
それゆえ人は父と母を離れ、その妻と結ばれ、二人は一体となる。この奥義は偉大です。私はキリストと教会とを指して言っているのです。
それはそうとして、あなた方も自分の妻を自分と同様に愛しなさい。妻もまた自分の夫を敬いなさい。
このアクラ・プリスキラという夫婦。この夫婦が、まず夫婦としてお互いがしっかりと愛に根出した生活、生き方をしていたということ。
33:01
ここにありますように、妻たちよ、あなた方は主に従うように、自分の夫に従いなさい。
まさしくプリスキラはアクラに対してそのような思いであったでしょう。
また夫たちよ、アクラよ、キリストが教会を愛し、教会のためにご自身を捧げられたように、あなた方も自分の妻を愛しなさい。
アクラもまた夫として、その妻であるプリスキラを教会を愛するように、主が教会を愛されたように妻を愛していた。
このお互いがアガペに根差したその愛によって支え合っていた。
その二人がパウロと出会い、その同じ思いである伝道の働き、主に仕えて奉仕する働きに預かっていったということですね。
私たちが今日、夫婦としてアクラ、プリスキラが主に仕えていたということを通して、
この夫婦というものをもう一度考えてみますときに、これは結婚を通して一人の男子と一人の女子が新しい家庭を築き、そして夫婦になるわけですね。
結婚の最初の頃、初期の段階ではお互いはお互いを向き合っているわけです。
ここにありますように夫は妻を愛し、妻は夫に従い、お互いにそれぞれの世話をし、また配慮をしながら、そして夫婦として家庭を築いていくということですね。
私がいつも結婚式の式で申し上げるのは、誰でもこの結婚を通して幸せを願っている。そんなことはもう誰しも同じことなんですね。
ただその幸せを得るための一つの秘訣、それは自分が幸せかどうかということを問う必要はない。
自分といる相手の人が幸せかどうかということは常に問いなさい。お互いがそのようにして、自分の幸せ、それはもう問わない。相手は幸せだろうか。
そしてもし相手が幸せだということがわかったときに、それを自分の幸せとするということですね。
夫婦が、お互いが自分の幸せを求めたとき、自分が幸せだろうか、求めたときに滅び始める、崩壊が始まるんですね。
それはそれとして、そしてもう一つの夫婦の在り方、それは当然お互いはお互いを向き合って、そしてお互いのことを思い合う、それは当然ですが、やがてその夫婦は同じ方向を向いていくということですね。
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そこに二人三脚のその歩みというものがあるわけです。一つの同じものに向かってお互いが協力し支え合い、そして一つのものに向かってそこに照準を合わせて、互いにそれこそ支え合いながら、補い合いながら向かっていく。
これが夫婦の在り方であるというようなことを、私はいつも結婚の祝福の言葉として皆さんに語ってきたわけです。
このアクラとプリス・キラはまさにそのような夫婦ではなかったろうか。同じ種に使えるという一つの思い、そしてパウロたちを一緒に支えていこうという同じ方向に向かって彼らは歩んでいた。
エペスの協会を任された時も一緒にこのエペスの協会を撥回していこうという、そういう同じ思いを二人が持っていた。そんなことをここから伺い知るわけですね。
それぞれが自分の目標、目指すものはこっちで、私のはこっちを向いていきます。それでは夫婦ではないわけです。
ですから私たちがもう一度このアクラ、プリス・キラから教えられることは、この夫婦の在り方であったり、あるいは彼らが同じ思いと同じ目標と、そして目指すものを一つにして向かっていったということ。
そのことを私たちは教えられることは感謝であります。
彼らがこのように神様の導きと、そしてご計画の中でパウロたちと出会って、共に労して、そして主に支えていったという、そのことを見ているわけです。
おそらくアクラとプリス・キラという人たちが何か特別な能力とか才能があったと、そんなことは思わないと思うんですね。
素晴らしい何か賜物があったかどうか、そんなことは書いてないわけです。ごく普通のありふれた夫婦であったんだろうと思います。
しかし彼らに根差していたもの、それはアガペイであったわけですね。そして互いに敬い合い、互いにアガペイの愛をもって支えていた。
そして常に祈り、あるいは御言葉に通じていたということ。何よりも彼らは主に忠実に支えていた夫婦であったということ。これは間違いない。
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ですから私たちは一人の人間、男子と一人の女子がそれぞれの持てる力、それが1とするならば、この1と1が合わさったとき、それは2の力が出ると考えますが、
そこに神様の力が加われば、3にもなり4にもなり5にもなり10にもなるんだということ。そのこともこのアクラ、プリスキラを通して私たちは教えられるわけです。
パウロたちにとってこの夫婦に出会ったということが本当に心強い。そして神様がそのようにしてくださった、このパウロの伝道、宣教の働きを支えるのに必要な人として備えていてくださったんだということを覚えるわけであります。
私たちもまた何か奉仕をし、あるいはどこかに使わされて、そして不安に襲われたり、あるいはどうなるのかというその恐れを抱いたりすることがあろうかと思うんですが、
ただ主に忠実に仕え、祈り、そして御言葉により頼みでさえいるならば、神様はきっとそこに素晴らしい道路者を備えていてくださるに違いない。その信仰に立ちたいと思うんです。
私たちは今日もう一度、このアクラ、プリス・キラのこの二人に根差していたものは、それは間違いなくアガペイであった。そう思うわけです。
その人たちがいるその教会、その人たちがまたその群れの根本にそのアガペイを土台として築いていった。そういうことを私たちは思うわけであります。
ポリントビットへの第一の手紙の十三章の愛の賛歌と言われるところ、これを読んで終わりたいと思います。
全てを信じ、全てを望み、全てを耐える。愛はいつまでも耐えることがない。いつまでも存続するものは信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは愛である。お祈りをいたします。
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めぐみ深い天の父なる神様、今日、使徒の働き十八章を共に読むことができて感謝をいたします。パウロたちにアクラとプリス・キラを出会わせてくださり感謝をいたします。彼らの存在がパウロたちにとってどんなにかありがたかったことでしょうか。
しかしこの夫婦にとって、それはただただ主にお仕えし、ただただ主に栄光があらわされることだけが喜びであったに違いありません。人の称賛やまた思い、言葉は彼らの耳にはなく、ただ主を崇め、主に栄光を帰す、それだけが喜びであり、また二人の目標であった、そのことを思うわけであります。
このような主に忠実な人たちによって、今日世界中に神の教会が建てられていますことを覚えて皆をあがめます。神様はその御業を人を通してあらわされることを今日も覚えて感謝をいたします。
どうぞ私たちにもアガペの愛を注いでくださり、また精霊に導かれて、そしてこの教会が愛に根ざした教会になることができるように、御霊がすべてを導いてくださること、そしてこの愛があらわされている十字架をいつも見上げて進んでいけるように私たちを導いてください。
またそれぞれの御家庭に御夫婦に神様の豊かな祝福がありますようにと神様は願っています。どうぞそのことも覚えて、主イエスキリストの皆によってお祈りをいたします。アーメン。