00:01
ご着席ください。
聖書朗読をしていただきます。
和秀貞兄弟に、人の働き、21章の33節から40節までです。
ページは273ページ、新約の273ページです。
仙人隊長は近づいてアウロを捕らえ、二つの鎖に繋ぐように命じた上で、
アウロが何者なのか、何をしたのかと尋ねた。
しかし、群衆がめいめい勝手なことを叫び続けたので、その騒がしさのために確かなことがわからなかった。
そこで、仙人隊長はアウロを兵衛に連れて行くように命令した。
アウロが階段に差し掛かったときには、群衆の暴行を避けるために、兵士たちが彼を担ぎ上げなければならなかった。
大勢の群衆が彼を除け、叫びながらついてきたからである。
兵衛の中に連れ込まれようとしたとき、アウロが仙人隊長に一言お話ししてもよいでしょうかと尋ねると、
仙人隊長は、あなたはギリシャ語を知っているのか。
するとあなたは、以前暴動を起こして4千人の死客をアラノに引き連れて逃げた、あのエジプト人ではないのかと言った。
パウロは答えた。私はキリキアのタルソ出身のユダヤ人で、劣気とした町の市民です。
お願いです、この人々に話をさせてください。
仙人隊長がそれを許したので、パウロは階段の上に立ち、民衆に向かって手を振った。
そしてすっかり静かになったとき、彼はヘブル語で次のように話した。
以上でございます。
ありがとうございました。
聖火隊の方々に賛美していただきます新聖火356番、その後、聞きを好きに変えると題して、内田博士よりメッセージをいただきます。
メリはみれメロを、わらそわりまして。
つれにかすれたぼ、しゅぞなつかしみ。
03:11
こころさがれとね、われあち。
ひびむびよる、ひぞなつかしみ。
メリはみれメロを、めかごのみかりに。
つれにまもれたぼ、しゅぞなつかしみ。
こころさがれとね、われあち。
ひびむびよる、ひぞなつかしみ。
メリはみれメロを、わらてをまといて。
つれにおしえたぼ、しゅぞなつかしみ。
こころさがれとね、われあち。
ひびむびよる、ひぞなつかしみ。
メリはみれメロを、わらゆくめひびち。
つれにしめしたぼ、しゅぞなつかしみ。
06:00
こころさがれとね、われあち。
ひびむびよる、ひぞなつかしみ。
すべてつかれたひと、おもにおっているひとは、わたしのところにきなさい。わたしがあなたがたをやすませてあげます。
めぐみふかい、てんのちちなるかみつさま。
こうしてだいよんせいじつのあさをむかえて、あなたにれいはいをささげるためにこのみやにつどってまいりました。
こころからのあなたへのけんしんと、またあなたからのみたまのそそぎをあらたにしてくださって、またここからこのあたらしいしゅうかんをはじめていくことができるようにみちびいてください。
さむいなかでありますけれども、おひとりおひとりがあなたをしたいもとめてはげんできてくださったこのおもいにあなたがゆたかにこたえてくださいますように、
またみことばをもってあなたがなぐさめはげまし、またこれからゆくべきみちをあなたがしめしてくださることをしんじてゆだねています。
しもべききますからしゅうをどうぞあなたがおこたえくださるようおねがいをいたします。
こうしてわたしたちがあたらしい一年をはじめさせていただいております。
そしてあなたがわたしにつながっているならゆたかにみをみのらせようと約束してくださったことをおぼえてみなをあがめます。
どうぞわたしたちはこの一年、よういされているひとつひとつのれいはいをこころをこめてあなたにささげさせていただきますようにどうぞみちびいてください。
きょうはいろんなじじょうがあったり、あるいはよわさをおぼえてこれなかったきょうだいしまがともおぼえます。
かみさまどうぞそのひとりをひとりをあなたがそのばにゆきめぐってそのばでしゅをおぼえまたまじわりをしてくださることをしんじます。
いまここにしゅがおられることをしんじます。
めにはみえませんけれどもせいれいがゆたかにこのれいはいをさいごまでみちびいてくださることをしんじます。
どうぞいまからのみことばのときをもさいごまであなたがみちびきすべてをあなたにゆだねてそしてこのひとときをすごせますように。
09:05
かたるものちいさくとぼしいものでありますからしをどうぞあなたがあわれんでささえてくださいますように。
いえつさまのとうといみなによっておいのりをいたします。
アーメン
きょうもひきつづいてしとのはたらきのきょうはにじゅういっしょうをひらかせていただいております。
しと行伝このなかにはこれをあんしょうせいくにしようとかいうのはなかなかないと思うんですが、
このにじゅういっしょうのなかでもただせいれいのはたらきそしてしとたちがもちいられて、
このせんきょうのはたらきがなされていったというそういうあかし、そういうれきしのじじつがたんたんとのべられているということで、
なにかこのことばでなぐさめられたとかこのことばではげまされたそういうのはないんですけれども、
でもかみさまのおことばはおことばでありますから、このなかにもかみさまはそのみことばをもってきょう私たちをはぐくみ、
また私たちもこのみことばによってまたやしなっていただける、それをしんじてきょうはこのにじゅういっしょうをいっしょによんでいるわけであります。
パウロがこのみたまによってしめされたこのもくひょうというのがじゅうきゅうしょうのにじゅいせつにありました。
私はエルサレムに行ってそしてローマをもみなければならない、ローマに行くのだという、それがかれのさいしゅうもくひょうとしてさだめられたわけです。
ローマに行くのだ、そのまえに一度エルサレムにもどるということもしめされていたわけであります。
ですからエペソの長老たちともう一度あって、そしてミレトでかれらとおわかれのあいさつをし、そしてけつべつのせっきょうをしてパウロはエルサレムへとむかうわけであります。
そのことがこのにじゅういっしょうにかかれてあるんですね。
かれはいろんなところをたちよりながらエルサレムにむかっていったということがかかれてあります。
一節に私たちはかれらとわかれて出版し、コスに直行し、よくじつロドスにつき、そこからパタラにわたった。
三節ではやがてキプロスがみえてきたが、それをひだりにしてシリアにむかって航海をつづけ、ツロにじょうりくした。
12:00
ここにツロがでてきます。
七節にいきますと私たちはツロから航海をえてトレマイについたということがかかれています。
そして七節ではカイザリア、八節にはカイザリアにつきとあります。
そして十七節でいよいよかれらはエルサレムにつくと、きょうだいたちは私たちをむかえてくれた。
このようにしていろんなところをおとずれながら、かれはエルサレムについたということがここにしるされてあるわけです。
ところがこのエルサレムにむかっているパウルに対して、このエルサレム行きをとめられているということがかかれてあるんです。
それも二度かかれてある。
四節のところで私たちは弟子たちをみつけてそこに七日間滞在した。
彼らはミタマに示されてエルサレムにのぼらぬようにとしきりにパウルに忠告した。
弟子たちはミタマに示されてエルサレムにのぼらぬようにパウルに忠告した。
しかしパウルはエルサレムに向かうわけですね。
それともう一つは十二節。
ここでも私たちはこれを聞いて土地の人たちと一緒になってパウルにエルサレムには登らないように頼んだ。
これはカイザリアでのことなんですが、ここでもエルサレムには登らないように頼んだということですから、
パウルさん、もうエルサレムには行かないでください。
行くとそれは大変危険です。
十一節にもありますように、
エルサレムでユダヤ人にこんなふうに縛られ、違法人の手に渡されると精霊がお告げになっています。
エルサレムに行くとあなたは殺されてしまうかもしれない。
ですから行かないでくださいとこの弟子たちや周りの人たちがパウルを止めたわけです。
十三節。
しかしパウルは私はシューイエスの皆のためならエルサレムで縛られることばかりでなく死ぬことさえも覚悟しています。
と言ってこのエルサレム行きを彼は勧告したということ。
このパウルの死ぬことさえも覚悟してそしてエルサレムに行くのだという。
それは彼が見た目によって示されたことということでもありますけれども、
そのエルサレムを経てそしてその先にあるローマ、そこを目指していく。
15:03
ですからここは通らなければならない。その一つであったということですね。
イエス様がゲッセマナの園で祈られたあのことを思うんですね。
父よ、願わくはこの杯を取り除けてください。そう願ったわけですね。
おそらくイエス様は十字架を目の前にしてそしてその祈りを捧げておられたわけです。
この杯を全人類の罪を私が背負ってその罰を受ける。
そしてその十字架にかかるというその杯を取り除けてください。
しかし主の御心のままになりますようにと全てを委ねて。
そしてさあ行こうとこの十字架に向かってイエス様は立ち上がられたわけですね。
十字架を覚悟してそして十字架に向かわれた。
同じようにパウロもエルサレムではきっと何か起こるであろうと。
それはもう十分わかっている。みなが言うまでもなくパウロ自身が十分にわかっていた。
しかしそれをもう覚悟して全てを主の御手に委ねてそして自分はエルサレムに行くのだ。
そしてやがてローマへと行かねばならないというその思いが彼の中にあったわけですね。
ですから最後には弟子たちもこのパウロの思いを知って。
十四節パウロが聞き入れようとしないので私たちは主の御心のままにと言って黙ってしまった。
パウロがおそらくあなたの御心がなりますように。
そのことを聞いた弟子たち周りの人も私たちも主の御心のままにという祈りを捧げたということ。
これによってパウロはエルサレムへと向かったということ。
そのことがここに書かれてあるわけです。
そしてこの十七節以降予想通りエルサレムで大きな騒ぎが起こったということが書かれてあります。
三十節そこで町中が大騒ぎになり人々は殺到してパウロを捕らえ宮の外へ引きずり出した。
そして直ちに宮の門が閉じられた。町中が大騒ぎになった。
三十一節もそのようなことが書いてありますね。
エルサレム中が混乱状態に陥っている。
そのような予想通り案の定このエルサレムで騒ぎが起こった。
18:02
そしてパウロが捕らえられたということ。
そのことがここからわかるわけであります。
三十三節その知らせを聞いた千人隊長は近づいてパウロを捕らえ二つの鎖につなぐように命じた上パウロが何者なのか何をしたのかと尋ねた。
なぜパウロは捕らえられたのか。
これはいわゆる誤解であります。
誤解これは原因がこのパウロが逮捕されたというこの二十八節二十九節のそのところにこのパウロが捕らえられたという原因が書かれてあるわけです。
人々は叫んだイスラエルの人々手を貸してくださいこの男はパウロのことですね。
この男はこの民と立法とこの場所に逆らうことを至るところで全ての人に教えているものです。
その上ギリシャ人を宮の中に連れ込んでこの神聖な場所を怪我しています。
当時のこのエルサレムその宮というのは違法人などが入ってはいけないというそんな決まりがあったんでしょう。
それをパウロがそういうものを連れてきている。
そして何やらよからぬ教えを皆に説いてそして町中を混乱に落とし入れているそんなことを言う人たちがいたわけですね。
だからそのものを捕らえよ彼を除け。
これもまたイエス様がエルサレムで彼を十字架につけよ十字架につけよそういうふうに叫んだ。
そのこととも重なるように思うわけであります。
そのようにしてこのパウロが逮捕されたということがここに書かれてあるわけですが。
しかし使徒の働きというのは使徒行典というのはこの福音の宣教がなされていく。
そして使徒たち弟子たちがその働きをしている。
その中に神がおられるということ。
神が全てを見ておられて神様がその背後でそれを導いていてくださっているということ。
これを私たちが知るということ。
これが第一に大切なことであります。
この騒動の中で人間の知恵や人間の技を超えたそういうことをなされる神様の説理を私たちは見ていく。
何よりもパウロ自身がそれをわかっていたということですね。
そしてこの神に信頼して委ねておった。
それがパウロの信仰であり聖書を通して私たちが教えていただくこの信仰というもの。
21:07
信仰とは望んでいること柄を確信しまだ見ていない事実を確認することである。
ですからパウロは今兵隊たちに捉えられながらも主はきっと私をローマへと導いてくださる。
そのことを彼は確信しておったわけですね。
そしてまだ見ていない事実それを確認していた。
もう自分はすでにこのエルサネムからやがてローマに行きそしてローマで福音を説いている。
その姿をありありと彼は描いてそれを確認しておったわけですね。
それが彼の信仰でありまた私たちが聖書を通していただいている信仰。
望んでいること柄を確信しまだ見てはいないけれどもその事実を確認しているということ。
パウロはこのようにして兵隊たちに捉えられましたけれども
彼は彼の本来の目的である人々にこの福音を語るということ。
この混乱状態の中でどうして福音が語れましょうか。
ところが彼が捉えられてそして専任隊長にパウロの身柄が委ねられた。
そのことによってパウロが37節で専任隊長に言います。
専任隊長ここで一言話をさせていただいてもいいでしょうか。
すると専任隊長はいいよといいだろうと許可をしてくださった。
こんな混乱状態の中でパウロがいくらおそらく叫んでも軍手は聞かないでしょうし
むしろそれこそ意思を投げられるのがオチであります。
しかし今彼は捉えられて専任隊長のその許しのもとに語るということができたわけであります。
38節から彼は語っています。
パウロは私はキリキアのタルソ出身のユダヤ人で劣気とした町の市民です。
お願いです。この人々に話をさせてください。
専任隊長がそれを許したのでパウロは階段の上に立ち民衆に向かって手を振って
そして彼は次のように語った。
捉えられたが故に今度は専任隊長の守りの中で彼は福音を伝えることができた。
そしてこの捉えられたということがこの後彼がローマ行きを実現する大きなきっかけとなっていくということを
24:11
私たちはこの22章以降で知ることができるわけであります。
皆さんもすでにご存知だと思うんですが
西洋が馬ということわざを知っておられると思うんですね。
中国の古事から出た西洋が馬、万事西洋が馬というその言葉を思い出しました。
これの由来は昔中国の北方に西洋という老人が住んでいた。
ある日西洋が飼っていた馬が逃げてしまった。
ですから人々が慰めに行くと西洋はこれは幸いになるだろうと言った。
数ヶ月後逃げた馬は立派な春明を連れて帰ってきた。
人々がお祝いに行くと西洋はこれは災いになるだろうと言った。
西洋の息子が春明に乗って遊んでいたら落馬して足の骨を折ってしまったので
人々がお見舞いに行くと西洋はこれは幸いになるだろうと言った。
一年後隣の国との戦乱が起こって若者たちはほとんど戦死したが
西洋の息子は足を骨折していたために兵役を免れて命が助かった。
そういう古事から例えばこうとか服と思えることが後に災いになることもありますし
またその災いと思われたことが福となる。
そういうことの例えとして西洋が馬という言葉ができたわけですね。
人間万事西洋が馬、人間万事西洋が馬とも言いますが
西洋が馬、要するに私たちの生きていく生涯の中で何が災いし
それがまたどういうふうにして幸いになり幸いがまた災いに転じたり
またその災いが幸いへとなっていったり
そういうことを私たち自身もこれまで経験したことと思うんですね。
あるいはこれからも経験していく西洋が馬。
ですから私たちの生きていくこの生涯というのは万事西洋が馬なんだと
いわゆる一つの悟りのようなものを私たちが覚えるためにこの言葉があるんだと思うんですが
27:07
もしそうであるとするならばこれだけでは何か虚しい気がするんですね。
私たちがこの世に生まれてきた。そして災いがあったり幸いがあったり災いがあったり
人生というのはそういうものだ。
なるほど悟りではありましょうけれども私たちの与えられた生涯というのは
ただそういうものなのかという思いにもなるんですね。
私たちが聖書を読んでいましてその聖書の中に登場していく人物
そういう人たちのことを私たちはもう一度思い浮かべたいと思うんですね。
アブラハムにしろイサクヤコブにしろモーセにしろあるいはダビデにしろパウロにしろ
みんなそれぞれがそれぞれ与えられた生涯を生きて
まさにサイヨウガウマを彼らも経験していったわけですね。
人生とはこういうものか。
でもこの信仰者たちに共通して言えることは
なるほどサイヨウガウマですが
幸いの時には彼らはその幸いの時に主をあがめて神様感謝します。
そして私にこのような素晴らしい恵みと祝福を与えてくださってありがとうございます。
そして賛美を捧げた。
あるいはそれが災いに転じた時にも主を仰いで
神様こんな風になってしまいました助けてください救ってくださいと主を仰いだ。
そしてまた幸いになった時にもまた主を仰ぐ。
災いの時にも主を仰ぐ。
これが信仰者の在り方であったわけですね。
ただ生きるとはこういうものだというものではなくて
そこに常に彼らは神とともにその生涯を生きてきたという。
これが信仰者たちの姿であったわけです。
時に彼らは神様から幸を与えられ祝福を与えられた。
本来ならそれを神様に感謝すべきところを忘れてしまう時もあったわけですね。
そういう時にも彼らはまた砕かれてそして神様申し訳ありませんでした。
あなたにこんなにたくさんの恵み祝福をいただいていながらあなたに感謝することを忘れていました。
ですからどんな時にも彼らは神様を崇めていたということですね。
30:00
そして災いにあった時もこの災いから逃れさせてください助けてくださいと神にお願いし
またそのことを通してもう一度自分の在り方を見直したり
そこから何か学びを得たりそして砕かれ謙遜を与えられたり
そして清めの恵みに預かってそして自分が寝られていったということ。
ですからどんな時にも彼らは幸であれ災いであれ
それが万事最悪が馬の中であっても常に神様を仰いでいたということ。
こういう生涯は本当に豊かな生涯であろうと思うんですね。
自分はどこから来てそして今何のために生かされてそしてやがてどこへ行くのか。
それが神と共に歩む生涯。そういうことが言えるんだと思うんですね。
パウロも叱りであります。この首都行伝を読んでいくときにパウロがどれほど多くの災いを受けたか
あるいはその旅ごとに彼が主に求めそしてまた祝福をいただき助けをいただき救いをいただいて
また選挙へと向かった。危険な時を何度も乗り越え
そしてその旅ごとに神様のその御手が彼に及んでいたということを彼は明かしをしているわけですね。
ですから私たちのこの生きる生涯これも恐らく採用が馬と言われるような生涯だと思うんですが
私たちもこの信仰をいただいたというその中にあって常に神様を仰いでそして神様と共に歩む生涯
それが私たちの与えられた豊かな生涯になるんだということ。
そしてこの危険だと思われるような時あるいはこれが危機だと思われるような時
そういう中でも神様の御手が及んでいるんだ。それも神様の御手の中で起こっていることなんだ。
だから神様はそういう危機と思えるようなことも次にチャンスを与えてそしてそれを好奇に変えて
そして何か神様がその技をなされる。そういうことが私たちのこの生涯の中で何度も何度も起こるということ
あるいは今まで起こったことを明かしすることによってもう一度それを確認させていただく。これが幸いだと思うんですね。
ですから危機を好奇に変えてくださる神様。これはもうだめだと言われたことがチャンスとなるという
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そういうことを私たちは日々の生活の中で覚えていく。
そして主をあがめこの主にまたより頼んで生きていく。それが私たちの信仰者としての幸いだと思うんですね。
危機の中で神様がこの知恵を与えてくださったり何か忠告を与えてくださったり
私の好きな言葉の一つに一つの戸が閉ざされると別の戸が開かれるというそのことを教えていただいたときに
そうかということを覚えて何度もそういうことを経験したことがあります。
一つの戸が閉ざされた。どうしようもうだめかと思ったときに振り向いたらそこに別の扉が開かれて
ここから入ればいいんだというようなこと。そんなことを覚えるときに神様は決してお見捨てにもならないし
そしてあちらに行かなくてよかった。こちらが本当の門でこちらが本当に行くべき道があったんだというようなことも覚えさせられて
皆をあがめたことであります。そういう中で小さなことですけれども私たちの教会の中にもそういうことがあると思うんですね。
今日の修法の中にも書きましたが消息報告の4番のところでいろんな事情があって街道掃除の放射がいないという
その現状で役員の皆さんが祈っておられたわけですね。どうしようという一つの小さな危機であったわけですけれども
そういうときに神様が良いアイデアをくださってそうだこうしようこうすればいいんだ。みんなで分かち合ってこうすればいいんだ。
一つの門が閉ざされたときに別の門がパッと開かれる。これはだめだ危機だと思ったときにそれをみんなでやろうというような一つのアイデアとしてそれをチャンスに変えてください。
みんなが一つになって何かをしようというそういうきっかけになったという一つの証であろうと思うんですね。
神様はそのように危機であってもそれをチャンスに変えてくださる。
あの宝刀息子、彼は自分の思いのままに生きたいんだということでお父さんから自分の分け前をもらってそして旅に出ます。
そして湯水のようにそれを使ってやがて彼はどん底に落ちるわけです。彼の生涯の中でもうこれはだめだという一つの危機を迎えたわけです。
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その危機に面したときにそうだ自分はもう一度父のもとに帰ろう。
自分が何とかやれていたときはそんなことを思わなかった彼がもうどん底で豚の餌でも食べるしかないというそういう危機に面したときに彼は初めて自分と向き合い本当に行くべき道、魂の救いを受けるチャンスを得たわけですね。
私たちも教会で何度かいろんな人から証を聞きました。この救いの証、恵みの証を聞いてきましたがその中にある人はこの授業に失敗した。
あるいは人間関係で行き詰まってもうやりきれないところまで追い詰められた。あるいは学生さんであれば受験に失敗した、あそこに行きたかったしかし甲斐なく失敗してしまった。
そういう中でみんな絶望というようなもうだめだという行き詰まりを感じて、そしていわゆる人生の中で一つの危機を経験するわけですね。
時には投げやりにもなりたいような、どうにでもなれというようなそういう中で街を歩いていた時に電動集会のチラシをもらった。あるいは誰かに教会に誘っていただいた。
そういう中で今までは神様なんて興味もなかったし、そんなことをいるもいないも考えたこともない。しかし危機に面して初めて彼らは一度神様とやらを聞いてみよう。
その聖書からのお言葉を聞いてみようというそういうきっかけが与えられて、そこからそういう人たちがこの生涯の中で大きな転機をもらって、そこから立ち上がって、そして今素晴らしい働きをなしておられるという、そういう証を何度も聞きました。
危機と思えるようなそういうことを経験することを通して、そこに神様の見てが及び、それを救いのチャンスに変えてくださる。そういうことを私たちはもう一度覚えるときに、ああこの神様本当に素晴らしい神様。
どんな人も見捨てならず、そして私たちがもうダメだ、もう危機だと思えるような時にもそれをしっかりと見てで支えてくださっている。私たち自身がそれに気づかずに、そして神様に背を向けている。神様はいつも私たちを支え守っていてくださる。
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私たちの方がその神様に振り向くことさえ、そういうことをも、この危機というものを用いて私たちを神様の方に振り向けさせようとなさるということですね。
神様は全ての人が救われて真理を悟るようになることを望んでおられるという見言葉があります。まさにそうだと思うんですね。神様はどんな時にもその魂を救いたい。
早く私の方に目と心を向けてほしい、そういうことを願ってずっと忍耐をもって支えていてくださっている。そのチャンスが訪れた時に私たちは悔い改めて神様の方に向き直るわけであります。
これからもそういう人が次々に起こされるように私たちも願い、また祈り、その報酬をさせていただく、そのことに預かっているわけですね。
たとえ八方塞がりであっても、みよ天は開かれているという、そのことであろうかと思うんですね。八方塞がりであっても天は開かれている、そのことを私たちは、このパウロが今日捉えられて、もうがんじがらめにさせられた。
私たちの目にはそう見えたんですけれども、神様はそれをチャンスととらえて、そのことによって福音を語らししめ、またそのことがきっかけで彼は神様に示されたローマ行きを実現させていったということ、そのことを今日この二十一章から覚えたわけであります。お祈りをいたします。
神の父なる神様、感謝をいたします。私たちは生きていく中でいろいろなことを経験してきましたし、また今経験し、これからも経験することと思います。
しかし全てが主の御手の中にあるということを覚え、またどんな時にも神とともにあることを覚えることを何と幸いであるかと皆を崇めます。何よりもそういう中でキリストに出会い、救いに預かったことを心から感謝をいたします。
そしてどんなに発砲塞がりという状況の中にありましても、天は開かれておって、そこからチャンスと希望とそして助けが与えられるということを信じてこれからも進んでまいりますから、どうかお一人お一人を導いてくださいますように。
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信じ委ねて主キリストの皆によってお祈りいたします。
アーメン