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ご着席ください。聖書朗読をしていただきます。
聖書は、使徒の働き16章25節から34節、新訳の261ページです。
では、押忍します。
真夜中頃、パウロとオシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、他の囚人たちも聞き入っていた。
ところが突然、大地震が起こって、極社の土台が揺れ動き、たちまち扉が全部開いて、皆の鎖が解けてしまった。
目を覚ました監守は、見ると牢の扉が開いているので、囚人たちが逃げてしまったものと思い、剣を抜いて自殺しようとした。
そこでパウロは大声で、「自害してはいけない。私たちは皆ここにいる。」と叫んだ。
監守は明かりを取り、駆け込んできて、パウロとシラスとの前に震えながらひれ伏した。
そして二人を外に連れ出して、「先生方、救われるためには何をしなければなりませんか。」と言った。
二人は、「主イエスを信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も救われます。」と言った。
そして彼とその家の者、全部に主の言葉を語った。
監守はその夜、時を移さず二人を引き取り、その内傷を洗った。
そしてその後ですぐ、彼とその家の者、全部がバクテスマを受けた。
それから二人をその家に案内して、食事のもてなしをし、全家族そろって神を信じたことを心から喜んだ。
以上です。
では聖火隊に賛美していただいて、その後、家族の救いを願っていただいて、内田先生に本日の説教をいただきます。
ご視聴ありがとうございました。
03:05
ご視聴ありがとうございました。
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06:11
おはようございます。
今日も御言葉をいただきます。
素晴らしい賛美をありがとうございます。
教会にこうして賛美が満ちあふれるということは、本当に幸いなことであります。
その賛美の中に十字架の陰に常しえまでおらせたまえ。
これは本当に私たちの祈りでありますし、そうありたいなと思います。
今日こうして礼拝を持っております。
これもまた私たちはこの十字架の陰に怒って、そして私たちが神様にその愛の応答としてこの礼拝をお捧げさせていただいております。
それでは御言葉をいただきます。
お祈りをして今日の首都の働き十六章を見ていきたいと思います。
十字架の陰におらせたまえ。
天の父なる神様、こうして安息日を迎えて今御前に集っています。
あなたの愛されるお一人お一人をどうぞ今あなたが精霊で満たして恵みを降り注いでくださるようにお願いいたします。
すでに神様は愛をもって私たちを迎えてくださっています。
その御愛を精霊によってしっかりと受け取ることができるように、
今日でなくてはならないこの神様の恵みと祝福をいっぱいいただいて、
そして慰められ励まされ、そして神の力をいただいてまた出ていくことができるように、
どうぞこの礼拝を祝福してください。
安息日の主、この礼拝の主であるあなたを今見上げて、
そしてあなたを拝し賛美を捧げます。
どうぞ私たちの捧げる一つ一つのこの捧げ物を、お主を天において受け入れてくださり、
また豊かに私たち一人一人をお導きくださるようにお願いいたします。
世にあってまた多くの戦いがございます。悩み困難苦しみまた試練もありますけれども、
それにも勝って主は勝利者でありますから、私たちが既に勝利を取ってくださったこのお方にいつも寄り添って、
またその十字架のご愛をいつも覚えて、そこに私たちのまた信仰を増し加えてくださるようにお願いいたします。
今日もまた見言葉が開かれていることを感謝をいたします。
見言葉に託されたあなたの身旨を悟ることができるように今整えてください。
後続きます聖三式の上にも、豊かにあなたのご愛とまた精霊の注ぎがありますように、私たちも信じて委ねています。
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今日ここに集えなかった兄弟姉妹方の一人一人も覚えますし、どうぞあなたがそれぞれを行き巡ってくださり、
そしてその場をあなたとの交わりの時、礼拝の場としてくださるようお願いいたします。
また来たる時にはこの教会に連なる全ての人があなたを賛美礼拝できますように、
特にご家族の皆さんのそのうちにあなたが届いてくださるように、どうぞ今日も私たちはまず整えられて、
あなたへの信仰を強めてくださるよう、委ねて主キリストの皆によってお祈りいたします。
アーメン。
使徒の働き、これは精霊の働きと言われますように、いかに精霊が働いて、そしてこの福音が全世界に述べ伝えられていったか、
そして神の業がどれだけ現れて今日に至っているかということを私たちは使徒行伝を通して知るわけであります。
使徒行伝、それは精霊行伝であります。
今日のこの十六章におきましても、多くの神の身業が現れているということを見るわけであります。
あるベテランの牧師先生がそこに仕えている若い牧師先生の説教を聞いて言われたんですが、若い先生は素晴らしいなと、でも若い先生の説教はちょっともったいない気がすると。
サービス旺盛で30分40分の礼拝にこれもあれもこれもあれもと、たくさん盛りだくさんのメッセージ、ポイントを挙げて語られる。
私だったらあれを4つに分けて毎週ずつするのになという、それもどちらもいいと思うんですね。
経験でそういうテクニックもできるのかもしれませんね。
でも今日のこの十六章はまさにこの天狗盛りのような、もうたくさんの神様の身業が現れたというその証がいっぱい詰まっている。
ここの十六章も4つに分けても5つに分けてもできるぐらいの、そういう箇所でありますが。
私も若いですから、もう天狗盛りで今日はこの十六章全部から神様の身業を皆さんと一緒に見ていきたいなとそう思うわけです。
一つはここで何人かの人との出会いがあります。
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人生は出会いで決まるという、そのことをよく言われます。
どういう人に出会った、どういう本に出会った、あるいはどういう音楽に出会った。
いろいろな出会いによってその人の生涯というのが決まってくる。
この十六章の中でも占教者パウロ、あるいはここではシラス、彼らが占教に行ったときに出会いを経験するわけであります。
一つはテモテという弟子がルス寺にいたということ。
ルス寺に行ったときにテモテという弟子に出会ったということですね。
これも大きな出会いでありました。
テモテは皆さんも御存じのようにパウロがエペストの教会を任せて、そしてエペストの教会をテモテに没回するように書いた手紙がテモテへの手紙であります。
あるいは十四節のところでピリピに行ったときにテアテラ市の紫布の商人で神を敬うルデアという女性の人がいました。
彼女とも出会ってこの彼女が救われたという記事が出ています。
あるいは今日読んでいただきました箇所でパウロとシラウスは悟空にとらえられますが、そこで悟空社を管理している観守と出会い、またその家族と交わりをしたということが書かれてあります。
このように出会いを通してその時その場で神様が技をなしてくださった。
私たちも今日今ここにあるのは誰かとの出会い、教会との出会い、聖書との出会い、そしてまた賛美との出会い。
様々な出会いを通し、また多くの人の背後の祈りや、そして導きを通してここに至ったわけであります。
しかし忘れてはならないのはその背後にあって一切を導いておられる方がいるんだということ。
これは決して人間の技でなせるものではない。そのことをこの十六章でも語っているわけであります。
パウロあるいはシラウス、彼らは宣教の志をもって六説、アジアで御言葉を語ることを願っていたわけです。
これからどんどんエルサレムを中心として、全世界に出ていって、そして御言葉を述べ伝えようと相談。
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当時のアジア、今でいう小アジアのトルコの半島のあのあたりに行って宣教しようということを彼らは思っていたわけです。
しかし聖霊によって禁じられた。なぜ神様、聖霊様、あなたは私たちがアジアで御言葉を語ろうとしているのに禁じられるのですか。
でも神様がそうされるなら、それじゃ今度はビテニアの方に行こうとした。
ビテニアの方へ行って宣教をしようとした。
すると七説、イエスの御霊がそれをお許しにならなかった。
ここに私たちは、私たちの思い、ここではパウロたちの思いと神様の思いは違う。
こういうことを私たちは経験するわけです。
私たちはこれがいい、こうするんだ。
そういうふうに思っても、時には聖霊が、あるいはイエスの御霊が同じですが、神様がそれを禁じられたり許さない。
ストップがかかるということ。私たちは経験することがあります。
なぜですか。なぜこうしようと思っているのに。
みんながそうだそうだ、それがいいと言っているのに、神様ご自身がそれを禁じられるということもあるんだということ。
その時に私たちはどう出るか。神様がどうおっしゃろうと。
私たちはこれがいいと思うからそうするんだ、というのか。
それとも聖霊が、あるいはイエスの御霊が、神ご自身がそれを禁じているなら、
下り下って神様の言う通りにしよう。
おはかゆい思い、唇を噛んで耐えなければならない、そういう思いを持ちながらも、それをとどめる。
ここでは主に従うということですね。パウロたちもそうしたわけです。
私たちはいろんなことを祈ったり、あるいは導きを求めたりしますけれども、
私たちの祈りに対して神様は三つの、三通りの答えをしてくださるということを教えられます。
一つはそうしなさい。
二つ目はしてはいけません。もう一つは待ちなさい、ということです。
ここでは、してはいけませんということですね。ストップをかけなさったということ。
時には神様は全面賛成をしてやりなさいとしてくださる、そういうことも当然ありますが、
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時にはいや、待ちなさいと。
イエス様もそうでしたね。時が満ちた三十何年間の間は、イエス様はじっと公の場に出ることはなかったわけですね。
時至るに及んでイエス様は公聴会の場に、公の場に出たということもありますように、それまでは待っておられたわけです。
そういうこともありますから、私たちも、いや、今はまだ時は来ていない。ですから今は静かに待ちなさい、耐えなさい、そういうことをおっしゃることがあります。
私たちはその神様のお導きと、精霊が示されるままに私たちは従っていく。
これが日々十字架を追って我に従えという、そのことであろうと思います。
それでパウロたちは、今度はムシアを通ってトロアスに下った。八節でパウロはトロアスに行った。
そこで神様のこの導きを待っていたわけです。
九節、ある夜パウロは幻を見た。一人のマケドニア人が彼の前に立って、マケドニアに渡ってきて私たちを助けてくださいと懇願するのであった。
幻、それは神様が何かお志をあらわなさる、そのときに現れるもの。
夢の中で神様が現れなさったら、そこで神様は何かを示してくださる。
パウロが見たこの幻、それはマケドニア人が私たちのところに来て助けてください。
パウロはこの幻は神様から出たものに間違いない。今度は神様ご自身がマケドニアに行きなさいと、そう示しておられるわけです。
マケドニアというのは海を越えた向こうの、今でいうギリシャの一地方ですが、そういうところに行きなさい。
お前たちを求めている人たちがいるということを彼は確信して、これは間違いなく神様の言われていることだ、そう確信して彼らはこのマケドニアに渡っていくわけであります。
ですからこの中に全てが神様の御業によって進められているということ、決してパウロたちシラウスたちの思いや計画、それもあったでしょうけれども、
それに勝って精霊が、イエスの御霊が、そして幻を通して現れなさった神ご自身が全てを導いておられるんだということ、そして何よりもそれに忠実に従うという、このパウロたちの姿を見るわけであります。
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第2番目に13節のところ、彼らが行ったそのところに安息日、祈り場があると思われた川岸に行きまして、そこに集まっておられた女性たちに話をした。
これはもちろん挨拶もするでしょう。またお互いの身分の紹介も、自己紹介もするでしょう。そういう話をした。
それと同時にパウロたちの本来の目的である御言葉を伝え、福音を伝える、神様のお言葉を伝えるということですね。それをしたということです。
もちろん祈り場に行って会うなり、皆さんおはようございます。神様はあなた方を愛しておられますという、そんなことはまずないと思うんですね。私たちも皆さんも伝道働きをなさって、そんなことは十分御承知であろうかと思います。
私たちはお互いのまずお話をして、そしてそれから中心のテーマである神様のことを知らせるということ。そういうことをしたわけであります。
そこにテアテラ市の紫布の商人で神を敬うルデアという女の人がそこにいて、そしてパウロたちの話を聞いていた。もちろん福音というものを聞いておったわけです。
この十四節、大切なことが書かれています。彼女はパウロたちの話を聞いて、パウロの語ることに心を止めた。パウロさんの言う話、大変面白い、あるいはなかなか興味のあるお話。
パウロさんもなかなかお話が上手で、そして聞き惚れてしまった。そうだろうか。聖書はそんなふうには書いていません。このルデアは彼らの話を聞いていたが、主は彼女の心を開いて、パウロの語ることに心を止めるようにされた。
彼女の心を開かしめたのは主なんだ。そしてパウロの語るこの福音に心を止めるように導かれたのは主なのだということをはっきりとここで語っているということ。ここに神様の御業が現れている。主は彼女の心を開かしめ、パウロの語るこの福音というものに心を止めるように導いてくださった。
24:17
私たちは得てして、人々にこの神様のこと、あるいは素晴らしい福音というものを何とかしてほしいと願っています。しかし得てして、私が何とかしなければならない、私は何とか言葉を通し、身振り手振りも通し、あるいはいろんなものを通して何とか私がこの人に分からせよう、知ってもらいたい。
そう思う思いはないだろうか。当然あろうかと思うんですね。もう熱心に一生懸命している姿、それは本当に素晴らしいことであります。
しかし私たちはもう一度立ち止まって、聞いてくださっている人の心を開かしめるのは主なのだ。そしてその人が本当に耳を、この福音に心を止める、御言葉を自分の心に受け入れる、そういうふうに導いてくださるのは主なのだ。
ですから、いくら私たちが熱心に一生懸命、そして汗を流してしたとしても、したとしてもそれは素晴らしいことなんですが、尊いことなんですが、主が働いてくださらなければ心を開くこともない。
ましてや御言葉に感動するようなことも起こらない。ですから私たちは福音を伝えさせていただくときに必ず祈らなければならないのは、主をどうぞあなた御自身が今から語る、今からお話しさせていただくこの人に、聖霊様が働いてくださるように。
そして神様御自身が全てを導いて、この御言葉に、福音に心を止めてくださるように、主をあなたがどうぞ導いてください。
私はただあなたに御従いして、あなたがせよと言われることをするだけにすぎません。あなたが用意してくださったその御言葉をただただ心を込めて語らせていただくものにすぎません。主をどうぞあなたが全ての主であります。
そのことをここでもう一度私たちは覚えたいと思います。そうすることによって主に導かれたこのルディアがバプテスマを受ける決心をした。そしてそれだけではなく、彼女もまたその家族もバプテスマを受けた。
何と素晴らしい御言葉、そして証が書かれているでしょうか。福音を聞いたのは、彼女が心を開いて主を受け入れたのは彼女だったわけですが、その恵み、祝福は彼女だけにとどまらなかった。その家族にも及んでみんながバプテスマを受けた。
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紫野々の商人でありますから、家族といっても自分の身内だけではないと思います。彼女が使っていた使用人、召使い、家で働いてくださっているそういう人たち。おそらくそれも含めてみんながこの福音を受け入れて、そして救われてバプテスマを受けた。そのことがここに証されているわけです。
16節からのところで、その町で占いの霊につかれた女奴隷にも出会ったとあります。さまざまな出会いがありますが、この占いをする女性がいましたから、18節でパウロは、そのことに困り果てたパウロは、その霊に向かってイエス・キリストの皆によって命じる。
この女から出て行けと言った。すると即座に霊は出て行った。悪い霊につかれた女性の中から、その悪い霊が出て行った。これは喜ばしいことです。
しかしそれを喜ばない人がいたということ。なぜかというと、その占いの霊につかれた人を操って儲けている人がいたわけです。
19節、彼女の主人たちは、儲ける望みがなくなったのを見て、パウロとシラスを捉えて、役人たちに訴えるため広場へ引き立てていた。
主人にすれば、この女どれ占い、その悪い霊を用いて、そして稼がせて、そしてそれを自分の懐に入れておったわけですが、その占いの霊、悪い霊が出て行ってしまったので、この女性は正気に戻ってしまったわけですね。
もう主人の思う通りにいかない。ましてや儲けもなくなってしまった。これはいけないということで、パウロとシラスを何か荒ぬ疑いをかけて、そしてこのパウロとシラスを捉えていただこうということで、そのような策をしたわけです。
二十節。この者たちはユデアヤ人でありまして、私たちの町をかき乱し、ローマ人である私たちが採用も実行もしてはならない風習を宣伝しております。そんなこと、パウロたちはした覚えがない。しかし、この悪巧みによって、それを信じた長官が、この二人を獄に入れてしまったということ。
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選挙の働き、伝道の働きにはこういうことも起こるんだなということ。私たちはこの不均を伝えよう。そしてこれで救われてほしい。そう願っていても、それをよく思わない人たちが、時には何か濡れぎぬを着せるようなことをして、そしてそれをやめさせようとする。
そんなことが、ここでも起こっておるわけです。二十四節。そして監守に厳重に番をするように命じた。この命令を受けた監守は、二人を奥の牢に入れて足に足隠せをかけた。いよいよパウロとシラスは、獄に放り込まれてしまったわけであります。
この獄舎の中で、また神様の業が起こされていったということ。この箇所は、皆さんも何度も読んで知っておられる方もおられるでしょうし、どうぞ今日このところを覚えてください。
パウロたちは、獄に入れられて何をしておったのか。息承知にしてもうしょげて、そして言葉も交わさない。そんなことであったでしょうか。しかし彼らはそうじゃなかった。
真夜中頃、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っている。私たちにはちょっともう想像できないような。しかしそれを目をつぶって思い浮かべると、この鉄格子の中にいるパウロとシラス。
その者たちが、神よ、あなたこそ主です。あなたは天地万物の神であられ。そして今私たちはここに囚われていますが、主を感謝します。このことを通して主の御業が現れますようにというような祈りをしていたのかもしれない。
そして主よ、あなたを賛美します。十字架の陰に我を置いてまえというような歌を歌っている。こんなことを私たちは今目の前に浮かべるわけですが、また面白いことに他の囚人たちも聞き入っていた。これがまた素晴らしいことですね。
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もう真夜中に眠たいのに、あの者たちは何を言っているのか。どうも何か祈りをしたり、歌を歌っているようだ。それも決して不愉快なものでない。聞き入っていた。何か彼らの賛美と祈りが本当に心に染みるような。何か自分たちも励まされるような。
今自分たちはこの鉄格子の獄舎の中にいるけれども、何かそこに神様がおられて、そして私たちをもう今憐れんでいてくださる神様の愛がわかるような、そういう状況がこの獄舎の中に現れたわけです。
そんな中でまた一つ大地震が起こって、なんと獄舎の土台が揺れ動き、たちまち扉が全部開いて、みんなの鎖が解けてしまった。これもまた神様の大きな技であります。
監修にとっては、この扉が開いて囚人たちの鎖が解けてしまったということは大変なことです。監修としてその仕事は彼らを監視すること、見張っていることですね。
その囚人たちがもし逃げてしまっているとするならば、自分の責任を取らなければならない。彼はそう思ったわけですね。囚人たちがどこを見てもいない。
まあ暗闇ですから見えなかったのかもしれない。囚人たちはこの機会を良しとしてみんなどこかに逃げてしまったに違いない。もうこの後に及んで自分は生きていくことはできない。おそらく生きていたとしても首をはねられることは間違いない。それなら一層のことを責任をとって自害しようと。
この辺は日本人の精神構造とよく似ていますね。日本人は責任の取り方を自食するとか、時には自害する、昔の腹を切る、切腹というような文化がありましたから、責任をとるその印として監修も自害しようとしたわけです。
ところが声が聞こえてきた。パウロが自害してはいけない。私たちはみんなここにいる。私とシラスだけではない。囚人たちもここにいるぞ。誰一人逃げてはいないぞ。そういうふうに叫んだわけです。
明かりを照らしてみますと、なんとみんながそこにいたわけですね。誰一人逃げてはいない。おそらく想像するにパウロやシラスが皆さん、あなたたちは罪を犯してここにいるんだ。
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そして鎖が解かれたとしても、ここで刑を全うして、そしてその時には社会に出て、そしてまたやり直せばいい。そういうようなことを言ったのかもしれない。あるいはそんなことを言わなくても、囚人たちはこのパウロとシラスによってそんなことを示されたのかもしれない。
みんなここにいるんだ。そのことを知った看守は駆け込んできて、パウロとシラスの前に震えながらひれ伏していった。先生方、救われるためには何をしなければなりませんか。
この看守にとって、ここに現れた神様の御業、そして一時は囚人たちが逃げてしまったと思って、自分はもう自害しようとした。あるいはもう自害してもおかしくなかった。もう死んだも同じような人間であった。
にもかかわらず、囚人たちは逃げずにここにいる。私はそのことを通して、もう一度命が与えられた。いわゆる救われた、そんな思いを彼は持ったんだと思うんですね。
しかし、私のこれまでの生き方、あるいは価値観、これからもう一度新しく与えられた命を持って生きていく。それは今までどおりでいいんだろうか。このままでいいんだろうか。そんなことを瞬時にして彼は示されたんだと思うんですね。
そしてこのパウロやシラスの言う、救われるということ。そのことを耳にしていたときに、救われるということは何なのか。あるいはその救いを自分が本当にいただくためには何をしなければいけないんですか。そんなことを彼は率直にパウロとシラスの前にひれ伏して言ったわけです。
これはパウロとシラスという人を崇めたのではありません。この人たちのおかげで私は命拾いをした。しかしその背後にあってこれを導いておられる神様、その神様の前にひれ伏して彼は救われる。そのためには何をしなければいけませんか。教えてくださいと。それこそ懇願したわけです。
二人は答えました。シューイエスを信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も救われます。何もしなくてもいい。するとするならばただ一つ、シューイエスを信じなさい。シューイエスを信じなさい。そうすればあなたは救われます。
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パウロはそう言ったでしょうか。そうは言っていません。シューイエスを信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も救われます。いいですか。あなたもあなたの家族も救われます。
パウロとシラースにとって監修が言っている救われるためには何をしなければいけませんか。おそらく監修は私が救われるためには何をしなければいけませんかという思いで聞いたんだと思うんですね。しかしミコトバは言っています。シューイエスを信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も救われます。
今日私たちは聖書を通して神様の救い神様の御心それは決してあなただけではないんだ。あなたと共にいるあなたの愛する家族その人たちも同じものとして一つのものとしてその救いを願い導いておられる。またそうしなければならないんだ。それが神様の御心なのだ。
ですから私たちはもう一度このミコトバに立って私たちの祈りを変える必要があるのかもしれない。私たちの救いというものがどういうものかもう一度見つめ直す必要があるのかもしれない。
決して私が救われるように誰かが救われるように家族のあの人が救われるようにそんなことを神様は言っておられない。家族みんなが救われるように家族のもの全部がその主の言葉を信じてそしてみんながその印としてのバプテスマを受けて家族が救われるようにということ。
これが神様の思いでありまして私たちの願いでもあり私たちの祈りでもありまして神様は必ずそうしてくださるんだということをもう一度確認しなければいけません。
ですから私たちも教会として誰かを迎えます。誰かが教会と出会ってそしてその人が信じて救われなさる。その前に私たちとの交わりがあります。お互い祈りあったり礼拝をともにしたり。
しかし私たち教会は決してその人だけを見てはいません。その人とともにいつも暮らしておられるそしてまた祈祷会に集会に礼拝に送ってくださるその家族その家族をいつも覚えて祈っています。
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一時的に今私だけ誰それさんだけそういうことがあるかもしれません。でもそれは一時的なことであって神様の究極の目的はあなたもあなたの家族もみんなが救われるということ。
私たちは何をもって私の家族あの人この人が救われているとか救われていないとか判断しているのでしょうか。それも私たちはもう一度主の御前に問い正さなければいけないと思うんですね。
うちの妻はとかうちの主人はダメですよ。うちの子供はうちの親はとかもういくら言ってもとか。なぜ私たちは勝手にそんなことを言うのだろうか。
もしかしたら私たちの知らないところでその家族の誰かさんは主に祈って主よ私はあなたを信じています。どうぞ私も救われたいのです。本当は礼拝にも行きたいのですと言っている人もおられるかもしれない。
私たちはきっといるに違いない。自分の経験からもそうです。なかなか男のなんとかのプライドとか変なそういうのがあって行こうと思いながら行けずにおる。でも心の奥深きところで神様とつながってそして信仰告白をしてなさる人もいるに違いないんです。
ですから私たちは決して自分の勝手な判断で思いで自分の家族の誰それはそんなことを思ってはいけない。御言葉がそう言っている限り主イエスを信じるならばあなたもあなたの家族も家族はいつも一つとしてそして神様はその救いを願っておられる。
またそうしてくださるんだということ。そのことを私たちは決して忘れてはいけませんし、今日からもそういう祈りと私たちの信仰が与えられるように。
私が今日礼拝に行って恵まれたならばその恵みをまた家庭に家族に用いてその恵みを祝福をみんな家族とともに分かち合う。
今日賛美で心を満たされたならば自分だけが賛美で満たされるんじゃなくて家に帰ったら誰もはばかることなく主よあなたは私の主ですと声高らかに賛美をする。
おそらくうるさいからやめろというような家族はいないと思うんですね。なぜかというとその人が喜んでそして輝いてそしてみんなに優しくなってそれを家族の者がやめろというそんなことはまずないわけですね。
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そういうことを通して家族がやがて家族がみんな救われるんだということ。この漢集の救いを通して私たちは今日見るわけであります。三十三節三十四節ここに素晴らしい証が書いてあります。
漢集はその世時を移さず二人を引き取りその内傷を洗った。そしてその後すぐ彼とその家の者全部がバプテスマを受けた。二人をその家に案内して食事のもてなしをし全家族揃って神を信じたことを心から喜んだ。
どのご家庭も皆さんがそのお祈りにあることが成就します。ここにその証があるわけです。彼とその家の者全部がバプテスマを受けそして家族全家族揃って神を信じた。そういう喜びの時が自分の上にも自分の家族にも起こるんだ。
そのことを私たちは信じてここからまた使わされてそれぞれの家庭に帰りたいと思います。あなたが救われたのはまずあなたが救われたのはあなたを通して家族全部の救いが及ぶためである。それは神の御業が現れるためである。お祈りをいたします。
シュイエスを信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も救われます。
今日見言葉を通して神様がそれぞれの家庭やご家族を祝福してくださっていることを見ました。
どうぞ一時的に現れていることにとらわれないで神様はやがてその人を通して神の業が現れて全家族が皆信じてそして救われバプテスマを受けるというそのことを神様はなさってくださることを今日信じて一人一人をお使わし下さいますように。
委ねてイエス様の皆によってお祈りをいたします。
アーメン