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みなさん、おはようございます。寒い日が続いていますが、アメリカは今、大変であるみたいですね。マイナス20℃、30℃、40℃までいってですね、
自然の人がニューヨークにいるんですけど、外に出ない。2週間ずっと家にいるみたいです。それに比べたら、こっちのほうは暖かい方かもいれませんけど、でも寒いです、なってみました。
心も体も心臓も守っていきたいと、そう願っております。では、いつもように隣の方々と挨拶したいと思います。
さわやかな声で、おはようございます。よくいらっしゃいました。ありがとうございます。では、一言お祈りいたします。
大切な神様、あなたの恵みを心から感謝いたします。今から、神様の御言葉に耳を傾けまして、下部を聞きます。
私たちはシモメですので、主人であられる神様が、私たちに必要なメッセージを、今日でなければ聞くことができない。今、ここで、私が聞くべき御言葉を、神御自身が私たちにお語りください。
このシモメを隠して、神のみ現してください。イエス様の御名によってお祈りいたします。
はい、今日のメッセージ、説教は、今年のですね、教団の御言葉とその競合に従ったメッセージです。
教団に属している教会として、また、信者として、この教団全体のですね、共同体のその目標を、私たちがよく知った上で、そして、祈りと協力をもってですね、その目標を一致してですね、歩んでいきたいと、そう願っております。
それからですね、教会があるいは教団がですね、素晴らしい立派な目標を立ててもですね、教会が、信徒がですね、バラバラ自分がしたいことをやってしまうと、あまり意味がないわけなんですよね。
ですから、今日のテーマは、礼拝です。今年、教団的に、この礼拝を、今日のメッセージがその標語ですけれども、命のあふれる礼拝を捧げよ。
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一緒に読んでみましょうか、皆さん。命のあふれる礼拝を捧げよ。三拝、命のあふれる礼拝を捧げよ。
ありがとうございます。
まずですね、軽いお話をしてみたいと思います。皆さん、私たちの教会はオルガンもピアノも使ってますけれども、
オルガンとピアノの中で、どれが強い楽器だと思いますか。変な質問かもしれませんけど。どうでしょう。どう思います、皆さん。
私が知っている知識によると、情報によると、答えはどれも強い楽器でも強くない楽器でもありません。楽器はただ楽器にしてきません。
私が知っている情報によりますと、オンラインの教授から聞いた話ですが、オルガンは昔、14、15世紀だと思いますが、
皆さん、映画でよく見られた上流社会の人々がダンスをしたり、宴会をするんですよね。飲んだり踊ったり、
そういう社交ダンスをしたりする時に始めて作って使われたものがオルガンだそうです。
そしてその後々の時代にまた同じく、そういう宴会で始めて使ったものがピアノ。それが後ほど教会が導入して使ったものになります。
だから皆さん、オルガンがもっと強い、あるいはピアノがもっと強い、あるいは普通の今の若者たちが使っているものは強くない、そういうことはないわけです。
楽器が強いものか強くないものなのか、そのクエスチョンは本質を逃したクエスチョンなんです。楽器が重要なのではありません。
その楽器を奏楽する奏楽者の進行、冷静がもっとも重要なことではありません。
もう一つ、皆さん、今、私たちはシンセサを歌っているんですね。聖歌もありますし賛美歌もあります。
今の若者たちがよく歌っているゴスペルという賛美がありますよね。どれがもっと強い歌なんでしょうか。答えはわかっておられますよね。
皆さん、今、私たちがシンセサでよく歌っている曲の多くの曲は、大体18世紀には禁止された歌が多くあるんです。教会で歌ってはいけなかったんです。
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例えば、聖会とかによく歌われたあの時代には、今の私たちが聖歌と歌っている賛美はゴスペルみたいな若者たちが歌っている賛美でして、教会としては受け入れられなかった。もう禁止されたんです。
また、旧平時代だけで言っても、神様、一つの神様ですから、みんなユニズムで歌わなくてはならない。
例えば、ソフラノ、アルト、ケノル、ベースで分けて歌ってはいちを乱すから、それはダメと言われて、みんなユニズムでソフラノだけで歌っている時代があります。
ところが、今の新世界も、実はゴッドブレスヨとか、主に栄光あれとか、そういうゴスペルがよく歌われて、新世界に入っているんですね。そして歌っているんです。
だから、歌が聖歌が清くて、ゴスペルは清くないとか、それは本質を見逃した傑作なんです。答えは、こう思います。歌が重要なのではありません。賛美を歌う階級の貧困と冷静が最も重要なんです。
恵まれて貧困に満ちた階級が歌うと、その賛美は清い歌になりますし、そうでないと、いくら素晴らしい賛美であっても、心のない賛美であったら、それは意味のない賛美になってしまうでしょう。
皆さん、このように礼拝において、最も本質的に重要なことは、私たち礼拝を捧げる会集、そしてその中で礼拝に仕える奉仕者の我々の前世に重点があるわけなんです。
私たちが清められて、恵みに満たされて捧げる礼拝は、生きた神に喜ばれる礼拝なんです。
礼拝について、より本質的なお話をしたいと思います。
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礼拝の本質は、日本語で言いますと、幸福、幸産。幸福とか幸産という言葉は、あまり人気ないんですね。
福寿という言葉と同じくらい嫌がられているかもしれません。
抵抗感を感じます。違和感を感じます。教会って福寿をよくするんだ、というふうに抵抗感や違和感を感じているかもしれません。
なぜかと言いますと、幸産とか福寿とか、そういう言葉の背後には、敗れる、敗北というイメージが原因と言えるかもしれません。
みんな、誰も敗北者になりたくない、というわけなんです。
今日のような世界どこの国も、競争、社会においては、私たちは決して負けないように、諦めないように、不死することないように教えられます。
私たちは譲ること、あるいは服従すること、従うこと、あるいは幸産について語るよりは、勝つこと、成功すること、乗り越えること、征服することを好みます。
それをより多く語ったりするんですよね。
だから、今の二十世紀からだと思いますが、成功のビジネスとかセミナーとか、そういうところは何十万円、何百万円も払って、
セミナーを聞いたり、その情報を手にしたりする、そういう成功主義、出世主義がこの世界に満員している。教会にもそういう主義が入っているのではないかと思ったりするんですけれども。
皆さん深く、聖書が教えている礼拝は、私たちが神様の御前で、幸産すること、服従すること、それが礼拝の本質なんです。
私が個人的に感じたことですけど、この幸福とか幸産とか福寿とか従順とか、そういう言葉を日本の社会はもっと抵抗感、違和感を感じているのではないかなと思います。
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国もそういう文化的な、社会文化の雰囲気があるかなと思うんですけどね。相対的に、比較的に韓国の場合は、福寿とか従順とか、そういう文化が社会の底辺にあると思うんですね。
さまざまな影響があるかと思います。儒教文化とか、あるいは文体文化とか、そういう影響が社会の底辺にあるわけなんですか。
だからといっていうか、どうかわかりませんけれども、韓国のクリスチャンの場合は、比較的に従順、福寿を良くするほうだと思うんですね。
神様の御言葉の権威に、神様の権威に良く従順するほうだと思います。
皆さん、神様に幸産することが礼拝の本質じゃない。礼拝は神様に福寿する。
御前に比例振って、御言葉に比例振って、御言葉に、孟子が神の御前で自分の靴を脱いだように、私は下辺です、あなたは君宗、君宗ですと比例振すこと、それが礼拝なんです。
皆さん、テレビはあまり見ないんですけど、タイガードラマとか見たら、日本の場合も侍たちが殿様とか君宗のところに星座を振って、
君宗が、殿様が何か語るんですよね。昔の言葉はあまりわかりませんけれども、語るんですね。
そうすると、はい、と言うんですよね。礼拝はちょっと似ていると思います。神様の御前に私たちが、私は下辺です、あなたは福ですと幸産すること、それが礼拝の本質なんです。
皆さん、神様に比例振って幸産、福寿することは恥とか侮辱ではない。むしろ私たちが神様の御前に比例振るときに、誠の礼拝者になれます。これをぜひ覚えておいてください。
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まあ、私、まだまだ僕会の現実、斎藤先生に比べたら、はるかに短いものなんですけれども、教えられたこと、立ったことがたくさんあります。どんな人が、どんな神社さんが、神様に恵まれて祝福されるのか。
神様に福寿する人、神様に従う人、神様の御前で降参する、領手挙げて降参する人が恵まれる、祝福されるんです。
皆さん、神様に降参して福寿して従うということは、神様の驚くべきあの愛と恵みに対する自然な応答なんですね。それは恐れとか義務感によるのではなく、神様が先に愛してくださったから、その愛に自然に応答する。
そして、自分自身をお捧げすること、それが礼拝なんです。
今日もローマ人への手紙、十二章一節をですね、もう一度一緒にお読みいきたいと思います。ローマ人への手紙、十二章一節です。
では、ご一緒にお読みしましょう。
三杯、そういうわけですから、兄弟たち、私は神の憐れみのゆえに、あなた方にお願いします。あなた方の体を神に受け入れられる、生きた備え物として捧げなさい。それこそ、あなた方の霊的な礼拝です。
皆さん、ヒト・パウロがですね、ローマ一章から十一章までは、神様の驚くべき恵みを語ってきました。それが第一章から十一章までの内容は、神様の驚くべき恵み、それがキーワードなんです。
それを語った後に、そういうわけですから、神様がそれほど私たちを愛してくださったから、すべてを渡してくださったから、そういうわけですから、私たちは自分自身をすべて委ねて、礼拝を捧げようと始まっているわけなんです。
皆さん、神様に喜ばれる礼拝とはどんなものなんでしょうか。皆さんがイメージしておられる、神様に喜ばれる礼拝って、どんな礼拝の光景なんですか、皆さん。
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一万人、二万人がスタジアムに集まって、礼拝する、礼拝をイメージしますか。あるいは、大きな大きなでっかいパイプオルガンがおこそかに疎角されている、そしてもう千人ぐらいの聖火体が散布している、そういう光景をイメージしますか、皆さん。
皆さん、神様に喜ばれる礼拝は、今日の御言葉に書かれているように、自分自身を完全に神様に捧げること、それが神様に喜ばれる礼拝です。
もう一つ申します。自分自身を完全に神様に捧げること、この四つを覚えておいてください。自分自身を完全に神様に捧げること、これが神様に喜ばれる礼拝なんです。
では、どうするのが自分自身を完全に神様に捧げる礼拝なんでしょうか。それは、私は神様の御前に幸福しました、福ずけました、御言葉訪に来ます、書き込まれましたと申し上げましたから、自分がしたいままするのではありません。
自分の思うままやっていくのではありません。あるいは自分に馴染んでいるから、今までやってきたから、そのままやるのでもないでしょう。あるいは自分がしたいことはやって、したくないことは拒む、それも実は服従ではないんですよね。
私は神様の御前に幸福したわけですから、神の驚くべき恵みと愛が注がれているわけですから、そういうわけですから、自分自身に馴染んで神に生きること、それが礼拝の本質なんです。
自分自身を完全に神様に捧げたんですよ。そうしたら自分自身を自分がコントロールしません。自分の思いを自分が主導しません。神様が主導する、神様にコントロール、主導していただく、礼拝は神様が主導されるものです。
私は死んで神様が生きること、それが礼拝の本質なんです。
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ですから皆さん、自我に死んで神に生きるためには、自分の考えは死んで神の不考えが生きるためには、神の御心が何なのか、それを絶えずお尋ねしなければならないと思いませんでしょうか。
神の御心が、神の考えが何であるか、それを知れば、神に喜ばれる礼拝を捧げることができるんです。
この十二章一節に書かれている捧げなさいの捧げるという言葉がありますよね。捧げる。捧げるという言葉の意味を考えていただけたらいいですか。
聖詩の中にはこの捧げるという言葉が様々な言葉で訳されていますが、その中の一つは性別されるという意味があります。性別される。
もう一つは、神を死にする。死とする。そういう意味です。もう一つは、自分の十字架を追う。自分の十字架を追う。もう一つは、自分自身に死ぬ。そして、明け渡す。
こういった意味で、この捧げるという言葉が訳されているんですよ。だから捧げるという、自分自身は捧げる、あるいは捧げ物を捧げる、このようにですね、皆さんのように、礼拝を捧げるという意味は、性別することなんですよね。
心も体もこの時を性別する。この死を性別するという。そして、私は下辺で奴隷で、あなたは死です。死とする。自分自身に死んで、神が生きる。そして明け渡す。それが礼拝の本質であり、私たちが捧げるべき礼拝なんです。
ところが重要なことは、捧げる、あるいは性別する、明け渡す、何で呼ばれるか、そこに重要なことがあるのではなく、それを私たちがいかに実行するかということです。いかに捧げるか、いかに性別しているか、いかに自分自身に死んでいるか、明け渡しているかということです。
アメリカの有名な先生の中で、トーザーという先生がいらっしゃいますけれど、その先生はこうおっしゃいました。
多くの人がいまだに悩み続け、求め続けていながら、ほとんど神父らしい神父を求めていないのは、彼らがまだ自分の限界に達していないからです。
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私たちはいまだに自分の限界で物事を進め、神様が私たちを通して働かれようとしているのに、それをざましているのです。とあります。
皆さん、神様の大きな大きな祝福と神様の恵みを邪魔している、妨げている最も大きなざま者は、いまだに神の御前で降参していない、明け渡していない自分自身であるかもしれません。
皆さん、私たちが神様の御前に自分のプライドも恐れも明け渡すときに、神様に喜ばれる礼拝を捧げることができるのです。
神様はまことの礼拝者を求めておられます。探し求めておられます。
今年、皆さんお一人お一人が、妙なに境界が、神様に全てを明け渡して、掲げ切って、主よ私は下辺です。あなたは主ですと崇めて、礼拝するまことの礼拝者となりたいです。
聖書の歴史は、神様は最初からまことの本当の礼拝者を探し求めておられました。
アベルを、エノクを、ノアンを、アブラハムを、モーセを、ヨシアを、サモエルを、ダビデを、彼らは神様に用いられた素晴らしく祝福された人物です。
共通点は、まことの礼拝者でした。アベルがそうでした。エノクがそうでした。ノアンがそうでした。もちろん彼らには弱点もあって恥ずかしい面もありました。
しかし彼らはいつも目は神に向かって、神に礼拝するもの、神の御前に指令するものでした。
言葉通りに喜ばれる礼拝を捧げるものだった。その彼らを、その一族を主が大いに祝福してくださったのです。
ですから皆さん、新しい皆、今年は今日のメッセージの内容のように、教団の先生方がいかに祈って決められた、命のあふれる礼拝を捧げる教会、また教団、ほぼ日本の教会となりたいのです。
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そのためには皆さん、お一人お一人が神に喜ばれる、本当に命のあふれる礼拝を捧げるものとなりたい。
しかし皆さん、誠の礼拝者になるためには、まず私たちが誠の信仰者にならなければなりません。
誠の信仰者にならなければなりません。誠の信仰者とは、もう一度申しますが、神様に復讐すること。
自分で死に死んで、今後も生きるもの。神様は昔も今も、死の御前に指令をして、誠の信仰をもって、誠の礼拝者を探し求めておられます。
そうして、皆さん、私たちの礼拝が、恵みに満ちあうれ、御言葉に満ちあうれ、賛美に満ちあうれ、祈りに満ちあうれる礼拝にしたのです。
命の満ちあうれる礼拝、神の御臨済の深いあの所まで進んでいく礼拝、そして神の力と回復と癒しと恵みが強力に注がれる礼拝、
そしてその所に悔い悩みが起こる、ビジョンが注がれ、希望に満ちる礼拝にして捧げていこうではありませんか、皆さん。
そのためには、私一人一人が神の御前で、誠の信仰者、誠の礼拝者になりたいのです。
去年一度お別れしたことがありますけど、北海道に私のように日本の教会で勃起している選挙地の中ですが、その町の名前はトマコマ市ですね。
トマコマ市、皆さんご存知ですか。人口が約17万人くらいのですね。
昔は、今も構造はあるんですけど、大人性があってですね、昔はものすごく盛んな町だったそうです。
でも今は町がもう錆びてですね、もう閉まっている店が多いんです。
でも人口も減って産業もですね、もう錆びている、そういうところですが、
その教会に、そのいい先生ですけどね、7年前に訪に来てきました。
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あの当時の教会の信者さんは20名若干だったそうです。
で、だいたい平均年齢は70歳だった。おじいちゃんおばあちゃんが多い教会、田舎の教会、小さい教会でした。
この先生の話によりますと、今はですね、街路は大きくなっているんですけれども、とても古くて伝統的で、とても保守的で、
またこの先生の表現によりますと、弊社的な雰囲気もあったそうです。
恋愛場には古いオルガン一体だけあって、ピアノも多名なんですね。ギターとその音はありえないこと。
で、そういうふうに大ほぼつの恋愛をしてきた。で、この先生が婚姻していきました。
でもですね、この先生は韓国にいるときはですね、かなり有名な賛美ボクシーだったんですよ。
作曲作詞もして、その奥様も有名なボカローで、2人ともですね、全国ツアーをして賛美をして、そういう奉仕をするボクシーだったんです。
で、その教会に行って恋愛をしていたら、手美容師をするどころか、アーメンとかそういう声も立ってはいけない。
その先生の話を聞きますと、初めてその先生が恋愛したときに、息苦しくて死にたかったと知っていました。
何かがもう詰まっているように、それは年齢のせいじゃないと彼は感じたそうです。
その堅苦しい教会に婚姻して、その先生は一つと一つ、まず恋愛の復興と言いましょうか、良い方向に変化をし始めていきました。
反対も強かったそうです。楽器も買いたかったのに、買ってくれなくて、ボクシーが自分のプチプラで楽器やアンプやそういったものを買って、賛美集会の日が来ました。
はじめ最初の賛美集会ですね、2人か3人来たそうです。それも賛美したくて来たのではなく、このボクシーはどんな賛美をするか、こんな気持ちで来た。
でもその先生は涙を持って、信号を持って、恋愛が生き返らなければ希望はないと確信を持って、長い間そういう働きをしてきて、
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多くの教会が変わって恵まれたことを理解したことを、彼は何十年間も経験したわけですから、確信を持って反対もありましたけれども、
辛かったんでしょうね。でも祈りを持って進めていきました。賛美が変わりました。そして恋愛もですね、命のあおれる恋愛に変えられたんですね。
その回廊の2階の階段に大きい写真が貼ってありましたけれども、今は80人ぐらい集まっていますけど、おじいちゃんおばあちゃんですよ、78歳の。
手をこう挙げてですね、踊りながら賛美するその場面が撮られて使っていて、それを見てですね、私も感動しました。
その先生もその話の今のこのね、流れの話を明かしながら、もう涙拭きですね、話をしてくれたんですけどね。
どうにも先生は、真とひとりとりを見言葉の訓練をしていきました。最初はなかなか持ってくれなかったんですけど、
今はですね、60、70、80の男性の方々もですね、週に1回、北海道だから牧場というですね、住もうグループの名前を何々牧場、例えば三上牧場、
そう言ってですね、そのどこかに、場所に集まって、男性のですね、少年の方が賛美して見言葉を学んで、もう2時間も3時間もですね、
共にそうして、教会が7年ぐらいなんですけれども、でも早いんじゃないですか、皆さん。
20人の群れが7年経って、今80人、大遺族は90人、ちょっと少なかったが、70人以上集まって礼拝してくれました。
その先生のお明かしは、礼拝が変わりますと、ただのプログラムとかですね、群露とかそういう変化じゃありません。
本質が、礼拝を捧げる回収が変わりますと、教会が変わり、そしてリバイバルが起こる、その明かしをしてくれました。
そうです、皆さん。皆さん、お一人お一人が、誠の信仰者になり、誠の礼拝者になって、神様に喜ばれる自分自身を全て捧げて、
礼拝していく時に、神様が望まれること通りに従っていく時に、集まって見言葉に学んで、訓練を受けて、
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神の見言葉に従っていく時に、リバイバルが起きる、恵みが起こる、祝福が起こるということです。皆さん、神の見言葉に、はい、かしこまりました。
人間に対してではありません。神の見前に自分のプライドを下ろして、
時には新しい変化に恐れや違和感を沿ったものも下ろして、自分自身自我を下ろして、馴染んでいるものを下ろして、神の御声に耳を傾けて従っていく時に、やっと神の働きが始まります。
今年、ひとりとりの上に、八谷教会の上に、神様が望まれる新しいこと、私たちが期待している新しいことより、神様が望まれる神による新しいこと、神様が考えておられる新しいことが行われますように。
そのために、誠の信仰者、誠の礼拝者になりました。もう一度申しますが、礼拝は福状です。
それで、先ほど先生の話ですが、そういうふうに変えられた教会の大きな変化のままきこそ、最初は僕たちが、いくらギターを弾いて賛美をして、奥さんが賛美を歌って、メッセージをしても、
もう、あの先生のメッセージを見て、寝て、他のことをして、そういった人々が目を覚まして、賛美を、口が開けるようになって、賛美を歌って、礼拝に臨む姿勢が。
最後に一つだけ話して、メッセージをいただきたいと思います。アメリカの有名な伝道者、ディール・フライト博士でございます。
皆さん、ご存じだと思いますか。キャンパス・クルセイドとクライト、シン・フィシの創始者なんですね。四つの法則とか、映画のジーガスを作って、その団体によりますと、
ジーガスという映画を世界で40億人が見たと言われます。そして、四つの法則とか、キャンパス伝道とか、あるいはジーガスとか、そういう映画を通って、
約1億4千万人ほどの人々が救われたそうです。それで、ある人が、そのディール・フライト博士に、こうお尋ねしたそうです。
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「先生、なぜ神様はそれほどまでに先生を用いて、また祝福してくださったんですか?」とお尋ねしたそうです。
その時に、このディール・フライト博士は、こう答えたそうです。
私は、まだ若かった頃、神様とある契約を結びました。私はそれをきちんと神に書き出し、その一番下のところに署名もしました。
そこに私は、ただこの一文だけ、今日から私はイエス・キリストの奴隷ですと署名をして、それを今まで命懸けて守ってきただけですと答えたそうです。
皆さん、私たちも神様とこの朝、このような契約を結びたいです。すんごの契約を結びたいです。
今日から私、イエス・キリストの奴隷です。奴隷という言葉は嫌ですか?そしたら下手にしましょう。
今日から私は、イエス・キリストの下手です。
どうぞ皆さん、人生の使徒権を神様にやって渡そうではありませんか。
私たち一人一人が、明らかに教会が神様に降参する時、私たちは誠の信仰者になります。誠の礼拝者になります。その時から誠の聖書、誠のリバイバル、恵みがなります。お祈りします。