00:02
それでは一言お祈りをさせていただきます。お祈りをいたします。
愛する天の父なる神様、尊い皆を心から賛美をいたします。
私たちは今一度、主の御前へと招いてくださり、あなた御自身の命の言葉を聞こうとしております。
主はあなたは私たちを限りなく愛し抜いてくださって、その愛ゆえに御子を十字架に捧げてくださり、
その流された血汁によって私たちの罪を完全に許し、いやそれだけではなく、
三日目によみがえられた復活の主の命、永遠の命を私たちに与えてくださり、
永遠なる主と共に生きる新たな歩みを始めてくださったことをありがとうございます。
あなたはもはや二本足ではない、私の恵みによって歩みなさいと、
あなた御自身がその恵みの世界へと、恵みの御支配へと私たちを招いてくださったことをありがとうございます。
本当に多く祈ってくださったように、私たちは本当に主によって日々一歩一歩歩まされているものですけれども、
本当に迷いやすいものです。弱いものです。主をどうか憐れんでください。
あなたの御言葉によって再度私たちの目を主へと仰がしてくださり、
あなたの言葉によってここからまた勇気をいただいて立つことができるよう、私たちを顧みてください。お願いいたします。
特に本当にここに来たくても来れない方々、本当に施設におられる方々、
用事があって来れない方々、心があるけれども離れてしまっている方々、
どうかお一人一人の思いを主が知っていてくださり、お一人一人にまた主が伴ってください。
その歩みを支えてくださり、また共に集うことができるよう、あなたが導いてください。お願いいたします。
語る者のどうか唇を清めてください。あなたの御言葉がお一人一人に届くよう、主が立ち、導いてください。お願いいたします。
これからの時を見てにおよだねして、イエス様のお名前によってお祈りをいたします。アーメン。
実は以前、とある教会に使わされた時のことですが、
だいたい最初に使わされた時には、ご近所に挨拶というものに伺うわけです。
こんにちは。ホニャララ教会に赴任してまいりました加藤と申します。
よろしくお願いしますと、ご近所の方にご挨拶をするんですね。
するとだいたい言われることは、ほとんどの方は、
そうですか、若いですし頑張ってくださいねということを言ってくださるわけですけれども、
03:04
でも時々このようなことを言われることがあります。
そうですか、ちなみにオタクはエホバとか統一教会とは違うんですよねということです。
当然私はこう答えます。
私たちの教会は違いますよ。普通のプロテスタント教会なんですよということをお話をいたします。
すると、そうですかとひとまず納得していただけるわけですけれども、
ただ挨拶を終えた後ですね、ふと私自身が思わされることがあります。
それは、ああでもあの方からすればエホバの承認や統一教会と
私たちの教会というのはもしかしたら全く同じものに見えてしまっているのかもしれないなということです。
無理もありません。
ここ十数年間、日本において宗教の緊張感というのは高まってきていますし、
最近では安倍元首相の事件があって、統一教会の問題が浮上してきました。
教会に長らく関わっている私たちからすれば、きっと
いやそんな同じものにしないでよということを言いたくなるわけですけれども、
しかし私たちの教会と統一教会、いえもっと如実な言い方をするならば、
キリスト教の本物と偽物、それはどこが一体異なっているんだろうかということです。
当然説明はできます。キリスト教の正当と異端の区別は明確にありますからね。
口で説明はすることはできるんです。
でもふとそこでまた思うんです。
でも口で説明できるだけなんだろうか。
本当にこの区別というのは、こんな言葉の説明だけのことなのだろうか。
いやもっと違うところで、本物と偽物って区別ができるんじゃないだろうか。
そのようなことを私自身考えさせられているものです。
このようなことを考えながら、実は今朝主の祈りの言葉にご一緒に耳を傾けたいと願っているわけです。
先週私たちは主の祈りを少しずつ聞き始めました。
今朝ご一緒に聞きたい主の祈りの言葉は読んでいただきましたが、
みなが聖なるものとされますようにという言葉です。
みなが聖なるものとされますように。
この言葉はみなさんなじみのある主の祈りの言葉であれば、
みながあがめられますようにという言葉ですよね。
新解約2017のこの解約によってだいぶ趣が変わった言葉です。
06:08
でもおそらくこの新解約2017の言葉のほうが、元の言語のギリシャ語にはちょっと意味は近いんですね。
このあがめられますようにという言葉は、最初からちょっとややこしいお話をして申し訳ないんですが、
あがめられますという言葉はギリシャ語ではハギアゾーと申しまして、
意味は聖とする、聖別するという意味合いなんです。
聖とする、聖別するという意味です。
そしてここではみなが聖なるものとされますようにと言われています。
みな。
聖書の中で名前と言いますのは、実はその名前が付けられている存在の本質、ちょっとややこしい言い方をしますが、
名付けられている存在の本質を言い表します。
聖書の中ではほろほろ人の名前って変わりますよね。
アブラムがアブラハムになったりだとか、ヤコブがイスラエルになったりだとか、
あれは何かと言いますと、神様のお取り扱いがあってその人の心の本質から変わったということを言っているんです。
変わったし変えられるという約束なんですね。
ですからみなというのは神様の本質、神様ご自身と言ってよいと思います。
そうであればみなが聖なるものとされますようにという言葉は、言い換えるとこう言えると思うんですね。
それは神様ご自身が聖とされますように。
神様ご自身が聖とされますように。
ただそうなりますとまた一つ謎が出てきます。
では聖とは一体何なのかということです。
聖、聖書の聖です。
聖とは一体何なのかということです。
今朝はそのことにご一緒に注目をしたいわけです。
聖とは何か。
聖とはまさに聖書の中心的な言葉です。
特に私たちは清め派というところに属していますから、私たちにとってはまさに根幹を揺るがす言葉ですね。
聖、神の聖。
それ故に今朝の一度きりの説教では全てを取り扱うことはできませんが、
ただ今朝は神様が聖であるとはどういうことなのか。
そして私たちも聖でありなさいと言われるその意味は一体何なのか。
このことを二つに注目をしながらまたお話をしたいと思うのです。
神が聖であるとは一体どういうことなのか。
09:00
そしてあなた方も聖であれと言われていることは一体どういうことを指しているのか。
一つ目に見てまいりますと、神様は聖なる神であるということです。
神様は聖なる神である。
この言葉を先ほどちょっと見ました。
聖とするという言葉はギリシャ語ではハギアゾウと言いますし、ヘブロ語ではカドウシと言います。
どちらも意味は聖とするということなんですが、
これもうちょっと元の意味をたどりますと、実は何を言っているのかというと、
異なっているという意味なんです。異なっているという意味なんです。異なっている。
異質であるということを表現するための言葉です。
もともとこの聖という言葉は、神様やそれに類するものは、
この世界のいろんなものと横並びでは考えられないですよね。
この世界のものとは全く異なっていますよね。
そのことを表現するために聖という言葉があります。
私たちはこの聖という、清くなる、聖なるという言葉を聞きますと、
何かイメージとして倫理的に清らしいというイメージを持つことがあると思うのですけれども、
ただ実はこの聖という言葉にはそもそもそういう倫理や贈徳的な意味合いは含まれてはいないんですよ。
そういう言葉じゃないんです。
聖という言葉は、何度もくどいように言いますけれども、
聖という言葉は異なっている、異質である。
これは全く他とは違うんだということを表現する言葉なんです。
ですから神様は聖であると言われるときに、それは神様は異なっているという意味なんです。
神様は異なっている。
では、神様はどのような点で異なっているのでしょうか。
ここにも実はいくつか豊かな意味がありますけれども、
今朝は二つだけに絞ってお話をしたいと思いますが、
神様は聖である。
それは神様はそのお力において聖である。
そしてもう一つ、神様はそのご人格において聖である。
異なっているというところをご一緒に見たいと思っています。
実は神様はその力において全くこの世のものとは異なっています。
そのことが実は顕著に表されている聖書の箇所があります。
今ちょうど蒼天祈祷会で読んでいます、出エジプト記です。
全部を見るとちょっと時間がかかりますので、さらっとちょっとだけお話をさせていただきますと、
12:01
出エジプトの出来事を皆さんよくご存知かもしれません。
神様はエジプトで奴隷となっているイスラエルの民をエジプトから救い出すと決められました。
その民を導き出すためにモーセという指導者を立てて、
神様はイスラエルの民をエジプトから脱出をさせるわけですよね。
その時に神様はエジプトに銃の災いと言われる奇跡を起こされます。
この銃の災いというのが下されるその目的は、
まさにこの出エジプト記の前半に何度も繰り返し言われていますけれども、
神様はエジプトにこの災いを下すことを通して、
エジプトのファラオが、そしてイスラエルの民が、
私こそが主であることを知るようにということを言われるんです。
ファラオが、イスラエルの民がこの災いを通して、
私こそが主であることを知りなさいということを、
あの歌手では何度も何度も言われます。
ファラオの気持ちになっていただきたいんですけれども、
ファラオからするならば、実はイスラエルの神様は彼からしたら
主でも神でも何でもないわけですよね。
エジプトの人たちが神様と考えるものは何であったかというと、
それは肥沃な豊作をもたらしてくれるナイル川です。
ナイル川は神様なんです。
カエルの頭を持つ豊作の神様がいるんです。
牛やヤギの頭を持っている畜産の神々がいらっしゃるんです。
そして彼らは天空の神様を信じているんですよね。
オシリスという神様がいる。
そして何よりも彼らの主神、主だった神様は太陽なんです。
彼らはそれを信じているわけですよね。
しかし神様はエジプトを討たれました。
どのように討たれたでしょうか。
ナイル川を血で染めるんです。
カエルやブヨがエジプトを討つわけです。
家畜や人間は疫病で討たれ、氷が天空から降り注ぐんです。
そして稲子の大群が天を覆い、
太陽を主神とするエジプトが闇に覆われるんです。
そして最後、最も激しい裁きが下されますね。
神様はエジプトから未来を奪います。
後取りとなる長子が討たれてしまうということです。
銃のこの災いというのは様々な見方があるんですけど、
一つの見方は何かと言いますと、
エジプトの神々が象徴するものを全て神が打ち破っていくということなんです。
15:04
そしてこのことを通して神様はファラオやイスラエルの人々に問うているんですね。
問うわけです。それは何かというと、
エジプトの神々は本当に神なのかということです。
エジプトの神々は本当に神なのだろうか。
ファラオが頼っている神、彼らが頼っている神の力というのは、
イスラエルの神に匹敵する本物の神、本物の力なのだろうかということを問うているんです。
答えは明確です。いいえです。
それは神でも力でもない。
なぜなら、いかに太陽が偉大であったとしても、いかに天空が広大であったとしても、
いかにナイルバワが豊穣をもたらしてくれるとしても、
それらはこの世界の一部なんですよ。
この世界の一部であって、それらはこの世界と異なっていないんです。
いかに太陽が偉大であって、いかに地上のものが素晴らしくても、
それはこの世界の一部でしかない。
どんなに偉大であっても、それは神様が作られたもの、
神様の秘蔵物であって、神ではないんです。
イスラエルの民は、この出エジプトの奇跡を通して知るんです。
エジプトの神は神ではない。
イスラエルの神こそ、唯一の聖なる神である。
そのことを彼らが賛美している箇所があるので、一回お開きしたいんですが、
出エジプト記の15章の11節から13節というところをお読みしたいと思います。
出エジプト記の15章の11節から13節。
ゆっくりお読みします。
このように書かれています。
主よ、神々のうちに、誰があなたのような方がいるでしょうか。
誰があなたのように、聖であって輝き、
称えられつつ恐れられ、屈しい業を行う方がいるでしょうか。
あなたが右の手を伸ばされると、地は彼らを飲み込んだ。
あなたが贖われたこの民を、
あなたは恵みをもって導き、
身力をもってあなたの聖なる住まいに伴われたと、
エジプトから脱出した民が歌った賛美です。
彼らは歌うのです。
18:01
このような力ある神、偉大な神は、
他の神々とは並び得ない。
他の秘蔵物とは並び得ない。
人々は賛美するんです。
ああ、神は聖である。神は聖である。
そのように彼らは賛美をしている。
このような力あるお方は、他にはいらっしゃらない。
それが一つ目、神の力において、神は聖であるということでした。
しかし、この聖というのは、ただ単に神様が偉大で力があるということだけを言っているのかといったら、
そうではないんです。
神様はそのお力だけではなくて、聖、まさに異なっているというのは、その力だけではありません。
神様はそのご人格においても、まさに当時の世界の神々とは明らかに異なっていました。
実はそのことがわかるのが、
すみません、今日出エジプト記をパラパラ開きますけど、
出エジプト記の3章の7節からというところもちょっとお見せしたいのです。
出エジプト記の3章の7節から、このようなことも言われております。
お読みいたします。ゆっくり読むのでお聞きください。
主は言われた。
私はエジプトにいる私の民の苦しみを確かに見、追い立てる者たちの前での彼らの叫びを聞いた。
私は彼らの痛みを確かに知っている。
私が下ってきたのはエジプトの手から彼らを救い出し、
この地下が広く良い地、父の蜜の流れる地に、
カナン人、ヒッタエト人、アモリ人、ペレジ人、ヒビ人、エブス人のいる場所に彼らを導き昇るためである。
今見よ、イスラエルの子らの叫びは私に届いた。
私はまたエジプト人が彼らを強いたげているありさまを見た。
今行け、私はあなたをファラオのもとに使わす。
私の民、イスラエルの子らをエジプトから導き出せ。
ここまでにさせていただきますけれども。
神様は力強く偉大であります。
しかし、そうであるにもかかわらず、
そのような神様は、民の苦しみを見、そしてその叫びを聞かれる神である。
いいえ、ヤシュトエジプト記を続けて読んでいくならば、それにとどまらないことを知ります。
神様はその民の叫びを聞かれるだけではなく、
21:01
驚くべきことにその民を孟子を用いてエジプトから救い出し、
それだけではなく、天におられる神が、天にいることがふさわしい神様が、
なんとこのうなじのこわいといわれるイスラエルの民とともに歩むために、
あの幕屋をつくれといって、民のただ中に神様が住まわれるんです。
天から下ってまで来てしまわれる。
一節だけなのでこれは読みますが、シュトエジプト記の29章の46節というところには明確にそのことが書かれてあります。
29章の46節というところに、このように神様は言われます。
彼らは私が彼らの神、主であり、彼らのただ中に住むために、
彼らをエジプトの地から導き出したことを知るようになる。
私は彼らの神、主であるといわれる。
この神様の姿をどのように形容したらいいかなと思いますが、
私はおそらく子供が好きすぎて厚苦しい父親みたいだなと見ながら思うわけです。
イスラエルを救うだけではなく、19章にも書いていますが、
あなた方は私の宝の民だといい、
神と人と、そして人と人が共に生きていくためのまさに立法まで神様は与えられる。
そこまで愛される、とことんまでこの民と共に歩もうとされる神がです。
それは当時の世界の神様とは異なっているんですね。
当時の世界の神様は一般的な神々にとって人間というのは奴隷なんです。
それだけではなくて、人間は神様からするならば守るべき対象ですらありません。
祈ったら祈りは聞いてくれるのですが、でも基本的に神々は気まぐれなんです。
しかしイスラエルの神様は真逆です。
むしろ人間に神様から近づき、神がご自身を民にまで与え、祈りに応え、
そしてあのアブラハムのモーセの箇所で出てくるときに、神様ここ自己紹介しましたよね。
私はアブラハムイサクヤコブの神である。
アブラハムのときに結ばれたあの契約を私はずっと忠実に守り続けている。
気まぐれな神じゃないんです。忠実な神である。
パラパラ開いて申し上げます。もう一箇所だけ聖書を開きたいと思いますが、
神明記の7章というところをちょっとお開きいただけますか。
神明記の7章の7節から8節というところにこういう言葉があります。
24:01
有名な言葉です。神明記の7章の7節から8節。
読ませていただきますが、このような言葉があります。
主があなた方を主体、あなた方を選ばれたのは、
あなた方がどの民よりも数が多かったからではない。
事実あなた方はあらゆる民のうちで最も数が少なかった。
しかし主があなた方を愛されたから、
またあなた方の父祖たちに誓った誓いを守られたから、
主は力強い御手をもってあなた方を導き出し、
奴隷の家から、エジプトの王ファラオの手から、
あなた方を贖い出されたのであると言われています。
神様がイスラエルの民を導き出す理由というのは、
実はイスラエルの民方には全くないんです。
民が多いだとか、何か民ができたからということではない。
しかし、まさに私たちの川に何一つ功績がないにもかかわらず、
一方的に神が愛し、一方的に神が選び、
私たちを導き出してくれるとするならば、
実は聖書はそのことを恵みと呼ぶんです。
恵みです。恵みの神です。
神は恵み深い神である。
それは、ある先生の表現を変えるなら、
こういう言い方になるかもしれません。
こんなにはみ出すほどに愛してしまう神、
はみ出すほどに御自身を与えてしまう神というのは、
この世界のどこにもいないんです。
イスラエルの民というのは、契約と立法を通して、
この神はその恵み深い御人格において、
世界のどの神々とも異なっている。
神は聖である。
そのことを彼らは知ったわけです。
さて、ちょっと前置きが長くなってまいりましたけれども、
ちょっと今朝の主の祈りに戻りたいのです。
今朝の主の祈りに、言葉に戻るならば、
今朝の主の祈りは皆が聖なるものとされますようにということでした。
でもここまで聞くと、なんとなくこの言葉の祈りの意図が
見えてくるような気がいたします。
この祈りはいくつか見方がありますが、
まずはこういう祈りだと思うんです。
この世界がまさにファラオが神を知ったように、
神こそが聖であるということを知るようにという祈りだと思います。
27:02
しかし同時に、この祈りはもう一つ祈る私たちに関係することだと思います。
それは祈る私たちが神様を聖なるお方とすることができますように、
神を聖とすることができますようにという祈りです。
それは言い換えるならば、私たちは時折、
神様を聖としなくなることがあるということかもしれません。
神様をこの世界のものと横並びのものとして
知ってしまうということがあるのかもしれません。
実は聖書の中で、まさに神様の聖を怪我した一大事件がありました。
今日パラパラ見てあれなんですけれども、
出世エジプト期の聖徒たちが、
まさに神様の聖を怪我した一大事件がありました。
今日パラパラ見てあれなんですけれども、
出世エジプト期の32章の金の格子事件って皆さんご存知でしょうか。
金の格子。
孟子が実界を山の上に取りに行っている間に、
民は私たちを導いた神を作ってくれと言って、金の格子を作ります。
著しい問題でした。
でも、あの事件は一体何が問題だったのでしょうか。
偶像崇拝、確かにそうです。
でも問題の本質は、
あのイスラエの民を導いた神は、人間の手には収まらない神、聖なる神様である。
しかし、その力においても恵み深さにおいても、
地上の何者とも並べ得ない神様を、
その金の格子という、自分たち管理できるような小さな存在に落とし込んだということです。
神は計り知れないし、神は偉大なお方なのに、
自分たちの手元に収まる大きさに落とし込んだということです。
神を小さくした。
しかし、皆を聖としないということは、
実に神様を小さくするというところから始まって、
私たちには日々の戦いがあるわけですね。
人生を振り回すことが、様々な力が、そして死が、
私たちの周りには働いています。
そしていつしか、そのような私を蝕む力と、
私を苦しめている力というものと、神様というお方が、
いつしか私たちの中で喜ぶ並びになってしまうことがあるんですよ。
神様と力が。
そして、まさにその激行した戦いにおいて、
死を決するのは、私の信仰深さと祈りであると私たちは考えがちなんです。
誤解がないように言います。
信仰深いこと、祈り深いことはとても大事です。
30:01
何度も言いますが、祈ることは本当に大事です。
しかし、そのイメージは少しだけ間違っているのだと思います。
それは何かと言いますと、神様は聖なる神なんです。
横並びになられないんです。
私を蝕む、私が知るあの力、私を苦しめるあの人、
そんなものは神様とは逆行すらしないんです。
いや、太陽ですら神様の前に跪くんです。
創造主の前に、世界のあらゆる力は並び得ない。
何もかもが小さいんです。
でも私たちはそのことを常に覚えなければならないような気がいたします。
一つお言葉を紹介したいのですけれども、
ちょっとスライドを回していただけますか。
これは新学生のときに大洲信一先生、
今、京都信愛教会と明け野キリスト教会で牧聴されていますが、
その先生がナザレンの新学校に行ったときに、
デビット・レイニーという組織心学の学者ですけれども、
その先生が教えてくれた言葉だと言って、
私たちにも教えてくれた言葉なんです。
英語で申し訳ないんですけれども、
God is always bigger than our understanding, but not beyondという言葉です。
でも下に和訳があります。
それは何かと言いますと、
神様はわかったと思ったら、さらにそれよりも大きい。
いつも大きい。
でも手が届かないわけではない。
いい言葉だなと思います。
神様は聖なる神であり、私たちの理解を常に超える神様です。
だから聖なんです。
そしてそのような神であるにもかかわらず、
神様は私たちを愛し近づかれる神なんです。
ここにインパクトがあるんです。
では、この神様の未来について、
私たちに教えてもらいたいと思います。
私たちを愛し近づかれる神なんです。
ここにインパクトがあるんです。
では、この神様の皆を聖とし続けるために、
私たちがとるべきふさわしい師聖とは一体どのようなものでしょうか。
実はそれも出エジプト記に書かれています。
パラパラ開いて申し訳ないです。
ただ出エジプト記の3章というところをもう一度開いていただけるでしょうか。
出エジプト記の3章というところ。
1節からちょっとお読みしますと、こういうことが書いてあります。
出エジプト記の3章の1節から。
33:03
モーセはミディアンの祭司シュウとイテロの羊を飼っていた。
彼はその群れの荒野の奥まで導いて神の山ホレブにやってきた。
するとシュの使いがシバの茂みのただ中の燃える炎の中で彼に現れた。
彼が見るとなんと燃えているのにシバは燃え尽きていなかった。
モーセは思った近寄ってこの大いなる光景を見よう。
なぜシバが燃え尽きないのだろう。
シュは彼が横切って見に来るのをご覧になった。
神は茂みの中から彼にモーセモーセと呼びかけられた。
彼ははいここにおりますと答えた。
シュは仰せられた。
ここに近づいてはならない。
あなたの履物を脱げ。
あなたの立っている場所は聖なる地である。
さらに仰せられた私はあなたの裾の神アブラハムの神イサフの神ヤコブの神である。
モーセは顔を隠した。
神を仰ぎ見るのを恐れたからである。
ここで書かれているモーセの姿勢それは何かといいますと
シュの前に跪くということです。
燃え尽きないシバというのはまさに神様の聖なる姿の現れです。
この世の炎とは異なっているんです。
そのような神様の前に神が聖であるとそこにおられるその場所に
私たちの立つべきふさわしい姿というのはまさに
膝まづく。靴を脱いで膝まづくということです。
さまざまな戦いがあり
それゆえにさまざまな願いが私たちの中にはあります。
こうしてほしい。ああしてほしい。
しかしだからこそ私たちは自分を苦しめるものと
神様を横並びにとらえ
ともすれば自分の願いをかなえてくれる道具に
神様を落とし入れてしまうのかもしれない。
でも違うんです。それは誤解です。
むしろ大事なことは
聖なる神様はあなたの苦しみを見ておられるんです。
あなたの叫びを聞いておられるんです。
そして聖なる神様は全てにおいて力があるのです。
だからその神様に信頼をし
膝を折ることなんです。
神は良いお方なんですね。神は良いお方なんです。
私たちはもはや自分の二本足で立っているんじゃないんです。
神様の恵みによっていきなさいと私たちは招かれている。
皆が聖なるものとされますようにという祈りは
私たちにこういう問いかけがあると思うんです。
力ある神様を小さくしてはいないでしょうか。
まるで恵み深い神様を暴君であるかのように見てはいないでしょうか。
36:03
皆が聖なるものとされますように神は聖であられるそのことを受け止め
むしろ私たちはそのような神様の前に
跪くようにお互いが招かれている。
そのように私たちは言えるんです。
さて、聖であるということを見てまいりました。
ただ、今朝はもう少し一歩進みます。
聖について覚えるときにもう一つ私たちが
目を止めなければならない言葉があります。
この内容は自習にも重なるので今日は軽く見ますけれども
それはまさに私たちがよく知っている言葉
あなた方は聖なるものでなければならない
あなた方の神主である私が聖であるからである
というレビキの19章の言葉です。
聖書の神様は聖である。
しかし同時に神様が求められることは
私が聖であるからあなた方も聖でありなさい
と私たちを招かれるわけです。
ここまで見てきた私たちは
この言葉が漠然と倫理的に清らかになりなさい
というすすめではないということはわかります。
そうではなく、このすすめは
まさに聖書に表されている
神様に表された聖に習いなさいと言っているわけです。
聖に習いなさい。
しかし、思うんですね。
注意深く見なければならない。
それは何かと言いますと
私たちはこの神様の聖のどの部分に習ったらいいんでしょうか。
先ほども見ました。
神様は偉大な力あるお方です。
その神様の偉大性力強さに習いなさいと言われるんだったら
私たちも神様みたいに力強く習わなければならない。
そうなると私たちが神様になっちゃいますよね。
そうではない。そういうことではない。
神様のどのような聖に習うべきなのかということがあるわけです。
実は、神様のどのような聖に習うのかということに
焦点を絞ってくれているのが
今朝読んだペテロの第一の手紙です。
ペテロの第一の手紙の1章の13節からを
今日は読んでいただきました。
新約聖書、新科学2017では
13節は466ページに
新約聖書の466ページにあります。
短いのでちょっと読んでしまいます。
このような言葉です。
ですから、あなた方は心を引き締め
身を慎みイエス・キリストが現れるときに
39:01
与えられる恵みをひたすら待ち望みなさい。
従順な子供となり
以前無知であったときの欲望に従わず
むしろあなた方をめされた聖なる方に習い
あなた方自身生活のすべてにおいて
聖なるものとなりなさい。
あなた方は聖なるものでなければならない
私が聖だからであると書いてあるとおりです。
ペテロがここで進めているのは
神様にまず従順でありなさいということですよね。
でもそれだけではなくて
聖なる方に習い
あなた方自身の生活すべてにおいて
聖なるものとなりなさい。
聖が表されるのは生活の中。
先ほどの話と重ねて言うならば
習うべきところはどこかと言いますと
それは神様のご人格なんですね。
難しい言葉で言うと
立法の倫理規定ということになりますが
でも神様のご人格です。
それを日々の中で表していきなさいということです。
神様はどのようなお方だったでしょうか。
先ほども言いました。
それは愛と恵みに富んでおられる神様であるわけです。
しかしもうちょっと先日目で言えば
こういうことが言えるのかもしれません。
それはご自身を与える神様なんです。
ご自身を与える神様なんです。
それは生活の中で
自分を満たすために
人から何かから奪いたいという
まさに欲望に振り回されるのではなくて
相手を満たすために
神のせいに倣って与えなさい、愛しなさい。
そのように私たちは招かれるんですね。
実は今私は大学で成功して勉強をしています。
私が学んでいる学校はミッション系の大学ですので
時々キリスト教の牧師先生や神父さんが来て
講演会をしてくれるんです。
私が興味深かったのは
カトリックの晴柵正秀神父ってご存知でしょうか。
あの先生が来られて講演をしてくださったんですね。
先生のお働きはこういうことがされているんですけれども
先生はご自身で福音家族という
お働きを展開されているんです。
要はホームレスの方々と一緒に
毎日とにかくご飯を食べるということを
ずっとされているんです。
毎日毎日その人たちと
42:01
毎日一緒にご飯をとにかく食べる。
それはその人が福音を信じていようと
信じていなかろうとかまわない。
あなたは神様にとって大切な命なんだから
一緒にご飯を食べよう。
そうやってご飯を毎日食べるということをされているんです。
それはまさに先生はそういうことを通して
その人はあなたが大事だということ
そしてそう繋がることによって
その人が自殺をしないように
孤独にならないように
そのことを目的に活動されておられるそうです。
しかし講演の中で言ってました。
食費の年出、人に会いに行くための
交通費、活動費というのは
サポートしてくれる人がいるけど全然足りない。
だからほとんど手弁当ですよ。
でもその人と一緒にご飯ができることを考えれば惜しくない。
そしてこう言われていました。講演会の中で。
キリスト教の偽物はお金を出させる。
キリスト教の本物はお金を出してくれる。
私はそれを聞きながら
ちょっと単純化しすぎているなと思いながら
聞いてはいたのですけれども。
ただ一部の真理があるなと思ったのは
確かにキリスト教の健全な信仰というのは
自分の欲望を満たすために人から奪うことよりも
人を生かすために人に与えることを考える
そのような信仰なんですね。
そしてそれは当然なんです。
なぜなら神様が与えるお金だからです。
その形に、その性に私たちは似ていくから。
冒頭に私は本物と偽物の区別はどこで示せるのだろうか
というお話をさせていただきました。
きっと本物のキリスト教
こういう方も好きではないですけど
ただキリスト教が本当であるということは
愛することを通して示すことしかないのではないかなと思うんです。
私たちにできることには限度があります。
けれども奪うことよりも
相手を生かすために与えるということを考える
そのような生き様こそが
おそらくあの人たちはエホバとか統一教会や
この世界のあの人この人とも
なんか違うなと思ってもらえると思うんです。
そのなんか違うなが大事なんですよ。
実はそこから宣教って始まるんです。
よく言われます
鎌野先生もここで記念講演されたときに
そう言われたと思います。
ホーリネスと宣教はつながっているんです。
それは何か。
神の形として回復させられて
神様の性に似た私たちがこの世界で生きていくことを通して
実は宣教になっていくんです。
私たちは
45:01
そうですね
明太に教会は私は聖なる教会だと思っています。
そうであるならばきっと
必要なのはこの近隣の方々を愛することだと思うんですね。
この近隣の方々から
ここに明太に教会があってよかったって
思われるようになることが実は大事なんです。
私たちが聖とされるというのは
私たちがここから帰って使わされるところで
あなたがいてくれてよかった
そう思っていただくことが実は大事なんですね。
そのような意味が聖なんです。
私たちはもうすでに十分にそのように家族に
友人に
聖なるものとして使えておられる方々が多いと私は思います。
だからこそ
聖なる民としてそのように生きていくことを
互いに励まし合いたいんです。
私たちはこれは聖なるものとしてやっているんだと。
私たちは
私たち自身を聖とすること
そのような神様のご人格を築いていくことというのは
基本的には無理です。
でも聖書が語っているのは
そのような私たちを聖とする働きを
聖霊様が私たちのうちに成してくださるということを
言っているわけですよね。
中谷書の5章の見たまのみってそういうことじゃないですか。
そして同時に聖霊様に励まされながら、押し出されながら
聖なるものとして歩んでいく歩みに具体的に取り組んでいくわけです。
神様に跪きつつ取り組んでいくんです。
実はこの両輪なんですね。
どうか
父なる神様を聖なるお方として仰ぎ
跪くことができますように。
イエス様が教えられた祈りを祈りましょう。
神様と皆が聖なるものとされますように。
そして聖霊なる神様、聖なる民として
あなたが愛されたように、神様が愛されたように
人を愛することができるようにと願いましょう。
私の目の前に大きなことはできません。
大きなことはできないかもしれない。
でも私たちの目の前にいる人たちに
神様のように小さな愛の業を表し続けていく。
そのことを互いに張り増し合う
そのような群れで洗っていただきたいのです。
長くなりました。
一言お祈りをしてメッセージを終わります。