神様からの招き
皆さん、おはようございます。
今日はお呼びいただきまして、本当にありがとうございます。
大阪では大きにと言うんですけれども、本当に今日は大きにという気持ちであります。
去年の8月の、ものすごい暑い時だったんですね。
加藤先生から連絡をいただきまして、先生、来てくださいませんか、みたいな話だったんですね。
ちょっといろいろ忙しかったもんで、多分、秋ごろならちょっといろいろ無理やって言ってたと思うんですが、
先生が、1月ですと、ね。1月かと思いまして、そして、まあいいですよという感じで引き受けたんですが、
本当に今考えてみますと、この日ちゃんと神様がいろんな意味で開いてあげてくださっているんだなと思いまして、
本当に感謝したいと思っております。
ギブアンドテイクじゃないですけど、私たちも来ましたので、一度また先生と奥様ね、来年か来ていただけたらなと思いますが、
私たち本当に予定というのがありまして、みんなそれぞれにいろんな予定を持っておりますね。
しかし、本当に牧師をしておりまして、わかることは何一つ、いやほとんど思い通りにならない。
全部が変わっていく。
しかし、そこに常に神様の、私たちの思いをもう遥かに超えたご計画があったということを、本当に何度も何度も知らされます。
今年ももう1月後半に入りまして、早いですね。
本当にあっという間に月日は過ぎていきますけれども、どうでしょうか今年1年間、
皆様本当に神様に期待して、そして、いや何もないんだよ、もう仕事も辞めちゃったよという方、どうぞ朱に期待してください。
あなたの本当に人生に暇などあるはずがない。
神様は私たちをいつも用いてくださいます。そして神様は私たちをいつも押し出してくださいます。
実は家内の証があったんですが、私も5歳の時、うちは5人家族で開拓電動をしている牧師家庭だったんですね。
弟と兄の葛藤
小さい車、今でも覚えていますけれども、スバルというまんまるい車を乗っていました。
そしたら、ネア側のちょっと大きい交差点で泊まっていた時、後ろから大きなトラックが突っ込んできて、
その5人、みんな怪我したんですけど、一番ひどかったのが私だった。
ちょっと細かいことは言いません。
すぐに病院に担ぎ込まれて、私は動けなくてこうしていたところに、本田工事先生が来てくださった。
父親が、本田先生のクルセイザー、いろいろなことで、父親も大阪の人じゃなかったんですが、関西に来て、
そして本当にすぐに来てくださった。
声の大きいおっちゃんが来たのと思って、私はその時に天敵を打っていたんですね。
その時に先生が私の頭を捕まえて、ワーッと祈り張ったんですよ。
この頭は本田先生から油を注がれていたんです。
ワーッと祈り張ったんですね。
でも本当に人生で交通事故に遭うなんて予定ありませんよ。
本田先生が来てくださって、この坊主の頭握ってお祈りしてくださってありませんよ。
もっと、本当にもっと私たちは神様がされることにワクワク期待して、
そしてそこにはもちろん試練もあるんだけれども、その向こうにある神様の何かをなされることに大いに期待して、
今年も進んでいきたいと思っております。
さて今日私は、ルカの十五章の二十五節から、
普通皆さんここから読む人あまりいないですね。
前半の、あのどうしようもない弟が帰ってきた。
そしてお父さんが迎えられたっていう、そういうところを私たちは聞くんですが、
今日はちょっと趣向を変えて、皆さんに、
弟とお父さんの物語のようだけれども、実はお父さんの老苦涙は終わってなかった。
このお兄さんは真面目に働いて、本当に問題行動とは無縁の兄でした。
しかしお父さんの心を痛めつけ傷つけ悲しませたのは、お兄さんも同じだったということがここでわかるわけです。
弟は行動で傷つけたけど、お兄さんは言葉で。
お兄さんはもっと面と向かって、辛辣な言葉で相手を苦しめていく。
このお兄さんを考えたいと思っているんです。
私はこのお兄さんのことを長年ずっと色々と考えました。
その時に、このお兄さんの心に何があったのかということを思うのです。
人間というのは皆さん罪人って言っちゃうと、私たちクリスチャンは罪人って通じるんだけど、
やっぱりもうちょっと違う言い方がいいと思っています。
ここには私はお兄さんの中に恐怖があったと思っています。
恐怖って何でしょうか。
自分と違うものと出会った時に私たちは恐怖を受けた。
理解できる、わかるという範囲でいく時、私たちは余裕を示しています。
しかしその理解できない、ありえない出来事に直面する時、私たちの心には恐怖が生まれるんじゃないでしょうか。
そして恐怖はやがて怒りに変わります。
そういうことが許されていいのか。
今日はそんなお話をさせていただきたいと思っているのです。
お父さんはしかし、そんなお兄さんを受け止める機会を待っていたと考えられないでしょうか。
お父さんは弟をひたすら待っていたと私たちは考えるけど、それは違うと思います。
お父さんは弟にお金を渡すことによって、結果的に弟はそれを使い切らなければ目覚めなかったということを考える時に、
これは愚かなお父さんの姿ではなく、救いのためにはどんなにお金をかけても欲しくないという考え方だったと考えられると思います。
と同時に、なんで弟が帰ってきて、お父さんが喜んで、それでいいじゃないですか。
わざわざ聖書の中に宴会を催した。しかも大騒ぎした。わーってみんなで大喜びしている。
わざとお兄さんを刺激するかのような喜びの宴を開いている。
皆さん、クリスチャン歴長いとお見受けいたしますので、細かい話はカットさせてください。
今日初めてだという方はぜひお読みになったらわかりやすいお話ですが、
対外教会では99%弟のことを考えるお父さん。でも私はもう今そうは思っていない。
実はお父さんの愛は、ある特定のこの人だけじゃなく、その全く反対にいる人にも及んでいる。
そして、わざわざこのように宴会を開いてお兄さんを刺激するかのようにして、
お兄さんが出てきたという箇所が今日のこの25節からなのです。
ちょっとお読みいたします。
28節。
すると兄は怒って家に入ろうともしなかった。
それで父が出てきて彼をなだめた。
しかし兄は父に答えた。
ご覧ください。長年の間私はお父さんにお仕えし、あなたの戒めを破ったことは一度もありません。
ここから、お兄さんはお父さんに対して怒っているだけではなく、何度も申しますが恐怖を感じている。
私も実は牧師で、さっき加藤先生が得意技は交渉と交渉力と人生の道具掃除ですと言っていたのですが、
人生の道具掃除って何かというと、人間というのは生きていると本当にいろんなものがたまってくる。
表向きは何にも問題がないという風にしているけれども、人と関わればすぐにわかってくる。非常にまずいものを抱えている。
これはクリスシャンといえども、何の関係もなく抱えている。
特に道具掃除というのは何かと言いますと、これはしなきゃいけないけれども、しんどくてできなくなってくること。
だけど、私は今日申し上げたいのは、人間にとって本当に道具掃除は必要だということになる。
そして、その人が本当に立ち直っていく道を作るためにも、その人が自分のお城から出てきて人々と出会っていくためにも、やっぱりその辺の道具掃除をする必要がある。
それ誰がするの?あなたがするんですか?
違う。牧師が一緒にその道具を掃除する。
暴力を振るって奥さんが出て行った、その時一緒に行って、
すいません、牧師さん、なんであんた関係はないやろ?
いや関係あります。
そんな風にして関わっていく時に、最初に私が覚えたのは、怒りと恐怖です。
関わる時、人に対して本当に腹が立つ。
いい加減にしろという気持ち。
そして、その怒りと同時に、こんな人がこの世の中にいたら世の中がめちゃくちゃになる。
もっと分かりやすく言うか、刑務所にこの人行った方がいいんじゃないか。
この人病院に入ってみんなから隔離した方がいいんじゃないか。
そんな不安すらよぎる、そういう恐ろしい経験を、実は私はこの兄はしている。
弟が帰ってきた。
お父さんが受け入れた。
それまでは見てても、喜び。
本当にお父さんが喜んで涙して、口づけして抱きしめているところを見た時に、
このお兄さんの心には本当に理解ができない、
父は狂っていると考えたんじゃないでしょうか。
しかし、神の愛は、人間の言葉は使えますけど狂っています。
神が人を救おうとする。
そして社会から放置されたり見放されたり、もう知らないよ。
あの人と関わったらもう腹が立つから関わらないようにしようという、
それをこの物語は越えていく。
お父さんは振り回されているようです。
弟のことで、お兄さんのことで。
でもお父さんは逃げないのです。
今日正解です。
あなたは人から逃げていないですか。
あなたはめんどくさい、わからない、腹が立つ、狂っている、
そんな風にほったらかしにしている人間関係をお持ちじゃないですか。
教会は奇跡が起こるんです。
関わっていく。
出会っていく。
ここで、この父がしっかりと弟にも兄にも向かい合いながら、
ちゃんとお金を渡したことも、
この宴会を催したことにも深い深い意味があることを、
私たちはここで改めて弟が帰ってきた神様の愛、
以上のものを私は感じているのです。
そして今日のお話の一番ポイントは何か、31節です。
父は彼に言った。
子よ、お前はいつも私と一緒にいる。
私のものは全部お前のものだ。
だがお前の弟は死んでいたのに生き返り、
いなくなっていたのに見つかったのだから、
喜び祝うのは当然ではないか。
ここで物語は終わっています。
ものすごく昔から気になっていました。
弟が帰ってきた。
神様の国の理解
お兄さんにちゃんと言うことはお父さんが言った。
それでいいんでしょうか。
この物語は続きがあるということじゃないですか。
お父さんは弟と兄が和解することを避けていた関係。
あいつはわからない、あいつはおかしい、あいつはバカだ、
クリスチャンからでもいっぱいそんな声を聞くんですよ、私は。
だって苦しいから。
今関わっているある中の子。
もう40年以上関わっている。
何回も立ち直って大酒飲んで失敗し、立ち直って大酒飲んで失敗し、
この前ついにやっちゃった。
大酒飲んで車運転して電柱にぶつかって免許取り上げられて。
もうお母さんは先生だめです、いいやだめじゃない、
いいやだめじゃない、一緒に乗りました。
彼と会いました。
先生本当にもうあかんわ。
何も言う言葉もありません。
腹の中にあります怒りがあります。
なんで同じ失敗してるんや、
なんでお母さん悲しませるんや、
なんでや、ってあるんです。
牧師でも。
でもこの話が響いてくるんですよ。
ほっとけ。
それで神様の愛を伝えたり生きるものとしてどうなんだろうか。
精霊様に祈りながら気づいていきます。
あ、ちょっと待ってよ。
この子はなんでそんなことをしたのか、
まずそこを聞いていこう。
落ち着け、自分に。
言いたいこと全部押さえて。
ゆっくりと話を聞く。
迎える。
そして彼の口から出てくるものを待つんです。
そうです。
本当に自分は罪を犯したという言葉を待って。
待って。
待ってよ。
お父さんは仕事終わったんじゃありません。
実はお兄さんと弟の会話がこの続きなんです。
接することのなかった二人、価値観が違う。
今風で言った価値観が違う。
あなたとは考え方が違う。
趣味が合わない、気が合わない、
なんぼでも人と合わない理由がいくらでも出てきます。
あの人が私が嫌いだって言わせたら、
もうばーん、なんぼでも出てきますよ。
しかし神様の愛はそれを超えていきます。
びっくりしました。
もしかしたらこの話は、
一緒に弟の祝福、お兄さんの回復、
全部みんなで一緒に祝っていこうじゃないか。
神様の国ということをちょっと考えます。
今日ちょっとまた午後からお話させてください。
神様の国ってどんな国だろう。
まあ日本人の人は多くは死んでから行くところ、
そんなことを言います。
でもちょっと待てよ、
聖書を読んだら神様の国って、
死んでから行くところっていうのはちょっと違うぞ。
いやもうこの生きてる中にイエス様の愛がここに、
地上に表されたこの現実の中で、
神様の国って実は生きてる間に
少しずつ少しずつ見えてくるんじゃないかな。
神様の国っていうのは何だろう。
イエス様による許し
そう、それは、
イエス様が真ん中に立ってくださって、
本来ならば分裂して仲直りもできなかった、
憎んでた、これ皆さんね、
親を憎んでる人って親が死んでからも
救われてないんですよ。
私はもう40年近く、
たった一人の人のための礼拝、
週一回一時間やってます。
彼はちょっと精神病を持ってます。
自殺するって決めてた男です。
しかし彼はイエス様を信じました。
青垣キャンプ場、
懐かしいですね。
聖書の話を聞いて救われた。
しかし彼はどうしてもお父さんのことを許せない。
そしてそのお父さんを認めてたお母さんを許すことができない。
亡くなりました。お葬式も行きました。
お父さんにも私は会いました。
お父さんにも伝えました。
先生、このアホよろしくって言われました。
一緒に祈りました。
でも何十年経っても未だに許してない。
ただ彼が言っていることはただ一つ。
イエス様によっては許してるって言うんですよ。
それで十分。
だけど心の中では、
なんであの時自分を助けてくれんかったんや、
なんであの時自分のことを笑ったんや、
なんであの時、いまんたんに繰り返して。
しかしイエス様によっては許してるって言葉に、
本当の意味で許してないんだから神の国なんですかって話なんだけど、
許してるところに神様の国が明らかに始まってるんですよ。
皆さん2025年正解だから言いますけど、
こんな風に今年楽しい毎日過ごして生きていきましょうね。
お金これぐらいあるからこれ使いましょうね。
それ本当に聖書の基準なんですか。
子供と和解したい。
じゃあお金使いましょう。
え、お金。はい。
おじいちゃんおばあちゃんが今温泉行くぞって言ったらついてくるから。
いや先生本当でした。
その時言ってね。
目上の人から許す気持ち示さんと絶対あかんよ。
皆さんの場合ほとんど目上でしょ。
年上でしょ。
許せない心を私たちは恐怖というものと、
そして怒りというもので正当化していく。
それを兄のこの姿の中に見ます。
そしてこの兄の姿をお父さんが傷んでいる姿をここに見ます。
そしてイエス様がこの二人の罪を背負って
二人がやがて出会い
父の愛という絶対的なイエス様の十字架の下で和解しながら
それはたとえ死んだとしても諦めてはいけない。
本当にその人が救われたと言えるところまで
私たち教会は関わる使命を持っているのです。
あなたが何かそれはなくても
あなたの隣人は苦しんでいく。
理解できない。
許しがたい弟がいる兄がいる。
教会は毎回毎回毎回私はその勝負をしているつもりです。
そしてイエス様の十字架の秩序と贖いの中で
あなたの怒りや恐怖は本当に贖われて
あなたもそのために始まっていくことができるのです。
同じ愛という題を書きました。
これは神様が私たちだけではなく
本当にあの人は救われるんだろうかという人にまで
教会の使命
同じ愛を与え続けておられるということなのです。
問題を解決するのがキリスト教の仕事ではないと
今私は思っています。
そうではなく
穴の開いた大きな船
罪の穴がどこかに開いている
でもみんな穴が開いていることを無視して知らんぷりして生きている。
本当は穴が開いた船だから罪だからノアじゃないけれども
滅んで当然のこの世界が
なんで穴が開いているのに沈まなかったと思いますか?
誰かがその穴を塞いでいるんですね。
そうです。
今日皆さん方に
ぜひもう一度
兄と弟が出会うということを信じていただけないでしょう。
あなたと全く違う人たちに神様の愛が届いて
そこの真ん中に父が立っているということを
信じていただけないでしょうか。
あの人は救われないって思ってしまう人に
同じ神様の愛が
そう、それほどイエス様が心を痛めて
追いかけておられる。
全方向に全ての人たちに
救いが及ぶために
私たちの人生もお金も
全て捧げていきたいと思うので
教会は
集まってそういうことを祈っていく場所だと思っています。
知らないふりはできません。
問題を共に深めていきましょう。
巻き込まれていきましょう。
本当に罪の中で救いがたい
死にたい死にたい
という言葉が本当に私もいつも聞いている。
死にたい!あかん!
死にたい!あかん!
自殺禁止!笑います。
でもね、おばあちゃん
本当に神様の愛ってあるから。
本当?本当!
本当先生?本当!
死にたくなったのは何でか分かる?分からん。
死にたくなるってね
罪の結果みんな何年だから当たり前やねん。
罪という病気になったら死にたら何年!
皆さんの周りに
あなたと全く違う、理解できない
あなたの怒りの対象がいっぱいいることを
認めてほしいと思っています。
あなたの周りに
この人は狂ってる、理解できない、おかしいと思っている人がいっぱいいることを
この明太にの礼拝堂を借りて言わせていただきたいと思います。
しかしそれをほっておかないでください。
祈り始めてください。
そして、イエス様の十字架が
財産も時間も何も惜しみなく
与えていこうとするその中に
実はこの話の続きは
ドラマセラピーの導入
神の国として成就するのです。
実は私の業界で今
ドラマセラピーというのをやっておりまして
みんなに聖書の脚本を書かせて
役者を選んで
いろいろとやるんですね。
面白いんですよ。
マリアさんそんなこと言ったかどうかわからんけどね。
やっぱり大阪ですし大阪弁になりますわね。
なんとなくね。
ドラマセラピーってついているのは何でかというと
これは実は
学校の先生なんかがやってすごく良いらしいんですけど
普段私も博士と見られてますけど
例えばそこで役をすることによって
何か私のイメージと違うものが
役者さんというのは
その人とちょっと違う役柄を演じるわけです。
人間の幅を広げ
この人はこういう人と面白いところがあるんだ。
今教会に来ていただいている伝道師の先生がね
アイナ先生のお友達なんですが
この人にもドラマセラピーやらせたら
面白いですよ。
私何も言ってないのに相撲を撮りましたからね。
四股踏んだでしょ。
女性のかわいらしい教職の先生がね。
四股踏むバーってみんなえーってなって笑ったんですけど
それはヤコブがね
神様と喧嘩したとかあるでしょ。
あれやらせたんですよ。
先生いいですか?
いやいいけどこれ
あなた四股踏む?
はい!やります!
弱々しい四股やったね。
でもその瞬間みんなが
あ、先生から
あ、こういうことはしてくれるんや。
訪問してください。
あなたの好きなケーキでもお餅でも何でも持って行って
会わんと言われたらここ置いておくよって置いて行ってあげてください。
理解しようとか愛想とか話しようそんなものいらない。
だけど
しんどい思いしてください。
献身とは何でしょうか。覚悟です。
私は自分が救われているとは思っている。
だけど自分がまだ神様の働き
この世界が和解する今もお祈りしていただきました戦争がある
和解の働き兄と弟の出会いの物語は
2025年に生きる私たちの
苗谷のあなたの宿題であること
そして本当に神様働いて
同じ愛で救われていることを共通点としながら
必ず神様が救われないんじゃないかというところに
働いてくださる
2025年のカレンダーを見ながら
そんな気持ちで私は頑張っております。
お祈りします。