1. 名谷教会 podcast
  2. 2013/06/16:聖日礼拝(旧音源)
2013-06-16 57:24

2013/06/16:聖日礼拝(旧音源)

2013/06/16 聖日礼拝(旧音源)




00:04
ありがとうございます。
毎週ですね、聖方への皆さんは、お昼も立てられず、ほぼ毎週2時までですね、練習をしてですね、
こういうふうに毎週、しかも月に1回じゃなくて、毎週、素晴らしい賛美を報告してくださっていらっしゃる、
聖方への皆さんにですね、励ましの拍手をちょっと、済ませてください。
ありがとうございます。
それではですね、今日もメッセージに入る前に、隣の方々と挨拶に、アンティーの握手をしたいと思います。
よろしくお願いします。
では一言お祈りいたします。
大切な神様、あなたは本当に良き天のお父様です。
今日どうか一緒、我ら一人一人に、父なる神様が良い言葉を持って教えてください。
また励ましてください。
祖取り与え、天の智慧を、そしてその父なる神様の素晴らしい愛につり合う、再建する、
そのような私たちの信仰生活が続きますように、どうか一人一人を祝ってください。
この物を隠して、あなたの栄光たちを現してください。
イエス様の皆によってお祈りとします。
今日は先週に続きまして、私が信じるのはその3。
我は父なる神を信ず、という題です。
今日のメッセージのテーマは、お父さんです。
皆さんのお父様はどんなですか。
いらっしゃる方はどんなお父さんでしょうか。
あるいは男性の方は、皆さんはどんなお父さんでしょうか。
今日は私の父の話から、今日のメッセージに入りたいと思います。
03:04
1929年、今の北朝鮮のクニャンというところ、川の近い村で生まれました。
当時は日本の植民時代でしたから、国は一言で言えば、暗黒、苦難、貧乏の時代でした。
1945年、植民時代から国が解雇されましたけれども、その時父の年は15歳でした。
間もなくまた朝鮮戦争が起きたわけなんですね。
その時、北朝鮮に住んでいたわけだから、ちょうど20歳で戦争の平手で強制、徴収させられたわけですね。
北朝鮮の軍人で戦争に参戦させられて、戦争で生き残された人より亡くなった人が多かった時代でしたから、
幸いに生き残されて、3年の戦争が終わり頃、南の方に脱出したんですね。
脱出したんですけれども、またもう一度南の軍人に強制させられて、二度戦争に出されたわけです。
本当にですね、山あり葉にある人生でした。間もなく戦争が終わりました。
その時の韓国は世界一番災害の近民国の中の一つだったんですね。
本当に悲しい、また悪い時代を通ってきました。神様を信じていない、知らない。
そういった時代でしたから、自然に言うか、若い時からお酒やタバコやペコットや世の遊びを楽しんでいた親父でした。
神様を知らないから、世の楽しみしか楽しみがないわけなんですね。
また今の時代のようにですね、いい本があったりセミナーがあってですね、どうすればいいお父さんになれるか。
セミナーもないし、そんな本もないしね、教えてくれる人もないし、結婚をして男を三人持ちました。
1960年代でした。韓国はまだまだ貧しい国でした。
06:09
子育ての家庭を責任を負わなければならない男として、引きこもって進出的にもがきながら生きてきた。
やっと小さな食堂をやることができました。
一方、母は徹底したクリスタンでした。母は中学生の時からクリスタンでしたけれども。
だから信仰を必死に守ろうとする母と、必死に反対しようとする父との間に、よくトラブルがありました。
いい争い、喧嘩が沸きありました。
そんな家で私は育ったわけなんですね。
そんな父は、お母さんを三人の息子によく処中、暴力を振る舞う父でした。
そんな父の元で育てられました。
僕もですね、長いお玉ありますね、長いお玉です。
打たれたことがよくありました。
父は一週間といえば、酔っ払っていない日がないことでした。
小さい時よくさせられたお使いは、タバコ買ってこい、お酒を買ってこいということばかりでした。
本当にひどい時には、一番上の兄はさっきより十歳上ですけれどもね、その兄はもう父を殺したいと思うほどでした。
僕もそんな父のことが怖くて、もう嫌ってうんざりでした。
当然ですね、私が小さい時から持っていたお父さん父というイメージは、頑固すぎ、無愛想、無口、暴力、怖い人間、いや人間じゃない、そういったイメージを持っていたものでした。
高校生の時はですね、実際映っていないんですけど、家を離ればいいと思ったほどでした。
もちろんクリスチャンでした。教会にも行っていました。
青年になってはですね、僕は絶対結婚しないと思い込んでいました。
結婚せいさせてどうせ不幸だろう、どうせ毎日喧嘩ばかりするだろうと、あんな父に夫になるに、結婚しないことがよかろうと思い込んでいました。
09:04
そんな私の中には、お父さんに対する歪んだイメージ、思いを栄えていたわけなんですね。
憎しみだけじゃなくて、恨みも僕のうちで火のように燃えていたわけです。
許すことができませんでした。いや、許したくなかったんです。
私が7歳の時に、母が地球山の末期で倒れたこともありましたけれども、それも僕はそれは父のせいだと思い込んでいました。
しかし問題は私にありました。
それはですね、そういった父に対する歪んだイメージ、まるで色眼鏡みたいにですね、そういったものを抱えていてですね、教会に行っていたわけですから、
父なる神様、天のお父様と呼ぶたびにですね、その自分のお父さんのこの怖い憎しみの、ああいったイメージを持って父なる神様を映し出してしまう。
投影してしまってですね、神様も父なる神様だから当然怖い、罰を与えるばかり、とても厳しくで厳格な父、容赦なく責める父だろうと思い込んでいました。
皆さん、この投影、映し出すというとはですね、こういうことですね。自分の心の状態や思考パターンを人や物に映し出すことです。
例えば、私ともう一人が同じ空を見ているんですね。自分は、なんて悲しそうな空だなと思ったとしました。
同じ空を見ている隣の友達は、気持ち良くていい空だなと思います。同じ空を見ているのに、自分の内にあるフィルター、色眼鏡をかけているわけだから、私には寂しい空のように見えてきます。
友達には気持ち良い空に見えてきます。自分の持っているフィルター、例えば色眼鏡を持って物や人を映し出す投影です。私はそうです。
12:04
教会に行って、天皇お父様、父なる神様を呼ぶたびに、何か無意識中に近づきにくい神様、恐ろしい神様。何か間違ったら、何か謝ったら、すぐに罰を与えられる厳しすぎる父なる神様じゃないかなと思い込んでいます。
そんな私が大学に入って、青年になって、青年会で信仰生活をもっと深めていく中で、神様は私の憎しみの父に対してその歪んだイメージを少しずつ少しずつ扱ってくださいます。
そして、私の中にある父に対する憎しみや恨みや恐れ、そういった感情を一つずつ一つずつ向き合わせてくださって。
そして、その自分が抱えていたその憎しみ、恨み、許していない、そういった感情がどれほど白い毒なのかを、それを気づかせてくださったんですね。
また、その悪い感情を神様は、イエス・キリストのシシをもって、少しずつそのシシをもって洗い流してくださいました。
そして、徐々に徐々にその歪んだイメージを主は直してくださる。正しく見ることができるように助けてくださいました。
それで、お父さんシシと思った時に湧いてくる憎しみや恨みや、そういった病んでいた私の心を、神様に、父なる神様に対しても間違っていた認識を主は少しずつ心を広くし続けてくださいました。
こんなことがありました。私も覚えていますけれど。
父が王道に入って洗っていた時に、背中を洗ってほしいと言われて、男子だから洗ってあげていました。
でも、父の背中が本当に狭く見えてきたんですね。年をとってシワも多くて、肉もたるんでいる。その背中を洗ってあげた時に、本当に不眠で胸が痛かったんですね。
15:08
神様は、私のうちのお父さんに対する理解ができるように、私の心を育ててくださったんですね。
韓国のハラムアンドマ時代を通り抜けて、ひとつの家庭の夫として、父として、貧しい家庭だったから、必死的にもがいて頑張ってきたんですね。
当然、神様は知らないから、信じていなかったから、慰めを世の中から求めるしかなかったんですね。方法が知らなかった。
だから、お酒やそういった遊びに振り回されたわけなんですね。
その父の苦しみ、涙、痛みを私が知ることができるように、主が教えてください。
そして、やっと父なる神様を正しく認識できるように、本当にすごくて素晴らしい、心優しくて、許して許して許して許してください。
すぐに罰を与えてしまう神様として、寛大な海より空より広い心を持って許して、
かばってくださる父なる神様のことを知ることができるように、経験できるように、私のこの心に抱いている異論眼鏡を外してください。
4年前ですね。亡くなって全国にいるんですけれども。
皆さん、案外少なくない方々が、特にお父さんとの関係、あるいはお母さんとの関係で、
傷ついた、傷や、憎しみ、恨み、恐れ、恐怖、あるいは虐待、あるいは許してない気持ちでですね、苦しんでいる方がいらっしゃるかもしれません。
そうでない方もいらっしゃるでしょう。もちろんですね、本当に模範的で優しくて素晴らしいお父さんのもとで伝わった方々もいらっしゃるでしょう。
皆さん、多くの人々の心の中には、そういった弱さを抱えています。
それで父なる神様を正しく認識していない恐れがあるかもしれません。
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そのところを、上からの恵みをいただいて、それをクリアできるようにですね、祈り求めていきたいと、そう願っています。
今日のメッセージを通して、神様の御言葉を通してですね、もしも皆さんのうちに、昔の私みたいにですね、歪んだ父という、あるいは父なる神様に対するイメージ、認識がもしもあるならば、それを正しく知っていただいて。
そして、本当に素晴らしくてすごい神様の愛に触れ合う、経験し続ける私たちでありたいと、そう願っております。
ですから皆さん、今日のメッセージを、こういう祈り心を持ってですね、聴いていただきたいんですね。
私よ、今日本当に良い父なる神様にお会いしたいです。良いお父様に触れ合いたいです。そういったですね、祈り心を持って聴いていただきたいと、そう願っております。
ある父親に二人の息子がありました、今日の方ですね。
父長男は真面目でですね、よくお父さんの仕事をよく手伝う良い子でした。
でも次男は、親によくですね、反抗したり、わがままな息子でした。
ある日ですね、次男が父親に出し抜けにですね、
親父、あなたが亡くなってからなくて、今すぐ財産の分けまいが欲しいんだけどな、駄目ですか、と言い出したんですね。
これは皆さん、当時の風景を見たらありえないことです。
お父さんが亡くなる前には、分けまい信頼を与えることがないんです。
亡くなってから与える。
だから今のですね、この次男のお話はこんな話です。
親父ですね、という。それと一緒です。
そんなわがままなですね、次男の欲しがるお金を、何と父親は何とも言わず、全然怒らず、
二人にですね、それぞれの財産を分けてあげました。
もらうものをもらったこの次男さんはですね、何日も経たないうちにですね、
もう荷物をですね、まとめて早速ですね、遠い国に旅立ちへ行ってしまいました。
そこでですね、皆とでも分かるんですね、お酒や夜の遊びや女遊びですね、
この相当の財産をですね、湯水用に放置して、もう近い果たしてしまいました。
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ダメな奴ですね。
だったら彼はもう近い果たしてしまってですね、意地もなくなってしまってですね、
ちょうどその国に大資金がやってきたんですね。
お金もない、村には食べ物もない、大変でした。
次男はですね、もう生きていかなくならないんだから、ある村のですね、農部にですね、
頼み込んでですね、やっと畑でですね、豚を飼う仕事をさせてもらいました。
でもですね、もうあまりにもですね、あまりのひもじさにですね、
豚の餌の稲子豆さえ食べたいほどでしたけれども、その豆さえ誰もくれません。
こんな毎日を送ったわけなんですね。大変でした。
でも不思議に、やっと彼の目が、お父さんのことが思い出したんですね。
いや、うちの親父には、雇い人さえ食べ物がパンがいっぱいある、自分は息子じゃないか。
こんなところで飢え死にしそうだ。
家に帰ろう。帰って、お父さんにも頼もう、お詫びを。
お父さん、ごめんなさい。神様にもお父さんにも私、悪事をしてしまいました。
もう息子と呼ばれる資格なんてありません。どうか雇い人、そして使ってください、とお詫びしようと思ってですね、
決心がついてですね、父親のもとに帰って行ったんですね。
ところが、ここからが重要ですよ。ところが、その父親は何をしていたんでしょうか。
その父親は毎日のように息子が、次男が、いつ帰ってくるんだろう、いつ帰ってくるんだろう、今日も出かけて息子を待っていました。
また次の日も、また次の日も、息子が家を離れたその翌日から毎日、村の入り口で、いつ帰ってくるんだろう、いつ帰ってくるんだろう、待っていました、待っていました。
やっと遠くから息子の容姿が見えてきたんですね。
父だからそれが自分の息子なのか、隣の息子さんなのか、分かるんですね。
それでですね、もう父親から差し上げて行ってですね、父親からその次男さんを抱きふめてですね、口だけしてですね、きっと泣いていたんですよね。
帰ってきてよかった、帰ってきてよかった、待っていたよ、とですね、喜んで泣いていました。
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その時ですね、息子さんがですね、お父さんごめんなさい、僕は神様にもお父さんにも、という時にですね、きっとですね、お父さんが、もういいよ、こうしてですね、いいよ、いいよ、言わなくても分かるんだ。
ところが、この父親は、家に次男さんを連れて行ってですね、この役員にですね、こう言ったんですね。
さあさあ、何をこやこやしているの?
一度は良いお服を出して、この息子に着せてやれ、指輪も、新しい靴も、それからこうやったコーヒーも用意をして、祝縁の用意も忘れようになるとですね、
死んだ者と諦めていた息子が生き返り、いくえの知らなかった息子が帰ってきたのだから、こうして祝縁が始まったんですね。
これは今日の聖書の物語ですが、皆さん、この物語の父親こそ、私たちの天皇お父様のことを、本当によく描いているんですね。
父親は次男から、親父早く死んでほしいと言われているようですけれども、全然怒っています。
むしろ喜んで財産をですね、分けまえをやりました。
皆さん、私たちが信じている父なる神様は、この物語の父親より、遥かに遥かに素晴らしくて素晴らしいよきお父さんなんです。
たとえ私たちがとんでもない罪を犯したとしても、天皇お父様は私たちを決して怒ったりして、人に罰を与えるお方ではありません。
もし私たちが過ちを罪を犯して、罰を人に与える神様だったら、ここにいられる方は一人もいないんですよね。
許して許して許して、待ってください。
私たちのためにできる限りのことをよくしてくださる、本当に優しい父親なんです。
それで自分が自らその愛に触れ合って、その恵みに触れ合って、自ら自分の弱さを、自分の過ちを築いて、自ら死の身元に近づいて、悔い改めることを、
27:02
まるで父と息子が帰ってくることを待っているように、帰ってくることを待ってください。
帰ってきたら、「お前、ダメなことですね。出て行け!」と、そんな何も言いません。
お子様はどうしたのか、一つの意味も問いません。何とも言いません。
彼が家に帰ってきた時、父親が先に彼を見つけて、走り寄せて、ぎゅっと抱きしめて、口づけて、
そして彼は本当にボロボロの服を担いで着たわけですね。
だから彼が雇い人や他の人に恥をつかせないように、早くも新しい新品の良い服を着替えてくれた。
その恥さえも覆ってくれます。
指輪というものは、「あなたは私の息子だよ。」という印なんです。
それをもう一度最悪にしてくれます。
靴も、そして宴会も、福縁もやってくれます。
私たちの親神様は、容赦なく責めるすべき親父であります。
ゆるって、ゆるって待ってくださる、良きお父様であります。
私たちの過ちも、罪も、報答も、どんなにひどい罪であっても、悔い改めるものを許してくださる、心優しい良いお父様です。
皆さんは、そんなお父様に、天皇父なる神様の愛に、豊かに心いっぱい触れ合っていらっしゃるでしょうか。
皆さんが覚えていらっしゃる、皆さんが感じていらっしゃる、皆さんが日々経験していらっしゃる、父なる神様はどんなお方なんでしょうか。
今日の物語の、このひきおやのように、本当に許して抱きしめて、良いことをしてくださる、父なる神様なんですよ。
神様は、私たちを愛して、愛して、愛して、そして私たちがその愛を知って欲しいと、その愛に触れて欲しいと望んで、望んで、
30:14
メッセージを通して、礼儀表を通して、あるいは賛美を通して、あるいは周りの兄弟姉妹たちの様々な励ましや、若き愛を通して、主が教えて教えて、気づかせてくださる、その愛を経験して欲しい。
皆さん、その愛に触れ合えば、どんな人でも変えられるんです。
この芳香息子もですね、変えられたことでしょう。
ここでもう一つお話したいことは、このようにそんな情けな次男が帰ってきたんですね。
でもお父さんはですね、なんと新しい服も、指輪も、靴も、コーヒーを頬でですね、コーヒー一滴だけじゃないと思うんですね。
職業を設けてくれた。
そんな息子のために、この父親は本当に無駄遣いをしているんじゃないですか。
そんな情けない息子、放送息子のようにですね、もう追い出してもいいような、そんな息子のために、
いや、そんな私たちのために、神様は無駄遣いをしてしまうほど、私たちを思いやって、愛ってくださっているんです。
愛している皆さん、神様は、実は私のために、あなたのために、無駄遣いをしておられるほど、あなたを大切にしておられる。
あなたのためなら、私のためなら、無駄遣いをしても、もったいないと決して思わない。
私たちのためなら、無駄遣いをもう喜んでしてくださる、良いお父さんなんです。
このよきなる神様にお会いさえすれば、人生が変えられるんです。人生が変えられる。
今から、2人、3人ぐらいのですね、そのよきなる神様に出会って、人生が変えられた人のお話をちょっとしたいと思います。
聖像にはですね、水が葡萄に変わった、そういう印が出てくるんですけれども、お酒がビーフステーキに変わった、ある証があります。
新学校でですね、今、校長代行をなさっていらっしゃる中澤先生から聞いたメッセージですけれども、伝道館でですね、伝道していたある兄弟の証です。
33:10
家様に出会う前にはですね、ものすごい酔っぱらい、大酒呑みだったそうです。
もう会社の仕事が終わったりですね、もう毎晩お酒を飲んじゃう。
それでですね、もう休業日になったんですね。昔は直接休業をさせてもらったんですね。
休業日になったら、会社の入り口にですね、飲み屋の人々がずっと待っている。
それでこの人にあげる。そうしたら空っぽのものを持って家に帰る。
そうしたら奥さんがね、もうしょっちゅう喧嘩をしている。
その日々が何年も続いていたんですね。
自分も辞めたいんだけど辞められないまでですね、もう終了とかあったんですよね。
その彼はお友達に誘われて、教会に行ってですね、家様を信じて承認を受けて救われてですね、
なんと流世が180度変わりました。380度変わったら同じところに帰ってしまうから、180度変わりました。
その大酒呑みが伝道者に変わってですね、
なんとその、皆さんも行かれたことあるんでしょうか?
あの伝道家、港側のですね、あのところですね、彼がですね、赤くするんですよ。
皆さん聖書には水が葡萄汁に変わったんだけど、お酒がビーフステーキに変わりました。どういう意味か言いますと、
自分がそういう風にですね、お酒を酔っぱれているんだけど、お酒をなんとですね、不思議に飲まなくなってですね、
休業日になっても、その給料をまるまる持っておごしに帰るわけですね。
そうすると奥さんがですね、美味しいビーフステーキをですね、神戸中の美味しいビーフステーキを用意して料理をして待っている。
お酒がビーフステーキに。
家様の父なる神様にお出会いさえすれば、本当に人生が変えられる恵みがある。
もう一人の証です。この当面の男性は、家様に出会ったですね、もう間もないうちからですね、
不思議にも、この方もタバコもお酒もですね、なんと不思議にですね、もう飲めることができない、吸えることができない、そういう風にですね、もう辞めてしまった。
そんなところですね、自分のこの過ち、罪を悔やかに許しが続いていたところ、
36:00
ある祈りの中でですね、神様が自分の昔の悪いことを思い出してくださったんですね。
それは会社で仕事をしていたときに、会社の砂を横流して、横流してしまって、そのお金でまたお酒を飲んだりですね、そうしてしまった。
それが何年もそれをやってしまったんですね。
それを死が思い出していた。で、相当なお金だったそうです。
それで、神様が示されて、自分のあるお金を、その分、自分がなんとですね、計算をして、そのお金を持って、その元の会社のたとえかのところに行ってですね、
自分が昔、こういう悪いことをしてですね、会社に本当に損害をされないかもしれませんけれども、これぐらいのお金だと思います。これをどうぞ、受け取ってほしいと。
そういうときにですね、お詫びをしに行ったんですね。
そしたら、なんとその翌日、その社長さんがですね、彼の家にですね、来てですね、
お前が、私はな、これ、もう、このお金に私、手を出せ。もう、お前が神様から示されることだから、私は許すから、このお金は、なんとかお前が始末して、と言われて、社長さんに返したそうですね。
返されたお金を持って、中澤先生のところに訪ねてきてですね、先生、これ、どうしたらいいんですか。私はこれ、自分のものには使えませんと言ったんですね。
それで先生が、一週間にもってですね、したら、ちょうどその教会に、椅子がもうなかったのか、本当に古くて、そうしていたのか。
それで、彼がそのお金でですね、献金をして、良い椅子をですね、献品したそうです。その椅子は今も使っているそうですけれども。
皆さん、良きお父様に触れ合えば、自分の昔の罪も、死が思い出して、悔やされる時に、死は良い方向に導いて、ですから皆さん、信仰生活をしていく中で、
何年信仰生活をしたのかより、自分がどれほど深く切実に、この素晴らしい神の具合に触れ合っているのか、どれほど深く浸って味わっているのか、最も大事なんです。
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もう一度、ある方の証ですけれども、私、読んでですね、本当に恵まれたお証ですが、読ませていただきたいと思います。
私はいつも、親の愛情を求めていました。そのままの私を受け止めてくれる存在を求めていたんです。
そして、クリスタルになって、初めて祝なる神様の愛と許しを通して、安心して、自分自身を差し出して、受け止めてくれる存在を得ました。
中高生の頃、私は親を憎んでいました。そして、そんな自分自身がとても嫌いでした。
こんな人間死んでしまえばいい、といつも思っていました。
キスでいい人間でいようこっていましたが、心の中はいつも荒れていました。
聞きは後で分かったことですが、アスケルガー証拠群といって、自分の心や人の心が分かりにくいという脳の障害があり、
子供の頃の私にとっては全く無視されるか、助けを求めても、お前は何でそんなことで泣いているんや、とばっかりと馬鹿にされた思いがあります。
何かに頼りたいと思っても、私には信じることができませんでした。
親も神様も、私にとってはいつも何かを要求してくる、自分次第でさっと相手を引き込め罰を与える恐ろしい存在でした。
2008年3月30日に家様に出会いました。44歳になっていました。
仕事とがんの母の患病で、恐ろしくしんどくて立っているのもつらい状況が続き、
母は亡くなり、私は自分が薄状態だと思って病院へ行っても、相手にしてもらえず、料理もできなくなった状態では、結婚も望みもない、といった絶望ばかりでいました。
その後、母は亡くなってから、ますます調子を壊した父と兄から、毎日のように、
お前は私と一緒におるが、そんなに嫌なんか、そんなに私のことが嫌いなんか、今から死ぬ、という善悪はもう対応に終わり、
私の不幸は全部、この父と兄のせいだ。この家族の問題から逃れる、逃られるから、私は自由になろうと思い込んでいました。
その時、家様に出会いました。イギリスの大学で働いている大学時代の同級生が、一時帰国したときでした。
42:07
私は、友達に自分がみじめな状況が言えませんでした。自分のことに関しては、言い話しかできませんでした。
そして、喧嘩が始まり、私はその夜、眠れなくなり、それから三日間、一睡もできなくなっていました。
人は亡くなる前に、自分の人生を相馬刀のように見ること、見るとよく言いますが、まさにそんな風に、自分がそれまで心の中に溜め込んでいた、悪いことをしたな、と思っていたことが次々と目の前に浮かんできました。
小学校の時、母のことを、「死ね!死ね!死ね!」とノートに何百回も書いていたことや、父の仏壇を浴びに、「やめてよ!気持ち悪い!」と怒鳴り散らしていたこと、
強欲で、にえっぱりで、人のせいばかりにして、自分にも他人にも完璧を求めばかりいて、頑張っていい人になろうとしても、実は本当の自分を受け入れてもらえない憎しみでいっぱいの自分でした。
狂って精神病院に行くか、このまま死んでしまうか、どちらかだと思いました。
そこで紹介されたのが、僕様です。
あなた、ジース・キリストを信じますか?と、僕様は聞きました。
私は、もちろん信じます。と、すぐに返事しました。
教科には頼っていませんでしたが、聖書はちょうど高校の年代のころから読んでいて、神様を信じていたと思っていました。
私に続けて言いなさいと、僕様が言いました。
天皇お父様、私の罪をお許しください。
知って犯した罪、知らずに犯した罪、すべての罪をお許しください。
イエス様、私の罪を代わりに背負ってくださってありがとうございます。
涙があふれて止まりませんでした。
その後、教会に導かれました。
今問題がなくなったわけではありません。
今でも父と兄は当局、靴下は私に電話をしてきます。
でも家族の問題から逃れたら、私は自由になると言ったのは勘違いでした。
問題は私自身の中にありました。
それは、いい人間でいようとして心の中に閉じ込めてきた本当の自分自身でした。
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イエス様がそのすべてを担ってくれました。
そして私は自由になりました。
要求ばっかりして、罰を与えるだけの神様の恐ろしいイメージは全くなくなりました。
今あるのは仮に、何もできない自分でも、そんな存在を大切にしてくださっている貴なる神様の愛です。
ああ、私は存在していていいんだ、という絶対的な安心感。
それがあって、最近長年悩んでいた親を許せないという悩みから解放されました。
親からどんなにトンチンカンなことを言われても、そこに愛情さえ感じるようになりました。
自分の存在を許せないという最大の悩みからも解決されました。
と言ったお若さん、皆さんいかがでしょうか。
基督神社を告白するときに、貴なる神様を信じたと。
その時に皆さんは、本当の主なる神様の愛に触れ合っていらっしゃるんです。
どうか皆さん、天の主なる神様の愛にいたかに触れ合って、
そして心も癒やされ、精神も癒やされ、体も癒やされましょう。
よく医学的にも言われますけれども、心の中にですね、
恨みや憎しみやそういった気持ちを長持ちしてしまうと、
それが毒になって、癌になりやすい、ひどい病気になりやすいとよく言われたりするんですよね。
ここで一つだけ注意していただきたいことがありますけれども、
私たちはこの地上にいる間は、誰かを完璧に完全に愛したり、完璧完全に許したり理解することはできません。
家様の再臨のあの日までは、憎しみもあるいは恨みも持ったりします。
家様が帰りなさって、その時には全く新しいものによみがえる日までは弱さを抱えています。
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そのことをまず認めましょう。
それでですね、今日のメッセージについてですね、もう一つですね、
私は本当に誰々を許していないです。こんなの。
で、自分を責めることも神様の御心じゃありません。
許しすることができないかもしれません。
でも、許せるように、上からまず許されたことをわかるように。
神の愛をまず自分が十分経験できるように、触れ合うように、そうしていきますと、
だんだん、だんだん、どんな人も受け入れることができる。
どんな人も愛することができる。
どんな人もですね、許すことができるように変えられていくんです。変えられていく。
これがよく言われる、聖化ということなんです。
神様は、私たちの心がですね、誰かを憎んでいるこの憎しみがですね、真っ白にならないと愛してくださない神様ではありません。
外をついていても、憎しみが、恨みのしみが、外をついていても、主はまた受け入れて、迎え入れてくださるお方なんです。
日々、新しい霊を注いでください。新しくしてくださる、その豊かな愛に触れ合うではありませんか。
本当にですね、日々良き、強くて素晴らしい神様の愛に、心いっぱい経験していただきたい。
そしてその愛に感動してですね、感激してですね、我は父なる神を信ずと、心から経験から告白できる私たちでありたいと、お願いいたします。お祈りします。
まずはですね、今日の一言葉を覚えて、神様にお祈りしたいと思わされたことは、
まず、もしも皆さんのうちも、心の中にお父さんやお母さん、あるいは誰々に対する憎しみ、恨み、あるいは許してない気持ちが、
もしも、そういった感情の数が、もしも、終わりでしょうか。
そしたら、自分はどれほど大きな大きな愛をもって許していただいたのか。
それはまず、築くことができるようにですね、分かるようにですね、祈りを求めましょう。
そして、本当に良き、きつなる神様の愛に日々触れ合うものとならせてください。
51:03
そしてその愛を自分が本当に心いっぱい経験して、その愛をもって、私たちも人に接して、またその愛を与える、愛するものと、
死を作りかえってくださいとですね、この構えをもってですね、死の見舞いに、今一緒にですね、一斉に祈っていきたいと思います。
では、ご一緒にお祈りいたしましょう。
アレルギーが来た神様、あなたの恵みをもこれから感謝いたします。
今日の御言葉は本当に一生懸命、あなたの恵みは本当に必要。
ああ、来た神様、あなたの愛は素晴らしい愛です。
あなたの愛は全ての人を許し、全ての人を許して、本当にかえて下さる。
そして本当に抱きしめて、そして本当に待って下さる。
どんな人も受け入れて、どんな人も許して、どんな人も本当に必要。
新しい服で、新しい本当に良きものを着て、本当に必要。
あなたは作りかえって下さる。そして立ち上がらせて下さる。
そして死のために生きるものとして作りかえって下さる。
あなた様であることを今日も教えていただきました。
どうぞ、我々の心の中に、あなたの愛を本当に触れ合うことができますように、あなたの愛に触れ合って、
どうぞ、私はまず自分自身から帰られ、そして本当に家族関係から本当に良いものが与えられ、
そして本当に日々本当に新しくされますように、どうぞあなたが本当に守って下さいますように、
お願いをいたします。どうぞ、我々一人一人あなたが強めて下さい。
新しくして下さい。思いを心に必要として下さい。あなたが新しくして下さいますように。
そして本当に神様の素晴らしい愛に触れ合って、どうぞ私の愛に本当にどっぷりと誓って、
本当に恵みを受けたのことを言いまして、どうぞ神様、助け、導いて、祝して、本当に治して、癒して下さいますように、
お願いをいたします。本当に神様、あなたの恵みを本当に心から感謝いたします。
どうぞ、私を大人として導いて下さい。お願いをいたします。
今日のお祈りをいたします。
天皇、神様、今日の御言葉を感謝いたします。
神様、あなた様は本当にこの世にはない。よく本当のお父なる神様。
その素晴らしくてすごい愛を持って、永遠から永遠まで私たちを愛して、
かばって下さい。許して、思いやって下さい。
そして、私たちがどんな罪を犯しても、私は許して、許して下さい。
さて、帰ってくる日を待っていて下さるお父様です。心優しいお父様です。
どうか、実は私たちはそんな神様を信じていますけれども、
時々はこの家族関係において、時には親から、時には自分の弱さのゆえに、
54:04
神様に対する間違った神感を持って、間違った認識を持って、
何か歪んだ信仰を持っていたりしています。
せよ、どうぞ、神様に対する私たちの認識も、理解も、信仰も、
せよ、どうぞ、あなたが正しくして下さい。
新たにして下さい。
癒やして、治して下さいますように、お願いをいたします。
そして、本当に宝島息子の父親のように、いつも私を抱きしめて下さる。
そして、恥を負って下さる。
そして、新しい人生を出発できるように、作り返して下さる。
本当に素晴らしい愛のお父様であることを、せよ、どうぞ、今日教えていただきましたので、
日々その愛に触れ合う私たちでありますように、
せよ、どうぞ、助け、導いて下さい。
せよ、どうぞ、あなたの愛に触れ合って、本当に私をいつも感動し、感謝し、感激する私たちでありますように、
せよ、どうぞ、助け、導いて下さい。
また私たちも、夫として、あるいは妻として、あるいは母として、あるいは息子として、
神様の愛を映し出すことができるように、その愛を与える親、あるいは夫、妻でありますように、
せよ、どうぞ、助け、導いて下さい。
家族の中で、本当に神の愛があらわされ、神の愛情は許しが、恵みがあらわされる、本当に天国のような家庭でありますように、
せよ、どうぞ、まず、自分自身を支度返して下さいますように、お願いをいたします。
どうぞ、せよ、本当に両谷教会の愛する教会の人たちのことを、本当に心から感謝いたします。
本当に毎日のように教会に来て、伝道したり、奉仕をしたり、基督会を捧がったり、また本当に様々な活動をしていらっしゃる教会の人たちを、
せよ、どうか、あなたが覚えて、その愛の道具を覚えて、それが本当に魂が救われる身として結ばれますように、
どうぞ、あなたが用いて下さいますように、お願いをいたします。
体を弱っている方々が大勢いますけれども、せよ、どうか、あなたが本当に一日も早めに、どうぞ、せよ、癒して下さいますように、
そして、必ずに、本当にいらっしゃる兄弟姉妹たちも、せよ、どうか、あなたが強めて、心も信仰も体も強めて下さいまして、
共に礼拝したり、そういった日が早く来ることができますように、どうぞ、あなたが憐れんで下さいますように、お願いをいたします。
どうぞ、せよ、我らの全ての心の病も、体の全ての病も、私たちにはできませんが、あなたには不可能はありませんから、
57:08
せよ、どうぞ、あなたが全ての病を癒して、癒して下さいますように、お願いをいたします。
今日の御言葉を感謝し、イエス様の御名によってお祈りいたします。
57:24

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