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おはようございます。
それでは、いつものように、お近くの方とご挨拶をいたしましょうか。
それでは、御言葉を開く前に、一言短くお祈りいたします。
恵み深い天皇お父様、そして従家族も、最後の聖日、そしてこの礼拝を迎えることができまして、ありがとうございます。
どうぞ、主の臨在の中において行われる、この礼拝の全てを、あなたがすかさどり、また導き、また私ども一人ひとりが、御言葉に向き合いながら、あなたの深いみころを、そこに知ることができるように、その一週間としてあいましてください。
主の皆によってお祈りをいたします。アーメン。
世の中は、ハロウィンということで、ニュースがもうそれで、あっちもこっちもこうやっておりますのでね、何でああいうことが日本に入ってきて、そして、それがすぐに流行するようになるんだろうか。
どうも、これは日本の文化というのは、非常に欧米の文化を受け入れやすい、そういうところがあるのか、これがインドネシアで流行っているとか、あるいはカリマンタンの方で流行っているとか、言ったら、なかなかそれはですね、日本の文化の中に入ることはないんじゃないかなと、皆が思います。
数年前はアメリカでね、このハロウィンのときだったんでしょうか、そういうふうに拘束した青年が、ある民家に行ったところが、そこでお菓子を頼んだのかなと、わかりませんけど、言葉が不十分なために射殺されてしまったという、そういう気の毒な事件がありました。
この31日が正式にはハロウィンでしたかね。何か昨日のニュースでやってるのに、昨日かなと思ったりしたんですが。私たち教会にとってはですね、この10月の31日というのは、これはプロテスタント教会にとっては非常に大切な記念の日なんですね。
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で、1500年代にルターという人が、この人はそもそもローマン・カトリックの修道僧なんですけれども、けれども当時のこの教会がやることが、何かこれは聖書に書いてないことをね、いかにも擦れ出しくやって、そうして莫大な献金を集めているのではないかというような、そういう疑問を持ち出しました。
そして彼はついに、この1517年の10月の31日に、ウエテンベルクジョー教会という、その扉にですね、彼が疑問に感じ取った質問状を95箇条にまとめて、そしてそれを当時の教会に向けた。
これは当時の教会と言いましてもね、一国の国王が跪くぐらいに教会の権力というのは非常に大きかったわけですよ。
ドイツのある国王は、やはり皇后に対して何か不敬なことを言ったかやったか、そうしたら、聖参のそれが受けられなくなってしまった。
私たちはね、聖参式と言っても、今日聖参式だったなあというようなことをしたり、あるいは聖参式に行われる礼拝をそんなに軽くはしてないでしょうけども、休んでしまう。
ところが当時の教会の一つには、もう一回の聖参式でもね、これは大変なことで、ましてその国王でも皇后からね、あなたは聖参を受けられないとなったら、国民の信頼を得ることができない。
そしてとうとうこの国王は、もう真冬の、それこそ雪の降り積もっているそういう中を進んでいって、そして皇后に許しを請けたというような、そういう歴史もあるんですね。
それぐらい当時の教会というのは、もう絶対的な権力を、そして財力を持った時代。
そういうところにですね、一衆同僧に過ぎないこのルターが、この九十五カ条の質問状を向けたところで、まあその教会にとってはね、大した問題にはならなかったかもわかりませんけど、しかしそれが一つの起源になって、
スイスのツイングリでしたかね、カルビンとかそういった人たちがやがてですね、当時のこの教会に対してのそういう思いを持ち始めた。
そしてそこからやがて大きく宗教改革が行われて、でルターは本当に聖書の言葉に戻ろうというのが彼の願いで。
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当時の教会をこう大きくね、制度を変えたり、方法を無視したりなんていうそういうんじゃなくて、とにかく教会は教会らしく、聖書の御言葉に生きるということが大切だということを彼はそこで持って訴えたわけですよ。
けれども当時の教会は権力を脅かすということで、もちろんこのルターを波紋にし、そして彼はもうしばしば命を狙われるようなそういう場面にもあるわけですよ。
怯えたルターはもうこれ以上私は何できないと言って引っ込んでしまったときに奥さんからね、あなた何やってるのと言って叱られた、すごい奥さんだったと思うんですよ。
それでまたルターは改革の手を挙げたとかね、それから彼のおりました部屋、インクの汚れでもってある箇所が汚れてる。
彼はそこに悪魔がいて、自分にその働きを阻止しようとしているということで悪名を引き裂けと言って思わず手にしてこのインク瓶を投げたというそういう逸話まで残っております。
いろんな宗教改革にはそういう諸説があります。
本来は私たちが御言葉を大切にして御言葉に生きるということがこれはお互いクリスチャーにとってはこのカトリックあるいはプロテスタン問わず全ての人に必要なわけですね。
ちょっと余分な話になりますけどもね、この余分が多いんです私は。
もうずいぶん昔にね、それも30年ぐらいかな、ある聖書研究会っていうんでしょうか、そういうね、聖書を学ぶそれが箱根でありましてね、
時にはゆっくりさせてもらおうと思って行きましたらスケジュールがものすごいスケジュールで、それでこういうところへ飛び込んでしまったっていうな、そういう思いがありました。
ところがそこにね、カトリックの神父さんたち、アムさんたちも一緒に来られておりましてね、手にしている聖書を見たら神科薬聖書なんですよ。
いやー私たちにとってこの神科薬聖書はね、非常にわかりやすくていいんですよ。
そうですか、いやー聖書を一つにして一緒に学ぶってことは、そう滅多ない私にとって初めてのことでしたけども、そういう機会がありました。
そしてその後に今度は神教土薬聖書っていうのが生まれて、それでこれが私たちの教団の中でも使用している教会もあれば、こういうふうに神科薬聖書を使っている教会もあれば、
教団としては神科薬聖書を公式の聖書として用いておりますけども、それぞれこの聖書を用いる。
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ただ私はカトリックの神父さんが同じ聖書を開いているということにね、何かこっちが勝ったみたいな変な錯覚を持ったことがあるんですね。
やっぱりこっちの薬がいいでしょみたいなことを言ってね。
それは余談の話ですから忘れてくださいって結構なんですが、聖書が私たちに求めているのは何ですか。
今この4章のこれを少し見ていきますと、この3節に、失礼しました。
1節に、
終わりに兄弟たちよ、終焉にやってお願いし、また勘告します。
あなた方はどのように歩んで神を喜ばすべきかを私たちから学んだように。
ファウロは個人との評価に、あなた方はどのように歩んで神を喜ばすべきかを私たちから学んだと書いています。
そしてその神を喜ばすということが何かというと、この3節、それは神の御心はあなた方が清くなることですと書いたんですね。
私たちにとって神様をお喜ばせする、そして私たちが本当にそのために清くされるということが、
これは私はすべてのクリスチャンの倫理としても非常に大切な基準ではないだろうか。
去年だったでしょうか。
兵庫県の県会議員さんがね、今問題になっております政務活動費、それを不正に使った。
それで彼はとうとう兵庫県の県会議を辞めざるを得なかった。
ああ、こんな人もんだな若いのにと思いましたが、それがねきっかけで、今やもう全国どこの自治体もというんでしょうか、
この議長さんから審議、検議、そういった人たちが、いや実は私もやっておりました。
そして辞職する。つい2、3日前は共産党の議員さんまでもがそれをやっていたということで、彼は辞めましたけどね。
ですから保守系の議員さんも、あるいは革新系の議員さんも、もう漏れなくそういうことでもって、みんなそういうことをやっている。
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そして最近だんだんと明るみになってきたのは、国を守る防衛大臣という、そういう立場についている人がね、
あるいは白紙の領収書、後で金額を書いたらいいっていうのは、何ともこれは不可思議な、しかしそういうのがあったら便利だなと思うようなですね。
そういうのがでもあった。あるいは政府の要である官房長官までもがそういう、これはあまり問題になりませんよという、もうしらっという答えを持って反論しておりますけれども、
一体彼らの倫理基準はどこにあるんだろうか。私は今でも忘れないのは、ある弁護士さんがね、
私の立場から言うと、弁護士さんというのはね、非常に崇高な働きをして、人々のために仕事もやっているというような理解をしておりますから、
ですからそういうやりとりをしておったときに、実は法律に生きる、また法律を守る私たちの世界ほど醜いところはないんですよ。醜い仕事はないんですよ。
何でですかと言ったら、一番最低のせいなんだ。これをやったら罪になる。ここまでは何とか罪にはならないんじゃなかろうかというね、そういうこのギリギリのところを、この弁護士はね、
もうそれこそ法律を駆使して、そして弁護したり、あるいは追及したり、なんかしている。人間の一番効かないところ、一番醜いところ。
そういう中で私たちはその仕事をしているんですということを聞いて、ああそうですか、法律を守るという点から言ったらね、非常に高い倫理感を持ってそしてやってらっしゃるんですけれども、
トロが実はもうそういう政治家をはじめ、特に財産家なんていうのが一番そういう問題ですね、何とかしてくれとやってくる。そしてそれを法律的にどうやったらこの人の罪が少し厳じられるだろうか、あるいは暴かれずに合法だとしてできるだろうかと言ってやっている世界が私たちなんです。
そうすると政治の世界もどういう世界もね、いったいこんな状態でこの国は守られていくんだろうか。何かことが起きると、生前説だとかね、そういうことをあるいは誓約説とかこう言うんですが、
やはりせっかく人のそういう生前説というところに立ってそうしてお任せしてやっているのにも関わらず、それを裏切られるようなそういう事件がもう多発している。そういう倫理基準というのがね、全ての人に失われてしまっているのが今の時代なんだろうか。
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そして今その最頂点に立っていると言ってもいいか分かりませんが、アメリカの大統領選挙が間もなく行われるわけですよ。いったいどっちを選んだらいいんだろうかというのは、あまりこっちは関係ないんですけどね。最低のレベルでもってお互いにけなし合って、そして指摘し合って、そしてやっている世界。
私はそういう最近自分のこの身の回りに、あるいは新聞でテレビで映ってくるようなそういったところを見ながらね、私は本当にクリスチャンになれてよかったなぁと、今改めて思うんですよ。
もし自分がクリスチャンじゃなかったならば、同じようにね、これをやったら悪いんじゃないかとか、これをやったら捕まるんじゃないかとか、これをやったらどうにかなっちゃうんじゃないかどうかというような最低のレベルでもって自分はこの考え方が分からない。
それでもクリスチャンになれたおかげでね、そういう最低のところじゃなくて、いわゆる最高のね、そういう高基準の中に私たちは生かされている。何をしたならばね、あるいはどうやったならば神様に喜ばれるんだろうかって。
これ違うでしょ。どうやったならば罪になっちゃうんだろうかとかいう、そういうレベルじゃなくて、どうやったならば神様に喜ばれるんだろうか。これがお互いクリスチャンとして今置かれているこの立場であり、また私たちのこの水準基準なんですね。
ですから、そのためにも私たちはね、それを知るためには本当にこの御言葉っていうのがどんなに必要かっていうことを改めて思うんです。そして聖書は、今そこに申し上げたように、神の御心はあなた方が清くなることだ。
私たちが清くされるっていう、そのことが私たちクリスチャンにとってのまず第一に大切にしなければならない、また求めなければならないところのことだっていうことをそこで教えています。
聖書を大切にするっていうことは、その線の中において私たちは、じゃあ聖書はどういうふうに私たちに教えているのか。神様の御心に生きることこそがお互い御言葉によって生きるクリスチャン生活だっていうことをそこで言っているわけですね。
私たちは祈るっていうことにおいて、そういう高嶺を目指すことが御言葉と同じように、御言葉によって養われた祈りこそがそういう高嶺を目指すことのできる、そういうことを聖書において私たちは教えられております。
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私は先ほども主の祈りを御一緒に捧げながら、改めて思いましたことは、私たちがいつも祈るその主の祈りの中に、天に御心が行われるとおり、地にも行われますようにっていう、その一文が祈りとして私たちに、イエス様はこの聖を祈りなさいよとして仰った。
いわゆる天に御心が行われている、それが天国ですよね。神様の御心が行われている。そのように自分の中にそれが行われるように、そう祈りなさい。
イエス様は弟子たちの問いに対して、じゃあこうお祈りしなさいっていう、その中の中心部にね、今の一文を一つの祈りの姿勢をそこに教えてくださっている。
ですから私たちは、祈るということにおいて大切なことは、神様の御心が私の内になりますようにっていう、そういうお祈りをしなさい。それですよね。
じゃあ私たちはそういうふうにお祈りをしていたならば、そういうふうに守られていくのか。私たちがお祈りっていうところに、非常にこう、一般社会において私たちがそういう願い事っていうことを教えられてきた中においては、
やはりご利益、ご利益っていうのをね、やはりこう一番のものとして教えられてきたのが、私たちがクリスチャンになる以前のそういう祈りっていうんでしょうか、祈願。そういうことですよ。
ですからそういう願い事をするっていうことの中には、一番自分の都合のいいそういう願い事をして、そしてそれが全部自分の内に当てはまりますように。
こういう例えは適当かどうかわかりませんが、宝くじを引くときにね、神様の御心がここに現れますようにって言って、そしてじゃあ本当に神様の御心が現れて、それが果たされたときに、じゃあそれを全部捧げるのか。御心が現れてもそれが全部自分のものになりますように。
そういう従う心の中でもって、そういうお祈りをするのは健全なお祈りだろうかどうなんだろうか。別にお祈りしたらダメっていうわけではないですよ。
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でもしかしそこにはね、自分の利益とか自分の願いを何とかそこで果たしていくっていうことで、そういうお祈りをするんじゃなくて、そのことを通して神様の御心が現される。
もっと言うならば、その祈りを通して自分自身が神様の御心が自分の身になされるっていうことにおいて、本当に清められていく祈り。これが私たちクリスタンに与えられた大切な祈りであろうかと思います。
福音書を見てまいりますと、今は雷病という言葉を使いませんけれども、この神科学ではあまり使わないものですから、今ちょっと出てきませんけれども、そういう神経略ですと重い皮脂病というふうに訳されているんですね。
で、そういう病気を持った人がイエス様のところで持って癒される。ところがその持った人がイエス様のところに行ったときにどういうふうなお祈りをしたかというと、あなたのお心一つで私は清くされたいのです。
という、そういう祈り、願いを捧げています。そこには、もう何でもかんでも自分の願い通りやってくださいという、そういうではない。たとえそれが答えられなかったとしても、それはあなたの御心ならばそれでいいんです。
まずはあなたの御心が表されてできるならば清くされたいのです。今までの自分がこのご利益的なお祈りを、やはり一般の世の中において教えられてきた、それをするならば、やはりそこにはそれだけではなくて、いや、それ以上に大切なことは、
自分の願いをそこで願いながら、けれどもあなたの御心が行われました。やはり成人した大人の、成人した大人っておかしいですけれども、成人した祈りではないだろうかと。
子供の祈りは、だだっ子の祈りですよ。何でも自分にあてやめて、そして答えられる。そうでなかったらもう嫌だ。そういうふうなお祈り、それは祈りではない。最終的にはね、神様どうぞあなたの一番喜びなさることが、今私がお祈りをするその祈りにおいて果たされますように、という、そういう祈りだ。
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これはね、決して消極的な祈りではないんです。むしろ、先ほどのその聖書の言葉から言うならば、何が自分を喜ばせることなんだろうかという観点からいくとね、そういう点においては、非常に積極的な祈り、そしてその祈りにおいて、もっと神様に喜ばれたい、それを願う。
そして、そのように祈りを通して神様の御心を、また私たちが清くされるということを願うんですけれども、もう一つ大切なことは、神様の御心というのは、一番自分にとって最善なことがそこでなされる、という。
これはもう皆さん御承知のように、ローマミクの手紙の発祥の二十八節という有名な歌詞ですが、そこを開きますとここに、神を愛する人々、すなわち神の御計画に従って召された人々のためには、神が全てのことを働かせて、益としてくださることを私たちは知っています。
なぜなら、神をあらかじめ知っておられる人々を、御子の形と同じ姿にあらかじめ定められたからです、とこの発祥の二十八節、二十九節は教えています。
ある人が、クリスチャンというのは都合のいい考え方というか、やるんですね、と。何もかも全部自分にとって最善がなされる、と。
まあ、農天機もいいとこだ、と。そうなったら、もう心配何もないでしょう、と言ったら、そうね、大した心配もないね、と答えましたけどね。最終的にはね、イエス様の言うところに全部お任せするわけですから。
しかもね、お任せすると言いながら、じゃあその結果はどうなるのか、と。自分にとって不都合なことがそこでもってなされてもそれでいいのか、と。いいんですよ。
とにかく神様は、私たちのために最善しかできなさらない方なんです。万能の神様がね、できないことが一つあるとすれば、私たちにとって最善でないようなことをなさる、そんなことはできない。
けれども私たちのために、最善ということのために、神はその御手をもってね、力強く私たちのうちに最善の策を、最善の技をそこでもってなしてください、と。
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本当にこのことは、私は新学校を卒業しましたのは、1961年ですから今から50、ちょっと前ですけどね。卒業するにあたって、当時私は新学校では文語役聖書っていうね、その聖書で育ってやってきました。
ところが当時はもうすでに教会は公語役聖書に移っておったもんですから、やっぱり教会でこうしているのには公語役聖書になじんどかんとならんだろうということで、公語役聖書を買って、そしてすると世の中に入りました。
その時にね、一つの光って言うんでしょうかね、私は、ああ、公語役はこういう手においていいんだなと思いましたけれども、それはこの二十八節の言葉なんです。
全てのことをあいだ働かせて、役とするっていう、昔の文語役聖書なんですけれども。ところがこの公語役聖書になりましたらね、それが私たちと共に働いて、今お手元のこの新科役聖書ではそれがちょっと抜けているんですけれども、
この公語役聖書ではね、神は神を愛する者たちのあち、御計画に従って召された者たちと共に働いて万事有益となるようにして下さる。共にっていう言葉が、なんか当時の私にとってはですね、一つの光になりました。
これからどういう自分の牧師伝道者としての生涯、何が待っているのかは私はわかりませんけれども、しかしこれからはね、この方が、最善を示し出される方が共にいて下さって、そして私のために働いて下さる。
これは私にとってはですね、非常に大きな励ましい保障というのでしょうか、なりました。それを今でも忘れません。私が滅された時のその言葉は旧役聖書の吉役の立証の旧説なんですけれども、そこでもその後にね、神様は私にそういう働きのために命じて下さったんですけれども、
私はあなたがどこへ行くにも一緒だという、わかりやすいこと、そういう言葉でもって私はその言葉で励まされて、そして献身の志を持って、そしてそれから今日まで来ているわけです。ですからスタートの時もそう。
そして進学をスタートの終わって、そしてこれから伝道者として、海の者なのか山の者なのかわかりませんけれども、しかしこういう方がね、共におられてそして励まして下さるということほど、あの力強い役則の言葉は私にとっては当時なかったですね。
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つまり神様がね、神様の役を行うということにおいて私たちのためにそれは一番最善のことがなされる。じゃあ先ほど言ったようなご利益的なところがそこには含まれているんだろうかと、そうではないんですね。
今のやつのもう少し二十九節の方をちょっと見ますと、ここになぜ神様が私たちのためにそこに最善を成し下さるかというか、ここに二十九節、なぜなら神はあらかじめ知っておられる人々を巫女の形と同じ姿にあらかじめ定められたからですという言葉があるんですね。
これが私たちのために最善をして下さる神様の巫女なんだな、つまりここでも私たちが一言で言うなら清められるということですけれども、私たちが巫女イエス様に似たものとされるために神はね、共に働いてそして私たちのために最善の策をそこでして下さる。
これは私たちのイエス様と同じ姿に変えられるために神は共に働いてそして私のために最善をそこで持って施し下さる。そういうことですよ。神は何も自分の願い事の全部もいいように答えて下さる。
確かにそういう意味合いもあるでしょう。けれどもしかしもっと大切な目的は、神が最善をして下さる目的は私たちのうちにイエス様の姿がなされる、本当に清められるということのために神は総力を挙げて最善の策を私のためにして下さる。
というのがこのローマ未定の手紙の八章の二十八節、二十九節の私たちに向けられたところの言葉です。今読んでおりますローマ未定の手紙の八章のこの言葉ですが、その後にも大切な言葉が付いておりますから開いてみましょうか。
ローマ未定の手紙の八章の、もうすでにお開きになって、その今申し上げた聖書の言葉を確認されておると思いますか。この二十八節、二十九節、そしてそれをそのように受け止めながら三十一節ではこれらのことからどう言えるでしょうか。
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神が私たちの味方であるなら、誰が私たちに敵対できるでしょう。私たち全てのためにご自分の御子をさえ惜しまず、死に渡された方がどうして御子と一緒に全てのものを私たちに恵んでくださらないことがありましょうか。
神が選ばれた人々を、神に選ばれた人々を訴えるのは誰ですか。神が義と認めてくださるのです。
ここで言われているところのこの言葉ですが、私たち全てのためにご自分の御子をさえ惜しまず、死に渡された方がどうして御子と一緒に全てのものを私たちに恵んでくださらないことがありましょう。
つまり、神が私たちのために最善をしなさる、最善のことしかできなさらない方。そしてそれは、私たち一人一人の中にイエス様の御姿がそこに形作られていく。なぜかならばと言ったらいいと思いますよ。
それがこの三十二節。ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方。この方が私たちのうちにそういう良きものを持って私たち一人一人を本当に清くしてくださる。
それをなさる方。そうできなさらない方ではなくして必ず私たちのうちにイエス様の姿をそこにあらわしなさる。そのことのためにね、神は相同意を持って私たちのために最善をしてくださる。
考えてみますと何が最善かと言って、私たちのために、私たちのそれこそ罪のために、父なる神はご自分の御子を十字架に晒し者にして、私たちの住まった者の罪の身代わりとしてそこに、呪いとしてそこにこの方をお付けくださった。
それによって私たちは今の救いに預かっている。御子をさえ惜しまずにお与えくださった方がですからね、私たちのために御子の形、御子に私たちが一人一人が似るものとされるということのために、神は最善を持って私たち一人一人のうちに臨んでくださっているということです。
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そして最後にもう一つのことを申し上げたいんですが、それは繰り返し申し上げておりますように、その御子とは先ほどお読みしましたテサルニケ第一の手紙の四章の三節。
神の御子はあなた方が清くなる。神の私たちに対する最大の関心事は、私たちクリシャンがイエス様の十字架の地によって罪に許されるという、そしてそこに大きな恵みとして含まれているところの清められる。
私たちはそういうものとして、神様の御子が私たち一人一人に向けられているということを今朝御子に覚えていきたいんです。神様の御子は私たち一人一人が本当にそこで清められていく。それこそが神に喜ばれるところのものだ。
ですから私たちの基準というのはここにあるわけですよ。どうしたら罪を犯してしまうのかという。確かにそれは私たち人間ですからどこで過ちを犯すかわからない。
けれども、ヨガネ大師の手紙の二章だったでしょうか、そこを読んでいきますと、私たちが万が一にもそういう罪に犯してしまった場合、あなた方のために私は助け主を送る。本当の弁護士をあなた方のために送ると、そこに言われております。
ですから私たちは限らず罪を犯さない人間にはなかなかなれないんです。けれども犯さない人間に私たちは作り変えられていくというのが御子の姿に変えられていくというそこなんですよ。
私はこの間バーベキューのときにね、私の車のナビゲーターのそれでずっと行ったら、ナビゲーターでは右折ができたんですよ。
それで私はそれを見ながらこうしたら、後ろからピコピコやってきた白いパトカーがおりましてね、最初私じゃないと思った。それで行ったら、そこで止まってくださいということで、じゃあ私だなと思って止まったんです。
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そしたら今のところあれは右折禁止で、もう一つ先が右折できるんですけれども、ここは二か月ほど前から右折禁止になりました。
私がナビゲーターを見たら、ちゃんと右折禁止というのが出たので曲がったんですけれども、本当によく見たらですね、そこに右折禁止と書いてあって、あれはまずかったなと。
久々のパトカーだなと思いました。以前はよくスピード違反とか一方通行をやっちゃったりしたことがあったんですけれどもね。
僕次第だと言ってね、そういう点で間違いなくありたいと思うんですけれども、そういうこの法律よりもナビゲーターの方を信じちゃったものですから、曲がってしまって、結局は何がしかのパッキンと、そしてお褒めの二転列というわけですね。
これが二か月か何回すると綺麗になりますから、これから無意願で行ってくださいよと。ただ次の更新時は今のゴールドから、今度はブルーになると思いますけれども。
他にも少々高くなるかわかりませんけれども、いろいろとそこでアドバイスを受けましたけれどもね。そりゃ神様に聞くようになることはあって、そう求めているんですよ。
求めていながらね、とんでもないところで、やはりこのような法律にもきっかかるようなことを過ちをしてしまうということは時にはあるんです。
ですからそういう意味においてはね、本当にこう汚められたサイトを渡るのは完全無欠だと。そのお前にもね、いや私は間違ったことをしていないと。
そりゃ法律が間違っているんだとかね、いろいろなことを持ってやりあっていたら、あかしな話じゃないんですよ。
ですからそこはそこの法律に従って、そして何かしらの罰金をすぐに払って、そしてこの2点が消えるように言っても、パトカーを見ると何かすぐにこうなるようになりますけれども、
安全運転で、今日まで何とか1ヶ月、まだなりませんかね。早く1ヶ月経てばいいなと思っているんですけれども、年来はそういうことはないようにと思っております。
申し上げたいことはね、聖書は私たちに本当にこう記憶があるように、そしてそれは神様の御心なんだ、という、それを求めるんですよ。
私たちは求めることができるようにされているんです、今ね。けれども、うかつにもそういう過ちも犯すこともある。
そういう点においては、完全なものというのはそこにないかもしれません。
けれども、御心を求めるということにおいて私たちはね、いささかのそこには神様の前にこの非喧騒を感じるようなことがないように、私たちのクリスチャン生活は本当にそこで全うさせてほしいと思うんですね。お祈りいたしましょう。