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2022-03-21 29:30

「変わらない神様 、 変わりやすい信仰」2022年3月21日(日)メッセージ

東京ぶどうの木教会 2022年3月21日(日)主日礼拝のメッセージです。 牧師:アブラハム黄

民数記共同体全体は声をあげて叫び、民は夜通し泣き言を言った。イスラエルの人々は一斉にモーセとアロンに対して不平を言い、共同体全体で彼らに言った。「エジプトの国で死ぬか、この荒れ野で死ぬ方がよほどましだった。どうして、主は我々をこの土地に連れて来て、剣で殺そうとされるのか。妻子は奪われてしまうだろう。それくらいなら、エジプトに引き返した方がましだ。」そして、互いに言い合った。「さあ、一人の頭を立てて、エジプトへ帰ろう。」

民はモーセに抗辯して言った。「同胞が主の御前で死んだとき、我々も一緒に死に絶えていたらよかったのだ。なぜ、こんな荒れ野に主の会衆を引き入れたのです。我々と家畜をここで死なせるためですか。なぜ、我々をエジプトから導き上らせて、こんなひどい所に引き入れたのです。ここには種を蒔く土地も、いちじくも、ぶどうも、ざくろも、飲み水さえもないではありませんか。」

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今日は変わらない神様、変わりやすい 私たちの信仰という対応をもって
メッセージを分かち合いたいと思います。
今日なぜこのようなメッセージを準備したのか、 先週、民数記中4章の見言葉を読みながら
私はもう本当に情けなくて理解ができない部分があったからです。
神様はイスラエルに対して驚くほどの計画、また大きな期待感を持って
長い間イスラエル人たちを作られ、守られ、導いてこられた反面、
招きを入れてついてくるイスラエル民は、神の計画、神様の期待感とは全く関係がない。
そこにも関心もない。 自分たちの生活、うまく食べて、うまく生きるための
自己中心的な考えを持ってついてきたんです。 どうして神様の考えと私たちの考えがこのように異なるかと思われるほど
偉大な神様の計画に比べて深刻で情けないイスラエルの民。
それにも関わらず神様は彼たちを諦めないで、最後まで彼たちを生かして使おうとする神様の熱心。
そこに私たちはどう答えればいいのか。 それは本当に気の毒だと思ったからですね。
もっと具体的に申しますと、神様は全世界を救おうとする救いの計画を持っていました。
そしてそのために長い間イスラエル民を選ばれ導いてこられたんです。
彼たちには何でも神様は見せてくださいました。 パラを勝ち抜くために超自然的な中古木の奇跡を見せてくださり、
シュチエジプトの過程で海を分けて200万の人々が歩いて海を渡らせてくださり、
アラノには雲の柱、火の柱で保護し導いてくださり、食べるもの飲むもの痛い人も誰もいなく、
衣も靴も古くならないような不思議な力で、前例がないほど彼たちを助けてくださり導いてくださったんですけど、
1年間アラノの生活をしながら、彼たちは本当に世の中誰も見ることができない奇跡を見たのにもかかわらず、
彼たちには信仰ができなかったんです。 信仰の姿が現れるべきだったんですけど、信仰ではなく他の姿が現れたんです。
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それを見てかっかりしました。 一体彼たちは何を願って、どんな考えをしながら神様についてきたんでしょうか。
これはイスラル人たちだけではありません。 私たちにも問われる問題ではないかと思います。
私たちはそうになってはいけないので、これからどうするべきなのか、これを一緒に今日分かち合いたいと思います。
まず初めに、理解ができないほど愚かな信仰を持っていたイスラル民、なぜでしょう。
彼らには前例がないほど素晴らしい、超自然的な神様の奇跡をたくさん見たのにもかかわらず、どうしてそれが信仰にならなかったのかということです。
その理由をはじめに、それは幼い信仰のゆえです。
幼いというか、ある意味から見れば、誤った信仰を持っていたからです。
エジプトでイスラル人たちは、430年間奴隷の生活をしました。
そして孟子によって、神様の驚くほどの奇跡の見業によって救われたんですけど、
彼らには聖書があったわけでもなく、ただ見ること、聞くことだけで漠然的な信仰を持っていたんですけど、
それもアラノで1年くらいの短い時間、信仰生活だったから、彼らは幼い信仰が原因です。
みなさん、幼い信仰の特徴は何か知っていますか? じゃあ、ご覧ください。
今日読んでくださった、民水記二重書コセチです。
なぜ我々をエジプトから導き上がらせ、こんなひどいところに引き入れたのか。
ここは種をまく土地もなく、イチジクもブドウもザクロも飲む水もないのじゃないか。
みなさん、幼い信仰の特徴は、その人たちの関心は、ただ食べて生きる問題、
生活の問題、それが解決できるかないか、それなんです。
私たちが十字架の福音で学んだことを申しますと、
長い間信仰生活したとしても、自分の目的を成し遂げるための、神の手を求める信仰であるなら、
いくら長く信仰生活しても、信仰ができません。
神の御化を求める信仰、神ご自身が目標になる、目的になる信仰じゃなければいけません。
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ご覧ください。彼らの関心は、ただ食べて飲んで生活する、生活の問題だけで、
問題のために神の手を求めることだけでした。だから信仰ができなかったんです。
これはまるで、イエス様を3年間ついてきたイスカリエーターユダが、
なぜ、近30歳にイエス様を売り払うことができるか、そうです。
イスカリエーターユダの目的は、ただお金だけだったからです。だから信仰ができなかったんでしょう。
もう一つの原因があります。彼らと共にいた違法人、他国人にゆえです。
民数記中1章1節と4節、6節を読んでみますと、
民は主の耳に達するほど激しく不満を言った。民に加わっていた雑多な他国人は、
うえかわきを謳え、イスラル人々も再び泣き言を言った、と言います。
誰が肉を食べさせてくれるか。アラノで肉を食べさせてくれないから彼らは不満だった。
エジプトでは魚を食べたんじゃないか。キュウリ、メロン、ネギ、玉ねぎ、ニンニクも食べたんじゃないか。
しかし今アラノでは、マナしか何もないんじゃないか、ということです。
彼らの目的をよく見てください。彼らは食べて生きることしか考えがなかったんです。
彼らはイスラル人たちの中で混じっていたこの違法人たち、他国人たちは、
モーセとイスラルの神様に驚きと好奇心を持ってついてきたんだけど、
彼らには根本的に信仰がなかったので、彼らちは生活的な難しさが来るなら、
彼らたちはいつでも神を捨てることができたんです。
彼らが言います、神のビジョン、使命、こんなことも知らないよ。エジプトに戻ろう。
その時は奴隷だったけど、うまく食べたんじゃないか。戻っていこう。
戦闘するからイスラル人たちが騙されて、エジプトの時が良かった。戻っていこうと言います。
現実的に説得力があるから、みんながついていくようになったんです。
これはただ一回じゃありません。あれらの生活の中で数多く現れたことでした。
では、私たちがそうならないためにどうすればいいのか。これが信仰が大事です。
儀式的、形式的な信仰の姿はあるんだけど、実際、中身がないんです。
だから大事な瞬間、崩れてしまいます。
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信仰は聞くことから、信仰は神の見言葉を聞くことからできるんですけど、ここに精霊の照らしが必要なんです。
それによって信仰はただの理論ではなく、人格体である神様と個人的に出会うことが大事です。
神様との交わりの中で、神の身実を知り、計画を知り、目的を知ること、また神の栄光を見て、この栄光の中で栄光から栄光へと成長していかなければなりません。
ここで問われることがあります。救いの確信があるのかということです。
過去私たちはこんな罪人でした。しかしイエス様に出会いました。イエス様に出会った後、私はどのように変わったのかという確実的な変化。
皆さん、深い悔い改めるを通して、私は地獄に行くべき罪人だったけど、私はイエス様のおかげで天国に行くようになったという確信があるのかということです。
要は3章3節と5節にイエスは答えて言われた、はっきり言っておく、人は新たに生まれなければ神の国を見ることができない。
5節にははっきり言っておく、誰でも水と霊によって新たに生まれなければ神の国に入ることはできないと言います。
水と霊とによってということは、御言葉と精霊の照らしによる深い悔い改め、そして新たに生まれることです。
私は新たに生まれるとき、神の恵み、天国の喜び、その感激に私も知らないうちに3日間泣き続けました。
その時私はこんなに素晴らしい良いイエス様の十字架の恵みを世界のすべての人に伝えたいという心で、主を私を宣教師と使ってくださいと献身したんですけど、
大事なのは救いの革新、新たに生まれたこと、天国の喜び、永遠の命に希望があるのかということです。
皆さんこれは私たちには今、罪によって隠されて、神の栄光が塞がれているんですけど、
深い悔い改めを通して、罪が剥がされれば剥がされるほど、栄光の光が私たちに照らされるんです。
そのような経験によって、私たちの霊と身体と精神的な部分が新しい命によって新たに生まれる、新たに生まれるこの体験、これが大事なんです。
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また、神の栄光を見る驚くほどの体験があればもっといいでしょう。
ペテロがこのように告白します。第2ペテロ1章16節から18節です。
私たちの主、イエス・キリストの力に満ちた来人を知らせるのは、私たちが巧みな作り話ではありません。
私たちはキリストの意向を目撃したんです。
荘厳な栄光の中から、これは私の愛する子、私の心にかなうものという声があって、主イエスは父である神様から誉れと栄光をお受けになりました。
私たちが聖なる山にイエス様と共にいるとき、天から聞こえた、響いてきたこの声を聞きましたということです。
ペテロは確かに聞きました、見ました、その体験です。
イエス様は共に山に登ったんですけど、そこでイエス様の体が変わり、坊主とエリアが現れ、お互いに対話をするとき、
天から神の御声が聞こえたんです。
これがどれほど驚くほどの体験だったのか、天国が開かれたんです。
だからペテロは、殉教する直前に書いた第二ペテロの手紙の中でもこれを書いています。
彼はその体験から、自分が見たこの世の中と比べられない素晴らしい神の御訓にいつも求めたんです。
この世の中は旅人、かりつまい、私のふるさとは素晴らしいところ、私はそこに早く行きたい、私の使命を終えて私は行きたいということです。
皆さん、私たちみんな教会へ来るんですけど、各々神様との交わりの中で自分が持っている体験のレベルは違います。
ところが、信仰があるかないか、信仰が良いか悪いかは試練が来てみれば明らかになります。
先週も分かち合いましたけど、信仰がないイスラル民はカナーンの入り口まで連れて行ってあげても入ることができないんです。
神の約束があるとしても信仰ある人だけがそれを得ることができます。
信仰がなければ神様が自分と共にいてくださり自分を助けてくださるんだということを信じられないから入ることができないんです。
ですから旧聖君の創始者であるウィリアム・ブッスは新学校の卒業式でメッセージで
あなたたちが4年間新学校で勉強することより、私はあなたたちが10分でも地獄を見てきてほしいと言いました。
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そうするなら私たちの仏会、信仰生活がもう変わるでしょう。
100年の人生の後は地獄があるんだな。
絶対地獄に行かないように信仰生活をしっかりしなきゃいけないんだ。
地獄に行かないためにはイエス・キリスト、救い主イエス・キリストを信じるだけ。
絶対イエス様を信じて私は天国に行きたいという信仰になるでしょう。
ぜひともこのようなしっかりした体験、また御言葉による信仰が私たちになければいけないということです。
ところが私は今日皆さんに申し上げたいのは、はじめは燃える信仰、正しい信仰があったとしても、信仰生活のこの期間が長くなればなるほど、信仰が曖昧ようになります。
これは私も同じです。皆さん信仰は結婚と同じです。
夫婦がはじめは愛に満たされているんだけど、10年、20年、30年過ぎてみれば愛が冷めていきます。
信仰も同じです。はじめは燃える信仰によって始まるんだとしても、10年、20年、30年経てば冷めていきます。
ですからこのような御言葉があります。ヘブライ賞6章4節から6節です。
一度光に照らされ、天から賜物に手間物を味わい、精霊に預かるようになり、神の素晴らしい言葉と来るべき世の力を体験しながら、その後堕落した者の場合には再び悔いを洗って立ち返らせることはできません。
皆さん一度栄光の光を受け、それでも堕落することができるんだということです。
第二ペトロ2章20節と22節を見ますと、私たちの主、救い主イエス・キリストを深く知って、世の穢れから逃れても、それに再び巻き込まれて討ちまかれるなら、
そのような者たちの後の状態は、前よりずっと悪くなるよ、ということです。
22節、言葉座に犬は自分が吐いたものをところに戻ってくる、また豚は体を洗ってまた泥の中に転げ回る、そのような言葉があるように、
私たちの信仰も、犬が吐いたものを再び食べ、豚が洗って再び泥の中で転げ回るような、このような信仰ができる可能性があるんだとしたら、
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新たに生まれて時間が経って経って経ってみれば、清さがなくなり、再び世の中に私たちの心が戻っていってしまうということです。
そうするなら、私たちの信仰が危なくなるよ、ということです。
なぜ皆さん、信仰が行けば行くほど曖昧になるか知っていますか?
ルッカー21章34節を見ますと、法従や深酒や生活の患いで心が鈍くならないように注意しなさい。
さもないと、この世が不意に罠のように、あなたたちを襲うようになろうと言う。
皆さん、私たちキリスト社たちは、法従や深酒、こんなことをしないでしょう。
しかし、生活の患いはたくさんあります。
これが、信仰を殺すんです。
ですから、私たちは、もう患い、重い患い、いろいろな世の中の心配を神様に祈りて任せなければなりません。
第一ペトロ5章7節、あなたたちの重い患いは主に任せなさい、と言うんです。
じゃあ、私たちがこのようにならないように、聖書は何と言われるのか?
カラディア6章7節8節には、「思い違いをしてはいけません。
神は人から侮られることはありません。」と言うんです。
これは何ですか?
私たちがイエス様を信じているから、私たちはどうしても天国に行くだろう。
いいえ、思い違いをしてはいけません。と言うんです。
人は、自分が撒いたものをまた狩り取るようになる。
自分の肉のために撒く者は、肉から滅びを狩り取り、
霊に撒く者は霊から永遠の命を狩り取ろう、と言うんです。
始めと10年後、20年後、30年後、私みたいな40年後、
あなたは今何を撒いているのか、何をどこに撒いているのか、ということです。
何を撒いているか、どこに撒いているか、その通り狩り取るようになるんだという法則を覚えなさい、と言うんです。
毎日毎日、私たちの考え、何を考えていますか。
言葉、行動、それをうまく撒かなければいけない。
うまく食べて、うまく生きる、自分の肉体のためにいつも撒く人は、結局、滅びを狩り取る。
神様のために、信仰のために、福音のために撒くなら、永遠の命を狩り取るんだ、ということを
私たちが時間が経ちば経ちほど、それを覚えなければなりません。
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今、民数期中4章、20章のイスラエル民は、数多く神の超自然的な奇跡を体験したのにも関わらず、
彼たちが信仰ができなかった理由は、神の手を求める信仰、いつも自分の肉のために撒いたから、
だから、信仰ができるはずがなかった。
また、信仰がない異邦人、他国人も優しく銭湯されて、騙されてしまう。
そして、いつも考えることが、何を食べるか、どのように生きるか、
世の中の重い煩いによって、信仰が死んでしまったからです。
皆さん、これは民数期のイスラエル人だけじゃなくて、どんな時代の信じる人にもある問題です。
ですから、私たちは、肉のために撒くより、世の中の自分はどう生きるか、
肉のために撒くよりは、霊のために撒く生活を続けなければなりません。
これを子供の時から、親が子供の時から、しっかり教育させなければなりません。
だから、毎日デボーション、毎日朝の日中の家庭、QT、これを生活化にしなければなりません。
見事ばと精霊の助けによって、毎日悔い改める生活、他人を許す生活を続けなければなりません。
そうしなければ、過ちと罪が、神様と私たちの間を下手で邪魔するんです。
だから、私たちの霊が暗くなってしまえば、世の中に流れてしまいます。
私たちは毎日悔い改め、許すことで、私たちの心にある暗闇を取り除かなければなりません。
そして毎日毎日、見事ばと精霊によって、私たちの霊と精神を強くしなければなりません。
これが霊のために撒くことなんです。
また大事なのは福音を伝える生活です。
霊の運動である伝道、福音を伝えようとしてみれば、
見事ばを読まなければいけないし、祈らなければいけないようになるでしょう。
そうするなら、私たちの心が持続的に福音の熱情によって、私たちの中で燃え続け、私たちは信仰を守ってくれるでしょう。
ヨハネ4章34節、イエス様は私には、あなたたちが分からない食べ物があると言います。
私の食べ物は、私をお使わしになった方の御心をおこない、その技を成してくれることであろうと言います。
福音を伝えること、イエス様はサマリアにいた時、お腹が空いていたんだけど、
24:03
サマリアの女に福音を伝えてからは、空いたお腹が、もう空いていることはなくなってしまいました。
これは、福音を伝える人だけが経験できる祝福なんです。
それだとしても、一人で霊に巻く、もう体のために巻くんじゃなくて、霊のために巻くのは難しいです。
人間がメッセージを一回聞いて、永遠に記憶できません。
だから、毎日毎日世の中で心を奪われないで、心配、悩みで信仰を殺すんじゃなくて、
毎日毎日、神の恵み、日常の糧で、自分の霊と体と精神的な部分を強めていかなければなりません。
いつも神を求め、神の国を求める私たちになりましょう。
最近、私の葛藤があります。
私は1979年の洗礼を受けて、今2022年ですから、40年ももっと信仰生活しました。
初めは感激がありました。
僕会の初めも感激がありましたけど、今は葛藤があります。
コロナによって集まることもできない今。
皆さん、年を取ったら朝早く目が覚めるんですよ。
朝早くから何をするのか。
皆さん、昔は朝早く起きたら、蒼天の祈りで教会に行きました。
そして神様に祈って見言葉を聞いて賛美をしながら、見言葉10万、洗礼10万、恵み10万だったんだけど、
今は集まることさえできないし、もう教会というその場所もないから、
朝起きて手帽子の日常の糧を食べるんだけど、以前のような感激がないんです。
神様が最後の時、信仰を見出すことができるかと言われたんですけど、
信仰は初めより最後がもっともっと大事なんだけど、だから私には葛藤があります。
以前のような初恋、神様との素晴らしかった親しみが、今なかなか難しいんです。
だから今日のメッセージは私自身のために今やっていることになりますけど、
この時私たちはこの収穫の法則、撒いた通り刈り取るという収穫の法則を覚えて、
肉のため、世の中の生活のために撒くよりは、自分の魂のために、礼儀のために、
首都福井のために、これからもたくさん撒くことをお願いします。
27:02
結論的に、民数記14章、20章の記録を見ていますと、気の毒だなと思います。
神様の良き計画、全世界を救おうとする神様が彼たちを導き、
毎日目の前には神様の素晴らしい計画、神の熱心が見えているんだけど、
神の偉大な計画に用いられるよりは、自分の生活、自分の楽なことばかり考えているイスラエル人たち、
私たちは絶対そうなってはいけないと思っています。
皆さん、私たちは人類を救うために、今も良い計画を持って、今も働いておられる神様を信じることによって、
神の栄光のために生きる、そして天国に行く私たちになりましょう。
行けば行こうと収穫の法則をよくよく覚えて、毎日考えと言葉と行動によって、
どこに撒くのか、何を撒くのか、もう一度考えて、礼儀のために撒く、主のために撒く、私たちになりましょう。
そうするなら、行けば行こうと素晴らしい信仰によって、神様からもっともっと祝福される私たちになるでしょう。
ぜひともよろしくお願いします。お祈り出します。
主よ、今日は民数記を読みながら、イスラエル民は情けないと思ったんですけど、
実際は私たちがこんな情けない姿ではありませんか?
この終わりの時期、全世界にコロナといういろんな形で災いが臨んでいるところでありますけど、
終わりが近づいているんですけど、私たちは目を覚まして、祈り、神様を求める、
神様が再び来られることを準備する私たちになるように、その働きに私たちは全てを尽くしていく私たちになるように、
そして、行けば行くほど霊が明るくなり、霊がもっともっと強くなり、勝利の神聖になる私たちにならせてください。
イエス様の皆を通してお祈り出します。アーメン。アーメン。
29:30

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