1. 名谷教会 podcast
  2. 2012/06/17:聖日礼拝(旧音源)
2012-06-17 42:09

2012/06/17:聖日礼拝(旧音源)

2012/06/17 聖日礼拝(旧音源)


00:01
ご着席ください。本日の聖書朗読をしていただきます。
聖書の箇所は、マタイの福音書7章7節から12節までです。
新約聖書の11ページをお開きください。
では、餅田姉妹、よろしくお願いいたします。
マタイ7章7節
求めなさい。そうすれば与えられます。
探しなさい。そうすれば見つかります。
叩きなさい。そうすれば開かれます。
誰であれ、求める者は受け、探す者は見つけ出し、叩く者には開かれます。
あなた方も、自分の子がパンをくださいというときに、誰が石を与えるでしょう。
また、子が魚をくださいというのに、誰が蛇を与えるでしょう。
してみると、あなた方は悪いものであっても、自分の子供には良いものを与えることを知っているのです。
ともすれば、なおのこと、天におられるあなた方の父が、どうして求める者たちに良いものをくださらないことがありましょう。
それで、何事でも自分にしてもらいたいことは、他の人にもそうしなさい。これが立法であり、予言者です。
では、聖火体の賛美をしていただきます。賛美していただく曲は、新聖火449番です。
聖火体の賛美に続きまして、内田博士より、地の父、天の父と題してメッセージをしていただきます。
いただきます。
聖火体の賛美に続きまして、内田博士より、地の父、天の父と題してメッセージをしていただきます。
聖火体の賛美に続きまして、内田博士より、地の父、天の父と題してメッセージをしていただきます。
03:01
聖火体の賛美に続きまして、内田博士より、地の父、天の父と題してメッセージをしていただきます。
聖火体の賛美に続きまして、内田博士より、地の父、天の父と題してメッセージをしていただきます。
聖火体の賛美に続きまして、内田博士より、地の父、天の父と題してメッセージをしていただきます。
聖火体の賛美に続きまして、内田博士より、地の父、天の父と題してメッセージをしていただきます。
聖火体の賛美に続きまして、内田博士より、地の父、天の父と題してメッセージをしていただきます。
今日は父の日ということで、礼拝もそれに沿って進められているかと思います。
今日も御言葉をいただきます。その前に一言お祈りをいたします。
神よ、私を憐れんでください。私を憐れんでください。私の魂はあなたに身を避けていますから。
恵深い天の父なる神様、今日六月の第三聖日をここに迎えて、まずあなたを死体求めてここに集えたことをありがとうございます。
精霊様のお導きにより、今ここに私たちを置いてくださることを覚えて皆をあがめ感謝をいたします。
06:07
父なる神に帰れと、今賛美を捧げましたように、私たちがあなたの憐れみによって今ここに導かれ、天の神様を今あがめるその特権に預かっていることを覚えて皆をあがめます。
私たちはあなたの三つ葉の陰に身を避けています。あなたこそ私の安らぎであり憩いの場であることを覚えて、今ここに死をあがめます。
どうぞこの父なる天の神様が私たちの主であられることを生涯変わらずに私たちを導きまた支えてくださる方であることをこの礼拝を通してもう一度覚えるときとさせてください。
また父の日に私たちにあなたが何を語ってくださるのかをも覚えて、そしてこの礼拝において多くの祝福が与えられるようにお願いをいたします。
今日ここに来れなかった兄弟姉妹方のうちにもあなたが今その場に臨んでくださいますように、また来るときには共にあなたを礼拝賛美できますよう導いてください。
御言葉を取り継ぐこの下部をも哀れんで最後まで支えてくださいますように御言葉がそれぞれの一人一人のうちにとどまることができるように助けてください。
委ねて主キリストの皆によってお祈りをいたします。
アーメン。
今日は父の日ということです。
ある教会でよく聞く言葉の一つとして賛美一体というのがあるわけですが、ある方が質問をされて賛美一体とは一体どういうことですかということなんですが、
これは父なる神子なる神イエスキリストそして聖霊なる神このことを表すものであってなかなか説明というのは難しいわけでやはり聖霊によって示されて聖霊によってわかるというそういうふうに言われているわけですが、
でもあえて示されるならば何かイエス様のように例えをもって説明させていただけるとするならばこれは本当に全くそうだとは言えないんですけれども
H2Oというものがあってそれは液体とすれば水でありますし、気体とすれば蒸気のようにもなりますし、固体の氷にもなる。
09:06
でもそれらはみなH2Oということであるというそういうことも例えとして言えるのかということですね。
あるいは1×1×1は1が3つあるんですけれどもやはりそれは1だというそういうことも聞いたことがあります。
あるいは1人の人間がいます。その人は女性ということに対しては男性である。そして妻ということに対しては夫である。そして子供に対しては父親である。
1人の人間がそういういわば3つの立場あるいは職能というんでしょうか。でも先ほど賛美しましたように3つにいまして1つなる。
ここからが父親でありここからここまでが夫でありここから男性である。そういうことは言えない。3つのものが混在してそして1つのものとして存在している。
そういうようなもの。決してそれが神様の賛美一体を表しているとは言えないでしょうけれども何かそういうものであろうか。父なる神子なる神イエスキリストそして聖霊なる神が私たちのあがめ信ずる誠の神である。そういうことを聖書は言っているわけです。
今日は父の日ということで先ほど言いました1人の人間が子供にとっての父親ということがありました。母の日にも同じようにお母さんである。その人は一女性でありまた夫に対する妻でありましたけれども
子を設けることによって母となった。同じように子ができることによってその1人の男子は父になるということであります。ですから父親というのは子供があってということが大前提であるわけですし
ただこの父の日に際してそれじゃお父さんのいない子供お父さんのいない人はどうなるんですかということもたまに聞くことがあるんですがそれはひとまず置いておきたいと思うんですね。
聖書の言うあなたの父と母を敬えとか聖書に出てくる父の教えを尊びなさいとか母の教えをとかそれはいわゆる父母がいるという大前提として語られているわけで個別的な事情のある場合はまたそれはそれとして聖書は語ってくださると思うんですが
12:18
そういうことを前提にしますときにまず私たちがこの世に存在するそれは母なしではありえなかったようにまた父なしに私たちが命をもってこの世に生み出されることはなかった。
ただお父さんとお母さんの違いはその子がお母さんの体内に宿っていたというしかしお父さんはそうではなかったそういうことは違いとしてありましょうけれども人間の命の誕生のプロセスの中には必ず父と母があり子は父や母なしに生まれることはないということですね。
ですからどんな人も何人も父はいるのだということをもう一度覚えたいと思います。
ですから聖書に出てくる私たちの父そのことをこの父の日にももう一度覚えたいと思うんですが
例えば信玄の二十三章の二十二節
あなたを生んだ父の言うことを聞け。えっと思いますが決して生んだのは父ではないんですけれどもそういう表現をするわけですね聖書は。
要するに父を通して私たちは命を与えられこの世に生まれたその父を敬いそして父の言うことを聞きなさい。
あなたの年老いた母を下げすんではならない。あなたの父と母を喜ばせあなたを生んだ母を楽しませよ。
そういうふうにして私たちは子として存在するということは母がありまたは父があってのことだ。
その父を時には思うということそれは大事なことでしょうし
実際にその父親に何か感謝をするそういうことをしましょうというのが今日の日の意味だろうと思いますし
もう既に召されている父であるならばそれを忍ぶということもいいことではないでしょうかということですね。
15:00
ではこのお父さんの役割って何だろうかということをもう一度振り返ってみます。
私たちは自分がお父さんの立場というふうに見ることも大事ですが
かつて私たちが子供の頃にとっての父親そういうイメージを持って見ることもいいかと思うんですが
一つはやはり一家の主としての役割というのは大きいと思います。
家族の支えであるそれはもう精神的な支えでもあり経済的な支えも当然のことですけれども
一家の主のそういう役割というものがある。
もう一つはやはり子育て教育ですね子供の教育そういうことを思うわけであります。
子供は父親の背中を見て育つというふうにも言われるくらい見られているのかなということで思いますけれども
子供というのは父親を見てそして理想とすれば僕も私もこのお父さんのようになりたいという
そういうふうに思うようでありますがそうならない場合もありますが
そういう場合はもう一度私たちも父親としての反省は必要であろうかと思うんですけれども
ですから私たちはこの父親というものをどういうイメージで見てきたのかということですが
かつては地震雷火事親父というそういうふうなイメージを持たれた時代もあったわけです
特に日本でそういう時代があった。その呼び名もいろいろですよね
お父さん父父お父様あるいはここでいうこの親父というそういうふうな呼び方もあります
そういう親父そのイメージというのはそこに厳しさがあった
あるいは厳格さあるいは何か規律を教えようとする毅然としたそういう姿勢があったのではないか
それは言い換えれば生きることへの情熱ですよね
こうして生きるのだということを何とか父親は子どもたちに教えようとした
だから時には厳しいこともあったんでしょうし
そして自らを立していくというそれが子どもにとっては怖いというイメージがあったわけですけれども
18:03
それはまた愛から出ていることでもあるんだということを覚えるわけです
その時はわからなかったけれども後自分が父親になった時にそれが初めてわかるという
そういうことであろうかと思います
ですから私たちは今日父の日年に一度しかありませんけれども
せめてこの日だけでも
なぜ笑うのかな
せめてこの日だけでも私の父ですね皆さんの父を覚えて感謝したいと思います
あるいはもう既に召された父親ですね
召された父親を忍ぶということは大事だと思いますし
またこういう時にお墓参りをするという
そういうことをする方もおられるわけですね
なぜちょっと笑ったかというとなかなか最近では地震雷火事親父という
そういうのが風潮としてなくなって
何かお父さんの立場というものが
権威がなくなってきている
威厳さを失ってきているような
そういうものがなきにしもあらず
よく好きで戦流なんかを読むんですけれども
何かお父さんを少し
面白おかしいんですけれども
何かそういう戦流があって
お父さんの立場というのも変わってきたんだなという
そういうのをふと思い出して笑ってしまったんですが
笑い事ではないですね
父親の権威をもう一度取り戻せればと思うんですけれども
でもそれはともかくとしてやはり
お父さんの役目というのは確かにあるんだということですね
ですから私たちはもう一度そのことを覚えて
この父親を覚えてそして感謝をする
そしてしのんで
そしてこれからまた同じ家族の中で一緒に支え合っていきましょう
お父さんを孤独にならせないように
お父さんも本当に家族の一員として頑張っておられるわけですから
一緒に歩んでいきましょうという
そういう家族であればいいなとそう思うわけです
21:00
もう一人のお父さんについて覚えたく思います
ある証で聞いたことがあるんですが
その人は子供の頃にお父さんを亡くした
自分にはお父さんはいないということでずっと過ごしていた
ところが教会に誘われていったところ
もう一人のお父さんがいるということにわかった
そのことを通して彼女は信仰に入ったわけですが
先ほど読んでいただきました中にもそのことが書かれていました
天におられるあなた方の父がどうして求める者たちに
良いものをくださらないことがありましょう
天におられるあなた方の父
私にはお父さんはいないんだ私にはお父さんはいなかったんだ
しかしそうじゃない私にはもう一人天のお父さんがいるということを知ったときに
彼女は今までの縛られていたそういうものから解放されて
この天のお父様を覚えて
そしてその方に自分の生涯を委ね導いていただくという
そういう信仰生活を始めなさったわけですね
私たちもあるときそういうことを聖書を通して知りました
お父さんがいる
その父なる神と呼ばれるお方でありますけれども
私たちは世の中で教えていただくことあるいは世の中が提供してもらえること
それはそれで感謝なことなんですが
いくらお金を積んでもいくらどこを探しても提供してもらえないそういうことがあります
百貨店と言われるぐらいですからデパートは何でもあり
そこに行けば大抵のものは揃うあるいは求めることができる求めて与えられる
それを百貨店と言うんですが
でもやはりその百貨店デパートに行っても与えてもらえないことがあります
例えばアガペの愛はそこではいただくことはできません
やはり教会に来てあるいは聖書を通してでしかそのアガペというのは私たちには与えられない
あるいはもう一人のお父さん天皇お父様だって他のどこに行ってもそれは提供してもらえない
やはり教会に行き礼拝をしまた聖書を通して私たちが与えられるもの
24:03
もちろん信仰という信じるものがなければそれは与えられませんけれども
信じるならば私たちには天皇お父様がいておられるのだ
このお方が私をこれからともにいて導き守ってくださるんだ
そのことを今日も覚えたいと思うんです
この天の父なる神様このお方はまず第一に天地をつくられた神である
私たちが聖書を最初に開くときに始めに神が天と地を創造されたその神
これが父なる神であるということですね
光や水やあるいは太陽や月や星やあるいは植物や動物や全てのものをこのお方がつくられた
そのことを私たちは改めてここから覚えるわけであります
そして人間をつくられたと聖書は書いてあるわけです
私たちの信仰というのは一つは聖書信仰見言葉信仰ですから
聖書に書かれていることを誠の神の言葉私はこれを信じますというその信仰のもとに読んでいくわけですね
ですから聖書が神が人をつくったと書かれているならば私たちはアーメン感謝します
私は一人の人間としてもちろん父母から生まれましたけれども
もとを正せば神が人間をつくられたんですねということを信じるものであります
そのことを覚えるときに私がつくられたものそしてつくられたお方が父なる神様
そのことを信じ覚えるときに私とこの神との関わりというものをそこではっきりと覚えるものとなるわけです
ですから今私がここにあるのはもとを正せばこの天の父なる神様が人間をおつくりになったというそこにあるわけです
ですから私という存在はもちろん父母なしに存在しえないようにその父母もまたずっと遡っていきますけれども
もとを正せばこの父なる神様が創造者として人間をつくられたというそこにあるわけです
ですから私の存在はこの父なる神の創造なしにありえなかった
このお方がすべてを設計しそして愛をこめて人間をつくってくださったそのことをもう一度覚えるときとしたいと思うんです
27:08
二番目にこの父なる神様は祝福の神である
このお方はとにかく人間をつくりそしてこれをこよなく愛して人間を祝福しようとしておられる神
そして私たちが人間が生きていくために必要なものはすべて与えてくださる
先ほどの御言葉にもありましたパンをくださいそう願うときにそれに必要なパンを与えてくださるでしょうし
魚をくださいと言えばその魚を与えてくださる
そういうお方であるということ祝福を与えようとしてくださっているお方である
何よりも私たちにとって命というその命を与えなさったお方
この命は神様から与えられているものだということを気づくときにこのお方を私たちは日々礼拝するわけです
私たちは日ごろ自分たちに与えられているものを感謝するものであります
それは大変良いことだと思いますししなければいけないことだと思うんですね
例えば太陽の光を与えられて植物も育ちますし
この光というものを私たちは感謝するわけですこういう光が与えられていることをありがとうございます
あるいは雨を感謝する雨が与えられるそれによって飲み水が与えられますし
大地が潤ってまた植物も育つわけです
ですから雨に感謝するそういうこともいたします
食べ物が与えられていることを感謝する
しかしそれで終わってしまうことはないだろうか
ですから私たちはその日を与え雨を与えあるいは私たちに必要な植物を与え
必要なものが与えられているそのものに感謝するも大事ですけれども
それを備えてくださったその父なる神様創造主なるお方を覚えて
そのお方に感謝と礼拝を捧げる
そのことを忘れてはいけないということを今日もう一度覚えたいと思うんです
3番目にこの父なる神様は聖なる神であるということを覚えたいと思います
いざやという方がその神様の前に立ったときに
30:03
私はもう滅びるばかりです立ち往生ないというそこまで彼は示されたわけですが
それはなぜかそれはこのお方が聖なる神であるから
私たちは聖というと何かもう清い完璧でそしてもう立ち寄りがたい
そういう人だお方だというふうにイメージしますけれども
決してそうではありません
聖というのはこれは別のものとして性別というふうにも言われますけれども
分けられたものその分けられたものがあまりにも輝かしい眩い
そういうふうにいざやは思ったわけですね
その聖なる神というのがどういう神であるのかというのも
聖書を通してでしか私たちは知り得ませんけれども
私たちが直に太陽の光を見ることができないように
このいざやにとってもこの神があまりにも輝きそして眩い
そういうものに映ったときにそこにもう立ち往生なかった
それと同時にこの神様によって自分自身というものが照らし出されたときに
あまりにも自分の汚れに圧倒されてそして立ち往生なかった
ですから私たちがこの聖書を通して聖なる神に触れるときに
自分自身を暴かれる自分自身の本当の姿を見せつけられる
そういうことがあるわけです
それは誠に感謝のことであり
その自分自身をまた受け入れることを通して
この知事なる神に近づくことができる
決してこのお方は輝き眩いお方であるから
私たちと本当にかけ離れたそういうお方ではない
むしろごくごく近しい親しいお方である
私たちがそういう輝いているお方に到底近づけない
こんな汚れたものがそういうお方に近づくということは
本当におこがましいことそんなことはできない
だからこの知事なる神様はそちらの方から私たちの方に近づいて下さる
降りてきて下さるそういうお方であるということも覚えるわけであります
ですから決して遠い存在の人ではない
33:03
お父様と呼べばそこにいて下さるそういうお方
それは私たちの憎しんである父親もそういう存在であろうかと思うんですね
かつての親父というのはなかなか近寄りがたいそういう人でありましたけれども
本当のお父さんと呼べば何ですかと言って下さるそういうお方ですね
ですからこの知事なる神様もそういうお方は私たちに親しく近づいてきて
本当に親しいお方であるということを覚えたいと思います
もう一つはこの知事なる神様それは愛なる神様であるということ
このアガペについても私たちは聖書を通して日々学び
そして実際にこのアガペを覚えるものであります
どこに行ってもこのアガペは私たちに与えられることはありませんけれども
私たちが聖書を通してこのアガペを知りまた祈りを通してこれを覚え
あるいはイエス様の十字架を通して表されたアガペの愛
これがまた教会を通し礼拝を通しさまざまな働きを通して
人々との関係の中でこのアガペを覚えることであります
このアガペの一つは見捨てないということです
大事なものを見捨てるそういうことは得ないわけであります
母が父を母が子を見捨てないように父も子を見捨てない
この父なる神様も決して自分が作ったその被造物
ましてや人間を見捨てるということは決してないわけです
世界中の何かがそれを邪魔するとしても
この父なる神様はそれを守ってくださる最善を尽くして
そしてそのものの幸いと祝福を願い続けていく
それが神の愛アガペであるわけです
神はそのアガペをもって私たちを決して見放さず見捨てない
これに疑問を投げかける人はいませんか
いやでも神様はイエス様を見捨てなさったではないですか
36:02
その通り父なる神は一度だけ自分の子なる神を見捨てなさった
見捨てるはずのない見放すことのないありえない
その父なる神がたった一度この子を見捨てざるを得なかった
見捨てなければならなかった
それを思うときにどんなに痛みであったろうかどんな苦しみであったろうか
なぜ見捨てるはずのない父なる神が子なる神イエスキリストを見捨てなさったのか
それは私たち人類が救われるためです
もちろんイエスキリストも自分と同じ三密体の神でありますから
いわば自らを十字架につけてそして自らを滅ぼすことによって
人類のすべての罪を自分が背負ってそしてよみに下ってくださった
そのことによって私たちの罪が一切あがない出されたという
そのことのゆえにあるはずのない父なる神はこのイエスを見捨てなさった
我が神なぜ私をお見捨てになるのですか
そのイエス様の叫びそれはまさに父なる神の痛みでもあったということ
しかしそれだけでは終わらなかったこの父なる神はその御子イエスを復活なさった
イエスキリストもまたその復活によってもう一度私たちに永遠の命の保障となってくださった
そのことも私たちは聖書を通して知っております
ですからこの私たちに与えられたこの信仰を通して
もう一度父なる神このお方をあがめるということ
これは本当に幸いなことでありますし
この神様が私たちを日々憐れんで支えていてくださる
そして私たちが祝福と幸いを得るように
時には慰め励まし時には懲らしめも与えなさる
そのことはヘブル人への手紙を通して私たちは知っています
我が子よ主の懲らしみを軽んじてはならない
主に責められて弱り果ててはならない
主はその愛する者を懲らしめ受け入れる全ての子に無知を加えられるからである
39:06
訓練と思って耐え忍びなさい
神はあなた方を子として扱っておられるのです
父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか
全ての懲らしめはその時は喜ばしいものではなく
かえって悲しく思われるものですが
後になるとこれによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます
私たちの肉身地のお父さんも私たちが成長するように
きちっとその生涯全うできるように
時には訓練として厳しいことも言うでしょう
同じように父なる神様も私たちがこの世にあって幸いを得るように
そして主に喜ばれる生涯を歩めるようにとして訓練を与え
そして時には懲らしみを与えますけれども
それは愛から出たことその訓練によって私たちが平安な義の実を結ばせようとなさってくださっているのだ
そのことを御言葉から覚えてそして祈ってそれぞれ使わされていきたいと思います
お祈りをいたします
天におられるあなた方の父がどうして求める者たちに良いものをくださらないことがありましょう
天の神様あなたを阿波父よと呼べる幸いをありがとうございます
今日は御言葉を通してあなたを覚え
また今日父の日でありますから私たちの父を覚えまた忍ぶときとさせていただき感謝をいたします
全て阿波が私たちに注がれていることまた今日もまたそのことを覚えましたことを感謝をいたします
この天のお父様をこれからもこえなく愛しまたこのお方に礼拝を捧げ
時にはあなたの三つ葉その影に身を潜めますけれども
そのとき慰めを与えまた励ましを与えて下さいますように
また家庭にあってはお父さんのその働きまた勤めをそれぞれが覚えて
共にこの日々を歩むものとさせていただきますように
また召されたお父さんのことも思いますけれども
今私たちがここに生きていることを通してその父の命がまた息づいていることを明かしするものとさせてください
今日のこの御言葉を感謝して
42:00
イエス様の尊い皆によってお祈りをいたします
アーメン
42:09

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