1. 名谷教会 podcast
  2. 2012/06/10:聖日礼拝(旧音源)
2012-06-10 40:04

2012/06/10:聖日礼拝(旧音源)

2012/06/10 聖日礼拝(旧音源)


00:01
どうぞ、ご着席ください。
聖書朗読をいたします。
根拠の箇所は、丸子の福音書十章十三から十六節、新約聖書の八十六ページをお開きください。
丸子の福音書十章十三節から十六節です。
新約聖書の八十六ページです。
十一章、十一節から十三節。
では、お読みいたします。
丸子の福音書十章十三節。
さて、イエスに触っていただこうとして、人々が子供たちを身元に連れてきた。
ところが、弟子たちは、かいらを叱った。
イエスはこれをご覧になり、行きどおってかいらに言われた。
子供たちを私のところに来させなさい。
止めてはいけません。
神の国はこのような者たちのものです。
誠にあなた方に告げます。
子供のように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません。
そして、イエスは子供たちを抱き、かいらの上に手を置いて祝福された。
では、聖歌体の賛美、新聖歌四百七十四番に続きまして、
内田牧師より、花のように子供のようにと題して、説教をいただきます。
主は私の手を取って下さいます。
どうして永遠に逃げたりするでしょう。
やさしい手の手にすべてをまかせて。
何ができるとは夢の国でしょう。
わずかに舞う鳥は風で。
03:06
女はするけれど何とも言いません。
やさしい手の手にすべてをまかせて。
何ができるとは簡単に眠りでしょう。
律が行くかどこまで行くのか。
主がその律でを成したものです。
やさしい手の手にすべてをまかせて。
何ができるとは簡単に眠りでしょう。
降りつくぼかわのべきです。
つまづいておけばわけなく燃えましょう。
やさしい手の手にすべてをまかせて。
何ができるとは簡単でしょう。
神様私たちをこよなく愛し、そして今ここにおいていてくださっていますことを覚えて、心から感謝をいたします。
06:08
私たちもさらにあなたを慕い求めて、そしてこの礼拝のとき、心からの礼拝をあなたに捧げますので、
主をどうぞ清めてお受け取りくださいますようお願いいたします。
こうして教会に子どもたちの声を聞けることは本当に幸いであります。
そしてまた今日もこの御言葉を通して、そのことを通してあなたが何を私たちに語ろうとされているのかを、そのお声を聞かせていただきたく願っております。
どうぞ日本全国の教会のあるいは世界中の教会がこの教会学校が祝福されて、そしてさらに福音宣教の業がなされるように、あなたの幼いときに作り主を覚えようとございますから、
神様どうぞこの大切な私たちの与えられた使命をこれからも全うしていくことができるように、
また私たちも今日御言葉を通して語られていることを心に覚えて、そしてあなたに従っていけるものとしてくださいますようにお願いいたします。
今日もこのようにここに来れたことを心から感謝をいたします。
先ほどマルコによる福音書の十章の十三節から十六節を読んでいただきました。
その場にあって詩を覚えることができますように支えてください。
今からのひととき全てを委ねて主耶様の尊い皆によってお祈りをいたします。
アーメン。
先ほどマルコによる福音書の十章の十三節から十六節を読んでいただきました。
もう一箇所ですが、マタイの福音書六章の二十八節から三十節も同時に覚えていただけたらと願っております。
また後ほど開けていただいたらいいかと思いますが、お読みいたします。
なぜ着物のことで心配するのですか。野の百合がどうして育つのかよくわきまえなさい。
働きもせず紡ぎもしません。
しかし私はあなた方に言います。
映画を極めたソロモンでさえこのような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。
今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ
神はこれほどによそおってくださるのだから
ましてあなた方によくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。
何を食べるか何を飲むか何を着るかなどと言って心配するのはやめなさい。
09:02
今日花の日子供の日を心からお祝いしまた感謝をいたします。
イエス様が群衆に語ったことの一つがここにありますように
思い患ってはいけない。
思い患ったからとて命を延ばすことができますか。
何を食べるか何を飲むか何を着るかなどと言って心配するのはやめなさい。
誠にイエス様は私たち人間のことをよく御存じで
私たちは日々心配の絶えないものであります。
ですから心配するな。
でも心配するのがまた人間であります。
そういう中で神様のお言葉を聞いていきたいと思うんですね。
その心配するな思い患ってはならない。
そのことをさらに私たちにわかるように
鳥を示したりあるいはお花を見なさいとそうおっしゃるわけです。
決してイエス様は鳥になれとか花になれとは言っておられない。
もちろんなれませんけれども
願わくは鳥のようにあるいは花のようにそういうふうになれたらいいんじゃないか
そういうことを神様は示しておられるわけですね。
でも私たち人間とて鳥にしても花にしても
同じことは神様がお作りになった秘蔵物である。
神様が設計なされそして愛を込めて作った神様の作品であるという
そこにおいては同じだと言えます。
さらに神様は私たちが創世紀を読んで知っているように
特に人間に対してお前たちをこの世この地球をお前たちに託す
そして地にふえよ地に満ちよとそして人間たちを祝福なさった
そのように書いてありますから
秘蔵物の中でも特にこの人間を愛されてそして憐れんでいてくださるということがわかります。
だから私たちも今日この御言葉を通して
もちろん鳥や花にはなれませんけれども
この花を見て何かそこから私たちが神様からのメッセージを受け止めることができたら幸いではないか
そしてもう一箇所先ほど読んでいただきました
子供たちのことが書かれてありました
そのところからもかつて私たちも子供だったんです
12:02
幼子だったんですけれども今は大人になっていますけれども
もう一度子供に戻れませんけれども
子供のように幼子のようになれたらというそういう神様の願いと
また私たちのその願いを込めて神様のお言葉を聞いていただけたらとそう願っております
まずこの花を私たちが見るときに何をそこから覚えるでしょうか
先ほども言いましたように花は神様が作られた素晴らしい作品である
ましてや人間を神様は超えなく愛してくださっています
ですから人間も神様の作品である
そして神様が自分の作りなさるその花にこのような素晴らしい色づけをなさっている
あるいはその形として素晴らしい形をそこに備えて
それを今日私たちに見せてくださっているわけです
私たちは日ごろそんなに花のことをいつもいつも覚えてそれを眺めているということではありませんけれども
花がどういうものであるのかというのは知っております
色があり形があり時にはかぐわしい匂いがあったり
そういうのも皆神様が何かこれを素晴らしい作品としてお作りになったんだ
それともう一つはあの小さな種からこのような素晴らしい花になるという
そこまでの過程あるいはそこに生命命があるということの不思議さ
そういうものを覚えるときにこれは神様のやはり技でしかない
色を一つにとりましてもどんなに絵の具やそういう色を私たちがそれに似せてできたとしても
今はテクノロジーでいろんな色も出せますけれども
この自然のこの花の色には劣るこれに勝る色を私たちは出すことはできない
そういうふうに思うときやはり神様の技がこの花に現れている
そんなことを思うんですね
同じように人間もそうです
人間も神様の作品そこに命を与え
そして愛を込めて一人一人を作りそして生かしめている
本当に不思議だなと思います
私たちこの人間一人の人間が誕生するその過程においても
15:06
本当に不思議なそれも神様の技であろうかと思うんですね
体一つにとりましてもそこに不思議なそれぞれの器官やとか
あるいは臓器やとかあるいは脳のそのメカニズム
そういうものは本当に私たち医学で明らかにされているものも当然ありますけれども
それはほんのごくわずかだと言われています
それはもう神様でしかわからないそういう世界のこと
あるいは私たちに心が与えられたりあるいは感情というものが与えられている
本当に不思議だなと思いますね不思議だなと思います
やはりこれは神様の作品であろうかと思うんですね
神様が一つ一つの花に色付けをなさり形を作っておられるように
この地球上にいる人間一人一人に神様は思いを込めて
そしてそれをお作りになっているという
そのことを私たちはもう一度覚えたいと思うんですね
その人にしかないその人のいわば個性というんでしょうか
その人の存在というものが本当に尊いものである
そのように花を見てまた自分自身を振り返るときにそう思うわけであります
花のように生きるそれは神様は私たちを愛して一人一人に色付けをなさる
そのように一人一人にみんなと違う何かを色付けなさって
ここに今生かしめてくださっている
それを私たちは感謝しまたその自分の存在というものを楽しむように
そういうふうにおっしゃっているのではないかそのように思うわけです
二つ目に花を見て思うことは
今日このようにして皆さんの前にいけばなが飾られています
これを見て皆さんが心和むようにとどなたかが愛を込めていけてくださった
しかし花自身は
今日ここに皆さんの前に来て私を見ていただこう
そんな思いはもうともないわけです
これは生け花の世界ですから
花の世界というのはいわば隠れたところであっても彼らは咲くということですよね
人が見ていようが見ていようまいが
彼らは咲きたいところに咲く
あるいは神様が置いてくださったそこで精一杯咲いている
私たちもよくテレビでも見ますけれども
18:04
時には山奥の誰も行かないようなそういうところでもきれいな花が咲いている
ジャングルのようなそういう誰も行けない
そういうところでも花はそこで自分の精一杯の花を咲かせている
時には崖のそういう誰も手が届かない
おそらくもう永久に誰の目にも触れないようなそういうところであっても
彼らはそこで精一杯咲いている
それが花であろうそのように思うわけです
誰が見ていようが見ていようまいがそこで精一杯与えられた命を生きていく
それが花である
そんなことを思う時に私たちもこの花から神様が私たちに願っておられることは何だろうか
花のようにと言われる時に
私たちも与えられたこの命与えられたそれぞれの個性
そこで置かれた場所で精一杯自分のやれることをやっていこう
そういうふうに思わされるわけです
私たちはどうしても人間社会お互いの中で生きていますから
やはり周りのことが気になる人のことが気になる
どう思われているんだろうかどう見られているんだろうか
そういうことは当然自分自身のことも振り返ると恐らくそうであろう
神様はそれを御存じであります
だからこそ時には花を見なさい
どんなに人が見ていても見ていなくても
彼らは自分に与えられたその使命とか責任とか
それを精一杯そこで咲かせている
私たちに与えられたものを精一杯そこで神様にそれを示していく
作られた私たちは作っていただいたその方に喜んでいただこう
その方さえ見ていてくださったらいいんだという
そういう思いにもなってくるわけです
もちろん私たちお互い人間同士ですから
あの人は今どうしているんだろうか
あの方はどうだろうか気になって
そしてその人のために祈るその人を訪問する
そういうことは当然のことなんですけれども
その前にもう一度私たちが神様によって作られたこの私という
21:02
この私をまずしっかりと確立していくという
それを花のようにという
そういうことから考えさせられるわけであります
花は本当に精一杯そこで咲いている
私たちはよく人々の交わりの中で何かをしようとするときに
一致ということを大事にしたいそういう思いがありますし
それは大事なことだと思うんですね
でも私たちが勘違いしてはいけないのは
やはり自分の思いに自分が願っていることに
人々がそれに合わせてくれるそれを一致すると思いがちなんですが
花を見て思うことはそうではない
それぞれの花はそれぞれの色遣いを神様はなされ
自分たちをつくりそれぞれの場に置いてくださっている
そのことを思うときに私たちも神様は一人一人にみんな違う個性を与え
またそのときそのときのそれぞれの環境というものがあるわけですね
ですからお互いの違い個性の違い環境の違い
違うということをお互いが理解し合った上で
そしてその中で一致するということ
それを私たちは聖書を通して神様が願っておられることが
その一致であるということをもう一度覚えるわけですね
まず自分自身というものを確立する
そしてそのことによってお互いを認め合う
たとえ違っていてもそれを認め合う
そういう中であがてを持って
そしてあいによってそして何か一つのことを目指していく
そういう一致であれば本当に幸いだなそのように思うわけです
ですからいわばこの花を見ることによって
いろんな花を見ることによって
私はどういう花かな私は百合だろうか
私は薔薇ではないかなそういうようなことですね
私はサボテンかな棘があるから
でもサボテンは棘があっても花を咲かすということは皆さんもご存じですよね
サボテンも花を咲かすそういう美しい花をきれいな花を咲かす
私はどんな花だろうか
神様は私をどういう花のようにして作ってくださったんだろうか
24:04
そんなことを考えてそれで自分の置かれたその場で精一杯生きていこう
見ていようが見ていようまいが隠れたところであっても
神様は見てくださっているんだ
神様に見ていただいて喜んでくださったらそれでいいんだ
そういう生き方もまた素晴らしいのではないか
そのように思うわけです
花はまた自分に与えられた働きをしている
そんなことを思います
花というのは例えばお見舞いにその花を持っていく
花はやはり私が何かを言葉をかけよう
それ以上の慰めや励ましをこの花がしてくれる
それが花の力
神様がそこに慰めの力癒しの力を花に与えているわけですね
私たちが何も言わなくてもこれをどうぞというときに
そのいただいたいと
そしてその花を見るたびに心が和み癒され
そういうことがあります
それは花に託された神様の使命とか責任
それを花自身が何の気負いもなく
それをしているというその現れではないか
そんなふうに思うときに
私たち一人一人にも神様は何かその人しかできない
使命や責任そういうものをお与えになっているんだろう
そのように思うわけです
そうすることによって私たちがお互いに何か慰め励まし
そして癒しというものがなされていくことができたら何と幸いだろうか
その人がいてくださるそれだけで私は和みます癒されます
その人の笑顔を見るだけで私はいつも励まされます
また神様を覚えます
そういうふうになれたら何といいでしょうか
そんなふうに思います
もう一つは子供のようにという
そういうメッセージも見言葉を通して私たちはいただいております
誠にあなた方に告げます
子供のように神の国を受け入れるものでなければ
決してそこに入ることはできません
この子供おさなごあるいは子供たちと言われる
子供たちというのはこういうことですね
ああいうものですねこういうものですね
そう言いますと最近そういう子供を見ないよという大人もいるかもしれません
でもそれはそういう何かの状況でそうなってしまう
27:05
それも昨今の現状でありますけれども
本来神様が子供のようにおさなごのようにという
そのことに私たちは心を向けたいと思うんですね
神様が言うおさなごあるいはここで言う子供というのは
一つは子供というのはおさなごというのは
この花と同じように自分が何か目立ちたいとか評判を得たいとか
そういうことは思わない
むしろ恥ずかしいなというようなそういう思いがあるようですね
少し物心をつきますとそういうものがあって
子供というのはそういうものかな
大人になると自分を何とか見てほしい
時には地位や名誉をいただいて
そして人々の前に私はすごいんだぞということを見てほしいという
そういう欲と言いますかあるいは誘惑に負けてしまう
そういうものであります
しかしおさなごはそうじゃない
地位や名誉というのは何なのかということすらも彼らは知らないという
そういう存在あなた方はそういう子供のようにならなければ
決して身国に入ることはできません
おさなごの特徴のもう一つは従順である素直である
これも素直な子供なんて最近見ないよということは私たちは思わないで
神様がおさなご子供たちというときにその存在は従順である素直である
皆さんはおそらくそういう子供さんであったでしょうと思います
何かこれあげようというと嬉しい
それをありがとうと言ってそれを手を差し出す
こっちにおいでというとさーっと近寄ってくるそういう子供たち
そういう素直である従順である
でも世の中というのは悪さをする人もいるというのは本当に悲しいことですね
おさなご子供たちが純粋で素直で従順である
それを悪いことに利用してそして子供たちを巻き込んでいこうという
そういうのは本当に悲しいことであります人間の本当に弱さであります
30:05
でも本来の私たちの子供たちおさなごというときそれは本当に素直です
人間が神様の声を聞いたときに
おさなごのようにというのは神様がこれをあげよう
これはあなたの恵みです祝福ですと言われたときに
いやいや私はもうそんなものではありませんから本当に結構です
ちょっとご遠慮しますということは言わないで
神様が与えてくださる祝福ありがとうございます
神様がこちらに来なさいというときに
はいと言って従っていく
これをしてはいけないよと言われたときにはいしません
これを言ってはいけませんよと言われたときには言いません
こういうことを言うんですよと言われたときははい言います
こういうことをするんですよと言われたときははいその通りします
神様の声に本当に素直に従順である
それが神様の言う子供のようにならなければ
決してそこに入ることはできません
そういうことであろうとそのように思います
もう一つ子供のおさなごの特徴というのは
信頼するということ
子供たちおさなごは疑うことを知らないというんでしょうか
いつしか疑うということも覚えてくるんですけれども
本当に幼いときは疑うことを知らない
いわば純粋である
そういうおさなご私たちは知っておりますし
私たちは日々そういう
おさなごに触れるということは幸いだと思うんですね
私たちは疑うということも
一つの神様からの知恵として成長していくにつれて
危険ではないだろうか
これは何か偽りではないだろうか
そういう世の中に生きていますから
そういう知恵もありますけれども
本来そういう世界でない場合
神様がおさなごに与えてくださったその一つの特質
そして私たち人間に願っておられることは
疑わないで神様のお声に従いなさい
全て神様のなされることは良きことだと思って
信頼する自分の全てを委ねるということ
おさなごは自分一人では生きていけないということを
本能的に知っていますから
お父さんやお母さんその親に全てを委ねて
33:00
この人たちに自分は育ててもらうんだ
そういう意識もないほどにもう委ね切っている
それがおさなごであろう
神様への絶対信頼
それを神様は願っておられますし
見言葉を通してそのことを言っているんだろう
あなた方は子供のように神様に全てを委ねて
そしてこれを受け入れるものでなければ
決して身国に入ることはできません
さて私たちはこのようなおさなごのようなものだろうか
今はこうして大人になりましたけれども
果たして聖書の言うように
子供のようにおさなごのように
というところを問われたときに果たしてどうだろうか
それじゃあ自分が聖書の言うような子供のような
おさなごのようなものかどうかというのは
どうしたらわかるんだろうか
そんなことも考えるわけですが
できれば赤ちゃんと過ごしてみるのもいいのではないかなと思うんですね
なかなかそういう機会はないんですけれども
小さなおさなごと一緒に過ごす
そういうときが与えられたら幸いではないかなと思うんですね
そういうときに私たちが
いわばこの大人目線でどう子供たちに接するか
そういうときには子供はどう反応するだろうか
私たちが子供たちと過ごすときに
自分は果たしてその子供たちと同じ目線に立てるかどうか
それはただ合わそうということではなくて
本当に心から自分自身がおさなご子供のようになれるか
子供のように目立ちたいとか評判を得たいとか
地位や名誉に関心があるとか
そういうものも一切取り去られた
本当に一人の人間としてそこに自分は存在しているんだろうか
何か自分に与えられようとしているものを
いろんなことを考えるばかりにそれを遠慮してしまうというような
そういうことはないだろうか
あるいは疑ってしまってせっかくの神様の恵みを拒むようなことはないだろうか
絶対的に神様を信頼しているだろうか
そんなことを思いながら子供たちとしばらく過ごしてみるのは
36:04
本当に幸いだろうと思います
子供たちの思いを汲み取れるだろうか
そんなことを思うわけです
彼らが笑っているときに何がおかしいんだろうか
そういうときに私も彼らの笑っていることに一緒になって笑えたとするならば
本当に幸いだなと思います
彼らが何か泣いているとき
その思いに一緒になって泣ける
そういうことであったら本当に幸いだろうと思うんですね
幼子、子供たちというのはドロンコ遊びが好きです
そういうときに私たちも一緒になってドロンコになれるか
そんなことも問われるわけです
子供たちは幼子はよく寝転がるわけです
キャンプに行ってもそうです
もう自由なんですね
ゴロゴロゴロゴロ寝転がりたいときはそこら中構わず寝転がります
そういうときに私も一緒に彼らと一緒に寝転がれるだろうか
もし何の気負いもなく本当に幼子のように
彼らと一緒になって寝転がることができたときに
そこに天国が見えるのではないか
そういうときに本当に天国は近いんだろう
そのように思うわけです
それは聖書が示すように
子供のように神の国を受け入れるものでなければ
決してそこに入ることはできません
なぜならそれはこの者たちのようなところであるからです
そのように聖書は言っております
お祈りをして祝福をいただきたいと思います
天の父なる神様
今日の御言葉を感謝をいたします
聖書を通して神様の御思いを知ることができたことをありがとうございます
イエス様が自然を愛し
また幼子、子供たちを愛して大事にされていたことを
今日も覚えました
たとえ今は小さな幼子であっても
その先に大きな未来を見据えて
一人の人格者として
慈しんでおられたんだなということを覚えて
皆をあがめます
どうぞ教会学校の
どうぞ来る一人一人の子供たち、幼子を
あなたがこれからも見守って支えてくださいますように
神が成長を与えてくださいますように
また教会学校が祝福されますように
39:01
そこに奉仕なさる先生方の上にも
どうぞあなたの導きと
また見油の注ぎを与えてください
また教会挙げて
この教会学校と今来ている子供たち
またこれから来るであろう幼子たち
子供たちをしっかり受けとめて
そして御国へ続くものとならしめてください
またそういう幼子、子供たちを見て
また共に交わりながら
私たちが幼子のようになれるように
神様が導いてくださるようにお願いをいたします
子供たちの上に神様のお守りと
恵みとが豊かにありますように
そして神様が願っているように
私たちが花のように
また子供のように
これからも生きていくことができるように
どうか導いてください
イエス様の尊い皆によってお祈りをいたします
アーメン
40:04

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