00:01
アーメン、感謝します。
皆さん、おはようございます。よくいらっしゃいました。
それでは、今日もメッセージをいただく前に、隣の兄弟姉妹たちに挨拶しながら、挨拶したいと思います。
よくいらっしゃいました。感謝します。
はい、感謝します。
それでは、一言お祈りいたします。
愛する主の神様、今日もこうして、神様が私たちを集めてくださったから、導いてくださったから、主の御庵に集うことができました。
よ、どうぞ。
賛美をもって、祈りをもって、主に礼拝を捧げる、主の民一人一人を覚えて、豊かに祝福し、神御自身のみが栄光をお受けになりますように。
今から、神御自身が私たち一人一人、主の教会に御言葉をもって養って下さい。
語りかけて下さいますように、お願いをいたします。
語る者も聞く者も、主に当て一つになって、謙遜に減り下って、あなたの御言葉をいただき、そして、従うことができますように。
よ、どうぞ。信仰を強めて作って下さい。
御庭に委ねます。感謝して、イエス様の御名によって、お祈りいたします。
はい、今日は、いよいよ、第21回、教会疎開が開かれる始まりです。
主イエスキリストの指示をによって、書いとられた教会。
イエス様の十字架の指示をによって、救われた民が集められた教会。
イエス様が主であられ、私たちはその神である教会。
まあ、教会の御縁ですね。
神様が一年間、あるいは個人的に、あるいは過程において、注いで下さった神様の恵みを思い起こし、
その恵みに感謝。
そして、互いに励まし合う、いたわれ合う、救苦に満ちた疎開になりたいと、そう願っております。
今日は、この祝祝時を通して、神の栄光が満ちる教会という題にして、
共に言葉から恵みをいただきたいと、そう願っております。
03:02
私が大学生の時に、住宅のモデルハウスでバイトをしたことがあります。
バイトといっても、夜、スクショみたいにね、夜、警備をする、夜間警備をするバイトでした。
でも、11時過ぎたらもう寝ますので、そんなにしんどいことはありません。
でも、皆さんも入られたことがあるかと思いますが、住宅のモデルハウスに入ったら、
まどりも床もですね、天井も窓も、実際の住宅と同じなんですね。
ところが、一つ違うことがあります。
それは、そのモデルハウスに入居して住む人はいないんですね。
モデルハウスが何であるんでしょうか。
それは、今から、これから、自分が入居して住む家がどんな家なのか、どんな住宅なのか、
それを知るために、見るために、見本としてあるのがモデルハウスなんですね。
模型な模型なんです。
ですから、実際の住宅が建てられたら、大体のモデルハウスは撤去されてなくなるんです。
そして、本当の本物の住宅に、それが家庫だったりであろうが、マンションであろうが、
そこに引っ越して、本物の住宅で、
今日、私の家がどうの、という演じるときから教えていただいた、
その幕屋、あるいは開店の幕屋とありますが、
この幕屋というものは、教会のモデルハウスなんです。
簡単に言えばですね、教会の模型なんです。
そして、今ある教会が本物の住宅のようなものなんです。
神様はこの幕屋を建ててくださって、それを通して、
これからあなた方が礼拝させる教会はこのようなところなんだ、
教会はこのようなところであるべきなんだと教えてくださったんですね。
ですから皆さん、住宅のモデルハウスをよく見たら、
自分がこれから住む家がどんなものなのかわくわくして、楽しみながら見るんですよね。
旧約聖書に出演するとき、あるいは民主主義新歴によく書かれている、この幕屋のことをよく読んで、
06:01
教会がどんなところであるのか、どういう働きをするべきなのか、
そのありざまを知ることができるんですね。
さあ、では、その幕屋の前後の背景を話しますと、
長くなりすぎてすみませんが、簡単に申します。
イスラエル人はエジプトから脱出、そして彼らは航海を渡りました。
そしてその後、彼らは40年という時間がかかりましたけれども、アラノを更新していきました。
さあ、この三つのプロセスは、とても大事な象徴的な意味があるわけです。
我らの近郊生活の始めから、そしてその後程を表しているんですね。
まず、イスラエル人がエジプトから出て行ったこと、脱出させていただいたことは、私たちの救いを表彰します。
エジプトの脱出は救いの模型なんです。救いのモデルハウスなんです。
イスラエル人を苦しめる圧の勢力から、奴隷の生活から脱出して、神様が導いてくださったから出ることができたんです。
そして、自由の身になりました。
このように、私たちを苦しめ、私たちを縛っている核から、主の恵みによってそこから出て行って、
一緒にやって自由の身にならせていただきました。これが救いなんです。
この世の罪から脱出して救われたことを意味する。それがエジプトの脱出ということです。
その次、後悔のあの経験は、ひらかなくていいんですけど、第1コリント10-2節によりますと、後悔をバッテスマ、洗礼として説明しているんです。
救われた民が、水によって洗礼を受けることを前もって、神様がモデルハウスとして、模型として教えてくださったんです。
このように、神の民にならせていただいた人々が、神様によって集められた会社が、教会になったわけなんです。
09:16
皆さん、教会とは何でしょう。
イエスキリストの基礎によって、罪あがなわれて、そして、神父を告白してバッテスマを授けられた者たちが集まったところが、教会なんです。
神様がイスラエル人をエジプトから連れ出してくださったように、神様が私たちを、皆さんお一人お一人を、罪の世界から連れ出してくださって、あがらせてくださったことなんです。
それが救いなんです。
それから神様が公会を渡らせてくださったように、私たちに洗礼を授けてくださって、私たちを霊的に生かしてくださった。
ですから皆さん、このように集められた会中は、実は根本的に申しますと、自発的に集まった群衆ではないんです。
教会とは、神様が連れ出してくださって、作ってくださって、そして集めてくださった会中、群れが教会なんです。
その始めも神様によったものですし、そのプロセスも神によってなされたことですし、教会の完成もJ様が再びお出になるあの時に教会が完成されるわけですから、それも神によって完成されるわけです。
ですから皆さん、教会は最初からそのプロセスにおいても最後においても全ては神様によって、イエス・キリスによってなされる、成り立つところでございます。
少し皆さんにともに教えていただきたい、そしてぜひお教えしたいことがあります。
新学校に入ったら、いくつかの科目がありますけれども、その中の日本の学校にも1年間チェンジさせてもらって、同じ科目があることをわかったんですけれども、国会間に添いた大体同じような科目があります。
その中で実際の様々なことを学ぶんですね。その中で教会法、そして国家法、教会と国家の根本的な記載が何なのか、教会正義と含めて学ぶわけなんですけれども、
12:16
その中の1つだけ、ともに覚えていただきたいと願っているものが1つあります。
国家と教会を比べて話したいと思います。国家というものは、日本の国を考えていただいて結構だと思います。
人々が増えて、そして集まって住むようになりました。人々が多く増えたんですね。
集まった人々の必要に応じて、組織を作りました。組織があるんだけれども、この組織を運営するために人々は指導者を選出して代表として立てるんです。
そしてその組織を運営するために法律を作るわけ。そしてその指導者たちが国家を運営することに専念できるように、
集まった人々が、国民が税金を納めて、そしてその税金を持って給料を上げて代わりに働いてもらうことです。
そしてそれが大きくなったら国になるわけなんですね。国民が集まって指導者を選出して、その指導者が国民のために働く。
しかし指導者が気に入らない、よくまともにしてくれない。そしたら脱線させればいいんですね。耐えればいいんです。
それが民主主義という制度の特徴なんです。法も法律も国民のためのものですから、それが国民のために良くないと判断されるならば、
国民に合う、国民のため、自分の口に合う法律を作ってくれる指導者を選出して立てればいいんです。
それが国家ということですし、国家、法律、憲法というものはそういうことです。
だからスタートが人々が集まって指導者を選出して自分たちを守るために法律を作る、それが国家のプロセスです。
ところが教会は国家と正反対なんです。
15:00
まず教会の主であるイエス・キリストが既におられまして、指導者の頭が先に存在しておられるということです。
その出発から国家の出発と違うわけなんです。
そして教会の頭であるイエス・キリストが教会を治められるということです。
そして主イエス・キリストが人間の仏会者を教会の指導者として立ててくださいました。
国民が選出して大統領や議員を立てるプロセスと全く方向が違うわけなんです。
それから国民が自分のために法律を作るわけですが、教会法は既に聖書に記されている神の法が存在しているわけなんです。
ですから教会は根本的に優先的に従うべき法律は教会法、すなわち聖書の御言葉でございます。
ですから日本も昔、キリスト教の弾圧の時代に国家法があってもそれに従わなかったんですね。
そしてさまざまな迫害された人々がいました。国家法と教会法、つまり聖書の御言葉が競争とした時に何に従うか。
国家法じゃなくて御言葉の聖書の教会法に従うこと。それが教会である。それが信仰なんです。
ですから皆さん、教会はもちろん教会のお一人お一人の皆さんの御意見やそれから提案やさまざまな働きを聞いて意見を反映して、そして対話をもってプロセスをもって進めていきますが、
根本的に申し上げますと、教会は民主主義ではない。もしそういうことはないと思いますが、皆さんが全員が賛成されたとしても、それが神のほうに反するならばそれを進めていってはいけない。
反対に、皆さんが大反対と言っても、それが御言葉に反することであれば、それをしていかなければなりません。それが教会なんです。
18:12
なぜなら、教会は神様が主権を持っておられ、神様が指導されるキリストの体であられるからなんです。これを新学生は3年であろうが4年であろうが、それを必ず学ぶんです。
そしてそれをそれぞれ教会に行って、それを教えてくださいと学ぶわけなんです。ですから、指導者の僕諮問対象の皆様も、いつも私たちは神の御前に振り伏して、神様が願っておられる方向が何なのか、今の時代に教会はどうあるべきなのか、
いつも僕諮問、神徒も皆、神の御前に振り伏して、そして御言葉通りに教えていただき、従っていく、それが教会の在り様なんです。
そういう話を初めに聞かれた方もいらっしゃるかもしれませんし、既にご存知である方もいらっしゃるかと思います。私は僕一人の僕会社として、正しいことは正しく教える義務と責任が私にあるわけなんです。
教えることを教えないのは、僕会社が神様に厳しく裁かれる厳重な罪であるからです。もちろん、間違ったことを教えることは、もっとひとり神様から裁かれることがあることです。
このように教会はイエス・キリストが頭であられて、イエス・キリストの教会を指導されるにあたって、指導者を立てて教会を導いていく。
今日のペーストに戻ります。イエス・キリストの民は、エジプトから出て行きました。連れ出していただきました。そして教会を渡らせていただきました。そして彼らはアラノを今当選して通っているところです。
つまりこれは、我らの人生を意味するわけなんです。人生の歩みを表彰しているんですね。ところが皆さん、もう一度申します。このプロセスを誰が指導されたのでしょうか。
もちろんですね、イエス・キリストの民が、このエジプトから出て行きたい。このどれの人生もしんどいと思ったことでしょう。しかし、出て行ったことも、教会を渡ったことも、アラノで行進していることも、全ては根本的には神様が指導をまとったことです。
21:21
全ては神の恵みであり、神の指摘なんです。皆さん、自分自身の信仰、救いを考えていただきたいと、そう願っております。神様が皆さんお一人お一人を召してくださったから、世の罪から出て行くことができたのではないでしょう。
神様が選んでくださったから、洗礼を受け、救われたのではないでしょう。神様が生かしてくださり、導いてくださったから、今、私が皆さんが生きているのではないでしょう。
全ては神様から始まり、神様からよってなって、そして神様によって完成される。それが一人一人の人生であり、教会の歩みなんです。ところが、今日のミコトトからお分かりになるように、イスラルの人々がアラノを行進していくわけなんです。
男性だけで50万人だから、100万あるいは150あるいは200万に近い人数でした。その中には赤ちゃんもいるでしょう。小さい子供もいるでしょう。青年もいるわけですが、80、90代、100歳近くの高齢の人もいるわけなんです。荷物もあるわけなんです。
しかも自分が寝るテントも持っているわけですし、幕屋を神様がルールを決めてくださったから、その通りに作る多くの荷物があるわけなんです。それを持って行進していくんですよ。皆さんどうか映画とか絵とかで見ていただいたその光景を思い起こしていただきたいと思います。
行進していくんです。その時に彼らのその行進の真ん中、中心にはいつも幕屋があり、彼らの生活の人生の中心は神が御臨在なさる幕屋が中心にありました。
彼らが実に歩いて行進する時にも真ん中に幕屋がありました。そして企営をする時に十二部族ですから、東西南北三つずつ分かれて三つ三つ三つあって、その真ん中に幕屋を建てるわけなんです。
24:04
それはですね、我らの真ん中に主が御臨在なさって術を収めてくださる、私たちの中心は神様の御臨在である、それを意味するわけです。そしてそれをいつも思うわけなんですよね。覚えるわけなんです。
最初に申し上げましたように、この幕屋は教会を象徴します。神の臨在を象徴します。神の礼拝するところであり、神を賛美するところであり、神の御言葉をいただくところであり、そしてどうすればいいのか、その自身の指導をいただくところがこの幕屋であり。
そしてそこで意見を捧げて、次を清めていただく清めのところが幕屋なんです。それが今の御国の教会なんです。このように私たちの生活の人生の中心も教会でなければなりません。
生活も人生も暮らしも中心に神の教会が立っておられ、そして術が御臨在なさって収めてくださる。まるで地球や月や星が太陽を中心にして回っていることと同じなんです。
ところが今日の御言葉を見ますと、二十四節をご覧ください。一緒に読みましょうか。あ、すいません。三十四節です。三十四節を一緒に読みたいと思います。
三杯。その時、雲は戒犬の戦幕を覆い、主の栄光が幕屋に満ちた。あいめん。皆さん、幕屋に何が満ちましたか。主の栄光が満ちました。これが教会の在り方なんです。
イスラル人がそこで神を賛美する。神様に愛して罪を悔やかめて罪許されて賛美を捧げる御言葉は要らなく、そこが幕屋であり教会です。ですから幕屋に栄光が満ちたように教会に神の栄光が満ちるところであるべきなんです。
皆さんが願っておられる、皆さんが希望しておられる教会の在り方はどんな在り方なんでしょうか。教会は何より神の栄光が満ちるところでなければならないでしょう。
27:08
救われたイエス・キリストの父よによって、買い取られた民が神を賛美する、神を礼拝する、褒め称える、そのところが教会なんです。そして神様が栄光王家になり、そして私に祝してくださる、そのところが教会なんです。
ですから、教会において何が最も大事なことなのか。大事なものは何でしょうか。それは神の栄光なんです。神の栄光のために私たちは働く。神の栄光のために戒めを守る。神の栄光のために礼拝をする。神の栄光のために奉仕をする。
生かされた神の栄光のために賛美を捧げる。滅絶する牧者もそうでしょう。神の栄光のために御言葉を取り継ぐわけなんです。神の栄光のためならば、ヒト・パウルが言ったように、全てのものを墳墓のように捨てることができる。そこまで私たちは神の栄光を第一に優先しなければならない。
この最も重要な目的を私たちは覚えていなければならないんです。
教会の動きなんです。教会の働きなんです。進むべき方針であり、どういうふうに、何によって、何に従って働く、移動する、進展して進めていくのか、その根本的な力がどこにあるのか、それを見ていきたいと思います。
イスラエル人は旅路にある間、いつも蜘蛛が幕屋から登ったときに旅立った。蜘蛛は神の臨在、栄光を表彰します。蜘蛛が登ったとき、登ることは、旅立ちなさいという神の命令なんです。
そして登っているときには、それが何日何週であろうが、旅立ってずっと移動していきます。しかし三十七節を見ますと、蜘蛛が登らないと登る日まで旅立たなかった。
30:05
蜘蛛が登らないときがあるんです。そうすると、いつ登るかわかりませんが、その場所にずっと留まっているわけなんです。そのところ、詳しく書かれたところがありまして、民数記を見てみたいと思います。
民数記第九章、十五節から二十三節です。スクリーニングも出ますので、ぜひご覧いただきたいと思います。同じところ、もっと詳しく書かれているんですが、もっと詳しく読ませていただきますね。十五節から見ていきましょう。
幕屋を立てた日、蜘蛛が朝日の天幕である幕屋を覆った。神の臨在があったわけです。それは夕方には幕屋の上にあって、日のようなものであり朝まであった。
いつもこのようであって、昼は蜘蛛が群れを覆い、夜は日のように見えた。十七節から見てみましょう。蜘蛛が天幕を離れて登ると、すぐその後でイスラエル人はいつも旅立った。そして蜘蛛が留まるその場所でイスラエル人は宿泳していた。
十八節、神の命令によってイスラエル人は旅立ち、神の命令によって宿泳した。蜘蛛が幕屋の上に留まっている間、彼らは宿泳していた。
十九節、長い間蜘蛛が幕屋の上に留まるときには、イスラエル人は神の命令を守って旅立たなかった。また蜘蛛が僅かの間しか幕屋の上に留まらないことがあっても、彼らは神の命令によって宿泳し、神の命令によって旅立った。
蜘蛛が夕方から朝まで留まるようなときがあっても、朝になって蜘蛛が昇れば、彼らは直ちに旅立った。昼でも夜でも蜘蛛が昇れば、彼らはいつも旅立った。
二日でも一月でもあるいは一年でも、蜘蛛が幕屋の上に留まっていなければ、イスラエル人は宿泳して旅立たなかった。ただ、蜘蛛が昇ったときだけ旅立った。彼らは神の命令によって宿泳し、神の命令によって旅立った。
彼らは蒙古を通して住められた。その命令によってその今姫を守った。
皆さん、この御言葉をぜひ覚えていただきたいです。幕屋は教会です。教会が進めていくときに、何によって進めていくのか、何によって働くのか、皆さん考えてみてください。
幕屋は二百万人なのです。神戸市民より多いです。その二百万人が御言葉があるように、夜、午後が留まるのです。そうすると、天幕があって寝る準備をする幕屋建てるわけです。しかし、それは相当大変なことなのです。
33:16
例えば、一ヶ月とか半年くらいで、余裕的にゆっくり建てて、ゆっくり過ごせるでしょう。しかし、建てたことは赤になって雲が昇るのです。そうするとどうするのですか。直ちに片付けて旅立ちます。神の命令によって従うことなのです。
ところが、あるときは一年も雲が立たないと、そこがいいところであろうが、よくないところであろうが、そこにずっと留まるわけなのです。
今日のこの十五節から二十三節の御言葉を見ますと、何度も何度も繰り返して出てくる御言葉があります。それは何でしょうか。
主の命令によってなのです。主の命令であれば、今晩、テント建てました。建てたのに赤になって雲が昇るのです。そうすると直ちに、
御言葉をよくご覧ください。すぐその後で、直ちに旅立ちました。これが教会のあり方なんです。
主の命令によって留まり、主の命令によって旅立ちます。これが教会なんです。
主の命令によって留まり、主の命令によって旅立ちます。
片づくりしたり、その施物がめんどくさい、寒くて休みたい、行きたくないと思うことがあるかもしれません。イソレ人も人間ですから、彼はいつも呟く人間でしたからね、そうしたかもしれません。
しかし、彼らはすぐに旅立ちました。主の命令によってなんです。これが教会であります。このように、神の英語が満ちる教会は、主の命令によって、では具体的に神の英語が満ちる教会はどんなところなのか、いくつか簡単に申し上げたいと思います。
36:08
神の英語が満ちる教会は、恵みが満ちる教会です。恵みに満ちた教会が、神の英語が満ちる教会です。教会は、何をしても、神の恵みで満たされていなければなりません。
恵みに満ちた教会の特徴は、このようなことです。恵みに満ちた教会は、何をしても恵みに満たされます。神と一人一人が、何をしても恵みに満たされて奉仕をするんです。
メッセージであろうが、賛美であろうが、聖火祭であろうが、奉仕であろうが、厨房の働きであろうが、どういう働きであろうが、奏楽であろうが、どういう働きであろうが、そこで恵みがあるんです。恵みが満ちあわれるんです。
聖火のままみであっても、奏会に行っても、会議をしても、役員会をしても、礼拝をしても、それはもう言うまでもなく、恵みに満たされているんです。恵みに満たされている教会は、感謝に満ちあうれ、賛美に満ちあうれ、しかし、恵みがない教会は、何をしても感謝がない。
祈らないから、感謝がないでしょう。感謝がないから、イスラエル人のようにつぶやきが出てくるわけです。不栄不満がいっぱいになって、何をしても戦いがあり、裁きがあり、ツッコミがある。恵みがないんです。
しかし、恵みに満ちた教会、恵みに満たされた生徒が集まる教会は、根本的に信仰の態度が違います。いつも謙遜で、神の御前に従順で、いつも祈って、いつも肯定的に。
単なる精神的な、メンタル的な肯定じゃなくて、信仰によって立つ前向き的なんです。いつも信仰の言葉を言う、いつも喜ぼう教会が恵みに満ちた教会なんです。
私の二人の知り合いの選挙主です。二人とも東京で、二人の私のように日本の教会で牧師をしています。ところが、一つの教会は本当に恵みに満ちた教会であり、一つの教会は大変な、誰が見ても恵みがない教会の典型的な例なんです。
まず、もうなかなか恵みがなくて、大変な教会の例はこういうところです。よくない例ですから、あんまり言いたくないんですけど。
39:03
役員さんが、教会が牧師先生を監視しています。朝9時に教会に出勤したのか、電話をします。9時に出勤ですね。電話をして、電話をあげるかどうか。そして、一人が毎朝9時ごろ、教会でうろうろしています。
教会に出勤したのかどうか、電話をします。役員がよいから、牧師先生が何か提案をしたら、役員のほとんどは無条件反対します。それができる理由を考えるのではなく、できない理由を考えちゃう。
教会に出勤したら、神戸さんは役員さんを牧師を責めます。何でこうしたんですか。誰の許可があったんですか。何で役員が何で牧師が勝手にするんですか。その教会で4年、5年牧会をしています。恵みがないからです。恵まれていないからです。
2年前、牧師さんとこの先生を初めてお会いして、いろいろ話を聞いて、二人で泣いて祈っていました。そうすれば、牧師がうまくていいんですよね。神戸さんだけで牧会をすればいいんです。
家様に出会ったことがないから、恵みを受けたことがないから、牧師の両足両手を蹴ってしまって何もできないんです。本当に悲しいことなんです。でもその先生はその教会で神の使命だから、このまま登っていないから、本当に苦しんでいるわけですが、お会いをして祈って祈っているんですね。
もう一つの教会です。去年ここに来た先生の三人の中の一人ですが、その教会は牧教会が東北にあって、エダー教会が10か15国ぐらいあります。
毎年各教会が総会をするんですね。そうするとその中で本当に恵みに満ちて明かしをする総会が来て、そして全エダー教会が一つの場所に子どもから大人までみんな集まるんですね。そして祭典をするように総会をするんです。
そしてその中でこういう感謝がありました、こういう明かしがありました、そしてまた理想を共にいただいて、そこに立って進んでいきましょう。互いに祈り合う、助け合う、そして御言葉をいただく、本当に恵みに満ちた総会をしていくわけなんです。毎年少しずつ教会が増えているそうなんですね。
42:12
東京のあの先生は去年年末に約数千万円の教会棟を購入しました。神戸さんはうちより少ないんです、22、23名出席している教会です。しかも若い人が多いんです。
先生が長い間祈って、やしんがあまりにも高いんですね。東京だから先生のおうちとその教会のやしんだけで50万円毎年企画を払っているわけですから、もったいないんです。そしていくらいくら祈ってもらって、これは献金ですから、小さな献金でもこういうやしんで貯めるわけではないし、もったいないと思って祈っていたところ、
昨日にもっと近いところにいい建物がありました。不思議にそれが牧舎の奥さんに目に入ってきて、先生は祈りました。何ヶ月かけてずっと祈りました。
そして神様から拡張のサインをいただきまして、総会ではなかったんですけど会議を招集しました。そして先生がこういうところに事業を申しまして、そして祈って、そういうサインをいただきました。どうしましょうかと話したそうです。
そうしたら、神戸さんのみんなはバンド行きで、先生先生が神様によって拡張をいただきましたら、私たちは先生が決められたととおりに従います。そして去年購入しまして、クリスマス礼拝そこで始めました。
めぐみに生きた教会は、みんなが一つになって、神の命令であればそこに従っていく教会になります。
神奈川に教会は、めぐみに生きた教会であると私は1年間、毎月1回役員会をさせていただきました。若手の牧師でありますし、日本の教会になかなか慣れていない、未熟な牧師でございますが、役人さんみんな心から応援していただきました。
意見が起こって心に傷ついたことが一度もありませんでした。国の皆さんが何とかして、この未熟な若い牧師を助けようとして、応援しようとする、従おうとする皆さんのお姿に、いつもたちは頭が下がって感謝して感謝しておりました。
45:01
一年の間、さまざまな新しいことを心に見られたことがたくさんありました。にも関わらず皆さんは、めぐみにして、信徒の良い信徒さんだから、誰一人、つぶやかに感謝をもって応援していただきました。
人からおきましょうとして、していただきました。金金を捧げるでありませんかと申しましたら、金金を捧げてくださいました。御言葉を学びましょう。いつ学ぶんですか、学びましょうと言ったら、レッスンに忙しながらしていただいて、共に御言葉を学びました。
聖書を読みましょうと申しましたら、それぞれ聖書を読んで済ませました。伝道しましょうとしたら、路房伝道や駅で伝道していただきました。本当に野田に教会は、めぐみに満ちた教会であると私は信じました。
ますますこれより、今よりさらにめぐみに満たされて、神の英語が満ちる教会、そして神の英語のために用いられる教会でありたい。その一人一人の信徒でありたいと心から願っております。もう一つだけ申し上げたいと思います。神の英語が満ちる教会は、ジェイス・キリストが主である教会です。
教会は、ジェイス・キリストの十字架の指針によってあがなわれた教会です。ですから、教会の主は、牧師でもなく、役員でもなく、古い信者でもなく、ジェイス・キリストです。
我々は、主の神であり、主の子供であり、主のしもべであります。教会の主は、ただお一人、ジェイス・キリスト様であります。
ですから、私たちは、礼拝においても、祈祷会においても、学びにおいても、会議においても、奉仕においても、主が何を願っておられるのか、その主が何を求めておられるのか、それをよく教えていただいて、主が願われるとおりにしていく、それが教会なんです。
ですから、恵みに満ちた教会、神の栄誉が満ちた教会は簡単です。ジェイス・キリストの御言葉に従えばいいです。使える教会、従う教会です。
48:03
恵みに満ちた教会、キリストを主として使える教会には、謙遜と従順が満ち合わせます。なぜでしょうか。みんなしもべだからです。国家と違って、私だけみんなしもべですから、誰一人自己主張を立てます。
主がおっしゃるならば、はい、かしこまりました。命令に従って、旅立て、行きます。主が命令されば、長い間、そこで寝下ろして、とどまるわけです。
もう一つお伺いしたいと思います。私の母教会の話です。インキョンの母教会です。私が生まれたときは、教会の長老派ですから、長老さんがいるわけなんです。多くいらっしゃいました。
とても保守的な教会です。長老さんたちは、昔ながらの古い神社ですから、教会の主人のように、まるで会社のオーナーのように教会を運営していました。先生ができることはあんまりありませんでした。
そのときの徳先生は、その長男が私と同期生でしたから、よく知っています。長老さんが来た長老さんが来たら、徳先生をされることを反対することができることでした。
徳先生のことは、長老さんもその長老に似て、創会をしたら、毎度戦います。争います。私は青年になって創会に出たことがありますから、よく見ます。
結局、先生はある日、猛高速で倒れて、天に召されてしまいました。その先生はとても優和で温泉な先生でした。
お祝いである先生が式事をされました。先生が撲滅されて、あまりにも苦しんでおられるから、神様が早めに天国に召してくださったのですよね。
ところが、教会は神の教会ですから、神様は諦めないで、今の担任先生を送ってくださって、教会がそのうちに恵まれて、長老さんも引退して、そして主体が変わって、優和で温泉で、恵まれて、変えられて、今の教会はですね、とても恵みに満ちて、変えられているところなんです。
51:20
教会が平安でですね、とりあえずリバイバルしたか。昔、私が高校生のときはですね、家族の中では600、700人ぐらい集まる教会でした。日本と比べたら大きいかもしれませんが、過去では普通なんですね。
今は3,000人以上集まる大きな教会になっています。恵みに満ちて、教会がもう10年、20年前と全く変えられているんです。恵まれているから、教会が変えられて、味方が日産を教会になっているんです。
みなさん、神の英語が満ちる教会、妙谷教会がこのような教会となりたいです。礼拝の中に神の英語が満ち、そして何をするにあっても、神の御言葉に従うイエス・キリスの十字架のあの恵みを覚えて従っていく教会、そして神が英語を王家になる教会でありたい。
そのような妙谷教会でありたいと、ここから思っております。お祈り。
では、今日の御言葉を覚えて、私たちの一人一人が、また妙谷教会が、神の英語が満ちる生徒、神の英語が満ちる教会となるように。
恵みに満たされる教会、イエス・キリスを主として従う教会であります。そして、喜びと感謝と恵みが満ちあわれる教会、回復とリバイバルが起きる教会でありますように、
この御言葉を持って、心を合わせて、しばらくお一人お祈りしたいと思います。お祈りいたします。
ハレルヤ神様、あなたの御御言葉から感謝いたします。あなたの御御言葉から感謝いたします。
どうぞ主よ、また一人一人、あなたが御論で祝してくださいましたように、お願いをいたします。
どうぞ神様、神の英語が満ちる教会、子供が登るとたび立つ、留まると留まる教会であります。
主の命令に従って留まる、主の命令によって働く、主の命令によって使える教会でありますように、
54:04
どうぞ我々一人一人を、あなたが強めて恵んでくださいましたように、お願いをいたします。
どうぞ教員が一致になって、恵みに従うことができますように、あなたが祝して恵んでくださいましたように、お願いをいたします。
どうぞ神様、我々一人一人を、あなたが祝して恵んでくださいましたように、お願いをいたします。
どうぞ神様、我々一人一人を、あなたが豊かに祝して恵んでくださいましたように、お願いをいたします。
どうぞ神様、我々一人一人を、あなたが豊かに祝して恵んでくださいましたように、お願いをいたします。
一言お祈りいたします。
その時、子供は戒犬の天幕を覆い、主の英語が幕屋に満ちた。
神様、お願いをいたします。
我ら三浦の教会が、神の英語に満ちた教会とならしてください。
神と一人での信仰が、神の英語に満ちた信徒にならしてください。
神と一人での信仰が、神の英語に満ちた信徒にならしてください。
イエス・クリストを徒として使える教会とならしてください。
ますます恵みに満たされ、ますますリバイバルが起きる、ますます神の英語のために生きる、働く教会とならしてください。
よ、どうぞ教会、今日は第21回の総会が開催されます。
神の恵みを思い起こし感謝する、そして本当に信仰に立って、精霊の力によって進む教会と、
そのために開催される総会でありますように、
ご自身が望んでいただきまして、そして収めてくださいますように。
どうぞ我ら一人一人足りないものです。
時には失敗し、時にはしまずい、時には傷つかれ、時には罪を犯し、時には高ぶったり、時にはしょんぼりしたり、
時には神を信じていないような振舞いをしたり、
時には祈りに本当におろそかにする、そういう時がある弱いものです。
生まれ変わらず父の恵みや父の愛は変わることはありません。
主導の我らの信仰を引き上げてくださいますように。
神の神としてふさわしく生きるものとして守ってくださいますようにお願いをいたします。
どうぞ主よ、教会のさまざまな課題がありますが、
主よどうぞ、教会みんな一丸となって、住み合って一つになって、
祈り合う、助け合う、そして進めていくことができますように、主よどうぞ助けに続いてください。
ここから礼拝する教会一つ目だし、一人一人二十年の歴史の間、さまざまな困難があったことでしょう。
しかし本当に教会みんな一気になってここまできました。
57:04
どうぞこれからまた二十年、また三十年、主よどうぞ何とか豊かにしてきて、
今までなかったリライバルを、今までなかった恵みを、祝福を、主よどうぞ降り注いでくださいますようにお願いをいたします。
どうぞ主よ、お願いをいたします。無言に感謝し、イエス様の御名によってお祈りいたします。