1. 名谷教会
  2. 2015/10/18:聖日礼拝(旧音源)
2015-10-18 40:28

2015/10/18:聖日礼拝(旧音源)

2015/10/18 聖日礼拝(旧音源)




00:01
ありがとうございました。
皆さん、おはようございます。
先週は祈っていただきまして、札幌神聖教会での礼拝の御用を、最後までの祈りに支えられて、無事終えてまいってきました。
皆さんも先週恵まれたでしょうか?
感謝いたします。それでは、メッセージを入る前に、どんな願いだったか挨拶しましょうか。
ありがとうございます。一言お祈りいたします。
神様、この朝、宿の民が宿の宮に集まりました。どうか一人一人の上に、あなたの恵みを施してください。
そして、神様だけが栄光を受け取り下さいますように、悲しんでいる者を慰め、勇気を失っている人に勇気をつけてください。
希望を失っている人に将来を与えてください。信仰を弱っている人々には信仰を強めてください。
神様の皆によってお祈りいたします。
アーメン
今日は、人生の海の嵐に遭った時という題にしまして、ともに御言葉から恵みをお受けしたいと思います。
2011年東大震災の時に、放送や新聞でよく言われた言葉があります。
想定外という言葉です。想定外。
あちらこちらでですね、想定外だ、想定外のことが起きたというニュースを民にしました。
ところが、こう考えてみたら、本当に私たちの人生に起きることは、想定したことより想定外のことが随分多くのではないかなと思います。
それでですね、もし私たちが1年後、あるいは10年後のことを何が起こるか、それをあらかじめ知ることができるならば、心配することはないでしょうね。
03:08
もし、そのような能力が人々にあるならば、たぶん人たちは宝くじやロトを買うかもしれませんね。
ところが残念ながら、そういう能力は私たちに与えられていません。
私たちは自分なりに自分の人生のプランを立てました。
こうしてこの大学を卒業して、このような仕事場に就職して、この年齢くらいに結婚して、子供は2人くらい、そして土地はこれくらい貯めて、
そして65歳、定年したらこういうところに住むプランを立てます、準備をします。
それが我々ということではありません。
ところがどうでしょうか。人生は全てがプランや考えたとおりにはならないんですね。
実はちょっと恥ずかしい話ですけれども、釜山にいるときに子供は4年の差があって生まれたわけなんですね。
1998年、そして事情が2002年、2003年、2005年頃ですね、もう2人でやめましょう、終わりましょう。
これ十分でちょっと話されましたら、約3ヶ月後、花が変な顔をしていました。子供ができたわけなんですね。想定外のことが起こるんですよ、人生には。
自分のプランや準備とは関係なく、突然発生してくることが我々の人生には多くあるかなと思います。
その突然発生してくることがもし幸せなことであれば、本当にうれしいことでしょうけれども、
つらいことや事故や、あるいは病気や、そういうことであれば本当に悲しいことなんですよね。
本当に耐えがたい、受け入れがたい、いや、認めたくはないかもしれません。
では、今日の書いてあるように、人生の海の嵐にあったときに、私たち神を信じる者たちはどうしたらいいんでしょうか。
まず第一、その苦しみを深く考えるのではなく、神様を深く考えることです。
06:11
私たちは不思議にも、想定外のつらいことや重いこと、苦しいことが起きたら、
そのつらいこと、苦しいこと、その事柄をよくよくしっきりに考えて考えて深く考えて考えてしまいそうな稽古があるんじゃないかなと思います。
一言で言うならば、その苦しいこと自体に陥没してしまう。
例えば、自分を苦しめる人、悩ます人がいるならば、あるいは何かのこと柄があるならば、
その人やそのこと柄を、もうしっきりに考えてしまう。そして、嫌な気持ちがもうますますだけに減る。
あるいは、その人を憎しむようになる、非難するようになる。
そうすると、自分の心は本当に辛くなるんですよね。
皆さん、人生の海で嵐にあったとき、
私たちは、その荒き苦しみ、そのことを深く考え、黙想するのではなく、神様を深く考えることがとても大事です。
私たちの心も身も耳も、全身全霊、神様に向けさせることです。
これが皆さん、信仰の姿勢なんです。
ペーストを開きましょう。
テブル人への手紙、3章1節です。
426ページですね。新約聖書426ページ。3章1節。
では、一緒に見ましょうか。
そういうわけですから、天の召しに預かっている聖なる兄弟たち、私たちの告白する信仰の使徒であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい。
ここに皆さん、策外の中にある彼らに、この聖書の御言葉は、信仰の使徒であり、大祭司である誰をですか。イエスのことを考えなさい。
09:02
これを、現代訳聖書はこのように訳しています。イエスのことを深く心に留めなさい。
これは気になります。イエスのことを深く心に留めることです。
苦しみがあった時に、つらい思いが備えられた時に、その言葉やその人を深く心に留めるのではなく、誰をですか。イエスキリストをあなたの心に留めることです。
もう一箇所、同じヘブル、十二書二節、440ページです。十二書の二節、ご一緒にお見せしましょう。
信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。
イエスはご自分の前に置かれた喜びのゆえに、恥ずかしみをものともせずに十字架を忍び、神の二座の右に着座されました。
もう一番タイトな文です。
信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。
人生の海でアラフに会った時に、目をイエスキリストから離さないでいなさい。
この目を離さないでいなさいの言語の言葉は、とても強力な接着剤でも貼り付けるという意味です。
それほどイエスから心の目を、人生の目を、持ちを離さないということです。
皆さん、もしも今、苦しみという嵐にあっているでしょうか。
その苦しいことからそのものを深く考えるのではない。
それを心にとめるのではなく、イエスキリストを深く考える。
イエスのことを深く心にとめること。
これが信仰です。
自分の心にイエスの霊で満たして、自分の目をイエスに固定させる。
自分の頭ではイエスを深く考えること。
これがアラフに会った時、クリスチャンの姿勢なんです。
ところが皆さん、アクマスターは私を常に揺さぶろうとしています。
12:04
そして、イエス様から目を離させようとします。
心にとめることができないようにさせようとします。
邪魔をします。
妨げます。
揺さぶります。
陥没させようとします。
ですから、聖教は私たちに、いつも喜んでいなさい。
絶えず祈りなさい。
すべてのことに対して感謝しなさいと進めているんですね。
つらければつらいほど、苦しければ苦しむほど、感謝し賛美することが信仰ではないでしょうか。
皆さん、私たち自分自身のことを考えてみてください。
この一中、あるいはこの頃、つることにもしあったでしょうか。
つることがあったでしょうか。
どういうふうにその日々を過ごしてきたんでしょうか。
つらいほど気を賛美したでしょうか。
あるいはそれに陥没して、落ち込んでばかりいたんでしょうか。
いつも喜びなさい。絶えず祈りなさい。
すべてのことに対して感謝しなさいということ。
つらい時こそ、大きな荒きにあった時こそ、信仰の者は賛美を捧げ、喜んでいる、祈る、これが信仰の道なんです。
どうか皆さん、人生の荒きにあった時に、もうあえてわざと神様に進んでいって、感謝の賛美を捧げようではありませんか。
喜びの賛美を捧げようではありませんか。
将来の希望の御言葉を黙想しようではありませんか。
そうしますと、神様から答えが来るんです。
そして、人には得られない神様からの慰めと憐れみと、そして希望と道が見えてくる。
語られるという恵みがあるんですね。
だから、いくら嵐が吹いていても、その嵐の中で自分は動揺せずに、びくともせずに、恐れずにいられるのです。
15:00
嵐がないからではありません。嵐があっても、動揺せずに、恐れずにいられるのです。
何の力でしょうか。信仰の底力なんです。
ですから皆さん、常に神様を深く考えて下さい。
イエス・キリストのことを深く心に留めようではありませんか。
2番目、人生の海で嵐があった時、どうしたらいいでしょうか。
2番目は、神の主権を信頼することです。
神様の主権を信頼する。
つまり、すべてのことは、神の主権の下で起こるということです。
皆さん、私たちに起きる想定外や想定内、すべてのことは、神の身手の中にあるということです。
そして、その神様は本当に良きお父さんであることです。
この2つの確信さえ持っていれば、嵐にあっても耐えることができる。
そこから抜け出すことができるのではないでしょうか。
ところが皆さん、この2つの確信。
すべては神の身手にあるという確信。
そしてもう1つは、私が信じている神様は本当に本当に良きお父さんである。
この2つに対する確信を持つためには、私たちに必要なものがあります。
それは何でしょうか。
それは信仰です。
もう1ヶ所精査を開きましょうか。
ヘブロビテの手紙11章1節。
438ページですね。
ヘブロビテの手紙11章1節。
では、これを一緒にお読みしましょう。
はい、信仰は望んでいる事柄を保障し、目に見えないものを確信させるものです。
この御言葉ですね、何度も読みましても、なるほど、そうだなと思わされるんですね。
今は嵐の中にあっても、今は何も掴んでいなくても、
未来の事が審判になっていても、信仰さえ持っていれば、
自分が望んでいるこの先の事、将来の事柄を、もう信仰が私に、皆さんに保障してくれるんです。
18:06
そして、まだ目に見えない、実際に起きていないんですけれども、
今自分の目の前に起きたかのように、自分が掴んでいるかのように、自分が味わっているかのように、
それを確信する、それを確信させてくれるのが何ですか?
信仰なんです。
ですから皆さん、もしも、私たちが人生の海で嵐にあったとしましょう、
つらい目にあったとしましょう、
何でこの事が起きたのかと思う事があったとしましょう。
しかし、その嵐はまだ変わっていない、まだそのまま残っている。
その自分を苦しめる、つらい思いをさせる人や物事が、まだそのままあるとしても、
自分に信仰さえあれば、神様はよく見お父さんである。
そして、すべての事は主の御手にあるから、
我々に災いじゃなく、将来与え、希望を与える神様を信頼できる。
それが信仰の力なんです。
そして、嵐があっても何の害も受けずに、
自分が持っているこの船は、あの安全な港に着く、いやもう着いているのを見るんです。
それを確信するんですね。
それが信仰なんです。
ですから、信仰さえ持っていれば、どんな大型台風が吹いてきても、
何にも持てなくても、嵐が浮いてきても、びっくりともしないんです。
神様は皆さん、本当に力のある良い御父さん。
その確信を持っていただきたい。
そうするとですね、ちょっとしたせらい事があっても、嵐になっても、全然平気なんです。
もうバッグの中ですね。
私が小学生の時に、町に小学校に同じ6年生の男の一人がですね、
普通の子より体格も小さくて、普通の少年ですけれども、
21:00
誰も彼を意地悪、あるいは当たりたりすることはできない。
あれなのか、誰かこの子に意地悪としたら、
お前、うちの父が誰なのか知っている?
うちの父は鉄コンドの毒男なんだよ。
あの町に鉄コンドの墓場が一つあってですね、その死犯が毒男。
誰も彼を意地悪にできないんですよ。
いつもできるまま。
皆さん、私のバッグには、吉なる神様、全身全露の神様が私たちの良き御父さんです。
このような信仰は皆さん、普段もその真価を発揮しますけれども、
想定外のことが起きた時に、
あさにその時に信仰というものは、最も大きな力を、真価を発揮するんですよ。
ですから皆さん、私たちが心配するものは、
人生の海で起きた嵐そのもののために心配するのではなく、
それより自分の信仰がこの嵐を耐えられるのか、乗り越えられるのか、
そういった信仰なのかどうか、そのために心配するのではないでしょうか。
たとえば皆さん、私たちは何かが起きたり、そのことのために心配するんですね。
しかし信仰のものは、その人やそのことからために心配するのではなく、
自分の信仰がそれを耐えられ、それを祈福に変わらせる信仰なのかどうかを心配するのではないでしょうか。
ですから、民の主権を全く信ない思っている人は、このように賛美します。
たとい死の影の谷を歩くことがあっても、私は災いを恐れます。
あなたが私とともにおられますから、あなたの無知とあなたの知恵、それが私の謎さです。
説を開きましょうか。
主編23編4説、主編23編4説、926ページです。
24:02
急いで見ましょうね。4説だけでいいです。4説、はい。
たとい死の影の谷を歩くことがあっても、私は災いを恐れません。
あなたが私とともにおられますから、あなたの無知とあなたの知恵、それが私の慰めです。
アーメン。
皆さん、たとい死の影の谷を歩くことがあるんですね。
私に会う時があるんですね。
辛い思いをさせられる時があるんですね。
しかし、私は災いを恐れません。
あなたが私とともにおられますから。
皆さん、どうでしょうか。
ただ、よくよく恐れがちの方でしょうか。
全然恐れません。
ただ、皆さんとともにおられます。
この一つだけで、実は十分なのです。
この賛美が、この歌が、私たちの日々の歌でありたい。
死の影の谷がないから、嵐がないから、賛美を歌う恐れない人生ではなく、
それはですね、誰にでもできることなんですよね。
しかし、神を信じる者には、嵐が吹いてきても、
賛美の谷を歩くことがあっても、全然平気なんです。
恐れません。
何でしょうか。
全知全能の神様、言葉をもってこの宇宙万物を作られた神様、
真なものを蘇らして、無から有を作り出す、
マイナスをプラスに、赤地を黒地に、
作り変えて下さる、
地球が私たちの良いお父さん、
共におられますから、恐れないのです。
信仰は恐れないことです。
どうか皆さん、もし今、嵐にあっているでしょうか。
つらい思いにさせられているでしょうか。
ならば、神の助けを信頼して下さい。
そして、この三つ目、この賛美を、
もう一日、何十回、何百回でもいいでしょう。
何度も何度も、お読みになって下さい。
27:00
三番目。
嵐の中で、神の御声に耳を傾けることです。
一言で言うならば、神に聞くことです。
神に聞く。
私たちは毎日、
あまりにも多くの声や音に聞かされています。
人の声、テレビの音、ラジオの音、車の音、
犬の声、いろんな騒音、聞こえてくるんですね。
聞かされてくるんですね。
時には聞きたくないんだけど、聞かされるんですよ。
先生の時ですね、
PTに乗って札幌に来ました。
後ろに、何故か最近日本には中国か台湾の韓国客が多いらしいんですけれども、
私の周り全部台湾なのか中国かわかりませんけれどもね、座っていました。
1時間40分くらい飛ぶんですね。
もう最初から最後まで、二人のおばあちゃんがおしゃべりをずっとしていました。
中国の、失礼ですけどね、声が大きいんですね。
1時間ずっとおしゃべりをしていましたね。
イヤホンも持っていなくてですね、もう寝ることもできませんしですね、
もう1時間通白してですね、本当にあれで疲れてしまいました。
皆さん、普段ですね、いろんな声が聞こえてきます。
ところが、人生の海の荒地にあった時に、私たちは誰の声を聞こうとしているのでしょうか。
誰の声に耳を傾けているのでしょうか。
人生の海の荒地にあった時、信仰の人は神に聞きます。
とてもシンプルです。
複雑ではありません。
神に聞けば、神に聞けば、そこに答えがあるでしょう。
今日の言葉を開きましょうか。
49章8節だけ一緒にですね、もう一度読みしたいと思います。
いざや今日、49章8節。
では、堀冨さん。
主はこう述えられる。
30:01
恵みの時に、私はあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。
私はあなたを見守り、あなたを民の契約とし、
国を起こし、荒れ果てた譲りの地を救わせよう。
ここにですね、神様はこう言われました。
恵みの時に、私はあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。
私はあなたを見守り、あなたを民の契約とし、
どういう意味でしょうか、皆さん。
私たちにはあることが苦難の時であるかもしれませんが、
実はそれは神には恵みの時なんです。
救いの時なんです。
だから、神に聞く人は神様に答えていただくんですね、皆さん。
これを覚えていただきたい。
人には苦しみの時が、神様には恵みの時なんです。
救いの時なんです。
だから、神の声に耳を傾けるのです。
もう一箇所開きましょう。
エレビア書13章15節。
1266ページです。
1266ページ、エレビア書13章15節。
ご一人。
耳を傾けて聞け。高ぶるな。主が語られたからだ。アーメン。
耳を傾けて聞きなさい。高ぶるな。主が語られたからだという言葉です。
どういう意味でしょうか。
イスラエルの民を例えにしてみましょう。
イスラエルの人々が神様をとてもよく信じている時がありました。
しかし、ダビデ、ソロモンの後、イスラエルは北に南に分かれてしまいました。
さらにさらに神様をよく信じる方向に行ったのではなく、どんどん堕落してしまいました。
そのような時に神様は、イザヤ、エレビア、その他に大勢の預言者を使わせて、
33:01
神の声を聞きなさい。神の声を聞きなさいと仰せられました。
神の見告を仰せられました。
私を聞きなさい。私を求めなさい。何百年も語られました。
ところがその時に、その預言者を通しての神の見告によく耳を傾けて聞いて従った王たちは、とても低くされました。
ヒゼキヤとかヨシヤとか他にも大勢いるんです。
しかしですね、いくら預言者が神の声を聞きなさいと言われても、もう聞かない。
神に伺おうともしない。
そういう王たちは、さらにさらにもっともっと堕落してしまいました。
ひどい場合にはひどい病気があって、死んだ王も、足切れや我が家のように連れて行った王も、目をえぐり出された王もいました。
要はこれです。神に聞くか聞かないか。
今日も同じではないでしょうか。
信仰の人は、人に聞くより、まず神に聞きましょう。
人生の海で嵐に遭った時、人に尋ねたり、人に助けてもらう以上、神に聞くべきではないでしょうか。
そこに答えがあるからですね。そこに答えがある。
ですから信仰の人は嵐に遭った時に、神の御前に出て行きました。
霧をします。ひざまずいて、神に伺って、神に聞こうとします。
これが嵐に遭った時、信仰の御前なんです。
苦しみの時だけではなく、普段、他者ちは、神の御声に耳を傾けて聞いて、そして神の御声に伺っていくことが、福福の道ではないでしょうか。
皆さん、この1週間、先週1週間、どうだったでしょうか。
誰の声に耳を傾けていたでしょうか。
自分の声ですか。誰々さんの声ですか。テレビの声ですか。新聞の声でしょうか。あるいは、聖書の御言葉でしょうか。祈りの声でしょうか。
神に聞くこと、これはですね、とてもシンプルで、とても簡単で、とても当たり前のことでなんですけれども、これを実践する人が祝福されます。
36:12
18世紀、アメリカやイギリスの偉大な伝道者、ディエル・ムーディ先生がいらっしゃいます。
名前はですね、皆さん聞いたことがあるかと思いますが、そのディエル・ムーディ先生が、墓会を始めていたところ、
そのムーディ先生の境界のある金持ちの神道さんが、大きなお酒を作る工場を建築してですね、大きな祭祀をされました。
それでその先生も、またその町のですね、僕たちが招かれて、それぞれ祝福の敷地を延べるように頼まれました。
僕たちが指名されて、次々に祝福の祈りを捧げたわけですね。
周りからですね、そういう声が聞こえてきました。
まあ、お酒のことはよくないんだけれども、立派な工場を建てたんだから、祝福の祈りくらいしてあげてもいいんじゃないか。
まあ、そうそうそう。そういうふうな声が聞こえていたところ、ムーディ先生の番になりました。
段に上がって、そのムーディ先生はこう祈ったそうです。
神よ、この静岡工場が完成したことを感謝します。
この工場が明日から動かないようにしてください。
多くの酒を作って、多くの人を狂わせ、多くの家庭を破壊しないようにしてください。
イエス・キリストの皆によって祈ります。
この祈りですね、その終焉は死因となってですね、困難に押し出す。
ところが、これで終わりではありません。
ところが、そのキントの先生はその夜眠ることができなかった。
そして悩んで悩んで、そのムーディ先生の祈りは心の中でずっと響いて大きな声で聞こえてきて、
彼は神に祈った。そして重大な手伝いを下しました。
工場を稼働させないこと。
そして、しかもその工場の建物を神ムーディ先生に捧げることにしました。
そのムーディ先生はそれを受け入れて、その工場を聖書学院にしました。
それですね、その聖書学院から毎年多くの伝道茶が生み出されて、今日も至っているんです。
39:00
もしムーディ先生がそこでですね、他の牧草というように、
そうなんですね、こんなお祝いの時にひどいことは言わない方がいいんですよね、とですね、
人の声を聞いてですね、来たら何にも変わらなかったかもしれませんね。
しかしムーディ先生は神の声に聞いたわけなんですね。
そしてその神道の社長さんもムーディ先生を通して神の声に聞いたわけなんですね。
皆さん、神の声を聞いた時に素晴らしいことが起こるんです。
愛している皆さん、神に聞いてください。
静まって、神の御声に耳を傾けますと、いくら嵐が激しくても、私たちは安全で平安でいられます。
神の御手の中に、我々人生のすべての嵐、苦しみ苦難の答えがそこにあります。
答えがないのが問題ではなく、神に聞くか聞かないか、それが問題ではないでしょう。
すべては神の御手にある。これを悟るのが信仰であって、これを悟った信者が幸せな信者であります。
お祈りいたします。
40:28

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