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聖書朗読をさせていただきます。
吉瓦十四章の七節から十一節、旧約の三百九十三ページです。
お読みいたします。
主のしもべ、孟瀬がこの地を偵察するために、私をカデシュ、パルネアから使わせたとき、私は四十歳でした。
そのとき、私は自分の心の中にあるとおりを、彼に報告しました。
私と一緒に上って行った、私の身内の者たちは、民の心をくじいたのですが、私は私の神、主に従い通しました。
そこでその日、孟瀬は誓って、あなたの足が踏み地に行く地は、必ず永久に、あなたとあなたの子孫の相続地となる。
あなたが私の神、主に従い通したからである、と言いました。
今ご覧のとおり、主がこの言葉を孟瀬に告げられたときから、この方、イスラエルは荒野を歩いた四十五年間、
主は約束されたとおりに、私を生きながらさせて下さいました。
今や私は、今日でも八十五歳になります。
しかも、孟瀬が私を使わせた日のように、今も双剣です。
私の今の力は、あのときの力と同様、戦争にも、また日常の出入りにも耐えるのです。
以上です。
では、聖火隊に参拝していただいて、その後、千田先生より本庁のメッセージをいただきます。
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千田先生、おめでとうございます。
おめでとうございます。
おめでとうございます。
おめでとうございます。
おめでとうございます。
おめでとうございます。
おめでとうございます。
おめでとうございます。
おめでとうございます。
おめでとうございます。
おめでとうございます。
おめでとうございます。
おめでとうございます。
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おめでとうございます。
おめでとうございます。
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おめでとうございます。
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おめでとうございます。
おめでとうございます。
おめでとうございます。
おめでとうございます。
おめでとうございます。
おめでとうございます。
おめでとうございます。
おめでとうございます。
草 みもとを
去りゆくべき
救いは子供に
espressoを
じゅう死ぬ
みなさんおはようございます フォスターの懐かしいこのメロディー
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に合わせて賛美していただきました かつて小学校で習った歌のような
記憶がありますけれども本当に 懐かしくまたそれを神様への賛美
として捧げてくださったということ これも誠に感謝であります
きょうも御言葉をいただきます その前に一言お祈りをさせていただきます
私は生きている限り主を褒めた たえよう命のある限り私の神に
褒め歌を歌おうと 恵み深い天の父なる神様こうして
きょうも命を与えて私たちをこの 御堂へと導いてくださり感謝を
いたします私たちが来たという よりもその背後にあって主が取り
なしてくださりまた精霊様の導き によってここに来させていただき
たことを心から覚えてありがとうございます この礼拝の主であるあなたを今
覚えてあなたにこの賛美と礼拝 を捧げていますどうぞ清めてお
受取くださいそれぞれの一週間 の歩みは異なりましたが今心一つ
にしてこの主なるお方を拝しそして あなたにこの私たちの思いをまた
礼拝を通して捧げまたあなたから 恵みと祝福をいただきまた御言葉
を通して悟しを得させていただける ように私たちは今静まってあなた
を待ち望んでいますどうぞ一人 一人の思い願いあるいは祈りを
主が御存じでありますからそれに 相応しくあなたが答えてくださる
ようお願いをいたしますまた御言葉 の中にあなたの見思いがあります
から私たちもそれを十分に悟り 得ることができるように今心を
あなたに向けることができるように 何よりもまず私と神との関係を
つくることまた食われているなら その主の祭壇をつくろってもう一度
あなたとの関係を正しくさせて いただけるようにまた食いるべき
は食い改めてあなたのまた罪の 贖いをもう一度覚えて主の十字架
によりすがることができるように 導いてください今からの御言葉
のひとときどうぞ祝福してください 語る者も哀れんで最後まで支えて
くださいますように御言葉のみ が人々の心にとどまりますよう
委ねて宗教徒の皆によってお祈り いたしますアーメン 教会のカレンダー
09:12
というのがありますもちろんこの 世のカレンダーそれも一緒に合わせ
ながらそれぞれにふさわしく礼拝 を捧げたりあるいはその中からメッセージ
を取り継がせていただいている わけですが明日は慶労の日ということで
そのようなところからメッセージ を取り継がせていただきたいと
そう思っております しかしただ これは全ての人のメッセージであります
特定の人に語られたものではなく 神様はどのような全ての人にも
等しくその言葉を語っていてください ますからそのつもりで皆さんも
耳を傾けていただけるようにそう 願っております この地球上に住む
私たち人間六十何億人でしょうか その一人一人がみんな違うということ
は誰でもわかっていることですね みんな違いますそれは体のこと
もそうですが個性やあるいは人格 やそういうことにおいて神様は
そのようにみんな違うというふう につくられたわけですね 人間が
尊い存在であるということの一 つの理由はそこにあるわけです
この地球上に二つと同じものはない 私という存在はこの地上に一つ
なのだ一人なのだというそこに 神様の祝福とそして人間が尊い
理由があるわけですそのように ユニークな存在として一人一人
をつくられたんですからみんな 違うということこれが一つですね
それがもう一つ主は神様はその 神の前にあって全ての人は平等
であるということも言われている わけですね全ての人は神の前に
みんな平等であるこれはまた別の 意味でありまして神様は正しい
人にも悪い人にもあるいは正しくない 人にも悪くない人にも強い人にも
全ての人に雨を降らせてくださる 日を昇らせてくださる全ての人
が同じ恵みを注いでいてくださる そういうことでもありますしあるいは
私たちは一日二十四時間これは どの人も同じです一年三百六十
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五日全ての人は神様によって同じ 時を与えられているある人だけは
二十五時間二十六時間ある人には 四百日五百日そんなことはない
わけです全ての人に同じく時間 その時を与えていてくださいそういう
意味で主の前にあって全ての人は みんな平等であるですから一年
経てば一歳年をとるこれは全ての 人が同じことですね十年経てば
十歳年をとる一歳の赤ちゃんは 一年経つと二歳になる五十歳の
人は十年経てば六十になります しそういうことですねですから
どの人も赤ちゃんのときがありました し少年少女のときもありました
今教会学校の子どもたちはそういう ところにいるんですがやがてそういう
ところに来るわけですね青年の ときありましたあるいは中年の
そういう時期もやがて若い人たち は迎えるでしょうし私たちも今そういう
ときを迎えているあるいはやがて そういうときが来るでしょうこれも
全ての人において平等であるその ことが私たちも当然のこととして
わかっているわけですね ところがそれじゃ全ての人が同じ
ように年を重ねていくしかしそれ じゃみんなが同じように変化して
いくかというとそうではない ということに気づくときにやはり
人間というのはそう単純ではなく 難しい面もあるんだなということ
がわかるわけですですから何か で年齢で線を引くということは
これはなかなか難しいことがあります もちろん年齢で線を引かなければ
立ち行かないという場合もある ということも皆さん御存じですね
ですけれども全てが年齢ということで 線を引けるかというとそうではない
というのは同じように年を重ね てもみんなそれぞれ変化という
面では違うからですねですから 私たちはそのことをきっちり整理
しておかないといけないと思うん ですね一概に年齢で全てを割り切る
ということはできないしかし年齢 で線を引かなければいけないこと
もあるその両面を見ておくということ が前提であるわけですねですから
私たちは年とか年齢とか世代という そういうものにいつしかイメージ
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を持ってしまうということがある わけですねこの年あるいはこの
年代というのはこうだとかあの 年代はこうあるべきだとかそういう
ことを自然にイメージをつくって いってしまうそれはイメージということ
は非常に大事なことですねでも イメージは真実ではないという
実態ではないということも言える わけですそのことをきちっと私たちは
自分自身もあるいは人のことを もう整理しておく必要があるということ
ですねどの世代であっても 皆さん は青春という言葉を聞いて何を
イメージされますかあるいはどの 世代をイメージされるでしょうか
サムエルウルマンという方が詩 を書きました御存じの方もおられる
と思いますがこの方は青春という 日本語訳ですけれどもユースという
青春という詩を書きましたこういう 詩です全文ではないんですがお
読みいたします青春とは人生の ある期間ではなく心の持ち方を
言う薔薇の面し紅の唇しなやかな 手足ではなくたくましい意志豊かな
想像力燃える情熱を指す時には 二十歳の青年よりも六十歳の人
に青春がある年を重ねただけで 人は老いない理想を失うとき初めて
老いる六十歳であろうと十六歳 であろうと人の胸には脅威に惹か
れる心幼子のような未知への探求 心人生への興味の喚起がある人
から神から美希望喜び勇気力の 霊感を受ける限り君は若い霊感
が絶え精神が皮肉の雪に覆われ 悲嘆の氷に閉ざされる時二十歳
であろうと人は老いる神戸を高く 上げ希望の波をとらえる限り八十
歳であろうと人は青春にとどまる これをサミエルウルマンは八十
を過ぎてから書いたと言われています 私たちはそういう一つのイメージ
を持つんですが決してそれが実態 化というとそうではないこの青春
ということにおいてもそうです ですから私たちはよく年を聞いて
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年の割にはとかそういう言い方 をしますよね自然自然とそういう
イメージを持ってしまっている でもそれは挨拶の言葉程度でいい
と思うんですがでもその人の実態 実質というものを私たちはそれぞれ
見ていく必要がありますしそれ じゃ私自身は今どうだろうかという
今が青春だという思いサミエルウル マンはそういうふうに思ったこと
を詩に託したわけですね 今日は 吉秋の中の何節かを読んでいただき
ましたが彼はこの七節で先ほど 読んでいただきました七節で詩
の下部孟瀬がこの地を偵察する ために私をカデシュバルネアから
使わせたとき私は四十歳でした 彼が孟瀬とともにアラノを旅し
そして孟瀬に従っていろいろ教え られながらこの旅を続けていた
あの頃を振り返るとあああのとき 四十歳だったなということですね
そして十節のところ今御覧のとおり 主がこの言葉を孟瀬に告げられた
ときからこの方イスラエルがアラノ を歩いた四十五年間主は約束された
とおり私を生きながらえさせて くださいました今や私はきょう
でもう八十五歳になります主は 今八十五歳そしてその八十五歳
になった主は彼は自分のことを 十一節でこのように言っています
しかも孟瀬が私を使わせた日の ように四十五年前ですね自分が
四十歳だったころあの日のように 今も双剣です元気でばりばりやって
いますというようなことでしょうか 私の今の力はあのときの力と同様
戦争にもこれは戦ですねまた日常 の出入りにも耐えるのです日常
いろいろなさまざまなことがあります がそういう中にありましても今
は双剣でかつての四十五年前の あの四十歳のころと変わらず今も
このように元気でやっております と言うんです皆さんはどう思わ
れますか 人の目から見ていや四十 年前から吉谷さんもちょっとは
衰えた弱くなったんじゃないか と言っても吉谷はそう思っていない
わけです自分はあの四十五年前 四十歳のときと変わらないしそして
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双剣でそして今もかつてと同じ ようにやっていますやれますということ
を言うんですね彼が言う限りそう なんでしょうそれだけ体もあるいは
精神心も充実していたということ そんなことがここから伺い知れる
わけですねそういう吉谷の神様 によって祝福されたその姿をきょう
私たちも見ながら今日の生かされている きょうのこの私それぞれの年代
それぞれのところに置かれている 一人ひとりがもう一度ここから
恵みをいただきたいとそう思うわけ ですねこの十節のこの言葉今御
覧のとおり主がこの言葉を孟瀬 につけられたときからこの方イスラエル
が荒野を歩いた四十五年間主は 約束されたとおりに私を生きながら
えさせてくださいました今や私は きょうでも八十五歳になります
神様の恵みがここに現れています 主は約束されたとおり私を生き
ながらえさせてくださいました 私たちがどう生きていくかということ
これは非常に大事なことですね それはどの世代どの年代であっても
考えておかなければいけないこと ですこれは私が聞いた話なんですが
ある小児科の先生がまだ研修医 であったころ病気の子どもたち
にどう接していいのかわからない そして悩むことがあったようですね
そしていつも病気の子どもたち に自分はどう接していけばいいん
だろうか私はこの子どもたちに 何をしてあげられるだろうか私は
この子たちにどんなことをして あげたらいいんだろうかそういう
ふうにして考えてわからなくなって 悩んでいたようですねですから
あるときに思い余って先輩にその ことを打ち明けてみたんですね
先輩こういうことで私は行き詰 まっています私はどのように子ども
たちに接したらいいのか私は子ども たちに何をしてあげたらいいのか
そんなことを告げたわけです する と先輩はそうですかあなたの言
っている言葉の主語は何ですか はっと気づかされました私は子どもたち
に何をしてあげられるか私はどう 接していいのか先輩は言いました
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あなたの主語を変えてみてはどう ですかあなたは私は私は私はと
言っていますね主語は私あなたは 自分のことばっかり考えています
ねですから主語を変えてみては どうですか主語をこの子はに変
えてみなさいそのときにその方 はそれこそ目から鱗のようなもの
が落ちるというその思いはっきり と見えなかったものが見えるよう
になったわけですねこの子は 今何を考えているんだろうかこの
子は何をしてほしいんだろうか そのことが示されたときにその
人はその日から子どもたちに接する その接し方が変わっていったわけ
ですね今までと違うもう悩みから もう解き放たれて一所懸命そこに
打ち込むことができたというふう におっしゃっていましたこれは
子育ての親にとっても同じこと だと思うんですねお母さんがお
父さんが私はこの子に私はこの 子に何をどうしたらいいんだ私
は私は私は結局子どもたちのこと をさておいて自分のことばっかり
考えているそうじゃない今目の 前にいるこの子は何を思い何を
求め何をしてほしいんだろうか そういうことをここでヨシアはこの
ように言っています主は約束された とおりに私を生きながらえさせて
くださいました主は私を生きながら えさせてくださいました私たちは
二十年三十年五十年七十年生きて きて振り返るときに私は生きて
きたんだ私は一所懸命ここまで やってきたんだ私は頑張ってきたんだ
と言いますもちろんそうでしょう それも本当に幸いでありました
ねと私たちも一緒にそれを称える わけですがもう一つヨシアのように
この主語を私はではなく主は神 様に置きかえてみることも必要
ではないだろうか主は私を今日 まで生かしてくださった神様は
私をきょうまで支えて生かして くださったそういうことですね
主語を主はあるいは神はに置きかえ てみるときにそういう言葉が出て
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くるわけです主は私をきょうまで 生かしてくださったその言葉には
何とも言えない感謝であるとか あるいは平安であるとかあるいは
誰もが頷けるようなそして一緒に 祝福してあげたいというそういう
謙遜なそういう思いがそこに現 われているそれは何とも幸いな
言葉ですね主は私をきょうのここ まで一緒に支えて導いてくださった
ありがとうございます神様あなたを 称えますそういう主語を主に置き
かえる神様に置きかえる主は私 の羊飼い私には乏しいことはありません
神は我らの酒どころまた力苦し むときそこにある助けそれゆえ
私は恐れないですから私は今日 あるのは主よ神様あなたの導き
のおかげですあなたが私の周り にいろいろな人を置いてくださって
そしてその人たちを祈りに導かれ そしてその人たちに支えと助け
を与えるようにしてくださって そして私は今日を得ているのです
主を全てはあなたがしてくださった 恵み祝福ですそうするならばあるいは
そういうことを主に感謝として 祈りを捧げるならばさらにその
恵み祝福は増し加わるんだその ことを聖主は約束しているまさに
ヨッシアはそのことをここで告白 したわけですねあれから四十五
年間主は私を生きながらえさせて くださいました主は私を励まし
支えそしていろいろなことがあり ましたけれどもこうして今日を
迎えていますそして今や私は八 十五歳を迎えています主を感謝
しますあなたを褒めたたえます そういうとき周りの人もそうですね
本当によかったですねヨシアさん と一緒にそのことを祝うことが
できるそんなことをここから私たち も覚えるわけですねそれは十歳
であろうと三十歳であろうと五十 歳であろうとそこまで私たちが
生かされてきたんだ主によって 恵みのうちに支えられて生かして
くださったんだというその思い をきょうもこの礼拝をもって主
に捧げているわけです 二つ目の ことは十一節の言葉ですがしかも
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孟瀬が私を使わせた日のように 今も壮健です私の今の力はあの
ときの力と同様戦争にもまた日常 の出入りにも耐えるのですここ
に八十五歳になったヨシは今も 壮健です健やかで元気にやって
おりますということですね 私たちは 自分の生涯この人生設計をする
ということは非常に大事なこと ですねこと細かに一年ごとにそう
いうする必要はないだと思うん ですが例えば三つに割ったり四つ
に割ったり大まかには前半後半 でもいいと思うんですがそういう
ことをいつかきっちり一度は考 えて自分はこうしようというそういう
ものを持っておる方がいいかと思 うんですねそのとおりにならない
場合もありますですからそのとおり にならないんだからもうそういう
ものはいいんだではなくてやはり 私たちは与えられたこの生涯をどういう
ふうに過ごしていこうかそういう ことがあるわけですね二通りの
イメージができます 一つはある 時点でそれはいつとは言いません
がそれぞれ一人一人みんな自分 で決めたらいいことなんですが
あるときを境にしてこれも表現 難しいんですが現役を退いてその
後はもうゆっくりしようということ ですねこれ今まで一生懸命働いて
きただからあるときからもうそういう ところから解き放たれてもう自分の
好きなことをしよう自分の御苦労 さまお疲れさまという御褒美も
兼ねてもう自分の趣味とか好きな こと旅行に行ったりおいしいもの
を食べたりそういうことですね 時には孫の世話で孫孫をするそれ
も一つそういうようなことである ときからそういうふうにしよう
ということですねこれもとにかく 幸いだなもしそういうことができ
たら幸いだし誰もが憧れること ですよねそういうことを私たち
もイメージしますしそうなれたら いいなと思うわけですがところ
が大抵それこそある程度年齢を 言ってからそういうことをしよう
とするんですがなかなか急にできない ということも確かですねですから
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年を言ってからのことをそのとき から考えようというのはもう遅い
場合があるんですですから先 ほども言いましたようにきょうの
メッセージは決してある特定の 年代の人たちだけに向けたもの
ではない私たちがやがて迎える べきその時期のことはもっと前に
それこそ若いときから考えそして 悩みそして備えていくのが本当
だということですね急にそのとき が来たからそれじゃあしたから
どうしようこうしようかああ しようかそういうことであって
は遅いと言えるかもしれません ですから思い立ったがきちずつ
もし少しそういうこれからの自分の 人生設計をもう一度考えるそういう
機会が与えられたら今のうちに こうしようああしようよくリタイア
したらこうしようとかそれはもっと 若いときから何か趣味をしよう
とか遊びをしようとしても急に そういうことは切り替えることは
できないわけですねですからいい 遊びスポーツでもいいんですが
あるいは趣味とかそういうものは 若いときから少しずつ接していく
というのがいいんだろうなと思う わけです備えあれば憂いなしですから
きょうから一度そういうことを 考えてそしてそれに取り組んで
いってください決してある時期 からと言ってもそれはきっちり
何か線を引いたようなものではない と思うんですねというのは時の
流れというのはずっと連続して いますから決してきょうからそして
明日からというそんなものは決してない と思いますですからどうぞ今から
そういうことを備えていっていただき たいなそういうふうにも思います
もう一つのことは生涯現役でいたい ということこれも確かなことだ
と思うんですねいくつになっても 今までと変わらずに何かしらそういう
使命を持ってそれを生涯貫きたい よく自分が召されるまでそれを
ずっとやっていたいそういう思い を持つということそれも一つだ
と言えますしかし生涯現役ということ は確かにすばらしいことなんですが
これもいくつか条件があるということ も否めないわけですね例えば
体のこと健康面でどうだろうか 自分は生涯現役でいたいと思っても
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体の面でそれが思うようにいかない ということも出てきましょうあるいは
精神的に何か責任を持ったりそういう こともなかなかできなくなって
くるというのも確かだと思うん ですねですからそのときどきの
体の状況あるいは心の持ち方の そういうものとうまく照らし合わせ
ながらそして自分がやれるべき ことをさせていただいていくそれが
周りの人たちもそれを喜んでくだ さったりあるいはそこに自分が
何か役に立つあるいは自分が用い られているということのやりがい
とかあるいはそこに生きがいを 覚えていくそういうものは大事
だと思うんですねですから決して 自分の働きということにおいて
は今までと変わりなくさせていただく ということですねそれはいろいろな
条件が許されればというしかし 私の思いの中にはずっと現役で
いたいんだそういうことが言える かと思います
少なくとも教会にはやるべきことが たくさんありますあるいはやって
いただきたいことがたくさんある わけですよく言います猫の手も
借りたいということで皆さん猫 を飼っておられたら呼んできて
ほしいぐらいですがたくさんある わけですですから神様に対する
奉仕ということにおいて引退ということ はないわけです神様はどんな人
にもやってほしいものがいっぱい あるわけですねですから自分が
勝手に線を引いてこのときから 私は神様に対する奉仕はしていました
けれどもこれ以降はもうできません とかしませんとかそういうこと
はないわけです神様はいつでも どんなときにもしてほしいそういう
奉仕があるので待っておられる わけですねですから神様への奉仕
に現役引退というのはないわけ です逆を言えば神様に対する奉仕
それは生涯現役であるわけです もちろんあの奉仕この奉仕それは
若いときにはよくやっていたけれども 最近はなかなかしようと思って
もできないそういうことはあり ましょうそれはそれに応じてまた
違う形で何か奉仕していくそれで いいんだと思うんですがしかし
祈りの奉仕に現役引退はありません 祈りの奉仕に関しては召される
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まで現役ですですから自分がどんな に弱ってもどんなに精神的にいろいろ
と責任感使命が持てないような そういう中にありましても座って
でもいいときには寝たままのこと でしか起き上がれないそういう
人でも寝た状態で神様に祈るということ はできるそういう私たちは神様
にする奉仕というのはいつでも できるそして神様はそれを望んで
いてください神様への奉仕に引退 はありません このよしわがまさに
そうであったわけです八五歳になった 今も変わらずにあなたへの奉仕
衆に仕える思いは変わっていません もちろん四十三にできたことを
今そのままできるかというと周り の人はそれはもうわかっています
よしわさんこれはもうちょっと 無理かなでも本人はやれますと
言っているわけですねそれほど 心身ともに充実しておったこれは
神様の恵みと祝福であるわけですが なぜよしわはそのような神様の
祝福をいただくことができたのか その秘訣がここに記されています
八節のこの言葉私は私の神主に 従い通しました九節私の神主に
従い通したからですあるいは十 四節ここにも主に従い通したから
であるよしわのこの祝福の源は 彼がどんなときにも主に従う主
を信じこの主により頼みつつ主 とともに歩んだこの日々が神様
から祝福を受けそして今日もなお 彼を用いていてくださっている
そして彼もまたこの主に今も変 らずに仕えていこうというそういう
思いがみなぎっているそのことの 祝福でありますただただ主に従
うならばその人に神様は惜しみ なく祝福を注いでくださるそれは
年齢に関係なくどの世代であっても 主に従うならばそのときにかな
って知恵が与えられるそしてまた ふさわしく力が与えられるそして
元気が与えられるそして希望が 与えられまたふさわしく使命や
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あるいはやりがいとか生きがい とかそういうものを主は与えて
くださるそれを私たちはこの孟 世の生涯を通して学ぶわけであります
私たちは今日ここまで神とともに 歩むことができたならばそれは
本当に幸いでありますあるいは 今まではそうではなかったもし
そうであるならばきょうを境にして このまことなる神様を見上げてこの
お方に信頼を置いてそして従って いこうそしてこの主に使えてい
こう主に使えるということは神 を愛しそして隣人を愛するということ
です私たちは隣人を何とかしたい 助けたい支えたいそう思います
それは本当にすばらしいことであります でもまずしなければならないことは
主を愛し主に信頼し主に従うということ そして主のお声を聞いてそして
それに従順に従う神様はふさわしく このように言われると思うんですね
ああそうか私を信じそして私に お前は従ってくるのかそうかわ
かったありがとうそうならばお前 の身近にいるあの人この人その
人に手を差し伸べてあげなさい はいわかりました主を私はあなた
の言われるようにそのようにします そして主にそのアガペの愛を私たち
は捧げていくわけですね神を愛 しそして隣人を愛するこれが聖書
を通して私たちに語られる第一の 今しめ立法であります私たちは
どの世代であってもどの年代であっても ここまで生かされたことをまず
感謝することそしてきょうから これからまた新しく与えられる
この一日一日その一日一日を精 一杯生きていく主にあって精一
杯生きていくそして主にふさわしく 導かれて主に捧げまた主にお使い
していくそれには私と神との 関係をまず正してそこから一歩
踏み出していくそれが神様からの 恵みでありまた祝福なのだということ
よしやの言葉聖書の御言葉を通 してきょう私たちは学んだわけ
であります お祈りをいたします 神は私を今日
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まで生き永らえさせてくださいました 恵み深い天の父なる神様よしや
の生涯を通してきょうもあなたの 御声を聞くことができてありがとうございます
私たちは自分が生きてきたと思 いがちですが実は背後にあって
神様が憐れみと支えをもって生 かしてくださったその主に今感謝
を捧げますそしてこれからもあなた により頼みあなたに望みを置いて
いきますから主をどうぞこれからも お導きくださいともう一度この
祈りを捧げますどうぞ今主の御前 にありますお一人お一人を支えて
そしてあなたが主となってそして 導いてくださいますように幼子
から大人に至るまであなたは誰 一人漏れることなくその御手に
あって祝福してくださるお方である ことをきょう覚えてまた信じて
あなたにお使いしてまいります どうぞ全ての人にあなたの祝福
がありますように主イエスキリスト の皆によってお祈りいたします
アーメン