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2026/05/03:使徒信条(3)全能の父なる神を信じる
2026-05-03 31:39

2026/05/03:使徒信条(3)全能の父なる神を信じる

2026/05/03 聖日礼拝

加藤満牧師

ヨハネ黙示録 19:6-8


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00:02
それでは、お祈りをいたします。
恵み深い、天の父なる神様、
私たち一人一人を、死の御前へと集わしてくださり、
あなたは大いで礼拝ができますことを感謝をいたします。
特に今日は、祈っていた愛する方々をまた、
礼拝へとあなたが呼んでくださり、許してくださり、
共に礼拝を守ることができることを心から感謝をいたします。
私たちの本当にわからないことが多く起きる中で、
しかしあなたの愛は絶えることなく、
十字架に表された愛は確かに今も変わらず、
私たちを罪から許し、神のことし、
永遠なる主がどんな時も共にいてくださるという、
そのような恵みの中で、お一人一人を保ち続けてくださって、
共にあなたを愛しています。
あなたは生きておられます。
どうか主よ今一度、その恵みを豊かに、
御言葉から示してくださいますように、お願いをいたします。
ここに来たくて来れない方々がなおもいることを覚えていますし、
御用があって来れない方がいることも覚えておりますが、
お一人一人が主と共に、
主の恵みによって歩む生涯を歩むことができるよう、
導いてください。
全世界において様々なことも起きています。
ただ世界の支配者である主御自身が、
全てを手のひらに収めておられます。
あなたの要要に導いてください。
あなたの愛の業を信じています。
どうか異性者たちにも主が知恵を与えてくださいますよう、
お願いをいたします。
御言葉に聞こうとしている私たちの心を開き、
しもべはここにおります主よどうかお語りくださいと、
あなたへと心を向けることができるよう一時を守ってください。
イエスキリストの皆によってお祈りをいたします。
アーメン
ハレルヤコーラスを皆さんよくご存知かと思います。
私も新学生の時に練習をしまして、
実はしわやせいかいの最後に
ハレルヤコーラスを私たちの時は歌いました。
ただ一番最初におそらく私が聞いたのは教会ですね。
自分の母教会で両親も聖歌隊をしておりましたけれども、
そこで初めて聞いたハレルヤコーラスが非常に衝撃的でした。
ハレルヤ、ハレルヤと力強く歌われるその声が、
何かその人間の声を何か超えてですね、
恐れを感じさせるような思いがしました。
ハレルヤ、ハレルヤ。
そこに何か、
03:00
神を恐れるっていうのは、
本当にこのハレルヤコーラスの中に表されているような、
そういう感情なんだなということを思わされたのです。
ただハレルヤといわば死を褒めよ、
そう歌われているその死を褒めよといわれる、
その根拠は一体何なんでしょうか。
実は歌詞の中に出てまいります。
歌詞を追っていくと、
For the Lord God Omnipotent Reigneth
という言葉があることをご存知かと思います。
日本語に訳すると、
なぜなら全能である主が統治されているからだという言葉です。
なぜなら全能である主が統治されているからだ。
主を褒め称えよ。
なぜ私たちは主を褒め称えるのか。
神が全能だからです。
神は生きておられる、全能なるお方だからです。
そしてそれは今朝読んでいただいたこの目四六の十九章の六節が
元の言葉なんですね、ハレルヤコーラスは。
ハレルヤ、私たちの神である主、全能者が王となられた。
これがハレルヤコーラスの元の言葉です、ハレルヤと。
主は褒むべきかなという言葉はもしかしたら私たちも
日常の中でそういうことを言いたくなる時があるかもしれません。
いいことがあった、祈りが聞かれた。
もしくは不安な心がすすがれた時に
主は生きておられる、ハレルヤと私たちは言いたくなるかもしれませんが
一方、そういうことばかりではないわけです。
むしろ良いことではなくて悪いことが起きてしまった時に
長く祈る祈りが空を打つように感じることがある時に
もしくは不安な心がすすがれたいと思いながら
ずっとそれがすすがれずに歩む時に
私たちはハレルヤとは賛美ができません。
主を褒めたたえよとは口が裂けても言えません。
むしろ主の善能ということを疑うことはないかもしれませんが
こういうことを思うかもしれません。
主よ、善能なる主よ、もしかしたらあなたはあまりにも大きすぎて
あなたはあまりにも偉大すぎて
小さく愚かな私のことなどを目に留めておられないのではないでしょうか。
自分の小ささを思えば思うほどに
もしくは自分が忠実に主に歩めていないと思えば思うほどに
善能の父という言葉は私たちから遠ざかるような気が致します。
むしろ善能であることは疑わないけれども
その善能の力は私には向いていないかもしれない
06:00
そのように思うかもしれません。
しかし果たしてそうなのだろうか
私たちはそのような疑いを持ちながら
今朝は善能なる父なる神を信じると
告白していくのだということを見ていきます。
疑いを持ちながら
でも善能の父なる神を信じると
私たちは告白をしていく。
二つのことをご一緒に見ていきましょう。
善能であるとは一体どういうことなのでしょうか。
一つ、後ろに説教用紙に書きましたが
一つ、善能であるというのはどういうことなのか
それは、善能という言葉は
神様の愛を貫徹する力であるということができます。
神の愛を貫徹する力です。
実は善能という言葉が
新約聖書で最も多く用いられているのは
このヨハネの黙示録です。
そして黙示録の中でも先ほども見ましたが
六節、ハレルヤ、私たちの神である主
善能者が王となられたというのは
おそらく善能という言葉を表す最も最たる言葉でしょう。
決まってこの善能という言葉は
一つの単語で用いられています。
それはパントクラトールというギリシャ語ですが
いわばこれはパスという
オール、すべてのという言葉と
クラトーという
権威を持って治めるという言葉が合体した言葉なんです。
善能という言葉は何かというと
すべての領域において
権威を持っているという意味です。
善能であるというのは
すべての領域において
権威を持っている。
すべてです。
どの時代であっても
そしてどのような場所であっても
それは宇宙でもどこかの国でも
そしてそれは私たちの家庭であっても
神は力を持っている
権威を持っているお方である。
平たく言えば
何でもできるお方なのですけれども
しかしむしろより丁寧に言うならば
すべてを支配して導いている。
神様は力を持っていて
ただ止まっているわけではありませんで
この世界を良き技を持って
導いておられます。
ですから聞いてそれは
神が善能であるというのは
歴史の支配者である。
歴史を導いておられるということを
意味するのです。
ただ私たちは歴史の支配者である
主なる神と告白をしますが
どうでしょう私たちの今の生きる世界を見ながら
神のその善能というのは
どこに見られるのかなと思います。
世界の一生者たちは好きに振る舞っていますし
まさに我こそが善能なる神であると
言わんがばかりの横行でしょう。
09:00
しかしそれは今に始まったことではありません。
昔からそうです。
初期のキリスト社たちが生きた時代
今から2000年前ですが
2000年前にこの世界を治めている
善能者であるというのは
ある人物を指しました。
それは何かローマ皇帝です。
ローマ皇帝は世界を治めていきます。
自分の植民地に対して神殿を建てていきます。
その神殿の中で皇帝崇拝というものが行われます。
ローマ皇帝は神なのです。
ローマ皇帝は善能者なのです。
そしてそれに賛成しないものは捉えられていくのです。
そのような中でキリスト社たちが
善能なる父なる神を真珠と告白するのは命がけだったのは
想像に難くないでしょう。
現在わかっていることは
エルサレム神殿においても
ローマ皇帝に対する犠牲は捧げられ続けていました。
そのぐらい皇帝崇拝というような力がありました。
いわば、俺が神だ。
俺に従わなかったら軍事力で抑えてやるです。
でもそれは今のこの世界にも目に見えて起きていることですね。
この世の支配者、この世の善能者たちが
善能であることを表すというのは一体どういうことをするのか。
力によって反対者を抑圧する。
反対意見を起こさせない。
それによって見せかけの平和ができたと嘘吹く。
ローマの平和というのはそういうものでしたし
今世界が追い求めている平和は果たしてそれに重ならないのか。
私たちももしかしたら同じ時代を生きているのかもしれません。
しかし、じゃあそのような異性者がのさばってですね
善能なる神がいるということを私たちはそれでも告白する。
でも善能の力は一体どのように表されるのか。
それが表だって見えないという時にどのように働いていくのか。
実は聖書を読みながら私たちが知らなければならないのは
神様の善能の働き方というのはあらゆる方法で表されるということです。
それは時に出土エジプトのファローを打ち破ったように
力強い力を持って打ち破ることもあるかもしれませんが
一つ目を止めたいのはヨセフの出来事です。
神が善能であるという力を表されるその方法は
この世の善能者が反対者を排除して屈服させることによるのであれば
そうではない。神様の善能はむしろ反対や悪そのものを
自分の救いのプロセスとして取り込んでしまうということなのです。
どういうことなのか一つ聖書の歌詞を見ていきたいと思いますが
ヨセフの出来事を思い出していただきたいと思います。
12:02
創世紀の37章以降に書かれているヨセフです。
ヨセフの姿というのはご存知のように
特別な彼は特別な子供でした。
それゆえ父親からは懲愛され兄弟には疎まれました。
その結果彼はエジプトに売り飛ばされていきます。
そのような中で彼は牢獄で何十年も過ごすというようなことが起きるわけです。
ヨセフが捉えられた理由というのはヨセフ自身の未熟さ
ヨセフ自身の罪深さそれもあるでしょう。
しかしそれは兄弟たちの悪意はあるでしょうし
ポティファルの妻による偽りということもあるでしょう。
この世界に悪があります。
そして悪に囚われるときに人間は
苦虫を噛みつぶしたかのように牢獄に囚われるしかないときがあります。
救いがないのです。
しかし聖書が約束をすることは
そのような牢獄に囚われているヨセフと共に
主がヨセフと共におられたと語る。
主がヨセフと共におられた。
全牢の主がヨセフと共に
その牢獄のヨセフの傍らにおられた。
主がヨセフと共におられることによって
一体どうなっていくのでしょうか。
それは主の働いによって様々なチャンスが与えられて
徐々に徐々にヨセフは回復していき
最終的に彼はエジプトの最小となっていきます。
そしてこの創世紀のクライマックスは
ヨセフを売り飛ばした兄弟たちと
ヨセフが再会をするという場面です。
その時にヨセフが語った言葉を
ご一緒に見たいと思います。
創世紀の50章の20節というところです。
創世紀の50章の20節。
お読みしますとこういう言葉を
これはヨセフの言葉ですが言っています。
あなた方は私に悪を図りましたが
神はそれを良いことのための計らいとしてくださいました。
それは今日のように多くの人が
生かされるためだったのです。
ヨセフは言います。
あなた方は悪を働いた。
悪をなかったことになんかできません。
あなた方は悪を働いた。
しかしその悪が
あらゆることが入り混じって
私に起きてくる悪いことが
15:03
しかし種の計らいによって
それは良いものに変えられた。
それは良いことに変えられた。
私たちのうちに起きてくる悪いことというのは
私たちにアンコントロールな
どうしようもないことですから
何かそれはそれに対して
何かができるものではないと思ってしまう。
しかし
そのヨセフに働いた悪意
悪いことというのは
種の手のひらにあったんですよ。
それをもう種の手のひらにあった。
そしてその悪いことが
神様において良いことのためにすら
用いられていったということを
ヨセフはここで告白をするのです。
悪を打ち倒すというのが
一つの善能の表し方でしょう。
しかしそれだけではない。
悪はあるかもしれない。
しかしその悪をも用いて
神はご自身の良い計画を進めることができる。
それは私たちが信じる神が
善能であるということの意味です。
神は力あるお方。
ヨセフの時代から現在に至るまで
悪は存在をいたします。
しかしその中に働く神の善能とは
魔法のように全てを変える力。
それ以上に
その悪の中で働き
悪さえも良いことの計らいにする力と
言えるのでしょう。
言い換えるならば
悪の中でなおも
世界を愛する神様の意思を貫徹される
その力は今も働いているということです。
それが善能ということの大事な意味です。
私たちは大概その道筋が見えません。
見えないから神なんかいない
ということを私たちは思います。
しかし神の善能の力
神は善能であるということは
そこに主が働いておられるということを
私たちが見ることなのですね。
そういうことをご一緒に覚えたいと思います。
そしてもう一つ
二つ目のポイントを見てまいりますけれども
しかしその善能の力というのは
単に力強い神様の力として
現れたものではない。
むしろ善能であることの醍醐味
それが二つ目のポイントです。
愛するがゆえに
自分を捨てた神の力であるということです。
神様の善能ということを聞くと
私たちはそれこそ何でもできる
神様の力のように思いますが
そうではないんです。
18:01
それだけではない。
そうなんですが
それだけではない。
むしろ
力強い神様が
弱くなることができるところに
神様の善能というのが
最もよく表されている
ということを私たちは知ります。
順にヨハネの福音書を
昨年まで見てまいりました。
ヨハネの福音書の中で
何度か語られた言葉
それは神の栄光というのは
イエス・キリストにおいて
最も輝いているということを
何度も語られたことです。
神の栄光は
イエス・キリストの十字架において
最も輝いている。
十字架
少しそこに目を向かうならば
十字架というのは弱さの極みです。
十字架上でイエス様は
自らを救うことができませんでした。
自分を罵る者たちを
自分を黙らせることができませんでした。
ただ苦しみの中で息を引き取られました。
そのイエス様の姿というのは
善能という言葉とは対極に
一致するような姿ではないでしょうか。
ただ
じゃあイエス様は弱かったのか
本当に無力であったのか
そうではないでしょう。
その弱さは何のためであったかを
私たちは知っている。
一ヶ所聖書を読みますが
ピリピリトへの手紙の2章の5節から11節というところを
お開きしましょう。
ピリピリトへの手紙の2章の5節から11節
私は聖三式のたびにこの言葉を読みますが
キリスト参加と呼ばれるそのような場面です。
ちょっとゆっくりお読みするので
聞いていただけたらと思います。
ピリピリトへの手紙の2章の5節から
お読みするとこういう言葉です。
キリストイエスの内にあるこの思いを
あなた方の間でも抱きなさい。
キリストは神の身姿であられるのに
神としての在り方を捨てられないとは考えず
ご自分を虚しくして下辺の姿をとり
人間と同じようになられました。
人としての姿をもって現れ
自らを低くして死にまで
それも十字架の死にまで従われました。
それゆえ神はこの方を高く挙げて
すべての名に勝る名を与えられました。
それはイエスの名によって天にあるもの
地にあるもの地の下にあるものの
すべてが膝をかがめ
すべての下がイエスキリストは主ですと告白して
父なる神に栄光を期するためです。
ここで書かれているのは
キリストは神であられた。
しかし神であることを
あえて捨てられたということです。
21:00
善能であることをあえて捨てられた。
なぜ捨てたのか。
それはご自身を低くするため
低くして人となるため
下辺となるため
人間と同じようになるため
あのクリスマスと同じです。
あの会話桶の中に生まれるために
貧しい羊飼いたちと会うために
ガリラや終焉の貧しい人たちと出会うために
十字架であいつを十字架につけるといった
自分がどんな罪を犯しているかも自覚できない
あの罪人たちと会うために
イエスキリストは神であることを捨てた。
善能を捨てた。
それは
すべての人がイエスキリストこそ主ですと告白をするため
すべての人が滅びずに神の子となり
すべての人が神に愛されていることを知り
神を愛するためです。
そのためにイエスキリストは
善能を捨てて誰よりも深くなりました。
愛するがゆえにすべてを手放したのです。
それがいわば善能
神の栄光が最も輝くあの十字架という場所でした。
これが神は愛ですというその言葉の内容でしょうね。
神様は善能です。歴史の支配者です。
しかし神様はもう一歩進まれました。
父なる神様はこの世界を
私たちを愛するがゆえに
神の子イエス様を与えられました。
神の子なるイエス様は
神としての在り方を捨てました。
自分を捨てました。
神は善能であるがゆえに弱くなられた。
矛盾するかのようですが
しかし神は善能であるがゆえに
善能を捨てることができた。
神は善能であるがゆえに
すべてを捨てて
私たちの孤独、私たちの絶望、私たちの苦しみ
それをすべてその身に引き受けて
共にあることを選ばれた。
それが神は愛であるということです。
善能であるということは
天から高みの見物をして
地上の人間を操作することではありません。
そうではない。
真の善能とは
愛するがゆえに自分をも手放し
他者の痛みを自らに引き受ける力です。
それが神がなされた善能の力です。
そうであるからこそ
私たちは十字架を見るときに
イエスキリストは今も生きていて
私たちと共に居られるということが
確固たる約束であることを
信じることができるのではないでしょうか。
24:00
ある人物を紹介してもう終わります。
十何世紀のドイツの人で
ポール・ゲルハルトという人物がいます。
彼は神聖歌の中にも
彼が作詞した歌が何曲か入っていますが
先ほど賛美した神聖歌114番
致死をしたたる
これを作詞したのはポール・ゲルハルトです。
彼は十七世紀の人物ですが
生きた時代はヨーロッパが
三十年戦争に巻き込まれている時代でした。
戦争が三十年続くというのはすごいことですね。
ロシア・ウクライナでも長いと言われますが
三十年です。
その間国家は疲弊をいたします。
飢饉が起きます。
疫病が蔓延します。
暴力が蔓延をします。
人が大勢死にます。
ポール自身も実はその戦争の中で
妻と子供が5人いましたが
4人命を落とします。
彼はルター派の牧師でしたけれども
その大きな悲しみのゆえに
こう言います
この世界に全能の神の統治などない。
全能の神が生きているならば
こんなことが起こるはずがない。
しかしその悲しみに暮れた中で
彼が出会ったのは
十字架のイエス・キリストであったのです。
先ほど父を慕うを賛美しましたが
この父を慕うの歌詞というのは
彼が書いたものですが
元々は11世紀のベルナールという
修道士の書いた長いラテン語の詩です。
それを彼がドイツ語に訳したのが
父を慕うで
神聖歌には1番から4番までしか載っていませんが
実はあれは1番から10番まである
すごく長い歌なんですね
その中ではずっと
十字架に向かわれるイエス様のことが
自分と重ねて
私のための十字架であるという歌を
歌っていくのですが
その中で2番3番の歌詞を読みすると
彼はこういう風に歌うのです
2番
気高いミカオヨ
かつてはこの世界のいかなる権威も
あなたの前では恐れおののいたはず
それなのに
どうしてあなたは唾をかけられ
これほどまでに青ざめておられるのか
他のどんな光も及ばないほどに
輝いていたあなたの瞳を
一体誰が
これほど無惨に打ち砕いたのか
2番の歌詞です
全能の神が
一体なぜこれほどまでに
打ち砕かれなければ
ならなかったのか
しかし3番で彼はこう歌います
多分地上下樽の2番の歌詞に
応じていると思いますが
こういう言葉です
27:02
今あなたが絶えしのんでおられること
それはすべて
私の負うべき重荷でした
あなたが背負っておられるものは
私自身が犯した過ちなのです
ご覧ください
神の怒りを受けるに値する
この惨めな私よ
おお哀れ身深い主よ
どうか私に
あなたの恵みの眼差しを注いでください
そのような歌です
なぜ主が打たれなければならないのか
なぜ全能なる神が
全能を捨てなければならなかったのか
彼は歌の中で告白します
それは私の罪のためでした
失った深い悲しみの中で
全能の神などどこにいるのか
そのように嘘吹く彼
しかしそのいたとしても
雲の向こうで冷ややかな顔で
座っているだけなのではないか
と思えるような神
そうではない
十字架を見るときに
いやそうではない
私は全てを失った
しかし私以上に失った方がおられる
神の在り方を捨て裏切られ
暴力を受け
仇一枚すら残されずに
全てを奪われて
木にかけられた神がおられる
奪ったのは誰か
誰がこのようなことをしたのか
それは人間の罪が奪った
しかしその罪の中に
私の罪がある
しかし確かな事実は
十字架を見るときに確かな事実は
そのような私を
神は愛されたのだということです
そのような私を
神は愛されたのだ
彼は後にこのように述べます
この最悪の悲劇の中にさえ
神の愛の御手は届いている
死という暴力でさえ
神の救いの計画から
私を引き離すことはできない
そのように彼は述べるのです
実は聖書の中には
全能の父なる神という文言はありません
全能の神
父なる神という文言がありますが
全能の父なる神というのは
人心情が創造的に結び合わせた言葉です
しかしそれは結び合わせて当然なのです
神の全能というのは
いつでも父の愛によって働いている
神の全能というのは
罪人を私たちを救い愛するために
御子を捧げても惜しくないと思われた神の愛が
30:01
御子が御自身の命を捧げても惜しくないと思われた
キリストの愛が
その全能の動機である
だから私たちは告白する
全能の父なる神を私たちは信じる
最初に申し上げました
私たちは全能の父なる神がいるなんてことを
信じれない時があります
しかしこの告白は
暗闇の中での告白なのです
最悪の時であろうとも
このどこに全能の神がいるのかと
嘘吹きたくなるその時にも
私たちは全能の父なる神を信じると
なおも告白するよう招かれます
なぜならば
神の全能は悪の中にも働いているし
神の全能は
全能なる主は遠くにいるのではない
十字架に架かられた主は今あなたの傍らにいる
そしてそこで
神御自身の業を進めていかれるからです
私たちはハレリアと賛美できない時があります
癒えない病 修復できない関係
大切な存在の喪失
しかしなおもその暗闇の中で
私たちの主は御自身の愛を貫徹するために
この世界を
そして私たちを治め働いておられます
願わくば主の平和が皆さんの心に豊かにありますように
一言お祈りをいたします
31:39

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