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御着席ください。聖書朗読をしていただきます。
今日の最初の箇所は、「マルコの福音書六章三十五から四十四」です。
受け出し参り、お願いいたします。
聖書を拝読いたします。
マルコの福音書第六章三十五節より、
そのうち、もう時刻も遅くなったので、弟子たちはイエスのところに来ていった。
ここは偏僻なところで、もう時刻も遅くなりました。
みんなを解散させてください。そして近くの部落や村に行って、何か食べるものを命名で買うようにさせてください。
すると彼らに答えて言われた。
あなた方であの人たちに何か食べるものをあげなさい。
そこで弟子たちは言った。
私たちが出かけて行って、二百でなりものパンを買って、あの人たちに食べさせるように、ということでしょうか。
するとイエスは彼らに言われた。
パンはどれくらいありますか。行って見てきなさい。
彼らは確かめて言った。
五つです。それと魚が二匹です。
イエスはみんなをそれぞれ組みにして、青草の上に座らせるよう弟子たちにお命じになった。
そこで人々は百人、五十人と固まって席に着いた。
するとイエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて祝福を求め、パンを先、人々に配るように弟子たちに与えられた。
また二匹の魚もみんなに分けられた。
人々はみんな食べて満腹した。
そしてパンフィレを十二の籠にいっぱい取り集め、魚の残りも取り集めた。
パンを食べたのは男が五千人であった。
お詳しいです。
聖火隊に神聖火309番を賛美していただき、その後内田先生より五つのパンと二匹の魚と題しましてメッセージをしていただきます。
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聖火隊に神聖火309番を賛美していただき、その後内田先生より五つのパンと二匹の魚と題してメッセージをしていただき、その後内田先生より五つのパンと二匹の魚と題してメッセージをしていただき、その後内田先生より五つのパンと二匹の魚と題してメッセージをしていただき、その後内田先生より五つのパンと二匹の魚と題してメッセージをしていただき、その後内田先生より五つのパンと二匹の魚と題してメッセージをしていただき、その後内田先生より五つのパンと二匹の魚と題してメッセージをしていただき、その後内田先生より五つのパンと二匹の魚と題して
メッセージをしていただき、その後内田先生より五つのパンと二匹の魚と題してメッセージをしていただき、その後内田先生より五つのパンと二匹の魚と題してメッセージをしていただき、その後内田先生より五つのパンと二匹の魚と題してメッセージをしていただき、その後内田先生より五つのパンと二匹の魚と題してメッセージをしていただき、その後内田先生より五つのパンと二匹の魚と題してメッセージをしていただき、その後内田先生より五つのパンと二匹の魚と題してメッセージをしていただき、その後内田先生より五つのパンと二匹の魚と題してメッセージをしていただき、その後
五つのパンと二匹の魚と題してメッセージをしていただき、その後内田先生より五つのパンと二匹の魚と題してメッセージをしていただき、その後目見負わしを御課題いたします。
おはようございます 今日も御言葉をいただきたいと思います
一言お祈りをさせていただきます 万軍の主あなたのお住まいは何
としたわしいことでしょう私の 魂は主の御庭を恋したって耐える
ばかりです 天の神様こうしてあなたを主体
求めてこの宮に登って参りました 国と神の儀をまず第一にしなさい
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そうすれば全て添えて与えられる であろう神様は私たちが捧げる
この賛美とまた祈りとこの礼拝 を喜んで受け入れてくださること
を信じて皆を崇めます 熱い中でありますけれどもそれ
よりもなおあなたにお出会いした くあなたからのお声を聞きたく
願ってここに来られたお一人お一人 また精霊のお導きによってここ
に導かれてきましたお一人お一人 を今あなたがその御愛で包みまた
恵みと祝福で満たしてくださる ように新しい礼の注ぎと命を与
えてまたそれぞれにお使わしく ださるようお願いをいたします
我が魂は主の御庭を恋したって 耐えるばかりです私はあなたの
そばにいることが何よりの幸い ですと今日もそのことを覚えて
次の礼拝を捧げておりますどうぞ 今御言葉のときもう一度あなたの
御前にひれ伏してお言葉をいただきます から私たちの礼を整えてあなたの
声が聞けるようにしてください 今日弱さを覚えてここに来れなかった
兄弟姉妹方を覚えますが主をどうぞ その場にあってあなたが癒してくださる
ようにまた立ち上がって次の礼拝 には来ることができるようにどうぞ
助けてくださいまた避けない用事 があって礼拝に来れない人たち
もいることでしょうまた御家族 の交わりをされておられる人たち
もいることでありましょうが神 様どうぞそれぞれをあなたが守
ってその場にあって主を求めまた 主に祈り主に礼拝を捧げることが
できるようにどうぞ助けてくださる ようお願いいたします私たちは
この場にあってあなたを主体求め またあなたからの恵みをいただ
かんとしております御言葉を待ち 望んでおられるお一人お一人を
今あなたが祝福してくださるよう お願いいたしますまた語るもの
をどうも哀れみ支えて最後まで お導きくださいますように御言葉
が私たち一人一人のうちにとどまります ように全てを委ねて主キリスト
の皆によってお祈りをいたします アーメンいくつかのことをお話し
させていただきたいんですが一 つは暑い日が続いておりますので
体調管理を十分になさっている と思うんですがぜひそのことを
お願いしておきますもし礼拝中 でも水分の補給が必要なときは
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遠慮なくそうなさってください そして気分が悪くなったりした
ときもどなたかに声をかけてそして 休むようになさってくださいます
ように決しておかしな我慢はしない ようにしてくださいねそれだけ
をお願いしておきます もう一つ は来週の予告になるんですけれども
週報にも来週の聖実礼拝エペソビ という手紙の二章十一節が十六
節説教題が平和を願う祈りということ でこれは八月六日が広島の原爆
の日八月九日が長崎原爆の日ということで その週の礼拝これを平和を願う
祈りの礼拝ということで進めさせて いただきたいとそう願っております
もう一つは時々映画の紹介をする ことがあるんですけれども進行
に関する映画ですね例えば天地創造 という映画もいいでしょうし出
エジプト記を映像にした十回という 映画ですねそれとかシスターアクト
も紹介しました天使にラブソング をあるいはパッションとかいう
そういう映画もいいました そして 今年の夏ぜひ見ていただきたい
のは炎のランナーという映画ですね ご覧になった方はもう御存じだ
と思うんですがまだ見ておられない 方は絶対見なければならないということ
ではなくてお勧めですのでもし よかったら夏のひととき特に今
見てほしいなぜかというのは見 られたらわかると思うんですが
炎のランナーレンタルビデオ屋 さんに行けばドラマのコーナー
かあるいはスポーツ関係のそういう コーナーかというそのあたりを
見ていただいてこれはもうアカデミー賞 を取った映画でもありますそして
進行に関しての私たちへの何か メッセージも含まれているかと
そのように思っていますのでぜ ひよかったら見てください
それともう一つきょう皆さんの 週報にバプテスマのヨハーネ
の殺害の行き立ちに関してという のを書いたんですが先週マルコ
の福音書の六章十四節から二十九 節をお話しさせていただくときに
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私自身がもう混乱してしまって やはりこういうふうに図にした
ほうがわかりやすいかなということで これは本来説教というよりもバイブル
スタディとか聖書研究のときに こういうようなことをしたり
創世紀の中でもいろいろな人物 の相関図がややこしいときにこういう
図を書いてやったことも覚えて おられるかと思うんですがヘロデ
大王という人がマタイの二章一 節に出てきますイエス様がベツレ
ヘムにお生まれになったときに ヘロデ王がというあのヘロデ大王
に五人の妻がいたその妻にそれぞれの 息子が生まれているということ
ですね特にこのヘロデ大王のハス モニア家のマリアムネという人
から生まれたアリーストブロス この息子と妻の間にできた娘が
ヘロデアいわゆるヘロデ大王の 孫にあたるこれを一つ押さえて
おいてくださいそして別の妻ボエ ツスジンのマリアムネという人
との間に生まれたこれがヘロデ ピリポこのヘロデピリポの妻になった
のが先ほどのヘロデアであった わけですその間に生まれたのが
娘サロメこれが舞いを舞った娘 でありますところが別の妻マル
タケの間に生まれたヘロデアンテ バスこの人には妻がいたんですが
その妻を追い出してそしてヘロデ ピリポの妻であったヘロデアを
妻に迎えたということですね そしてヘロデアンテバスの誕生
のときにその祝いの席で舞いを 舞ったのがこのヘロデアの娘の
サロメそしてその舞いがよかった ので何か欲しいもの何でもあげ
ようということでこのサロメ娘 は母のヘロデアに何でもいいから
望みなさいとおっしゃっておる 何を望みましょうかということで
このヘロデアがバプテスマのヨ ハネの首をいただきたいということで
ヨハネは殺害されたということ ですね
決してこれが即私たちの信仰 と関係あるのかというとありません
けれどもこのヘロデ代表にまつわる 家族の中でこういうことがあった
ということこれを見てこれはいけない と誰しもが思うわけですヨハネ
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だけではなくて誰が見てもこれは よろしくないというのはもうわか
っているわけですでもおそらく それをヘロデアンテパスなりヘロデ
代表当時もいないかもしれません がこの恐ろしいヘロデ代表これは
自分の息子だって三人も殺害している わけですね気に入らなければ全て
抹殺するそういう人たちそういう 人たちに面と向かってそれはよろしく
ないですよそれは不法ですよと 誰が言えようかそういう中でバプテスマ
のヨハネがそれをヘロデアンテパス に進言したわけですね このヘロデ
代表にまつわる取り巻きの人たち それとバプテスマのヨハネそれぞれ
の生き方あるいは価値観そういう ものがここからうかがい知ることが
できるのではないかバプテスマ のヨハネもおそらく首をはねられる
ことぐらいは覚悟しておったのではない かしかしヘロデアンテパスはこの
ヨハネのことをそこまで思って いなかった心を痛めた彼の言っている
ことは決して間違っていないし 自分も自分に悲願あるというの
はわかっていたしかしヨハネを 殺害しようとまでは思っていなかった
ただヘロデアがそういうものです からそして自分も何でも欲しい
ものを与えようと言ってしまった ものですから結果としてヨハネ
の首ははねられたそういうこと になったわけであります
さてきょうはその後のマルコの 福音書の六章の三十節からのところ
一緒に見ていきたいと思います 三十節三十一節三十二節さて使徒
たちはイエスのもとに集まって きて自分たちのしたこと教えた
ことを残らずイエスに報告した そこでイエスは彼らにさああなた
方だけでさびしいところへ行って しばらく休みなさいと言われた
人々の出入りが多くてゆっくり 食事する時間さえなかったから
であるそこで彼らは船に乗って 自分たちだけでさびしいところ
へ行ったこの中のイエス様が言 われた言葉その中にしばらく休み
なさいという言葉があります私たち は案外こういうイエス様の何気
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なく語っているその中のお言葉 は見過ごしてしまいやすいと思
うんですねそれこそ私は道なり 心なり命なりそういうこと私の
血は全ての罪からまた方を清め ますとかそういう言葉は暗証請求
として覚えておきなさいとお勧め があったりしますし自分もそういう
お言葉を覚えてそれが励みになったり するんですがそういう見言葉ばかり
ではないイエス様はときにこういう こともおっしゃっているイエス
様はさああなた方でさびしいところ へ行ってしばらく休みなさい休
むということこれは私たちが日ごろ いろいろなことに携わってそして
いわゆる仕事をする働く何かを 行動するそういうことがあるわけ
ですがそして私たちが休むそういう ときに罪悪感を覚えることはない
だろうか余り継続して働き続けて いくそれはかえって危険である
しかしだからといって休むこと に対して何か後ろめたいそういう
思いを覚えることはないだろう か特に日本人はどうだろうかそんな
ことを考えさせられることがある わけです人は決して休むことなし
に休息することなしに働けません ですからこのイエス様の言葉これは
本当に非常に大事なことであります しばらく休みなさい創世記の二
章のところもそうでした こうして 天と地の全ての晩商が完成した
神は第七日目になさっていた業 の完成を告げられそして第七日
目になさっていた全ての業を休 まれた神は第七日目を祝福しこの
日を聖であるとされたそれはその 日に神がなさっていた全ての創造
の業を休まれたからである休む ということはこれは神様が私たち
にメッセージとして語ってくだ さることそれは必要なことなんだ
そのことをきょうこの言葉から 示されることがあるわけです休息
が必要だもちろん特に体調面で 自分は休息が必要だそういうことは
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誰も分かりません御本人しか分からない のでそれはその人に委ねているわけ
ですから御本人が休むことが必要 休養が必要だと思われたらそう
判断なさったら休めばいいわけ であって特に教会ではそれを咎
める人は誰もいませんですから このイエス様のお言葉これは本当に
私たちにとってありがたい言葉 ですし慰めの言葉でありますしば
らく休みなさいまた人には言えない その人でしか言えない何か休ま
ざるを得ない理由とかそういうこと もあるでしょうそういうときも
その人はその人の自分の判断で 休む休息をとるそういうことが
あろうかと思うんですね休むこと と何かを欠席することとは違います
けれどもしかし欠席せざるを得ない 休息そういうときもあるでしょう
がそれも御本人に委ねられている そういうふうに思うわけであります
ですからこのイエス様のお言葉 しばらく休みなさいこういうことも
私たちはこの聖書の中にイエス 様の言葉として記されているということ
これをしっかり覚えておきたい と思うんですね使徒たちあるいは
弟子たちが食事する時間もなかった そして彼らは疲れていたそして
彼らにイエス様は休みなさいあるいは 全ておもにを負って疲れている
人苦労している人は私のところ に来なさいあなた方を休ませて
あげようあの御言葉にもあります ようにイエス様は休みというもの
を非常に大事にされておられる またそれが必要なんだということ
ですね 私たちの信仰生活あるいは教会
生活と言ってもいいんですが特に 一つの落とし穴があるということ
を聞いたことがありますそれは 熱心ということですねパウロの
お手紙の中にも熱心でありなさい ということが出てきますしかし
この熱心でありなさいということ をどう解釈するかということなんです
がこれはおそらく経験でありなさい 熱心ということの意味として信仰
的に経験でありなさいあるいは 深さにおいてもっと深くあるように
あるいは質的なあるいは密度そういう 面においてもっともっと深くある
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ようにしかし私たちが熱心でありなさい ということはもちろん一生懸命
やるというのはいいことなんでしょう けれどもそれが熱心でやらねば
ならないですから働きづめで休 まないそれがいいことのように
思ってしまって結局燃えつき症候群 のようなことになってしまうそういう
こともあるわけですしまた熱心 である一生懸命そして休まない
で働きづめでやっているそういうこと にそういう中で一つの誘惑がきます
それは私は一生懸命しているのに あの人はどうなんですかこの人
はどうなんですか丸太のように 人をさばいてしまうそういうこと
がなきにしもあらずですから熱心 である一生懸命そして休まない
そのことのもう一度私たちは点検 しておく必要があろうかと思うん
ですね人をさばくことは本当に 罪でありますから私たちがもし
何か一生懸命させていただくあるいは 休まないで何かさせていただいている
それは全て神様の恵みであり憐れみ であり支えであったわけですから
しかしそれが今できない状況の 人たちあるいは今休息が必要な
人たち休まないといけない人たち その人はまたその人のありよう
を神様は見ていてくださっている それを受けとめていてくださっている
ですからそのとき皆それぞれの 事情がありましょうし神様が一人
一人を支えていてくださるんだ そういうことも言えるわけであります
ですから毎月症候群のようなまる た症候群のようなことにならない
ように私たちの信仰生活あるいは 教会生活私たちはそれを一生涯
の事業としてやっているですから ときにはそういうバランスが必要
でありましょうしあるいはペース 配分というような必要に応じて
休息をとりながらこれを全うして いくということこれが非常に大事
なことではないかイエス様が言 われたしばらく休みなさいその
ことからそんなことを示されている わけであります
二つ目のことは三十三節から三十 四節ところが多くの人々が彼ら
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の出て行くのを見それと気づいて 方々の町々からそこへ徒歩で駆け
着け彼らよりも先に着いてしま ったイエスは船から上がられる
と多くの群衆を御覧になったそして 彼らが羊飼いのいない羊のよう
であるのを深く哀れみいろいろ と教え始められたここに群衆が
羊飼いのいない羊のようであった それをイエス様が御覧になって
深く哀れまれた羊飼いのいない 羊それが群衆であり私たちである
そういう例えでここに書いてある わけですが羊飼いのいない羊それは
どこへ行けばいいのかわからない そして迷っている私たちもいろいろ
と生涯の中でキロに立たされて 右に行くべきか左に行くべきか
あるいは道がわからないでどこ を行けばいいのかわからないそして
立ちどまってうおうさおうしている そういう状況が考えられますあるいは
どこに行けば草があるのかあるいは 植物にありつけるのかただ呆然
としてそこに立ちどまっている 羊飼いがおれば牧草地にも連れて
行ってくれるでしょうけれども それが導く人がいないそういう
状況あるいは羊というのは常に 危険にさらされている特には
羊泥棒とかあるいは狼とか野獣 がいつも羊を狙っている羊飼い
は犬も飼っていてそしてそういう ものをいつも近づいてこないように
守っていてくれるんですがその 羊飼いがいないいつ危険が及ぶ
かわからないようなそういう状況 に立たされているそういうような
状況をユス様は御覧になって彼ら が羊飼いのいない羊のようである
のを深く哀れそしていろいろと 教え始められたユス様は後私は
羊飼いですそのようにおっしゃ って私に従ってきなさい私に委
ねなさい私があなた方を導く羊 飼い私があなた方を養う羊飼い
私があなた方を守ってあげる羊飼い なのだそのようにおっしゃって
くださったですからユス様は群衆 を憐れんでそして彼らをこれから
も守ってくれるように神様を守 ってくれるようにあるいは自分
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が羊飼いとして彼らを支えていく のだというそういう思いがここに
あふれているわけであります そして三つ目読んでいただきました
三十五節から四十四節のところ ここに出てくるキーワードはパン
ですねパンもうお昼も近いので ちょっとお腹が空きましたがおいしい
パンがあればいいなというそんな 思いですが今日のこの箇所そして
五つのパンと二匹の魚この説教 の箇所と題を決めたのはもう一
カ月ほど前のことなんですねですから 順番にこうしていくと一月の二十
九日の第五聖日はこの箇所かな ということで一カ月前に決めさせて
いただいてそして今朝ライフライン という電動番組を見ていましたら
五つのパンと二匹の魚という ベーカリーカフェの紹介があって
へえと思いましたそういうところ が説教者の小さな喜びのような
そんなことでありますこれは講談 に立つものでないとわからない
小さな喜びああそういうことも あるんだ世の人々はそれを偶然
というわけですねあなたがここを 七月二十九日に用意したのはそれ
とテレビでそのことをやっていた のは偶然ですよでも私たちは何
か神様のお導きがあって私への 励ましと皆さんへのメッセージ
というんでしょうか私が語りきれ なかった不十分なところをまた
そういうものが補ってそしてさらに 深くより恵みを与えてくださっている
そういうふうに思ったわけであります 五つのパンと二匹の魚というその
ことがここに書かれてあるわけ ですはっきり言いましてこれは奇跡
の話ですよねそこにあった五つ のパンと二匹の魚をイエス様が
それを手にとってそして天を見上げて 祝福されたその前にここに男だけ
で五千人あるいは女性や子供たち や含めるともっとたくさんいた
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でしょうがそういう人たちに何か 食べるものを与えなさいと弟子
に言ったところ弟子はいやこんな 人たち全部を食べさせるだけの
ことはできませんここに二百でなり ものパンを買ってあの人たちに
食べさせるようにとでも言うのでしょうか 二百でなりというのは今のお金
で換算すると二百万円ぐらいだ そうです換算のレートによります
けれども弟子たちも二百万とか それはちゃんと計算してそうした
のか要するにたくさんのお金が いるんですまたそんな大量のパン
を今手に入れることはもう不可能 です無理ですということを言いたい
そのことを私たちが出かけてい って二百でなりものパンを買って
あの人たちに食べさせるように ということでしょうかイエス様
それは到底無理ですよということで それじゃ今ここにパンはどれぐらい
ありますか五つと二つの二匹の 魚ですそうするとイエス様がそれ
を私に貸しなさいとするとイエス は五つのパンと二匹の魚を取り
天を見上げて祝福を求めパンを 先人々に配るように弟子たちに
与えられたまた二匹の魚も皆に 分けられた人々は皆食べて満腹
したそしてパン切れを十二の籠 にいっぱい取り集め魚の残り
も取り集めたパンを食べたのは 男が五千人であったこれは間違い
なく奇跡です奇跡とは何でしょうか それは神様の技神様の力とか神
様の能力それが人間に見えるような 形で表されたそれが奇跡ということであります
ですから私たちが聖書の中でいろいろな 奇跡の記事を見たときにどう思う
かどうそれを解釈するか神様が なさった技神様の力能力を私たち
が目に見えるように表されたそれを いくら研究したりいくらそのとおり
やってみたりそんなことをさせる ために奇跡があるわけではない
これは信仰の問題であります 今日も出エジプト期教会学校で
出エジプト期でエジプトを出た イスラエルの民が目の前に航海
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そして後ろからパロの軍勢が押し 寄せてくる絶対絶命の中で神様
がモーセンにその杖を海にかざ しなさいそうすると海が割れて
イスラエルの人たちはその渇いた ところを渡っていったその奇跡
を一回実験してみようと誰かが 杖をかざしてあるいはどういう
ふうにしてそういうことが起こった のかいくらそれを研究しても私たち
にはわかりません研究材料として そういう奇跡がありませんあるいは
イエス様が湖の上を歩いておられた それじゃどうしてイエス様は湖
の上を歩かれたのか一度やって みようと忍者のようにして一歩
右足を出して右足が沈まないうちに 左足を出せばいいんだ左足が沈まない
うちに右足を出せばいいんだそういう ふうに言った人もいますがそんな
ことを研究するために聖書がある のではない復活の記事もそうです
徐々後半もそうですどうしてどうして なぜこんなことがあるんだどうして
こんなことが起こるんだそして 一年たち五年たち十年たち二十
年たちどうしてだろうどうして ああだろうかこうだろうかどうして
復活なんかあるんだろうかそして やがてこの世を去らなければいけない
そういう時が来てそしてせっかく 神様が私たちに与えてくださっている
救いのメッセージ祝福の御言葉 を自分のものにできないでそして
この世を去っていってしまう人 たちが何と多いことでしょうか
奇跡とはそういう私たちの研究 材料として書かれているのではない
これは神様の技なのだ神様がい かに力あるお方でそしてその奇跡
を通して私たちに何かを伝えよう としているそのことのための奇跡
なのだ奇跡は何かを私たちに示 す道しるべであるそこに神様の
メッセージを私たちは見るわけ です五つのパンと二匹の牛弟子
たちはもう私たちにはこれしか ありませんこういうものでどうして
五千人その他たくさんの人々を 食べさせることができるんですか
これが私たちの偽らざる思いであります し私たちのまた限界であります
しかしイエス様がそれを私に貸 しなさい私たちもそれをイエス
様に委ねたときイエス様はそれを 何倍にもふやしてそしてそれを
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弟子たちからあるいは弟子たち からそこにいる人たちに全部を
満たすようにしてくださったこの 奇跡を通して神様は私たちに何を
語ろうとされているのかそれは 私たちに託されている小さな五つ
のパンと二匹の牛弟しかないような 賜物とかあるいは神様が与えられている
才能だとか誰それさんに比べて 私の才能なんて本当にちっぽけな
ものそれこそ二つのパンと一匹の 魚ぐらいしかないかもしれない
私にはこういうだけのちっぽけな 力しかないもしそう言い続ける
ならばそれで終わってしまうしかし それをイエス様にお委ねしたならば
イエス様はそれをいかようにも ふやしてそして豊かにしてくれる
んだ何倍にもそれを祝福してまし 加えてくださるんだというそういう
メッセージがここに込められている わけですですから特に私たちの
生涯それをイエス様に委ねるということ これが私たちの救われたことと
そして救われたと同時に献身という 身を捧げるということですね私の
生涯時間も能力も賜物も一切を 主に委ねてそして主にお任せして
主とともに歩んでいく生涯これを 献身の生涯というんですがイエス
様に私のいただいている五つの パンと二匹の魚それでしかないん
ですけれどもそれをイエス様に 委ねますあとはイエス様がそれを
いかようにもしてくださるんだ というそれがこの五つのパンと
二匹の魚であります 今朝のテレビ の紹介のこともそうであったん
ではないかなと 彼女はただお母さんから教えて
いただいた料理あるいはケーキ を作るそれはただお家であるいは
親しい人に何か作ってあげたい というおそらくそれで終わって
いたでしょうでもこれをイエス 様に委ねようイエス様に託そう
するときに大きなビジョンが与 えられたそうだもっと多くの人々
にこの小さな賜物自分が持っている 力才能をイエス様に委ねようだから
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十字架があそこに建てられているん だと思うんですね十字架を見て
その十字架にかかられておられる イエス様にそれを託すときにイエス
様はそれを豊かにしてくださる もっともっと何倍にもその恵み
を祝福をふやしてくださるそんな ことが語られておったんだとその
ように思うわけです もう一つパン についてですが私たちは生産式
をこの箇所から思い出したいと思 うんですねパン私たちは生産式
でパンとぶどう酒あるいはぶどう ジュースをいただくわけですが
そのパンをいただくそのことを さらに詳しく書いてあるのが与
羽根の福音書の六章与羽根の福音書 の六章というところにさらにこの
ことが詳しく書いてあるわけです イエス様は今子供が持っていた
あるいは弟子が持っていたその パンを私に託しなさいそしてそれ
をパンを裂いて人々に与えられた しかしさらに驚くべきことは与羽根
の福音書の六章のところにはイエス 様は私が命のパンですとおっしゃ
ったわけです私が命のパンです 私たちは生産式でいただいている
パンはそのイエス様御自身をいただ いているまさに命のパンである
そのイエス様御自身をいただいている そんなことをこの与羽根の福音書
の六章は私たちに語っています 本当は与羽根の六章の三十節あたり
から五十八節までそのことが書 かれてあるんですが時間がありません
ので四十六節後半の部分をお読み いたしますまたお家に帰って百
八六ページ百八七ページ全体を 読んでいただけたら幸いであります
四十六節から誰も父を見た者は ありませんただ神から出た者すなわち
この者だけが父を見たのです誠 に誠にあなた方に告げます信じる
者は永遠の命を持ちます私は命 のパンですあなた方の父祖たちは
アラノでマナを食べたが死にました しかしこれは天から下ってきた
パンでそれを食べると死ぬことが ないのです私は天から下ってきた
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生けるパンです誰でもこのパン を食べるなら永遠に生きますまた
私が与えようとするパンは世の 命のための私の肉です五十三節
イエスは彼らに言われた誠に誠に あなた方に告げます人の子の肉
を食べまたその血を飲まなければ あなた方のうちに命はありません
私の肉を食べ私の血を飲む者は 永遠の命を持っています私は終わり
の日にその人をよみがえらせます 私の肉は誠の食物私の血は誠の
飲み物だからです私の肉を食べ 私の血を飲む者は私のうちにとどまり
私も彼のうちにとどまります生ける 父が私を使わし私が父によって
生きているように私を食べる者も 私によって生きるのですこれは
天から下ってきたパンですあなた 方の父祖たちが食べて死んだような
ものではありませんこのパンを 食べる者は永遠に生きますここに
何度も私が命のパンです私が命 のパンです私が天から下ってきた
生けるパンですこのパンイエス 様そのものを私たちはいただく
イエス様の持っておられるその 生きた命をいただくイエス様の
持っておられる精霊を私たちが いただくイエス様の持っておられる
そのアガペの愛を私たちがわけ 与えていただくこれが生産の意味
でありますし私たちが日々その ことを覚えてそしてまた十字架
を仰いでいきたいと思います お祈りをいたします私は天から
下ってきた生けるパンです天の 神様きょうはマルコの福音書また
ヨハネの福音書を通して神様の 恵みをいただいたことをありがとうございます
五つのパンと二匹の魚しか私たち には見えませんまたそこに絶望
を覚えまた限界を覚える弱き小さな ものでありますしかしそのような
ものでもイエス様に託しさえすれば イエス様にお預けして主をどうぞ
これらをあなたが御自由になさって くださいと委ね託すときに主は
それを何倍にも祝福してくださる ことを見ましたまた私たちのその
神の技奇跡が私たちもこの信仰 によって目に見えるようにあなたが
あらわされてくださるようにこれ までもそのような技を見ました
がまたこれからもそのことをあなた はなしてくださることを信じます
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私たちに与えられた五つのパン と二匹の魚をこれからもあなた
に委ねていく信仰を与えてくださる ようにイエス様の尊い皆によって
お祈りをいたします アーメン