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ご着席ください。聖書朗読をしていただきます。
聖書箇所は、「マルコの福音書十二章十八節から二十七節までです。新約聖書の九十二ページをお開きください。」
本庁は和尚経代に朗読していただきます。どうぞよろしくお願いいたします。
聖書をお読みいたします。マルコの福音書十二章十八節から二十七節までです。
また、復活はないと主張していた里会人たちがイエスのところに来て質問した。
先生、孟瀬は私たちのために子をかいています。もし兄弟が死んで妻を後に残し、しかも子がない場合には、その弟はその女を妻にして、兄のための子を設けなければならない。
さて、七人の兄弟がいました。長男が妻を埋め取りましたが、子を残さないで死にました。
そこで次男がその女を妻にしたところ、やはり子を残さずに死にました。三男も同様でした。
こうして七人とも子を残しませんでした。最後に女も死にました。
復活の際、彼らがよみがえる時、その女は誰の妻なのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのですが、イエスは彼らに言われた。
そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからではありませんか。
人が死人の中からよみがえる時には、めとることもとつぐこともなく、天の見つかりたちのようです。
それに死人がよみがえることについては、孟瀬の書にある芝の箇所で、神が孟瀬にどう語られたか、あなた方は読んだことがないのですか。
私はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であるとあります。神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。あなた方は大変な思い違いをしています。以上でございます。
聖歌隊の新聖歌253番の3尾に続きまして、内田牧師より、生きている者の神と題して、説教をしていただきます。
03:22
生きている者の神と題して、説教をしていただきます。
生きている者の神と題して、説教をしていただきます。
生きている者の神と題して、説教をしていただきます。
生きている者の神と題して、説教をしていただきます。
06:10
生きている者の神と題して、説教をしていただきます。
生きている者の神と題して、説教をしていただきます。
皆さんおはようございます。
こうして共に礼拝を捧げる場に集えたことを感謝をいたします。
今日また御言葉をいただきます。
その前に一言お祈りをさせていただきます。
私は山に向かって目を上げる。私の助けはどこから来るのだろうか。
私の助けは天地をつくられた主から来る。
恵み深い天の父なる神様、
今日こうして十一月の第三聖日を迎え、
安息のときまず神の国と神の義を求めてこの宮に集って参りました。
精霊様が一人一人をお導きくださって、
この場に集い心からの礼拝を捧げています。
一週間の歩みはそれぞれ異なりましたけれども、
あなたは私たちを守ってくださり、
また暗いときもあなたは眠ることなく、
微睡むことなく私たちを守り支えてくださったことを覚えて皆をあがめます。
それぞれにまた課題や困難、試練があるかもわかりませんけれども、
そういうところからもあなたは助けを与え、
そして私たちの信仰をさらに練り清めて、
救いへと導いてくださっていますことを感謝をいたします。
私の助けはどこから来るのだろうかと思うようなときもあります。
そんな叫びをあなたは聞いてくださり、
そしてふさわしく主から助けを与えられる、
そのまた体験を通してさらに信仰を深めてくださいますように。
今日もまた山よりも大きなお方を見上げて、
そして十字架を通して表してくださった神の愛をまたいただいて、
ここからお使わせくださるように、
さらに御言葉を通してあなたの身胸を悟るものとしてくださるようお願いいたします。
主の御好談を祝うときを近くにしておりますけれども、
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そのことも覚えながら、またこのときすべてから解放してくださって、
ただあなたの身を拝してこの礼拝が清められて主に受け入れられるものとなりますように、
今からのひととき主が導いてくださいますよう、語るものをも哀れみ最後まで支えてください。
御言葉だけが人々の心に留まりますよう、
おゆだねし主キリストの皆によってお祈りをいたします。
アーメン。
今日も聖書を開かせていただいております。
聖書の中にこの人という字が出てきますけれども、
これを人と読む場合と人という読む場合とがあるということに気づきます。
ユダヤ人にはユダヤ人のように、ギリシャ人にはギリシャ人のようにというような読み方、
あるいは違法人というようなそういう読み方があります。
それと先日も出てきましたパリサイ人という読み方ですね。
それとか罪人、そういうふうに読む場合もあります。
今日もサドカイ人というふうに出てきます。
パウロが書きました手紙、ローマの手紙、コリントの手紙。
この新海約聖書を開きますと振り仮名がついていないということで、
どちらでもいいのかということなのでしょうか。
ローマ人への手紙と読んでもいいし、ローマ人への手紙と読んでもいいということなのかもしれません。
公語約聖書ではローマ人への手紙、コリント人への手紙と振り仮名が書いてあります。
私自身の漢字では何々人という響きよりも何々人という響きの方が何か柔らかいというか、
丁寧な漢字がすると思うんですけれども、
それぞれの文脈とかあるいは中に書かれているその中で読むべきだ、
こちらを読んだ方がいいのではないか、そういうのがあるんだと思うんですが、
私たちは振り仮名に沿って読ませていただく、それが一番いいんでしょうけれども、
12:05
要はおそらく他の漢字でもそうなんですが、
時々間違って読むこともありましょう。
でもそれは気にすることはないと思うんですね。誰だって間違いはあります。
でも肝心なことはどう読むかではなくて、何が書かれているのか。
神様がこの聖書を通して私たちに何を語り、そのメッセージを聞くということですね。
ですからローマ人の絵の手紙なのか、ローマ人の手紙なのか、
そういうことよりもローマ人の手紙が何を私たちに今日語っているのか、
神様は何を私たちに言おうとしているのか、それを聞くということですね。
それが大事なことである。そのように思うわけであります。
先ほど出てきました、この悟会人のことなんですけれども、
前回も立法学者、パリサイ人、最主張たち。
彼らがイエスを責めて、そして何とか民衆からイエスの支持をなくさせて、
そして彼をあわやくば捕らえさせて抹殺しようと、
そういう目論み、たくらみがあったということを見ました。
今日もこの悟会人がやってきまして、イエス様に質問を投げかけたという、そういう箇所であります。
この悟会人というそういう人はどういう人なのか、これを調べてみますと、
当時のユダヤ人社会の中では指導的な立場の人たちであった。
知識階級や上流階級のそういうところを形成していた人たち。
そしていわゆる大才子というのは、この悟会人の中から選ばなければならないというような、かなり力を持っていたそういう人たちであります。
もう成語書を非常に重んじていた。しかし言い伝えや言いましめは重視しない。
そして世俗的であった。どちらかというと世俗的で、いわば合理的な考えをする人。
人間の考えや自分たちの経験、そういうものを重視していた。
ですから十八節にもありましたように、悟会人、彼らは復活はないと主張していた。
いわば復活なんて非現実的、非合理的だ。
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もっともっと人間の知恵とか考えとか体験とか、そういうものを重視すべきだ。
例的な、そういう実在というものを信じていない、そういうようなこと。
それをもってイエス様のところに来て質問したというんですね。
それが十九節から二十三節のところ、先ほど読んでいただきました。
そして復活の誤りを指摘してイエスを責め立てようとしたわけです。
その一つの質問の中に、もし兄が死んで妻を後に残ししか子がない場合には、
その弟はその女を妻にして兄のための子供を設けなければならない。
そしてもし次男も三男も後をついで、そして全て子を成さずに死んだ。
そして最後にその女も死んだら、誰の妻なのでしょうかという。
そういう復活の際、彼らが蘇るときに、その女は誰の妻なのでしょうかというような質問を投げかけた。
この兄が死んで妻を後に残し、そしてその弟が兄のための子を設けなければならない。
これが二重括弧で告られています。
これは彼が決して口から思いつきで言ったのではなくて、新明記の二十五章の五節に書いてあることを彼は引用したんです。
二十五章の五節。兄弟が一緒に住んでいて、そのうちの一人が死に、
彼に子がない場合、死んだ者の妻は家族以外のよそ者に都ついではならない。
その夫の兄弟がその女をめとって、妻と子、夫の兄弟としての義務を果たさなければならない。
難しい表現をしていますが、ここに言われているように、もし兄が死んだら次に次男がその人を妻にして兄のための子を設ける。
しかしそれもできなかった場合は三男が妻にして、そして子を成すという。
そういうことを彼は言っているんですね。
例え話ですが、七人それぞれがそうした場合、女も死に復活の際、その女は誰の妻なのでしょうか。
こういう質問を投げかけてきたわけです。
これに対してイエスの答えを持って、彼はまたイエスを責めようと、そのようにしたわけです。
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彼はとにかく復活というものは、いかに非現実的で非合理的であるか、それをこの質問を通して投げかけたわけですね。
それに対してイエス様がどう返事なさったか。
なるほど、あなたの言う通りですとは言わなかった。
イエス様の答えは二十四節から二十七節の、そこにあるわけです。
イエスは彼に言われた、そんな思い違いをしているのは聖書も神の力も知らないからではありませんか。
それはあなたの思い違いですというのがまず大事ですね。
当時のユダヤ人社会の中での指導的立場、あるいは知識階級、上流階級の中にいるサドカイ人たち。
その人たちに向かってあなた方は思い違いをしている。
これは、この箇所のもうちょっと先のところで最主張立法学者パリサイ人たちが言った言葉、そのままですね。
彼らはイエス様に対してあなたは真実な方で、誰をもはばからず、人の顔色を見ず、真理に基づいて神の道を教えておられる。
これはお政治では、お政治も入っていますけれども、イエス様のことをよく物語っていると思うんですね。
サドカイ人がどういうものであろうが、彼らが上流階級の知識階級の指導的立場にあろうが、そんなことはイエス様にとってはお構いなしであります。
誰をもはばからず、人の顔色を見ず、ただ真理に基づいて神の道を説かれる。これがイエス様ですね。
だからこそイエス様は十字架にかけられたということも言えるわけです。
でもイエス様はそういうものもものともせず、はばからず、人の顔色を見ず、真理に基づいて神の道を説かれる。
私たちがもしキリストの道を歩む、主の道を同じように私たちも歩むとするならば、こういうこともしっかり覚えておかなければいけない。
もちろん人と人との関わりの中で、その対処の仕方というのは、私たちも神様から知恵をいただくんですけれども。
この神の道を歩む、神の道を説くということにおいては、真実にあって、そして誰をもはばからず、人の顔色を見ず、真理に基づいて神の道を教え、語り、そしてそれを伝えていく。
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これを曲げてはいけないということですね。
そしてもう一つは、聖書も神の力も知らないのでしょう、というわけです。
論語読みの論語知らずというのがあります。
それに倣うと、おそらくお父様が言いたいのは、聖書読みの聖書知らずということになるんでしょうか。
なるほど、聖書はよく読んでいる。
しかし、聖書の言われていることがわかっていない。
聖書の知識はたくさん持っている。
しかし、聖書を通して語られている神のメッセージには一向に耳を傾けていない。
神の御心に耳を傾けない。
決して聖書読みの聖書を知らずになってはいけない。
大切なことは、私たちが聖書を何回読んだとか、どれだけ知っているとか、そういうことではない。
神様がこの聖書を通して私たちに言わんとしていること、語ろうとしておられる、
その神の声をしっかり聞いて、その御心を知るということ。
これはしてはいけない、これはしてもよい、これは言ってもよい、これは言ってはいけない。
そういうような神様の今しめ、命令、それに忠実であるかどうか。
それが大切なことなんだろう。
ですから、この里会人に対してイエス様は、そのようにまずおっしゃったわけですね。
あなた方は思い違いをしている。聖書も神の力も知らないのでしょう。
そのように言うわけです。
彼らは、なるほど儀式をする。それもお細かにする。
おそらく聖族も何かそれらしい立派なものを着ていたんでしょう。
なるほど、外目は信仰深いような立派なお方のように見えるが、
しかし彼らは心から神を崇めず、神に従わず、そして神の力も当然知っていない。
そういう者たち、そういう思いでイエス様は答えなさった。
そのように思うわけです。
彼らの知識や論理的な考え、それは優れているんですけれども、
そういうものはかえって災いで素直にその信仰に入れない。
素直に神の身旨を受け入れられないという、そういうことが彼らにはあったわけですね。
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自分の知恵と、そして自分の経験だけで何でも判断しよう。
そういうような、このサドカイ人たち。
では私たちはどうだろうか。
私たちもサドカイ人を避難できるようなものだろうかと考えさせられるわけです。
この天地万物、すべてのものがあるわけですけれども、
そういう中で私たちは知恵もあり、またいろいろな経験もしてきた。
それだけですべてを判断できるかどうか。
いやそうじゃない、私たちの知らないもの、理解しえないこともたくさんあるんだなということを知っています。
いやむしろもうほとんど知らないんじゃないかと言ってもいいくらい、
私たちの知恵とか知識とか経験というのもほんとたかが知れている。
ほとんどのことを私たちは知っていないし、また知り得ない、理解しえないそういうものもあるということを知っているか分かっているか分かっていないか。
それで大きく分かれると思うんですね。
人間の分からない世界、そういうものもあるということですね。
知り得ないものもある。
そういう世界を私たち信仰者は神の世界というわけですし、
また人間の届かない世界、あるいは人間が踏み込んではいけないそういう領域、
それを神の領域と呼んでもいいかと思うんですね。
ですから私たちの分からない、理解しえない神の世界、あるいは踏み込んではいけない神の領域、
そういうものがあるんだということをまず理解して、そこから始めていく。
サドカイ人たちはそれをしていなかったわけです。
例えば私という一人の人間の存在、これについてもサドカイ人を理由に言うと、
人間というのはこうでああでこうなって、こうして私は今ここにいるんだという、おそらくそういうふうに言うでしょう。
でもそれだけだろうかというんですね。
私たちがこの世に生まれてきた、それをただ知識や経験で語ることもできます。
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サドカイ人たちならそれは、例えば三婦人科の領域でそちらにお任せという、なるほど、そうでしょう。
でも考えてみますと新しい命が生み出されるということを一つにとっても、
私たちがいろいろ学んだり、人から聞いたり、実際の命の誕生という過程を見ていくと、
どうしてああなってこうなって、何がそうさせているんだろうか。
そしてもともとなかった命がだんだん形になっていく。
そして小さな赤ん坊としてこの世に生み出されてくる。
それはただ私たちが考える知識とかそういうものだけではない。
それだけでは表現し得ないものがあるということですね。
それを神秘的という表現が一番ふさわしいのではないか。
そこに神という言葉がはめられているように。
そういう世界は私たちにはもうわからない。
また私たちが何か手を加えてしようとしてもそれは許されない。
許されないそういう神の領域というものがあるんだということを、
やはり私たちは覚えるべきではないか。
それはやはり神から出たものという、そういうものを私たちはしっかり覚えるべきであろう。
そして私たちがこの世で一人の人としてその命を終えてこの生涯を終わる。
サドカイ人たちの考えであるならば私たちが一つの命を終える。
それはただ心臓とか脳の機能が停止した。
それを死という、そういうことなんでしょうね。
でもそれだけだろうか。
やはりその人が生きてきた、その中で語った言葉、あるいはその人がなさったこと、
それはいつまでも残る。人々の心の中に残っている。
そういうこともありますし、家族や友人、知人の中にいつまでもそういうものが残っている。
それは一体何だろうか。
機能が停止したという、そういうものだけでは測れない、何かそういうやはり世界があるんだろう。
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体がなくなったから全てが終わりだ、そういうものではないということ。
そういう私たちの知恵や知識や考えだけでは、経験だけでは測れないものがあるんだという、そういう世界。
そういう世界があってほしいという願いや、きっとあるはずだ、なければおかしいという、
そういうものを私たちがきちっと覚えて、そして生きていくということ。
それが本当の人間らしい姿であったり生き方ではないか、そんなことを思うんですね。
ある人がこんなことをおっしゃいました。
私たちが今目の見えている世界に生きています。毎日毎日過ごしています。
しかし本当はこれは仮の世界であって、これが準備の世界であって、本当は死を超えたその向こうの世界。
それが本当の私たちの生きる世界なのかもしれない。
だからその本当の世界に生きるために、今をしっかりと忠実に誠実に生きていかなければとその人はおっしゃったわけですね。
それが正解かどうかわかりませんけれども、そういうこともある面言えるかと思うんですね。
そしてその神の領域、そういうものをしっかりと私たちが覚えて、聖書ではそれを天のふるさとというような表現をしています。
そこに向かって今を生きていく。
またそういう神の領域、神の世界、また天のふるさと、そんなものは非現実的で非論理的だ、ばっさり切り捨ててしまうという、そういう世界は本当に味気ない、そういう世界ではないだろうか。
そんなふうに思うんですね。
ですからこのサドカイ人がいうように復活あるいはよみがえり、そういうものを人間の知識や知恵や経験で語るとするならば、彼らのいうように復活というものはないんだ、そういうふうになるわけですけれども。
イエス様はここでお答えなさった、そのことはよみがえり、あるいはこの復活というものは霊的なことである。
いわば神の世界、神の領域の世界のことを言っているのだ、そのことをまずこのサドカイ人たちが理解しない限り、彼らにはいくら言ってもおそらくそのことはわからないでしょうし、
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彼らにそれこそ精霊が望んで彼らの悔い改めと、そして彼らのこれからの信仰にかかっているわけですね。
ですから彼らのいうように、この七人ともその人を妻にして、そしてみんな死んでしまった。
そうしたらよみがえったときに、その人は誰の妻なのでしょうか。
彼らはこの現実的なことと霊的なことを混同して、混ぜて、そしてイエス様にそのことを質問したわけですね。
それは質問自体がもうナンセンスであるということ。
そのことを彼らにまず、そのことを理解してもらえない限り話は進まない。
彼らは人が死人の中からよみがえるときには、目とることもとずぐこともなく、天の見つかりたちのようです。
それに死人がよみがえることについては、孟瀬の書にある四話の箇所で、神が孟瀬にどう語られたか、あなた方は読んだことがないのですか。
ですから、その女は誰の妻なのでしょうか。誰それの妻ですという、そういう答えを、イエス様はなさっていない。
しようがないわけです。そこに引っかかってはいけないわけですね。
あなた方の言っていることはナンセンスです。そういう思いがあるわけです。
ですから、この茶道会人たちには、もう一度悔い改めと、そして神の世界、霊的な世界、神の領域、そういうものをもっともっと神様から示していただかなければ話は進まない。
ある人はこう言います。私はお祈りや、あるいは礼拝なんかしなくてもきちっと生きていきます。
そして規則正しくきちっと自分の生涯計画を立てて、そして自分を努力して立派な生涯を全うしていく。まだそうなさる人もたくさんいるわけですね。
でもそうではない。神の世界、神の力、あるいは神の領域、そういうものを知って、そういう中で生きていこうとする人たち、その人たちにとってはお祈りをすること、礼拝を捧げること。
それがその人のまた力になり生きていく一つの原動力であったり支えであったり、そうするわけですね。それはそういう世界があるということを知ったからそれをしているわけであります。
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たとえ結果は同じでも、これは全く違う世界に生きている。お祈りをしなくてもAさんは欲しいものを手に入る。Bさんも欲しいものを祈って、祈って、祈って手に入った。
同じものをAさんもBさんも手に入れたんですけれども、かたやお祈りをしていない。かたやお祈りをした。これは全く違います。それはお祈りをした人にしかわからない世界なんですね。
毎週日曜日の朝、礼拝をしてなぜ一週間を始めるんですか。そんなことをしなくても私はこの一週間本当に祝福され恵まれて、そして一週間あるいは一か月一年ずっと過ごしてきました。
そういう人の生き方もその人の生きている一つの証でしょうし、日曜ごとにまず礼拝を捧げて一週間を過ごすそういう人たち。しかしその一週間の歩みはそれぞれあるわけですけれども、こちらの世界とこちらの世界は全く違う世界。
ですからあなたはお祈りをし、あなたは礼拝をし、でも私はそういうことをしませんという、こういうこともまたナンセンスであるといえばナンセンスですね。全く違う世界に生きている。
それを知るためにはその人がお祈りを捧げて、あるいは礼拝を捧げて生きるというそういう世界に身を置かない限り、それはわからない世界ですね。
私たちがなぜ福音を伝え、そして私たちの恵み祝福を皆さんに伝えようとするのか。それはやはり誰だって自分がいいと思うもの、自分が祝福されて、そして幸いそれを自分だけにしておけない、そういうものは自然とあふれてくるわけですね。
ですからあの人にもこの人にも家族の者にも誰それさんにもこういう世界があるんですよ。あなたもそういう世界で祝福と恵み、そして幸いな生涯を過ごされませんかという一つのお勧めであったり提供をしているわけですね。
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もちろんイエス様の大選挙命令、世界に出ていって全て作られたものに福音を伝えよう、そういう見言葉があるわけですが、イエス様もそういう思いですね。何とかそれを知っていただきたい。
中にはそういう世界があるんですか、私もそういう世界に行ってみたいですという人もおられますし、もう結構です、私はもう私なりにそういう世界でない自分の努力で自分の頑張りで、そしてそれこそ非現実的な非論理的なものではない自分の経験と知識と経験、それを頼りにやっていきます。
そういう世界に生きる人たち、この二つがあろうかと思うんですね。それはもう全ての分野において言えることです。政治の世界でもそうです。この日本の国が、あるいは世界がこれからどうなっていくんだろうか。
自分の考え、自分の経験、それだけでこの日本の国を何とかしようと頑張ってくださっている人たちもいます。でもそうではない。私たちは本当にこうしようと思ってもなかなかできない。私たちの力の限界もある。人間というのはそういうものだ。
だからこそ、この全知全能の神にまず祈って、そして神様、日本の国を憐れてください、支えてください。何とか私たちにもこの国が祝福されるように、あるいはその国民が祝福されるように、間違ったところに行かないように、神様どうぞ助けてください、導いてくださいという、そういう祈りを捧げる。
そして、その仕事をしている人たち。私たちは直接そういうところに携わらないものであるとしたならば、どういう人にそれを託すのかというのは、私たちのこれからの判断にかかっているんだと思うんですね。
本当ならば、こういう時、日本はなかなかクリスチャン人口が少ないですから、そういう力という面ではまだまだ及ばないですけれども、それでもやはりこういう日本が混沌としているそういう状況の時に、日本の教会、あるいはクリスチャンたちが本当に心を一つにして、日本の国のために、あるいは日本の国を担ってくださるリーダーのために、本当に祈らなければいけない。
そういう思いがするわけですね。私たちもやはり一人のこの日本国民として、ましてや信仰者として、神様に祈りつつ、正しく導かれるように、この国が決して間違ったところに行かないようにという、そういう祈りは捧げていかなければいけないと思うんですね。
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イエス様がそのようにして、里会人たちに返事をなさったそのこと、それは霊的な世界があるんだということを彼らは言ったわけですね。
そしてもう一つのことは、私はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であると書かれています。神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。あなた方は大変な思い違いをしています。
イエス様がこの里会人たちに、あるいは今日の私たちにも同じように語っていてくださることは、この言葉なんですね。神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。
死んだ者の神ではありませんと聞くと、何かお亡くなりになった方々に対して失礼な言葉ではないかと思う節もあるんですが、そうとる必要はありません。
イエス様がおっしゃったことは、死んだ者、いわゆる亡くなった者たちのことは、ここでは今語るべき時ではない。里会人たちはもうそういう現実的なことしか考えない。
ですから、この死というものもそういうふうに捉えている。ですから、お亡くなりになった人たちのことに関してはまた別の機会に、あなたに語る時が来たら語りましょう。
イエス様が今日何よりもおっしゃりたかったことは、神は生きている者の神です。アブラハムの神、イサクヤクルの神、この神もその時代に生きて、そしてその人たち、その時の民に共にいて語られ、そして恵みと祝福を与えてくださった。
その神は今も生きて、私たちと共にいて導いてくださっている。その神を私たちは今信じて生きているわけです。
そして、この神は語らず、動かず、そして命のない偶像ではないんだ。命のある生きた神なのだ。そういうことを、イエス様はもう一度改めてここでおっしゃってくださっているんですね。
神は生きている者、今生きている者の神であり、共に生きてくださるお方なのだということですね。
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ですから、かつては死とか弔いについて考えたり語るということは不吉であるとか、縁起が悪いとか、そういうふうに言われた時代がありました、日本の中でですね。
でも、それは本当に正しい在り方だろうかということが人々の中に少しずつ芽生えてきたわけですね。自分が命を与えられ、そしてこの生涯を全うして、やがて死を迎える。
その御本人が、もう自分の後のことは誰か叱るべき人にお任せです。私が言った後は誰かがしてくださいという。それで本当にいいんだろうか。
その御本人の思いとか願いとか望みとか、全く反映されずに弔いが行われたりしたとするならば、それは非常に残念なことだろう。そういう思いが少しずつ芽生えてきた。
ですから、今ではやはり自分の生きたこと、そのことをきちっともう一度整理するとき、あるいは死というものをもう一度きちっと考えて、そしてそういう死を迎えるときが来たならば、誰かのお任せではなく、自分がきちっとそれを整理しておく。
あるいは自分の愛する人たちの中でもしそういうのが必要ならば、一緒に生きているときにそれをきちっと整理して整えておきましょう。そしてその後のことはもう神様の世界ですから、それは神に委ねましょう。
大事なことは、神は生きているものの神です。今日生きている、明日も生きるであろう、その私たちとともに生きていてくださるそのお方である。そのためにやはり死というものをきちっと理解し整理し、そして葬りについてもちゃんと整理しておく。
それはなぜか、それは今生きている私たちが今日という日をしっかり生きるため、精いっぱい生きるため、死というものをきちっとゴールをきちっと整理して、そして生かされている今をきちっと生きていこう、精いっぱい生きていこう、悔いのないように生きていく。
そのために私たちはこの生きているものの神様に祈り、礼拝を捧げ、またともに歩んでくださるそのお方に委ねて生きていく。それが本来の人間の姿ではないか。
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そのことをイエス様は今日私たちにもう一度覚えるように言ってくださっている。そのように思うんですね。ですから神は生きているものの神です。このことを私たちは今日覚えたいと思うんですね。お祈りをいたします。
天の神様、御言葉を感謝をいたします。イエス様が私たちに今日語ってくださったお言葉をいただき、またこれをもってまた今日も生きていきます。
そして私たちには手の届かない、また神様の許しなければ入れない、その神様の世界、神の領域のことを神に委ね、また私たちの信仰によってそれをお委ねし、しかし今を共に生きてくださるこの主と共に歩むことをこれからもさせていただいて。
そして御国、また天のふるさとへと向かわせていただきますように、どうぞ皆さんのうちにこの生きているものの神が私たちの主であることを今日覚えるものとさせてください。キリストのお名前によってお祈りをいたします。アーメン。