00:04
お祈りをいたします。
人は、パンだけで生きるのではない。神の口によって、出る一つ一つの言葉によって生きるのである。
神の恵みによって、今日あるを得ておる。
死に感謝せよ。死は恵み深く、その慈しみは常しに耐えることはない。我が魂よ、死を褒めよ。死のすべての恵みを忘るるなかれ。
ハレルヤ、天の父なる神様、あなたはアブラハムを選び、相手なきに等しいものを選んで、全世界の祝福、説するすべての大きい人の祝福のために、名ざしで私たちをお選びくださいまして、
あなたの御前に特別な民として立ててくださいました。
戦いの多い地上の懲戒とは言いますけれども、私たちはあなたからすべてのものを与えられて、この地上で世の光、地の潮、山のるいにある町、あなたがそのようにして、懲戒をこの世に置いていてくださることを感謝いたします。
今日はご指摘のすべき礼拝に、こんなものを読んでいただきまして、共に教会の頭であれ、教会には神の徳の満ち満ちているところに他ならない、こんなにも人材が豊かにしてよみがえってくださったつが、我なり恐ろずな王子かれと、お声と共に御自身を表してくださって、
弟子たちはそう見て喜んだ、イエスのほかネザリティと、このような喜びの礼拝を備えてくださることを感謝いたします。
このものの唇にあなたの言葉を与えてくださいまして、あなたの言葉を語ることができますように、栄光がただただあなたにありますように、教団の132の教会を超え、それぞれのところで持たれております礼拝が、また全世界の種の教会が祝福されますように、イエスキリストの源によって祈ります。
羊川教会は10時45分から礼拝ですが、双方に宮谷教会30周年記念礼拝のために、牧師は神戸に行っておりますと、詩の原稿を書いて係りの者に渡して出てきたのでありますけれども、
こちらに来ましたら20周年、先生から20周年ということを連絡いただいていながら、聞かない、読まないという、自分の。
03:13
小津正夫、西武教会牧師が委員長に14年なかったときに私は西武教会におりました。ですから懐かしい方々がたくさんいらっしゃるわけですが、それは午後に回すとさせていただきました。
北州まで教会学校家庭集会、室上さんや藤林さんのところで家庭集会を持たせていただき、折々宮谷海岸で特別伝道集会を計画しました。やがてそこで生徒研修会が開かれるようになりました。
本当に始まりの部分、そういうことが頭にあったもので20周年ということはないと思って、本当にお喜びだと思います。
今日は命の中でデカリア書が与えられてきましたので、ためのメッセージをお取り付けしたいと思います。デカリア書は資音の回復、リバイバルの書で、宮谷に資音の回復、リバイバルがされることを神様から示されまして、私はお言葉を取り付けたいと思います。
3日目が再びデカリアのところに行きますと、彼は呼び覚まされて、眠りから呼び覚まされるようであったという。何でデカリアはそんな夢うつつの状態にいたのか。
時々私たちを眠りから4時醒ますように行われるわけであります。テスをとって楽になります。朝起きることが苦手だと。新学校時代は朝起きるのが大変戦いでありましたけれども、3時半、4時にはもう目が覚めますから。
6時の早天祈祷会が始まるまでお祈りの時に持ちます。しかし時々寝過ごしてピンポン、信者さんが早天祈祷会に来ても教会は鍵がかかっている。そしてチャイムが鳴ってパジャマ姿で慌てて降りて行って鍵を開ける。
06:05
そしてうちの信者さんは愛がありますから先生慰められますと。牧師が寝過ごしているなんてホッとしますと。いやみのような時々チャイムで呼び覚まされる。目覚まし時計で呼び覚まされる。夫のちょっと棘ある言葉に読み覚まされる。
私たちは兄弟姉妹の中で時々呼び覚まされることもあります。できたら地震や津波で呼び覚まされるのではない。
月下真似の園でイエス様が地べたに這いつくばるようにしてうつ伏せになって祈っておった時に敵たちは眠っておったというわけですからまだ寝ているのかと呼び覚まされることもあると思います。
そこで呼び覚まされたのは神様が見せてくださる幻の素晴らしさのゆえに黄骨とするという。私もそのように主が見せてくださる何を見ているのかと言われた時、いや5つのパンしかありませんとか2匹の魚が何になりましょうとかというようなこんなものを見ているところから目を裂いていただいて
神様が見せてくださるものをしかと見たい。
昨日も先生とお迎えにいただいて2時間先生とお話しして時間を見たらハッと独自の空港に着きまして2時間止まることなく先生とお話ししてこういう会話はいいね。
牧師同士でこういう何を食べたか覚えてないぐらいにおいしいものを出してくださっていたようですけれども本当にそういう食べることとかこの世のこととかそういうことではなくて神の事柄しか話さないというこういう会話に出会える先生とご一緒できるというのは喜びであります。
そんな中で突然前日に帰るというのかと言っていただいて天使があのペテロが明日はセロゼの下に首切られるぞという時に寝ているという鈍いのか鈍なのかしかし神に委ね切ったペテロ天使がやってきてペテロの横を突っついて起こす。
何のことかわからないまま鎖は外れている扉は開いておる第一のエースと第二のエースと出ておくしかし時々つかれるというよりさまされるというこれは日本の教職私たちにとって神様がなさることであります。
09:16
そしてそれも何を見ているかこんなものを見たい金の食材を見るということであります。
これはしついじぶときで神が申せに幕屋を作りをするときに金で食材を作り地球があって右と左に三つずつ枝が出てオリーブの花弁で持って受け皿があってそこに灯火を灯すようにという
しかも日にこの食材が置かれ南側には供えのパンを捧げるところの机が置かれる正面には高壇が置かれ垂れ幕があって奥には契約の箔とケルビムが顔を合わせているという神殿の奥の奥のみといわれる聖女の中のそのまた狭いの方にある金の食材であります。
この金の食材に灯火がありましたか?灯火がついていましたか?食材は金です。しかし火がついていますか?あなた方は新しく生まれ変われ金の食材になりましたけど火はついていますか?
悲しいことに当時この食材には火が灯火が灯っておりませんでした。神殿は荒れ果て一度建て直そうと奮起して集まったけれども住民の三原手の妨害、ほざいて食いすぎて世界の国家権力を使ってまででも働きを止めようとするような様子なれ
いつもそういうものが神の働きのところにはついて回るわけではありません。民たちは工事を働きを放棄するざるを得ませんでした。金の食材はある。しかし灯火はつかない闇です。闇なんです。光が見えない。希望がない。喜びがない。
しかしこのオリーブのこの二本の木が右と左に立てられている。教会の皆さん方にこの幻を神様が浮き彫りにしてくださり見せていただきたいと願うのであります。
12:22
神学聖書の終わりは目白くであります。死の日に御霊に感じて、世界を権威を持って術を収めておられる、死んだことがあるけれども身を生きておられる、あの死の栄光の様を見たとき彼は切り伏して倒れましたけれども、彼は起こされました。
そしてその手に七つの星と周りには七つの食材がある。七つの星は七つの教会の天主であり、七つの食材は七つの教会であると目白くはここから展開されていくわけであります。
最初の食材はエペソの教会であります。そのエペソの教会も石が消えかかっている。どのように消えかかっているのかはじめの合いから落ちてしまう。どこから落ちたかあなたは知っているはずだ。
だから食を改めてはじめの合いに引き換えると、教科的には正当だ。心情的には間違いがない。あなた方の技も知っている。しかし他のものはあるね、どうでもいいけどここだというはじめの合いから落ちてしまう。
二つ目はスミルが苦難である。十日間試され苦難と貧しさの中にある。しかし大忍べ、最後まで死に至るまで忠実である。そうすれば命の冠無量を与えよう。苦難の中に灯火が消えかけるということもあるわけである。
ペルガモ、バラムとかバラフの教えを放棄てしまう。
当時の雑戦、これはまた教会にとって折々忍び込んでくるところの。パウロの十三の手紙、手紙集というのはみんな当時の異端との戦いでありますからそれも教会の中から起こってくる問題でありますけれども。
15:10
そういう再度耳障りがいい。その要請に食いついていく。それがために食材の種が散っていく。
ペラペラ、イゼベルを許し去る。
聖徳知事、前田知事、ユダとは法を自由に変えようとしてしまうことに耐えて戦うことを示された。ユダが手紙を書いておりますけれども。
三年に真面目にならんたっていいよ、三年に真面目にならんたっていいよ、ホトホトっていうのは結構いいもんだよなんて言う。
なんだか人形だけでも気がついたら食材の種が消えていってしまう。
猿です。生きているようであるが死んでいる形だけ、形は整っている。
順序通りはやっている。宣言文字、礼拝にも出ている。きちんとやっているしかない。
命、躍動が、皆さん、皆さん、信仰とは命の躍動なんでしょう。
エスカマに出会うというのは、神の形にして作られたあの形の回復であり、神との関わりの中にあるカラカラに出る水が河川となって流れている。
時々、形の方に入ってしまう。死が死にていって。
最後はラウディシアであります。私の牧草室には、皆さんがいろんなところに来られると、海外旅行して来られると、お土産を持ってきてください。
食べる物は胃袋に入るのですが、お着物を買ってきてくださると、私の部屋、私が行かないところの物が、
いつになったらいけるだろうかと思うのですが、しかし私も行ってきて、それを牧草室に置いておく。
それは何かというと、スティッシュがありますね。スティッシュに片つむりがポンと、何もそこにありません。真っ白いスティッシュに片つむりだけがポンとついて、それが貼ってあります。
18:02
その片つむりに意味がある。旗から見たら、信者さんが、皆さんが来て牧草室に来ても、片つむりがスティッシュにポンとついて、
その片つむりを、何ですか、何だ、字が見えないですよ。字なんか書いてないですよ。あんたもう一回眼科に行って、目を調べてもらいなさい。
あんた、この字、見えなかったぞ。あんた、どんな目を。あんた、見えないですよ。あんたの目はなかん。なんて言いながらやるのです。
ここから書いていくのですが、この片つむりはラオデキアで拾ってきた方。忠実なる者、忠実なる者がこう言われます。
熱くも冷てくもね。熱いか冷たいかで、書いてあるだろう。
スティッシュどんだけも書いてない。スティッシュを読んでほしい。書いてあるよってやると、それはもともと書いてないんですから、見えると言うから困るんですけれども。
にを我は戸の外に立って叩く。誰でも私の声を聞いて、戸を開けるならば私はその人の家に入って食事をする。彼もまた私と共に食事をする。これは教会に言われたの。
丘陵さんに言われたんじゃないんですよ。ノンクリスチャンに言われたんじゃないんですよ。ラオデキアの教会の人に、クリスチャンに、イエス様が心の外にいるってどうしますか、皆さん。
でも今日見たいのであります。あなたは何を見ているのか。食材の火は消えている、消えかかっている。血は落ちそうにもない。でもその右と左にオリーブの木があり、そこから札でその食材に繋がれている。
ゼルバベルにその幻の意味が、言葉が語られる。ここが健全な私たち、聖書より信仰生活をしていくときに大切なことだと思います。
幻だけを見てしまうと時々それが自分の内なる投影なのか、神の幻なのかを見極めることは時には非常に重要である。
北海道はサタンの働き手が非常に強いですから、その人の精神的な問題なのか、サタンから来るのかということになると、ものすごく慎重に私はその一人一人をカウンセリングして、これは病院に行きなさった方がいいという場合は紹介します。
これは違う。これはその人の心の病から来るのではなくして、サタン代のものだということになると。これは見言葉によって世界を信じればなりません。
21:18
私たちが見る幻というものが今度は見言葉によってそのことがきちんと裏付けられるという、ここに健全な信仰生活の私たちの足場があるわけであります。
問題は知りませんというゼカリアに対してゼロバブルへの主の言葉だ。権力によらず能力によらず私の礼によってと万軍の主は仰せられる。
これはもし今日初めてお読みになられれば、これだけ握って帰っていただきたい。しかしこれを握ったからといってあなたのものになるわけではない。
しかし自由で完全な律法を一本に見つめて頼まない人というのはそのようになっていきますから、今日もし初めてこの見言葉を聖書で読むという人があったならば、
それがあなたのものになるまでこの見言葉をじくじく出したり入れたり、雨玉のようにしゃぶりながら入れたり出したり、反寸する動物は強いとありますから、それをどうぞ。
またもし皆さん方の中に文語訳があれば、口語訳があれば、深海訳があれば、新京都訳があれば、横文字を読める方があるならば、キング・ジェームス訳もいいでしょう、リバースバージョンもいいでしょう、トゥデイ・イングリッシュバージョンもいいでしょう。
いろいろな訳でこの見言葉をあなたの血となり肉となり、あなたの髪の毛の一筋毛までも染み込ませるような境界に私たちとさせていただきたいとこのように思うわけであります。
大事なことはゼルバベルに告げられた。これは消えかかっている植台に再び火が灯る。何を意味していますか。
宮が復興されていく。民たちが帰ってくる。民たちがそこで本来あるべきところの生き生きした感動と喜びの中で、神を礼拝し、心が裂けるような思いで、心から湧き出てくるような感動とや不動の中で礼拝が始まっていく。
24:23
サンデスのように、私たちはスカーッと止まっているけれども、命がない。
ザオデヒアのように、私たちは飛んでいる。何もかも謝ってると言いながら、キリストが心の外から出てくる。
そうした。ほのぐらい、ほのぐらい、ほのぐらい。いや、もう、もう、サッと吹かなくなっても、そこでこっちの空だけで散りてしまいそうだ、その炎の思い。
神を、火を灯し、恐怖が増えても消えないほどまでに、その灯火が燃え続ける。そこに宮は復興して、民を渡し帰り、そこで命ある。神は礼なれば灰する者も、礼と誠と思って灰すべきだと言われるところの、そのような礼拝。
うちの娘が奏楽をするときに、私が座って娘がピアノを弾くときに、風通しの良いジーパンを履いていた者でも見つけて、破れたジーパンならば恥ずかしい貧乏という印だけど、わざわざ穴の開いている。
私たちには想像のつかないようなものが入って、礼拝の奏楽をする者ですから、それで私は終わった後、牧師館に入ってから、
今は学校に勤めているんですけれども、陽子、あの夜、礼拝の奏楽なのにさ、彫の奏楽者のようにスカッと落ちるとかさ、何かすんならいいけど、何もそんなスレスレで、中に足がちょっとあちこちチラッチラッと見えるような、そんなジーパンを履かないで、礼拝奏楽してくれんかなと言ったら、
私の方にギュッと向き直って、牧師の子だからって言って、みんな生徒ではありませんし、精霊に満たされているわけではありません。私の方にギュッと向いて、一番呼吸があるんだけど、一番噛みついてくれる娘なんですけれども、そんなことを言う牧師だから若い子は来ないのよ。
27:03
若い子も来て欲しいし、そんなスタイルで奏楽したら欲しくないし、私の中で二つ、とても言葉が出ないまま、でも正の次からちゃんとやってくれてはいるんですけれども、時には形を整えすぎて中身がなくなるという。
しかしここで、ゼルバベルを通してもう一度リバイアイバルが起こってくる。新しい働きが始まってくる。そうして妨害に妨害、攻撃に攻撃、国家権力、当時の政治圧力までもかかってくるという、そういう中で、ゼルバベルに万軍の主ってこれが大事でしょ。権力によらず能力によらず、私の。私のって誰なんだよ。
私の。これは万軍の主。
メリタリ。こっちの方が新共同役は武力と公約しましたんですね。
もう一つ言ったら、この二つのもの、権力によらず能力によらずというのは、数の力、軍事力、経済力にはよらない。お金があるから問題ではない。
私は東ハリマさん家族6人から開拓伝道を始めました。その時私は言ったんです。
一年間だけ教団から遠慮を受けることが苦しくて苦しくて、でもそれを言えば信者さんに検診しなさいということになるから、それも言えない。
またに首を絞められる一年間だったんですね。それから私が、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば全てのものは添えて与えられるというこの説教ができません。
30:06
教団から遠慮を受けておりながら、公団でそのことを言うことは私にはできません。でも反対に自給独立やりましょうと言ったら信者さんに検診しなさい。
これも神様が今は伝えできないところです。本当に祈りました。
そうしたらその開拓伝道をした9月に沖縄の中村清義先生が手に召されましたけれども、そのお兄さんが、先生来年の春自給独立しない。
あの時の喜び、9月の第1の日曜日、私の口から出させても飲み込み出させても飲み込みを褒めて半年来た。出た!あれ!そうです。顔は優しく言っていたけれども。
それからしらくはりまは急成長していった。神様です。神様なんです。その時私は言ったんです。建物なんかいらないんだと。
建物いらない。加古川の河川敷で椅子側の椅子が雨が降ったら加古川敷に行ったらいいんだ。みんな喜んでくれてね。
昨夜の雨漏りする6畳4畳半を街道にしての開拓伝道で実際は雨が降ると洗面池が足りないぐらいに雨漏りする。
でもそこでは私は悔しいけれども、あのレンガ商人の言葉が私を貫いているんです。
誠の宗教と数の王子によらず建物の殿によらず誠の弟子ならばこれ宗教の底になりとし、数の王子へ個人的不安や賜物や能力にはよらない。
ノットノットなんだ。万軍の主、私だと言われるお方様に全く信頼依存して、かけめなく100%99.2%ではなく、100%このお方様に全的依存するということは裏腹には、
権力によらず能力によらずこちら側に依存依存依存依存依存依存依存依存依存依存依存依存依存依存依存依存依存依存依存依存依存依存依存依存依存依存依存依存依存依存依存依存依存依存依存依存依存依存依存依存依存依存依存依存依存依存依存依存依存依存依存依存依存依存依存依存依存依存依存依存依存依存依存依存依存依存依存依存
33:07
依存依存依存依存依存依存依存依存依存依存依存依存依存依存依存依存依存依存依存依存依存依存依存依存依存依存依存依存依存依存依存依存依存依存依存依存依存依存依存依存依存依存依存依存依存依存依存依存依存依存依存依存依存依存依存依存依存依存依存依存依存依存依存依存依存依存依存依存依存依存依存依存依存依
帰ってくると子供はですね手柄を愛すって言ってもう喜んで帰って
ご主人も慈しみ深きだなんだって言ってこう喜んで帰ってくる
悔しいのは奥さんこの野郎ってこの野郎ってですね
何をしたかって仏壇に合わせてですね何も無用だと言ってですねやって
ご主人は日曜日になって子供を前と後ろに連れて教会に行く
奥さんはその間お手柄をこの仏壇に合わせてですねもうこうしてですねお祈りをきんめいやる
そしてお昼時になると会うわけですけどもどっちの顔が輝いているか
お手柄を仏壇に手を合わせて祈る私と教会から帰ってくる主人の顔に比べたら誰でも見るぐらいに分かって悔しくってしょうがない
なんでこんなに一生懸命に皆さん約帰ってくるのに2時間かかる間仏壇に手を合わせても空の空
むなし
えっと思ってですね祭っても教会に叫べばいいのに誘わない
子供だけしんどそうな妻の顔を見ながらも声もかけもしない
それでえいと言って言ったのは主人の行かない教会に行こうということで
家のすぐ近くの日本キリスト教団の教会に行きました
仏壇でもなく散々舐めつつされて教会から帰ってくるこのですね
主人と自分との祝福がありましたから教会に行って3時間お祈りをしたら気がついたな
主人はこんなところに行ってたのかなんで私を誘ってくれないんだろう
って言うけれども主人は誘わない誘っても来ないだろうという
ところがそこでもうトントントン魂は渇いておりましたから
聖書の言葉が分かり読めば読むほど罪が分かり罪が分かれば分かるほど十字架が分かる
これは救いの世界です
祝福は法典で定神帯で行って
36:03
ご主人は病院の医療関係の仕事をしてそこで弊害になって戦後帰ってきて
そして戦前を通って札幌に来た
主人は私より早くこんな良いものをそれにして私はなんと言う
そこでサダイエットショーという牧師の下で
食い改めて我が君へ救うよ
昔からこの歌ですね
そしてそこでこの生まれ変わるバプティスは洗礼を受けた
ああ嬉しい
日曜日になれば主人はひろみとめぐみを連れてなざれん教会に行く
自分はてくてく歩いて目の前にある教会に行く
そうしてがちんこすれば嬉しいね
二人で教会の牧師のメッセージのめぐみのやり直しが始まってくるというような
期間がしばらく続いたけれども
しばらくで終わってしまう
なぜか
神聖はしたもののめぐみの深みにまでいっていない
やがてメッセージが素通りしていくようになる
聖書を読んでも地面ばっかり追っかけていく
おかしい
おかしいいつも喜び大事祈りすべてのことを感謝
なんでいつも祈りすべてのことを感謝なんできないじゃないか
腹からいける水が川川となって流れてるだろうと言うけれども
流れ出てくるようなものがないところかなんかこっちが欲しいぐらいに渇いている
周りの人を見るとなんだか幸せそうだけれども
神様知っている洗礼も受けたクリスタルだお祈りも分かっている教会の役員にもなったというのに
自分の内側の魂は渇いて
その家庭第2集会ミソノチクですけれども
その家庭集会までやっているのに
自分の内にはこの力がない
ないないないないないないないってどうしてだろうか
それなのに主人はやっぱり帰ってくるとニックニックしてください
私の方は洗礼を受けたときからしばらく続いたけれども
ジュビジュビジュビジュビジュビってなんだろうかと思って
まあいうならばこのですね
渇きがことの起こりです
心の待たせるものは幸いだ
渇いているものは私のもとに来なさい
みなさん渇きはことの起こりです
聖書に書いてある約束されているのが自分の内側に
なんでやなんでやなんでや
もう機関的に日曜日になって教会に行く
口はさんびか歌っている
説教しくけど身近なひとり
心の中は虚しくって虚しくって
どういうことだどういうことだどういうことだ
ある日の夕方晩御飯を作るために台所に入って
そうして包丁を動かしていた時に
39:03
渡してやる渡してやる
神がやられた家様がその心の内に来てくださった
復活の家様に人格的な出会いが起こった
自分に負けてたまるかと思って
教会生活を始め家庭集会まで頑張った
やればやるほどなんだか空回り
ハムスターが籠の中であのスイサンのようなもの
やってもやっても進まない
何やってんだと言ってもしょうがない
そしてその前にもう包丁が振れない
晩御飯ができてない
イエス様あなたでしたかあなたでしたかあなたでしたか
渡したと
ああそれから変わりました
あのねって声かければですね
逃げていくみんな電灯されるんじゃないかと言って
あの関口童貴っていうのがありまして
そうしてあのおばちゃん最近変わっちゃったんさ
休憩やってますから
教会あの学校関係ののがあるのも
集まれば学校の話じゃない
平手の話じゃない
エス様の話するもんですから
もうそのまま近所の人が逃げていく
逃げていてね負けるようなのは
精霊の力がね追っかけてくるんです
あの場合って
どれだけ多くの人が救われたかわかりません
だから下手なことしたら牧師以上に救うもんですから
時々牧師が畳の狭い
じゃあここは一応によらず能力によらず
その何か変わっていいやそうじゃん
エス様なんですエス様なんです
ゼルバベルよ
お前は何者でもない渡した
大山よ
ゼルバベルの前に平手となる
ゼルバベルが来るわけじゃないでしょ
ゼルバベルはエス様前に
この時はエス様は出てこないけれども
神様が来たら平手になっていく
問題が問題でなくなる
彼の手に酒振りがある
ついに彼は神殿復興会を賛成する
42:01
彼か
彼じゃない
その二本の血は何ですか
これは全地の血の見舞いに立つ
油注がれたものである
誰を指していますか
ダイサイチユシアとゼルバベルである
ダイサイチユシアについては参照で出てきます
サタンが訴えてきた
神様このユシアにこんな恐ろしい罪があるんですよ
これ絵づらきを読めば出てきますね
たけいが濡られていた
サタンはいろんなことにおいては嘘をつきます
もともとサタンというのは嘘つきです
ところが一つのことだけ本当のことを言うんですよ
サタンが本当のことを言う
何のことを言うか
あなたの罪を言ったり
ありもしないことをサタンがあなたに何を言っても
ほらこんなことがあって
別に知らないようですぐ分かる
ところがサタンがその時訴えてくるのは
本当のことを言うのは私たちの罪を暴き
私たちの罪を示し
私たちの真相を暴露する
そして神様に訴えてくる
悪魔が何もしないことを神様に訴えていたら
神様は鼻でせせら笑ってうるさいで終わるけれども
本当のことを訴えてくるわけですから
神様もこれは放ってはいけない
じゃあどうするのかというと
私はお前を訴える
サイツの汚れた服を脱がして新しい財布を作って
綺麗なターバン
ターバンの前にはエホバに気をして
神の前には清いものだという
その板のついたターバンが作られ
そしてその神殿の中でこうしてできるように
一方は大サイツヨシラ
一方はゼルバビオ油注がれたものである
神様は今あなたがどのような状態
どのような状況であるかを問うております
ただあなたではなく私だという方に
スイッチを切り替える信仰をお持ちですか
私が主である
犬子は主であるということを
あなたは信仰を持ちますか
もし犬子が主ならば
45:00
あなたの主権とか
決断をするとか
これを選ぶというのは
みんな主に任せてくれないかね
私が実権を握る
私が権を握る
私が全てを握る
あなたは実際を私に任せる
委ねることができますか
その時霊霊が静かに
あなたの心の中に注がれるでしょう
そしてあなたが内側から
動くものを感じるであります
私は羊川町会で
20年が21年目
役員会です
先生21年になるから
プレゼントしたいけれども何がいいですか
そうだね
できたら1年豪華客船で世界一周の旅
夫婦でやらさせてほしい
役員会に言いました
そしたら一人どのくらいですか
500万くらいだけど
ああそうですか
先生それは役員会出せますよ
すごいですね
でも先生知ってますか
あの豪華客船というのは
降りてから全部オプションで
その現地で食べるお金ありますか
いやそんなものない
じゃあそれは駄目ですね
それで豪華客船の旅が逃げていっちゃったんです
ならばこうしましょうか
20年になりましてね
21年目役員ですけれども
私は辻川家長会に口癖の言い方
小杉なんていてもいなくてもいいんだ
20年続けてきた今もそう
小杉がいたからとんでもない話ですよ
小杉がいて神様がいないよりは
小杉がなんかいなくなっても
神様がいてくださったらいいんだ
神様なんだ
神様より私が出るようなことをしたら
とんでもない話ですから
うちの先生は
そうだよね小杉先生
いなくてもいいもんなって
そりゃそりゃ
時々それが
時々
でもそうだ
そうなんですよ
神様なんです
このネクタイね
これは小杉先生が亡くなった時に
ガウンね
精算室で行う時のガウンと
このネクタイがやってもらった
このネクタイは小杉先生が
葬式と結婚式と
精霊典の執行の時に使われるもので
普通の時は使われない
だから小杉先生が私があれですから
もう36、37年?35年ぐらい
48:03
まだ今も使っている
私もこういう大事な時に
これは私が死ぬまで使うネクタイだと思っているんです
小杉先生から私は本当に教えられた
我が霊によるということはどういうことか
というのを傍で一緒に
私は先生様なんだよということで
三浦印象会が今度は
30周年を目指していかれることを祈ります
先生を祈ってください