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みなさん、おはようございます。
今日も、年度としては、4月2日、新しい年度の始めのレイヤーになります。
今日は、またメッセージの後は、教科役員任命式、また教科学教師の任命式も行われます。
まず、いろいろ新しいことが始まっておりますけれども、末に記載してインクを持って進んでまいりたいと思います。
では、メッセージの前に隣の方と挨拶しましょうか。
はい、では、いずれかお祈りいたします。
私はキリストともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。
今、私が御子になって生きているのは、私は私のために御自身をおしてになった神の御子を信じる信仰によっているのです。
主よ、キリストともに私を復活させてくださった命の主よ、その恵みを感謝いたします。
今朝、我らに主の命をあふれるほど注いで下さって、その命によって生きるものとして下さい。
イエス様の御名によってお祈りします。
アーメン。
私は神の作品のシリーズメッセージが今日で5回目です。
神に足渡し続けるという題になります。
また、来週と再来週は、柔軟集またイースターになりますので、2週間柔軟集イースターのメッセージを2回させていただき、またその後からこのシリーズメッセージを続けていきたいと思います。
私たちが信じる天の父なる神様は存在されます。
ただし、その神様は私ではありません。
あなたでもありません。
実はこれが知恵の始めなんです。
ですから、神様の仕事は、神様がなさる、神様にしていただくことです。
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そして、私たちの仕事は何でしょうか。
神様の仕事を私がしようとするのではなく、神のことは神様にしていただくように学ぶことなんです。
でも、神はいないという人がいたりします。
詩編14編1節を見たら、愚かな者は心の中で神はいないと言っているという見言葉があります。
前回でお話ししましたように、イエス様は、ヨハネの福音書7章38節において、私たちの腹から生ける水が流れ出るという見言葉をいただきました。
どうですか、皆さん。先週の日中間、皆さんの生活は、生ける水が、命の水が溢れ出るものでしたか。
自分も溢れるほど、生ける水を飲んで、そして周りの人々にも溢れ出すような日々だったでしょうか。
いつでもこの生ける水の川が、自分から、この腹から、生活から流れ出るようにするためには、私たちがすべきことは何でしょうか。
まずお答えをお教えしましょう。それは、自分のすべてを神様に明け渡すことです。
私たちの日々の生活には、日々ですね、いろんなことが起こったりするんですね。
うれしいことも起こったり、望んでいないことも起こったり、あるいは悲しいことも起こったり、落ち込むことも起こったり、
時には何をしたらいいのか、よくわからない時もありますよね。
そんな時でも、実は自分の人生を神様の御手の上に置くことはできる。
有名な神学者、ジャン・カルバンはこう言いました。
唯一の安全な避け所は、主の導かれるところならどこへも従っていく。
以外に他の意気や知恵などは一切持たないことだ。
ならば最初の一歩として、自分を捨て、我が思いの活力をすべて捧げて、神に使えよと言いました。
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でも皆さん、この明け渡すということを実行するためには、私たちの一番の恐れというものに、実は直面しなければならないのです。
その恐れに直面しなければならない。その恐れとは何でしょうか。
それは簡単にわかりやすく言いましょう。
自分の人生の運転席をイエス様に明け渡すことです。
イエス様に自分の人生の運転席に座っていただいて、ハンドルを明け渡すことです。
私がそこに座らないこと。自分の人生のハンドルを自分が持たないことなんです。
でもこういう話をしますと、先生それは簡単じゃないですか。私は既に明け渡っていますよ、と思われる方がここにおられるかもしれません。
そう思っておられる方は、きょうの説教を最後までちゃんとついていただきたいと願っております。
きょうは先生にちょっとお話をしましたけれども、この明け渡すという意味をわかっていただくために、運転に例えてお話をいくつかさせていただきたいと思います。
我が家は、私も妻も運転ができますね。運転だけ見て、ハンナが私よりは先輩ですけれども。ところが、時々運転のときに意見がぶつかり合うときがあります。
それは二人のスタイルが違うんですね。私の場合は大体、例えば知らないところまで行くんですね。そしたら決まったルートに行きます。
ナビをちゃんと設定して、決まったルートに行きます。余計な道に、こっちに行ったら早く行くかもしれない、といった冒険を私はしません。
ストレスがたまるし、もし迷ったら時間のロースもできちゃうから、なかなかそんなことは好まないんです。
だから、たまに私が運転して、ハンナが座っていたら、ハンナからこう言われるんですね。悪口ではありませんよ、皆さん。
こういうふうに行けば、どっちみちにあそこまで行くから、ナビなんて設定いらないよ、と言われるのがよくありますけど、嫌です。
でも、ハンナは私とちょっと違って、新しいルートを開拓するのが楽しいみたいなんです。
知らない道を行ってみて、ナビも設定しなくてもいいよと言いながら運転するタイプです。
ですから、私が運転していて、たとえばよく知らない道を通って行くときに、家族からこう言われます。
お父さん、どうしてこっちに行くの?遠回りだよ、ナビなんていらないよ、こちらの道にすればよかったのに、と言われる。
嫌な運転したからですね。
ところが皆さん、多くの人たちは、家様の助けが欲しいときは、家様が自分の人生の車の助手席にいてくれたら便利だな、と実は思っているんです。
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それで、こういうふうに助けてもらおうとしています。
家様、体調がくずきました、助けてください。
家様、仕事で厄介なことが起きました、助けてください。
家様、悲しみがあります、どうか平安をください。
でも、あなたは助手席に座っていてください。
しかし、これらの人たちは、実は家様に運転をして欲しいのかと言えば、実はそうではないのです。
ハンドルは自分が握りたいです。
家様は運転席じゃなくて、助手席に座って、私が助けてくれと呼ぶときに、まるでアラジーナンプの妖精ギニみたいに、擦ったら出てくるような神様にしようとしているのではないでしょう。
家様がハンドルを握るなら、もはや自分の行きたい所に行けなくなるんじゃないかなと恐れるから、だから、家様に運転して欲しいと思わないのです。
家様にすべてをあけ渡すならば、お金も家様のものになるので、もはや気ま早く献金したいと思ったら、そのときには献金しよう。
でも、自分の分を取っておく権利は手放しくないとは思うのです。
財布も、土地も、年金も、土地も、すべて家様のものになるので、家様が使いたい所に使うように自分の権利を放棄しますと、なかなか言えないのです。
だから、家様に運転して欲しいと思わないのです。
家様に運転してもらうなら、プライドもあけ渡すことになるでしょう。
個人のプライド、例えば学歴、職業、経済、外貿、出身地、あるいは国家のプライド、クリシャならば、どこの教会、どこの教団、どこの教派のプライドも含めてです。
もはや自分を満足させる権利を持たないのですね。あけ渡すならば。
家様の人生だから。でも、それが実はなかなかできないのです。
なぜなら、なぜならできないのでしょうか。
家様に運転して欲しいと思わないのです。
家様にあけ渡すならば、自分の口もあけ渡すのですよね。
あけこちを言ったり、せねたり、嘘をついたり、呪ったり、ずるいことをしたり、威嚇をしたり、あやつろをしたりすることはできないのです。
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もはや自分の口ではなく、家様の口だから。
でも、家様に運転して欲しいと思わないのです。
皆さんいかがでしょうか。
皆さんは、あなたの人生の運転席に、本当に家様が座って、家様が主導権を持って、人生の運転をしておられるのでしょうか。
それとも、あなたが主導権を持ったまま、家様はずっと普通席に座って、あなたの言う通りにしてくれたり、困ったときにだけ来てもらう、そういうアラジン南部の議員のような語りはないでしょうか。
確かに皆さん、家様を信じるならば救われるでしょう。
しかし、同じ信仰生活をしていても、神の存在をずっと南部の議員のようにさせているクリスチャンと、
人生のすべてを、主導権を神様に、家様に明け渡したクリスチャンと、その人が受ける恵みと祝福と希望が、天と地の差のように近く、皆さんはどちらでしょうか。
あるいは、これからどちらになりたいですか。
明け渡したいと願いますか。
それとも、祝われた中でこのままでいい、このままじゃいいじゃないかと思いました。
豊かな祝福は、私たちの決心次第なんです。
ある方のお証をしたいと思います。
水曜日にもしましたけれども、このような親子の姿こそ、家様に自分を明け渡した親子だと思います。
福岡教会で奉仕をしているときのことです。
ある一人暮らしのおばあちゃんのことです。
あの時にすでに七十過ぎておられたと思うんですけれども、今は天に召されました。
この一人暮らしのおばあちゃんは、とても小柄で、
お家から教会まで大体バスに乗って来られるんですけれども、3時間もかかる。
しかもバスも2回3回乗り換えて来る方でした。
しかもですね、足に障害がありますから、引きずるように歩く方でした。
あの福岡教会はバス停から約500メートルくらい山の山腹にありますから、
登って歩いて行かなきゃならないんですね。
でもですね、あのおばあちゃんはですね、雨の日も雪の日も晴れの日も木都会の日も日曜日のいつも変わらず出席していました。
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あの飼い出しの車輪がついているバッグみたいなものを頼りに来て教会に来ておられました。
本当に頭が下がることであります。
またそのおばあちゃんはですね、よくよく先生方に我が家にもですね、お米や野菜などを差し上げていました。
彼女は切って金持ちではないんです。実は貧しい方でしたけれども、教会を愛する心、僕先生を愛する心はとても格別でした。
私は少なくともあのおばあちゃんのことを思い出すと、
ああ疲れて今日はもう教会休みます。ああもう家から遠いし、明日も乗り換えしなきゃならないし、行けません。
そういう声は少なくともあのおばあちゃんにとっては全て言い訳に過ぎないと思います。
本当にイエス様を愛すならば、自分も疲れも感情も健康も金もイエス様にあけ渡すそういうクリシャーになるはずではないでした。
実はですね、その方は神戸西部教会の犬塚先生の奥様のお母さんなんです。
皆さん本当にイエス様にあけ渡すとは何でしょうか。自分は運転席から降ります。
イエス様に金を渡します。しかし傍観者になるのではありません。
これまでにこれまでにないほど生き生きとするでしょう。なぜでしょうか。
もう自分の人生ではない。自分が運転しなくてもいいです。自分よりイエス様が運転のプロなんです。
全て作りつくしておられます。
それでも私たちはイエス様をただの人生のドライブのお供にしているだけなんでしょう。
イエス様が運転しておられるでしょうか。イエス様がハンドルを握っておられるのでしょうか。
あなたの人生のハンドルを握っているのは誰なんでしょうか。
イエス様はこの点をこのように御言葉で明確に語っておられました。
神に自らをあけ渡すことだけに人が神のもとに来ることはできないのです。という御言葉です。
一ヶ所、聖書ですね。開いて一緒に読んでみたいと思います。
マタイノ福音教十章三十九節。新約聖書の十九ページです。
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マタイノ福音教十章三十九節。一緒に読みましょう。
自分の命を自分のものとした者はそれを失い、私のために自分の命を失った者はそれを自分のものとします。
アーメン。これこそあけ渡し。
それでは今からあけ渡しではないことについて挙げてみたいと思います。
あけ渡しとは、何にもしなくてもいい、受け身になるという意味ではありません。
神様が私たちの人生に願っておられることの中には、私たちが選択をしたり、実習性を発揮することも実は含まれているのです。
また、あけ渡しとは、人の言いなりになることでもありません。
自分の身に起こることを、これが運命だなと受け入れることでもありません。
つまり、あけ渡しというのは、もう人生に自分には対処できないからというふうに思って弱い人の、何と言いますか、末抜えみたいなものでもないのです。
では、あけ渡しとは何でしょうか。
あけ渡しとは、神様は存在しておられ、それは私ではないことを、自ら喜びを持って認めることなんです。
そして、いつも信じて考えるのは、神の目的は、神の選択は、私たちの自分の願いよりももっと賢明で、もっと良いものであることを信じて期待することなんです。
だから皆さん、私たちがイエス様のことをこのように理解したら困ります。こんなふうにです。
イエス様は、私の生活の外側に、私が好きなことを並べ替えるためにやって来られた方だ。実はそうではありません。
イエス様は、私たちの内側を、神の願うように並べ替えるためにやって来られた方なんです。
ですから、あけ渡す時に、自分の人生を手放します。これが一番大事なんです。
これが出来るか出来ないかによって、生活が天国のようになるかどうかになるでしょう。完全に神様に委ねます。
やりたいことも、やれることも、やれないことも、やりたくないことも、神様に完全に従います。
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願った道であろうが、願わなかった道であろうが、完全に自己中継を移転します。
信仰、感情、健康、自由、身体、家族、金銭、全て、もはや私は運転席にいないのです。
あけ渡すとは、人生の運転をイエス様にしていただくことなんです。
イエス様はプロです。全知全能の方です。道を完全に知り尽くしておられます。
だから、あけ渡した人は、とても楽で、安全で、安心で、平安で、いっぱいです。
また、あけ渡すというものを、こんな風にアプローチしてオーナーズ出来るかなと思います。
全てのクリスタルがこのように思うわけではないかもしれませんが、大体こういう風な敬語があるかなと思います。
メッセージの中で誰もが聞きたがるものがあります。大体こういうものだと思います。
あなたがどんなにいっぱい来ても、神様があなたを愛してくれますよ。誰もが好きです。
あなたはあまりに忙しくて疲れている。神様はあなたが休息をして元気になるのを願っておられます。
これもみんないいです。あなたは弱い人だからそのままでいいですよ。これもみんな聞きたがります。
しかし、今から言うのはどうでしょう。あなたはあけ渡さなくてはありませんよ。
あなたは罪深く強情で、うなじの怖い人ですよ。
自己中心的で人に自分をよく見せようとし、あなたの願いは往々して自分の利益を満たそうとするものです。
あなたは実は傲慢で、しょっちゅう人を妬み、拗ねみます。
あなたはイエス様を愛しますと言いながら、実は自分や自分のパソコンのためには贅沢にお金を費やすけど、神様に対しては決心です。
あなたは自分の罪に気づく力は、自己批判によって遮られています。
あなたはいつまでも変わろうとしません。
あなたは膝をはがめ、自分の心からすべてを手放し、罪を悔やるためあけ渡しをしなければなりません。
どうでしょう。このようなメッセージは聞きたくないと思う人が多いかもしれない。
皆さんはどうでしょう。正直にどうでしょう。
実はあけ渡しは難しいんです。
クリスタンと言いながらも、実はあけ渡し知っていないクリスタンが多いのではないかと思います。
ではなぜ主イエスキリストにあけ渡しをしなければならないのでしょうか。
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それはあけ渡しがもたらす祝福がある、それは平安である、神の境の道であるからなんです。
自分は神であるという考えの中に生きるなら、何もかも自分が知らなくてはならないという思いで、
自分のことも他の人たちのことも苛立たせてしまうことがあるでしょう。
あけ渡し時に手放すのは意思だけではありません。
物事の結果を左右するのは自分だという考えも手放すのです。
あけ渡しという意味を今日は運転に例えてお話ししますが、
例えば、お母さんが運転免許を取ったばかりのときだと思います。
車に家族が、本人家族が乗ります。
そしたらみんな引きそびれをしっかり締めて、手首をぎゅっと握って、足に力を入れて、
ああどうしようどうしよう、ハラハラときどきしてながら30分乗って終わったら、あの力抜けて、
はっはっはっはっはっ…になる。
しかし、とても運転上手な人が運転していたら、どうなんでしょうか。
もう楽勝なんです。楽なんです。心配することはもういりません。
寝れるんですよ。休めるんですよ。
何でしょうか。自分が自分の人生の運転を、ハンドルを握ったままで、「イエス様、あなたはそこにいてね。あたしが擦ったら出てきてね。」と。
そしたら、ずっとずっと人生は苦労が続くんです。しかし、すべて受かって、「どうぞイエス様、運転して、あたしはそこで寝ますね。あたしと一緒にいてください。」と。
何という安らぎなんでしょうか。自分の人生における様々な結果をコントロールするのは、自分ではないのです。
それを学ぶのが実は信仰なんです。神様なんです。神様はおられます。そして、それはあたしではありません。
ところで、皆さん、この明け渡すというものは、一度明け渡したらそれで終わりというものではないのです。
ちょっと聖書を開きましょう。ローマ書、十二書一節。ローマ見ての手紙、十二書一節です。新約の三百八ページです。ここも一緒に読みたいと思います。
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そういうわけですから、「兄弟たち、あたしは神の憐れみのゆえに、あなた方にお願いします。あなた方の体を、神に受け入れられる器用に生きたその獲物として捧げなさい。それこそ、あなた方の礼的な礼拝です。アーメン。」
皆さん、ここをよくご覧ください。旧約時代、捧げ物、生贄は、動物がほふられます。牛とか、羊とか。そして、焼き尽くされるためには、その動物、生贄は、その体が祭壇の上に置かれたままなんです。
焼き尽くされるまで、ずっとその祭壇の上に置かれたままなんです。でも、もしですよ。もし、あの祭壇にほふられた牛じゃなくて、生きたままの牛を置いて、これから、ひょうしけと訳すから、おとなしくいてね、と言っても、火をつけたら、あの牛や知事は、その祭壇から飛び降りるでしょう。
しかし、今日の一節よくご覧ください。勢い、死んだ備え物ですか?違いますよ。勢い、生きた備え物として捧げなさいとあります。だから、私たちは、神の祭壇に、神の御手に、自分が生きたまま、そこに椅子付けさせるのです。
神様が火をつけて、熱いと思ってですね、飛び降りるのではないのです。自分を捧げ続ける、明け渡し続けることが大事なんです。一度二度は誰にでもできることでしょう。ずっとそこに居続けることです。でもですね、そこはですね、よこしい場所ではありません。
慣れている場所ではありません。快適な場所ではないんです。そこは不快な場所かもしれません。不慣れな場所かもしれません。聞きづらいものであるかもしれません。そこに生きたまま居続けることが、実は明け渡しなんです。実は皆さん、私は日々、一瞬一瞬、自らを明け渡すよう示されているんです。
その時は、そのように思うかもしれませんが、実はそれだけが命への道なんです。ですから皆さん、私たちの前にはいつも一つの決定があるんですよ。それは、誰が運転席にいるのか、誰が運転しているのか、ということです。
神に向かって反抗的な心を持ったら、「私の車に神様、近寄らないでくださいね。私は行きたい所に、行きたい場所に、自分で行きますから。」ということもできるでしょう。あるいは、双心を持って、家様には車の中に入ってもらうんだけれども、「家様、この領域、このパターン、この人間関係、この作業は私の好きなようにしよう。」と言いながら、ずっと自分が運転をします。
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この恨みはいつまでも手放しません。私に責任をもたらすこの中間はやめたくありません。あなたが完全な明け渡しを求めておられるのはわかっていますけれども、実は私は、完全にはあなたを信用できません。ということなんです。
問題はどれも、「このままで生きていると、みじめになるほか、どうか皆さん、愛しておいてください。どうか皆さんの人生と意思とすべてを神様に明け渡してください。最善を尽くして従うことを求めてください。命を失いますが、命を得るのです。失った命よりもずっと良い命なんです。」
最後にイエス様は、多くの人たちと政治の中にいますから、多くの人々と会話をされるんですね。そのときに、その人の生活のどの領域において明け渡しが必要なのか、明確に語られたことがあります。
今から、2人のケースを、生徒のケースですよ。お話をします。その人たちの領域と、皆さんのことと比べて考えてみていただきたい。そして、皆さんにはどの領域を明け渡す必要があるかを知っていただきたいです。そして、それを主に完全に明け渡してください。
ユハネの福音書8章を見ますと、会員の現場で捕まった女性にはイエス様が、「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。今から決して罪を犯してはなりません。」と言われました。
そして、性欲も情欲も神様に明け渡す必要があります。なぜなら、私たちの身体は聖霊様が宿る聖なる宮だからです。また他のケースです。またイノ福音書19章を見たら、「永遠の命を得るためにどんなことをしたらいいんですか?」と聞く聖人がいます。
そして彼にイエス様はこう言われました。「もしあなたが完全になりたいなら、帰ってあなたの持ち物を売り払って、貧しき人たちに与えなさい。そしたらあなたは天に宝を積むことになります。その上で私について来なさい。」と言われました。するとどうなりましたか。その青年は悲しんで枯れていきました。
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その人は多くの財産を持っていたからです。金銭も神様に明け渡す必要があります。皆さん、可憐に関わる問題は、多くの場合やほとんどの場合は、明け渡しの対象に関わるものです。結局、どれだけ信頼して、どれだけ幸せかによるものなんです。
このお話も水曜日にお話ししたお話です。私の知人の牧師の教会の信徒とのお話ですが、この信徒夫婦は10年くらい教会学校の部長をしていました。韓国のクリスタルですけれども、その部長は1年生、2年生で、子供が7、80人いて、CSの教師が15人ほどいました。
教会はCSの後、礼拝に出たり他の法事もたくさんするので、いつもCSの後、給食をするということでした。ところで、その部長の夫婦は10年間、そのCSの先生方のために毎週給食を家で作って持ってきていました。しかも大事なのは、その費用を教会に一切請求しませんでした。
これも神様への捧げ物だというふうに、10年間、すべてを捧げ切ってきました。彼は金持ちだからではありません。神様への信頼の大きさ、神様への愛の大きさだと思います。ところがですね、神様は切実な方ではないのですが、彼にもっと素晴らしく神様が報いてくださりました。
その部長さんは銀行員でしたけれども、今から78年前でしたけれども、あの時に韓国の金融のところは、大体45歳になると、大体離職されるか、半分強制で退職させられる、そういう時だったそうです。
ところがですね、彼はですね、なんと55歳まで、普通より10年も仕事ができた。銀行が確保してあなたと残ってほしいとか、地点が変わってあそこに行ってほしいとかしてですね、10年も他の人はみんな同期は退職させられたんだけれど、彼は10年も仕事が続いた。
私とは決してやりやすいことでは、実はないのです。快適なことでもないのです。やりやすいこと、快適なことなら、それはもはや明け渡しではないのです。
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皆さんが神様にまだ明け渡していない領域は何なんでしょう。その領域はですね、まだ明け渡していない、明け渡していない領域は、大体言われたら不快なものです。行動するのに不慣れなものです。明け渡したくないものです。言われてもうやむやするしたいものなんです。
だからこそ、それを明け渡しをしなければならないのです。私たちは決断をしなくてはなりません。不快なことであっても、やりたくないことであっても、不慣れなものであっても、明け渡しをしなければなりません。
神の豊かな時刻は待っているのです。でもそれをなぜ私たちは味わえないのでしょうか。まだ自分が握っているからではないのです。しかしここで、私たちは決して一人ではないことを覚え、信じていただきたい。聖霊様がいつもともにおられます。
聖霊様の中の最も驚くべき教えの一つは、イエス様を通して神様は明け渡しの痛みをご存知だったということなんです。イエス様が十字架を背負う前に、ゲッセマネのその上にひざまずいて、こう祈られました。
できますならば、神様この坂敷を私から突き刺らして、私の願うようにではなく、あなたの見所のように、これが明け渡しです。
具体的には言いにくいですが、さっきいろんなことで、明け渡しとは何なのか深く教えられ、反対させられているところであります。イエス様の明け渡しが復活への道となるように、イエス様に下のものにならせていただきます。お祈りします。
それでは今日のメッセージを覚えて、心から決心、決意を必要ではありませんか。あなたがまだ神様に明け渡していない領域は、それは何でしょうか。まだ握ったままのその、それは何でしょうか。それを明け渡すときに、私たちは考えられない大きな祝福が与えられるでしょう。
ところが、握ったままでは、結果は惨め、他にはないのです。しばらく大人の祈りをしていきたいと思います。お祈りです。