礼拝の始まりと神の愛
それでは一言お祈りをいたします。
愛する天皇父なる神様、今朝の礼拝から2025年度が始まってまいります。
主が私たちの教会、この名谷教会を支えてくださり、あなたが頭として恵みをもってここまで持ち運んできてくださっている、その幸いを感謝いたします。
そして新年度も主よ、変わらずあなたは教会の頭として私たちを支え、導き満たし、あなたご自身の恵みと祝福によって歩ませてくださることを覚えて心からありがとうございます。
あなたは限りない愛をもって私たちを愛し抜いてくださいました。
御子イエスキリストが十字架で捧げてくださったその命、その命によって私たちの罪が許され、私たちが買い取られ、あなたのものとされ、それだけではなく三日目に産め返られた復活の命、永遠の命を私たちに与えてくださり、永遠なる死と結びつけられ、もはや切り離されることのないという、そのあなたの恵みの世界へと私たちを招いてくださったことをありがとうございます。
あなたはもはや自分の足ではなく、私の恵みによって歩めと私たちを日々招いてくださり、私と共に御国を築こうと私たちに使命を与えてくださいます。
どうか私たち一人一人を、あなたの御言葉によってこの時にまた整えてくださり、それぞれの戦い、重荷がある最中にも、あなたの力強い御手が常に下にあることを覚えさせてくださって、勇気をもって死を仰ぎ、祈るこの時とさせてください。
お願いをいたします。御言葉を開いてくださいますように。特に、祈られたように、世界では本当に目に見える戦争だけではなく、目に見えない様々な争いが起きてきています。
ただ主よ、私たちはこれが神の思いからなのかということをいつも探りながら、そうではないのであれば主よと、あなたの正義を実現してくださいと祈るものです。どうかこの世界の誠の王である主御自身が、この世界の威勢者のうちにも働いてくださいますようお願いをいたします。
これからの時を御手に委ねます。御言葉を主が開いてくださり、あなたの声によって立たせてください。イエス様のお名前によってお祈りをいたします。アーメン。
今朝から2025年度が始まってまいります。毎年言うことですが、今年度も加藤美鶴と彩名は宮谷教会に派遣をされましたので、また一年よろしくお願いをいたします。
この後、役員任命式を行いますけれども、今年度もそれぞれ、私たちは神様の召しに従って歩ませていただきたいと思うんです。
私たちがそれぞれ置かれている家族という交わりであったり、また今ある働き、お仕事であったり、人間関係も全てそうですが、それは神様が私たちを召しておいてくださっている場所ですね。
だからこそ、そこにはそれぞれ主が与えてくださる使命があるんです。
それに一緒に歩んでいきたいと思いますが、ただそれぞれ違う使命があったとしても共通するものがあるのです。
実はそれが今朝読んでいただいた箇所です。
それぞれの使命、それぞれの道があったとしても、全てはこのことに関わっているというのが今朝のこの箇所です。
それはイエス様がお答えになられた二つのことです。
第一に、あなたの心を尽くし、命を尽くし、知性を尽くして、あなたの神主を愛しなさい。
第二に、あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。
祈ってくださいましたが、まさにこの今しめが神様の教えの根幹であり、
全ての立法、いえキリスト社の使命はこの今しめに奉公づけられていると言っても過言ではないのです。
それだけに大切なこの言葉を年度初めにご一緒にまた覚えたい、見つめたいとそう願っております。
この箇所から二つのポイントでまた今朝もお話をさせていただきます。
第一に、この箇所からわかることは、私たちは知っているけれども生きることが難しいお互いであるということです。
今朝の箇所に少し入っていきますが、この読んでいただいたこの立法の中で一番大事なものは何ですかという二つの教え。
これはマタイ、マルコ、ルカでイエス様はおっしゃっていますが、特にマタイとマルコではこの神位というかこの置かれどころが大事です。
と言いますのも、イエス様はすでにエルサレムに入城されて、神殿というところでサドカエハやパリサエハや立法学者と議論を重ねているんですね。
22章の15節にありますが、彼らはイエスを言葉の罠にかけようと相談していたわけです。
けれどもそのためにカエサルの税金の話であったり、復活についての問答だとかがこの後出てくるんですが、
しかしイエス様を試みようとした彼らは逆にイエス様を罠にかけるどころか、イエス様に激しく言い換えされるんですね。
22章の29節というところには、あなた方は聖書も神の力も知らないので思い違いをしていますと激しく批判されるんです。
あなたたちがそんなことを気にして私に言ってくるのは、聖書も神の力も知らないからだ。
じゃあイエス様と、じゃああなたは聖書も神の力も知ってるんですかと言わんばかりに問いかけたのが、実は今朝の34節からの言葉です。
これはエルサレム神殿でのイエス様とパリサエハや立法学者たちの対決のクライマックスに置かれるんです。
じゃああなたは本当に大事なことを知っているんですか。
その問いかけが36節ですね。
先生、立法の中でどの戒めが一番重要ですかと問うのです。
神の教えの根幹をあなたは何だと考えるのですかと。
その答えがイエス様がおっしゃられた先ほどの2つの答えですね。
改めて聖書の言葉を読みますと37節から、イエスは彼に言われた、
あなたは心を尽くし、命を尽くし、知性を尽くして、あなたの神主を愛しなさい。
これが重要な第一の戒めです。
あなたは隣人を自分自身のように愛しなさいという第二の戒めも、それと同じように重要ですと。
最後まで読んじゃいますね。
この2つの戒めに立法と預言者の全体がかかっているのですというのです。
私たちからしたら何か聞き馴染みのある、まあそうだよねということなのですが、
このイエス様の返答はこのパリ最早立法学者にとっては実に鋭い返答なんですね。
どういうことかと言いますと、
例えばこの第一のイエス様の戒めというのは、これは皆さんよくご存知の通り、
新明紀6章の4節から5節の引用です。
ただこれは単に旧約の引用というだけではなくて、
実は当時のユダヤ人たちは、この聞けというのがヘブル語でシェマーと言うんですけれども、
このシェマーという名前の祈りにして、シェマーの祈りということで、
彼らはこの時代のユダヤ人たちは今もそうですが、朝に夕にこの言葉を祈っていたのです。
毎日、毎朝夕に。
それだけじゃないです。子供が生まれた時にもこの祈りをします。
今日みたいに子供が成人した時、進級した時もこの祈りをします。
その人の人生が終わる時最後もこのシェマーの祈りをするのです。
新明紀6章の4節から5節をみな祈りとして唱えるのです。
ユダヤ人はそうやって生きている。
それは言い方を変えるならば、彼らの存在、彼らの命というのはこの言葉に乗っかかっているのです。
私たちの存在は全てをかけて、まさに神を愛するものなんだということが、彼らのアイデンティティというか大事なところなんですね。
これに加えてイエス様はあなたの隣人を自分自身のように愛しなさいというデビキの19章18節の言葉を並べています。
これも同じくらい大事だと。
ただ、この第一の今しめにこの二つ目の今しめをくっつけるというのは何ら革新的なことでも何でもないのです。
むしろ同じ新明記の中には、例えば、みなしごやキリューシャを助けなさいと言うことは新明記の住所に書いてあるわけです。
貧しい同胞には手を閉ざしていてはならないというのは新明記の住戶書に書いてある。
新明記をはじめ、デビキもそうですが、立法というのは神様を愛することと隣人を愛することというのは全く切り離されていないのです。
神を愛することが大事だと、朝に夕に祈っている彼らであれば、美立法の専門家であれば、そこに隣人を愛さなければならないという教えが付随していることは絶対に知っているはずなんです。知っている。
立法を読む者にはこれは自明のことです。イエス様は特別なことを言われたのではありません。
彼らが知っていた当たり前のこと、あなたたちが毎朝毎夕祈っているこのことはそういうことだよねということをここで言われた。
それがこの立法の専門家たちに鋭く刺さるんですよ。なぜなら、彼らは毎日神様を愛すると祈りながら隣人を愛して生きていないことが明らかだったからです。
信仰の実践と祈り
この23章以降にイエス様の言葉がありますが、それはそれに関する批判ですね。あなた方は神を愛すると言っているけれども、実は多くの人たちから奪い続けているではないか。
厳しいイエス様の言葉です。あなた方は偽善者だとイエス様は批判をするんですね。
ただ少し私たちもこの歌詞を読むときに、やはりその問いかけから目をそらせないなということを私は読みながら思わされます。
このイエス様の言葉は、私たちをもひるがえるならば、私たちをも深く探るものではないかなと思うんです。
私たちは知っている。しかし生きているかということです。知っている。しかし生きているか。どうでしょうか。
私はそういうことを神父に問われるときに、牧師ですけれども、そうですよ、私は生きてますよということは、なかなか言えない自分がいるなということを素直に認めざるを得ないです。
許したいと思いながら許せない人はいます。頭の中にこびりついて何回も戦う人はいます。
でもそこで向き合って戦っているのが私の現実ですね。私たちは知っているんです。私たちは知っています。
神の子である私たちは、私のことを全存在をかけて愛してくださった神様を同じように愛することが大事だということを知っているんです。
そして自分自身を愛する神様が私を喜んでくれているんだから、あの人のことも喜んでいるんだ。そう思ってその人のことを愛するということも知っています。
後にヨハネが第一ヨハネの四章十節でこう言いましたね。
目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。
その言葉も知っているんです。しかし、生きているか、いいえ、生きようとしているかと問われるときに、私自身ですが言葉がないなと思います。
パリサイ派やサドカイ派や立法学者がある種その矛盾を自分の中に抱えながらも、おそらく意識の片隅に追いやっていたような、そういう自分の中にある自己矛盾。
しかしイエス様のこの言葉は、この言葉で一気にそれを完全に彼らの前に差し出すんですよ。
神の教えはこの二つに全てがかかっているんだけれども、それにあなたはどう答えるんだということですね。
知っていると生きていることの間の隔てを、私たちは果たしてどう超えられることができるのでしょうか。
二つ目のポイントを見てまいります。それは、私たちはこの谷を越え背中を追っていくのだということです。
知っているということと生きているということの間にある隔てについて祈ったヘリナウエンの祈りというものがありまして、ちょっとご紹介させていただきたいと思います。
こういう祈りを彼は祈りました。
主イエスキリスト、生ける神の御子よ、罪人の私を憐れんでください。
私は自分で自分の霊的洞察に感心してしまいます。
たぶん私はほとんどのキリスト者より、祈りについて、黙想について、感想について、多くのことを知っているでしょう。
信仰生活についてたくさんの本を読みましたし、自分でも何冊か書きました。
それらに自分で感心しながらも、その洞察と実際生活との間の底なしの淵にもっと動揺させられます。
あたかも大慶告の一方の側に立ち、どうやってあなたを目指して成長し、見前で生き、使えようかと願いながら、
あなたのおられる向こう側に到達できないといった感じです。
そちら側にある生活の美しさ、素晴らしさについて語り、書き、説教し、論ずることはいくらでもできます。
しかし主よ、どうやってそちらに行けるでしょうか。
そちらがはっきり見えれば見えるほど、自分の前の慶告の深さに気づき、つらくなることがよくあります。
淵のこちら側にいたまま私は死ぬ運命なのでしょうか。
私自身がそこに行けないのに、他の人に約束の地に近づくよう励ます定めなのでしょうか。
時々私は自分の洞察や自分に与えられた霊的能力で身動きができないように感じます。
主よ、あなただけが私に手を差し伸べ、救ってくださる方です。ただあなただけです。
信仰を保ち続けることだけはできます。信仰があると全く感じない時でもです。
祈り続けること以外、私に何ができましょう。
安短とした暗い気持ちの時に、あなたについて書き続けることで祈り、心が鈍っている時、あなたの皆によって口に出して祈り、一人ぼっちだと感じる時も祈ります。
来てください。主イエスよ、来てください。
罪人である私を憐れんでください。
アーメン。
そういう祈りがあります。私はこの祈り好きで、新学生の時によく慰められました。
知っていると、生きているとの間には大警告があるように感じると彼は祈る。
私はその祈りは真摯だなと思います。
ただこの深い警告を私たちは果たして超えることができるのでしょうか。
イエス・キリストの教え
仮にそれが深い谷であるということを想像する時に、やはりそこに橋があればなと思います。
私たちがもしもそのような谷を越える橋を渡ることができるならば、その橋を架けるには先にその深い警告を下り、沢を越え、その谷を登ってそこに橋を架けてくれる人が私たちには必要なのではないでしょうか。
聖書が語るのは、イエス・キリストこそが命を尽くして神を愛し、自分自身を愛するように隣人を愛されたただ一人の人間なんだということを聖書は語るんですよ。
この第一と第二の今しめを惑うことなく生き抜いたお方こそがイエス・キリストなんだと聖書は語ります。
そしてその極致、その結果こそが十字架であると聖書は語る。
そしてそのように最後までこの今しめを生き抜かれて十字架で死んだイエス様を神様は忠実なものと認め、よみがえらされました。
そして私たちに聖霊様を与えてくださったというのは何かというと、それはまさに死とよみがえりというのがこの谷を下り登るかのように。
私たちがこの大渓谷を越えていくための橋を主は架けてくださった。主が私たちのために道を備えてくださった。
それがこの十字架と復活の御業ではないでしょうか。
それはなぜなのか。イエス様の後に続く私たちもまたイエス様と共にイエス様のようにこの大渓谷を知っているだけではなく、生きていくその歩みを歩むためにイエス様は私たちに道を備えてくださったのではないでしょうか。
神様を愛し、自分自身のように隣人を愛するという歩みは何度もつまづく道です。何度もつまづく道です。時に過酷な道です。しかしここを通らなければ癒されないような道でもあります。
その歩みに私たちは招き入れられているのですね。
ピリピリトへの手紙のメッセージ
もう一つ覚えたいのは、そのことが端的に記されているのは、いろいろ開いて申し訳ないのですが、ピリピリトへの手紙というものです。
ピリピリトへの手紙の皆さんよくご存知かと思いますが、ピリピリトへの手紙の中心は何かというと、2章の5節から11節にあるキリスト参加です。
キリストは神であるのにこのように生きられた、だからあなたたちもそのように生きなさいというのがこの手紙の言いたいことですけれども、まさに端的に言えばそれは2章の5節ですよね。ピリピリトの2章の5節。
よくご存知だと思います。
キリストイエスの内にあるこの思いをあなた方の間でも抱きなさい。文語訳ではキリストイエスの心を心とせよという言葉でしたよね。
キリストイエスの心を心とする、知っているだけではなくてそれに生きていくということ。容易なことではない、私たちではできないのだけれども、パオラはそのについての支えが12節13節にこのように彼は語るんですね。
こういうわけですから、愛する者たち、あなた方がいつも従順であったように、私が共にいるときだけでなく、私がいない今はなおさら従順になり、恐れおののいて自分の救いを達成するよう努めなさい。
神は御心のままに、あなた方の内に働いて、志を立てさせ、ことを行わせてくださる方ですと語りますね。神様に救われた私たちはまさにキリストの心に近づいていくように救いを達成しなさいとパオラは語りますけれども、
ただ私この箇所で一つ注目したいのは、12節の中にある恐れおののいて自分の救いを達成しなさいという言葉があるんですよ。恐れおののいて。単に恵まれて感謝ですって言ったらいいんですが、しかしここに恐れおののいてとあるこの言葉はギリシャ語では震えるという言葉です。震える。
それは、神の絶大な臨在、神の絶大な力強い力、神の力強い御業に対する威敬や尊敬に対する震えです。神の臨在、神の絶大な力に対する威敬や尊敬による震えです。
私たちは大事だと知っていても、そうは言い切れない。自分を責めては大慶告を前に、もう私はダメだと思うことがあるかもしれません。しかしパオラは言うのです。あなたは神の前に震えているのかと。
神の臨在、神の絶大な力強い御業があなたに対して無力であると本当にそう思うのかと。恐るべき神の御力、私たちは本当は震えるべき神の御力を、私たちはそれぞれ小さく見積もってはいないだろうかと私たちは問われるのですね。
パオロは神の前に震えなさいと言うのです。神の御力が私たち自身には無理で何度も諦めるんだけども、神の御力があなたの内に働いて新たな心を創造するのだ。神がそうさせてくださるのだと、13節ではそう語りますね。
キリストイエスの心を心とするというこの私たちの歩み、知っているから生きるに移るという歩みは時間がかかるものです。昨日、新学校の入学式に参加をさせていただきました。そこで校長の鎌野直人先生がこういうお話をされていました。
神の愛と力
新学校というのは、あなたの靴を脱いでキリストの靴を履く場所ですと。他人の靴を履くためにあなたたちは入ってきました。あなたの靴を脱いでキリストの靴を履きなさい。他人の靴というのは最初は違和感があるだろうと。
もう履いていてもなんか気持ち悪いからこれは脱ぎたいなと思う時もあるだろうと。けれど履き続けなければそれに馴染むことはできないし、それは他人の靴だから気持ち悪いと言って履き始めなければ、あなた方はキリストへの道の一歩を進み出すことはできない。
私はすごくなんか、私がそうだなって思わされました。新学校に入ってからもそして牧師になってからもずっと問われるのはそこですね。あなたはキリストの靴を履いているか、自分の靴に固執していないか。私たちは知っているのです。しかし今朝問われるのは、それに生きているか。いいえ、生きることは簡単ではないけれども、生きようとしているかということではないでしょうか。
私たちは知っているだけで十分である。それに向き合い生きるということは、もう私の話ではないんですということであれば、イエス様は今朝私たちに完全にこの二つの教えを出されるんです。
すべての神の教えは、神を愛し自分自身を愛するように隣人を愛するという、この二つのことにかかっている、そこにあなたたちはどう答えるのか。ただ私たちは今朝二つのことをご一緒に覚えたいと思います。道はあるんです。道はすでにイエスキリストによって開かれたんです。
イエス様が私が道であり真理であり命であると言われた時に、私たちはこの大渓谷を越えるための道はすでに整っているんです。それは時間がかかるかもしれません。しかし私たちがその谷を越えるために、御子イエス様が十字架に進み、よみがえられたのです。
それは矛盾のある私たちを愛し、長い時間をかけてその矛盾を溶かし、限りなく偽りなく神の前に人の前に立たせるためです。そしてもう一つ私たちが覚えたいことは、神の絶大な力がそれをなさしめるということです。
だから私たちは絶望しない。神の愛、愛は私たちの最善を願います。私たちはどうなってもいい、天国にさえ来たらいい、そんなことを神様は思わない。愛は私たちの最善を願う。神様は私たちを罪から解放したい。私たちを自由にしたいと願われ続けるんです。
主にあって過去は過ぎ去ります。私たちは新しくされ続けます。主の御前に私たちは今朝、御一緒に震えながら、しかし同時に主が備えてくださった道を御一緒に進みたいと思うのです。イエス様と共に、イエス様のように、その心がお一人一人のうちに築かれていく年度となりますように、そのことを願っております。一言お祈りをしてメッセージを終わります。