1. 名谷教会
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2020-01-05 36:26

2020/01/05:さあ、礼拝に行こう

2020/01/05 聖日礼拝

尹善鎬牧師

詩篇 132:7


00:01
みなさん、あらためて新年あけましておめでとうございます。
新年あげまして、今日初めてお会いする方々いらっしゃいますけれども、
今年もこのようにして、新年の最初の誠実を、主が信仰と健康をまだ守ってくださって、
主の教会を守ってくださって、一緒に礼拝できますこと、本当に感謝いたします。
では、メッセージの前に、よろしかったら、周りの方とですね、挨拶を交わしましょうか。よろしくお願いします。
ありがとうございます。一応お祈りいたします。
さあ、主のすまいに行き、主の足台のもとに、しれふそう、あめ。
主を今、私たちは、主の足台のもとに、しれうっております。
どうか、私たちのこの礼拝が、本当に主を愛する心から捧げておりますので、
どうか、あなたの美顔を照らし、あなたの愛と慈しみを、私たちに豊かに豊かにお与えくださいますように。
そして、この朝、行ける次は、本当に、この礼拝を通して、神の豊かな恵みに預かり、
心は清められ、希望に満たされ、キリストの命に生きるものとさせてくださいますように、お願いをいたします。
神様ご自身が、おりとりおりとり、初めての人、旧徒の方、あるいは新党の方、みんなに、
精霊様ご自身が、悟りと気づきを、真理を教えてくださいますように、お願いをいたします。
主よ、よろしくお願いいたします。
イエス様の皆によって、お祈りいたします。
アーメン。
アーメン。感謝します。
簡単礼拝に続きまして、今日、この信念・感謝・聖三・聖日礼拝を共にお捧げできますことは、
03:00
簡単な礼拝にでもお話しましたように、これは当たり前のようなものではなくて、
本当に、神様のお守りがあって、助けがあって、支えがあって、
教があるということを改めて、覚えて、感謝したいというふうに願っております。
今日は第一、聖日礼拝ですので、また今年のね、最初の聖日礼拝ですので、
私たち一人一人に、あるいは、明太に、教官に、どういう御言葉が必要であろうか、
祈りを持って備えているうちに、
今日、タイトルを決めさせていただきましたけれども、
さあ、礼拝に行こう。さあ、礼拝に行こう。
このタイトルに、今日のメッセージのポイントが全部含まれていると、
今、私たちに必要なのは、神道の皆さんにも、あるいは、救度者の皆さん、
あるいは、教会に来てまもない方々の上にも、この生きる宗、神様を礼拝するこの礼拝そのことだと思わされました。
何より、今年、私たちみんなが、この礼拝の恵みをですね、豊かにお受けする一年でありますように願っております。
礼拝の中で、生きておられる主にお会いして、主の御声を聞きつけ、主を賛美して、主を喜ぶ一年でありますように願っております。
今日は大きく三つのことをお話したいと思います。
まず第一は、礼拝の恵みをしたい求めようということですね。礼拝の恵みをしたい求めようということです。
今日の朗読していただきました詩編という詩が、150編ありますけれども、その中の132編、この詩編は、小題に書かれているように、都を上りの歌となっていますね。
つまり、都はエルサレムである。そのエルサレムには神殿があるわけなんですね。
つまりこれは、礼拝に行く、そしてその上る、その人々が歌う賛美であるということであります。
そこで今日の七節をですね、声を合わせてみんなで一緒に読みましょうか。
短いですけれども、七節みんなで一緒に読みますね。前のことを説明してもらいますか。
06:02
一緒に読みますね。
さあ、主の住まいに行き、主のあしだいのもとに、しれふとあめ。
主の住まいは、神殿、あるいは教会、神様がそこにおられるということの、このユダヤ人特々の表現なんですね。
住まいということです。そこの、そこに神の臨在がある、主がそこにおられるという意味ですね。
そこに行きましょう、ということです。
そして、主の足もとに、あしだいのもとに、しれふして、しれふそうとありますけれども、
このしれふすという言葉は、他の聖書ではね、礼拝行という言葉に訳される同じ意味であります。
イスラエの人々は、さあ、主の住まいに行こう、主がおられるところに行こう、主の教会に行こう、
そして、そこで、主の足もとで、礼拝しようとですね、歌いながらね、神殿に、エルサレムに登っていたわけですね。
エルサレムはちょっと丘の上にありますからね。
みなさん、今日どうですか。明太の教会にもちょっと丘の上にありますけれども、みなさんも今日、礼拝に来るときに、
さあ、教会に行こう、主の身もとに、しれふそうという歌いながら来られたんですよね。
違いました?ぼーっとして、一瞬の間にか見たら、自分が教会に来てますか。そんなことないでしょう。
この詩編には、特にこの礼拝の恵みを、この主体求めるその人々のその歌がですね、実はたくさん書かれているんです。
もう詩編全部がそれだと言っても過言ではないほどですけれども、全部読めませんので、
その中で、いくつかの歌詞を外で、聖書をお持ちの方は一緒にですね、開いて読みたいなと思います。
まずね、詩編の四十二篇一節、九百四十六ページです。九百四十六ページ。よろしいですか。
そこのですね、一節を一緒に読みたいと思います。
司歌が谷川の流れをしたいあえぐように、神よ私の魂はあなたをしたいあえぎます。
この人々は、司歌がですね、もう喉が渇いて渇いてしてにそうです。
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それほどこの水をもしたいあえぐように、神様私の魂があなたを恵みなくしては生きられないからあなたをしたいあえぎますというね、本当に素晴らしい言葉であります。
次の歌詞を読みましょうか。同じ詩編の六十三篇一節、九百六十五ページですね。九百六十五ページ。六十三篇の一節、一緒に読みますね。
神よ、あなたは私の神、私はあなたを切に求めます。水のない砂漠の衰え果てた地で、私の魂はあなたに渇き、私の身もあなたを浸って気を失うばかりです。
どうですか皆さん。もう神の恵みをですね、神様ご自身を切に求める、その切に求めるその人の魂を自由的な表現ですね、もう砂漠のように上渇いている、あなたの恵みによって潤してもらいたい。
それでですね、もうあなたに渇いていますよ。夏にもうガンガン照り入るそういう日にですね、もうカラカラ渇いて渇いて、もう水の水でもですね、もう飲みたいほどの、それほどの、もう砂漠のように一緒に渇いている。
それほど素を求めることなんですよね。どれくらいなのかこの紙編の記者はちょっと面白い表現を使っていますね。私の身もあなたを浸って気を失うばかりです。もう気を失うほど私はあなたを浸っていますよ、求めていますよということです。
今日私たちがこのような心を持ってここに集まっているんじゃないでしょうか。主よ、私はあなたの恵みなくしては、この礼拝の恵みなくしては生きられません。あなたの恵みなくしてはもう砂漠のようなものです、渇いています。主よ、あなたの御言葉で私を潤してください、満たしてください。その願いを持って皆さん、今日ここに集まっていらっしゃるんじゃないでしょうか。
12:01
紙編の84編の2節、990ページですね。
紙編の84編の2節、一緒に見ましょうか。
私の魂は主の大庭を肥え立って生えるはかりです。私の心も身も生ける神に喜びの歌を歌います。
アーメン。皆さん、これは私たちの心を信仰を表しているんじゃないでしょうか。主の大庭、主の教会の意味なんですよね。主的に例えてですね。
もう本当に肥え立っている。主にお会いしたい、主を賛美したい、主を礼拝したい。そこにこの人はもう燃えてますね。
そして私の心も身も生ける神に喜びの歌を歌います。皆さん、この1年、1年だけではないですけれども、一生このように主を期待求めて、そして心も身も生ける神に喜びの歌を一生歌っていこうではないでしょうか。
ハレルヤ・アーメンでしょうか、皆さん。そう願っておられますでしょうか。私たちにこれが本当に必要なんです。
まことの礼拝者は神を求める、神の御化を求めることです。皆さん、礼拝において第一は神を求めることです。
そしてその礼拝を通して私たちに与える神の恵みを、何より皆さん、この礼拝を通して生きておられる神様にお会いすることが私たちが礼拝する最も大事な目的なんです。
これが一番大事なことなんです。生きる神様に、生きておられるイエス・キリストに、精霊様にお会いすること、そしてその方の臨在の中に私たちが留まっていること、このような礼拝者でありたいんです。
両谷教会で行われるこの一年の礼拝が、皆さんお一人お一人の礼がそのような礼拝でありたい。先の御言葉のようにも砂漠のように血を失うばかりのこの渇きをもって、熱さをもって、礼拝の恵みをしたい、求めていこうではないでしょうか。
15:07
そして、もう誠実礼拝が待ち遠しくて待ち遠しくて、もうたまらない。もう礼拝が喜んで感謝して、主の大庭で主の教会で神にお会いすることをね、もう考えるだけでも土曜日の夕方からもうワクワクする。
そんな礼拝者でありたい、そういう期待を聞くのを見たい。
皆さん、このようにお祈りください。神様、あなたを支配求める心を私に満たしてください。
主をあなたに満たしていただきたいこの願いをまず私にそれを起こしてください。そして、礼拝において生きる神様にお会いしたいその願いを起こしてくださいと、そういうふうに祈りをもってね、月曜日から土曜日を祈りをもって誠実礼拝を目指して歩んでいこうではないでしょうか。
ひらかなくていいですけれども、詩編の107編の9節にこういう言葉があります。
まことに主は渇いた魂を満たらせ、飢えた魂を良いもので満たされた。
私たちが渇いて、飢えて、死の恵みを求めるならば、主はどうしてくださるんでしょうか。満たしてくださる。満たしてくださるんですよ。
今年は私たちがこのような、主が私たちの渇いた魂を満たらしてくださる、良いもので満たしてくださるその恵みを、その臨済を一緒に経験していこうではないでしょうか。
それを求めて祈っていこうではないでしょうか。
そして、この一年が経って、年末になりますと、本当に今年は生きている神様にお会いして、私が変えられました、私の魂が潤されました、
死の深い御臨済の中で毎回の礼編ができましたとお明かしできる、私たち一人一人であったり。
そう願って祈りましょう、皆さん。よろしいですか。
二番目、礼拝のために心も体も魂も備えましょう。備える信仰です。
皆さんこの世に溢れる礼拝の恵み、礼拝を通して満たしてくださる神の恵みと祝福をいただくためには、
私たちに本当にこの敬虔な習慣、清い習慣が本当に必要なんです。
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特に備える習慣が本当に必要なんです。備えること、準備することなんです。
昨年、日本は打首の熱い風が日本中を吹いていましたけれども、
ちょっとだけテレビで視野で見たことがありますけれども、
本当にすごい彼らの体力、あるいは精神のことを言うか、チームワークを言うか、
本当に勝とうとするスキルなりに、それは一晩で出来上がったものではないと思うんです。
練習に練習を重ねて重ねて訓練して、たぶん骨が折ったり筋肉が切れたり、
そんなことの中で基礎体力運動を毎日して、ウェイトトレーニングを毎日して、
ランニングをして、あるいは相手のチームのいろんなことを分析しながら、
いろんなことを組んで組んで、準備して、練習して、練習試合もして、そして本番に彼らは出たと思うんです。
それでいい成績が出来たんじゃないでしょうか。
もし彼らが週に一回適当にボールを蹴ったり、適当にランニングを100メートルぐらい走って、
3日やってちょっとしんどいな、やめようと、何とか本番に出たら何とか出来るだろうと思って出来たら、何も出来ないと思う。
予選でも負けてしまったと思うんです。
皆さん、礼拝というものは、私たちが勝ち取るべき、そこに最後の勝ち。
そしてこの礼拝は、私たちが祈りを持って、備えて、そして勝ち取るクリジャンがその礼拝の恵みを存分に味わえるんです。
その人こそが、礼拝の恵みを守ることが出来る。
その恵みをいただける、味わえることなんです。
例えば、私は何がどうあっても、礼拝を守る、決心する。
礼拝の恵みを譲ることはしない、こういう決心を持って今年一年歩んでいこうではないでしょうか。
今日も皆さんがこのような決心を持ってここに来ておられますし、
21:00
あるいは数十年の間、礼拝を何がどうあっても、守って守って来られて今日があるのではないでしょう。
皆さん、礼拝というものは、目に見えない礼儀的な戦いがあるわけなんですよね。
神様は喜ばれますけれども、悪魔とさは良しと思わないんです。
そしてあたたけを妨げようとするんですね。
妨げようとする、目には見えないんですけれども。
だから本当に良い、清い習慣を持って備えていこうではないでしょうか。
まず祈りを持って備えることですね。
神様、私が礼拝を守れるように、私の心に平和を守って下さい。
私の精神を、体を、健康を、家庭を、家族を、死を守って下さい。平安を守って下さいと祈って下さい。
私の家庭を、私の身の回りを、私の仕事も、死を本当に守って下さって、
全ての状況を守って下さって、礼拝が出来ますように、死を助けて下さいと祈って。
死を本当に神の礼拝のために、私の体も心も全て清めて守って下さいと一週間ずっと皆さん、祈って備えていきましょう。
このようにして礼拝を勝ち取る信仰をお持ちいただきたい。
皆さん、こういう経験がある方もいらっしゃるかもしれません。
月曜日から土曜日の朝までは元気でしたけれども、
土曜日の夕方になったら調子が悪くなる。
土曜日の夕方になったら心に平安が揺さぶられる。
土曜日の夕方になったら夫婦喧嘩をしてしまう。
土曜日、日曜日朝になったら何か忙しいことが起きてしまう。
もちろん、もちろんね、偶然たまたま起きることっぽもしれませんけれども、
だから、私たちは目を覚ましておいて、私の心、家庭、夫婦関係、親子関係、仕事関係、すべての私を守って下さい。
私はあなたを求めて、上渇いていますからと祈って備えてまいりましょう。
その私を誓う心、礼拝を期待する心、それを私がご存知ですから、
文子と申しますけれども、主よ、私の魂に礼拝を誓う心をお与え下さい。
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主よ、私の心の平安を守って下さい。
あなたの礼拝の恵みを妨げられることがないように、主よ、私を守って下さい。
と、一週間、祈って備えて、備えて、礼拝に臨もうではないでしょうか。
この軽減なき良い一週間をもって、この一年を歩んでいきたいです。
そんな方は一人もおらないと思いますけれども、なんとか、日曜日に元気だったら福岡に行こう、行けたら行こう、じゃなくてですね、
ぜひ皆さん、今週から実践していただきたいです。
この一週間目、礼拝のために、祈りをもって備えていきましょう。
妨げられることがないように、悪魔さかにもて遊ばされることがないように、主よ、私の魂、私の心、唇を、身体を、状況を、仕事を、家庭を、主よ、守って下さい。
そして、本当に礼と誠をもって、主よ、礼拝できるように、主よ、守って下さいと、祈ってみて下さい。
違います。礼拝の恵みが違います。
3番目、礼拝第一の信仰をお持ちしましょう。礼拝第一の信仰。礼拝が第一である。その信仰をお持ちたいんですよね。
聖祖の人物の中に、神様に祝された人々は、みんなが、礼拝を第一にする信仰の人々でした。
創世記にアブラームという人が出てきますが、その人はカルディア・ウルを離れて、カナンの地に初めて来た時ですよ。
彼が一番最初に何をしたか、皆さんご存知ですか。
十二章の八節をあそこらへんを見ると、彼はまず祭壇を築いて、宿の南に寄って祈りました。
また移って同じことをしました。
アブラームがカナンに来て、一番最初にしたのは、祭壇を築いて、まず神を礼拝することなんです。
アブラームにとって、第一は神を礼拝することなんです。他より。
あるいは、旧約聖徒にダビデ、デイヴィ、彼の一生の願いは、神の神殿を建築することでした。
27:00
しかし結果的には、彼は全部準備して建築したのは、息子のソロモンの時代でしたけれども、
でもダビデが、なんでそんなに神殿を建築したかったのか、自慢するためじゃない。こんなにでっかい神殿ができましたよ、じゃないんです。
神を礼拝したくて、このイスラエルに神の臨在に見せあうれることを、そんなに願っていたから、もう神殿が建てたくてたまらなかった。
それほど神の臨在を主体に求めていたんですよね、ダビデは。
皆さん、だからこの新編を読みます。ダビデの支援がもう半分くらいだと思いますけれども、どれだけね、この礼拝を期待して、求めて、その恵みを受けているのか。
このダビデが、この礼拝をしたい、求める心を、例えばもう富士山くらいの大きい山くらいの大きさだとしたら、私たちの神をしたい、求める心の大きさはどれくらいなんでしょうか。
負けないくらい大きいでしょうか。礼拝を第一にするものを主は祝福してください。そしてそれができるように主が全てを守って守ってください。
ちょっと私の昔のお話をちょっとさせていただきたいと思います。私は高校三年生のときの話です。1987年の話ですが、そんなに成績優秀なものでなかったんですけれども、
なぜかそのとき、文系理系を含めて10クラスありましたが、各クラスごとに4号目を選んで、日曜日だけ特訓クラスみたいなものが作られて、なぜか私の名前がそこに入っていたんです。
不思議だなと思って。でも、その学校のレベルを上げるために学校が必至でした。先生たちが家庭教師みたいに個人指導をしてくださる、成績を上げていい大学をたくさん送って、
学校の正門にどこどこ、日本だったら東大みたいに掲げるでしょう。そういった学校のレベルを上げたくて、あの年も必至でした、先生方。それでたぶん私がその特訓クラスに入ったら、たぶん成績も上がって、もっといい大学に入れたかもしれません。
でも、それがいつあるのか。日曜日にあるんです。そうすると、1年間、朝7時から夜10時までするんだから、礼拝にどうですか。行けなくなるんです。どっちかを選ぶかということになるかもしれません。
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あるいは周りから、高校3年生だから、受験生だから、1年ほど礼拝休んで、大学に行って、いい大学に行って、そしてまた頑張れば神様が喜ぶんじゃない。そういう話があるかもしれません。
ところが、その名簿が発表されたその日、私はクラスの初期でしたから、学級日誌を書いて、授業の後に法務室に行って、それを出すわけです。その日もそれを書いて、そのことを覚えて、私は考えることもなくも、行って先生に言いました。
先生、一つお話があります。何だろう。実は私はクリスタルですので、そのクラスに、独身クラスに入れていただいて本当に感謝ですけれども、私は日曜日には教会に行って礼拝するほかにはできません。
すみませんか。私はいけませんので、ほかの人を入れていただけたらと思います。先生からですね、学級日誌でですね、頭をパーッとなだれて、アホか。黙っておりました。
それで私はそれを、私はもう中身が削除されて、ほかのものの名前が入っていきました。私はそのときに、そのことを今も他のことしかなと思っておりません。
少なくとも私は、あのとき、礼拝を守るために、世の中の人々から見れば愚かな道だったかもしれませんが、礼拝を守るために、私はその道を選びました。
私はクリスチャンだから、誠実礼拝を守ること以外にはしない。いくらそれが独身クラスであって、自分がもっと良いレベルな役に入ることができるかもと思っても、その可能性があったとしても、礼拝を譲ることはしないと思って。
私の人生の中で今も、神と礼拝のために良いことをしたなと自分で思っております。皆さん、神様を礼拝する人は、神様を礼拝することと他のことを天秤にかけて測ることをしないんです。そもそも。
礼拝に行こうか、どこかに行こうか、測ることすら最初からしないんです。天秤がいらないんです。神を愛する者は、何が一番大事なんだろうか、礼拝かこれか、それをしない。もう答えは決まっている。神様とこの方を礼拝することであります。
それでは終わりたいと思いますが、皆さん、やがてこの世の終わりが来るでしょう。
33:05
イエス・キリストが再び来られる。そして新しい天と新しい地が始まります。そこで神様と天使と救われた民がそこにいます。
そこで救われた生徒たち、あるいは見つかった秘蔵物たちがそこで何をするのでしょうか。新しい天と新しい地で、皆さん、生徒たちが救われた神々たちが何をすると思いましょうか。礼拝するんです。
最後には皆さん、神様と救われた秘蔵物と礼拝、この三つしかないんです。それほど礼拝は本当に大事なことなんです。
最後に一括だけ左でメッセージをやりたいと思います。
ヨハネの目試録五章、新約の一番最後の、生徒の一番左の端の方ですね。ヨハネの目試録、目試録と書かれています。五章の十三節、十四節、四百八十二ページです。
目試録五章、十三節と十四節、四百八十二ページです。一緒に読みたいと思います。
神と力が永遠にあるように、また四つの生き物は、アーメンと言い、そのたちは祈礼をして拝んだ、アーメン。祈礼をして拝んだ、礼拝した、そういう意味ですね。
みんなに座る方と子羊に、賛美と誉めと栄光と力が永遠にありますようにと賛美と招営を謳っているんですね。
目試録がありますよ。皆さん、やがて来る新しい天と、新しい生きる神様を礼拝すること、その恵みを今与えさせて、ここでそれを味わいさせていただいているんです。
だから皆さん、今ここで礼拝を貸し取って、礼拝に全身を尽くして、礼拝のために備えて、その恵みをいただく、味わえる、その恵みによって生きる、そのような2020年、この一年としようじゃないでしょうか。
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礼拝は命であり、礼拝で生きる神様にお会いし、その恵みで満たされる私たちでありたいと切に願います。お祈りします。
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