2023-05-21 26:29

#罪人大歓迎 23/5/21

マルコ-17からの礼拝説教。罪人(つみびと)は一体どういう人を指すのでしょうか。今日の箇所では、罪人を招くイエス様の姿、罪人とされていた人々への偏見とイエス様の愛のまなざしが見て取れます。イエス様は友なき人の友となったと言われる通りです。

1.ここでいう「罪人」とは、2.罪人と並べられる「取税人」とは、3.罪人を招くイエス、これらの3つの点を見てゆきましょう。最初の2点は説明的な内容になりますがそれはマルコの福音書を読み進める上でも、聖書を正しく読むためにも必要な一般教養の要素でもあります。さらにそれらがわかると罪人を招いたイエス様の福音の意味をよりよく知ることができるのです。

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バルト2章13節
イエスはまた湖のほとりへ出て行かれた。すると、群衆が皆、身元にやって来たので、彼らに教えられた。
イエスは道を通りながら、アルパヨの子レビが主税所に座っているのを見て、私について来なさいと言われた。
すると、彼は立ち上がってイエスに従った。 それからイエスはレビの家で食卓につかれた。
主税人たちや罪人たちも大勢、イエスや弟子たちと共に食卓についていた。
大勢の人々がいて、イエスに従っていたのである。 パリサイ派の立法学者たちは、イエスが
罪人や主税人たちと一緒に食事をしているのを見て、弟子たちに言った。
なぜあの人は主税人や罪人たちと一緒に食事をするのですか。 これを聞いてイエスは彼らにこう言われた。
医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。 私が来たのは、正しい人を招くためではなく、
罪人を招くためです。 以上です。今日はこのところから
罪人大歓迎と題して見事を取り継ぎます。 みなさんおはようございます。
5月も半ばを過ぎまして、早くも通路らしい感じっぽくなってしまいましたけれども、
先週日本では、広島のG7サービットが大きく話題になって、
ゼレンスキー大統領が電撃来日ということで、大きなニュースになりました。
そんな中ですけれども、ともに見言葉から学んでいきます。
今日のこの2章の13セッターの箇所、いつものようにこの場所を確認しますけれども、
このガリダヤ湖のほとりの出来事です。 癒しの奇跡によってイエス様の評判が広がって、
人々があふれ返るとイエス様は決まって寂しいところに行く、祈ったりされるんだと思います。
そういうパターンが繰り返されますが、これまではアラノに退いていたのですが、
今回初めて、このガリダヤ湖の湖畔に退かれた。 しかしそこに多くの人々がイエス様を追いかけてきたので、
イエス様は見言葉を教えたというわけです。 そしておそらく、
このカペナウムに、ガリダヤ湖畔ですけれども、さらにカペナウム内地にですね、
イエス様の伝道の拠点、イエス様の故郷のようなところに戻る時にですね、おそらくそこでイエス様は、
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主税人のアルパイアの子レビィを見かけて声をかけたようです。
弟子として招いたわけですね。 おそらくこのレビィは道端で行かう人々からですね、通行税を取っていた。
あるいはガリダヤ湖畔だったので、魚を取った漁師からですね、魚の税を取っていたと考えられています。
おそらく彼はですね、マタイという名前でイエス様の弟子になって福音書も書いたと考えられているんですね。
この今日のところはですね、住人を招くイエス様というテーマです。
友なき人の友となったという歌もありますが、そのイエス様の様子が今日の箇所で見て取れます。
ツイートされていた人たちへの偏見があったんですが、そこに対するイエス様の愛の眼差しが今日の箇所から見て取れます。
そして、そのことから今日は3つの点を見ていきますが、最初の2点は特にですね、説明になります。
言葉の説明で、ちょっと勉強的になりますけれども、これはマルコの福音書を読み進めていく上で大事な前提になりますし、
新約聖書を理解していく上でも、そしてイエス様の福音のありがたみというか深さを知る上でも、
大事な一般教養的なクリスチャンの人は、もちろんクリスチャンでない人でも知るべき要素だと思うんですね。
ですから、ちょっとしっかり覚えておいてください。その中の最初の2点のうちの1つ目。
ここで今日は罪人という言葉がたくさん出てきます。 じゃあその罪人とは、この文脈ではどういう意味かということを見ていきます。
読んでみましょう。2章15節。ちょっと読めるかと読んでみましょう。長いですけど3、はい。
【読手】それからイエスはレビの家で食卓につかれた 主税人たちや罪人たちも大勢イエスや弟子たちと共に食卓についていた
大勢の人々がいてイエスに従っていたのである。 ここではですね
この短い 13、14、15、16、17節、5節の間に主税人や罪人たちという表現が3回も出てきます。
そしてそれも含めて罪人という言葉がイエス様の言葉も含めて4回出てくるんですね。 今日のテーマは罪人を招くイエス様ってことなんですけれども
その中でですね、食事をした、当時はですね 座らないで寝っ転がってたようですね。
ちなみにちょっと皆さん今日座ってますけど、ちょっと配置変えてますので 見やすいところとか居心地いいところにちょっとだけ動かしてくださっても結構ですから
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まあそのようになさってください。 まあその今日の箇所、罪人ってことがテーマですが
2週間前、この見た箇所ではですね 1章の最後の部分でサラートの人の癒しということを見ました。
そこではイエス様が救い主として宗教的な清めをなさる方だということがわかりました。
そして順を手丸くは教えていく中で、先週見た箇所はこの中部の人の癒し
そこでイエス様が癒しを通して罪許す権威を持っている、そういう救い主だということが明らかにされました。
その上で今日はイエス様が罪人を招く救い主だ、 そのことがわかるわけですね。
さあ、その時にですね
罪人ということが出てきます。 じゃあここでいう罪人とは一体どういう人ですか?という聖書の背景を見ていくんですけども
そこでいう罪人とはですね 実際に罪を犯した人とは別の意味があるんですね
それはどういう意味かというと 宗教的に穢れていた人という意味です
それでそれについてですねイエス様を批判した パリサイビトは立法の専門家でしたけれども
その立法の専門家教師になったパリサイビト 何を問題にしたかと言いますとですね
彼らが何を専門としていたかというと
旧約聖書のレビキなんかに見られる清めの規定 そしてそれからですね歴史を経て
それをどうやって生活に実践していくかという 規定がたくさん先祖の言い伝えも含めて生まれてきたんですが
それを生活に適応するということはどういうことかということの専門家で それを人にも教え厳しく実践していた
そういう宗教的な清めを 規定を守ることによって実践し人々に教えていた人たちはこの立法の専門家です
よく私いますけれどもその中で特に食べ物の規定がありましたね それに従うと例えば私たちが
皆さんも多分大好きなんですね とんかつが食べられません天丼も食べられません
うなじゅうも食べられない エビカニタコイカを中心とする寿司もほとんど食べられない
でそれを食べたらもう汚れた違法人になるわけですね でそういうことなので
違法人はそういうものを食べて汚れているわけですから この立法の専門家は当然違法人とは交わらなかったわけです
それは自分もそれによって汚れるか そしてさらにですね先ほど見たこのザラーと患った人も
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まあ先々話しましたけどいろんな偏見は別として 宗教的に汚れてたとされていましたからやはりこの方々と立法学者パリサイビとは当然
守らなかったし地域の人たちも自分に汚れ 宗教的な汚れが及ぼすということでこのサーラとに侵された人は街の外に
追いやられてしまってたってことを見ましたよね で
繰り返しになりますけれどもこれらの理由のゆえに パリサイ人たちはこれらの罪人とされる人たち
違法人と関係があるような人たち 食べ物の規定をきちんと守って汚れを避けていなかった人たち
そういう人たちと接触することましてや一緒に食事をすることだと考えられなかったわけ ですよね
そしてまあ同胞のユダヤ人の中でも まあ地の人々いわゆる一般人今風で言うとパンピーですね
一般人で規定を厳しく守れない人たちをある目見下げて このパリサイビと立法学者の厳しい人たちは付き合いを避けていた
ということがあるわけです そんな中で立法の教師のようなイエス様が食事を共にしているとは一体何だったる
ことかという批判があったわけです 最初はその
ここでいう罪人という背景をよく覚えておいてください 宗教的な汚れを身に負った人たちを積み
まあもちろんですね後でも出てきますけれども 優女なんかもそこにも含まれてたわけですけどもね
で2番目 その
主税人と罪人と3回も繰り返されていた主税人 罪人と並べられる主税人とはどういう人ですかということを2番目に見ていきます
2章の16節にありますが 読んでいますね
パリサイ派の立法学者たちはイエスが 罪人や主税人たちと一緒に食事をしているのを見て弟子たちに行った
ここだけ読んでみましょうか3はいなぜあの人は主税人や罪人たちと一緒に食事を するのですか
2章の16節ですね積み人と並べられている 主税人ということにスポットを当てますここでですね
注目すべきことはさっき見た積み人ありましたね それとわざわざ並べて別に主税人という項目が設けられて批判されているということなんです
それほどひどい人だという意味合いがあるんですね 彼らはローマ帝国のために税金を取り立てる役割を
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おさん持っていました あのねさっきゼレンスキータイトルをって言いましたけど
昔ソ連という国がありましてね あのウクライナはソ連の一部でした
ソ連の正式名称はソビエト社会主義共和国連邦 その中にウクライナもあったわけですね
で共和国連邦の中のウクライナがあってそれが独立して今あのような事態が埋もれて しまったわけですが
同じようにこのイエスターの時代ローマ帝国の中にも かつてのいろんな国々があってその中にイスラエルという国があったわけですね
そしてそのイスラエルに住むユダヤ人から ローマはローマ帝国は税金を取り立てていました
どうやって言ったか ユダヤ人から税金を取り立てるために彼らはユダヤ人を使ったんです
なぜか 直接手を汚したくなかったんですね
でまずですねこの主税人はローマに決まったお金を 徴収して上に上納するんですね
けれども いくら取るかは主税人が決めて良かったんです
だからいわゆるピンハネですか 多く取ってローマに返さない分を自分の懐に入れていた
そして私服を肥やす人はどんどん私服を肥やした 先ほども言いましたけれども
ローマ人は手を汚さずにユダヤ人がユダヤ人から税金を取っていた
そういうわけですからこの主税人というのは同胞のユダヤ人から 征服者のローマの手下だと
このように批判的な目で見られているだけではなくて 私服を肥やしていた強欲な人間だというそういう批判の目にもさらされていました
そうやってユダヤ人から一般的に疎まれていった だけではないんですね
それだけではなくてですね まあ
宗教的には当然この 違法人と接点を持つわけですから汚れた人になるわけです
このようなまあひどい言葉で言うと売国土であり ピンハネをするこの貪欲な人であり違法人と接する汚れた人
そういう理由からですね 例えば主税人になった人はユダヤ人の裁判で承認として立てなかったんです
それだけではなくて ユダヤ人の共同体そしていつも出ているイエス様が教えた街道ですね
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そこから 追放されました
ユダヤ人社会にある目居場所がなかったんですね そしてその主税人に向けられた恥や批判というのは当然その
家族にも及んだ そのようなまあ
辛い立場にあったわけです その背景を覚えておいてくださいこれが主税人の立場でした
これ今話したことで さあそれに対して当然
立法学者パリスアイビと 批判したわけですがその批判を聞いてイエス様はこう言ったんですね
3番目は罪人を招くイエス様 これを聞いてイエスは彼らにこう言われた
この二重回観を読んでみましょう 3杯医者を必要とするのは丈夫な人ではなく病人です
私が来たのは正しい人を招くためではなく 罪人を招くためです
1章の17 これよく言われ有名なイエス様のこの言葉ですね
実はこのイエス様の時代ではですね これローマ時代の医者
様子の一つの絵なんですけども医学が相当進歩していたようです それで
あのローマにはですねちゃんと関わったんです下界 ゲーか
過別にね専門家がいて下化 眼科内科しか
産婦人化そういう専門家がもうすでにいたんですね でそういう私立用具みたいなものを発掘されて今でも見ることができるそうです
女性が本当に助産師となって産婦人会でもあったという記録もいろいろ残っ それだけじゃなくてですね
いわゆる勤務地によってもいろんな医療の分業が行われてましてですね いわゆる開業医もいたし公共の医療施設に勤める
公共の医者ってのいましたし軍隊に従属する軍医もいたし あるいは農園にまで行ってですね農民たちをこの癒す医者もいたそうですね
熱中症だとか言ったらなんか飲ましたりするかもしれません で
よく有名なのはですねイエス様が生まれた時の皇帝アウグスティスと言いますね 彼にはですね専門の医者が入ってムサという名前も知られています
で彼はですねこのアウグスアウグスアウグスティスがですね あの病気になったあの調べたらね観音を用といって肝臓に海が溜まる大病したそうです
その時にこのムサは 普通知られてなかった
a 意味ないとわかるけどこの体を冷やすという特別なんですね 治療法知っていてこのアウグスティスの体を冷やさせた
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それで癒したんですね それでその彼の地位がグッとあった
そういう あの腕利きの医者もいたようです
まあちょっと一般教で言いましたけれどもでイエス様はですねここで 正しい人って言ってますよね
これね皮肉です どういう人かというとですね
パリ西美党代表とする 自称正しい人です
で この正しい人は医者が必要がないというのはですね
自覚症状がないからいらないってみるんですちなみに私あの戦前週 健康診断ですね年に1回の言ってきて
簡単水庫見るんですね短席いっぱい溜まってますねー 弾放射線技師の人あの
この技師の人がですね あの間あの
ターン簡単水とかってなぜがんが発見しに来るかわかりますかって言ったんです それは内臓に神経がないから痛くないんです
なりたくなったら手遅れですっていうあっさり言うんですね だから
そういう待避をしていても自覚症状がなくてお医者さんに行かないということが起こる わけですよね
同じようにこのパリ西美党たちは自分が罪人だっていう自覚症状がない 正しいというそういう
思い込みがあるので救い主イエス様のもとに行かないよ来ないよということをイエス様 ここで案に示しているわけなんですね
けれどもこれまで見てきました 住み人のレッテルを張られていた人たち
その人たちはですね社会的に居場所も失っていたことも少なからずあったわけです そしてだおそらくですね
自分の罪という ものをまあ本来神と自分との関係の中にある罪というものも自覚していた人も少なからず
いたのではないかと思います でそういう中で社会的な居場所を失うばかりか
神様に自分を認めてもらうためにこの宗教的なルールを細かく守ることによっては自分は 神様の前で正しくなれず受け入れることができ受け入れてもらうことができないと思って
ですね もしかしたら神様さえも私を見捨てたと思ってしまったかもしれないわけです
あるいはですね私想像以上にすると主税人の中にもですねやっぱり自分の生活を送るために 主税人をやらざるを得なかった人ってやっぱりいたと思うんですよね
まあそういう 心の中でいろんな苦しみを抱えながら
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罪人というレッテルを張られ社会的に 神の前にも居場所がないとさえ思っていた人たち
そんな人たちを イエス様はですね私についてきなさいと弟子として間抜かれた
そしてそれだけじゃなくて 食事最初にしてくださるという本当に喜ばしいことが彼ら彼女らの上に訪れたというのが
今日のところなんですね まあそこで考えてみるとですね
まあ私たちは今日登場する 主税人とか社会的に罪人としてレッテルを張られた人たちとの共通点を見つけることは
難しいかもしれませんね 前提としましてですねこの社会的な偏見と罪ということを結びつけて考えては絶対それはいけない
ことなんですよね それは大前提として私たち特にクリスチャンであれば抑えとく
上でですね しかしその上で自分が神様の前に一人立つ人間としてこの例えば聖書から示された
神様の道にこう歩むことができない まあそういうね
自分に対して神様の前で見心を行うことができないという思いから神様から自分が遠く 離れているような感覚に陥ることがあるかもしれません
そしてですねもし自分が罪人だと思うことがあるならばそれはこのイエス様の招きを 福音として聞くことができるわけですよね
実はの4編について私なりに学んだり目処を知っている中で 4編のこういう言葉を見つけたんですね
119編の176ちょっと読んでみましょうか3 私は滅びる羊のように彷徨っています
どうかこの忍びを探してください 私はあなたの大瀬を忘れません
このあの有名な 神様の御言葉や見心を愛するっていう者119編の一番最後の節なんですね
そこでこの著者はですね私は御言葉守りたい立法を守りたいけど 実は滅びる羊のように彷徨っているんだと告白しているんですね
学者がそこをですね解説してこう言ってんですねこの作者は自分の力だけでは立法を 守り抜くことができない
神の見心のうちに生きるためには羊のように彷徨う自分を 羊飼いのように探し求めてくれる
神の導きなしには達成し得ないと認めていたのですと結んでいるんですね まさに
まあ積み人玉で言って言うかわかりませんが神の見心に を全うできない自分だからこそ神に自分を探し求めて導いてくださいという思いが
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この試編に込められている まあそのような試編を紹介しましたけどもまさにもし私たちがですね
同じような思いがあるならば まさに羊のように様子様よ私たちを羊飼いのように探してくださる
イエス様 そして積み人大歓迎してくださる
医者なる救い主イエス様その後を 歩んでいくお互いでやりたいと思うわけです
最後に この御言葉を読んで終わりしましょう
羊飼いのモチーフから 神の救いということを歌読んだ歌詞ですね
エゼケル34の16節ちょっと難しいんですがゆっくり 頑張って読んでみましょうかさんはい私は失われたものを探し
追いやられたものを連れ戻し 傷ついたものを解放し病気なものを力づける
超えたものと強いものは根鋭しにする 私は正しい裁きを持って彼らを養う
お祈りしましょう 天の神様なお賛美いたします
イエス様を 積み人を招く救い主としてこの地に送ってくださったことを感謝いたします
私たちはまさに医者を必要とするように 積みからの救い主イエス様を必要としています
どうかそのイエス様の招きの幸い 救いの幸いをさらに深く豊かに知ることができるように
どうぞ私たちを導いてください そのような私たちの歩みがどうか
私たちの周りの方々の救いとなることができるように私たちを用いてください この願いと感謝を私たちの救い主
イエス様のお名前によってお祈りします アーメン
それでは1分ほどそれぞれ 神様の御言葉に応えて黙祷する時間を持ちましょう
どうぞ1分ほど黙祷しましょう
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