1. 名谷教会 podcast
  2. 2011/11/27:聖日礼拝(旧音源)
2011-11-27 48:42

2011/11/27:聖日礼拝(旧音源)

2011/11/27 聖日礼拝(旧音源)


00:01
ご着席ください。聖書朗読をしていただきます。
聖書箇所は、紙編の第23編です。
旧約聖書の926ページを開きください。
では、藤田兄弟、よろしくお願いいたします。
聖書を朗読させていただきます。
紙編23編、旧約の926ページです。
お読みいたします。
主は、私の七辻階。私は乏しいことがありません。
主は、私を緑の牧場にふさせ、憩いの水のほとりに伴われます。
主は、私の魂を生き返らせ、皆のために私を義の道に導かれます。
たとい死の陰の谷を歩くことがあっても、私は災いを恐れません。
あなたが私と共におられますから、あなたの鞭とあなたの杖、それが私の慰めです。
私の敵の前で、あなたは私のために食事を整え、私の頭に油を注いでくださいます。
私の杯はあふれています。まことに私の命の火の限り、慈しみと恵みとが私を追ってくるでしょう。
私はいつまでも主の家に住まいましょう。
以上です。
では、聖歌隊に賛美をしていただきましょう。賛美の曲は、賛美歌21の236番です。
それに続きまして、内田牧師より、主の家に住む幸いと題してメッセージをしていただきます。
東の空に明けの明星光り
03:07
見張りの人よ、あの星こそが約束された時のしるしか
旅行く人よ、暗いこの世に平和を告げる夜明けが近い
光りの人よ、朝は来るのか
全ての恐れ、消えゆく朝は
旅行く人よ、恵みの光、やがてを照らす
見張りの人よ、眠るの、勤め顔は誓い
旅行く人よ、夜の光、やむ
終焉すは誓い、救いは誓い
皆さん、おはようございます。
今日もまた、神言葉をいただきます。
一言お祈りをして、今日の歌唱を開いていきたいと思います。
06:01
あなたの見前には喜びが満ち
あなたの見際には楽しみが常しえにあります。
恵み深い天の父なる神様、
こうして新しい一週間をここに開いてくださることを感謝いたします。
また特に第一アドベントを迎えて
主の御好談をさらに深く覚える時を備えてくださったことをありがとうございます。
見言葉を通してどうぞあなたの身旨をまた教えてくださり
そして見言葉の中に託されているあなたの教えとまた力を私たちに与えて
そして私たちもそれをしっかりと受けとめてここから出ていくことができるように
精霊様が私たち一人一人に語りかけ、また支えて
今日のこの恵みの時をともに過ごさせていただくことができるようにどうぞお導きください。
あなたの見前には喜びが満ちとあります。
私たちがこうして神とともにあえむことの幸いと
またそこに本当の喜びが心に満ちあふれることを願っています。
どうぞこの礼拝に来る前には
いろんな悩み苦しみ困難試練の中にあったかもしれませんが
この礼拝を通してもう一度主を仰ぎ主から力をいただき
また喜びが満ちあふれることを通して私たちを作り変えてここを出ていくことができるように
どうぞお導きください。
あなたの身義には楽しみが常しえにあります。
神様感謝をいたします。
私たちがこうして命を与えられこの生涯を生きていますが
どうぞその一日一日平安のうちに過ごせますようにそう願っています。
しかしいろんなことがありますし
人それぞれにまたさまざまな困難やまた試練がありますが
その中にありましてもそれに勝る喜び楽しみ祝福恵みがあることも確かであります。
そのことをどうぞこの礼拝を通して教えてくださるように
また教会を通して交わりを通してどうか私たちに喜び楽しみが満ちあふれてきますように
私たちが神を知らなければこのような喜びも楽しみもありませんが
神様私たち人としての本当のこの楽しみが主とともに生きることにあることを
今日も教えてくださいますように
今日の御言葉を期待します。
またそれを私たちの糧として私たちの魂を潤してくださいますようにお願いをいたします。
今日集うことができたお一人お一人の上にあなたの豊かな恵みと祝福が注がれますように
09:03
また中には兄弟姉妹の中には今日も体調が悪くなり
あるいは急な事情でここに集っていない皆さんもおられます。
その方々にもどうぞ神様が望んでくださいますように
そして癒されてそしてまたその妨げを取り除いて来た時には
共にあなたを礼拝そしてあがめることができるようにどうぞお導きください。
今から語りますがこの小さなものをも哀れんで最後までお支えくださいますように
私たちの魂が主を見上げそして御言葉を私たちの内にしっかりといただいて
そして祝福の内にここを後にすることができるように助けてください。
イエス様の尊い皆によってお祈りをいたします。
アーメン
今日からこのアドベントが始まります。
アドベントといいますのは主の降誕を迎えます。
主の降誕を祝福するその時いわゆるクリスマスを迎える前の四週
四つの日曜日を含めたその四週のことをアドベント対抗説
主が降りてくださったそれを待つそういう時期のことを対抗説
アドベントというわけですが
私たちがもし毎日毎日主が来てくださった
主がお生まれくださったそのことを覚えて感謝していくならば
毎日がクリスマスであるということ
このことは私たちの主を信じるものの特権であります。
毎日クリスマスケーキが食べられるからということではありませんが
主が私たちのために来てくださったということ
これがどれほど大きな喜びでありまた祝福であるのか
このアドベントを通して私たちは聖書からいろいろと学んでいきたいと思うわけです。
このクリスマスを迎えるにあたって確認したいことがいくつかあると思うんですね
一度に出てこないかもしれませんが
今日思いついたことを一つ二つ皆さんとともに確認したいと思うんです
聖書にはこの主が来てくださったそれがいつであるのかは書いていません
12月25日これは後にローマ教会がこの日をクリスマス主が来られた日としましょうということを決めたわけですね
12:02
聖書には一切そのことは日にちについては書いてありません
聖書が書いていないということはそれほど大事なことではない
聖書が書いているのはこれだけは何としてでも伝えなければいけない
とてもとても大切なことそれを聖書は書いているわけですね
いつでしたか先日2011年の11月11日この日に公約書に婚姻届を出しなさったカップルがたくさんいたそうですね
位置が並ぶというこういうのはなかなかないのでその日を記念の日としてそして婚姻届を出すというそんなことがありましたよね
でも2011年11月11日が尊いのではないのです
それはもちろん記念日としてそういう日が覚えやすいしそういう日を記念の日にしようとするそれはいいんですが
日にちは言わばそんなに問題ではない
その二人がこれから幸せにそしてこの結婚生活をどう送っていくのかそしてしっかりと二人が一緒にやっていこうという
誓ってそしてこれからの生涯を歩んでいこうというそのことの方がもっともっと大事なことであり
それが本来その二人が覚えなければならないということですね
ですから12月25日この日が聖書に書かれていないということはそれはさておいて
何が一番大事なのかそれはなぜ主が私たちのこの人間の世界に来てくださったのか
その人が人となって私たちのもとに来てくださったそれはどういう意味があり
そしてそこに私たちに対して神様は何を語ろうとしておられるのか
あるいはそこにどんな意味があるのかそのことを私たちはしっかりとこのアドベントを通して覚えていきたいと思うわけです
もう一つのことはこのイエス様が来られたということは既に予言されていたことが成就したということです
私たちは古今東西いろいろないわゆる教祖と言われるような人を知っています
何々教の誰それさんお釈迦さんにしろあるいはイスラムのマホメットにしろ
彼らは歴史上において突然現れたそういう人ですね
15:03
しかしこのイエスキリストというお方はいわば一元さんではないということです
歴史の中で突然現れた救い主ではないもうそれより既に遠い昔から
必ずこういうお方が救い主として現れなさるんだ
それを人々が待ちながら祈りながらそして備えながらそしてその予言の通りに来てくださった
そういうお方なのだ
そういうことにおいて他の歴史上の教祖とか言われるような人とは違う
もっと違うのはこれは神御自身が人となって来てくださったということ
そのことを私たちは覚えたいと思うんですね
そういうこともこのアドベントを通して何度も何度も繰り返し出てくるかと思いますが
皆さんはそういうことはよく御存じであります
本当は世界中のこの教会にそのことを知らなかった私たちも知らせていなかった
そういう人たちを前にして私たちはそのことを語りそして知っていただけたらなという
そういう思いがいつもあります
ですからどうぞこのアドベントクリスマスこの機会に家族友人知人
皆さん呼んで来ていただきたい
そして本当のクリスマスの意味を知ってそして本物のクリスマスを過ごしていただきたい
そう願うんです
私自身今はそんなことを言っていますがそれこそ三十数年間知らなかったんです
私は子供の頃一年中で何が一番楽しかったかうれしかったか
それはクリスマスだったんです
でもクリスチャンホームに生まれたわけでもない
キリストの木の地もない家族の中にクリスチャンも一人もいない
家の中には神棚も仏壇もあるようなそういういわば普通の日本人の家庭の中で育って
そしてクリスマスはクリスマスジングルベルというふうにしてそしてケーキが出てくる
そういう一年の中で何とも言えない雰囲気というのでしょうか
それがたまらなくうれしくて楽しかった
そういう時を十年二十年三十年過ごしてきましたが
このクリスマスって何だろうかということを一度も考えたこともなかった
ただ楽しい雰囲気を楽しんでいたということですね
18:04
しかしある時期このクリスマスの本当の意味を知った
そういう私の生涯の中で大きな一つの出来事が起こったわけですね
このクリスマスとは何かということ
その中で私の中に今までなかった真の神という存在と私との関係
それがそこから始まったわけです
私にとっての神との関係はそこから始まった
しかし振り返ってみますと私が全然クリスマスのことも知らない
そういう時も神様は私を見ていてくださった
導いていてくださった
人それぞれ子供の頃に神様を知る
あるいは若い時青年の時に知る
あるいは少し年老いてからあるいはもう老年になってから
いろいろとあります
それは人それぞれでいいんだと思うんですね
神様がそういう風に導いていてくださるわけですから
決して人と比べるというそんなものではありません
そういうクリスマスそして本当のクリスマスの意味を知った時から
クリスマスの過ごし方が変わってきたということです
ただそういう雰囲気がいいとか
あるいはこの年末の楽しい行事の一つであるとか
そういうことは後回しで神様が私のために私の救いのために
この罪深い私を救うために来てくださった
そのことを覚えた時に私の心の中に本当の喜びとそして生きる目的
そういうことをわかってまた同じようにクリスマスを楽しむということ
それによってクリスマスが子供の頃楽しかった
それの何倍も何十倍もあるいは全然質の違う楽しみ方
そういうものを覚えさせていただいている毎年であります
ですから私たちは大切なことそれはなぜシュウイエス様が来てくださったのか
神の御子がなぜ人間の姿をとってこの罪けがれた人間の世界に来てくださったのかという
そのキリスト抗端の目的というもの
このことを私たちもう一度しっかりと覚えて
そして今まだそれを知らされていない人たちに知っていただきたい
知っていただこうというそういう良い機会ではないかなとそう思うわけです
21:03
特にこの日本においてそのことは非常に大事だろうとそう思っております
さて今日は四編の二十三編を開いていただいております
読んでいただきましたようにこの四編の二十三編皆さんも一度は聞いたことがある
いや二度三度四度もう十度もう何度も聞いたことがあるという方もおられるくらいこの四編二十三編は親しまれてきた
四編百五十編あるわけですがその中でも最も愛称されてきた四編であろうと言われています
そして何千年という長きにわたって多くの人々が慰められ癒されそして力を与えられてきたそういう四編この二十三編
教会のいろいろな様々な行事あるいは観光総裁その折にもよく引用されるこの箇所であります
主は私の羊飼い私は乏しいことがありませんとそのように作者は言っています
主は私の羊飼いこの聖書の中に出てきますこのイスラエル
イスラエルの民はよく自分たちの信ずる誠の神を羊飼いに例えてそして自分たちは羊なのだというふうに例えて書いています
神が羊飼いそしてイスラエルが羊ですからここでもこの作者は私は羊ですそして主は私の羊飼いです私の牧者です牧する者という牧者ですというそのことを言っています
旧約聖書新約聖書がありますが旧約聖書はキリストのキの字もイエスのイの字も出てきません
そしてそこにはこの救い主の来られることの予言がなされているそして新約聖書でそのことが成就したことが書かれてあるわけですが
ということは旧約聖書にイエス様もキリストも出てきませんけれどもこの旧約聖書のどこをとってもキリストの余表になることキリストが明かしされている
具体的に名前は挙がっていませんけれどもこの御言葉の節々にイエスキリストを思わせるそういう言葉が託されているあるいは奥義として隠されているんだということ
24:04
そのことを私たちは聖書を読んでいくとわかります
ここでも主は私の羊飼い私は乏しいことがありませんこのここにイエスキリストが現れているわけです
皆さんは自分を新しい環境の中に入るときに自己紹介をしてくださいというふうに言われます
私自身は自己紹介は好きじゃないです
ですから他個紹介というんですか誰かが実はこの方はこういう方です皆さんよろしくお願いしますという私はこういうものですお願いしますという
自分で自分のことをこうだーだというのはなかなか難しいものですよね
あるいはそれだけでその人がわかるわけでもないわけです
私たちがある人と出会ってその人のことがわかるというのには時間がかかると思うんですね
おそらく少なくとも1年ぐらいはしっかりと交わりをしてお話をしたりその人の状況を見たり聞いたりしながら
そしてこの人はこういう人だったのかあるいは2年ぐらい経ってこういう一面もあったのかというぐらい
私たちがその人を知るというのはなかなか難しいことだと思うんですね
ですから教会にもいろんな人が来られますから決して焦らないでください
その人がどんな人か早く知りたいということで
あなたはどこから来たんですか何をされてるんですかお年はいくつですか家族はどうですか
私はあまり聞かないですねじっくりとその人と交わりの中で自然とお互いが分かり合えるというそれがいいんじゃないかな
そういうふうに思っています
そういう中でイエス様は聖書の中で自分のことを自己紹介なさっておるということがわかります
特にヨハネの福音書の中でイエス様は私はこういうものですということを言ってなさるわけです
それは私は命のパンですということ
2つ目に私は世の光です
3番目私は門です
そして4番目に私は良い羊飼いです
この詩編の23編の作者が主は私の羊飼いですと言ったこの羊飼いはまさにイエス様が私は羊飼い良い羊飼いだとおっしゃったことと重なるわけです
5番目に私はよみがえりであり命である
6番目に私は道真理命です
27:04
三節でも皆のために私を義の道に導かれます
私たちは道というと歩く道道路をイメージしますが
イエス様は自分のことを道真理命
私を踏んで歩いていきなさい
私が道を示してあげよう
あそこに行けばいいよこの道を通って行けばいいよと指し示すお方ではない
私自身が道なの私自身を歩いていきなさい
そうおっしゃった
ですからこの義の道というこの道もどんな道だろうか
それはまさにイエスキリストご自身であるということ
このことを通しても私たちは
私たちが聖書よみそしてこのキリストに色々教えられ
そして死とともに歩んでいこうというそういう決心をした時から
このイエスの道をイエスという道を歩いていく
これを私はイエス道というわけですね
お茶には茶道がありそして剣の道には剣道があり
柔道もあり花の道には花道がありという
その道をその精神を極めていくという時に何々道と言いますよね
ですから私たちがイエス様とともに歩んでイエス様の道を行くということは
まさにイエス道を生きていくということこのイエス道を極めていこうという
そういうものであろうかとそう思うわけです
7番目にイエス様は自分のことを私は誠のブドウの木であるとそうおっしゃいました
今日はこの4番目の私は有為羊飼い
そのことを私たちがイメージしながらこの詩編の作者もまた主は私の羊飼いなのだ
そのように告白したわけです
ヨハネによる福音書の10章の中にこういう言葉があります
また開いてくださって今は聞いていただいたらいいかと思いますが
ヨハネの福音書の10章の11節のところにイエス様ご自身がこのように言われたわけです
私は良い牧者です良い牧者は羊のために命を捨てます
私は良い牧者です私は私のものを知っています
私は私のものは私を知っていますまた私のものは私を知っています
それは父が私を知っておられ私が父を知っているのと同様です
また私は羊のために私の命を捨てます
30:01
教会学校でもこの箇所を語ったことがあります
命を捨てるということだけをとると何と命を粗末にしているのかと思いますが
決してそうではない私たちが与えられた命を大切にするということは当然のことであり
神様はそれを願っておられるわけです
それほど尊い命一つしかないかけがえの命
私たちはそれをしっかりと守ってこの生涯を生きていくわけですが
その尊い命一つしかない命を捧げてまでも捨ててまでも
買い取らなければならなかったこの神様の身むね
それがイエス様の言葉として出ているわけです
イエス様だって命を粗末にされる方ではない
しかしこの命神が人として現れて命が与えられた
その命を捨てなければ人たちが人間たちが救われないのであるならば
私はその命を捨てます
そのことを通して私の羊たち
弱い迷いやすい羊たちを私は命を持って守るのだということを
イエス様はおっしゃったわけです
その羊
そのことをこの詩編の作者はもう一度覚えて
この主こそ私の羊私の牧者なのだ
この羊が私を守り養い育てそして
いつもいつも喜びと楽しみを与えてくださる
そういうお方なのだ
私は乏しいことがありません
私には必要なものはもう全部与えられています
乏しいことなんてありません
私たちがこれは必要であれも必要だと思っていつも生きていますが
今はこの断捨離というのがよく言われています
これはもういいか
これももう長い間使っていないからこれは処分しようか
そういうふうにして私たちの身の回りを一つ一つ選別しながら
それを捨てていくあるいは処分していく
最後に何が残るだろうかということですよね
ですからこの人もおそらくいろんなものを
たとえ処分し捨てなければいけないとしても
これさえあれば私はもう乏しいことがないんだ
もうこれさえあれば私は生きていけるんだ
乏しいなんていうことは決してないのだということを覚えたときに
33:01
それは主が私とともにいてくださる
私には主が与えられている
私を守ってくださり導いてくださる
この羊飼いさえ居てくだされば私はもう全て満たされたのと同じだ
何も不足はない
乏しいことなんて一つもないのです
そのように彼はここで告白したわけです
その主は私を緑の牧場にふさせて
憩いの水のほとりに伴われます
私たちがイメージの中で抱く天国あるいはパラダイス
そういうものが彼の脳裏に浮かんだんでしょうね
主は私を緑の牧場にふさせ
憩いの水のほとりに伴われます
この地域は乾燥した地域です
緑もそんなにないあるいは水がほとんどないような
そういうところであります
ですから彼らにとって恋しいものは
あるいは願っているものはやはり
緑の豊かな牧場でありそして水であります
そういう緑と水の尽きない
そういうところに私の主であるこの羊飼いは
この羊である私をいつもそういうところに招きってくださって
私たちが飢えることもないように渇くこともないように
そして安全に過ごせるようにいつも守っていてくださる
それが私の主なのだ
そこで私は魂が生き返りそして義の道に導いてくださる
この魂を生き返らせという
ここにも仏様の復活というものが思い起こさせられるわけです
たとえそうでなくてももう乾き植えて魂も苗いている
そういうものであってもこの主が
緑の牧場水のほとりに導いてくださる
そこでもう一度私の家に活力が与えられ
そして渇きが癒されてもう一度私は生きていこう
ここからもう一度私はやり直せるんだというような
魂がもう一度生き返るような
よくもう死にかけている魚がその清い水に入れられた途端に
ぱっとこう勢いよく泳いでいくような
そのような苗いている魂が
この主によってもう一度そこから生き生きと輝いて生きていく
そういうことをしてくださるそれが主であるということです
主は私の魂を生き返らせ
36:02
すべての人にあるものそれは魂です
人間である限り魂というものがあります
どの辺にあるのかそれはわかりません
しかしどんな人にも魂があります
要はその魂が死んでいるとは言わない
生きているんですけれども眠っているのか目を覚ましているのか
あるいは活動が停止しているのか生き生きと働いているのか
その違いだと言えるわけです
この魂を取り扱い
この魂に触れることの許されているのはただ神のみです
私たち人間が他の人の人間の魂に触れることは許されていません
あるいは何人もその魂に触れることはできないというふうに
神様は作っておられるわけです
一人一人の与えられた魂に触れることができるのは神だけです
ですから私たちが誰かさんを神様のもとに導くことはできる
そのお方のところに連れていくことはできる
しかしこの人を私が救ってやろうとか
この人の魂を変えてやろうとか新しくしてやろうとか
そんなことはできません
その技をするのは神のみであるということを
私たちはしっかりと覚えなければなりません
ですからここの箇所でも
主は私の魂を生き返らせる
私の魂を生き返らせるのは主なのだということを
ここでも私たちは覚えることができるわけです
そういうふうにしてどんな魂も神様によって生き生きともう一度輝き出していく
眠っていた魂が主によって精霊が注がれるとき
その眠っていた魂はもう一度そこから息づいていく
そのことを彼は覚えてそして告白しているわけです
たとい死の影の谷を歩くことがあっても私は災いを恐れません
死の影それは暗い闇の時
そういう時が私たちが生きていくこの生涯の中で必ず一度や二度はあります
三度四度五度あるかもしれません
それはわかりませんしあるいは人によってそれぞれ違います
そういう死の影の谷を歩くことがあっても私は災いを恐れません
39:00
私たちは恐れるものです
しかし神様が私と共にいてくださったら
その時私はその恐れから解放されて
そしてそのところを何とか過ごすことができる
私は決して恐れないものではないとは言っていません
誰でも恐れはあります不安はあります心配はあります
しかしその時にこのお方が主が私と共にいてくださる
この方は私の羊飼いで私を乏しくないように守ってくださる
そういうお方なのだということを覚えた時に
私はその恐れから解放されるのだ
あなたが私と共におられますから
この言葉皆さんもどこかで聞いたことがあろうかと思います
この言葉に今日のアドベントのメッセージがあるわけです
主が私と共におられますから
精霊がヨセフとマリアに臨みました
そして彼らにマリアの体内に男の子が宿ります
それは精霊によるものですという
そういうお告げが密会を通してなされます
そのことがマタイによる福音書の一章のところで書いてあります
そのことを皆さんも御存じでありますが
その歌詞を読んでみます
主の使いが夢に現れていた
ダビデの子ヨセフ恐れないであなたの妻マリアを迎えなさい
その体に宿っているものは精霊によるのです
マリアは男の子を産みます
その名をイエスとつけなさい
この方こそ御自分の民をその罪から救ってくださる方です
このすべての出来事は主が預言者を通して言われたことが成就するためであった
身を女女が身こもっているそして男の子を産む
その名はインマヌエルと呼ばれる
訳すと神は私たちと共におられるという意味である
ここにこの試編23編の作者は
主は私の魂を生き返らせ
そしてたとえ死の影の谷を歩むとも私は災いを恐れません
なぜならこのお方はインマヌエルであるから
このお方はその名をインマヌエルと呼ばれる
神私と共におられるというお方なのだという信仰告白
そのことをここに表したわけです
私たちの信仰生涯はすべてここに尽きると思います
42:04
私の信ずる誠の神救い主イエスキリスト
聖霊なる神が私と共にいてくださる
私の内にいてくださる
これが今日のアドベントのメッセージ
そしてこのお方の中に私たちが行こうときに
このお方と共に歩むときに
私たちの喜びと感謝が満ち溢れてくる
そしてこのお方がおられるところに私もいつも留まっていよう
地獄とは何か
それは神がいないということである
私たちは地獄というのはどんなものかよく知りません
しかし言えることはそこに神がおられるところそれは天国です
神のいないところそれは地獄である
聖書を通してそのことだけはわかります
ですから私はいつまでも主の家に住まいましょう
主がいてくださるそのところに私もそこに居場所を見つけて
そこに私はいつも留まっていよう
そこに住んでいこう
この主の家これは神の家でありまた天国でありパラダイスです
皆さんはそれをどんなイメージを持っておられるでしょうか
この四篇の二十三篇の作者はこの主の家それは緑の牧場の広がる
そこには水が絶え間なく流れていてそして恐れもない不安もない
そしてそこにいつも安らぎと平安が満ちている
そういう主の家に私はいつまでもそこに留まって住んでいこう
この主の家これが私たちの教会であるということ
ですから教会とはそういうところでなければいけないんだということも
改めて覚えさせられるわけであります
私たちはこのいつまでも主の家に住まいましょう
神様のおられるそれが緑の牧場のような水のほとりのような
そしていつまでもいつまでもそこにいたいと思うような
そういう主の家に私たちは居場所を見つけて
そして神様そこにいていいんだと言ってくださるそのお言葉に安心して
そこにいつまでも留まっていよう
このことを私たちは支援の23編を通して今日見たわけであります
45:06
子どもたちにもこの23編教会学校でよく語りますし
そして私たちもこの23編を繰り返し繰り返し読んで
できたらこのお言葉を暗記するぐらいこの言葉に親しむということ
これが大事だと思うんです
私たちはこの23編に限らずこの聖書の言葉が
今生きている私に何の意味があるのか
今日この23編を覚えたからといって今ここから出ていって
このお言葉が私の力になり励ましになり慰めになるとは限りません
しかしこの23編を私の支援として覚えているならば
ここにありましたように
いつか死の陰の谷を歩くような時が来た時
あるいは自分の中にいろんな恐れが襲ってきた時
あるいは困難にぶち当たった時
その時にこの私がいつも親しんだこの支援23編
私が暗唱したその支援23編が私を支えあげまし
そして慰めそしてもう一度そこから生きる力を与えてくださる
その日のためにその日が来なければいいのは分かっています
しかしもし来たならばその時にこの私が親しんだ覚えたこの23編が
神の力として私たちをもう一度押し上げてくれる支えてくれる
力づけてくれるんだというそのことのためのこの23編である
そのことを覚えて感謝したいと思います
お祈りをして終わりたいと思います
主は私の羊飼い私は乏しいことがありません
23編のどの節をとりましても素晴らしい信仰の告白であります
今日この御言葉がすぐに私の力となるとは言い切れません
しかしいつか私が行き詰まった時にそして困難に覚える時に
あるいは誰かが傷まった時に支えを必要としている時に
そして喜びと感謝があふれた時に
一緒にこの支援の23編を私の支援としてその人の支援として
神の力が私たちを緑の牧場水のほとりへ導いてくださることを信じます
48:04
どうぞこの聖書のお言葉をさらにこれからも親しんで
そして一つ一つに神様の恵みを覚えていくことができるように
私たちを導いてください
今日共にこの支援を読めたことを心から感謝し
今日御前にいますお一人お一人に神様の豊かな恵み祝福がありますように
神様の尊い皆によってお祈り致します
アーメン
48:42

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