1. 名谷教会 podcast
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2018-06-10 39:07

2018/06/10:全世界に出て行って

2018/06/10 聖日礼拝
伊藤初
マルコの福音書 16:9-20

00:02
みなさん、おはようございます。
今日は私は、説教はしませんので。
今日ですね、本日、糸はじめ先生をお迎えして、これから8月に台湾へ家族5人で使わされます。
そして、私が知っているところでは、6月は教局を回られて、こういう時を持っておられます。
糸先生は、稲福音教会が支える会を主に責任を持ってですね、祈ってサポートしてくださることだと思います。
先生もね、またメッセージの中にあると思いますけれども、
若い時にアジア選挙のビジョンが与えられて、そしてその中で台湾という国に導かれてですね、
まもなく出発されますけれども。
ちなみにですね、また親しみを感じる、個人的に感じると、奥様が韓国の方々で日本に20年ほど住まれて、
また台湾に行かれますから、それも不思議な神様のお導きだと思います。
また、明太子教会が覚えてですね、これからも祈ってですね、またできればサポートもできればな、本当そういうふうに思っております。
今日のメッセージを通して、台湾を知ること、もちろんね、糸先生ご家族を知ること、台湾を知ること、
あるいは世界選挙に対してもう一つ、我々の心の目が、視野が広がれる、そういう恵みの時となればいいなと思っております。
それでは早速先生を迎えてですね、メッセージを取り継いで、またデビューテーションもですね、お話をしていただきたいと思います。
よろしくお願いします。
おはようございます。台湾選挙史候補の伊藤はじめと申します。
私は2008年にですね、新学校を卒業いたしまして、滋賀県の湖西協会というところで、9年間奉仕をさせていただいておりましたけれども、
この度、台湾での働きに導かれまして、そして昨年の4月から、母協会である長野の伊那福音協会の方に戻りまして、今後の働きのための準備をさせていただいております。
そして去年のですね、5月から7月まで3ヶ月間一人で家族を日本に残しまして、台湾の方に行ってまいりまして、
そして語学の中国語の勉強と、あと現地のいろんな協会や様子を見てまわってまいりました。
03:03
今日は初めにその時のですね、報告を簡単にさせていただきまして、その後、台湾に導かれましたお明かしを含めてのメッセージをさせていただきたいと思います。
で、今こちらに映っており、あ、今、さっき映っておりましたのか、すみません。
はい、ありがとうございます。
さっきこれがですね、台北ですね、一番の首都の台北の町ですけれども、今101という高層ビルが建っておりますね。
はい、次お願いします。
はい、これが大体町の中はこのような感じですけれども、行かれた方はですね、分かるかと思うんですけれども、
台湾というと露天が多いというのが特徴的だと思いますね。
夜も本当に外で食べたり飲んだりですね、またあとは食べるものだけではなくて着るものとかですね、日常品なども外で売られておりまして、
本当に日本人が行くと一年中歩行者天国をやっているような雰囲気があるわけですけれども、
実際もうすぐそこがですね、この道で車がもうすごく、車やバイクがもうガンガン通っております。
その横でですね、はいお願いします。
で、オートバイが多いというのもやはり台湾でありまして、道の周りはやはりオートバイがずらっと並んでおりますね。
そして日本と違うところは大人の方は二人まで乗れるそうですね。
そして子供は特に人数が決まっていないそうでございまして、
多い方ですと家族で一台のオートバイに乗っておるような方もおられますね。
お父さんが運転して、お母さんが後ろに座って、この前の立つところに子供が立っておるとね。
さらに多い方ですと、お母さんが小さいそれでおんぶしながら乗っているような方もおられますね。
はい、お願いします。
こちらが二宮先生がかつて、元宣教師の二宮先生がかつて法師をされた台北長老東門教会という教会になりますね。
で、今台湾の教会は、中国語の教会と礼拝と台湾語の礼拝、2回礼拝を行っております。
それは台湾の教会はもともと、台湾という国はもともと台湾語で礼拝を行ってきておったんですけれども、
戦後になって中国から国民党が台湾を統治するようになってから、中国語、北京語を公用語として学校の教育などを中国語で行うようになります。
そうするとだんだんと時代が経つにつれて、若い方々なんかは台湾語、難しい台湾語を理解できなくなってくるわけなんですね。
ですから今、中国語で第一礼拝をやったら第二礼拝を台湾語でやるというような教会が増えてきております。
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はい、こちら子どもたちの働きですけれども、台中にあります李信教会という教会で、今同盟教団からですね、斉藤先生という先生が使わされておりますけれども、
この教会では塾に行けない子どもたちのために、学校で塾のようなことをして子どもに学校の宿題や勉強を教えたりしております。
後でちょっと話しますが、非常に台湾の学校も勉強がとても大変だそうなんですね。
はい、お願いします。
国際日語教会という日本語礼拝をしている教会になりますが、もともとの始まりはですね、日本の統治時代に日本語で教育を受けてきた方々が日本語で礼拝をしたいということで始められた教会でございます。
今も集っている方はですね、日本語で教育を受けたご年配の方ですとか、また日本語を勉強しておられる若い方々やまた国際結婚された方々などが集われておりました。
はい、私が行っていた時期にですね、日本人学校で夏祭りがありまして、本当にですね、日本的な浴衣を着たりですね、屋台が出ていたりというようなお祭りを本当に台湾の方もですね、大勢集まってこられて楽しんでおられました。
はい、こちらはインバヌエルの台中教会という教会ですね。
こちらも日本語教会になりますが、やはり台湾の方が半分以上集われております。
この教会の始まりはもともと戦時中にホーリネスの東京聖書学院という新学校で学んでおられた台湾の新学生の方がですね、日本を追い出されてしまうんですね。
台湾に戻ってから伝道されて教会が各地にできてまいりまして、その中の日本語部の教会が今、インバヌエルの教団に加入している形になっております。
はい、こちらバイカ長老教会という台湾に一番古くからおられた先住民の方々の教会になります。
先住民の方々の教会というと、少し前まではですね、本当にこの山地、山奥の方にですね、本当にこういう山奥に教会があるのかなというところに教会があったんですけれども、
最近は都会に出てきている先住民の方も非常に増えておりますので、都会の方にも先住民の方々の教会ができてきております。
はい、こちらはこの間地震のあったカレンというところですね。
アミ族の先住民の方々ですけれども、シンゴラム先生という、かつて日本の私たちの教団にも来られたことのある先生のところですね。
訪問させていただきました。
09:01
はい、こちらOMFで日本のための祈り会というのが行われておりました。
本当にですね、台湾の方々もこうやって日本のために定期的にですね、集まって祈ってくださっておりました。
またこういう中からですね、日本に短期選挙に行かれる台湾の若い方々もおられました。
何かこう日本の東京のですね、電車がたくさん路線が複雑にあって乗る人も大勢いるみたいな、ちょっと不思議なビデオを見ておりましたけれども、
こうやってですね、本当に日本のために日本のことを知りながらですね、祈ってくださっておりました。
はい、こちら台湾長老協会の事務所の方になりますね。
お挨拶に行かせていただきました。
はい、お願いします。
はい、私たちのためにお祈りください。
台湾での語学研修と具体的な働きの道が開かれていくように、また台湾選挙と台湾の協会に使えるための冷静が整えられるように、
また家族が現地での生活に適応できるようにお祈りください。
私たち家族は今年の8月からですね、家族で台湾の方に来まして、語学の勉強と今後の働きのための準備をしていくことになっております。
足りないものでありますけれども、私たちのためにお祈りくだされば幸いです。
はい、報告の方は以上になります。
私が台湾選挙に初めて関心を持ったきっかけといいますのは、元台湾選挙司の二宮先生の話を聞いていたときでありました。
それまで自分の中で台湾という国は協会も十分蓄されていまして、わざわざ日本人であるものがそこに行って働きをするまでもない国と思っておりました。
けれども具体的な先生の話を聞く中で、先生が当時台湾というこの複雑な歴史を持った国の中で、
特に社会的に苦しい立場に置かれていた先住民の方々の地域を訪問したり、また都市に出てきて行き場のなかった先住民の若者たちのために協会を始められた。
そのことが非常に深く心に留まりました。
またその当時、台湾の中で先住民の方々と後の時代にこの中国大陸から渡って来られた方々との間に心の隙間がある中で、
その間に日本人であるものが間に入って選挙をすることが有効であったという話を聞きまして、
この世界の中には日本の国の中以外にも日本人の働き人が求められている場があるという新しい選挙に対しての視点が与えられました。
私はこの海外選挙、アジアへの選挙に対して、新学校に入る前から思いを持って祈ってきておりました。
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新学校に入る前、3年ほど地元の製造業の職場の方に勤めておったんですけれども、
その当時、アジアから働きに来ておられた方々が職場におられました。
彼らと毎日顔を合わせ、親しくはしておったんですけれども、
その時の自分というものは、慣れない日本に来て生活をする彼らの大変さとか、
また自分の国を離れてこなければならなかった、そういう事情というものを考えることなくおりました。
何か頼むことをされても、買い物に行きたいんだけど車がないから乗っけてって連れてってくれとか言われた時にも、
ちょっと面倒くさいなと心の中で思っておるようなものでありました。
また考え方や仕事の対する考え方ややり方の違いからですね、
自分の思ったように仕事をしてくれないことに不満を思ったりですね、
同僚とそういう中で陰でですね、何か悪口を、陰口を言ったりするようなものでありました。
けどそんな中で、職場で一つのトラブルがありまして、
そのことで非常に傷を受けている方がいたんですけれども、
その方に対して自分が何の励ましにも助けにもなったりあげることができなかったことを通して、
自分は彼らに対して本当の隣人、本当の友と慣れていなかったことを思いました。
自分の中に偏った思いや傲慢な思いがあったということ、
また自分の信仰的な、人間的なこの未熟さのゆえに、
彼に対して本当に神様を明かししていくということができなかった。
そのことを悔い改めるとともに、アジアの方々への重荷を持ち始めました。
その後も海外の選挙のいろんな状況の話を聞く中で、
この世界には国を自由に語ることのできない国があったり、
また異端の問題や間違った教えが出回って、
また世俗化や物質主義の問題、
また人と人との複雑な歴史や感情など、
いろんな問題の中に置かれた地域や境界があるということを知りました。
そういう中で自分に何かできることはないだろうかということが問われる思いがしました。
台湾に関心を持ち始めてから、
実際に台湾で行われたこの青年の集会に参加をさせていただいたり、
また日本で台湾のこの若者に日本語を教えたりする講師をさせていただきながら、
理解を深めてまいりました。
本当にそういう中で台湾の方々も本当に日本のために思いを持ち、
祈りながら、機会があれば日本に行って選挙をしたいと思っている方が
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たくさんおられるということ。
また日本だけではなく、本当に世界の周りの国々に心を開いて受け入れていく、
そういう姿が本当に心に留まりました。
その中で京都にあります国際シャロームキリスト教会という教会に、
台湾出身の林先生という先生がおられるんですけれども、
その先生が私にこのようにおっしゃいました。
自分のこのビジョンや自分が何をしたいかということ以上に、
あなたは本当に神様ご自身が自分を台湾というこの国に導かれたその確信がありますか。
神様が私を本当にこの場に導かれた、使わされたその確信があれば、
たとえこれから様々なことで状況が変わり、人が変わり、
自分の思っていた現実と違ったとしてもやっていくことができる。
けれどもそれがなかったらやっていくことはできませんよとおっしゃいました。
その言葉に私は非常に衝撃を受けるとともに強く共感をいたしました。
そして神様ご自身がもう一度私をこの台湾での働きに導かれているのか、
もう一度深く祈らされました。
そんな中で伊沢書の42章の16節の御言葉ですけれども、
私は盲人に、かえらの知らない道をあいませ、かえらの知らない通り道を生かせる。
これらのことは私がして、かえらを見捨てない。
その御言葉が与えられました。
海外選挙のビジョンが初めに与えられてから、
私は祈りつつ主の道を求める中でこの台湾という導きが与えられました。
それは自分自身、初めには知らなかった、見えていなかった道でもありました。
けれどもだからこそそれは、自分の思いや自分の願いというものを超えて、
本当に神様ご自身が祈りのうちに開き、
導いてくださった道だということを信じて受け止めさせていただきました。
私は今報告いたしましたように、
昨年3ヶ月間台湾へ行ってまいりまして、
この日本との違いというものを肌で感じました。
台湾という国はですね、面積は九州ぐらいの面積ですけれども、
人口は2000万人を超えるぐらいの人口ですけれども、
様々なこの時代に渡ってきた方々がおられ、
国の中でも台湾語やまた中国語、
また発火語や原住民のそれぞれの部族の言葉など、
いろんな言語が話されております。
また台湾は今までいろんな国の支配や圧力を受け、
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また苦難の歴史を通ってまいりました。
そして今も国際的に孤立させられているという状況があります。
教会もそういう中で迫害などの苦難の中を通り、
戦ってまいりました。
最近の状況としては日本以上の少子高齢化、
またアジアで最も高い孤立婚率という問題があります。
また近年は特に東南アジアから働きに来ておられる
外国人労働者の方々が急激に増えておりまして、
全人口の3%にもなると言われております。
また若い方々は台湾語などの自分たちのルーツとなる言葉を
話さなくなってきておりまして、
最近は逆にそういう言葉を学校で教えるようにも
なってきておるようです。
本当に台湾という国は今も大きな動きの中に、
変化の中にある国だということを感じました。
ある台湾の教会の長老の方は、
この台湾の歴史的背景から来る複雑さや
国際的な孤立という状況が社会全体に大きな歪みとなり、
先の見えない不安や恐れ、危機感や混乱があるという
お話をされておりました。
そういう不安定な状況というものが高齢化や高離婚率という問題を引き出し、
また偏った学歴社会、競争社会へと
借り立てているということを感じました。
そういう歪みから来るしわ寄せというのは、
やはり弱い立場にある方々や、まだ本当に何もできない
子どもたちのところに来るものだということを本当に感じました。
先ほどの子ども伝道に関わっておられる先生は、
台湾の子どもたちの状況のお話をされておりました。
台湾という国は本当に学歴社会で、勉強が大変でですね、
中高生になると夜遅くまで授業があるそうです。
そういう中で、貧しい家庭、塾に行けない子どもたちというのは
取り残されて、居場所を失ってしまうということ。
また複雑な家庭の状況の中で、家で暴力を受けるような子どもたちもいる
ということをお話をされておりました。
また台湾で多くの日本人の宣教師の先生方と出会う中で、
先生方が償いの意識を持って報酬をされていることも心に留まりました。
日本がかつて台湾を支配し、国益のために台湾を利用し、戦争にも巻き込んできた。
日本もまたこの台湾の複雑な歴史を作ってきたということを改めて思いました。
台湾の方は本当に日本が統治していた時代に台湾に良いものを残してくださったと言ってくれる方もおりますけれども、
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日本人として台湾に残してきたマイナスの部分についても
目を向けていかなくてはならないということを思いました。
また一方では本当に台湾の方と交わる中で、本当に私に対しても有効的でフレンドリーで、
日本の文化が好きとか日本が好きと言ってくれる方々もたくさんいるということも分かりました。
そういう中で本当に私自身、台湾に対して本当の友となっていくというのはどういうことなんだろうかということが問われました。
それは台湾の人たちが本当に日本が好きでいてくれるから、もうそれで何もしなくていいんじゃないかということではなくて、
本当に日本と台湾がそこで顔と顔を合わせお互いを知り、そして本当にお互いを理解する中で相手の痛みや相手の苦しみに目を向けていくということ、
そのことがやはりこれからにとってなくてはならないことだということを思いました。
この揺れ動いていく国にあって本当に揺るぎない福音を出ていって伝えていくものでありたいということを改めて強く願わされました。
今日の聖書の御言葉に目を向けていきたいと思いますけれども、特にこの朝覚えたいところは十五節の御言葉です。
そしてそれからイエスは彼らにこう言われた、全世界に出ていき全ての作られたものに福音を述べ伝えなさい。
今も神様は私たちのそれぞれのこの浮かれている場所、この地域やこの世界に福音を伝えていくということを求めておられます。
私たちはどうしてこの福音を伝えなければならないのか、宣教をしていかなくてはならないのか、そのことをですね、今日は三つのことを取り上げていきたいと思います。
まず第一にそれは神様がこの世界の全ての人を愛されておられるからということです。神様がこの世界の全ての人を愛されておられるからということです。
イエス様は全ての人の救いのために十字架にかかられ、そして今も全ての人が救いに預かることを願っておられます。
私は小学校二年生の娘とですね、今保育園に行っている三歳の双子の息子がおるわけなんですけれども、少し数年前ですね、
娘の幼稚園の時の最後の運動会の時にですね、非常に印象に残ることがあったんですね。
その運動会の一番最後の競技というのが、年長のクラスがクラス対抗で走るリレーがあるんです。
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娘の学年に当時3クラスあったんですけれども、この娘のクラスはですね、3クラスで走って、練習の時からいつもこの3番目、再開だったんですね。
うちの子たちのクラスが一番弱いということが、だんだんと親たちにも伝わってまいりまして、何とかして自分たちの子供のクラスを勝たせたいということになりまして。
運動会の前にはですね、自主的に親たちで子供を連れて集まってですね、練習までいたしました。
妙に一体感のあるクラスでありまして、最後のリレーの時もですね、親たちで一箇所に集まってですね、最後まで声を出してですね、子供たちを応援したわけです。
けれども結果はやっぱり3番目、再開でありました。
けれども、再開であるのにもかかわらずですね、親は自分の子供のですね、走る姿を見て本当に感動するわけなんですね。
そして順位に関係なく自分の子が走り終わって帰ってきたら、本当によく頑張ったねと言ってですね、子供を迎え入れるわけです。
そんな姿を見ていて、本当に神様っていう方もそういう方なんだなとつくづく思うものがありました。
どんなに弱いチームでも、自分の子供だから一生懸命応援する親のように。
今もしは私たちのそれぞれのこの置かれている人生の中で、どんなにこうつまずいたり倒れたりするようなことがあったとしても、いつでも私たちを応援してくださっている。
そしてゴールした時にはですね、本当に喜んで迎え入れてくださる、そういう方であることを思うわけです。
子供が抱えのないものであるように、神様は今も私たち一人一人を、すべての人を愛し、主の愛の眼差しの中に置かれているのではないでしょうか。
今日の十六節のところには、「信じてば不鉄馬を受ける者は救われます。しかし信じない者は罪に定められます。」とあります。
けれどもこの時、宣教を命じられた弟子たちは、イエス様がですね、復活したことを聞いて、すぐに信じたでしょうか。
今日の聖書の箇所には弟子たちが信じなかったということが繰り返し書かれています。
弟子たちはイエス様が復活したことを聞いてもですね、信じないものでありました。
けれどもそんな信じない、堅くならない弟子たちのところにも、イエス様はですね、ご自分の方から近づいていかれて、本当にですね、自分が復活したことを示されました。
信じない者はもうどうでもいいと言って放っておかれたのではなくて、信じない者にも繰り返し働かれ、そして信じる者へと変えられました。
私たちは誰も生まれた時からイエス様を信じているという人はいないわけですね。
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誰でも始めは信じない罪に定められるべきものでありました。
けれども今は信じる者とされているわけです。
それは何か自分が偉かったからとか、そういうことではなくて、本当に私たちが救いに至るまで、本当に忍耐をもって、愛をもって導いてくださった、その神様によってではないでしょうか。
私は中学3年の時に洗礼を受けましたけれども、大学時代ですね、本当に教会を離れそうになっていた時期がありました。
そんな中で当時通っていた教会の牧師先生が非常に素晴らしい先生でありまして、私が日曜日に礼拝を休むと必ずその週のうちに私のアパートに葉書が送られてきまして、
伊藤君、お元気ですか。先週は礼拝を休まれましたが、どうしましたかと書いてあるんですね。
それを見て、またあの先生から葉書が来たなと、当時の私はあまりありがたいことのようには思えませんでしたけれども、
でも今になって思うとですね、本当にその先生が、なんとかね、あの伊藤君が信仰を失って道に迷って逸れてしまわないように、本当にですね、背後において祈りながら忍耐と憐みをもって接してくれていた。
そしてその背後にはですね、本当に神様が働いていたことを今になって思うわけであります。
主が私たち一人一人を愛して導かれたように、本当に主は今もですね、イエス様を信じておられない方々、神様の愛を知らずに生きておられる方々に本当に心を痛めて、一人でもこの救いの恵みを受け取ることを願っておられるのではないでしょうか。
私たちは本当にその主と思いを一つに、心を一つにしながらですね、周りの方々のために本当にですね、心を砕いて祈っていくものでありたいと思います。
二つ目に覚えたいことは、私たちの宣教の理由、それは宣教というのは私たちへの神様からの使命であるということです。宣教は私たちへの使命であるということでございます。
イエス様はここで弟子たちをもう一度信仰に立たせました。そこで直ちに彼らに、全世界に出て行って、全て作られたものに福音を述べ伝えなさいと言われました。
この言葉は大宣教命令、命令であるわけですね。提案とかお勧めのようなものではありません。福音を伝えるということは、何かこうできればやったほうがいいとか。
信仰生活をしていて余裕がある人だけやったほうがいいというようなものではなくて、信じた全ての人に言葉や行いを通してこの福音を明かしていく、その使命が与えられているわけです。
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使命と言われると何かこう重く感じるものもあるかもしれません。けれども私たちが神様を信じて歩んでいくというのはどういうことでしょうか。
それはそれまでの自分の価値観や人生観、そういうところを持ったまま、ただ必要なときだけ神様に頼っていくというのではありません。
自分を中心ではなく神様を中心に今の自分のこの人生を見ていく。神様が何を計画され、何を自分に願い望んでいるのか、その主の御心、主の使命に私たちが応えて日々歩んでいくということです。
そしてそのとき私たちはどんなに弱く賭けの多いものであったとしても、この世にあってこの世界にあって主の栄光を明かしていくものとされていくのではないでしょうか。
私たちは本当にこの神様の受けた恵みを自分の中だけに留めて、自分のためだけに用いようとするのか、それとも周りに流し伝えて出ていくのか、そのことが日々問われているのではないかと思います。
聖書のイスラエルの国には2つの湖があります。ガレラヤコとシカイという湖がありますけれども、ガレラヤコの方には北にあるヘルモン山という山から水が湖に入ってくるわけですね。
南のヨルダン川から水が流れ出ていくわけです。
湖は魚もいますし、周りも緑が豊かに茂っています。
けれどもシカイの方には水が入ってくるわけですけれども、海抜が非常に低い場所にあるために水が出ていくところがありません。
そこで太陽で水が蒸発して、非常にこの塩分の濃い魚も住まない湖となっているわけです。
私たちは本当にこの世界に、この福音を持って出ていくところにこそ、私たちの信仰生活の豊かな命があるということを覚えたいと思うんです。
神様のことを伝えようとしても、なかなか効果がなかったり、壁にぶつかって、そんな中で私たちは疲れて内向きになってしまうようなものかもしれません。
けれども主は、そんな私たちを繰り返し励まし、立ち上がらせ、外へと送り出そうとしてくださる方です。
そして私たちが本当にこの世にあって、主の栄光を表していくその姿を、今も主は見ておられるのではないでしょうか。
どんなにこの世界が変わり、時代が変わろうとも、主は私たちを使わそうとされていく。
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その御計画というのはですね、決して変わることはないものです。
私たちはこの神様の声に日々応えて立ち上がって出ていくものでありたいと思うんです。
三つ目に覚えたいことは、私たちの宣教の理由、それはこの福音こそが私たちを本当に救えるものであるということでございます。
福音こそが私たちを本当に救う力のあるものであるということです。
今日の17節のところから最後の20節までもう一度お読みさせていただきます。
信じる人々には次のような印が伴います。
すなわち私の名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語り、蛇をもつかみ、たとえ毒を飲んでも決して害を受けず、また病人に手を置けば病人は癒されます。
主イエスは彼らにこう話されて後、手に挙げられ神の身の座につかれた。
そこで彼らは出て行って至るところで福音を述べ伝えた。
主は彼らと共に働き、御言葉に伴う印を持って御言葉を確かなものとされた。
ここにはこの後使わされていったこの弟子たちに起こってくることが書かれております。
弟子たちは福音を伝える中でいろんな問題や困難とぶつかりました。
けれどもその中で主は彼らと共に働かれて、本当にこの救いの言葉が確かなもの、真実なものであるということ、
この福音こそが本当に人を、この世界を救えるものなんだということを彼らに示されました。
今の私たちのこの世界、この世の中にもいろんな複雑な問題、私たちのそれぞれの置かれている場においてもですね、
いろんな困難や問題がぶつかってくるかもしれません。
そういう中で本当に私たちを迷わせる言葉が出回っているような、恐れさせる力が働いているようなこともあるかもしれません。
神様なんて信じたって何もならない、教会なんて行ったってしょうがない、自分はもう誰からも愛されていない、必要とされていない、
そんなこの世の言葉が聞こえてくるようなこともあるかもしれません。
けれどもだからこそ私たちは何が本当に自分を支えていくものなのか、そのところに堅く立っていかなくてはならないわけです。
今日の聖書の箇所で弟子たちがイエス様の復活を聞いても信じられなくて、本当にこうがっかりしてですね、心を閉ざして塞ぎ込んでいってしまった。
それは弟子たち自身の中からは自分から立ち直っていく力は可能性は1%もなかったということです。
人は自分で自分を救うことはできない。
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復活の福音だけが、復活したイエス様だけが本当に私たちを立ち上がらせ、変えていくことができるもの、救いをもたらすことができるものだということを聖書は告げています。
何か一時的な慰めや喜びをくれるものは周りにたくさんあるかもしれませんけれども、
私たちを本当に罪と死から救い、永遠の命と本当の希望をもたらしてくれるものは、十字架と復活の福音以外にはありません。
私もですね、教会に来られる方々の中にですね、よく話をする中で、聖書に書いてあることは、私はまだよくは理解できない、わからないけれども、でも私は変わっていきたいんです。
今のこの自分の人生や自分の生き方を変えていきたい、そのように言われる方がそのような話をよく聞くことがあります。
私たちはですね、本当にこの世にあって、この福音の本当の価値を証していくものでありたいと思うんです。
私たちのこの周りの方はですね、本当にそれを私たちがどれだけ大切に持っているのか、どれだけ真剣に信じているのか、そのところをですね、見ておられるのではないでしょうか。
先ほどもお話ししましたけれども、台湾に行って多くの方々とお交わりをいただく中で、本当に台湾のいろんな事情を知る中で、台湾の本当の友となるというのはどういうことなんだろうかということが問われました。
そういう中で本当に台湾の本当の友となるためには十字架の福音こそがやはりなくてはならないものだということを改めて覚えました。
イエス様を間に置いてこそ、私たちは本当の意味で和解していくことができるのだということを覚えました。
この福音だけが本当の希望、本当の和解をもたらしていくことのできるものだということに、まだ福音を知らない多くの台湾の方々、苦しい立場に置かれている方々に本当の希望、この和解の福音を携えていきたいということを強く願わされました。
主は今もこの世界を愛されて、今も全ての人が救われるために私たち一人一人を用いようと、使わそうとされておられます。
私たちは本当にその神様の声に応えていくものでありたいと思うんです。
そしてこの福音だけが本当に私たちを救い得るものであるということ、そのところを固く立って、固く信じて、それぞれの置かれている場で、言葉や行いを通して、私たちのこの存在をもって、主を明かししていくことができるように、日々主にあって強められていくものでありたいと思います。
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それでは一言お祈りをさせていただきます。
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