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はい、おはようございます。
それでは、恒例のお互いのご挨拶をいたしましょうか。
おはようございます、どうぞよろしく。
なかなか夫婦でも朝の挨拶をあまりしないので、こういう機会があるといいなと、そう思ったりもいたします。
前に平方で仏会をしておりました時に、礼拝でこういう時を持ちました。
その時は最終じゃなくて、そうですね、やっぱり半ばでやりましたら、ある時、役員会で、
先生、あれは、なんか、礼拝のこの流れをそこで中断してしまうから、あれ、どんなもんでしょうかと言われて、
正直やめちゃったんですけどね。やるのも簡単ですけど、やめるのも簡単に当時やっておりまして、
しかし、こういう時を持つということは良いことだなと、そう思っております。
お祈りしておられると思いますが、ゆん先生たちは、きょうは、たぶん1回の礼拝で5000人集まりますからね、
その5000人の会席に座って、そして、スウェード教会での礼拝を守っていらっしゃると、そう思います。
私もスウェード教会に何回か参りましたが、あの礼拝の雰囲気と言いましょうかね、
圧倒されるような感じで、日本では経験できないような経験を礼拝でさせてもらった、そういう教会であります。
ですから、初めて行かれた方も、皆さん、初めての方は驚いたと思いますよ。
日頃、宮泰の教会で30人前後の礼拝をしているお互いにとって、どこから集まっていくんだろうかなというような感じがします。
ある時、私は駐車場で見ておりましたが、いろんなところから車が入ってくる。
最近と言いましても、2、3年前ですが、今は立体駐車場になって、そして係りの人がいない。
自分でこうやっているのに、あれも驚きましたけれども、それぐらい、教会として非常に大きな働きを進めておられる。
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一度またね、5000人の礼拝ってどんなんだろうか、合わせますと約3万人なんですが、それを朝の6時から何回もずっとやってくるわけですから。
私も行きますと、この時間の礼拝に出て、もう一回は日午後の礼拝にも出たりもするんですね。
日午後の方は、優先生が責任を持っておられました。
当時60人か70人に来られておったんじゃないかなと記憶しますけれども、英語部から始まってもいろんな各国の言葉の礼拝が行われているという、
日本ではあまり見たことのないようなそういうこともそこで見ました。
私は今そうしたことを思い出しながら、確かに5000人、6000人という集まる中で一回集として、そこで礼拝するということは、
日本では滅多に、なかなかない機会ですから、そういう点では良いことかと思います。
しかし私は改めてこのピレモン書を、今そんなことを思いながら読みましたときに、
ここは、この出だしに書いてありますように、
キリストイエスの囚人であるパウロ、及び兄弟手もてから私たちの愛する道路者ピレモンへ、また姉妹アピア、私たちの戦友アルキポ並びにあなたの家にある教会へと書いてある。
名前こそ出ておりませんけれども、後やはりピレモンの下でもての家庭という会に参加していた、この人たちの名前も出席者もそこにあったかと思うんですよ。
実はその出席者の中の一人も、ここに出てくるお姉妹というこの青年なんですね。
ピレモンは当時の社会の背景もありますけれども、こういう青年を自分のところに雇い入れて、
そして彼らを加えて、そしてこの時にパウロに来てもらってこの集会をするというような、この家の集会、家庭集会のようなそういう教会であったかと、そんな風に想像するんですね。
しかしこのピレモンへの手紙を読んできますと、そういう小さな交わりであり、教会ですけれどもね、そういう中でよくこのピレモンのようなね、この家庭のような信仰がそこに育ってきたもんだなと。
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大きな教会で焼けがれるということも幸いです。しかし同時にまたこういうファミリーの教会という、そういう教会でこういう信仰が培われるということも事実ですね。
ですから神様という方は、イエス様という方は、大教会で働きなさる方でもありますが、しかしながらまたそういう本当に少人数で行われている、そこにもイエス様がおられてね、そしてそこで一人一人の信仰をご覧になって、そしてそれぞれにふさわしい養いの時として、イエス様は回収の一人一人を導く。
ですからそういう中でこのピレモン、そしてその奥さんのアティアとか息子のアルトとか、パオロはこういう表現を考えますとね、本当に同じ自分と同じ目線でもって、このピレモンの伝導しているその働きに自分も加わってやっているということが想像できますし、
そういう中から実はこのピレモンの手紙は一つのことのためにこの手紙が書かれている。もちろんならば一人の人のためにこの手紙がパオロとピレモンとの間でもって交わされているという、そういう背景ですよね。
しかもピレモンにとっては自分のところで働いておりました、この一人の青年オネシモという奴隷、これのことをパオロがわざわざこの手紙を自分の方に向けてくれた、もう内容から見ても極めてプライベートなそういう内容です。
しかし、このピレモンへの手紙を何回か、もう短いところですからね、一回読み、また二回読み、三回読みといって、読みながらそこで思うことは、たった一人の人のためにパオロがピレモンにこういう手紙を書き送っているという、この意味の深さ。
しかも彼は、例えばこの前に書いてありますエペストラ・イソエの手紙とかね、そういったところでは、使徒パオロという自分の紹介の、あるいは立場の、そういったことを書いております。
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ところがここでは、そうではない。ここではキリストイエスの囚人というふうに書いているんですね。エペストラ・イソエの手紙の一本の中にも、キリストイエスのために囚人となったパオロと書いてあります。
それは囚人、確かにこの世を責任と言っているでしょうかね、彼は誤送されて、そしてロマニまで来て、あとはこの裁判を待つという、そういう意味ですから、そういう意味においては、囚人であるということは間違いないんですね。
けどパオロは、あえてここで持ってね、こういう自分を囚人というふうに言っているのは、囚われのみというふうにそういう立場で持って、彼がわざわざここで表明しているのは、パッテやピレモンの下で、言うなら奴隷ですから、囚われのみですよね。
囚人というレッテルは張らなかったでしょうけど、しかし結果的にはこのオネシモはそういう悪さをして、そしてオネシモはピレモンの下から出てしまいましたから、そういう点ではピレモンじゃない、このオネシモはですね、捕らえられたならば、
それこそ自分の囚人の、そういうものに手をかけて盗んで持ってしまったというだけで、しかもそれの上にその家を脱出してしまったというだけで、これは被害にも当たるわけですよ。見出されて、そして捕らえられて。
そしてやるならば、それこそ囚人として取り扱われ、また場合によっては死刑。ですから、パオロが言うこの囚人という、これはオネシモのためにということを考えますと、あえてパオロは自分を人パオロという立場よりも、
人私もオネシモと同じように捕らわれるんだ、そういうこの背景というのがそこに想像できます。実際そうです。
ですから、独りの人のために取り成すパオロは、あえて自分の立場や、あるいはフィレモンに対しての自分の位置づけや、あるいはその教会に対しては、私はイエスティストによって、めかねて人となったんだという、ガラス屋美人の手紙の一章の一節なんか、そういうふうな書き出しですよね。
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エピソード2の手紙の書き出しも同じように、人パオロという、そういう事柄をそこに書いてます。しかし、ここで独りの囚人、オネシモのためには、人パオロとかね、キリストイエスによって人となった私パオロはという、そういうことよりも、
彼は自分の位置づけというものを、むしろこのオネシモと同じところにおいて、そして彼のために取り成すべく、この一部をフィレモンに書き送っている。もうクリスマスが近いですけれども。
そういう中に私たちは、クリスマスのメッセージを感じますよね。この前のPBの教会に書き送った、パオロの手紙を読んできますとね、このイエス様った方は、そういうことを何もかも全部放棄して、そして私たちのために、私たちとおんなり強い土地で住みは起こらせませんでしたけれども、
私たちがそういう立場でもって、私たちのための、取り成しのために、救いのために、そこにまで下ってくださったという、そういうこのパオロの元、このキリストイエスという方は、こういうことだという、それを読みますと。
ですから、同じ意味においてね、パオロのお値下のために取り成す、その姿勢というのは、まさにイエス様が人となって、そして私たちのために置いてくださったという、このクリスマスのメッセージ、パオロのそのスピリッツというのは、そういうイエス様のお姿の中から受け止めて、そして、
あえて自分を強靭、お値下と同じ意志において、そして彼のために取り成すという、そういう言葉ですよね。
しかし、それにしても思うことは、このパオロは手持ちのイエス様にこの手紙を書いているわけですけれども、道路者、ピレモン、彼はパオロと同じような、こういう本門的な立場で持って、こういう伝道者、あるいは牧師のような立場で持ってやっているわけではないでしょう。
しかしこれまでどれだけ、このピレモンとその奥さん、その息子によって自分が励まされもしまた支えられてきたかということは、この後にも書いてあります。
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そこには本当にこの手紙が書かれるということのための、このパオロとピレモンとその家族との信頼関係というのがそこに書く、もう誰も立ち入ることができないような、そういうこの絆っているんでしょうか。
そういうことでもって、それがこの道路者、ピレモン、私と同じ立場でこれまでも一生懸命やってくれたし、私は先手でどれだけ励まされてきたか、いや私だけじゃない、他の人たちもそうだという、そういうようなことが後に続いておりますけれども。
ですからパオロは、このお姉妻のためには立場こそ違いましたけれども、自分はピレモンの元に行くとお姉妻もそこに出席していた。そして自分はイエス様のことを伝えた。
そのときにピレモンとその奥さんや息子たちは一生懸命周りの人たちに気を配りながら、その集会をこのまま、そしてまたパオロを迎えてこういう集いを行ってきたと思う。何人かもそこには奴隷たちもいた。
ですからこういうふうにおいて、立場は自分はピレモンよりも上だとかね、あるいはこの後にも続きますけれども、あえて言うならばあなたに命じることもできるかもしれないけれども、けれども私はお願いしたいんだというようなことが書いてありますが。
彼は一人の青年の救いのために、言うならば私たちは今同じ思いを追い、また彼のために私たちは一緒になってこれからしようとしているんだという、そういう意味でのこの堂々者。一人の青年の救いのために今私たちは一緒になってやろうとしているんだという、そういう姿。
そしてそこには奥さんのアピアのことも、この姉妹アピアと書いてありました。これは兄弟姉妹というね、そういうところから来るところのその表現で姉妹アピアというふうに言っているんでしょうか。
私は、よく言われますようにね、教会で初めに戸惑うことは、なんでここはみんな兄弟姉妹と言って親戚の方になろうかなと、そういう誤解をしたことがありましたけれどもね。何やに兄弟、何やに姉妹、あの人とどうしてその名字が違うんだけどなあなんて普段は想像したりもしましたけれども。しかし出どころはこういうところでしょうか。
そして姉妹アピアという中にも、むしろこのお姉妹は、でもやはりご親ですからね。ですからいろんな点で違いがあったでしょう。しかしその奥さんとのそれは、この奥さんはおそらく奴隷の一人でありますお姉妹も含めて、他の若い人たちのためのいろんな性をしたんじゃないかなと、そういう想像もできません。
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彼女があっても、このピレモンの下においてのこの集会が成り立っているということも想像が固くない。
パウロの働きにはこういうご夫婦というのが大きな支えになっている。それから人の働きの十八章の後を読んでいきますと、アクラとプリスカというね、この二人の夫婦が出ておりました。
で、パウロは彼らと一緒に天幕作りをしながら、この伝道のために準備をしたというふうにも書いてある。このアクラとプリスカは、アプロというこの青年、彼をしっかりと導いている様子も十八章の終わりの方に出てくる。
おそらくこの二人もパウロの働きにはもうかけがえない、そういう子の存在であったと。このピレモン夫婦と同じようなそういう立場じゃなかったかなと思う。
ところがその一行での十八章だったでしょうかね、そこではこういうふうにピレモンとアピアル、アクラとプリスカの名前がちょっとこうなって、奥さんの名前の方が先に出てきて、そして旦那さんの名前が後に来るというのはそういう場面もあったりする。
だからそういうことを考えますとね、その一つの一教会とか、そういう家庭集会とか、そこでもういろんな世話をなさる奥さんの方が求心的なそういうことではなかっただろうかなと。
私もその明石もそうですが、その前の平方の教会のときもね、やっぱり世話するのは奥さんなんですよ、家庭集会と。ある家庭集会は違いましたよ。家庭集会すると主人が一生懸命掃除をしてくれるので、この時だけはきれいになっているという点で、あんまりその奥さんというのは掃除はそんなに上手な奥さんではなかった。
ですからいつもきれいになっているので、そしたらその時だけはご主人の方がきれいに準備して、そして家庭集会のためにしている。そういうご夫婦もありますけれども、大体は奥さんの方がいろんな細かいところまでやる。
だからそういう点でこのピレモンとアジアさんのこのご夫婦も、パオロにとってはね、確かにピレモンに書いてある手紙なんですけれども、しかし聞くこと同じもののことに関しては、やはりこの奥さんのアジアさんの了解と言いましょうか、その働きということもそこに非常に大きくあって。
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そして他の手紙に見られない、こういう奥さんの名前までそこに出して、ピレモン、そしてアジア。それから同じ年かどうかわかりませんけれども、同じ青年の先輩であったでしょう、この息子のアユキ君。
ですから、ひとりの人のためにパオロは、それこそピレモンと奥さんとアユキ君ととにかくあなた方にお願いしたいんだという、そういう思いつくがそこに伝わっているじゃないでしょうか。
こと、あなた方のところで持って働いていた、言うならばとんでもない青年だったけれども、しかし彼が変わったんだと。だから何とか彼を受け止めてほしいということのためにはピレモンだけじゃない。やはり奥さん。
そして一緒にそこでね、同じ年齢でやっていたかもしれない、その息子のアユキ君。
一つ一つといった出だしですよ。もちろんその他の人たちのこともそこに含まれております。あなたの家にある教会へですから。
ですから、このひとりの人のためにこの家族と、そして他の人も含めて、ぜひともこのことをお願いしたいというこの出だしです。
私たちはこの一説、二説のこのパウロの飛び出しから容易に想像できることのひとつは、本当に自分のようなもののために。
神様は、自分の知らないところでもって、どれだけ大勢の方々にそういう協力者を、あるいはその時にはよろしくお願いしたいんだということでもって、手を回し、そしてやっていることか。
私はスウェーデン・ホリデス・ミッションという団体が白川という遠くの田舎に来て、そして航空支援船に電動した、そういう中からこの国はできた。
スウェーデンの人は私は、なんだこれはアメリカ人みたいな顔だなと思ったくらいに、同じ白人ですからわかりませんでしたよね。
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今でもスウェーデン人とアメリカ人と出されてもわかると思いますよ。
しかしこの家族が、あえて言うならば、私というこの一人の人間のために、あの遠いスウェーデンという国から送り出されて、そしてこの働きをしている。
ですから私は、その選挙地の家族の中に、時にはそこの長男が私の一つ上でしたからね、そこは結構子供たちが大勢おりましてね、ですから中に入っていると楽しいというか、そんな感じも最初に持ちました。
まあ信仰抜きにしてね、いいなあという感じでした。
けれども考えてみますとね、こういう意識に考えますと、神様はるばるスウェーデンからこの家族を送って、そして私この人間のために。
で、これは後々にだんだんとそうじゃなかったかなあと思い起こすことは、選挙主はやっぱりレポートが大切ですから、そういう自分のために支えてくれている、あるいは献金してくれている、そういう教会や皆さんにこうレポートずっとくるわけですよ。
大工ってね、おそらく私が教会に来た頃、私は何も信仰抜きとかそんなことも何にも関係ないで来ているにもかかわらず、最近こういう高校生が教会に来ています。
名前は斎藤渡ですという、まあそういうふうに書いてあるんじゃないかなと。
そういうこともするんですよ。選挙主はやっぱりそういうレポートを送って、働きをそこで紹介しながら名を祈ってもらう、あるいはサポートの献金をそこで持って送ってもらうというようなことがあるんです。
私の名前は私が知る以前から向こうの下記に伝えられたでしょうし、そしてまた私のために祈りが始まったと思うんですね。
自分の知らないところでもって、気がついてみたら、ああ実はこうだったのか、それで私が今あるんだな、私はそういう意味まで思うんですよ。
私が知らない関係なしにね、もう私が教会に行き出したときからみんなが祈りだしている。そういう中に自分が加えられている。
ですからこういう手紙のやりとりをおねじもが当時作っていたんだろうか、おそらく知らないんじゃないかなと。
彼はその当時、このパウロの元でもって一生懸命、彼の身の回りの世話をしながらやっていたぐらいでした。
そして不思議にパウロの気持ちの中には、このままおねじもが追ってくれたらせずに助かることがある。
兵隊はちゃんとやってくれますけどもね、しかしながらそれはもう兵隊という護衛兵ですから、そういう立場でのそれしかない。
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けどおねじもがそれこそ細かいところまでいろいろ気をつけてやってくれている。
まあこのまま追ってくれたら助かるなあと思う。
しかしだんだんとおねじもの存在がパウロにとっては便利だなあという、それだけではない。
果たして今のままでいいんだろうかというところから、それでこの手紙がピレモンに書き送られたわけです。
しかし当時のこのおねじもそんな背景知りません?
ただ思いもしないこんなローマでもって、ピレモンのもとでもって、
当時は何かわかったようなわからないような、もう時は居眠りばっかりしていたようなパウロ先生の話だけども、
しかし今こんなとこでもって、そのパウロの名前を耳にして、そしてパウロのもとに飛び込んできた。
そしてそれからパウロとのそれが始まって、やがてパウロとして彼は安田も信じていくわけですけども、
しかしその背景で、背後にこういうね、パウロとピレモンのもとでもってやりとりがなされていた。
そしてこれはまた次回にも知らせたいと思いますけども、
パウロにとって、この囚人のおねじもは、奴隷のおねじもは、
彼のどんな思いの存在になっていたかということがそこにありますけども、
しかし申し上げたいことはね、神様としては、私たちが心を向けた時というよりも、むしろ向ける前から、
それこそ神様は相同にといった表現がおかしいですけども、
イエス・キリスト、そして聖霊なる神、もう三密体の神がこの一人の最尊い人間のために動き出し働き出し、
そしてこの教会に定着し、そしてイエス・キリストを信じていくように、
そういう働きをされていたんだな、知らないのは自分だけです。
でも神様という方は、そういう方。
しかも、この手紙は最初に申し上げましたように、一人の人のために書いている。
ですから私はね、よくそれを思うんですよ。
神様がこんな人間のために、こんな一人のために、こんな熱い思いを持って、そして働いてくださっている。
しかも、イエス・キリスト様をこんな私のために使わせてくださっている。
私は、本当に聖書を読めと言われても、なかなか読んでもわからないものですからね。
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ですから一向に先に進めないというような、そんな聖書の読み方でした。
ところが、このローマ人の手紙を読み始めてから、
神様と私、イエス様と私、
本当にね、聖書というのが、こんな思いで持って私のために書かれているんだなという、
そういう個人的な理解の仕方というのが、そこで気が付いた。
それまでは、福音書を読んでもね、そういう出来事があった。
ええ、そんな、イエス様だからそれなさるんだけど、そんな考えられないなというのは、
もう半信半疑で持ってずっと読んでいる。
いや、むしろ、半信半疑というのはそんなことはありえないというようなことでね、それでこう読んでいた。
ところが、ローマ人の手紙から、理解の仕方というのは、受け止め方が変わってきたんですよ。
これは私のことじゃないか。
私のために、イエス・キリストはこういうことをしてくださっている。
その私がどういう人間か、というところから、自分の実態というものが少し分かり出した。
ですから聖書というのは、確かに全ても人のために読まれるための、この神の手紙ですよ。
けどもしかし、聖書は、それこそ自分に神が送ってくださったところの書なんですね。
ある先生が、福音書でもそうですけれどもね、その出来事の中に自分が存在していたならば、
そこに一緒におったならば、自分はどう反応しただろうか。
どのところで私は信じただろうか、あるいは見られないと言っただろうか。
自分をそこに一緒にさせて、そして読むときに、この聖書の出来事というのが、福音書の出来事というのが、
もっと分かってきますよ、ということを話されたことを、今も記憶しておりますよ。
聖書というのは、そういう読み方をするんだなぁと思いましたね。
そのようにね、ローマ人の手紙を読み出したとき、この赤い、
ですから、私は今でも表紙、裏表紙を持っていなくなってしまいましたけれども、
ローマに行って、初めて買った福音式の信学聖書、当時は文学聖書ですけれども、
ところが、ローマ人の手紙から、もうこういう赤い一線でね、もうすっと引っ張った。
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私はそれを後で見ながらね、そんなここの言葉を本当に理解して、
そして赤い一線をそこにやったんだろうかな、とこう思いますよ。
しかしそのときは、その年、やっぱりこの見事は私のためだ、
本当はこんなことを私のためにしてくださったんだ、ということで、
それはほんとこの赤い一線でアンダラインをしたんでしょうね。
今もそれあります。
ところが、福音書の方を見ますとね、小説の割に3.11とかね、
3.11ってあまりよくないですけれどもね、
今日だったら1日10日、今日何日ですかね。
もう新一社なんか最近ね、成歴と生成のそれもごちゃごちゃになって、
今もちょっと原稿を直していたんですけれども、
11月の9日、そういうふうにね、上向かうところまでそこに付けておくんですよ。
そうしてこないと、毎日読んでいたら別にないんですけれども、
たまにしか読みませんからね、
あれ、このあたりまで読んだはずなのになぁと思って、
それを付けていないと、また一から読みだして、
一向に先へ進まないということがあったんで、
11.9、それで次に12.3とかね、そういう日に日をついた。
そんな読み方だった。
ところがローマ人の手紙から変わった、聖書が。
直接自分のその心にね、
だからあれはまさしく聖霊なる神様がね、
私に語りかけてくださったということしか考えられない。
もうちょっとそれ一冊なんですけれどもね、
教会に行ってのこの元旦の集まりのときに、
私が教会でもお祈りをしたことがない。
来なさいと言われることができませんのでね、
それでいつも後ろに座って、
その当時はその当時なりに、もし命があったならば、
最速お命なんて言われたら大変だと思って、
こうしてね、近ばっかり見つけとったような、そんな思いがありますよ。
まあ、今こういう立場から言うならね、
こんな来て間もないところにね、
お祈りをお願いするとかそんなことはしないわけですよね。
ところがね、そのときは大体3人ぐらいにお祈りするんですけどね、
みんなお祈りし始まったんです。
えー、ちょっと今日はやばいなって、
友達と一緒にね、だんだん順番がこっちから、
お前先にお祈りせよとかね、
じゃんけんして負けた方がやるんだって、
なんかそんなことまでやってね、
36:01
初めてそこで思って、
何を祈ったかわかりませんけれども、
お祈りしたのは確かなんですよ。
けどもこれは後になって、
先ほどの聖書のことに絡むんですけどもね、
あのときにお祈りをしたってことがね、
もうそれまでは信じるとか信じられないとか、
あれは何言ってるけども、
あんな馬鹿なことないとか言って、
こう固く自分の心の中に心をしておった、
それがね、やっぱりお祈りをした時、
何を祈ったか覚えてないけども、
祈りってやっぱり神様に心を開くことなんだな。
ですから、そこからね、
精霊があたたきなさって、
そして、だからその聖書の言葉が、
自分なりにわかりだしたのは、
多分、あのあれですよ、
もう半年かそれぐらい経ってからのことですよ。
それからこうして線を引くようになった。
つまり、精霊は、
この聖書を通して二言を通して、
私に語り始めた。
精霊ってそういうものなんですね。
ですから、わからなかったらわからないでいいんですよ。
そこを過ごしてきたら。
しかし世の中でね、やっぱり自分の、
その時の霊性って言いましょうか、
何かこう迫ってくるものがある。
ですから私は無理してね、
わかって、それから先へ進むってそんなこと、
わかって先へ進むって言ったらもう、
永遠に先へ進まないんだから、
とにかくずっと見たらいいって言ってね、
そんな聖書の読み進め方をしたこともありますけども、
しかし私は福音書、
日課の働きなんか全然わからなかった。
けども、最も何回とも言われる、
ローマ人の手紙だったら、わかりだした。
本当わかるはずのない、
それがわかりだした。
カルヴィンというね、説教家がおりますけども、
もちろん公開説教でそれが残ってますけども、
この人がね、ローマ人の手紙からは、
メッセージは聞いたことがないっていう、
そういう質問が残っているぐらいに、
そこからメッセージをすると難しい。
まあ言うならば、キリスト教教義の中心の、
ローマ人の手紙には書いてあります。
だから私はね、
そういう説教集を読んだとか、
メッセージの説教を聞いたからじゃなくて、
個人的にそこを読み出して、
聖書が、
ああ、自分のためにこのことが起きている。
パウロは、
たった一人のオネシムのために、
フィレモン、アティア、
そしてアルキヴォ、
もうみんなに呼びかけて、
そしてこのオネシムのために。
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ですから、
もしオネシムはそういう戦いを知り、
彼はここを、
本当に死の前に感謝していると思うんです。
神が渡すのために、
この聖書を送ってくださっている。
ぜひ受け止めていきましょう。
そして、
これから何回か機会があるときに、
またこのペルーの手紙の、
この跡を開いていきたいと思いますけれども、
今日ちょっと1節2節でお話ししましたけれどもね、
ぜひ、
自分が、
閉じなされている川におる、
オネシムだ、
ということを、
このフィレモンへの手紙を読むときに、
覚えてくださったら、
そうすると、
このフィレモンへの手紙の、
その大筋が、
ときに、
神様の御心が、
こんな私の人にはない、
それが、
分かってくる。
信じられてくる。
ではお祈りいたしましょうか。