1. 名谷教会
  2. 2019/04/07:ヨハネの福音書講..
2019-04-07 24:55

2019/04/07:ヨハネの福音書講解説教(58)わたしは渇く

 2019/04/07 聖日礼拝

尹善鎬牧師

ヨハネの福音書 -30

00:01
みなさん、おはようございます。
4月になりました。新年度が始まっていますね。世の中では、令和でしたっけ、新年度が始まっていますけれども、
名谷教会もこのように、大人と子どもがみんな神の家族として一緒に礼拝できることを本当に感謝いたします。
普段と変わって、ちょっと異質か違和感があるかも大人のみなさんはね、ざわざわして気になるなと思われるかもしれませんが、
神の家族として、喜んで礼拝していきたいと思います。
それでは、ごステージの前に隣の方々、挨拶しましょうか。
はい、挨拶しましょう。ありがとうございました。
それでは一応とみじょくお祈りいたします。子どもたちもほからせてお祈りいきましょう。
ジエスはつい武道家を受けられると、神におったと言われた。そして、頭をたれて、礼をお渡しになった。
神様、感謝します。このように、今から神の御言葉をお聞きいたします。
一人一人の心の中に、大人の心にも子どもの心にも、神のお恵みの御言葉を、主よ、語って下さいますように。
そして、悟って従えるように、主よ、恵みを強く豊かにお与え下さい。
ジエス様の御名によってお祈りいたします。
アーメン。
感謝します。
今日はですね、弱音の勲章も続けてお話をしていきたいと思います。
タイトルは、私は化学、私は化学ということであります。
ジエス様の十字架のお話をしていきたいと思います。
ジエス様の十字架は、許し。許しの大きなシンボルです。
皆さん、誰かに許してもらった経験がありますか?
わぁ、本当にありがたいと、許してもらった。
お母さんに、お父さんに、友達に、実は悪いことをしたのに、許してもらったこと、子供だしないの?
あるいは皆さんが、自分に悪いことをした人、嫌なという、そういう人のことを、許したことはありますか?
03:06
ジエス様を信じるということは、信仰を持つということは、そのジエス様の十字架の許しの恵みを、大きな大きな恵みを、もう分かって、味わって、経験して、
ああ、神様、感謝します。こんなものも許してくださって、本当に感謝しますと、応答すること。そして、自分も人を許すこと。
そこに、ジエス様の十字架の許しという恵みが、そこに現れるんです。
ですから皆さん、立派な信仰を持っているクリスタン、すごいな、いい信仰を持っているなと思われる、そういったクリスタンの特徴と言いますかね、どんなものでしょうか。
それは、いろいろあるかと思いますけれども、このジエス様の十字架の恵みを知っていて、経験している人たち、ああ、ジエス様、感謝します。
こんな私の悪いところも、神様、何の要求も条件もつけなくて、どこからどこまでも許してくださったこの恵みを、あれれ私は感謝します。
だからね、十字架の前に行けば行くほど、実は自分は大きな罪人なんだ、でも神様は許してくださったんだ、この二つが交差するわけなんです。
そしてそこに、大きな恵みとその祝福に感動するわけなんです。
ところがどうでしょうか。私たちはですね、自分も足らない人間ですけれども、私たち人間というものは、人というものは、完璧な親も完璧な兄弟も家族も、この地球上にはないと思うんですよね。
ところが欠けているところがある、弱いところがあったりするんですよね。そして人は育っていく中で、実は親から兄弟から友達から会社の同僚から上司から部下からいろんな人から、いい影響ももちろんもらいますよ。
恵みも恩恵ももらいますけれども、時には嫌なそういう心の傷を受けさせられることもあるんじゃないですか。人から傷つけられることが実はあるんですよ。
06:03
その中である人は、例えば、親から家族からなかなか許された経験がなくて、そのまま大人になったりする人もいたりする。なかなか人に許された、ああ感謝しますという、まず家政の中であるいは友達の中でそういう経験がない人もいたりする。
このような人が大人になったらどうなると思いますか。なかなか許された経験がないから、怒られないためにだいたいそういう人は何でも真摯に一生懸命やるんです。
許された経験がないから、怒られないために、人の怒りが怖くてそこから吐けたいから、何でも一生懸命やるんです。仕事でやろうが、勉強でやろうが、何でやろうが、一生懸命、必死に人間も努力を尽くします。
そこには頑張りはあるんだけれども、本当の喜びとか自由とか平安はなかなかないと思うんですよね。しかし皆さんどうでしょうか。このような人であっても、癒される道があるんです。
それは本当の意味です。イエス様の十字架の許しを味わって経験することです。頭で知ることだけではなく、自分の霊が、魂が、体が、心が、こんなものも主が許してくださった。
許すために十字架で済んでくださった。私が死ぬべきなのに、私が悪いことをしたのに、イエス様の代わりに死んでくださった。何の値もない。それが分かるほどになります。
喜んでいたり、泣いたり、あるいは他の人にもこの十字架の許しの恵みを使いたくなるんじゃないでしょうか。神様は一人のイエス様を惜しみなく、私たちの失敗や罪や悪いところを完全に許すために、もうなかったことにするため、十字架の上で死んでくださいました。
09:03
だから、この十字架の上の恵みを分かる人は、本当の許しを経験できるから、そこで全ての心の傷が、弱さが癒されて、解決されて、解放されるんです。それが許しの祝福なんです。
皆さん、簡単に考えてみましょう。誰かを本当に憎しんで、憎しんで、嫌な気持ちを持って、ずっとずっと恨んだことはありますか。泣くってほしいんですけどね。
あの人はもう絶対許さない。もうずっと恨みを何年も何十年抱えていて、そしたらその人の顔が本当に太陽のように、お日様のように明るいんでしょうか。すごく元気なんでしょうか。
恨みを憎しみをずっと抱えている人は、その人生が、言葉が、顔が、霊が、全てが、もっくらだ。心が病んでいるから。だから、一生懸命何かを成功しても、金持ちになっても、あるいはクリスチャンだとしたら、一生懸命放棄をしていても、心の中に許しを経験していない。
人を許していない限り、その人生の祝福は神様から届かない。だから、私たちは毎日イエス様の十字架を深く目指し、十字架の下でイエス様に出会って、こんなものも許してくださったならば、私も許そう。そういう風にかなるんですよね、皆さん。その喜びを、恵みを伝えたくなるんですよね。
ところが皆さん、私たちは十字架の許しという愛の、実は愛の借りを持っているわけなんです。しかも、この十字架の許しという借りを、私たちは完全に返すことはできないと思うんですよね。
完成できません。神様にイエス様に。しかし神様は、私たちはこの地上において生きていく中で、この神の十字架の愛という借りを返すことができる道を、神様が許しておいてくださいました。それが実は、主の祈りによく現れているんです。
12:11
さあ、ちょっとね、聖書を開きましょう。字幕にありますけれども、時間がないので、これを一緒に読みたいと思います。マサイの国書6章12節です。主の祈りのもともとの伝説講座なんですよね。さあ、一緒に読みましょうか。
私はですね、イエス様に、イエス様、私の悪いことを許してくださいと祈るんですよね、皆さん。
ところが、その祈れるためには、神に祈れるためには、まず、しておかなくならない前提があるんですよ。先にやるべきことがあるんですよ。何でしょうか。私に、お祈りの私に、悪いことをした人の、その人たちを許しましたと。先に私たちは許すんですよ。
それから、イエス様に許されたから、許されるならば、後からと許しましょう、ではないんですね。先に皆さんが、自分に悪いことをした人、あるいは、私から恨みを与えている人、嫌なという人を、先に許して、それが済んでから、イエス様に私の罪を許してくださいと祈ることです。
順番は変わってはいけません。これが、イエス様の教え。
このね、さっきのその御言葉を、昔読んだ本に、ちょっとインパクトのある絵ですけれども、今からちょっと絵を見て、許しということがどういうものなのか、ちょっとお話ししたいと思います。
人を許すとき、ちょっと前を見てくださいますか。子供たちも見てね、これから絵が出るからね。人を許すとき、起こる本当の自由、祝福があるんですよ。
はい、次。さあ、左の方が私たち自分です、皆さん自分です。右の方は、ある人です。右の方のある人が、皆さんに、私に、何か悪いことをしました。
それはまるでですね、大きな鎖をね、せかせみたいな、そういったものを、私たちのものに投げ込むことと似ています。
そうすると、どうなるんですか。傷を受けます。傷つけられます。まだまだまだ、私はずっとしていらっしゃる。
痛みとか傷ができちゃいます。心の中に、記憶の中に、嫌な気持ち、傷がね、自分にできちゃいます。次。
15:06
そしたらどうなりますか。悪いことをした人は、罪を自分の、まるで首みたいに首かせをしてしまうことになります。
そして私は、あの人を恨み続けます。憎しめます。
そしたら、実は、あの人の罪と自分のこの関係が、距離は離れていても、私は日本にいて、あの人は南米にいても、実は恨みという、憎しみという鎖に縛られているわけなんです。
実は、目に見えないだけで、心の中に縛られているんです。
言いませんが、ある姉妹の人は、結婚していなかった。でも子供ができてしまった。その男性は責任を負わず去っていった。
この姉妹は、もう命だから、産んで育ちました。しかし、確かにあの人がね、男性が悪いことをしましたけれども、ずっとあの人を恨み続けて、憎しみ続けていました。
自分に来たのは、心の病。そしたらどうしたらいいでしょうか。次。
実は、解決方法は、相手が本当にね、謝って許しを求めに来たらいいんですけれど、大体、悪いことをした人は、外にはない大体、なかなか難しい。
もちろん、その人がよい様に出会ったならば、先に謝りに来るでしょう。しかし、なかなかそれができないんです。
もし、私は栗さんで相手がね、神を知らない人としたら、実は自分の手首に足首につけられているこの鎖を、自分でそれを解いて、
そして、実は悪いことをしたあの人のことも、許す時に、恨みという鎖は、人を許す時に、それがその筋。
そして、私は、心の中にある傷を、恨みを、痛みを、悔しさなどすべてを、神ひたりがね、ちょっとペンになっているのは神の手ですけれども、神様に委ねることです。
その、悔い改めていない、謝っていないあの人のことも、神様に委ねるんです。それが、周辺のダビデの地へにたくさん出ているんですよね。
その時に、本当にいられた時に、自由が、解放が、喜びが、癒しが、心の病が、鬱が、パニクが、体の病気が、本当に癒されます。
18:05
それを、私たちは十字架を通して経験する時に、本当の自由が、本当の癒しが与えられます。
はい、ここまでです。ところがどうでしょうか。現実を見ると、言わないだけで、クリスチャンもノンクリスチャンも、夫婦の仲が悪くて、別居している人が、実は少なくないんです。
あるいは、自分に悪事した人をずっと恨みつける人が、少なくないと思います。あるいは、人にやられてできた心の傷をずっと抱えている人たちも、結構いると思います。
それで、人生がこじれてしまう。鬱やパニクになる人。実は、私の周りに、実は多くいると思います。ただ、隠されているだけだと思います。
それを解決できずに、一生懸命仕事をしても、勉強しても、成績が良くても、給料が上がっても、そこには祝福と恵みが神様から届かない。
もしなら、許しを経験していない。許していない。それが大きな大きな分厚い塊になって、邪魔者になって、神の祝福が私に、家庭に、教会に届かない。
どうしたらいいでしょうか。
また、えのくにと十一と二十八節を見ていきましょう。一緒に見ましょうか、みなさん。
すべて三拝、すべて疲れた人、おもにを負っている人は、私のところに来なさい。私があなた方を休ませてあげます。
いいでしょうか、みなさん。
答えは、解決方法は、イエス様の十字架のもとに行けばいい。
そこで食い改めて、自分がどれだけ大きな罪人なのか知り、そして十字架の緩きの恵みを確かめて、観察して、祝福の人生に導き入れていただくことなんです。
覚えていてください。許しのない人生には祝福はありません。許しのない教会には祝福はありません。
その許しのない心が大きくて分厚い、もう壁になっているから、届かないです。届かないです。
21:06
しかし十字架のもとに行けば、許しがわかってくる。そして自分も許されたものとして、許すものに変えられる。
そこに神のシャロームが、平和が来るんです。
以前、何回もお話しさせていただきましたが、私自身も亡くなった父親に、
あるいは結婚して短い時間の間、妻との関係もこじれていた時がありました。
その時には、我々の心は地獄みたいなんです。
数月で寝臭いして教会に来ていても、心は実は地獄なんです。
なんででしょうか。和解されていないから、許されていないから、
そこの中に憎しみを、誰が?自分が握りしめているからなんです。
それを解くのは相手ではないです。自分が自分の鎖を自分の手で解くんです。
というふうに、精霊に満たされて、導かれて、神様に祈って、
主よ、私に本当のイエス様の十字架の許しを経験させてください。
本当のあの許しを、自由の祝福を、私にも知ろう、分かるようにしてください。
本当の自由が欲しいんです、と。
そして、自分も全ての鎖から解放される、全ての鎖が解放される。
そこを私たちに乗り越えていただくとならないんです。
イエス様は、私は渇くと言われました。
イエス様はどれだけ私たちの救いを、平安を、平和をどれだけ切に願って願っておられるんでしょうか。
イエス様の体の喉が渇くほど、イエス様の魂が霊が渇くほど、
私たちの救いや救福を切に切に願っておられるから、
イエス様はあの十字架の上で、私は渇くとメッセージを送りたいと思います。
願わくは、私たち一人一人が、家族が、教会が、この十字架の許しという大きな恵みを知りましょう。
悟りましょう。体験させていただきましょう。
24:02
そして私たちも、人の追い目を先に許しましょう。
恨みとか、悔しさとか、憎しみとか、許さない気持ち、心の傷を、もし抱き続けているんでしょうか。
それを精霊によって止めさせていただきましょう。
許しましょう。まず許しの恵みを経験させていただきましょう。
そこから本当の嫌気が、魂の嫌気が、心の嫌気が、体の嫌気が、関係の嫌気が、そこから湧いてくるんです。
特に皆さん、まもなく十何周が始まります。イーサが始まります。
今年はですね、絶対にこの恵みをいただきたいと。
それでは、今からはですね。
24:55

コメント

スクロール