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2026/06/14:神の子とされる Good News
2026-06-14 20:40

2026/06/14:神の子とされる Good News

2026/06/14 聖日礼拝

加藤歩名牧師

マルコの福音書 1:1-11


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サマリー

本日の礼拝では、加藤歩名牧師がマルコの福音書1章1-11節に基づき、「神の子とされる」というテーマでメッセージを届けました。私たちの心の荒野に神様がどのように関わってくださるのか、そして神の子イエス・キリストが私たちの痛みの場所に共に来てくださること、さらに私たちは何かをする前から神の子として愛されるという希望について語られました。教会は、ありのままの自分で神様に愛されているという安心感を知ることができる場所であり、宇宙一の味方である神様の希望を共に受け取る場所であると結ばれています。

祈りと礼拝への招き
お祈りをお捧げいたします。
主の神様、主の皆を賛美いたします。
主が愛しておられるお一人お一人とともに、
教会に集い、神様を礼拝できますことを感謝いたします。
ともに二言葉をつくときです。
神様にどれほど愛され喜ばれているか、
この大きな恵みをここにいる皆さんとともに受け取らせて下さいますようにお願いいたします。
子どもから大人まで関係なく、二言葉が届けられることを信じます。
どうぞ、かたあるものを憐れんで下さって、
主が恵みをお語り下さいますようお願いいたします。
ここに集えない方々、またCDを通して礼拝する方々にも、
ひとしく恵みを持って主が届いていて下さい。
おゆだねをし、イエス様の皆によってお祈りをいたします。
アーメン
心の荒野と神様の準備
皆様は今朝、どんなお気持ちでこのところに集っておられるでしょうか。
日曜日は新しい一週間の始まりです。
始まりのときは、すがすがしい穏やかな気持ちで過ごしたいと誰でも思うと思います。
でも私たちには、もちろんそうあれないときもあると思うのです。
私たちの心、毎日いろいろな天気が訪れるのではないでしょうか。
すっきり晴れ渡る日もあれば、今にも雨が降り出しそうな日もある。
ただただ深い霧の中にいるようなもやもやした日もあります。
なんか今日しんどいなとか、なんか今日家族にえらい当たってしまうなとか、
そういうときは皆さんがあると思います。
でも実は、このことというのはとても自然なことだと思うのです。
聖書を読んでいますと、大昔の人たちもみんな、私たちと同じように心の中に荒野を持っていました。
寂しい、不安、誰も自分のこと分かってくれへんねやろうなと感じるような場所。
それが心の荒野です。
今日私たちは、マルコの福音書の一章を開きました。
ここには、そんな私たちの心の荒野に、神様がどのように関わってくださるのかが記されています。
一節には、神の子イエス・キリストの福音の始めとあります。
福音、福音とは、今日のタイトルにさせていただきました。
グッドニュースという意味です。
聖書が語る最大のグッドニュースが、私たちに届けられているのです。
それは、私たちが神の子とされるということです。
私たちが神の子とされる。
神の子とは何なのでしょうか。
それは、何かができるから愛される存在ではなく、
ただそこに存在しているだけで、100点満点に喜ばれる存在のことです。
このグッドニュースが、どのように私たちのところに届くのか、
今日は三つのポイントで見ていきたいと思います。
最初のポイントは、神様は私たちのために、ずっと前から、いつでも準備してくださっているということです。
ずっと前から、いつでも準備をしてくださっている。
何の準備か。
私たちが神の子として生きるための準備です。
二節三節で、イエス様が登場するよりも、
何百年も前に書かれたイザヤ書の引用が書かれています。
見よ、私は私の使いをあなたの前に使わす。
彼はあなたの道を備える。
あらので叫ぶ者の声がする。
主の道を用意せよ。
主の通られる道をまっすぐにせよ。
ここで聖書は、主の道を用意せよ、まっすぐせよと命令をしています。
当時、王様が通る道は、でこぼこであってはいけなかったようです。
王様が通るときにガタガタしてはいけない。
なので、まっすぐ平らにしておくという準備をしなければなりませんでした。
私たちの心の中と重なるように思います。
私たちの心の中、不安やイライラしているときの私たちの心の中は、
でこぼこな道になっているかもしれません。
聖書は私たちにも、主の道を用意せよ、まっすぐにせよと命令しているのです。
きっと私たち自分でやるには限界がありますね。
でもその準備のために神様があらのに使わせた人、
それこそがバプテスマのヨハネです。
バプテスマのヨハネ、六節に彼の見た目というか、少しキャラクターが書かれていますが、
ヨハネはラクダの毛の衣を着て、腰に革の帯を締め、稲毎の蜜を食べていた。
現代、目の前にいたらちょっと危ない人に見えるかもしれませんけれども、
しかしこのヨハネは神様の大切な計画に用いられた人でした。
あらのに立ち、罪の許しに導く食い改めのバプテスマを述べ伝えたとあります。
ヨハネはあらので叫んでいたわけです。
何を叫んでいたか。
いわば、そのままの姿で神様の前においで、そう呼びかけたのです。
そのままの姿で神様の前においで、食い改めと聞きますと、
自分の悪いところを食いて、直してというようなイメージがあるかもしれません。
でも聖書が言う食い改めとは、方向転換です。
神様の方をとにかく向きなさい。
あなたがどんな姿かは関係ない。
方向を神様に向けなさいということです。
ヨハネのこの食い改めのバプテスマの言葉を聞いて、
たくさんの人が自分の弱さや失敗、手に負えないもやもやを抱えて、
ヨハネのもとに集まってきました。
みんな立派な人ではありません。
心の中がデコボコ、傷だらけです。
でも神様はそんな人たちのために、
何百年も前から道を備え、ヨハネを使わせて、
神様と出会う場所を準備してくださいました。
私たちも振り返ってみたいのです。
ああ、もうしんどい、だめだと、
現代では詰むという言葉を使いますが、
行き詰まるということが誰しもあります。
そんなとき神様は、私たちにもそのままの姿でおいで、
私の方向を向きなさいと、
安心して集まれる場所を用意してくださっているのです。
今日私たちがこの教会に集っていることは偶然ではありません。
みなさんそれぞれいろんな理由で、
明太に教会につながり集っておられます。
ある人は家族から誘われて、
ある人は人生の苦しい季節の中で、
この教会に導かれたと思います。
かつて人々がヨハネのもとに集められたように、
今私たちがここに集められていること、
これは神様がずっと前から準備してくださっていた、
神の子とされる愛の計画だということを覚えていたいと思います。
二つ目のポイントです。
イエス様と私たちの痛みの場所
二つ目のポイントは、
まことの神の子であるイエス様が、
私たちの痛みの場所に一緒に来てくださるということです。
9節を見てみますと、
イエス様がいよいよみんなの前に姿をあらわし、
ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられたと記されています。
ヨルダン川ってどんなところかをちょっと見てみたいなと思って、
画像を用意しました。
こんなところ、現代のヨルダン川だそうです。
ただちょっと観光地的な整備はされているので、
多少きれいにはなっているんですけれども、
次のスライドもお願いします。
今もこのようにヨルダン川で洗礼式というのは行われているようです。
すごく整った場所にはなっているんですけれども、
水の色を見てみてみなさんどうでしょうか。
日本の川がきれいというのもあるかもしれないんですが、
ちょっと緑に濁っているなという感じの、
イエス様が洗礼を受けられたぐらいだから、
清い川みたいなイメージが私は最初ありましたが、
思ったより緑なんだなと私は思いました。
旧約聖書でもナーマンという人物がいます。
体に病気を持っていたナーマンが癒されるために、
ヨルダン川で7回体を洗いなさいと言われて、
地元の川の方がよっぽどきれいだと怒ったという記事が旧約聖書にあります。
なのでヨルダン川は特別にきれいな川というわけではないんだな
ということを思うのです。
ありがとうございます。
そもそも不思議じゃないでしょうか。
イエス様は神の子ですから、悪いところは一つもありません。
なぜわざわざみんなと一緒に、
こんなきれいでもないヨルダン川で一緒に洗礼を受ける必要があったのでしょうか。
お開きできる方はお開きいただいたらと思います。
フィリピの2章6節7節にこのような言葉があります。
フィリピ人への手紙2章6節7節です。
新約聖書396ページです。
フィリピの2章6節7節。
イエス様は言わずもがな神様です。
けれどもイエス様は私たちの身姿であられるのに
神としてのあり方を捨てられないとは考えず、
ご自分をむなしくしてしもべの姿をとり、
人間と同じようになられましたと。
イエス様は言わずもがな神様です。
本来聖なる神様と私たちとは出会うことができません。
けれどもイエス様は私たちに会うために
神のあり方を捨てて下ってきてくださいました。
その神の子がイエス様が真っ先に向かったのが
みんなが悩みをかかえて集まるヨルダン川だったのです。
悩むとき、心がしんどいとき、
何が一番つらいかというと
自分はひとりぼっちだと孤独に感じることではないでしょうか。
そんなふうに考えちゃいけない。
みんなこんなことあるけどみんながんばってる。
自分でこんな言葉で
自分で孤独に追いやってしまうということもあるかもしれません。
でも天から下ってこられた神の子イエス様は
きれいな場所からがんばれと見下ろす方ではありません。
私たちがもし泥の中にいるなら
ご自分もその泥の中に入って
隣に並んでくださるお方です。
そして私もここにいる。
あなたの弱さも孤独も全部一緒に背負うと
あなたの痛みを全部一緒に背負うと言ってくださるのです。
イエス様は私たちと心を同じにしてくださった
それによって洗礼をまずご自身が受けてくださったのです。
最後の三つ目のポイントです。
神の子とされる喜び
私たちは何かをする前から
神の子として愛されるということです。
イエス様が水の中から上がられたとき
驚くべきことが起こりました。
十節
イエスは水の中から上がるとすぐに天が裂けて
御霊が鳩のようにご自分に下ってくるのをご覧になった。
聖書はここで天が裂けたと書いています。
私はここの歌詞を見るといつも鳩という言葉に目が行って
とても静かなきれいな穏やかな場面と思いながら読んでいました。
でも天が裂けるってどういうことなのかということを考えました。
裂けるわけです。
わからないですけれどももしかしたら
バリバリバリって音がしたかもしれません。
またギリシャ語でこの裂けるという言葉には
二度と元に戻らないほどにという意味があるそうです。
二度と元に戻らないほどに裂ける。
隔てていた分厚い壁を力任せにバリバリバリっと裂くような。
この場面は実はとても激しい場面なのかもなと想像します。
天と私たちを隔てる分厚い壁が裂かれた。
そしてその裂けた天の隙間から声が響くのです。
あなたは私の愛する子。私はあなたを喜ぶ。
この時イエス様はまだこの時までは
ある種普通の人として生きてこられたと思います。
病人を治す奇跡も素晴らしい教えを語ることもしていない時です。
いわば何も成果をあげてはいない時期ですね。
それなのに天の父なる神様はあなたを喜ぶと言われた。
何かを頑張ったから立派なことができたからではありません。
ただそこに存在していること。
それだけで神様は天を裂くほどに大喜びをされたのです。
イエス様はこの洗礼を通して
ご自分が神の子であることを表してくださいました。
そのスタートラインにあったのは実績や成果ではありません。
神様に徹底的に愛されているという事実だけでした。
そしてイエス様はこの神の子としての歩み
使命のゴールである十字架へと向かって行かれるのです。
私たちのすべての罪や失敗
心の泥を身代わりに背負って命を捨ててくださいました。
ご自分の命と生きかえに
神様と私たちをつなぐ道を完全に開いてくださったのです。
聖書はこのイエスキリストを信じる人は
誰でもイエス様と全く同じように
神の子とされると約束しています。
何かを頑張って神の子になるのではありません。
自分は徹底的に神に愛されているという事を信じて
イエス様の手を握るだけで
百点満点の神の子とされる。
これが聖書が語る最高のグッドニュースなのです。
教会にはいろんな世代の人が集まります。
ここに集まっている人生の先輩方も
長い人生の中で
この点が裂けるような神様の愛に出会い
支えられて今日まで歩んで来られたのだと思います。
何もない弱くて不完全な自分のままで
神様に愛されているという
神の子としての安心感を知っている方々だと思います。
教会は良い子で
頑張らなくてはいけない場所ではありません。
学校、仕事、家でのこと
心の中がどんなにぐちゃぐちゃになっても
そのままの姿で来ることができる場所です。
私たちが信じている神様は
宇宙一の私の味方だからです。
そんな神様のことされる希望が
すべての人に与えられていることを
共に受け取り、共に喜び合いたいと願います。
子どもから大人まで
すべての人が神のことされるのです。
一言お祈りをいたします。
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