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2026/05/31:使徒信条(5)聖霊によってやどり処女マリアより生まれ
2026-05-31 32:56

2026/05/31:使徒信条(5)聖霊によってやどり処女マリアより生まれ

2026/05/31 三位一体主日礼拝

加藤満牧師

ルカの福音書 -38


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サマリー

本講話は、キリスト教における三位一体、二性一人格、処女降誕、復活といった、人間の論理や科学では理解しがたい教義について、信仰とは何かを問い直す。 牧師は、これらの教義が非論理的・非科学的であるために初期教会から異説が生じたが、正統教会は神の超越性を信じ、あえてそれらを維持してきたと説明する。C.S.ルイスの言葉を引用し、神を理解できる存在に矮小化しようとする人間の誘惑と、それに抗う信仰の姿勢を説く。 信仰のモデルとして、受胎告知を受けたマリアの応答を取り上げる。マリアは「どうしてそのようなことが起こるのでしょう」と、方法を尋ねたが、それは実現自体を疑うザカリアの応答とは異なり、不信仰ではないと指摘する。神にとって不可能なことは何もないという御使いの言葉と、エレミヤ書の言葉を重ね合わせ、道筋が見えなくても神の約束を信じることの重要性を強調する。 さらに、イエス・キリストの二性一人格(100%神であり100%人間)が、神と人間の仲介者として不可欠であること、そしてイエス・キリストを見つめること、その十字架の愛に目を向けることが信仰の核心であると述べる。最後に、信仰とは「視線」であり、自分やお金、他者ではなく、キリストを見つめること、そしてキリストのように生きることが真の礼拝であると結んでいる。

はじめに:信仰の難しさと思いの中心
それでは一言お祈りを致します。
恵み深い愛する天の父なる神様、相当いみなお心から賛美を致します。
今朝は賛美一体手術を迎えております。
改めて、この世界を創造し、堕落してしまった世界をなおも諦めずに、
ご自身の祝福をもって回復させようと、その熱情をもって今も働いてくださっている父なる神様、
そしてそれを受け止めて、ご自身の命を私たちのために捧げ、
その十字架の使用により私たちの罪を許し、復活の命をもって私たちを今も生かしてくださっている父なる神様、
そして二千年前の出来事でそれを終わらず、今私たちにその救いの御業を告げ知らせてくださる聖霊様、
今なお賛美一体の主御自身が、神様御自身が、この世界を覆い、この世界に救いの御業を進めてくださっている、
その事実を覚えて心から皆を崇めます。
そして主をそのような救いに入れられた私たちもまた、その主の救いの御業を共に担い、主の業に励むようにと励まされ続けています。
それぞれのうちに戦いがあり、うめきがあることを知っています。
しかしそれをも全て御存じで、私たちのためにうめき、私たちのために参願し、なおも倒れることはない、
あなたの下には永遠の身腕があると、あなたは強い励ましをもって日々、私たちを生かしてくださっていることを感謝を致します。
どうか主よ、この礼拝のうちに私たちの目と耳と口等を開いてくださり、今一度見るべきお方を見つめることができ、聞くべき言葉を聞くことができ、
あなたへ祈るべき言葉を開くことができるように、私たちを導いてください。
そして本当に生きる主を仰いで、あなたと共に生きる勇気をここから得ることができるように、主が望んでください。
お願いいたします。
ここに来たくても来れないお一人一人がいることも知っています。戦いの中にいる人がいることを知っています。
どうかお一人一人のうちに主が共にいてくださり、その場で一生青く礼拝を祝し、それだけではなく、
本当に全能の主の身力を信じる信仰をあなたがお与えくださいますよう、お願いいたします。
今朝も御言葉を開いてください。
あなたの言葉によってあなたご自身を示してくださり、あなたと共に生きることができるよう、私たちを今朝も導いてください。
お願いいたします。
御手にお枝にして、イエス様のお名前によってお祈りをいたします。
アーメン。
先週私たちはテンテコステをお祝いをいたしました。
その翌週はキリスト教会では三味一体主実として祝われております。
改めてお祈りをしたように、父なる神様、子なるイエス様、そして聖霊なる神様が今なおこの世界に救いの御業を続けてくださっている、
そうなしてくださっていることを私たちは信じ感謝して受け止めるものですし、
そしてまたそのような神様を私たちは信じることができるんですね。
信じることができるという、本当にその恵みを感謝しております。
実は先ほど申し上げましたが、三味一体というものはキリスト教では信じられています。
ただこれは実に信じづらいものです。
神様は三であり一であるというのは、実はこれはもう完全に論理が破綻しています。
三であるものが一つの要であると言っているわけではない。
キリスト教は三が一だと告白をしている。
それだけではなくて、例えばイエス様については二性一人格という教理がありますが、
言わばイエス・キリストは100%神であり100%人間であるとキリスト教は信じます。
これも50%50%じゃないです。100%100%なんです。
だからこれも論理矛盾ですね。
それだけではなくて、イースターも私たちは祝いましたが、
死から人がよみがえる。
実に信じがたいことです。
そして今朝少し見ますが、このマリアにイエス様が宿ったのも諸女法壇と言われます。
これも信じがたいことです。非科学的です。
このようなある種非論理的で非科学的なことを人は信じられませんね。
だからキリスト教の初期から実はこのような矛盾に感じるようなもの、
非科学的なものは、そうじゃないんだということを言いたい、
そのような説はいくつも最初から出てきました。
キリストは神であって人間ではないだとか、
三味一体という三つの神様は一つではなくて一つの様なんだという説は現れてきましたし、
復活したようにみんな思ったんだというような意見も出てまいりました。
しかし正統教会はそれらすべてを遺憾として退けました。
むしろ正統教会はこの三味一体、三が一であるという複雑さ、
矛盾、論理破綻、それをあえて維持してきました。
なぜかそれは神様が人間の論理で測れるわけがないという信仰です。
神というお方が人間に捉えきれない。
当たり前じゃないか。
なぜそれを捉えられる小ささにするんだ。
違う。神は捉えられない。
捉えられないままで私たちは信じようというのが、
実は教会の信仰として残ってきたものです。
それは大事なんですね。
マリアの応答:信仰のモデル
キリスト教の文学者で有名なシエス・ルイスという人物がいますが、
彼がこのように書いた文章があります。
現代人、いわば理性を重んじている近代人も含めてですが、
現代人は神を信じることができる。
しかしその時彼らは自分が持つ聖書や信仰や神に対する疑問を問い、
答えを得ようとする。
そして与えられた答えに納得すれば信じるのである。
しかしちょうどそれは、神を非国籍に立たせ、神を尋問し、
納得できる答えを神が与えることができたら信じようというのと同じである。
しかしそのようにして神を信じたとして、果たしてそれは信仰だろうか。
本当は私たちが非国籍に立ち、
神からの問いに答えなければならないのではないかというような文章を残しています。
わかるような気がいたします。
私たちの中でよくある誘惑は、
とらえきれない神様を手のひらに納めたいということです。
そして私がわかりきれる神様としていつもとらえていたいという誘惑です。
しかしそれは聖書の中で語られるところの偶像腐敗ですね。
では私たちが神を信じるというのは改めてどういうことなんでしょう。
いわばそれは神様の大きさを全くトーンダウンさせずに、
むしろ神様の大きさを大きさのままで信じ、受け止めて生きていくということです。
でもそれはどのような姿勢のことを指すのでしょうか。
今朝はそのことを少し見てまいりたいと思います。
3つのポイントで見ていきます。
1つ目それは受け取るということです。
受け取るということです。
キリスト社の信仰ということを考えるときに、
一番モデルになるのはイエス様のお母さんのマリアの存在ではないでしょうか。
先ほど読んでいただいたのは、いわばマリアの受胎告知と呼ばれるシーンです。
マリアのところに密かいガブリエールが現れて、
そしてあなたは救い主イエス様を見守りますよと語られる。
余談ですが、このときマリアはおそらく13歳くらいだったのではないかなと言われます。
女性の成人が12歳ですから、そこから結婚が大体13歳くらい。
中学1年生くらいの女の子のところに、このような特別なことが訪れた。
密かいは立て続けに彼女に言うわけですね。
ちょっとだけ言葉を見ますと、28節。
おめでとう恵まれた方、主があなたと共におられます。
そして30節。
恐れることはありません、マリア。
あなたは神から恵みを受けたのです。
見なさい、あなたは身ごもって男の子を生みます。
その名をイエスと名付けなさい。
その子は大いなる者となり、糸高き神と呼ばれます。
また神である主は、彼にその父ダビデの大いを与えになります。
彼は常しえにヤコブの家を治め、その支配に終わりはありません。
マリアよ、あなたは王の母になるのだ。
そのようなことを密かいに告げられる。
実は注目したいのは、この奴のマリアの応答なのです。
彼女はとても素晴らしい応答をします。
34節。
マリアは密かいに言った。
どうしてそのようなことが起こるのでしょう。
私は男の人を知りませんのに。
実はこのマリアの応答は素晴らしいものです。
これはなぜ素晴らしいか。
実はこのマリアの応答の言葉というのは、
1章18節に書かれているザカリアの応答の言葉と比較して考えるときに、
その特徴がよく見えてまいります。
ご存知のように、このルカノク印書1章は、
マリアへの受胎告知の前に、
アキテスマのヨハネのお父さんになるザカリア、
大使ザカリアに密かいが同じように子供が生まれますよということを
告げるところから始まります。
同じようにザカリアに密かいは告げるのですが、
ザカリアはこのときどう答えたか。
18節。
ザカリアは密かいに言った。
私はそのようなことを何によって知ることができるでしょうか。
ザカリアは、この私は年寄りですし、
妻ももう年をとっていますと彼は言います。
実はザカリアは何によってと言いますが、
このことがちょっとギリシャ語で直訳するとこういうニュアンスです。
それは、どのような証拠で私はこれを確信できるでしょうかということなのです。
どのような証拠で私はこれを確信できるでしょうか。
ザカリアは年老いた妻から子供が生まれる。
そんなことあり得るのだろうかということを悩みます。
ザカリアは実はここで密かいが言ったこと、その実現自体を疑っているのです。
そんなこと本当にあるの。
そういう疑いです。
そしてそのためには私を納得できるような証拠をくださいと彼は言います。
いわばどのような証拠を与えてくれますか。
それを神様私に証拠を与えてくださいということを彼はここで告げるのですね。
しかしこれは先ほどのルイスの言葉を借りるならばまさに、
神を非国籍に立たせるような聞き方ですね。
主を信じられませんから証拠をください。私は納得ができたら信じます。
しかし1章の20節に書かれていますが、
密かいはこのザカリアの応答を聞いてあなたが信じなかったと彼は言います。
いわばザカリアのこの姿勢は不信仰であるというふうに捉えられるのです。
証拠をください。
しかしマリアに戻りましょう。
マリアはどう答えたのか。
もう一度彼女の言葉は34節ですが、
どうしてそのようなことが起こるのでしょうと彼女は聞きました。
これも直訳をするとこういう言葉です。
それは、どのようにして、これはHowなのです。
どのような方法をもってそのことが起きるんですかと聞いている。
これは何を言っているのか。
これはどのようにして、いわばプロセスを確認する言葉なのです。
いわばこれは、マリアは密かへの語った内容そのものの実現を疑っていないのですよ。
そうなるでしょう。
あなたがそう言われたなら、そうなるでしょう。
でも、そこにどのようにして行き着くんですか。
その道筋がわかりませんということを彼女は言っている。
マリアのこの問いというのは、実に私たち自身も抱きやすいものではないかなと思う。
問いますのも、私たちもおそらくは、長年皆さん信仰生活長いですから思うのは、
神様信じてますよね。
神様を信じている。
そして、自分の様々な問題があるときに、神様はこのような約束を持って私をこのところに導いてくれるということは、それぞれは信じている。
もしくは、信じたいという思いもある。
でも、そこにどう行き着くのかが見えない。
そこにどう行き着くのかの道が全く見えないから、自分はどうなるのでしょうかということをうめく。
先ほど申し上げましたが、特に神様を信じようとする人たちにとって一番のつまずきは、この三味一体とかです。
三味一体、二生一人格、死者の復活、処女降誕、そんな非論理的な、非科学的な内容をどのように私は信じればいいんですか。
信じることが素晴らしいことはわかっている。
でも、私は納得させてもらえていない。
だから信じられない。
道筋が見えないなら信じられない。
でもまず、ご一緒に考えたいことは、そのようなマリアの言葉はまず、御使いには不信仰だとは言われていません。
私たちに大事なことは、御言葉の約束がある。
でもそこの道筋がわからない。
もがく不安になる。あるんです。
でも、それは不信仰ではないんです。
むしろ私たちはそのような中で、うめきながらも、
でも神様、あなたはどうなさるんですかとそこで悩みながら生きていく。
不信仰じゃないです。
むしろそれは、死を追い求めている、神様を信じる姿勢そのものだと思っています。
そして御使いはマリアのその問いかけがよくわかっています。
その御使いがマリアに対して出した答えは37節です。
この後、精霊が下るんですよ。
エリザベスも子供を産むんですよ。大丈夫ですよということを言うんですが、
最終的に御使いが言ったことは37節です。
それは、神にとって不可能なことは何もありません。
神にとって不可能なことは何もありません。
乱暴に聞こえるかもしれません。
御使いは道筋を説明はしません。
でも、ただ信じなさいなんですよ。
神には不可能なことはないんだから、ただ信じなさいなんですね。
でも私たち改めて思うのは、信仰というのはそういうものじゃないでしょうか。
実はこの1章の37節の背景には響いている旧約聖書の言葉があります。
ちょっとだけ紹介をしますが、開ける方だけで結構ですが、
エレミア書の32章です。
エレミア書の32章というのは、まさに南ヨダがもう敵に包囲されて、
滅びんとしているその時ですね。
そしてここから都は焼かれて、もう完全に焼け野原になるということが見えている時です。
しかしその時に、神様がエレミアに語った言葉、32章の15節にこういう言葉があります。
32章の15節。
なぜなら、イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。
再びこの地で家や畑やブドウ畑が買われるようになるからだ。
もう焼け野原になることが見えているし、何も良いものがそこには残らないということがわかっている。
しかし主は言われる。
家や畑やブドウ畑は再びこの地で買われるようになるんだよと。
そのことを聞いた後に、エレミアが答えた言葉が17節。
ああ、神主をご覧ください。あなたは大いなる力と伸ばされた身腕を持って、天と地を作られました。
あなたにとって不可能なことは一つもありません。
これもマリアの信仰と重なります。
いわばもう焼け野原で、そこから何一つ良いものが生まれない。
しかしそのところで神様は、いや、私はそこを再び回復させると約束をされる。
道筋はわかりませんよ。
でもエレミアは言ったんです。
あなたに不可能なことはないから、私はそれを信じる。
マリアはこのことを知っていたんだと思います。
だから彼女の応答も実はエレミアの応答と重なります。
戻って部下の福音書の1章38節で、マリアが言った言葉は有名ですね。
1章の38節、マリアは言った。
ご覧ください。私は主の柱ためです。
どうぞあなたのお言葉通り好みになりますように。
私は主の柱ためです。
これは主の奴隷ですということですね。
それは、いわばマリアは神様がこうされると約束なさった。
道筋はわからない。どんなすごいことがなされるかもわからない。
でもそれを自分の大きさに小さくしてから信じようじゃない。
主が言われた、ああ私はそのお言葉がなるようにそのまま受け止めますなんですね。
そのまま受け止めます。
いわば道筋を問わず、そのまま受け入れますと言ったのが彼女の信仰の応答でした。
主人の命令にあなたがわかるようにしてくれたら信じますじゃない。
でも改めて聖書を読みながら思いますが、神様を信じるというのはそういうことですよ。
そうじゃないでしょうか。
神様のなされる技を人間が把握できるわけがない。
わけがないけれども神様は私たちに約束をされるんです。
それは道筋はわかりませんよ。
でも信仰というのは納得したら信じますじゃないんです。
そうじゃない。
神様を信じるから納得できるようになっていくんです。
それは逆なんですね。
マルチン・ルターが言いました。
信仰というのは小敷きの手だと言いました。
それは私たちは神のなさる技を受け止めることしかできない。
でもそれが信仰なんですよ。
それはいかに大きかろうともトーンダウンせずに
ああ主がそうおっしゃるならそうですねと受け止める。
それこそが神様の大きさを小さくしない信仰の姿勢ではないでしょうか。
私たちは改めてそのように主を信じる親へと招かれているわけですね。
そして二つ目のポイントです。
イエス・キリストの二性一人格と信仰の視線
このように神様の大きさをそのまま受け止めていくときに
二つ目に私たちが生きていく上でするべきことは
見つめるということです。
見つめなければなりません。
人心上の告白に戻るならば
今朝ご一緒に目を止めているのは
精霊によって宿り、乙女マリアより生まれということです。
そしてこの告白が一体何を告白しようとしているのか
先ほど申し上げたイエス・キリストの二世一人格です。
精霊によって宿ったお方は完全に神の子なんです。
しかし人間マリアによって生まれた子供は
完全に人間なんです。
なぜそのようにイエス・キリスト様は100%神で
100%人間でなければならなかったのか
これは目的があります。
それはイエス・キリストを通して
ごめんなさい、言い方が悪いです。
聖なる神様と罪深い人間との間に立つには
100%神で100%人間であるお方じゃないと不可能なんです。
それは私たちはこれまで
ヨハネの福音書を見てきて知っていると思います。
ヨハネの福音書が語っていたことは
このイエス・キリストのうちに神であるお方が
完全に表されているという告白です。
私たちは神様は目には見えません。
しかしイエス様を見たら神様がわかるんです。
それだけではない。
本来私たちは罪深くて
神聖なる神様に祈っても何ら聞いてもらえないものである。
しかし聖なる神様が
罪深い私たちの祈りを聞かれるのはなぜか。
イエス・キリストの皆によって私たちは祈るからですね。
そして何よりも
イエス様が聖なる神様と
罪深い人間の間に立たれた場所はどこでしょうか。
十字架ですよ、十字架です。
そこでイエス様は聖なる神様を仰ぎながら
罪人のために取りなされた。
祭司のような働きですが
イエス様が言われた言葉をご存知でしょう。
父よ、彼らをお許しください。
彼らは自分が何をしているのかが
わかっていないのです。
取りなしの言葉です。
まさに私たちが、本当は私たちが神様に対して
父よ、私の罪を許してください。
私は自分が何をしているかわかっていないのです。
と言わなければいけないところ
イエス様が代わりにそれを言ってくださっている。
そしてそのイエス様の取りなしに気づいて
イエス様を信じるならば
私たちは神の子となることができる。
信じるんです。
そして私たちはなおも罪を犯します。
しかしイエス様は今どこで何をしているのでしょうか。
ローマ書の8章の43節にこういう言葉があります。
誰が私たちを罪ありとするのですか。
死んでくださった方、いや
よみがえられた方であるキリストイエスが
神の右の座につき
しかも私たちのために取りなしていてくださるのですと
パウルはローマ書の8章の43節で語りました。
イエスキリストは今も取りなしていてくださる。
イエスキリストを見言葉を通して見るならば
神はわかるし
イエスキリストを通して私たちは祈るし
イエスキリストは今も私たちのために取りなし
イエスキリストの書かれた十字架を見るならば
私たちは神の愛がいつでもわかる。
私たちはイエスキリストを信じ
今見つめてますか。
ある先生が信仰とは視線だと語りました。
私この言葉が好きです。
信仰というのは視線だ。
いったいあなたが今何を見ているかだ。
私たちは日常の中で
よく見がちなのは自分ですね。
私はダメだ。私は足りない。私が私が。
でもそれは私が神様になっている。
ああお金がない。お金が心配だ。
ああお金どうしよう。
それはお金が私の人生を支配している。
お金が神様だ。
あああの人が嫌だ。あの人がいなくなれば。
でもそれはあの人があなたの神様になっている。
でも信仰は視線なんですよ。
そのようなものに囲まれながらも
私たちは一体見つめるべきお方を
見つめることができているのか。
これは私自身も問われることですよね。
しかし信仰というのは
主を仰ぐことですよ。
そして私たちは
これは恐ろしい事実ですが
旧約聖書に書いてますが
見つめる者、礼拝する者に
私たちは似てくるのよ。
私たちは一体何を見ているか。
イエスキリストを見つめて生きていくならば
イエスキリストに似ていきますよ。
そのようなものを
私たちは招かれているのでは
ないでしょうか。
そして三つ目のポイントです。
キリストのように生きる:真の礼拝
そしてそのように
見つめて焦点を合わせていく
私たちは三つ目。
生きるようにと招かれます。
私たちが最終的に
信じる最後の目的はどこか
天国に行くことだけが
目的じゃないです。
この世界でキリストのように
生きていくことです。
パウロが語った言葉を少しだけ読む
ドローマ書の十二章の一節
有名な言葉ですね。
パウロはあなた方の体を
神に喜ばれる聖なる
生きた捧げものとして捧げなさい。
それこそがあなた方に
ふさわしい礼拝ですと
語りました。
生きる。
要はあなたの体を主に捧げなさい。
キリストのために生きなさい。
それが礼拝だということを
パウロが語られた。
主を礼拝するというのは
日曜日会堂に集うことだけではないです。
ちょっとだけ
せっかくな説明しますと
礼拝は最初招きの言葉で始まります。
それは何か
一週間旅をしてきた皆さんが
ようこそ来ましたと
主が私たちを礼拝に招いておられ
そしてここで私たちは
主を仰ぎ賛美をし神の言葉を聞く
そしてそれに勇気をつけられながら
またここから
主は祝堂で派遣されるので
さああなたの世界に出ていきなさい。
それを毎週毎週繰り返す。
でもそれは何か
私たちはここから
使わされて
キリストのために生きていくんですよ。
イエスキリストのように生きていく。
主を礼拝するというのは
むしろ
月曜日から土曜日
私たちが主と共にどう生きるか
それぞれの働きの中で
その中で
イエス様を見つめ
イエス様の生き様に習い
私たちは生きていきます。
そのことを通してまた
この世界の人々も
私たちはただの人間でしかないけれども
私たちを通して
イエスキリストを見
イエスキリストが示された神様を
私たちを通して見ていく。
イエス様のようになっていくんですよ。
そうではないでしょうか。
それこそ
この世界に目に見えない神様を
イエス様を表して生きていくことこそが
ふさわしい礼拝であると
パールは語ります。
最初のシエース・ルイスの言葉に戻りますと
私がとても印象的だったのは
本当は
私たちが
非国籍に立ち
神からの問いに答えなければならないのではないか
というその一説です。
私たちは主を非国籍に立たせます。
でもそうじゃない。
主が私たちに
語っておられることがある。
神様を信じて生きていくというのは
私が中心になって
神様のために何します
ではないはずです。
そうではない。
そうなると私たちは
私は何もできない、これもできない
だから私は結局ダメなんだ
神様に用いられる器がなんじゃないんだ
私が中心です。
そうじゃない。
神様が
私に問われることがある。
神様が
私たちに
あなたの今置かれているところで
あなたの今持てる能力で
あなたは今このように
私のために生きなさいと
語られることがある。
私たちは
それに答えれたらいいんです。
それだけでいいんですよ。
別に何が全部できなかろうとも
主が今私にこうしろと言われることができたら
それで十分では
ないでしょうか。
そういう時に
これ私自身がいつも
信仰の中で問われていることです。
私が主を仰いで生きている
信仰悩みの中心になっているのは
私だろうか
神様だろうか
私が神様を被告責に立たせて
問うているのではなくて
神様が私に問われることに
私は答えようと今来ているだろうか
私が中心であれば
いつか私たちは神様を被告責に立たせる。
でも
そうではないはずです。
神様が中心であれば
神様の問いに
あなたがそうしたいならば
そう従いますと
道筋は一歩先しか見えません。
大概そんなもんです。
神様に従っていくというのは。
でもそれでいいんです。
神様が私にこう語られた
そしてそれにどう行き着くか
なんて私には分からない。
神様が今私にこのことを語っておられる
そこにどう行き着くかは
私には分からない。
分からなくていいです。
でも今朝主が言われることは
それでも主に不可能はないんだから
そのことを信じなさい。
そして主を信じていって分かることは
神様は愛のお方で
誠実なお方だから
それを成してくださるという
主のご人格が分かってくるから
私たちは主が分かってくる
納得ができるようになってくる。
今朝ご一緒に覚えたい
御言葉はマリアの応答の言葉です。
1章の38節
どうぞ御言葉通りに
この身になりますように。
どうぞ御言葉通りに
この身になりますように。
私たちは分からないままで
進んでいきます。
でもそれでもいい。
分からないまま
主の大きな御業が
どういうふうになるのか
でもそのままを受け入れて
信じるようにと招かれます。
主には不可能なことは
何もありません。
何もないから
そのような大きさを小さくせずに
そのままアーメンと
受け入れることこそが
信仰ではないでしょうか。
一言お祈りをいたします。
32:56

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