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2026-04-03 19:53

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2026/04/02 受難日礼拝

加藤満牧師

ヨハネの福音書 18:1-11,-27,-40,19:1-15,-30,-42


感想

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00:01
キリスト教会は、柔軟宗の金曜日にイエス・キリストの柔軟を木葬し、またそこに心を傾ける柔軟日の礼拝を持ちます。
そしてまた、この日は柔軟日と呼ばれますが、英語だと柔軟日というのはグッドフライデーと表現されます。
グッドフライデーですね。
ちょっと私の事情によって、今回は木曜日にしましたが、柔軟日は実は明日であります。
グッドフライデーという名前は、日本人の私たちから見ると少し驚くかもしれません。
グッド、グッドと言われるのです。
ただ、このグッドと言われるその由来は、十字架というのは実に精算な光景であることは見てきましたが、
しかし英語のグッドというのは、おそらくこれはホーリーだとか、もしくはパイオスというような経験な、そういう言葉が転じてグッドになったのではないかという説があります。
そうであるならば、単にジナンビアグッド、いいとか嬉しいという意味だけではありませんで、むしろこの日は神聖な日。
神に対する経験さが何よりも表された日として祝われているといって、良い日であると思います。
ヨガネの福音書を見てきていただきましたが、読まれてそして聞かれてお気づきになられたと思います。
これは他の教官福音書とは少し内容が違うなという場所がいくつか出てくるのです。
一番おそらく違うのは、ゲッセマネのその18章の1節から11節のところでしょう。
他の福音書ではイエス様はローマ兵に捉えられていくわけですが、しかしこの18章の1節から11節では、特徴的に私がそれだという言葉が3回繰り返されます。
私がそれだ、私がそれだ、私がそれだ。
これはギリシャ語ではエゴエイミーという言葉です。
説教でもお話しいたしましたが、これは旧約聖書の私はあると言われた、シュツエジプト記の神様がご自身を表されたその言葉と重なります。
受難に際してイエス様は捉えられるときに、私は神であるということを明示されながら、その受難へと入っていかれる。
そしてその受難の記事の中でイエス様は実に様々な姿を表されていきます。
大祭司の前で尋問されるイエス様は実に大胆に、いやむしろ私こそが真の大祭司でしめさんとばかりに対峙をしますし、またピラトの言葉を聞いて驚いたでしょう。
ピラトは、私はあなたを釈放する権威もあるし、十字架につける権威もあるんだぞと言った。
03:01
しかしイエス様は、上からの権威でなければ誰も私を縛ることはできないし、私自身こそがユデイ人の王であると、王の権威を明らかにここで示していかれる。
そして何よりも興味深いのは、他の福音書とは違いまして、ヨガネの福音書というのは実は、イエス様が十字架につけられる時間が違うんです。
他の教官福音書では、実はイエス様が十字架につけられるのは、杉越の祭りの、杉越の食事の翌日です。
弟子たちとともに杉越の食事をするので、そしてその祭りの翌日に十字架にかけられますが、しかしご覧いただきたいのは19章の14節です。
19章の14節で何と書いてあるか、その日は杉越の備え日で、時はおよそ第六の時であった。杉越の備え日、時はおよそ第六の時であった。
これは一体何と重なるのか。実はこれは、エルサレム神殿において杉越の子羊の犠牲が捧げられる時間と同じなんです。
杉越の祭りの中で、要は子羊が捧げられる時間と、実はこれは重なるようにヨハネは描きます。
それは何が言いたいのか、まさにヨハネの福音書の1章で、バプテスマのヨハネが言いましたが、
ミオ、神の子羊ですよ。ミオ、神の子羊。
ヨハネは明確に、イスラエルの民の罪の贖いとして捧げられる、あの犠牲の子羊、杉越の子羊とイエス様を明確に重ねて描きます。
イエス・キリストはまさにそのような形で十字架形にかかられるのだと彼は描くのです。
このように見ますと、十字架というのは実に旧約聖書の神様のあらゆる約束。
メシアは大祭司であり、王である。そして神である。そして罪を取り除く神の子羊である。
様々なイメージがこのイエス・キリストの十字架の詩というところに集積して、そして輝きをまた放っていくというような、実にそのような構造。
ある先生はこれはプリズムのようなものだと表現をいたしましたが、そのようになっている。
そしてヨハネの福音書における呪難の意味というのは、十字架上で語られたイエス様の言葉を見て私たちは知ることができるでしょう。
二つの言葉に注目をして十字架の詩をあげたいのです。
一つは、私は渇く、そして寛慮をしたというイエス様の言葉です。
私は渇くと十字架の上でイエス様はおっしゃられました。
二十八節ですね。十九章の二十八節にあります。
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私は渇く。
当然のごとく十字架にかけられて日に照らされ続けるイエス様は、肉体的に喉が渇いておられたことは当然でしょう。
しかし、この箇所が語るのは、この聖書が成就するために私は渇くとイエスは言われたと語る。
この成就するとは一体どの箇所の成就のことを言っているのでしょうか。
おそらくそれは詩編の六十九編でありましょう。
詩編の六十九編、また開いていただけたらと思いますが、これは嘆きの詩編なんですね。
ちょっとだけ後でも読みますので開きますけれども、詩編の六十九編を見ていただくと、これは嘆きの詩編です。
内容が長いのでキュッとまとめてお話をいたしますならば、ここで歌われているのは二つです。
一つは、この詩人は極限まで追い詰められた個人の苦痛を歌っている。
しかし同時に、この詩人は神への燃えるような熱情を持っているという二つのことが書かれている歌です。
詩人はこのように言いました。
六十九編の二節をお読みしますと、こういうことを言います。
私は深い泥沼に沈み、足掛かりもありません。
私は大水の底に落ち入り、本流が私を押し流しています。
その後も見ていただいても、実に詩人は苦しんでいるわけですが、大水という言葉、これは旧約聖書の中では混沌の象徴です。
カオスです。
今は大水に囚われているというのは、今はこの世の敵によって、実に社会的に、精神的に、肉体的に窒息しそうな状態に自分は置かれていて、
そしてその足元もつけることができない。
もはや自分で自分を救うことができないという嘆きです。
しかしこの詩人は、神に対して熱心なのです。
六十九編の九節を読むと、
これは、「あなたの家を思う熱心が私を食いつくし、あなたをあざける者たちのあざけりが私に降りかかったからです。」と書かれますが、
あなたの家を思う熱心が私を食いつくしとは、聖書の他の箇所でイエス様にも当てられている言葉ですが、
まさに神に対する熱心さによって、その熱心さがむしろ苦難を招いたというような、実はそのような状況を描いている。
そしてそのような苦しみの迫害の中で、六十九編の二十一節に書かれていますが、
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これが六十九編の二十一節。
彼らは私の食べ物の代わりに毒を与え、私が渇いた時には酢を飲ませました。
まさにこの成就だと聖書は語っている。
これが今イエスキリストにおいて成就をした。
十字架はまさにそのような場面であると聖書は語るのです。
しかしながら、では六十九編はこの絶望のままで締めくくられているのかといったら、そうではない。
聖書の読み方の一つ大切なことですが、一つの箇所が引用されている時には、実は当時の人々というのはその言葉が全部頭に入っていますから、
一つの言葉を引用するというのは、その背景にあるテクスト全体のことを引っ張っているのです。
詩編の六十九編全体を引っ張っているとするならば、この詩編は最後どこに行き着くでしょうか。
見ていただきたいのが三十四節から三十六節です。
詩編の六十九編の三十四節から三十六節。
天地よ、主をほめたたえよ。
海とそこにうごめくすべての者も。
まことに神は、シオンをすくい、ユダのまちまちをたてなおされる。
彼らはそこにすみ、そこを自分たちの所有とする。
主のしもべたちの子孫は、その地を受け継ぎ、皆を愛する者たちは、そこに住むというのです。
何を言っているのでしょうか。
これはシオン、神の都やユダとも書かれていますが、いわばエルサレムを要する神の都の祭典のイメージで、この詩は結ばれるのです。
しかしそれは一体何を言いたいのか。
実はイエス・キリストの十字架の苦難というのは、旗から見れば恥ずかしめられ敗北にしか見えない。
しかしその苦しみは何につながっているのか、それは神の支配の再建のためなんです。
神の支配がここからまた再び立て直されるということを描いている。
ですからイエス様の私は渇くという言葉は、この歌詞を絵と結びつけることによって一体何が言いたいのか、嘆きだけを意味していないのです。
むしろこれは神の新しい創造が今にも始まろうとしている渇き。
神の再び都が再建するというその希望が今にも実現しようとしている渇き。
私たちはヨガネの福音書をずっと見てきました。
その中で一つお気づきになられたでしょうか。通定するテーマの一つは渇きなんです。ヨガネの福音書、渇きです。
サマリアの女性に対してイエス様は、飲んでも尽きることのない生ける水を与えると約束をなさいました。
12:06
あの狩り要塞で誰でも渇いているなら私のところに来て飲みなさいとイエス様は招かれました。
そしてそう叫ばれた主は今、十字架の上で一滴の飲み水さえ得られない渇きの中に置かれます。
しかしそれは何を意味するのか。
罪に穢れ、荒野のように乾燥しきったこの世界を神の命で潤すために、主が私たちの霊的渇きと神との断絶をすべて身代わりに引き受けてくださったその姿、私は渇く。
主の渇くというその叫びは、私たちが二度と渇くことのないように、まさにここから命の川が流れているその石を打ち砕くために言われた愛の叫びであると私たちを受け止めたいと思うのです。
そしてもう一つ目を止めたい言葉は、このイエス様の最後の、ヨハネネ福音書においてはイエス様の最後の言葉です。
完了した、完了したという言葉です。
水分同士を受け取るとイエス様は完了したと言われました。有名な言葉でしょう。テテレスタイという支払い終わったと言われる言葉です。
これはよく言われますが、現在完了形で書かれていますから、現在完了形というのは、完了したと言われたイエス様のその出来事から、完了した効果がずっと続いているということを示す時世ですね。
この完了したという言葉には実に多様な意味合いが含まれています。
先ほども言いました、十字架において様々なイメージがそこに集中しているのです。
この完了したというのは、じゃあ一体何を完了したのでしょうか。いくつか並べたいと思います。
一つ、テテレスタイ。完了したという言葉、それは負債の還債を意味いたしました。
まさに借金証書に対して還債をしたという言葉がテテレスタイですね。支払い済みであると記される言葉がテテレスタイです。
人間の罪の負債が聖なる神の子羊の血によって一滴残らず支払われた。
私たちは、ヨハネの福音書17章の大祭司の祈りでそのことを見ましたね。
まさに神の子羊の血は、そこで捧ぎ切られることによって、罪を清め、そこからリセットされていくわけです。
そして同時にテテレスタイは、大祭司によって完璧な犠牲が捧げられた際に発せられる大祭司による宣言の言葉でもありました。テテレスタイ。
まさにあの大食材日ですね。17章が実現したということ。この世の穢れはリセットされ、新たなる聖なる日がここから始まることを予期させます。
15:11
ただ、加えてもう一つ言えること。このテテレスタイという言葉は、完成したとも訳せる言葉です。完成した。
実はこれはヨハネの福音書の一つの神学なのですが、何かと言いますと、ヨハネはこの十字架を実は安息日の前日に位置づけているのです。
19章の31節に、その日は備え日であり、翌日の安息日は大いなる日であったので、ユダヤ人たちは安息日を死体の十字架の上に残らないようにするためにとあります。
そして42節もそうですね。その日はユダヤ人の備え日であり、その墓が近かったので、彼らはそこにイエスを収めた。安息日の前日なんです。
それが一体何を意味するのか。これは安息日が創造の7日目の完成を祝うその日であるならば、実はこの完成というイエス様の言葉は、創造の6日目の業の完成と言えるのではないか。
ヨハネは実に創造の記事と重ねます。ヨハネの1章から2章もそうでした。しかしそれと三分一致するかのように、最後ヨハネはまさにイエス様の受難を通して創造の出来事と重ねる。
いわばそれは、天地創造は6日目で、天と地とその晩生が完成したと創世記にはありますが、イエス様が金曜日の午後にテテレスタイと叫ばれた。
それは、罪による古い支配が終わったということ。古い支配が終わり、神による新しい支配、新しい創造が今から始まろうとしているということを言っている。
その準備が全て終えたのです。もはや主が全ての新しい支配のための備えを終えてくださり、さあここから新しい神の支配と再創造が始まるぞと言っている。
その開始は何でしょうか。イエス・キリストの復活によるんです。
私たちはこの完了したという宣言が響き渡る十字架の下に立っていると書きました。その通りです。私たちは2000年前に既に救いが完成した世界に生きています。
救えるかなぁとか、救いが可能なんかなぁというところではなくて、完成した世界に生きています。
次男日に私たちは主の死を痛むわけです。しかし同時に私たちがもっと目を向けなければならないこと、それはイエス・キリストのこの十字架の死によって完成した救いです。
18:08
死によって勝ち取られた新しい創造と支配を私たちは喜ばなければなりません。
罪と死を司るサタンはもはや支配者ではなくなったのです。2000年前からもはや支配者ではないのです。
2000年前から世界の王は変わり、世界の形は変わり、世界のルールは変わったのです。
そして私たちはどんな時にもイエスこそこの世界の王であり主ですと告白することができるものとされました。
私たちを支配するものがあらゆるものがあります。死が支配をします。
よく私は喋りますが、しかし病が支配をすることがあります。
様々なことが私たちを覆いながらこの世界どうなっていくのかと思うところの不安は尽きないでしょう。
しかし私たちはこの時に2000年前の約束をなおも完了したと言われて現在完了形で書かれている。
今も確かに続いているその約束を私たちは何度も受け止めなければならない。
世界の王は変わった。イエスキリストがこの世界の王である。
私たちはその王のものとされた王の民であり、イエスこそ私の主ですとそこで言うことができる。
すべてに打ち勝たれた主こそ私たちの王であると告白することができる。
聖霊様によって信仰が与えられるようにと心から願います。
私たちのうちにどうか何があろうといろいろな恐れがあろうとも
このお方こそが私の支配者であるということを告白するお互いでありたいと思うのです。
一言お祈りをいたします。
19:53

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