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【朗読】灰皿・7
2026-05-05 11:01

【朗読】灰皿・7

【GW特別企画🍀配信者自己満足的朗読配信8days】

🌷7日目🌷

『ちょっとくらい間違えても噛んでも詰まっても、私が楽しいからぶっちぎっちゃう的朗読』配信
*編集の関係でお聴き苦しい点あります、ごめんなさい💦

諸事情(著作権の関係)により、スタエフURL限定公開になります。
配信当日は全公開、翌日からURL限定になります。
聴き逃がしたらURLを問い合わせてね✨

4/29㈬〜5/6㈬の全8回
毎日朝〜配信。

ちょっと奇抜でちょっと笑えて。
でも最後にちょっとだけ
心がじ~んとあたたかくなってくれたらいいな。
そんなお話です。

感想

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00:06
私たちがまだ若いと言っても良かった頃のことです。 彼が家に帰ってこなかったことがありました。
何も変わったところはありませんでした。 ただいつものように朝食を取り、かがんで丁寧に靴を履き、
行ってくるよと静かに言って、そのまま家に戻らなかったのです。 あれだけ真面目に休まずに勤め続けた会社にも一切連絡をしていませんでした。
今のように携帯電話もありませんし、彼が何も言わずに朝まで帰らないというようなことも決してありませんでしたから、
私は我を失うほど動揺しました。
真っ先に考えたのは、事故にあったのではないか、ということでした。
しかし近隣の病院に問い合わせても、夫のようなせかっこうの男性が運び込まれたというようなこともなく、
私はただオロオロとするばかりでした。 もしかしたらどこかで飲みつぶれているかもしれない。
あの人だって羽目を外した夜もあるだろう。 そんなふうに思おうとしても、あの人の性格から、どうしてもそういうことは想像できませんでした。
夫の身に何があったのだろう。 私はまんじりともせず、朝を迎え、昼になり、
夜が訪れてもその場から動けませんでした。 連絡がないことを心配した会社の方が家に寄ってくださり、事情を話しましたところ、
その方に私は思いがけないことを聞きました。 数日前、Sという作家が自殺したこと。
そのニュースを新聞で見たあの人がひどく心を痛め、それからずっと塞ぎ込んでいたということ。
そのニュースは私も知っていました。 それどころか、新聞で見た私が夫がいつもその人の作品を読んでいるのを知っていたので、
彼に、 まあ、あなたの好きなSさんが亡くなったのね、と言いまでしたのです。
あの人はそれを聞いて、 ああ、そうみたいだね、と、
まるで遠い国で起こった台風のことを話すように返事をしました。
でも会社の方は夫の塞ぎ込み用は全く尋常ではなかったと言いました。 会社の方は警察に連絡をしてみてはどうかと言ってくださいました。
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その時の物言いにはわずかですが、 夫がSという作家と同じことを考えているのではないかという意味が含まれていました。
私はその予感を振り払うかのようにそれを拒否しました。 不思議なもので先ほどまであれほどオロオロして落ち着かなかった私が、
その予感を耳にした途端、固くなになり、 あの人はきっと帰ってきます、とそればかりを繰り返し、
じっとその場を動かなくなったのです。 会社の方は困ったような顔で、戻られたらご連絡ください。
会社にはうまく行っておきますから、と言い帰って行かれました。 とてもいい方でした。
一人になった部屋で私は彼のことを考えました。 そして思い立って
彼の書斎へ行きました。 普段決して足を踏み入れることのなかったその場所は
ひどく薄暗く、ほこりっぽくて、 そしてタバコの匂いがツンと漂っていました。
夫が私の前でタバコを吸うことはありませんでした。 特に私がお願いしたわけではなかったのに、
彼は書斎以外でタバコを手に取ったこともありませんでした。 タバコの匂いというものはこんなにも空気に残ってしまうものなのか、
と驚いたのを覚えています。 私は本棚からSの本を手に取りました。
たくさんある本の中で一頭汚れていたものを選びました。
それがきっと夫が一番読んでいたものだろうと思ったからです。 ページを開き私はそれを飲み込むかのように夢中で読みました。
それは、ここ以外に自分の場所があるのではないかと思い続けている男の話でした。
家や妻や子供、生活や幸福などという単語にすべてかぎかっこがつけられ、
自分がそのかぎかっこの中に収まっている違和感、 居心地の悪さ、理由のない焦燥感が綴られていました。
主人公の男はある朝会社に向かうバスで見知らぬ老婆と出会い、 ほとんど衝動的にその人の後をつけ、そのまま家に帰らなくなります。
06:01
その老婆が現実のものなのか幻なのかはわかりません。 そして彼が、
自分の場所を見つけたのかどうかもわかりませんでした。 ただ私は読みながら、
震えが止まりませんでした。 それはSという作家が書いたものなのに、
夫の考えていることを目の当たりにされているような気になりました。 彼も私のことを妻とかぎかっこの中にくくり、
そしてこの家ではないどこかへ走り出してしまいたかったのか、 そしてそんな夫の感情を私はつゆほども気づかなかったのか、
幸せだと思っていたのは私だけだったのか、 愕然としながら座り込んだ私の周りを薄い膜のようなものが取り囲んでいました。
それは夫の持つ黒い感情のようなものだったのかもしれない。 とにかくそれは部屋中を埋め尽くし、
そしてめまいがするほどタバコの匂いが染み付いているのでした。 その匂いは夫の影と共にあり、夫の秘密を共有したこの家で唯一のものなのだろうと思いました。
そしてそれが悔しく、 私は声を上げて泣きました。
彼の机の上に置いてあった灰皿が、 そんな私を笑っているような気がしました。
お前は何もわかっちゃいない、 そう言って笑っているような気がしました。
私はこの匂いを、 そして灰皿が机に落とした影を、黒い黒い影を一生忘れないだろう。
その日の明け方、 夫は帰ってきました。
出て行った時と同じように、「ただいま。」と静かな挨拶をして、私の前に立っていました。
泣いて怒ってもよかった。 わめき散らし、彼をなじり、どうしてなのだと理由を問いだだしてもよかった。
でも私はそれをしませんでした。
お帰りなさい、といつもの通り声をかけ、 お茶を入れました。
急須から湯飲みに注ぐ時、自分の手がひどく震えていたのに気づきましたが、 何も言いませんでしたし、
夫も何も言いませんでした。 ただ私が台所へ戻ろうとした時、ポツリと
09:06
すまなかったと言い、 それから何かを言いかけました。
でも私は聞こえなかったふりをしました。 怖かったのです。
私は幸せすぎて怖かった。 そしてそれが、
脅かされるかもしれないことが怖かったのです。 彼が帰ってきた。
それだけでいいではないかと思いました。 これ以上何も知りたくなかった。
ああ、私は、 彼の小説への思いがここまで強いものだったのだと思わなかった。
そしてエスという作家と同じように、 私との生活や毎日の仕事や、
鍵かっこでくくられることごとくに対して、 引用のない閉塞感を覚えていたのだと思いたくなかったのです。
私たちは幸せなのだ。 これからだって平穏な生活を続けていくのだという思いで、
私は彼の言葉に耳を塞ぎました。 そして彼の小説を一生読むまい。
そう思ったのです。 それから彼は少しずつ少しずついつもの彼に戻っていきました。
彼も私もこの時のことを口にすることはなかったし、 彼が私の前でタバコを吸うこともありませんでした。
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