オサナイ先生の講和デビュー
おはようございます。挑戦する経営者のパートナー、中小企業診断士のオサナイ先生こと、オサナイ和志です。
普段はAIを使って、経営者さんと作戦会議をしたり、挑戦する人を応援するイベントを開いたりしています。
本日は、2025年の7月3日、木曜日でございます。 朝のスタートに、皆さんの心に、ちょっとだけですね、気づきと元気をお届けしたいというふうに思っております。
今日でございますけど、実はこれ、事前収録をしておりまして、今はですね、収録している時間が、前日の7月2日水曜日の朝8時48分でございます。
今、僕はですね、どこにいるかというと、青森市にいるんですね。 つい、本当に先ほど1時間前にですね、
青森市の倫理法人会の方でですね、講和というですね、倫理法人会のモーニングセミナーの中のメインディッシュですね、
その講和をさせていただいたということでございまして、 非常にね、緊張したものでございましたけれども、
今回ですね、青森市の倫理法人会さんのご好意もありまして、僕の講和の部分をすべて、このスタンドFMでお流ししても良いと、
音声配信でですね、お流ししても良いというふうなオッケーをもらいましたので、今日は特別回ということで、
スタンドFMとか音声配信を聞いていただいている皆さんね、昨日おとといです、火曜日の放送で、確か全振り、だいぶ振りましたね、
講和デビューしていきますというふうな話したので、聞きたいという方もたくさんいらっしゃったかと思いますので、おかげさまでですね、
オッケーもらいましたので、今日は特別にこの倫理法人会、僕のデビュー戦をノーカットでお話し、お伝えしたいというふうに、この後ね、お流ししたいと思います。
ですので、今日はですね、ちょっと大変申し訳ないんですけども、時間の方がですね、だいぶ長い時間、約30分、35分ぐらいですか、の本編になりますけども、
お話を聞いていただければなと思います。僕がね、魂でお話ししてきた内容でございますので、ぜひですね、緊張もしてましたし、
今ね、終わったばかりで正直いろいろね、考えるところも反省するべき点もたくさんあるんですけども、ぜひお聞きいただければなというふうに思います。
本題に入る前に少しお知らせをさせてください。西野明彦講演会in青森県広崎市を開催いたします。ということで、
西野さんの講演会でございますけど、9月22日月曜日ですね、祝前日になりますが、広崎市民文化交流館ホール、広野4階にございますけども、こちらの方で講演会を実施いたします。
会場が17時から開園が18時からということで、PTXの方でね、チケットの方、自由席3000円で販売しておりますので、
ぜひこちらからご購入いただければなと思いますので、よろしくお願いいたします。 ということで、早速でございますけども、僕の倫理法人会講話デビュー戦の模様をお聞きいただきたいと思います。ではどうぞ。
家族との関係の探求
はい、みなさんおはようございます。
広崎市倫理法人会の長谷和志と申します。
正直ですね、めちゃくちゃ今緊張しておりまして、
今日はですね、地元の広崎からもですね、たくさんご参加いただき、ありがとうございます。
先週ですね、実は広崎市の倫理法人会で5分間の会員スピーチをさせてもらったんですね。
そこでですね、今日の大いなる不利をしたんです。
ぜひ今日来てくださいということでですね。
たくさん広崎からお越しいただきまして、本当にありがとうございます。
ただいまご紹介にあずがりました、広崎市倫理法人会の長谷和志でございます。
本当にですね、冒頭でも話しましたけども、めちゃくちゃ緊張しておりまして、
実はですね、後でまた自己紹介もしますけども、前職ではですね、
実は信用保障協会というところにおりまして、どちらかというと、
僕はセミナーであったりとか勉強会であったりとか、
ホテル青森でも300人ぐらいの前でお話したりとかもしたことがあったんですけども、
人前で話すのも割とね、得意な方だと実は自分で思ってたんです。
思ってたんですけども、先週もそうですけどめちゃくちゃ緊張してまして、
半年ぶりにですね、人前に立つとこうも緊張するんだなというふうに思ってまして、
実は僕は昨年、2024年の1月5日からですね、
スタンドFMという実は音声配信アプリがあるんですね。
そこでオサナイ先生の朝礼という、オサナイ先生って僕がつけたわけじゃないんですけども、
オサナイ先生の朝礼というですね、その配信をですね、実は昨年1月5日から毎日やっておりまして、
今日で542日目だったかな。
僕も正月も具合悪い時もですね、毎日継続してやらせていただいているという、
そういう実践をしているもんですから、
割と自分では人前とかおしゃべりは得意な方だと思ったんですけども、
そちらから見えませんか、今足がすごいガタガタしています。
すごい緊張していまして。
緊張するとですね、僕どうしても早口になる癖がございまして、
もし聞き取りにくかったらどうぞ遠慮なく睨んでいただければ、
ゆっくり話せという合図だなというふうに思っていますので、
ぜひよろしくお願いしたいというふうに思います。
本題に入る前にですね、少し自己紹介の方をさせていただければなというふうに思っています。
私は1974年の、昭和49年ですね、生まれ50歳でございます。
トラトシヤギザ、ヤギザのB型と自分では言ってますけども、昭和49年です。
昭和49年がどんな年だったかと申しますと、先日お亡くなりになられまして、
長島茂雄さんが引退した年であったりとか、
あるいはロッキー城事件で田中核英当時の首相が退陣に追い込まれた年という年でもございました。
そんな年の大晦日の前日、12月30日にですね、僕は弘前で生まれました。
弘前で育ちまして、青森公立大学という大学、青森市にございますけども、運良くですね、僕は一期生として入学したんですね。
当時はですね、青森県内全ての高校から必ず一人は推薦で取りましょうという取り決めがあったんですね。
僕は今はないんですけど、いわき高校という高校におりまして、そこで運良く推薦の枠に引っかかって、一期生として入ったというところでございます。
その後ですね、無事に卒業しまして、1997年に青森県信用保障協会というところに入りました。
その後、2010年に中小企業診断士という国家資格なんですけども、経営コンサルタントって誰でも名乗れるんですね。
なんですけども、中小企業診断士という国家資格というのが唯一ありまして、これに2年半ぐらいかけてなんとか合格したというところでございまして、
その後ですね、いろんなところを歴にしまして、実は昨年の12月に27年間勤めた保障協会をですね、50歳を機に退職したというところでございます。
安定した職を捨ててまでもですね、もっと挑戦する、直接挑戦する経営者の伴奏者になりたいとか、
あとは僕の理念というか信念としてですね、挑戦する人を応援する文化を弘前青森に作りたいというそういう思いがあったんで、
人生50年生きてきて、僕は人生100年だと思っているので、あと半分はですね、自分のやりたいことをやっていこうかなというふうに思ってですね、会社を辞めたということでございます。
会社を辞めた理由はですね、一応家族、僕不器用なんで、仕事するとですね、もう完全にもう仕事のほうに行っちゃうんですね。
家族を置き去りにしてしまっていたというのもあったんで、家族を少し思って、今年1年間は実は会社事業をしていないんですね。
来年の1月に会社を立ち上げてやろうと思って、今年1年は家族のほうを向いてやろうというふうに思ってですね、そういう形で会社を辞めましたというふうな話なんです。
もう一つは、実はですね、今年の4月に鴨頭義人さんですね、倫理法人会、練馬倫理法人会でもありますけども、鴨さんをですね、実は弘前にお呼びしたんですね。
その講演会を主催するということになって、結果的にですね、僕主催するということは、前にいた会社がすごくお堅い会社だったんで、副業になっちゃいますよねということで、
じゃあ分かりましたと、じゃあ辞めますということでですね、辞めたというところもあります。
実はこの後、またお手元にチラシがありますけども、西野昭博さんの講演会も9月に控えているということで、挑戦する人をですね、どんどん応援する方々を、
この弘前青森に呼んでですね、やっていきたいなという思いもあったんで、辞めさせていただいたんですけど、実は鴨さんがですね、それを逆手に取りまして、
実はボイシーという音声配信アプリがあるんですけども、そこでですね、驚愕、西野昭博と鴨頭義人のために仕事を辞めた男がいるというですね、
そういうですね、配信をですね、4月22日だったかな、もしボイシー聞いていただければね、分かるので、その辺もという話でですね、面白かしく話していただいたんですけども、
今日はですね、そんな私の仕事の話ではなくて、私の家族の話をちょっとしたいなというふうに思っています。
父との対話の試み
僕はですね、弘前に住んでおりまして、実は実家を25の時に出て、それ以来ですね、お盆とかお正月とかぐらいしか顔を出さなかったですね、そういう息子でございました。
両親も元気だったし、いつでもね、会えるし弘前近いから、近いから、そういうふうな甘えがあったんですね。
そんな私がですね、今年3月18日に弘前市の倫理法人会に入りまして、モーニングセミナーで心を打たれたのが、万人幸福のしおりのですね、91ページですか、91ページにあるんですけども、
後ろからですね、4行目ですね、4行目にこういうふうに書かれているんですね。
最も大切な我が命のもとは両親である。
この元という言葉がですね、僕の中にはズシンと胸に響きまして、自分は命のもとである両親を置き去りにしてきたんじゃないかなというふうに思いました。
そこでまず、ぼんと正月しか帰っていなかったので、まずじゃあ毎週実家に顔を出そうというふうに思いまして、そういう実践を始めました。
そのために、実は弘前のモーニングセミナーだけじゃなくて、御所がわらのモーニングセミナーにも毎週参加するようになったんですね。
なぜかというと、実は私の実家はですね、弘前にはあるんですけど、弘前の中崎というですね、実は弘前の郊外にあるんですね。
どちらかというと、藤崎であったりとか、出会いなぎであったりとか、そういったところに近いんですよ。
なので、御所がわらからだと弘前に帰る途中に実家があるんですね。
なので、これだったら必然的に実家に帰れるなというふうに思ってですね、毎週ですね、3月から実家に顔を出すようになったというところだったんですね。
そんな実践を続けていた、もう忘れもしません、5月6日の火曜日です。
弘前の倫理法人会のモーニングセミナーは毎週火曜日なんですけども、火曜日のモーニングセミナーが終わって後片付けをしていたときなんですね。
ちょうど今日いらっしゃる高橋美子専任幹事からですね、お供えさんがこのたらいで足洗いに実践してみては?と言われたんですよ。
このたらいって何かというと、シューティーさんがいますけど、末野修斗さんがですね、弘前のために寄贈してくださった金洗いで、そこに弘前って書いている立派なたらいなんですけども、
これを使って足洗いに実践してみては?というふうに言われたんですね。
僕はもうワクワクしまして、これはチャンスだと。
高橋美子専任幹事の言葉がきっかけとなって、よしじゃあ父の足を洗おうというふうに決意したんですね。
僕が父に聞きたかったのは、父と僕の祖父というのがいつも言い争っていたというイメージがあるんです。
それをなんでなのかなということを足洗いをしながらちょっと聞いてみたいなというふうに思ったんですね。
ところがなかなか父とのタイミングが合わないんですよ。
御所側の倫理法人会から帰ってきて実家に行きます。
そうすると父がいないんですよ。
お父さん今日どうしたの?山に行ったって。山?山?山歳取りに行ったんですよ。
うちの父は山歳取りが大好きなものですから、この時期は山歳取れるものですから、なかなかいないということで、タイミングがなかなか合わなかったんですね。
家族の秘密
ということで、しかないと思ったのは、これは今は母を通して学べという際なんだなというふうに僕は思ったんですね。
そう心を切り替えまして、僕は母の足を洗う決意をしました。
先日50歳にして初めて母の足を洗いました。
めちゃくちゃ白い足で、すごい柔らかかったんですね。
こんなに自分の母親の足って柔らかかったんだなというのが50歳にして初めて。
なかなか洗うことないじゃないですか。自分の母親の足を洗うことない。
本当にそれでこんなに柔らかかったんだなと思って。
せっかくなんで、さっきの話の他にもう2つ、だから全部で3つ、僕の中ではちょっと引っかかったことがあったんですね。
その3つの謎をちょっと立ち寄せてみたいなというふうに思いました。
その3つとは何かというと、1つは今申し上げました。なぜ祖父と父はいつも仲が悪かったのかということですね。
僕の中ではある程度仮説があったんですね。
多分こういうことだから仲が悪かったんじゃないのというふうに思ったんですけども、それが果たしてあってたかどうかというのを聞きたかった。
2番目はですね、何で僕には反抗期がなかったのかということなんですね。
僕は中学校高校の時に反抗期がなかったんですね。
当時はですよ、周りは皆さん反抗期だらけですね。
本当に口悪いですけど、クソババアクソジジイって周りが言ってるわけですよね。
なのに僕はですね、お父さんお母さんって言った。
あの当時は反抗期があって当たり前みたいな、今でこそ反抗期なくても普通だというふうに言いますけども、
反抗期がないと何か病気か何かあるんじゃないのというふうに言われてたことがあって、そういうのもあって、何で僕にはなかったのかなみたいな、そんなことを思ったというのが2つ目。
3つ目、おばはなぜ22歳の若さで亡くなったのかということで、僕の実家に仏山家がですね、若くして亡くなったおばの家があるんですね。
よく考えたらですね、僕のおば、だからうちの父の妹になるんですけども、あんまり話して聞いたことないなということを思ってですね、
そうだこのタイミングだからせっかくだからうちの母も知ってますので聞いてみようというふうに思ってですね、この3つをちょっと聞いてみたいなというふうに思いました。
これからですね、この謎が解き明かされていく中で、僕が知った家族の真実の物語をお話しいたします。
まず1つ目でございますけども、なぜ祖父と父はいつも仲が悪かったのかという話なんですね。
僕の祖父はですね、もともと林檎農家でした。
そしてですね、父に農家を継がせようと思って、平川市にある諸風塾という全寮生の高校に当時行かせたんですね。
当然父は農業を学んで帰ってくるという予定でした。
ところが父はですね、寮生活を送っている間に祖父がですね、時代の流れを読むんですね。
これからは車の時代だと、モータリゼーションが来ると、林檎よりガソリンだって言ったんですよ。
すごいですよね、農家さんがガソリンだっていう話をして、ちょうど時は昭和40年代前半ですから、もうまさにこれから高度清掃期で車がバンバン走ってくるという、その読みは結果的に当たってたんですね。
そして父が卒業して帰ってくるのを待たないで、実はその林檎畑をすべて売り払いました。
そしてガソリンスタンドを建てたんですね。
3年間ですね、家を継ぐために必死にですよ、勉強してきて帰ってきた父がいるんです。
父を待ったのは畑じゃなくてガソリンスタンドだったんですね。
僕はですね、この経緯から当然父はこの裏切りのような仕打ちに怒って、それがずっと今まで2人の確実の原因になったんだなというふうに50年間僕はずっと思ったんですね。
そういう思いがあったんで、僕そう思ってたんだっていう話をですね、うちの母親にしたんです。
そしたらですね、母からは全く違う答えが返ってきたんです。
母が足を洗いながら何て言ったかというと、実はですね、お父さんはね、お兄さんとエコヒキされて育ったんだよって話をしてくれたんですよ。
父はですね、3人兄弟の児なんです。
下には妹がいました。
そして長男がいたんですけど、その長男であるおじだけがですね、両親から特別に可愛がられた。
最初の子供ですから可愛がられるのも分からなくはないんですけども、なんですけども特別に本当に可愛がられたんだと。
大学にも行かせてもらいましたし、そしてその後もいろいろ支援していたというふうな話を聞かされたんですね。
その根深い角質が実はずっと祖父が亡くなるまで続いていたそうです。
父と祖父がそういう角質があったという中で、じゃあですね、僕もう一つ聞いたんですよ。
じゃあお父さんとおじいちゃんがずっと仲が悪かったんだけど、お母さんから見ておじいちゃんってどんな人だったのって聞いたんですよ。
だって自分旦那と仲が悪いんですよ。
修斗さんが仲が悪いんですよ。
普通で考えるとやっぱり恨んだりするじゃないですか。
でもですね、帰ってきた答えがこれまで意外だったんですけども、祖父の最後の話をしたんですね。
僕の祖父はもう10年以上前に亡くなったんですけども、最後の話をして、祖父の最後が愛おしかったというふうな話をしてくれたんですね。
僕はちょっと意外だった。愛おしかったってどういうことなんだろうというふうに思ってですね、ちょっと色々聞いたんですね。
そしたら実は母もですね、祖父のガソリンスタンドで従業員として働いていて、時にはですね、やっぱり他の従業員さんもいらっしゃったんです。
従業員さんのことを思ってですね、経営者である祖父とぶつかることもあったというふうに聞いていたんですね。
母はこう話してくれたんですね。
確かに仕事ではおじいちゃんとよくぶつかったよって。
でもおじいちゃんは仕事のいざこざを決して家には持ち込まなかった、そういう人だったんだって。
それにものすごい勉強家で、どんな話でもできる白色な人だったんだって。
だからお父さんとの関係は別にして、私はおじいちゃんのことを人として経営者として尊敬していたんだって。
その尊敬の念があったからこそ、祖父は脳梗塞で倒れて施設に入って最後病院で亡くなるんですけども、
その脳梗塞で倒れた祖父の下の世話をすることも全く抵抗がなかったと。
ただただ愛おしいって、そういう気持ちで最後まで看病ができたんだっていうふうに話してくれたんですね。
こんな話、僕はまさかこの角質の話から聞くとは思わなかったですね。
夫と主人との角質、その一方で経営者と従業員としてぶつかりながらも一人の人間として長所を認めて、そして深く尊敬していた母。
僕はこの話を聞いて、人を一面だけで判断するんじゃなくて、多面的に見ることがすごく大切だなということを足洗いをしながら母から教わりました。
そんな感じの話だったんですね。
反抗期の不思議
2つ目ですけども、なんで僕には反抗期がなかったのかという話を聞いたんですね。
その理由を尋ねると、母はですね、僕が赤ん坊の頃の話をしてくれました。
僕の母はですね、私のことを二十歳で産んでいるんですね。
今でこそ成人は18歳ですけど、当時は二十歳だったものですから、まだ大人になったばかりの母ですから、子育てについて全く知らない状態だったんですね。
そんな中で、僕はですね、本当に夜泣きがひどかったそうです。
夜泣きがひどくてですね、来る日も来る日もずっと泣いてたと。
でも、まだまだ若い二十歳だった母はですね、そうこうしているうちにやっぱり追い詰められていくんですね。
泣き止まないし大変だしって、そうこうしているうちに僕に強く当たるようになっていったそうなんですね。
だからもううるさいとかね、本当に早くしなさいとかってそういう感じだったみたいです。
そうするとですね、そういうふうに僕が言ったということで、僕がですね、オサナイ時の僕はですね、いつしか言葉がですね、どもるような喫音ですね、になっていったそうなんですね。
僕はその記憶ないんですけども、そういうふうになったということなんですよ。
で、そこでね、母はパッと気づきます。
あ、これは自分の育て方が原因なんだなって。
母はですね、当時テレビですね、モーニングショーっていう番組があったんです。
今もハトリーさんがやってますけど、そのモーニングショーと別に古い番組があったんですけども、
その番組に出演していた教育課のバンド先生という方がいらっしゃいまして、
その方の育児章を手に取って笑うも縋る思いでですね、必死に学んで、そして僕への接し方を完全に改めてくれたそうなんですね。
すると自然にですね、僕の喫音も消えていったということなんですよ。
ですから相当努力したんだなと僕は思っているんですけども。
で、足を僕洗っているじゃないですか。
そしたら母がね、ポツリとこう言ったんです。
あの本を読まなければあなたをダメにしていたかもしれないって。
その時ですね、僕の中で全てが繋がったんですね。
母があの時自らの過ちに気づいて、そして行動を変えるという、いわゆる自己確信ですね。
これを実践してくれたから、僕はですね、今でも母と何でも話せるように仲になったんだなというふうに思ったんですね。
そして反抗期がない穏やかな出身期を過ごせたのも、母があの時ですね、僕への接し方を変えてくれたからなんだなって思ったんですね。
本当にですね、僕中学校高校出身期ですね、反抗期なかったんですけども。
小学校とかね、たぶん帰ってくると、だいたいランドセロリって台所にいるんですよ、うちの母が。
そうすると毎日、今日ねこういうことがあったね、ああいうことがあったねとかってずっと話してたんですね。
で、普通であればですね、特に今は最近はとんばったらきですから、お母さんも忙しい、お父さんも忙しい。
で、お母さんの台所に立っている中でそういうふうな話をすると、うん、分かった分かった、うん、後で聞くからみたいになるじゃないですか。
でもうちの母はそういうことしなくて、うーんって、それでって、その後どうなったのって、さらに聞いてくれるんですよね。
そうすると僕も楽しくてどんどんどんどん話をするじゃないですか。
だから台所、夕食ができるまでずっと僕は台所にいるんですよ。
それでどんどん話をしていったっていうようなことがあってですね。
ですから今でもですね、おかげさまで仲良くはやらせていただいているんですけども。
まさかね、元がそういうふうなこと。
もともとは実は母ももう僕のことをすごく叱ってた、怒ってたというか、そういうことだったというのはですね、それも初めて知りました。
そしてその、それを改めることになったのも自分でその本を読んで、教育書を読んで、それで僕のことを叱るのをやめたということだったというふうに。
本当にですね、ここですべて繋がったんですね。
ずっと不審になったんです、僕。反抗期がなかったのはなぜかなと思ったんですけども、そうかと。
実はそういった母の愛と、そして自己確信があったから変わったんだなというふうにですね、僕は足洗いをしてそこからまた気づかされたんですね。
若き日の悲劇
これもすごい衝撃でした。
そして最後3つ目です。
おばはなぜ22歳の若さで亡くなったのかと。
物産にはですね、さっきも言いましたけども、雪の中でしゃがんで写真撮ってきれいな若い女性の家が飾られているんです。
それがですね、父の妹の私のおばにあたる厚子さんという方でした。
私が生まれる前におばは病気で若くして亡くなったんですけども、母の足を洗いながら僕は尋ねたんですよ。
おばさんどんな人だったのって、そういえばあまり聞いたことないなと思って。
母が言うには、おばは本当に頭が良くて、勉強熱心で、将来期待されていたそうなんですよ。
大学にも行けたぐらいの頭があったんです。
ところがさっきも言いましたけども、エコヒーキされて育ったんですね。
そういった家の事情があって、大学の進学を諦めて、そしてその後兄弟、上野お兄ちゃんと僕のお父さんはそれぞれ家を出るんですね。
上野お兄ちゃんは授業をやるので出ました。
うちの父は母と結婚するために実家を出ていったという感じなんです。
残されたのがおばと、そして自分の両親と、あとはおじいちゃんおばあちゃんがいましたから、
残された家族の介護をたった一人で背負わなきゃいけないのかなと思ったそうなんですよ。
その時にまだおばの両親は健在ですし大丈夫なんですけども、将来考えちゃったんですね。
この後ずっと私は一生この4人のことを見ていかなきゃいけないのだなって。
全部一人で背負っちゃったそうなんですよ。
そしてですね、母が静かに続けたんですね。
だから将来に希望がおばさんが見えなくなっちゃったのって、心を病んでしまったのって。
実はね、あす子さんはね、病気で亡くなったんじゃないのって。
22歳の若さで自ら命絶ったんだよって。
僕はですね、50年間だらいで足を洗うまで、今の今までこの真実を知らなかったんです。
それはですね、私を傷つけまいとする両親の優しさがですね、この重い真実を隠してたんですね。
そして母は続けて後悔を語ってくれました。
実はおばは一度自殺未遂をしていたそうなんです。
その時、父の婚約者だった母が、もしその時に気づいてあげられていて、先ほど一回家に出たって話したじゃないですか。
その時気づいていて、実家に戻ってあす子さんのそばにいてあげられることができたら、何か変わったかもしれないって。
足を洗いながらですね、後悔を話したんですね。
そして母はこうつぶやきました。
なんで気づいてあげられなかったんだろうって、今でも思うって。
母がそうやって静かに後悔を語ってくれたんですね。
そんな母の姿、僕見たことなかったんですね。
それを僕にずっと隠してたというか、話す機会がなかったんで、ずっとそうやって来たんでしょうけども。
初めてそういった母の思いを聞きました。
ところがですね、この母の壮絶な後悔が一つの命を救うことになります。
妹の救いと母の思い
僕には七つ下の妹がいるんですね。
その妹が20歳を過ぎた頃の話なんですけども、当時妹は青森市にありました。
それはめちゃくちゃ忙しいアパレルのお店で古川にあったんですけども、働いてたんですね。
同じ職場の彼氏と、そして彼氏が連れてきた猫一匹とですね、アパートで同棲生活を送っていたんですね。
人気店ですから朝は早くて、そして夜も帰りも遅いと。
家に帰っても、今度は家に帰ると一日中一人ぼっちだったストレスをため込んだ猫も待っているわけですよ。
ここで休まる時間もなくて、そして十分な睡眠時間も確保できなかったと。
そんなふうなスパイラルに陥って妹の精神状態は限界まで来ていたそうなんです。
そんな妹を見た母がですね、あの時の苦い思い出がよみがえって、そしてこう思ったそうです。
このままでは彼女と同じにしてしまうって。
そう直感した母はですね、即座に仕事を辞めさせました。
そして妹をしっかり連れ戻しました。
そして死なれるぐらいなら妹のことを何でも聞いてやろうって。
ボロボロの娘をですね、母は前にですね、母はそう決めたそうです。
母の言葉を借りるとですね、甘やかすだけ甘やかしたと、その時はって。
食べたいものがあれば食べさせて、行きたいところがあれば一緒に行って、そうしてですね、自分の娘を精神整備守り抜いたそうです。
そのおかげもあって、僕の妹はね、今も元気に暮らしております。
これもですね、またたらいで母の足を洗わなければ知ることができない真実でした。
祖先への感謝
一人の死がですね、時を経て一人の生につながった。
オサナイ家に流れる悲しみと愛の物語だったなというふうに僕は足洗いをしながらですね、そういうふうに思ったんですね。
たった30分です。たった30分、母の足を洗っただけで、私が知っていたはずの家族の歴史、両親の思い、そしてオサナイ家の物語がですね、音を立てて覆されました。
すべての答え合わせが終わった後、僕はですね、すぐさま仏座に向かいました。
今まではですね、仏座に手を合わせても、自分と自分の家族の幸せしか願っていなかったんですね。
でも僕は初めてご先祖様、そしておばにこう伝えました。
ありがとうございますって、本当にありがとうございますって。
万人幸福のしおりの第13章93ページには、こう続きが書かれています。
親を通して己の命のもとに遡れば、そこに神仏に変える。
敬心崇壮、即入宗教に入ることが、誠の人となるゆえんはここにある。
まさにですね、足洗いの実践をしたおかげで、僕はですね、親だけじゃなくて祖父母、そして会ったこともないですね、
ご先祖様すべてに感謝しなければ、今の自分はいないんだっていうことをですね、魂で僕は理解することができたんですね。
なので今僕がですね、ここにこうやって立って生かされているのは、決して自分一人の力ではないんだと。
高校をしたいときに親はいないってよく申します。
幸いですね、僕の両親はまだ健在です。
この気づきを得られたこと、そして弘前市の倫理法人会に僕は本当に出会えたことに心から感謝したいなというふうに思っています。
そして足洗いの実践を促してくれた高橋美子先人幹事、本当にありがとうございます。
僕はこれがなければ多分一生ですね、親と真剣に向き合うことはなかったんじゃないかなって、そう思いますね。
ですのでぜひですね、僕は足洗いの実践というのは僕はきっかけだと思っているんですね。
親と会話するきっかけだと思っています。
それによって自分が知らなかった、本当に今お話した3つ物語であったりとか、そういったことが絶対誰でもあるんですよ。
誰でもあってそれに気がついていないだけなんですね。
ですから僕はこの足洗いの実践を人間だから分かるので、ぜひやっていただければなと思います。
もしご両親健在であればこの足洗いの実践をやってみていただければいいなというふうに思います。
僕はこれから先ほど自己紹介の中でも少し話しましたけれども、中小企業診断士としてこれから多くの経営者の根っこをまさに支える仕事をしていきます。
その私が自分自身の根っこを知らないで本当の意味で人を支えることってできなかったと僕は思うんですね。
本当に家族の歴史を知ってご先祖様への感謝を本当に胸にしたこの足洗いの実践だなというふうに思いました。
本当に倫理法人会と出会ってからそしてやっぱり皆さんおっしゃってくれるんですけども、学ぶだけじゃやっぱりダメなんですよね。
学んだらやっぱり即行動する。動けば変わるんですよ。
それを愚直にやってみる。僕も言葉があれですがアホみたいに本当に言われたことを素直にやってみる。
やったらどう変わるんだろうという自分自身が実験台として見たいというふうに思って
3月18日に入ってからとにかく言われたことをまずやってみようというふうに思いました。
そして実は先日倫理指導も僕を受けましてそれも今愚直にやっています。
その話はまたどこかの機会でまたさせていただければなというふうに思うんですけども
とにかくこの倫理法人会でやった学びというのは僕はすごく勉強になりましたし
まさかこのさっき言った3つの謎ですね
特に最後の謎ですね。おばあがまさかそういう最後だったということを知ることになかったので
多分言うことないじゃないですか。こちらから聞かない限りあまりないと思ったので
そういうことも足洗いを実践して初めて思ったなというふうにそこで感じたというところでございます。
本当に家族の歴史を知ってそしてご先祖様への感謝を胸に刻んだ今ですね
ようやく僕は新しい人生のスタートラインに立てたような気がいたします。
この学びを胸にそしてこれからも実践を続けていくことを皆様の前でお誓い申し上げまして
ちょうど時間となりましたので私の講話とさせていただきたい終わらせていただきたいと思います。
ご静聴いただきまして誠にありがとうございました。
いかがでしたでしょうか。自分ではだいぶ組み立てていったつもりなんですけども
どうしてもですね3つ目のおばあさんの話になると
これ僕リハーサルでもそうなんですけど感情的になっちゃうんですね。
だって50年生きてきて初めて知った真実だったんですね。
それを知ってしかも足を洗わなければ多分僕は一生知ることがなくそのまま
この人生を終えてたかもしれないわけですよ。
だからねそれを考えたらねちょっと本当にねもう
おばさんがまさかそういう最後を遂げていたっていうことを知らなかったですし
今ちょっと思い出して泣きそうなんですけども
本当にね母も話をしてましたけど
なんでねあの時っていうような後悔はあった。
でもその後悔がねうちの僕の妹を救うことになったっていうですね
そういう話ができたのもやっぱり僕この足洗いの実践をしたからだったなというふうに思うんですよね。
まあ足を洗う行為自体はですねこれは別にねなんてことないじゃないですか。
でも母の足を洗うっていうことって日常的にもちろん介護とかすれば別でしょうけども
何か特別な思いを持って足を洗うっていうことどうです皆さんしますか。
なかなかしないですよね。
なんで僕はね今回この足洗いの実践を通じてですね
本当に思ったのは家族、両親を大切にしなければいけないなって思ったのが一つと
あとはね先祖様ですね。
だから本当にボンと正月本編でも話しましたけど
ボンと正月しかね仏さんに手を合わせてなかったんですよ。
それはいかんなぁと思いましたね本当にね。
だからね物理的に近いところにいるわけですから
やっぱりね僕はもう毎週毎週だから本当に今ね
実家に帰って仏さんに手を合わせて
本当にねその自分の欲だけじゃなくてですね
本当にご先祖様に心からですね
本当にありがとうございますっていうふうに思っているんですね。
実はこの本編の話には続きがありまして
僕これでご先祖様がすごく大事だなというふうに思ったんです。
なので僕はその後ですね実は市役所に行って
戸籍当本をね取れるだけ取ったんですよ。
そしたらですね僕がやっぱり知らないご先祖様がたくさん出てくるんですね。
その戸籍当本の山を見たらですね
僕はやっぱり一人で生きていないし今生きている家族だけで生きているんじゃないんだって
これだけね後ろに大勢の僕を応援してくれる人たちがいるんだなっていうふうに思ったらですね
またちょっと泣けてきちゃいましたね。
いや本当にですねこのね本当に奇跡のつながりなわけですよね。
当然この中にこのね歴史の中には大きな戦争もありましたし
だからよく生き抜いてきたなって本当に思いますね。
だからそういう奇跡の積み重ねで今自分たちがいるんだなということをですね
改めてこの足洗いの実践、足洗いの実践をしてですね感じたというところでございました。
はいということでいかがでしたでしょうか。
ちょっとね僕も緊張してデビュー戦でございましたから
あのこういう音声配信で話するのとまた別なんでね
お客さんがいる前で話をするのでめちゃくちゃ緊張しましたけども
今日ねお話しさせていただいたというところでございます。
はいということで今日はですね特別回倫理法人会講和デビュー戦というテーマでお送りいたしました。
挑戦が人生だ。Don't worry, be happy.
それではまた明日この時間にお会いしましょう。
今日も元気にいってらっしゃい。
すいません最後にご報告でございます。
聖愛高校野球部にですねみんなで本を届けようということで
カモンさんのねコミュニケーション大全と夢と金が9割の2冊をですね
聖愛高校野球部への支援活動
聖愛高校野球部に届けるためにですね今一生懸命支援を募っております。
目標が全部で160冊でございましたが現在まで集まっている冊数が27冊でございます。
ありがとうございます。残り133冊でございます。
ぜひ皆様方こちらの方ご支援していただきたいなというふうに思っております。
それからね昨日ですか僕がねあの聖愛高校野球部の
ヤング印象を取ったという話をして
とはいえその今年の高校野球の入場式から手を振っちゃいけないというふうな投稿をですね
僕させていただいたんですけどもおかげさまでですね
拡散希望だというふうに話をしたのもあるんですが
これ前日の今収録している7月2日の朝9時現在で
実はシェア82件もですねシェアしていただきまして
本当に皆さんありがとうございます。
いろいろノリさんとも原田監督ともですね話をさせていただいて
もちろんこれアップしていいですかっていう話をさせていただいた上で
なんとかですねこの流れをですね変えなければいけないと
一方的にですねやっぱり辞めるんじゃなくて
なんとかね頑張ってこういうことこういうやり方もあるんじゃないの?
ということをですねお話しさせて
昨日の放送でも話しましたけども
そういった話をしていただいたところですね
82件もシェアしていただきまして本当にありがとうございます
この2つに関してはですね皆様の本当におかげであるなというふうに思います
引き続きまた民意を動かしていきたいと思いますのでよろしくお願いいたします