まず第一はですね、大村での症状時代です。中崎県の大村町で、今でいう大村市ですね。
で生まれました。
1861年ですね。これ明治維新が1869年やから8年前ですよ。
またじゃあ江戸時代。
江戸時代で、大村藩で渡辺生と渡辺玄の間の長女として筆子が出生します。
イメージね、この筆子さんって僕らの非爺ちゃん、非婆ちゃんの世代ですわ。
お父さんのこと言わなあかんですよ。
渡辺清さんっておっしゃるんですけど、この人はね、明治維新の盾役者の一人なんですよ。
えー。
はい。
えー、そうなんですか。
あのですね、大村藩っていうのはとっても小さい藩なんですよ。
はい。
小さい藩の九州のですね、長崎県の小さい藩なんですけれども、そこでですね、倒幕派の藩進なんですよね。
えー。
この渡辺さんっていうのはね。
で、結構藩の中でいろんないざこざが起こったみたい。
この倒幕派の渡辺さん一派が勝つんですよ。
筆子さんが生まれたのは24歳ぐらいですけれども。
お父さんがね。
24歳の時に筆子さんが生まれるんですけど、ちょうどその頃に大村藩の中での倒幕派の旧戦法として活躍します。
えー、すごい。
実は渡辺のぼりさんっていう京一さんの弟さんがいてるんですけど、この二人の兄弟が割とこの大村藩の倒幕派の中核となってですね、活躍するんですよ。
すごい。
で、筆子さんが生まれた後ですね、大村藩の家老がいらっしゃるんですけれども、小島上門さんっていうのがね。
はい。
筆子さんよりも4歳年上に息子がおったんですけれども。
はい。
その方といい名付けになります。
え、筆子さん。
生まれてすぐ、生まれてすぐ。
すごいな、その時代ですね。
その時代ですね。
でもむしろね、これって家老の家じゃないですか、小島さん、小島家って。
渡辺さんっていうのは中堅的な、でもすごくライジングするんですけどね。
だから長女をこの家老の家にとっつけてたら、ええわ、素晴らしい縁組やということになったと思うんですけどね。
はい。
で、このお父さんはですね、この新生組とかっていう組を作って、軍隊を作って京都にですね、乗り込んでいきます。
新生組じゃなくて新生組。
新生組っていうのがですね、大村藩でできるんですよ。
で、できる人たちなんですね。
で、その人たちが高森とかと合流してですね、母親戦争に従軍します。
で、その無欠会場ってあるじゃないですか、最後は高森と勝ち返しの無欠会場の会談がしたじゃないですか。
無欠会場がした横の部屋に何人か藩士がいてるんですけども、その中の一人が渡辺清彦さんと言われてます。
すごい中心人物ですね。
倒幕派の非常に中心として働くんですよね。
弟さんの昇さんも佐藤同盟、坂本龍馬を助けて佐藤同盟にも奔走したみたいな感じで、2人って言うのってもう頑張るんですよ、明治維新の時にね。
そのせいもあって、この清氏さんっていうのは明治維新が起こった後、ずっと東京に残るんですよね。
新政府の公共管理になって、39歳の時に福岡県の知事ですね、県令になって、その後元老院というか議会のところの議官になって、
男爵に任命、家族になるんですよ、男爵になると。
で、貴族院議員になって、福島県のもう一回知事さんになるんですね、県令になるんですよね。
優秀な方ですね、そうかそうか。
そこの長女さんなんですよね。言えば明治維新の勝ち組の中の勝ち組なんですよ。
そうですね、中央に入っている人ですね。
勝ち組っていうのは、査長土肥って言われてたけれども、大村藩っていうのはその中の一つで、すごく過剰された、重視された藩なんですね。
その中で、しかもトップというか、明治政府に尽くした人なので、非常に徴用されるんですよね。もちろん優秀だったと思うので。
そこの長女さんなわけですよ。
藤子さんは大村藩にずっといてるわけで、お父さんが江戸で活躍している時も江戸でいてます。
でも母親戦争が終わった時も大村でいてます。
大村でいてるんですよね。
大村でいてます。長崎県でいてるんですけど、ずっといてるんですよ。家族でそこで育つんですけど。
ここで多分大切かなと思われるのが、母親戦争ってやっぱり戦争じゃないですか。
死ぬんですよね。当然ですけれども。
大村藩でも数百人出生したって言われてて、隊長はお父さんだったんですけれども、近くで亡くなった方がたくさんいてたと。
近所のですね、武士というか、近所の家のお父さんとかお兄さんとかが亡くなっているっていう家を多分経験してるはずです。
戦争の経験を多分幼い時からしてたんちゃうかなって言われてる。
そういう経験もしつつ、ふでこさんが11歳の時に、木吉さんお父さんがですね、家族を東京に呼び寄せます。
一時期ですね、このふでこさんっていうのが、この大村住広藩主。
藩主のお殿様とのところにちょっと一緒に過ごすみたい。
これどういった事例かよくわかんないんですけど、この大村家には三女さんっていうのがいてて、
ふでこさんよりもちょっと年上なんですけどね、その方の遊び相手とかそんなんであったのかもわかんないんですけど、
大村知久子さんっていうのがいてるんですけど、その方と一緒に過ごしたっていう時期もあったみたい。
藩主の娘さんってこと?
藩主の娘さんってことです。
なるほど。
つまり大名家っていうのも、廃藩地権とかが終わった後に、東京に多くの人が来てね、
そこで家族として生活するということになるんだと思うんですけど、大村家もそうやったんでしょうね。
渡辺清史さんっていうのも明治政府の中で御門じられていた人だから、有力者とつながっておこうということで、
この大村家も考えたのかもわかんないけどね、むしろね。
藩主とのつながり。また大村家のこの三女さんとかちょっと後から出てきますので、覚えておいていただければと思います。
ふでこさんがその次の年に東京の女学校に進学します。
この当時すごいけどね。
女学校に行くってすごいですよね。
すごいですね。
14から16歳の中等教育ですね。中学・高校みたいな感じの教育を外国人がしてたと。
それを12歳で?
12歳で入ってですね。
ところがですね、この東京女学校っていうのが、ふでこさんが16歳の時に閉校しちゃいます。閉じちゃうんですよね。
財政が困難だったりとか、官立高校とかを整理しようということがあったみたいですね。
東京女学校がなくなって、その後ですね、ふでこさんはウィリアム・ホイットニー家の英語塾に通います。
ウィリアム・ホイットニーって急に出てきてもあれなんですけど。
雇われ外国人ですね。
雇われ外国人の人がいろんなことを教えてたんですよね。
そこでふでこさんも通ってて、その娘さん、クララさんという方とも合流したりすると。
つまりこの時点で英語をよく喋るんですよ、この人、ふでこさんは。
そんな感じがしますね、16歳。
で、ふでこさん18歳の時に、福岡県の県知事だったお父さんがですね、長崎にいて、前のアメリカ大統領でグラント将軍というのが日本に来るんですけれども。
ちょっとふでこ来いと、ということで来て、このグラント将軍を英語でお話ししたりして、もてなすわけですわ。
すごい。18歳ですよ。
18歳ですよ。つまりこの時点でわりと英語ぺらぺら的な感じ?
そうですね。
はい。だからその明治初期にですね、このふでこさんというのは日本で受けれる超一流の教育を受けてて、語学にも堪能だったってことですね。
ヨーロッパでもいろんな勉強、語学勉強だけじゃなくてね、いろんな勉強してたっていうことみたいなんですけれども。
とても意識が高くて賢くて美しい女性なわけですよ。
帰ってきてから教会の奉仕活動とかにも筆子さんは従事します。
そこで友人のクララさんがですね、筆子さんがこんなこと言うてたっていうのが残ってるんですけど。
今私たちが貧しい人たちに教会で事前のお金を差し上げたりすることはあまり役には立ちません。
女性たちを教育し自立させることです。
そのためには身につけるものを節約しても尽くしたいと思います。
素晴らしい。
教育をさせないと本当には豊かになれない、自立できないよっていうことを当然考えてたんですね、筆子さんはね。
そうですね。
21歳の筆子さんですよ。
すごいな。みんなきっとこの頃の女性はですよ、もう食べることに必死ですから。
一般的にはそうだしね。
そうです。
上流階級の人でもここまでちゃんと思ってた人ってどのくらいいるのかなというところなんですけどね。
それは自分着飾ることばっかりでしょ。
はい。ちょうどこの頃ですね、六名館の時代なんですよ。
どうも六名館の時に筆子さんが参加したっていう記録はないんやけれど、通訳したっていう記録はあるんです。
えー。
だから六名館にも出入りはしてたみたい。
なるほど。
ただドレス着て踊ったっていうのはちょっと言い過ぎかなと思うんですけど。
六名館の時代が終わってから、いろんなパーティーに招かれてダンス踊ったっていう記録はあるみたいなんですけどね。
六名館自体は彼女はまだ踊ってはないかなと思うんですけど。
なるほど。
でもそれに近いようなポジションですね。
ですよね。出入りできるってことですからね。
出入りできるんです。出入りできるし、しかも語学がとっても身についているし、マナーも当然身についているので、大変重宝されてた。
それは憧れの女性でしょうね。
だったと思いますね。
で、事前バザーというところには参加して、やっぱりこの当時って福祉があんまり発展してないから、寄付とかの文化がやっぱりあったみたいですね。
上流階級の人たちが寄付バザーを行って、貧しい人たちにお金を振る舞うとかっていうことがあったみたくて、六名館も事前バザー、大バザーっていうのがあって、そこにふでこも参加したっていうのがあったようです。
なるほど。
で、23歳の7月に小ヶ島羽達さんと結婚して入籍します。
その翌年ですね、結婚はするのだが、家族女学校っていうところのフランス語の委託教師になります。
やっぱりね、教えてほしいですもんね。
そう。彼女自身も教育に一心もあったやろうし、実際教える人もそんなに数なかったでしょうし。
で、この人実はもうですね、お父さん男爵になってますから、っていう方の女性ですし、実際結婚もしてるしっていう妹もしっかりしてるということで、いろいろ調査されるわけですよ。
で、家族女学校のフランス語の教師になると。
で、翌年に長女さんの幸子さんが生まれます。
お母さんになるんですけど、この幸子さんの障害が判明するんですね。
そうなんですか。
この幸子さんがどうも知的障害を持つことになります。
もうね、6ヶ月の時点でそれがわかったみたい。
そうなんや。結構じゃ重かったんかな。
重かったんだと思いますね。
結構だから、この長女さんっていうのが12、3歳まで存命されるんですけどね。
12、3歳で亡くなっちゃうんですか。
亡くなっちゃうんですよ。
あらあら、そうなんや。
ということにはなるんですけれども、でもそこは障害を持たれてるっていうことが分かって、
同年の12月にこのふで子さんと長女さち子さんが洗礼を受けるということがありました。
神様に助けを。
求めるんかな。
どうなんやろう。割とこの当時って洗礼を受けるっていうのはあまりない時代ですよ。明治まだ初期ですし。
ですよね。
ふで子さんとかは海外の文化にとっても浸ってたし、周囲にそういう方もたくさんいてたからなかったと思うんやけれども、
一般的に日本の時代としてはあんまりなかった話ですね。
そうですよね。
この時洗礼を受けた時のゴッドマザーっていうか、立ち会い人っていうのがあるらしいんですよ。洗礼を受ける時に。
その時のが津田梅子さんと言われてて。
なるほど。有名だね。
津田梅子さんも幼い頃に留学して日本に帰ってきて、家族女学校に教えてたんですよ。この頃。
そうですね。
同級生というか同僚というか、共に意識が高い系のできる女子なんです。2人なんですよね。
津田梅子さんは結婚されませんけれども、ふで子さんは結婚して子供ができて、こんな状態と。
翌年ですね、ふで子さんはこの大日本女子婦人会を設立するのに、結構尽力します。
大日本婦人教育会。
これ結構ね、婦人の方を、女性の方をしっかり教育しないとダメですよねっていうことを盛り立てていきましょうという会。
それを上流階級の婦人方が集まって話す会です。
会長が毛利公爵婦人となってましたので、その人が毛利公爵を担ぎ出して、実際取り引き切ったのはふで子さんと言われています。
すごいな。
オーガナイザーとして尽力して、この大日本婦人女子会雑誌というのも刊行したりとか、付属の旅行学校というのも作ったりとかして、割とそういうのに尽力するんですよね。
すごいですね、子供いながら。
外務次官主催の晩餐会、舞踏会で絶賛を受けるみたいな、ふで子28歳の時とか言われてたりとか。
ふで子30歳の時に次女の慶子さんを出産しますけれども、数ヶ月で次女さんは亡くなります。
そうなんや。これは悲しいですね。
悲しいですね。
翌年の31歳の時に三女さんの靖子さんを出産されます。
実はこの靖子さんも障害を持たれています。
そうなんですか。
31歳の時に三女さんを産まれるんですけれども、同じ年の10月に旦那さんが亡くなっているんですけれども、
結核性の髄膜炎と言われていて、31歳の時に三女さんを産まれるんですけれども、同じ年の10月に旦那さんが結核で亡くなっているんですよ。
産んですぐですか?
産んですぐですね。
旦那さんも結核と言われていて、お父さんも結核で亡くなって、三女さんも結核性の髄膜炎で障害を持たれるということになりました。
だから靖子さんは31歳にして、障害を持たれている二人の娘さんをもって、家婦になるんですよね。
大変ですね。
どうするかということで、いろんな道があったようなんですけれども、結局靖子さんは離縁して実家の渡辺瀬に戻るということになりました。
ご実家がしっかりしてますからね。
ご実家がしっかりしてて、小笠島家というのは高級官僚の家ではあったんやけれども、ちょっとやっぱり渡辺家に比べるといろいろ問題はあったみたい。
だから渡辺の家に戻るという決断をしたみたいですね。
16年渡辺の家に戻った後、筆子さんはもう一回学校を作るというか、校長になるミッションスクールなんですけどね。
家族女学校の委託教師がメインの仕事なんですけど、このミッションスクールの青州女学校というのは、教会がやっている女性の学ぶ学校なんですよね。
こっちの方って割と庶民というか、キリスト教の方が学ぶという学校で、彼女のほんまにしたかったのは多分こっちなんかなっていう感じで、これに割と頑張るわけですわ。
ミッションスクールね。
ミッションスクールの方ね。
翌年ですね、亡き夫の遺行というか、文章を書いてたんですよ、旦那さんは。
日本各地の災害の記録をまとめた記録とかっていうのを書いてて、それを亡き夫の遺行と旦那さんの友人と一緒に協力して出版したりします。
すごい勢力的ですね。
はい。だから働いてるんですよね。
働いてる時にでも障害を持たれている子どもさんいてますやんか。
そうそう。
で、どうするか問題があるんですけど、もちろん渡邊家ですからね、女女さんたくさん雇ってたと思うけれども、
でも専門的な人っていうのはあんまりいてなかったので、当時ですね、この子女学院っていうですね、将来彼女が結婚する両一さんがやってる学校からほぼを雇ったりとか、
その長女さんとか三女さんをその子女学院っていうところに一時的に預けたりとかっていうこともしたみたいですね。
将来の旦那さんになる方も学校やってたんですね。
そうなんですよ。石井さんっていうのも、ふでこさんよりも6歳年下だったんですけども、この方もキリスト教の考えで、
学校を作らねば、貧しい人たちのために学校を作らねばということで作ってたみたい。
で、わりと親しいというか、同じキリスト教の聖皇会、日本聖皇会って同じキリスト教の流派だったみたいですね、ふでこさんとね。
そういった親しさもあったのかもわかんないけど。
で、ふでこさんの子供たちをちょっと預けたりとか、ほぼを借りたりとかっていうこともしてたみたいですね。
で、翌年の34歳にこの子女学院っていう、両一さんの特別資金募集を北京にの一人、まあ寄付ですね、寄付集めたりする北京にの一人に名前をしたりとかしてます。
人脈すごいですもんね、ふでこさんは。
ふでこさんもね、頑張ってやってたみたいですね。
未来の旦那さんの活動に共感してたんでしょうね、この頃からね。
で、ふでこ35歳の時に、結構大切なんですけれども、この家族女学校に九条節子さん、後の定名後号のフランス語教師となります。
まあ家族女学校ですからね、家族の人たちの女性を教えることになるんですけれども、その中の一人に九条節子さんというのがいてて、フランス語をふでこさん教えるんですけど、そこの方がこの後の大正天皇のお妃になるんですよね。
そうですね。
割とね、ずっと交流があるんですよ、この定名後号とふでこさんは。この後も、この後というか。
だから教え子というだけじゃなくて、ちょっとやっぱりいろいろ関わりがあったんでしょうかね。
で、しているのがふでこ35歳です。
で、ふでこ37歳の時に三条靖子さんが亡くなります、7歳で。
7歳か。かわいい時ですね。
だからふでこさんは長女さんのみしかいらっしゃらないということになるんですけども、その年にですね、アメリカの婦人賛成権運動、万国婦人クラブというのがあるんですけど、そこから日本政府に日本代表の女性を派遣してくださいねって言われるんですよ。
えーすごい。
日本政府が。
で、亡くなった時に声がかかったのが、この家族女学校の講師のふでこさんと津田梅子さんだったんですよ。
すごいなあ。
まあ当然ね、英語も喋りますし、いろんな意識も高いですし、ご自身もですね、この賛成権とかも大切やなと思ってらっしゃいますのでね。
5月からアメリカに旅立って、その世界大会に和装で出席して、ふでこさんも津田梅子さんも英語でスピーチして喝采を受けたと。
うわあ、若い時から戻ってますね。同じですね。
で、梅子さんはですね、その後、もともとアメリカで梅子さんは小さい時は行ってましたからね。
自分だけホームステイ先に行って、その後ヨーロッパに渡ったりして、わりと梅子さんはこの後知見を深めて日本に帰ってきます。
その後大学を作ることになるんですけれども。
で、ふでこさんの方は、その世界大会に出席した後どうしたかっていうと、実はですね、梁一さんと合流するんですよ。
梁一さんも実はね、留学に来るんですね。
多分その前から示し合わせててたのかなとかって思うんですけど。
だからまあ意気投合してたんでしょうね。
まあそれは向いてるベクトルの先は同じでしたもんね。
キリスト教の思いを持ってて、弱い人を助けたいという思いを持ってて、
ふでこさん自身も障害を持たれている子どもさんを預けたりとか、その方をどうなんかしたいという思いが強かったでしょうからね。
そうですね。
で、多くの教育施設とか福祉施設とかを精力的に二人で見学したりして、です。
この時の旅行のことをですね、44年後出版します、ふでこさんは。
やっぱりすごいいい思い出だったんだ。
いい思い出だったんでしょうね。昭和17年に出版することになるんですけども。
この時にはですね、別にその梁一さんのことはあんまり書いてないんですけど、
梅子さんとの、自分のことだからね。
梅子さんとのなかなか難しい様子とかね、アメリカの様子とかっていうのが書いてるっていう本みたいですね。
なるほど。
ここで、梁一さんとですね、いい旅行をしてっていうことです。
ここが一つのクライマックスなんですけどね。
ここでちょっと一旦終わろうかなと思うんですけど、この後また言っていきたいなと思うんですけどね。
まずですね、ふでこさんの生涯の前半のまとめで言っていきたいなと思うんですけど、
上陵階級の師匠の息子娘さんで、いろんな人脈を持ちます。
最高の人脈は、例えば公室ともつながったりとかするような人脈を持つような方。
でもそれだけじゃなくて、最高の教育を受けて、自分自身もいろんな能力を発揮してますよね。
社会ともうまく関わってたりとかして。
あと、やっぱり女性ですからね、この当時ってすごい差別を受けてたと思うんですよ。
結婚の自由はないし、職業選択もめちゃめちゃ限られてただろうし。
っていう女性としての差別も感じてたし、
プラス知的障害を持っているお母さんとしての障害の差別というのも多分強く持ってたし。
プラス、旦那さんとか子どもにも先立たれるという創筆体験も受けているというですね。