1. むにむに〜世界を変える社会起業家〜
  2. 【シーズン1最終話・湯浅誠】..
2025-04-10 54:43

【シーズン1最終話・湯浅誠】「分断社会に対してできることは?」子ども食堂を支援する社会活動家の半生(むすびえ創設者)

▼本日のゲスト

社会活動家、東京大学先端科学技術研究センター 特任教授、経済同友会会員、こども家庭庁「こども家庭審議会 こどもの居場所部会」委員。 認定NPO法人全国こども食堂支援センター・むすびえ理事長 湯浅誠。1969年東京都生まれ。東京大学法学部卒。東京大学大学院法学政治学研究科博士課程単位取得退学。1990年代よりホームレス支援に従事し、2009年から足掛け3年間内閣府参与に就任。内閣官房社会的包摂推進室長、震災ボランティア連携室長など。政策決定の現場に携わったことで、官民協働とともに、日本社会を前に進めるために民主主義の成熟が重要と痛感する。2014〜2019年まで法政大学教授。 著書に、『つながり続ける こども食堂 』(中央公論社、2021年)、『子どもが増えた! 人口増・税収増の自治体経営』(泉房穂氏との共著、光文社新書、2019年)、『「なんとかする」子どもの貧困』(角川新書、2017年)、『ヒーローを待っていても世界は変わらない』(朝日新聞出版、2012年)、『反貧困』(岩波新書、2008年、第8回大佛次郎論壇賞、第14回平和・協同ジャーナリスト基金賞受賞)、『貧困についてとことん考えてみた』(茂木健一郎と共著、NHK出版、2010年)など多数。 ヤフーニュース個人に連載中の「1ミリでも進める子どもの貧困対策」で「オーサーアワード2016」受賞、法政大学の教育実践で「学生が選ぶベストティーチャー」を2年連続で受賞。「こども食堂安心・安全プロジェクト」でCampfireAward2018受賞。他に日本弁護士連合会市民会議委員など 。

サマリー

ポッドキャストの最終回で、社会活動家の岩瀬誠氏は主権者としての意識の重要性や、誰もが社会活動に参加できる可能性について話しています。また、認定NPO法人全国子ども食堂支援センター「むすびえ」の設立背景や、ボランティア活動を始めた経緯も紹介されています。このエピソードでは、社会活動家としての半生を通じて、子ども食堂の支援の重要性や、分断社会におけるイノベーションについて考察されています。心の中での理解やルールの変更が、異なる環境にいる人々の共存を可能にすることが強調されています。 さらに、湯浅誠氏は子ども食堂やホームレス支援の背景にある分断社会について語ります。彼の経験や挑戦を通じて、社会的な貧困問題の現実やそれに対応するための取り組みが紹介されています。このエピソードでは、湯浅誠氏が子ども食堂の重要性とその広がり、地域社会における分断の問題について話しています。また、地域のネットワーク形成や多様な意見の受け入れが社会の改善に寄与する可能性についても考察されています。 さらに、このエピソードでは、湯浅誠氏が分断社会において子ども食堂を通じて多様性を促進する取り組みについて語っています。地域の多様性の重要性と、その実現に向けた活動家としての生き方についての考えが紹介されています。最後に、湯浅誠氏が子ども食堂を通じて分断社会に対する解決策を模索し、社会貢献の重要性について話しています。

ポッドキャストの目的と最終回
始まりました、むにむに。この番組は40歳を超えてNPOに関わり始めたじゅんと、20代のポッドキャストプロデューサーのひとしが、
社会課題解決に取り組む方々から、誰も取りこぼさない社会を作るためのヒントを学ぶポッドキャスト番組です。
認定NPO法人全国子ども食堂支援センター、むすびえさんの提供でお送りします。
よろしくお願いします。
ラストです。
ついに迎えましたね、第一シーズン最終回。
僕の中ではかなり最先端でいろんな人の話を聞けた半年間。
ほんとですよね、アカデミーでした。
楽しかった。ということで最後なんですが、
大鳥は。
むすびえさんの創設者である岩瀬誠さんをお迎えしたいと思っております。
尊敬する社会活動家。
岩瀬さんってどんな人なんですか。
どんな人なんですかね、なんか優しいですよ。
でもやっぱり社会活動家としてもうずっと活動されてきてるじゃないですか。
ほんと何年ですか。
根からのですよね、多分一回も就職とかはされずに、大学生の頃からボランティアや活動をずっとやってるので。
だからそういうメディアを見ると結構しっかりした、かっちりしてる方なのかなと思ってるんですけど。
もう今回はほんと社会活動家の岩瀬さんの思想をひたすら深掘っていきたいなと思って。
ご経歴も東京大学の法学部卒業して、その後東京大学の大学院に行かれたんですけど、
退学されたと。そこからホームレス支援事業されたり、
2009年からは内閣府参与に就任されたり、いろんな社会活動をほんとずっとやってきてるっていう方ですね。
結部さんを立ち上げたのが6年前なんですよね。
2018年かな。
ここに至るまでのお話を聞いていこうと思います。それではお呼びしましょう。
主権者としての生き方
ちょっと簡単に自己紹介をお願いしても良いでしょうか。
岩瀬誠と言います。よろしくお願いします。
機械的な紹介。
だって自己紹介でしょ。何を言えばいいですか。簡単にご経歴。
経歴、昭和44年、1969年生まれの55歳でございます。
肩書きは主なものが3つありまして、1つは社会活動家というものを名乗っております。
2つ目に東京大学の特任教授をやってます。
3つ目に認定の美容法人の全国子供食堂支援センター、むすびえと、河本さんと一緒にやってます。
社会活動とむすびえさんは別なんですね。
社会活動家。
社会活動家っていうのはね、建築家みたいなもんですよ。
技術者みたいなもんですよ。
一生社会活動家ですよね。変わることはありますか。
名乗らなくなることは今のところ想定してないけど、20年くらい名乗ってるんだけど、広めたいと思って。
みんなに名乗ってもらいたいと思って。
あんまり増えないので。
社会活動家って、それを増やそうがこの番組なんですよ。
24回やってまいりましたけどね。
最終回に岩瀬さんを。
まずね、ぜひあんま重く考えすぎないで。
例えば大工さんも、プロの大工もいれば、日用大工もいいじゃないですか。
日用社会活動家でいいんですよ。
一日だけ。
そう一日だけとかね、アフターファイブとかね。
なんだろうな、その社会活動家の定義はですね、世の中よくしたい人なんで。
ぜんいんじゃないですか。
そう、だから全員名乗ってくれればいい。
なんだけど、全員、主権者みたいなものですよね。
主権者も僕本当に携わらせてもらって、考えたんですよ。
書いてあるものとか読んで、どういうことなんだろうが、主権者であるっていう意識で普段生きてなかったので。
憲法に書いてある。
書いてある、だから憲法。
小学校中学校で習ってるよね。
習いましたね。
主体制を持って生きるみたいなことですか?
いや、主体制を持とうが持つまいが主権者だったわけですね。
つまり日本は国民主権の国であると。
国民って誰かと、私ですと、あなたですと。
全員ですよね。
私たちが主権を持ってる。
だからこの国の最終決定権者なんですよ。
この国の最終決定権者で、もちろん私一人が決定権者じゃないからね。
みなさん1億人ですけど、その人たちが全員。
そして実は投票権持ってなくても主権者なんですよね。
10歳の子でも。
その人たちを主権者ではないとは書いてない憲法に。
ってことは我々が最終決定権者なんですよ。
主権者である生き方とそうじゃないはどんな違いがある意味?
どんなことをしようが主権者です。
そういうことか、だよってことを言ってる。
365日24時間主権者なんです。
生まれてから死ぬまで。
だからその意識を持って生きてきたことがなかったので、
それは何が違うのかって僕からしたら、
なんか人のせいにしてたなって思ったんですよ。
だから政府のせいとか行政のせいとか、なんでこんなことしてくれないんだとか、
企業のせいとか会社のせいとか。
それは私の不思議は、
なんでみんな主権者なのに主権者じゃないかのような顔をするのか。
これが不思議。
当たり前すぎてあれですよね。
主権者であるとか、民主主義であるっていうことを普段意識してないけど、
せっかくそれなんだから、ちゃんと主権者として生きたらいいんじゃないっていう、
そういう気持ちですか。
そうだね。主権者なんだから主権者として生きようっていう。
それだけ。
それだけ。
それだけ。
なのでやっぱり主権者としてはさ、
やっぱこの国この社会良くなってもらいたいじゃない?
良くなってもらいたい中身は人それぞれだよね。
気になる問題とかはね。
だから主権者でいろいろ調整したり合意したりしようってことになって、
今の代議政民主義ってことが生まれてんだけど、
だけどその根は自分たちにあるわけ。
その主権者としての人たちは全員社会活動家と名乗ってもらって、
私的にはウェルカムなんですよ。
私がウェルカムって言ったからって何も世の中、
何の認証も権限も持ってませんけどね。
僕がすごく理解したのが、それなんか課題を持っていて、
それを何とかしたいなっていうのは政治家にならないとできないとか、
なんか大金持ちにならないとできないみたいなふうに思ってたんですけど、
そうじゃないんだよ、別にどんな立場でもできるよっていうふうなことを実践されてきたのが、
東亜さんの人生なんだなと思って、僕は府に落ちたんですよ。
孫正義さんもね、あるいはセカゾーで暮らしてる人も一票なんだよね。
同じ一票。孫さんが一万票を持ってるわけじゃない。
確かに。
それが民主主義ってものなんだよね。
標は変えるような気もしてはいるんですが、一人一人には一票ですよね。
でもその無数にある一票の自分一って思ったら、
ちっぽけだなって思うこの感情はどうしたらいいんですか?
標 いやちっぽけですから。
ああちっぽけ。
標 それはもう1億2000万分の1に過ぎないから。
それはそうなんですか?
標 それはもうなんか俺様的にはいかないよね。だから、やっぱり1億2000万分の1として頑張るっていう。
で、当然関わりながら生きてるからさ、人と人って。
なので私がうんうんやってると、それに影響されてくれる人も出てくる。
まあもちろん逆もあるんだけど。
っていう風になるので、もちろん1億2000万っていうのは完全に独立した変数ではないですよね。
お互いに影響し合ってる。
影響し合ってるので、1億2000万分の1に過ぎないんだけど、うんうんやってるとそこに反応してくれる人が出てくる。
それがその世の中が変わってくるってことだと思う。
だってあれですよね。
ユアスさんだって最初はちっぽけなと言ったらなんですけど、
別にその影響力がそこまであるわけではないたった1人から始まってるわけですもんね。
標 それは、そうですよ。私は貴族の出ではありませんので。
その、例えばじゃあムスビエさんを創設するまでどんな経緯で。
今日はムスビエ創設者としてね、来ていただいてますが。
標 私はもともとはですね、まずいわゆるボランティアをやり始めたのは、大学1年生の時。
何のボランティア?
標 自動用語施設の学習ボランティア。
東大の時?
標 そうですね。東大入って1年目の時に、何かしようと思って。
標 そういう時ってどこ行けばいいか知ってます?
何かしようと思った時。
標 ボランティアセンターっていうのがあるでしょ。
標 全自治体。
標 なんかボランティアしたいんですけど、どこ行けばいいですか?
そうそう、何ができますか?
標 今もあるんですか?
もちろんあります。
標 そこで、私の場合は三鷹市に住んでて、
三鷹大ってね、井上知らせんの岸上寺から2駅目のとこで、
岸上寺がハブだったんで、岸上寺行って武蔵野市のボランティアセンターっていうのがあるでしょ。
そこに行って、なんかやりたいんですけどって言ったら、
たまたまその時紹介されたのが児童養護施設の学習ボランティアだった。
多分大学とか見てね、あんただったら勉強教えられるんでしょって思ったんだと思うんだけど、
だったんで、まあ本当完全に偶然なんですけど、
じゃあ何でそのボランティアなんかやろうと思ったかっていうと、
私ね、兄が障害者なんですよ。
標 そうなの?
兄が障害者だったんで、
兄ちゃんのために、車椅子だから、
今特別支援学校って言うけど、
昔は養護学校って言ったんですけどね、養護学校に通ってたんですよ、うちの兄は。
で養護学校って、
今の私立学校みたいなイメージしてもらうといいと思うんだけど、
すごい広い範囲から人が通ってるから。
ということは放課後、一緒に遊ぶ友達が近所にいないんですよ。
なので兄ちゃん、学校から帰ったら、
車椅子だし、基本的にはずっと家にいるわけ。
でこれを親がね、かわいそうだと。うちの親はトンバだらけだったのもあって。
で、俺は公立小学校を通ってたからさ、
近所には遊ぶ友達がいないようにしようとすると、
標 そうですよね、学校の友達がそのまま放課後、
放課後、遊びましょうになるじゃない。
標 野球しようって。
俺は当然、行きたいわけだから。
行くってことは兄ちゃん一人で置いてくってこと。
標 置いてく、はいはい。
これはね、子供ごろに嫌なものよ。
もちろん遊びに行くんだけどそれも。
だけどなんとなくちょっと気になってるね。
で、そういう時にボランティアさんが来てくれて、
兄ちゃんの遊び相手やってくれると。
いや、なんか助かったっていう感じ。
標 もう小学校ぐらいの時です。
子供ながらにそういうこと思うんだよね。
標 その時に大学生のボランティアの人が来てくれて。
大学生とかね、クリスチャンとかね。
当時ボランティアって全然一般的じゃないから、
遊びの重要性とルールの変化
限定された人たちだった。
標 すごく思いが強い人たちなんすかね、ジョン。
だったのかね。
俺も一緒に遊んでもらったよ、それで。
例えば兄ちゃん、そうやって立ち上がったりできないから、
部屋の中で風船膨らまして、
ビニールで紐張って、
部屋の中でバレーボールみたいな。
そういう遊びを考えてくれるわけですよ。
標 一緒に遊べるような。
そうそう、兄ちゃんも参加できる。
標 そういうルールを作ってくれて工夫してくれるんですよね。
そうそうそう。兄ちゃんも遊べるようにね。
標 それってでもあれですよね、
障害のある方に対してやったことだと思いますけど、
すごくちっちゃい子と一緒に遊ぶときもやりますもんね。
そうそう、異年齢で遊ぶとそういうことやるんだよね。
標 はい。
標 ハンデをつけるみたいなルールをつけたりですね。
異年齢で泥系とかやった?
標 やりますやります。
標 うちも四つ下の妹たちがいたんで、
その年代と一緒にやると全然違うんで。
そうそう、そういうちっちゃい子ってさ、
なんか三回捕まるまでOKとか、五回捕まるまでOKとかやってなかった?
標 やってました。
標 ちょうどお互いが本気でできるラインを作るんですよね。
あれなんて読んでた?
俺のところのお味噌って読んでた。
お味噌って味噌かすって仲間外れにすることを言うんだよね。
標 はい、語源が確かにたどりやすいですね、お味噌が。
だけどそれは仲間に入れるためにやってることだからさ。
なんかちょっと意味が転用されてるんだけど、
とにかく我々はそう言ってた。
で、ここで分かったのは子供たちは全国どこでも
お互い全く独立して遊んでたんだけど、
でもやっぱり同じように異年齢の子供がいたり、
自分の常識をそのまま通用できない、
同じルールを適用すると何か不都合が起きちゃう。
そういう人がいるとルールを自分で変えてた。
それがイノベーションって言うんですよね。
標 自発的に勝手にやってますもんね。
大人がそうしろとか言わないですもんね。
言わない言わない。大人がいないし。
標 この地域だけじゃなくて、
確かに皆さんやってるんですよね。
人間ってそういうものっていう。
ちょうど僕がやってる子育てのラジオ
ティーチャーティーチャーって番組で、
何回か前に遊びの重要性みたいな会話やったんですよ。
子供にとっての。
それが大人がいなくて子供だけで遊ぶことで、
そういう自分たちで全員が楽しめるようなルールを設計していくっていうのがあるって話して。
標 さっきの主権者の話なんだけど、
みんな持ってるよね。自分でルールを改変して、
その場にいる全員が楽しめるようにするルールをいじる力。
ところが大人になっていくと、
だんだんその力を失っていくのか忘れていくのか。
ルールに沿わないんだからしょうがないよねって言い出すわけよ。
排除してきますよね。
標 簡単に排除する。だってこの人ルールに乗れないんだから残念だけどしょうがないよねとか。
会社とかも本当にそうじゃないですか。
スキル足りてないからとか空気読めてないからちょっと発言控えてみたいなことを、
空気的に作り出したりしますよね。
標 でもルールって何かってことなんですけど、
例えば法律であれ条例であれ、常に見直す対象なんですよね。
国会の法律もそうだけど、一回決めてあと半永久的にこのままですって。
そういうものはないわけで、あくまでその3年後に見直すとか5年後に見直すとか、
そうやって常に一旦ピン止めしないことには赤信号渡っていいのか渡っていいのかわかんないから、
赤信号渡っちゃいけないってルールは決めるけども、
だけどそれは常により多くの人が幸福になるように常に見直しの対象なわけだ。
なのでそのルールっていうのは私たちにとっては能動的にいじるもので、
ルールは従わなきゃいけないんだけど同時にいじるものでもあるという風なことを、
我々は子供の時にやってるんですよ。当たり前のように。
ボランティア活動の始まり
始まる前にもねちょっとお伺いしたんですけど、
ご両親が割と法人だったみたいな、何々しなさいとかこれ大丈夫ですかとか、
法人だと思ってたね。
されてこなかったからご自身で工夫していくっていうことが、
なんかすごく真に身につかれてるんだろうなと思って。
法人っていうのはうち兄ちゃんが障害者だから、
やっぱり兄ちゃん中心に回るのよ家が。
だから父ちゃんも母ちゃんもやっぱり兄ちゃんが軸なわけね。
だからうちさ、わかりやすい例を言うと、
ドアの取っ手が普通のところより下についてる。
車いすでも届くような。
兄ちゃんがね、家の中は車いす使わないんだけど、
正座した状態でいざるってわかる?
足が動かないので手を杖みたいにしてずりずりって。
ああはいはい見てきました、いざる。
なのでうちの兄ちゃん正座した状態で手を使うから、
普通の高さのノブだと届かない。
なのでうちの扉のノブは普通のものよりも下についてる。
それで兄ちゃんが手が届くように。
一時がバンジー来る感じだ。
だから兄ちゃん中心に回ってたのよ我が家は。
ということなんで、俺はほったらかされてると思ってたわけだ。
すんごい忘れられない。
4人家族だったから夕飯の時に、
たとえば餃子とか大皿で出ることあった。
父ちゃん新聞記者だったから、いない時も多かったんだけど、
家にいる日もあって。
で、そうすると兄ちゃんに餃子取り分けてあげるわけ。
うちの兄ちゃんイクオって言うんだけど、イクオ食べなさい。
で、兄ちゃん嫌なわけ。自分で取れるよみたいな。
なんか構われすぎるの嫌なんだ。
で、そこで親子のやり取りがさ。
いやいや、いいよ。食べてもいいじゃないか。
世話焼いてんのに。
余計なおせんかいだった。
それを俺はね、なんかしらっと見てるわけよ。
俺にはしてくれないのか。
そう、俺にはしてくれない。
向こうにやってんのは嫌がってんのに、過剰にしてんのに俺にはしてくれないという光景ですね。
全部兄ちゃん中心なのに。
っていうのがあったから、俺は本人にされてると思ってたんだけどね。
それは子供のひがみみたいなとこあって、
必ずしもそうじゃなかったと思うんだけど。
そう思ってましたわ。
結局あれですよ、大学生でボランティア始めた時からまだ時が動いてない。
ピタリとピクリとも動いてない。
時が進んでねえじゃねえかこの野郎。
そういうことね。
ボランティア1年生でやり始めたと。
はいはい、やり始めましてね。
これで1995年になるから、大学院に。
私大学学部6年行ってるんですけど。
6年行って。
学部が6年。
学部6年。
で、その後院。
で、その6年経って大学院の入試を受けて、大学院の入試は9月なんですよ。
はい。
合格発表が。
そうです。大学院行きました。
行った。
ちょっと間開くじゃない?
そうですね。
秋から冬にかけて。
春にかけて。
あの時に友達がホームレスチェーンやってたんだよね。
うーん。
で、彼のホームレスチェーンやってるのを見に行ったんですよ。
それが95年だったんだよ。
そこで衝撃を受けたとかなんですか?
衝撃を受けましたね。
渋谷だった、まさに。
今ここで渋谷で収録してるけど。
渋谷で、当時100人いたね。ホームレスの人が。
で、俺、大学1,2年は東大駒場って渋谷駅のすぐそばだったから、
渋谷って結構飲みに行ってたわけですよ。
遊びに行ってた時は、この街にホームレスがいるとか考えたこともないわけ。
だからその時誰か、誰にも聞かれたことないけどそんなこと。
誰かが俺に、渋谷の街にホームレスっていると思う?って聞いてたらとしたら、
俺はいないと思うって答えてたと思う。
俺しょっちゅう行ってるけど見たことないしって。
そしたら100人いたんですよ。
結構ね、あのショック。
人間って見たいものしか見てないんだなみたいな。
観視にないと、視界に入っても脳みそまで届かないんだなみたいな。
感じのことを思って。
これでまぁ、見ちゃったからなぁみたいな感じで、
最初すごいそれでも中途半端だったんだけど、
だんだん深入りしていって、路上で寝泊まりするようになっちゃってね。
自分も。
ホームレスの人と一緒に。
それで2002年ぐらいまでそういう生活をしてました。
それはなぜ一緒に寝泊まりするようになったんですか?
だって路上の暮らしを、まずは死なないことが目的なんだけど、
例えばこういう時期とか、超寒いわけですよ。
それで路上の人っていうと、固定的に捉えるかもしれないけど、
路上は流動性が極めて高いよね。
なので新しく路上に来る人たち、出てくる人実はそんなに多くないんだけど、
入ってくる人たちがいる。
この人たちは最初の2週間ぐらいはね、もう何していいかわかんないから、
例えばずっと8校前のベンチで座ってたりするんですよ。
そもそもどこで段ボールとか段ボールハウスとか作ってるの?
どこでも教わらないですもんね。
どこでも教わらない。
路上のサバイバル術みたいなのも習ってきてないですね。
当然教わらないよね。
最初はだからその路上生活者になりきれないホームレスって言ってるんだけど、
生活もできて…
路上の暮らし方がわからないホームレス状態なんですよ。
だからそういう状態の時に、例えば今で言う闇バイト的なものに、
路上生活者との関わり
持ってかれるわけよ。だってどうしてかわかんないから。
そういうような状態だったから、
まずその人たちに声かけて、路上での暮らし方をまず教えるっていう。
そういう作業があるわ。
指南するんですね。
一番いい段ボールってなんだかわかる?
え?分厚い段ボールってことですかね。
大きくて厚めで段ボールハウス作る時にちょうど…
だってこんなちっちゃいみかん箱みたいな段ボールだったらさ、
もう作るの大変でしょ?
作ってもすぐ倒れちゃいそうですし。
そう、ベッドとか家具。
ベッドとか家具。いい線いってるね。
でもそこはそんなに量が出ないじゃん?
言っちゃうとアパレルの。
へぇー。
あのー海外で作った。服って軽いじゃない?
だから大きな段ボールにたくさん入るわけでしょ?
路上での暮らしのノウハウ
それで海外から運ぶから結構頑丈な段ボールになるわけ。
でこれがその前渋谷居山穂田アパレルのお店あるけど、
ああいうところの裏口とか行くと出てることがある。
すごいそれを教えて。
いい段ボールの在りかをまず教えることから。
そうそうそう。いい段ボールこうやって取れるよと。
でそれをこの段ボールはこうやると寝れるんだと。
段ボールハウスの一番簡単な作り方は
そういう大きめの段ボールを3つ作って繋げるだけでいい。
あまり技術いらないわけ。
縦にして筒状にする。
とかっていうのはそのなんか路上で生きるノウハウなんだよね。
であの食事はっていうと
その今どうなってんだろうな。
まあ俺がやってた頃は渋谷に星の数をとファーストフードあるけど
食べられるものを食べられる状態で出してくれるファーストフードは5店舗しかなかった。
あとは全部タバコの吸い殻混ぜるとか。
ああそういうこと。
コーヒーカスを混ぜるとか。
食べられない状態にして出すわけ。
でそれをその
まあ店側の考え方としては
それで捨てたものとはいえ
それを食べて
なんかあったらなんか責任追及されちゃいけないなって思うから
まあそうやって出すんだけど。
だからあえて食べられないように。
あえて食べられない状態に出すんだけど。
で食べられる状態で出してくれるファーストフードは5店舗しかなかった。
でそこにどこなのかってことを伝えるとか。
あるいはその
センター街とかに夜中歩いたことある。
ものすごい両脇にゴミ袋が山積みになってて。
なんとなくイメージはわかる。
回収者が来る直前くらい。
であの中からね
その食べられるものが入ってる袋を当てないといけない。
本当にその弁当柄も入ってるやつもあれば
でお弁当が入ってるものもあるわけ。
でそれがみんな半透明の
白だったり黒だったりに入ってるものだから
パッと見わかんないな。
だからといってあそこで一個一個
包み、ダンボール開けたり
ビニール広げてたらさ
通報されちゃうじゃん。
何やってんだってことになる。
なのでタッチで判断するんだよ。
あの20も30もあるゴミ袋を
上からタッチして
これだなって。
それをパッと持っていって
あまり人目につかないところで開けるわけ。
っていうようなことってやっぱ
なんでもそうだけど
どんな仕事もどんな暮らしもそうだけど
暮らすためのノウハウってあるじゃないですか。
だからその路上で暮らすことを
やっぱりそれは
何も知らなければ路上で暮らせない
でそういう中で死んじゃう人もいるっていう中で
ボランティア活動と職業選択
まずは路上の暮らし方みたいなのを
教えると思うとやっぱりなるべくその
現場に近いところにいないといけない。
ネットマルシェルだったね。
それがあれですよね大学院の
入学までの猶予期間で
始めたことが
初めて大学院入った後もずっとやってたもんね。
そうですよね。
そのなんていうか本望である
大学院生活が始まっても
のめり込んでいかれるということですよね。
それでだから博士論文書けなくて追い出されると。
お前いい加減にしろと。
追い出されるわけ。
その前の東大の学部生の時も
ボランティアずっとやられてたわけですよ。
ボランティアやったりしてました。
当時はどう考えてらっしゃったんですか。
キャリアといいますか。
これもなんでだかわたし分かんないんだけど
とにかく大学入る前から人に雇われる仕事には
つかないって決めてたんだね。
結局それはそのまま来ちゃった。
なので銀行とか官僚とかは
当時の選択肢にはなかったです。
唯一弁護士って自分でやる
専門職で独立できそうな。
だから弁護士になろうと思ったことが
大学の3年生からあって。
3年4年くらいは
法律の勉強してたよ。
だけどどうしても合わないんだよね。
法律苦手。
ダメだった。
そこから大学中退して
どうなっていくんですか。
大学院ね。
大学院中退して
次は2003年ですよ。
2003年に大学院に追い出されて
オーバードクター状態でね。
追い出されてどうしようかなと思ったの。
普通はですよ。
働きなさいよとか
自分で生計立てなさいよっていう
プレッシャーと言いますか。
自分で生計立てなきゃいけないよね。
働く、どっかの会社に入るっていう選択肢はないから
その時の俺の選択肢は
結局そうなんだけど
その教師になるか
雇われるんだけどね。
呼び子の先生になるか
社会的な貧困問題への認識
あとはもう一つは
ホームレスの人たちと一緒に仕事を立ち上げるか。
俺ずっと路上の時に
ちょっと嫌な感じだったのは
ホームレスの人たちと一緒に活動してたんだけど
例えばみんなで食事作って
みんなで食べてみんなで片付ける
その人たちも一緒に
サービスの受け手じゃなくて
みんなで一緒にやるって大事にしてたんだけど
彼らはその活動が終わったからって
帰る家もないしさ
それに時間を使うってことは
自分たちの現金収入の時間を割くってことなんだよ
なんかちょっとこう
なんとなく気持ちよくなかったわけ
決定的な境界線がある感じですね
仲間になりきれないみたいなことですか
なのでみんなで仕事を起こして
俺も稼げなかったら食えないし
みんなも稼げなかったら食えないし
これ条件一緒だと
いう風にしたら
気が楽になった
すげー
それで便利を起こした
結局便利を起こした
何をするんですか
最初ね引っ越しやった
みんなで引っ越し
でも岩瀬さんしか免許持ってないし
車を持ってるわけでもないから
勝てないんですよね
引っ越し屋さんには
あの時痛感したけど
まあ当然ながら自分でトラックも持ってるし
当たり前だけど
35歳以下のさ
若い人を集めて
しかも普通免許持ってるのは条件で
一日そこの人たちは
二現場とか三現場
働かして日給8000円とかで
それで
あの金額なわけよ
単身パック18000円とかさ
こっちは平均年齢55歳
普通免許持ってるの俺だけ
車ないから毎回レンタが
価格で勝てない
やる前から別れてた話かもしれないけど
やってみて
無理だなと
もう不可能だと
でもそのおかげで
これも二三元で見切りつけたんだけど
そのおかげで分かったことがある
それは今でいう
異品整理屋さん
亡くなった方の片付けとか
ゴミ屋敷の片付けとか
そういうのは
色々でもできた
戦えたんですよ
それで俺便利屋で
5年食ってた
ホームレスのうっちゃん達と一緒に
活動から始まって
おのずと
そういうアントレプレナーシップ
マーケティングをされていた
みたいな
当時アントレプレナーシップとかあったのかな
社会起業家とか
言葉なかったと思うんだけど
タイあたりで
そういうことは考えてなかったが
結果的にそんな感じだった
そうこうしてるうちに
竹中平蔵さんがさ
日本に貧困問題はないんだ
って言ってるのを新聞で読んだ
大臣になられて
大臣になって
経済再生担当大臣だったな
2006年の6月15日の
新聞なんだけど
結構2面使ったでっかい
インタビュー聞いて
こう書いてあったね
格差より貧困が問題ですと
貧困がある程度になったら
社会的に対応しなければいけません
ここまではフンフンと
思って読んだ
だけど日本には
社会的な大問題としての貧困問題はありません
って書いてあった
俺は当時
仕事一緒にしてんのはホームレスの人たち
現場行ったら
そこはそういう
ホームレスじゃないかもしれないけど
誰も見取り手がいない
モヤイっていう団体で
生活相談の活動もしてたけど
その活動日は朝行くと
みんなが列を出して待ってるような
正直に全財産50円ですみたいな人たちが
列を出して待ってるような状態で
俺1年中
貧困に囲まれて暮らしてた人たち
それがないって
俺が住んでる世界はどこなんだよ
俺はその人たちが
パッと消された感じがした
あの当時の渋谷に
ホームレスいないと思ってた
そうそうそうそう
あの時の私だみたいな
あんたには見えないかもしれないけど
ここにいるってことを
教えてやろうと思って
論文書いたのさ
東大の大学に行ってたから
論文を書くという
アクションになるんですねそこから
そこにいるってことを
発表しようと思って
だってメディアと
接点ないからさ
記事にもしてもらえないし
SNSも当時ないし
論文というか
雑誌に投稿したんだけどね
月刊誌に勝手に書いて
勝手に編集部に送りつけたのこれ載せろっつって
そしたら電話がかってきて
かかってくるんですか
それは読んでくれた人がよかったと思う
かかってきてうちは投稿は受け付けておりません
って
うちは投稿受け付けていないのに
その後は
だけど
読んだらいいものだったので
2万字くらい書いちゃったんだけど
これを3分の1まで圧縮してくれたら
8000字まで圧縮してくれたら
載せましょうって
これで8000字まで圧縮して
載せてもらったら
当時そんなこと言ってる人が世の中にいないもんだから
ないってされてますしね
ワーって取材が増えちゃって
これでもう
一日中取材が増えてるような感じになっちゃって
弁理屋は
その後1年か2年で
後継に譲って
当時は結構メディアとかに出たりしてたんだけど
そういう感じになってた
その論文一本が始まりなんですね
そうなの
なんか載ったらいいなぐらいな感じで
でも本気で
違和感があって
伝えたいことがあって
そうね怒りに任せて
すごい熱量だったんです
子ども食堂の始まりと広がり
当時さ
現場8時からじゃん
現場8時からだから
住宅街じゃんどっかの
東京のしかも路地裏なわけよ
そんな立派な家じゃないからみんな
路地裏とかに
8時からなんだけどそこに7時に着いて
朝の1時間を
執筆に当てるわけだ
現場で書くんですか
仕事があるのよ
自宅でやらないんですね現場で
現場8時からだから7時に着いて
でも住宅街だから
喫茶店とかもないしさ
ロカタでみんなが着くまで
カチャカチャやってるわけよ
夏だったの
6月15日がそれ見た時だからね
よく覚えてますね
それを忘れないね
インパクトあった
夏だから
暑かったな
外でロカタ座って
自販機で缶コーヒー買ってさ
飲みながらカチャカチャ書いてたの
すげえ覚えてる
社会的に存在感を増していく
社会的にね
こういう人がいるんだというのは
その時に知ったっていう人は
いると思うけど
その時にバタバタバタバタやってたら
年末年始に
ハケ村っていうのやることになって
それはまあ割とメディアを
騒がせしてしまってたね
そっからムスビエさんに
どういうきっかけで
繋がってるんですか
それが2008年9年だな
ハケ村ってあったのが
2018年だから
私子供食堂に関わりだしたのは
2016年なんですけど
当時ね子供食堂300
箇所
今はもう1万
1万
素晴らしい活動だと思ってね
これは
いけると思ったんですよ
当時から
直接のきっかけは
今池袋で
彼女も有名な方だけど
ネットワークっていうのをやってる
栗橋さんっていう人に
全国キャラバンみたいなことを
この活動を広めるためにやりたいと
だけどまあ
自分はそう思ってるんだけど周りはみんな反対してると
そんなことできるわけないって言ってると
相談乗ってくれって言われて
池袋の喫茶店で会って
話聞いて
私はすごいポテンシャル感じてたからこれできると思った
どこにポテンシャルを感じましたか
やっぱね
主権者としての
気持ちを
汲み取れる活動
あのみんなね
思ってるわけですよ
地域に大変な子がいるんじゃないか
自分でできることってなんだろう
うちの地域は
どんどん人が減っていって高齢者ばっかりになって
商店街もシャッター通りになって空き家も増えて
随分寂しくなってしまったと
地域のにぎわいってどうやって
取り戻せるだろうと
みんな思ってるでしょ実は
だけど何していいか分かんない
何していいか分かんない時に
子供食堂って
ご飯作ってみんなで食べると
これならできる
っていう風に
すごいよく聞いてたのは
これならできると思ったんです
っていう言葉を
運営者の方たちから聞いてた
なので
その手の届く感覚
すごい発明だなと思って
それまで貧困問題だったでしょ
貧困問題ってね
大事だってみんな言ってくれるんだけど
自分でできる気しないのよ
どうかかったりか
分かんないでしょ
難しいこといっぱいあるんじゃないかとか
言っちゃいけないこといっぱいあるんじゃないかとか
障害者の方と関わったことがない人が
障害者の人にどう関わったらいいか
いろいろ考えちゃう
考えて考えて逆に
身動き取れなくなる
あの感じって
まあ活動一般にあるわけですよ
貧困問題やってたので
特にそのハードルは感じていて
で確かにね
みんなでやれるって
言えない面も確かにあるのよ
いろいろ知識とかね
付き合い方みたいのもあるし
でも子ども食堂は
これなら
できると思ったんだっていう風に
皆さんを言わせる
コンテンツなんだよね
これは私は
気持ちはみんな持ってると思ってるから
その気持ちを形にするときに
この次の一歩を
踏み出すのに本当に
いい発明をしてくれたと思って
なのでこれは
ものすごく広がる
ポテンシャルがあると思って
それで自分が広めていく
ところを手伝う
全国キャラバンやりたいんだけど
できないみんな反対してるって言うからさ
でもこれだったらできると思う
それで一緒に実行委員会組んで
3年かかっちゃったんだけど
47都道府県全部でやった
地域ネットワークの形成
その過程で
各県で実行委員会っていうのが
そのキャラバンやるための
実行委員会ができてって
その人たちが運営者中心
なんだけどこの人たち自身が子ども食堂やってる人たち
なんだけど地域のネットワークを
作っていくわけ
そういう中で2018年まで
行って
その時に
頭調べたら2000カ所まで増えたんだよね
応援したいという企業さんもいっぱい出てきた
ところが今度
応援したいっていう企業さんの
例えば
いい活動だと思うから100万出しましょうと
全国の子ども食堂のためにと
これを受け取れる団体がない
受け取って責任持って
みんなに分配するっていう
そういう団体がない
なのでそういう受け皿になり得る団体
作んないといけない
中間支援という受け皿の
ポジションって他の業界でも
あったりするんですか
中間支援団体って一般的な
言い方ではこういうんだけども
それこそフリースクールの世界でも
フリースクールの全国ネットワークっていうのは
あってねやっぱ全国のフリースクールの
人たちが
頑張ってるけど
なんとかノウハウの共有とかさ
政策を一緒に働きかけるとか
そういうことをやろうとした時って
やっぱどうしてもね
そういう中間支援団体と呼ばれるような
やってる人たちを
分断社会への対策
応援するような団体ってのが
できていくことが多いんですよね
我々もその一つ
子供食堂の業界の中でね
その後
すごい速度で
箇所も増えていくし
支援も集まっていくっていう
社会現象になっていったと思うんですけど
これやっぱ予想通りだったんですか
そうだね
だってみんな気持ちはあるんだ
その時に気持ちを守る
格好の器が提供されたわけよ
ハードなボランティアや
ハードな社会活動をしていた岩津さんからすれば
これならみんな始められるし
だってみんながそう言うんだもんね
これならできると思った
しかもその
やる人たちだけじゃなくて
そういう活動が始まると
応援しようっていう人たちが周りにわーっと現れて
これもすごい印象的なんだけど
運営者の皆さんがなんて言うかっていうと
自分がこういう活動を
始めるまで
自分が暮らすこの地域に
こんなに他人のことを応援する人がいるなんて
思ってなかった
そういうもんだよね
確かにその
なんか動きが生まれないと
応援しようと
気持ちを持ってたってさ
誰の何を応援してるかわかんないじゃない
だけどそういう人が
地域の中でポッと生まれると
じゃあ応援してやろうと
自分でやるとはちょっと
ハードル高いけどやってくれる人がいるなら
応援してあげたいと思ってる人は
またその周りに何十人といるわけよ
そういう人たちがわーっと現れてくるから
なんか今のご時世さ
みんな自分のことしか考えてないんじゃないか
みたいな思いを
運営者の人も持ってたりする
だけどやってみたら
誰も応援してくれないんじゃないかと思ってたら
わーっと応援してくれる人が出てくるから
うちの地域にこんなに
他人のこと応援してくれる人っていたんだ
うちの地域って捨てたもんじゃないじゃない
っていう気持ちにみんなのある
なるほど
素晴らしいんだよ
素晴らしいですね
ここからは岩さん
むすびえとか社会に対してどういう風に
かかっていこうと思ってるんですか
うーん
基本的には変わんないんですけど
社会は良くなりたがってる
ので
こども食堂はこれからも
増え続ける
もう少ししたら
多分2020年代のうちには
小学校より多くなるんですよ
今中学校より多いんですけど
小学校より多くなる
社会のその
課題は残念ながら
簡単には解消しない
例えば少子化が
反転するかってしない
高齢化率も増え続ける
人口も減り続ける
地域は寂しくなっていく
この状況は多分この5,6年で
大きく変わるってことはないと思う
人はそれに対して
何かできないかと思う人も増え続けて
実際やる人たちも増え続けて
結果的に小学校の数より多くなる
そうすると
いくつかそういう場所の
紅葉ってあるんだけど
大事な紅葉の一つは違いだと思ってて
違い
さっきの
小さい子と一緒に遊ぶと同じなんだけど
こども食堂って本当に
0歳から80歳90歳まで
来る場所だから
結果的にその異年齢の人と
遊んだり違う学校のこと
知り合ったり親と違うタイプの
大人と出会ったり違いを
キーワードにする場所なんですよ
いろんな違いに触れる場所なんですね
世の中的に社会の分断とかって
言われてて
なかなかその意見の同じ人同士で
固まっちゃって
だんだんだんとそれがこう
突き進んでいくともう相手の姿が見えなくなって
こんなこと考えてるなんてありえないとか
信じられないとかおかしいんじゃないの
とかなんかそんな風に相手のことが
見えるようになっちゃってコミュニケーションが取れなく
なってくこういうのを
分断状況って言われたりしますけど
それに対して何したらいいか
何ができるかって結構言われるんだけどね
じゃあ異なる意見にも
耳を傾けましょう多様な意見を
受け入れましょうってスローガン的にはこういう
言い方になるんだけど
そんな言い方したって人間動かない
分断社会の現状
だってめんどくさいんだから
違いに触れるってこと
自分と同じ
意見の人たちと一緒にいた方がそりゃ居心地いいんだもん
あれですよねその
公立の中学校まで
あの公立の小学校小学校まで
行ってましたけどその時までは
いろんな人がいたなっていう
感覚があるんですけど
受験をして高校
行くとそれ以降って
ある種同じ
ような人たち同じような
なんか育ち セグメント化してる
わけですよね学力とかで学力には
経済状況くっついてるから
学力経済状況
就職したりしても
禁止化していくわけだ会社も
規模によってね
入れる人入れない人学歴で分けたり
会社の中で多様性を
持とうと思っても
全体から見たら
会社の多様性はね
地域の多様性に比べたら
亡きに等しいと思いますよ
地域はだって寝たきりの老人が
いるわけだ
寝たきりの老人がいる会社がありますか
見たことないです
0歳の子がいるわけだ
0歳の子がいる会社があるか
採用できないです
障害者は特例子会社に
別途住み分けて
それでまあ
家雇ってますって言ってんだけど
全然一緒になんか働いてないよね
でもうちの実家は母ちゃんと兄ちゃんが
一緒に暮らしてんだよ
だから地域の多様性は
まあ本当の多様性だと思う
普段だから我々が生活してる
組織な家庭でもそうですけど
所属している
どこもなんか
均一化された
ある種分断されたところにいるのが
当たり前になっちゃってる
気がしました
だからね
混ぜ合わせていく必要があるんだ
と思うんだけど
それは多様な域に耳を傾けましょうって
言ったってそうならないと思ってるので
ここは
ずっと障害者運動がやってきたことから
学ぶべきだと思って
障害者運動の人たちが何をやってきたか
っていうと地域のお祭りに
出展して
クッキー出して
でもそしたらなんか
クッキー売ってる人がいて
買ってみたら障害者の作業者だって書いてあって
障害者の人たちもこういうことやってんだね
と知ると
気づいちゃったら出会ってたっていう状態を
作ろうとしてるんですよ
あの障害者だとそうだよね
他の興味関心からそこと出会う
みたいな回路を作るっていうの
やってたわけですよ
同じだね
子供食堂がそのコンテンツ
気づいたら違いに触れる場所に
行ってた
それは同期はなんか
食べたら美味しそうだとか
今日夕ご飯作んないから楽でいいかなとか
なんでもいいんだけど
行ったらなんか異年齢の子と遊ぶことになったし
自分の親と違うタイプの大人と
子ども食堂の役割
出会うし
いろんな学校の人と知り合うし
こういうことやっても
怒んない大人っているんだみたいな
うちの親って当たり前じゃないのかもしれない
みたいなことを
気づくような場所を
社会の中に
実装しておくっていうか
たくさんある状態にしとくと
分断と言われるような状況も
ちょっと変えられるんじゃないかな
と思ってて
なのでこういう場所が
当たり前のようにたくさんある
みたいなごちゃ混ぜな
状態
最後にあえて
ですけど数年後に
こういうのを成し遂げたいとかっていう
目標とかって
あえて言うと何かあるんですか
子供食堂に関しては小学校の数を超えるぐらい
あるようにしたいと
いうのあるけど
私個人はなんか
ないんだよね
このまま
世の中よくなりたがってるわけだから
それをできる限り
その方向に
いくように
応援する
で自分でできることはやる
だけど
その結果どこまでいくかは
分かんないんだけど
分かんないんだけど大丈夫
それはそれまでちゃんとやってれば
その後必ず
誰か引き継いでくれる人が
引き継ぐって別に私の真似するわけじゃなくて
そういうことをやってくれる人が
出てくるから
生涯一活動家であり続けたい
みたいなことではある
生涯一活動家で
あり続けたい
未来への展望
続けたいのか
これ以外
生きていけないよね
活動ができれば幸せだって
どっかでユアスさんおっしゃってたのが
印象的なんですけど
こういうことは
やってたいよね
自分が一番それが
自分にとって納得感のある生き方だからさ
ユアスさんって
なんか
不安ってないんですか
何が不安
普通はなんか自分自身が食べていけるかな
とか自分自身が貧困に
陥らないかなとか
考えたことありますね
私40までまともな収入がなかったんですよ
すごい
ラッキーなことに食えるようになったんだよね
40まで
まともな収入がなかった
これやってた時も一現場6000円だからさ
月収は20万いかないわけだ
20万いってたかなこれ
結構現場やってたからね
20万ぐらいいってたかもしれないけど
それこそ東大のねあれですよね
同級生に比べたら
全然
そういうのは
そういうのと比較するって全くしない
そこは考えない
自分が食っていくっていうことを
考えた時に
まともな収入ない状態で
20万ぐらいまでいってたから
結果的に食えるようになったんだけど
思うことがあるんだよね
あのままもし
いろんなラッキー積み重なって食えるようになったんだけど
ラッキーがなくて
あのままだったら
後悔してたか
ということを考える
後悔したと思えないんだよな
こういうこと言うと
今食えるようになってたから
そう言われるけど
いやそう言われる
でも後悔してたかな
後悔してたと思えないんだよね
それは私はあんまり参考にならないよ
私はもう楽観的なんだ
もやいっていう団体
今日話し始めたけどもやいっていう団体作った時
ホームレスの人たちの
保証人になるってやってね
ホームレスの人たちがアパート入るとき大変
保証人になるとき大変
連帯保証人
その人が家賃退のしたら
俺が払わなきゃいけないんだけど
普通もはや親戚のでもやらないよって言われてる
親の遺言は絶対に
他人の連帯保証人になるな
っていうことだみたいなね
あるけど俺300人ぐらいのホームレスの人の
保証人になってたのよ
いや大丈夫だと思ってた
大丈夫だと思ってたし実際大丈夫だったし
でもなんかあったらどうすんだ
なんかあったらどうすんだって聞かれるからさ
そしたら俺が自己破綻すればいいんだよね
まあそうですけど
普通に相談したらみんなから
反対されるようなことですよね
やめとけお前ばかりリスクが高すぎるぞ
そうそうでもまあ
命まで取られないだろ
自己破綻すればいいんだから
っていう
なんとかなるやっていう
ことですか
だからあんま参考にはならないね
生活不安みたいのはまあ
それはあって当然だと思うよ
なんか
過去の話は
あのホームレスしてたっていう
自分がちょっと涙出そうになりました
ほんと
そんな大したもんじゃないよ
そのエネルギー量なのか
本気さが
すごいなって思いました
生き様が
やっぱ活動家なんですよね
なんかやっぱサラリーマン
というかお務めの人
じゃないんですよね
まあ私はね職業的活動家です
それは職業的大工さんみたいなもんだから
DIYでもいいんだよ
世の中
良くしたいなと思って
いる人はすべて
社会活動家ですべて
主権者であるように
と思っていただけたら嬉しい
ありがとうございます
ということで
全国子ども食堂支援センター
結美さんの創設者
岩澤誠さんでした
ありがとうございました
ということで岩澤さんをお呼びして
お送りしましたそしてシーズン1が
終了でございます
ありがとうございました
僕はなんか一貫して
この番組は
主権者として生きるとは何ぞや
固い言い方で言うと
そういうことをお届け
できたんじゃないかなと思ってます
それはなんか誰かに
何々されるではなくて
自ら
課題に思っていることを取り組んだり
自ら自分の人生の質を
良くしていくっていうようなことを
されている方々がいっぱい
出てくださったなと
最後極めつけは岩澤さん
ですけども
生き様がね
生き様がね
ですねホームレスの方と
清掃のビジネス
便利屋っておっしゃってましたよね
まさに
ソーシャルビジネスの
ソーシャルビジネスって言葉が定義なかった
時代のソーシャルビジネスというか
そうですよね社会活動家って
何回かブームみたいなのがね
ありますけど
第ゼロ世代なんじゃないかっていう
全然区分されないような
ところからそのやり方とかも
別に
ないような
時代に対当たりで
活動ファーストで
切り開いていった
結果その自分たちの
強みは何かっていうのと
市場との
マッチを探って
その便利屋に行き着いてるっていうのが
すごい面白かったですね
もう一個だけ気づいた面白かったのが
僕ポッドキャスト
プロデュースする時とか
でも何でも考えたのが
子ども食堂の意義
キャロットケーキ理論っていう
勝手に名前つけてるんですけど
子供に人参を
食べてもらう時に
栄養あるから食べなさい
じゃ食べないけどケーキとして
出したら食べるみたいなのがあって
どういうフックで
必要な情報を届けていくかみたいなのが
すごい大事だなと思ってた
その一つが子供食堂っていう
コンテンツが社会の中での
違いを見つける
きっかけになるみたいなのは
めちゃくちゃそうだなと思って
面白かったです
あとあれですね岩津さんから
免死サイズのものをいただいたんですが
ふるさと納税を
することができると
いうことで僕もさせていただきます
ぜひリスナーさん気になった方
12月は12月で国切りになりますけれども
また来年
いつでもねできますしね
配信日でいうと今日までが
今年のふるさと納税
なのでぜひふるさと納税
活用される方いましたら
よろしくお願いします
そんな感じですかねめちゃくちゃ
面白い24話5話
ですね何回も
聞き直したい24話です
10年後に自分がどうなってるか
わかんないけど10年後に聞き返したら
どうなるのか
興味深いありがとうございました
シーズン1のまとめ
ありがとうございます
番組の感想は
常にオープンにして
おきますので
アンケートフォームも
概要欄に貼ってあるグーグルフォームも
オープンにしておきますのでいつでも
感想頼り
そしてまたシーズン2以降
ご支援したいなという方も
常にお待ちしておりますので
お声掛けください
それではシーズン1
ありがとうございました
さよなら
54:43

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