ちょっと簡単に自己紹介をお願いしても良いでしょうか。
岩瀬誠と言います。よろしくお願いします。
機械的な紹介。
だって自己紹介でしょ。何を言えばいいですか。簡単にご経歴。
経歴、昭和44年、1969年生まれの55歳でございます。
肩書きは主なものが3つありまして、1つは社会活動家というものを名乗っております。
2つ目に東京大学の特任教授をやってます。
3つ目に認定の美容法人の全国子供食堂支援センター、むすびえと、河本さんと一緒にやってます。
社会活動とむすびえさんは別なんですね。
社会活動家。
社会活動家っていうのはね、建築家みたいなもんですよ。
技術者みたいなもんですよ。
一生社会活動家ですよね。変わることはありますか。
名乗らなくなることは今のところ想定してないけど、20年くらい名乗ってるんだけど、広めたいと思って。
みんなに名乗ってもらいたいと思って。
あんまり増えないので。
社会活動家って、それを増やそうがこの番組なんですよ。
24回やってまいりましたけどね。
最終回に岩瀬さんを。
まずね、ぜひあんま重く考えすぎないで。
例えば大工さんも、プロの大工もいれば、日用大工もいいじゃないですか。
日用社会活動家でいいんですよ。
一日だけ。
そう一日だけとかね、アフターファイブとかね。
なんだろうな、その社会活動家の定義はですね、世の中よくしたい人なんで。
ぜんいんじゃないですか。
そう、だから全員名乗ってくれればいい。
なんだけど、全員、主権者みたいなものですよね。
主権者も僕本当に携わらせてもらって、考えたんですよ。
書いてあるものとか読んで、どういうことなんだろうが、主権者であるっていう意識で普段生きてなかったので。
憲法に書いてある。
書いてある、だから憲法。
小学校中学校で習ってるよね。
習いましたね。
主体制を持って生きるみたいなことですか?
いや、主体制を持とうが持つまいが主権者だったわけですね。
つまり日本は国民主権の国であると。
国民って誰かと、私ですと、あなたですと。
全員ですよね。
私たちが主権を持ってる。
だからこの国の最終決定権者なんですよ。
この国の最終決定権者で、もちろん私一人が決定権者じゃないからね。
みなさん1億人ですけど、その人たちが全員。
そして実は投票権持ってなくても主権者なんですよね。
10歳の子でも。
その人たちを主権者ではないとは書いてない憲法に。
ってことは我々が最終決定権者なんですよ。
主権者である生き方とそうじゃないはどんな違いがある意味?
どんなことをしようが主権者です。
そういうことか、だよってことを言ってる。
365日24時間主権者なんです。
生まれてから死ぬまで。
だからその意識を持って生きてきたことがなかったので、
それは何が違うのかって僕からしたら、
なんか人のせいにしてたなって思ったんですよ。
だから政府のせいとか行政のせいとか、なんでこんなことしてくれないんだとか、
企業のせいとか会社のせいとか。
それは私の不思議は、
なんでみんな主権者なのに主権者じゃないかのような顔をするのか。
これが不思議。
当たり前すぎてあれですよね。
主権者であるとか、民主主義であるっていうことを普段意識してないけど、
せっかくそれなんだから、ちゃんと主権者として生きたらいいんじゃないっていう、
そういう気持ちですか。
そうだね。主権者なんだから主権者として生きようっていう。
それだけ。
それだけ。
それだけ。
なのでやっぱり主権者としてはさ、
やっぱこの国この社会良くなってもらいたいじゃない?
良くなってもらいたい中身は人それぞれだよね。
気になる問題とかはね。
だから主権者でいろいろ調整したり合意したりしようってことになって、
今の代議政民主義ってことが生まれてんだけど、
だけどその根は自分たちにあるわけ。
その主権者としての人たちは全員社会活動家と名乗ってもらって、
私的にはウェルカムなんですよ。
私がウェルカムって言ったからって何も世の中、
何の認証も権限も持ってませんけどね。
僕がすごく理解したのが、それなんか課題を持っていて、
それを何とかしたいなっていうのは政治家にならないとできないとか、
なんか大金持ちにならないとできないみたいなふうに思ってたんですけど、
そうじゃないんだよ、別にどんな立場でもできるよっていうふうなことを実践されてきたのが、
東亜さんの人生なんだなと思って、僕は府に落ちたんですよ。
孫正義さんもね、あるいはセカゾーで暮らしてる人も一票なんだよね。
同じ一票。孫さんが一万票を持ってるわけじゃない。
確かに。
それが民主主義ってものなんだよね。
標は変えるような気もしてはいるんですが、一人一人には一票ですよね。
でもその無数にある一票の自分一って思ったら、
ちっぽけだなって思うこの感情はどうしたらいいんですか?
標 いやちっぽけですから。
ああちっぽけ。
標 それはもう1億2000万分の1に過ぎないから。
それはそうなんですか?
標 それはもうなんか俺様的にはいかないよね。だから、やっぱり1億2000万分の1として頑張るっていう。
で、当然関わりながら生きてるからさ、人と人って。
なので私がうんうんやってると、それに影響されてくれる人も出てくる。
まあもちろん逆もあるんだけど。
っていう風になるので、もちろん1億2000万っていうのは完全に独立した変数ではないですよね。
お互いに影響し合ってる。
影響し合ってるので、1億2000万分の1に過ぎないんだけど、うんうんやってるとそこに反応してくれる人が出てくる。
それがその世の中が変わってくるってことだと思う。
だってあれですよね。
ユアスさんだって最初はちっぽけなと言ったらなんですけど、
別にその影響力がそこまであるわけではないたった1人から始まってるわけですもんね。
標 それは、そうですよ。私は貴族の出ではありませんので。
その、例えばじゃあムスビエさんを創設するまでどんな経緯で。
今日はムスビエ創設者としてね、来ていただいてますが。
標 私はもともとはですね、まずいわゆるボランティアをやり始めたのは、大学1年生の時。
何のボランティア?
標 自動用語施設の学習ボランティア。
東大の時?
標 そうですね。東大入って1年目の時に、何かしようと思って。
標 そういう時ってどこ行けばいいか知ってます?
何かしようと思った時。
標 ボランティアセンターっていうのがあるでしょ。
標 全自治体。
標 なんかボランティアしたいんですけど、どこ行けばいいですか?
そうそう、何ができますか?
標 今もあるんですか?
もちろんあります。
標 そこで、私の場合は三鷹市に住んでて、
三鷹大ってね、井上知らせんの岸上寺から2駅目のとこで、
岸上寺がハブだったんで、岸上寺行って武蔵野市のボランティアセンターっていうのがあるでしょ。
そこに行って、なんかやりたいんですけどって言ったら、
たまたまその時紹介されたのが児童養護施設の学習ボランティアだった。
多分大学とか見てね、あんただったら勉強教えられるんでしょって思ったんだと思うんだけど、
だったんで、まあ本当完全に偶然なんですけど、
じゃあ何でそのボランティアなんかやろうと思ったかっていうと、
私ね、兄が障害者なんですよ。
標 そうなの?
兄が障害者だったんで、
兄ちゃんのために、車椅子だから、
今特別支援学校って言うけど、
昔は養護学校って言ったんですけどね、養護学校に通ってたんですよ、うちの兄は。
で養護学校って、
今の私立学校みたいなイメージしてもらうといいと思うんだけど、
すごい広い範囲から人が通ってるから。
ということは放課後、一緒に遊ぶ友達が近所にいないんですよ。
なので兄ちゃん、学校から帰ったら、
車椅子だし、基本的にはずっと家にいるわけ。
でこれを親がね、かわいそうだと。うちの親はトンバだらけだったのもあって。
で、俺は公立小学校を通ってたからさ、
近所には遊ぶ友達がいないようにしようとすると、
標 そうですよね、学校の友達がそのまま放課後、
放課後、遊びましょうになるじゃない。
標 野球しようって。
俺は当然、行きたいわけだから。
行くってことは兄ちゃん一人で置いてくってこと。
標 置いてく、はいはい。
これはね、子供ごろに嫌なものよ。
もちろん遊びに行くんだけどそれも。
だけどなんとなくちょっと気になってるね。
で、そういう時にボランティアさんが来てくれて、
兄ちゃんの遊び相手やってくれると。
いや、なんか助かったっていう感じ。
標 もう小学校ぐらいの時です。
子供ながらにそういうこと思うんだよね。
標 その時に大学生のボランティアの人が来てくれて。
大学生とかね、クリスチャンとかね。
当時ボランティアって全然一般的じゃないから、
限定された人たちだった。
標 すごく思いが強い人たちなんすかね、ジョン。
だったのかね。
俺も一緒に遊んでもらったよ、それで。
例えば兄ちゃん、そうやって立ち上がったりできないから、
部屋の中で風船膨らまして、
ビニールで紐張って、
部屋の中でバレーボールみたいな。
そういう遊びを考えてくれるわけですよ。
標 一緒に遊べるような。
そうそう、兄ちゃんも参加できる。
標 そういうルールを作ってくれて工夫してくれるんですよね。
そうそうそう。兄ちゃんも遊べるようにね。
標 それってでもあれですよね、
障害のある方に対してやったことだと思いますけど、
すごくちっちゃい子と一緒に遊ぶときもやりますもんね。
そうそう、異年齢で遊ぶとそういうことやるんだよね。
標 はい。
標 ハンデをつけるみたいなルールをつけたりですね。
異年齢で泥系とかやった?
標 やりますやります。
標 うちも四つ下の妹たちがいたんで、
その年代と一緒にやると全然違うんで。
そうそう、そういうちっちゃい子ってさ、
なんか三回捕まるまでOKとか、五回捕まるまでOKとかやってなかった?
標 やってました。
標 ちょうどお互いが本気でできるラインを作るんですよね。
あれなんて読んでた?
俺のところのお味噌って読んでた。
お味噌って味噌かすって仲間外れにすることを言うんだよね。
標 はい、語源が確かにたどりやすいですね、お味噌が。
だけどそれは仲間に入れるためにやってることだからさ。
なんかちょっと意味が転用されてるんだけど、
とにかく我々はそう言ってた。
で、ここで分かったのは子供たちは全国どこでも
お互い全く独立して遊んでたんだけど、
でもやっぱり同じように異年齢の子供がいたり、
自分の常識をそのまま通用できない、
同じルールを適用すると何か不都合が起きちゃう。
そういう人がいるとルールを自分で変えてた。
それがイノベーションって言うんですよね。
標 自発的に勝手にやってますもんね。
大人がそうしろとか言わないですもんね。
言わない言わない。大人がいないし。
標 この地域だけじゃなくて、
確かに皆さんやってるんですよね。
人間ってそういうものっていう。
ちょうど僕がやってる子育てのラジオ
ティーチャーティーチャーって番組で、
何回か前に遊びの重要性みたいな会話やったんですよ。
子供にとっての。
それが大人がいなくて子供だけで遊ぶことで、
そういう自分たちで全員が楽しめるようなルールを設計していくっていうのがあるって話して。
標 さっきの主権者の話なんだけど、
みんな持ってるよね。自分でルールを改変して、
その場にいる全員が楽しめるようにするルールをいじる力。
ところが大人になっていくと、
だんだんその力を失っていくのか忘れていくのか。
ルールに沿わないんだからしょうがないよねって言い出すわけよ。
排除してきますよね。
標 簡単に排除する。だってこの人ルールに乗れないんだから残念だけどしょうがないよねとか。
会社とかも本当にそうじゃないですか。
スキル足りてないからとか空気読めてないからちょっと発言控えてみたいなことを、
空気的に作り出したりしますよね。
標 でもルールって何かってことなんですけど、
例えば法律であれ条例であれ、常に見直す対象なんですよね。
国会の法律もそうだけど、一回決めてあと半永久的にこのままですって。
そういうものはないわけで、あくまでその3年後に見直すとか5年後に見直すとか、
そうやって常に一旦ピン止めしないことには赤信号渡っていいのか渡っていいのかわかんないから、
赤信号渡っちゃいけないってルールは決めるけども、
だけどそれは常により多くの人が幸福になるように常に見直しの対象なわけだ。
なのでそのルールっていうのは私たちにとっては能動的にいじるもので、
ルールは従わなきゃいけないんだけど同時にいじるものでもあるという風なことを、
我々は子供の時にやってるんですよ。当たり前のように。
始まる前にもねちょっとお伺いしたんですけど、
ご両親が割と法人だったみたいな、何々しなさいとかこれ大丈夫ですかとか、
法人だと思ってたね。
されてこなかったからご自身で工夫していくっていうことが、
なんかすごく真に身につかれてるんだろうなと思って。
法人っていうのはうち兄ちゃんが障害者だから、
やっぱり兄ちゃん中心に回るのよ家が。
だから父ちゃんも母ちゃんもやっぱり兄ちゃんが軸なわけね。
だからうちさ、わかりやすい例を言うと、
ドアの取っ手が普通のところより下についてる。
車いすでも届くような。
兄ちゃんがね、家の中は車いす使わないんだけど、
正座した状態でいざるってわかる?
足が動かないので手を杖みたいにしてずりずりって。
ああはいはい見てきました、いざる。
なのでうちの兄ちゃん正座した状態で手を使うから、
普通の高さのノブだと届かない。
なのでうちの扉のノブは普通のものよりも下についてる。
それで兄ちゃんが手が届くように。
一時がバンジー来る感じだ。
だから兄ちゃん中心に回ってたのよ我が家は。
ということなんで、俺はほったらかされてると思ってたわけだ。
すんごい忘れられない。
4人家族だったから夕飯の時に、
たとえば餃子とか大皿で出ることあった。
父ちゃん新聞記者だったから、いない時も多かったんだけど、
家にいる日もあって。
で、そうすると兄ちゃんに餃子取り分けてあげるわけ。
うちの兄ちゃんイクオって言うんだけど、イクオ食べなさい。
で、兄ちゃん嫌なわけ。自分で取れるよみたいな。
なんか構われすぎるの嫌なんだ。
で、そこで親子のやり取りがさ。
いやいや、いいよ。食べてもいいじゃないか。
世話焼いてんのに。
余計なおせんかいだった。
それを俺はね、なんかしらっと見てるわけよ。
俺にはしてくれないのか。
そう、俺にはしてくれない。
向こうにやってんのは嫌がってんのに、過剰にしてんのに俺にはしてくれないという光景ですね。
全部兄ちゃん中心なのに。
っていうのがあったから、俺は本人にされてると思ってたんだけどね。
それは子供のひがみみたいなとこあって、
必ずしもそうじゃなかったと思うんだけど。
そう思ってましたわ。
結局あれですよ、大学生でボランティア始めた時からまだ時が動いてない。
ピタリとピクリとも動いてない。
時が進んでねえじゃねえかこの野郎。
そういうことね。
ボランティア1年生でやり始めたと。
はいはい、やり始めましてね。
これで1995年になるから、大学院に。
私大学学部6年行ってるんですけど。
6年行って。
学部が6年。
学部6年。
で、その後院。
で、その6年経って大学院の入試を受けて、大学院の入試は9月なんですよ。
はい。
合格発表が。
そうです。大学院行きました。
行った。
ちょっと間開くじゃない?
そうですね。
秋から冬にかけて。
春にかけて。
あの時に友達がホームレスチェーンやってたんだよね。
うーん。
で、彼のホームレスチェーンやってるのを見に行ったんですよ。
それが95年だったんだよ。
そこで衝撃を受けたとかなんですか?
衝撃を受けましたね。
渋谷だった、まさに。
今ここで渋谷で収録してるけど。
渋谷で、当時100人いたね。ホームレスの人が。
で、俺、大学1,2年は東大駒場って渋谷駅のすぐそばだったから、
渋谷って結構飲みに行ってたわけですよ。
遊びに行ってた時は、この街にホームレスがいるとか考えたこともないわけ。
だからその時誰か、誰にも聞かれたことないけどそんなこと。
誰かが俺に、渋谷の街にホームレスっていると思う?って聞いてたらとしたら、
俺はいないと思うって答えてたと思う。
俺しょっちゅう行ってるけど見たことないしって。
そしたら100人いたんですよ。
結構ね、あのショック。
人間って見たいものしか見てないんだなみたいな。
観視にないと、視界に入っても脳みそまで届かないんだなみたいな。
感じのことを思って。
これでまぁ、見ちゃったからなぁみたいな感じで、
最初すごいそれでも中途半端だったんだけど、
だんだん深入りしていって、路上で寝泊まりするようになっちゃってね。
自分も。
ホームレスの人と一緒に。
それで2002年ぐらいまでそういう生活をしてました。
それはなぜ一緒に寝泊まりするようになったんですか?
だって路上の暮らしを、まずは死なないことが目的なんだけど、
例えばこういう時期とか、超寒いわけですよ。
それで路上の人っていうと、固定的に捉えるかもしれないけど、
路上は流動性が極めて高いよね。
なので新しく路上に来る人たち、出てくる人実はそんなに多くないんだけど、
入ってくる人たちがいる。
この人たちは最初の2週間ぐらいはね、もう何していいかわかんないから、
例えばずっと8校前のベンチで座ってたりするんですよ。
そもそもどこで段ボールとか段ボールハウスとか作ってるの?
どこでも教わらないですもんね。
どこでも教わらない。
路上のサバイバル術みたいなのも習ってきてないですね。
当然教わらないよね。
最初はだからその路上生活者になりきれないホームレスって言ってるんだけど、
生活もできて…
路上の暮らし方がわからないホームレス状態なんですよ。
だからそういう状態の時に、例えば今で言う闇バイト的なものに、