古文書講座の発見
皆さんこんばんは。何だかサボったりね、喋ったりの繰り返しですが、本日はもう水曜日ですよね。
水曜は月に一度、隣の町のお寺で、古文書講座というのがあります。
そこは、浄土新州の地域では有名なお寺です。
今日驚いたのが、古文書講座で今回学んでいる、昔の古文書です。
地元の農民が、そこのお寺に対して、うちの地方のお寺でこういう不祥事があるので、
ここの50書、どないかしてくれませんか、という単元書みたいなのが、A3の紙に1、2、3、4、5、6、7ページにわたってぎっしり書かれているんですね。
その字が、またすっごく立派な字で、
1センチから1センチ5ミリ四方ぐらいの細かな字で、ずらーっと書かれているんですよ。
それでね、私は武士が書いた字だと思ってたんですね。
そうしましたらね、農民が書いているということでね、普通の、びっくりしましてね。
書道をしている私にとってはですね、
本当にね、なんだかね、そしてそれをね、何ヶ月もかけてね、読化していくんです、現代人の我々は。
でね、じっとね、この字を眺めてましたらね、
その墨継ぎするところとかね、だんだん薄くなっていって、また濃くなって、薄くなって、濃くなって、繰り返されるんですけどね。
これね、かなりのハイスピードで書いてらっしゃるんですよ。
もうね、我々の書道の世界と全く別ですね、別世界。
で、先生にね、これね、あの、武士が書いた字じゃないんですね、本当にっていうお話をしましたらね、先生がね、
1700年代の字なんですけどね、この頃みんなさんね、寺小屋卒業してますからね、これぐらい軽いんですよっておっしゃるんですね。
でね、私はもうなんかガーンと聞いておりまして、寺小屋恐るべしですね、
申し上げたんですね。そうしましたら先生が、当時の人にとってはね、日常ですからね、この芸術的なこの綺麗な字がね、日常ですから、
まあ、我々とは別次元ですよ。私は自分が学んできた、6年間、3年間、3年間、4年間、この学業生活の中でね、結構最高の教育を受けたんじゃないかと思ってたんですね。
そうしたらね、寺小屋には叶えませんよ、みたいなことを言われちゃってね。
でね、一度ね、それに似た感覚を味わったことがあったんですね。
母よりもう少しお年上の方の、高校時代の書道のお手本ですね。見たんですよ。
印刷物ですよ。印刷したきちっとしたお手本、小さなサイズでね、金のお手本の小さな薄いおしゅうじの時間の教本を見たんですね。
もう1ページ目から、もうびっくりして腰が抜けそうになったんです。
完璧な金の作品なんですね、全部が。
もうね、当たり前のようにね、そういう授業が行われてたんですね、昔は。
もう本当にね、女子はね、乱れ髪とかね、全部、すべて、すべての和歌を暗唱さされたんですね。
もちろん百人酒なんてもう当たり前の世界で、それで男子は漢文ですよね。
だから寺小屋というと、その地域地域の小さなお寺にみんな集まって、お行儀よく読み書きそろばんというのを習うわけなんですがね、その中ではやっぱり礼儀作法とかもね、習ったと思うんですよ。
ですのでね、お寺ですしね、ふすまの明けたちとかね、いろんなことを習ったと思うんですね。
そういうことがね、なんだかね、その大学の先生はいとも簡単に、いや次元が違いますのでっておっしゃいましたが、私はガーンと頭を何か金槌でゴーンと叩かれたような衝撃でございまして。
で、五輪の書の17回目、17回目ですね。
無念無想の討ち
土曜日の続きでございますが、
一つ、無念無想の討ちということ。
敵も討ち出さんとし、我も討ち出さんと思うとき、身も討つ身になり、心も討つ心になって、
手はいつとなく食うより後早に強く打つこと、これ無念無想として一大事の討ちなり、この討ち度々出会う討ちなり、よくよく習い得て鍛錬あるべき義なり。
非常に繰り返し強調してますよね、この討ち度々出会う討ちなり、よくよく習い得て鍛錬あるべき義なり。
非常に鍛錬すべきなりとかね、鍛錬すべきものなりとかね、よくよく鍛錬すべしとかね、そういう簡単に締めくく、よくよく心得るべきものなりとかね、
そういう風に簡潔に歌ってましたが、ここでは、よくよく習い得て鍛錬あるべき義なりですって、だから敵も今まさに討ち出さんとして、我も討ち出さんと思うとき、
体は打つ体勢というか、もう次の瞬間に打つという風な、心も体もそうなっているんですよね。
手はいつとなく空より後早に強く打つこと。
この感覚ってね、後に最終の瞬間、振り下ろした最終の瞬間が一番ハイスピードっていう感覚、ゴルフなんかもそうですよね。
トップスピードの時にインパクトするみたいな、ああいう感覚だと思うんですよ。
ボクシングも、やっぱりボディなんか特によく分かるのが、スローで見た時に、当たった瞬間よりその後ですよね、その後にグイッと入っていて、筋肉の中にグローブが少し入っていて、
その後で静かに敵のお腹のあたりが地震のように波打っていく、そういう感覚だと思うんですね。
だから相手やろうこう言ってやろうとか、こう来たら行くぞとかね、そういう考える暇はないんですよね、将棋のように。
無念無想で、体が自然に出て、ですから体が覚えるまで何百回何千回とよくよく稽古すべし、ということなんでしょうね。
ちょっと編集しました。この続きは明日にいたします。ではごきげんよう。