これはですね、ごんべんに毎日の毎みたいな、それに使う、教えさとすという字、そうですね。
ごんべんに毎日の毎か、書いたことないな。
教会の教が教える、で2文字目の会がその教えさとすという字です。
なるほどね、なるほどね。
よく悔しいっていう字と間違われるんですけど、教えさとすの方です。
なるほど、そっか、あれですね、確かに不教師って言うんだみたいなのか、教会師って言うんだって、短い中にもすごい進出単語がいくつかあって、そういうことを今されてるんだなみたいなのを初めて知って、なんかちょっとより聞きたくなっちゃったんですけど。
法話をするのは、昔お会いしたときもそれされてたなーってなんか記憶がすごくあって、
多分SNS、Facebookとかなんか拝見してても、それされてるなーみたいなことをなんとなく薄ぼんやりと感じるような気がするんですけど、
不教師および教会師っていうのは、どんなことをしているのか、もうちょっと伺えたら嬉しいなーって思ったりしたんですけど、いかがですか?
不教師っていうのはですね、本当に講義で言うと教えを広めるなので、ベースの仕事としてはお寺の法要のときに御門徒さんお参りさんがたくさん集まる場所で、浄土神書では必ず法話の時間っていうのがあるんですね。
お坊さんたちが集まってお経をお唱えした、言行をした後に法話の時間が短くて45分、正式には90分、間に1回休憩を挟んで2席って呼ぶんですけど、そういう時間が必ずあるんですね。
それは大体、よそから講師をお呼びして、で、お話をしてもらうっていう、自分で話せる人だったら御住職さんがやったりするんですけど、大体よそから御講師をお呼びしますね。
それを私はメインの仕事としてやらせてもらってます。
なるほど。確かにそういうのって、全く知らない意味からすると御住職さんがやられてるようなイメージを勝手に持ってしまっていたりするけど、そっか、御住職さんがやられないというケースがあるんですね。
そうですね。やっぱり特に自分のお寺の法要とかだと、ずっと本堂で喋ってらんないぐらい忙しいみたいなところも結構ありますし。
あと結構やっぱり、毎年あることを御住職さんだと何十年も続けていくわけなので、年に数回の法要でも結構ネタ切れになってきたりもするんですよね。
ネタ切れって概念があるんですね。なるほどね。それ面白いですね。
御住職さんだとその法要プラス普段のお参りでも本堂さんとお話しされてるので。
だからまあやっぱり法要の時ぐらいは、よそから講師が来た方が新鮮味があるとか、そういった理由でお話しされ、呼ばれてる方も多いですね。
なるほど。確かにそれを聞いてみると、なるほどなって確かにそうかもってすごく思いますね。
うちの非おじいさんは布教師されてたらしいんですけど、最初は自分でお話ししてたらしいんですけど、たまに御講師さんをよそから呼ぶと、よそから呼んだときの方がお参りさんが多かったらしいんですよ。
めっちゃ面白いですね。自分の話よりも他の人の方がニーズあるのかもみたいなそういう。
やっぱり良くも悪くもご住職のさんのお話はいつでも聞けるってなっちゃうかもしれないですね。
まあまあまあ確かに確かに。日常的ですね。
そう。
いやーでも確かになんかそういうお話、ご住職の方でされてるのは聞いたりとかも確かに何回かしたことありますけど、確かに毎度これ、このお話何本持ってんだろうっていうのか、
これなんか毎回違うわけじゃないだろうけどでも毎回同じ話しようと思ったら、相手が一緒だったらなんかあれかなーみたいな思いそうだしなーみたいなことを遠巻きに思ったりとかしたんですけど。
まあそういうことがあるんですね。
そうなんです。
面白い。面白いと言っていいか分かんないですけど。
ちなみにあの、ふたおかさんは特にお家がお寺でっていう風なところじゃなくて、今こういう風なお仕事というか取り組みされてるんですか。
一応実家がお寺なんですよ。でも後継ぎじゃなくてですね、3人兄弟の真ん中っ子なんです。
あーじゃあ継がれるのは上か下の方?
そうですね、一応上の兄がいるので、兄が継ぎ継ぐ予定で、なので私は良くも悪くもお寺にずっと居続けなくても大丈夫な身分なので、
よそに行ってお話をするっていうことを専門に。
あーなるほど、そっかそっか、なるほどね。
なんかそのすごいこれ、今改めて久々にお話するとめっちゃ興味があるんですけど、
その、なんか僕の友人とかでもお寺の息子さん娘さん、何人か友達いるなーみたいなことをなんとなく想像しながら彼ら、彼女らの顔を思い浮かべながら聞いてたんですけど、
これなんか継ぐ人もいれば継がない人に関しては、特にお寺の仕事するとかっていう話じゃなく全然違う、
まあいわゆる会社で働いているとか、なんか全然お寺と関係ないことをしている方がなんか大半な気がする僕の友達だと、みたいなことをなんとなく今聞きながら思ったりしてたんですけど、
そうですねー、結構やっぱ若い。
そこを選択したのってどんな感じなんですか?
やっぱり私としてはめっちゃおじいちゃん子だったんですよ。
子供の頃はやっぱり後継ぎじゃないので、特に仏教について教えられたりとか、そういう道を与えられることもなく生きてきてですね。
で、大学は結構絵を描いたりものを作ったりするのが好きだったので、美大に進学したんです。
そうでしたっけ、そっかそっか。
そうなんです。
で、20歳の成人の時に結構自分の進路とか将来何になろうかなっていうことを真剣に考えたときに、
漠然とものを作る仕事っていうのをずっと考えてたんですけど、
その中でも結構伝統工芸の職人さんとかにめっちゃ惹かれてるっていうことに気づかされたんですね。
じゃあなんでいろんなものづくりの中でもこの伝統系に惹かれるのかっていうことを深掘りしていったら、
先人の哲学を受け継いで生きるみたいなところに惹かれてるんだなっていうことも気づいたんですね。
あーなるほど、はいはいはいはい。
で、その原体験というか根っこはどこにあるんだろうって考えたときに、祖父の姿かもしれないと気づきました。
あーそうなんだ、はいはいはい。
先代の住職であった祖父なんですけど、お寺を守って生きていくっていうことをすごい真剣にして生きている人だったんですね。
それを思い返したら、私がやりたいのって多分哲学の方だから、ものを作るっていうことにこだわる必要はないんだなって思って。
だったら、なれるかどうかはわからないけど、まずはその業界、自分の惹かれた原体験でもある仏教界、宗教界みたいなところをちゃんと知ってから決めたいなっていうので、
美大を辞めて、お坊さんの世界に入ってみて。
そしたらこの住職以外にもいろんな役目があるっていうことに気づかされて、
またこれからどんどん寺離れが社会で進んでいくから、住職だけじゃなくて、仏教の意義を改めて世間に広めていく、
仏教師の役割がすごく重要になってくるっていう話を聞いて、
これは私、住職じゃなくて、自分からこの仏教の世界に入ってきた私だからこそやるべきことなのかもしれないなと感じちゃって、
それで今に至る感じですね。
でも、そう思って、美大を辞め、そこまで貫き通してきてるのがすごいなというか、かっこいいなってすごく思いましたね。
ありがとうございます。
すごいな、そっか。
あんまり大学を辞めてみたいな話をすれば聞いてなかった気がして、そうなんだって今思いました。
そうですか、そっか。
そうだったんです。
今、仏教師どれくらいやられてきているんですか?
初めて法座に立ったのが23歳の時だったので、7年目ですね。
なるほど、そっか。
なんか想像すると、そういうところに立つ仏教師の方、法話される方が、それこそそれくらい若い人なんだみたいなのは結構驚かれるんだろうなーみたいなことを、なんとなく妄想するだけでもちょっと思ったりとか、
なんか結構最初は聞いてくれなかったりしたのかなーみたいなことを、イメージをしちゃいましたね。
やっぱり最初の頃は、この聞く側というよりも、自分側がそれを勝手に心配して利用方針を貼っちゃったというか、賢そうな話したろーみたいな、やたら情報量詰め込むみたいなことをしちゃいましたね。
なるほどね。
こんだけ勉強したんだぜ、みたいな。
はいはい、でもそうなりますよね。
そうですね。
結構7年間やってみて、なんかご自身の法話の内容、スタイルとかあり方みたいなものは、なんかどんなふうに変わってきたり、逆いうと変わらずに大切にしている部分もきっとあるんだろうなーって思ったりもするんですけど、そこらへんって今考えるとどんなところがあったりするんですか?
やっぱりだいぶ変わったなーって思うのが、最初は私がすごい独りよがりだったというか、話を聞かせたろーみたいな。
いいですか。
教えてやるみたいな。で、この人たちにこれを教えるにはどういう話し方をしたらいいかみたいな。
そういうスタンスでなんか話し作りをしちゃってたなっていうところもあったんですね。
あー、なるほどね。
で、余計にやっぱりこの若くてあんまり聞いてもらえないっていう体験自体もあったので、まずは聞く気がないこいつらの耳を開けてやらなきゃみたいな。
はいはいはい。
そういうなんかこう対立意識みたいなところから入っていったところがあったんですよ。
なるほど。
実際に法座に立っていく中で、意外と聞いてくれるっていうことに気づきまして。
あー、面白い。
むしろこの若くて頑張っているだからこそ、なんかこんなに若いのに頑張ってる偉いねみたいな。
逆に人生に、世の中って意外と優しいんだみたいな。
へー。
心を溶かされていったというか、そんな人たちを絶対聞く気ねえだろお前らみたいな決めつけで見てた自分の愚かさに気づかされた。
なるほどねー。
確かに。いやなんか、そう思われてんだろうって思っちゃうけど、それが意外と自分だけがそう思ってることってありますよね、確かに。
いやー本当に、そこからは法話の場っていうのはあくまでも対話なんだなっていう意識を大切にするようになりましたね。
自分がここまで言ってあげたらわかるだろうみたいな、本当に相手を決めつけなくても、ちゃんと相手は相手で人の話を聞いて、
相手で役に立つことはちゃんとそこから受け取っていくっていう力を持っているんだっていう、相手に頼ることを覚えたというか。
私がやるべきはこれを教えてあげなきゃとか、これを伝えなきゃではなくて、自分に届いた学びをすべてありのままにさらけ出す覚悟というか。
あーなるほど。
そこだけしっかり徹底していけばいいんだなっていう、そういういい意味での割り切りというか、諦めがついてからはすごい喋り心地も良くなったし、お参りさんたちと噛み合うようになりましたね。
噛み合うようになったんですか、そうなんだ。
やっぱりこう言葉を発するのはこっちだけだけど、身体言語的な返事っていうのはやっぱりすごいしてくださってて、それをすごい感じ取れるようになりましたね。
引き出してもらってる感覚というか、この人たちはこういう話を聞きたいんだなとか。
法話の後にすごい自分自身で、こんなこと考えてたんだとか、これってこういうことだったんだなーみたいな気づきを自分の口を通して改めて聞かせてもらってるような、そういう感覚を得られるようになりました。
なるほどなー。すごいな、確かにあんまり法話の場が対話の場なんだってことも考えたことなかったけれども、確かにそうですよね、言葉は確かに出して、聞き手側としては言葉は出してないけど、別に言葉だけがコミュニケーションなわけではないから、身体言語みたいな言い方してくれてましたけど、
確かに身体に反応が出て、なんかちょっと目が動いたりとか、なんかうなずいたりみたいなものもきっとあるだろうし、きっとそういうふうに、なんか僕とかでもわかるようなものじゃないところでも、高岡さんが感じられているものがきっとあるんだろうなーってなんか今聞きながら感じましたね。
いやー本当にそうですね、なんか浄土真宗の仏教詩って書き方が結構特徴的で、仏教は布に教えるなんですけど、仏教詩の詩が師匠の詩じゃなくてお使いなんですよ。
あ、使える、はいはい。
そう、使うっていう字で。
あ、使うか。
これは、そう、あくまでも布教詩は師匠、先生ではないんですよっていう、仏教をお取り継ぎする存在なんですよっていう。
あー、なるほど、布を教える、使うで布教詩なんだ。
そうなんです。
それはすごい布に落ちたというか、確かにそうだなーって、自分自身が教えてもらっている側なんだなーって、場に立って言葉を発する役目をいただいているからこそ一番教えてもらっているというか、
その姿勢はやっぱり大事にしなきゃいけないなーって、そこに気づかされてからはすごく胸に止めて、宝座に立ち寄りをしています。
なんかその詩という字、使うという字を聞いた瞬間に出てくるのは剣刀詩とかですね。
あー、確かに。
剣刀詩とかもそうですよね。東欧の時代に日本から大和の国から中国の大陸に渡って、それで別に彼らが何かするようになるというよりかは、
彼らが大陸で学んできたことをまた日本に伝え返すというか、みたいな役割として使うっていう字が使われてるんだなーってことが今ちょっと初めて感じたのと、
剣刀詩ってそうかもしれないみたいなことをずいぶん久々に剣刀詩なんて言葉を言いましたけれど。
確かに。
なるほどって言われたらすごく腹落ち感がすごかったですね。
そっかー、なるほどね。
ちなみになんかもうちょっと聞きたくなっちゃったんですけど、そんな布教詩をされ続けてきている中で、
今日から教会詩の方にも始められたっておっしゃってましたけれども、教会詩はいつぐらいから始まっていったんですか?
これはだいたい2年ほど前ですね。
2年前の6月に移植を受けて、そこから教会詩という役目をいただきました。
剣武将とか少年院に行ってってみたいな話をされてましたけれども、ここも基本的にはその場所に行って法話をするということになるんですか?
それが結構施設施設によって教会詩が何をするかっていうのは違うんですけれども、
剣武将って宗教者っていう括りなので、僧侶以外にもいっぱいいるんですよ。
神道の監視さんとか、キリスト教のカトリックとかプロテスタントとか。
なるほど、仏教の言葉ではないんですね。
そうなんです。
仏教者ならっていう、必ず全ての施設には存在していて。
そうなんですか。
私が結構施設担当で教会詩っていう感じなんですよ。
だからいろんな施設に行くっていうわけではないんですけど。
そうなんですね、なるほどなるほど。
私が担当しているのは女の子の少年院なんです。
女の子の少年院では、一応個人教会っていう入っている入所者から希望が出たら、
教会詩と個人面談みたいな形でお話ができるっていうのがあるんですけど、
少年院ではなかなかそれが出ないんですね。
そうなんですね。
なので教会詩の基本的な仕事ってなったら、宗教行事が年に何回かあって、
仏教だと花祭りとか、あとひらあげとか、
キリスト教だったらクリスマスとイースターとか、
そういうのがあって、そこの行事を取り行うっていうのがあるんですね。
それやられているのが教会詩っていう方々なんだ、なるほど。
そうなんです。
で、そこでは一応その行事ごとの意味合いとか、そういったものをお話しさせていただいてて、
で、私の担当している施設では、それ以外に教養講和っていう授業があって、
それはこの教会詩だけではなくて、いろんな有識者を呼んで教養を深めるための授業っていうことで、
道徳観だったり倫理観だったりっていうものを教えている授業なんですね。
でもそこではやっぱりあくまでも一般教養っていうことで、
さっきまでの個人教会とか宗教行事っていうのは希望者だけなんですよ。
そうなんですね、なるほど。
でも教養講和はカリキュラムの一つなので、全員参加なんですね。
全員参加のところで宗教を教えるっていうのがやっぱりちょっと宗教教育になるんじゃないかっていうことで、
あんまり宗教にはよらない一般教養っていうことでお話ししてます。
なるほどね。そっか、そういうところで宗教をご利用しで教えてしまったときに、
それはなんかあれなのか、問題というか絶妙なラインに乗ってくるんですね。
そうなんです。
施設によっては座禅とかそういうのを持ってたりするみたいですけど、
うちではそのくらいですね。
なるほど、そっか、なんか今聞きながら、
この本のスタンスからしてリフレクティングの姿勢を表してるというか、
この選出受けた研修会の先生とかも、先生って呼ばれるの嫌なんでさんづけしてくださいって言ったりとか。
へー。
ほんと対等であることをめちゃくちゃ大切にしている感じですね。
なんかあの、僕全くこのリフレクティングっていう言葉自体全く知らなくてですね、
近しそうなのでリフレクションみたいな内省振り返りみたいなとかは近いのかな、何なのかなみたいなことを思いながら聞いたんですけど、
リフレクティングって何ってすごく難儀な質問をするのかもしれないけど、どんなものなんですか?
これは先ほど言ってくれたようにリフレクションから結構来てる言葉でして、
あーそうなんだ。
対話手法なんですよね。話し方のやり方の一つで。
最低3人でやりましょうっていう手法で、その3人の中で役割を完全に決めちゃうんですね。
聞き手と話し手、そして観測者っていうのがいるんですよ。
あー話して聞いて観測者、はいはい。
最初話して聞き手だけが喋って、話してがひたすら喋って、聞き手はひたすら聞くことに徹するっていう。
アドバイスとかもしちゃダメ。
ひたすら聞くっていうことで、それに対して観察者が存在を消してただ耳だけ澄ましてるみたいな。
身体言語的な返事すらしちゃダメなんですね、観察者は。
それはうなずくとかそういうのもダメっていう。
ダメです。いやつ感与えちゃダメなんで腕組んだりとかもダメなんですよ。
それも何してればいいんだみたいな感じですね。
ひたすら気配を消して目線すら合わせちゃダメなので、もう寝てるのかなみたいな。
なるほど。
でもしっかり聞いていて、決められた時間話して聞き手が喋った後、また聞き手が次は観察者と喋るんですよ。
先ほどのこの2人の話を聞いていてどう思いましたかみたいな。
えー面白、なるほどね、はいはいはい。
それに対する感想っていうのをできるだけ情報量を追加せずに話してが喋ったことだけで返事をするっていう。
これに対してこう思いましたとか、こういう発言があったけど、それはこうかなと思いました。
ほうほうほうほう。
でそれに対してまたこの次のフェーズで聞き手話してで喋り始めて先ほどの観察者からの感想を聞いてどう思いましたかみたいなのを話してから喋ってもらうっていう。
なるほど。めっちゃ面白いですね。
これがリフレクティングプロセスっていうもんですね。
なるほどね、なんかそれを聞いて。
面白かったです。
だから表紙の猫ちゃんは3人というか3匹いて、なんか右側の猫ちゃんはなんか話してる気がしており、分かんないどっちなんだろう、左側は聞いてるような気がして、真ん中の猫ちゃんはなんかお茶を飲みながらちょっとぼーっと違うところを見てるみたいな感じ。
そういうことねーって思いながら今聞きました。
本当だよ。
あー。
なるほどね。
ちなみにこれ、この本がまさにこの強制職員、要するに刑務所、少年院とかで働かれている方々、職員の方々のためのっていう。
もちろんタイトルとしてはそうだけど、やっぱりこの協会士という役割の人たちにも大事なんじゃないかっていう話されてましたけど、そこら辺ってどこら辺から感じたんですか?
やっぱり一番なんか通じるところを感じたのは、このリフレクティングの目標が答えを出すことじゃないんですよね。
あーはいはい。
だから聞き手側はひたすら聞くだけで、こう思ってるんだねとか、こういうことかなとか、ひたすらその人が考えていることを整理するというか、深掘りするだけ。
だから正直あんまりすっきり感はないんですよ。
あーはいはいはい。
逆にこうめちゃくちゃ掘り起こされて、自分こういうことを思ってたんだみたいな。
だから結構この、めちゃくちゃいいアイスブレイクみたいな会話仕事ですね。
はいはいはいはい。
だからこの後の会話がめちゃくちゃ盛り上がるっていう感じで。
あーなるほどね。
で逆にその、わからないことをわからないままで良しとする、受け止めるみたいな、その姿勢とかもすごい宗教者っぽいなって思って。
やっぱりこう、ある程度この矯正職員さんとかもそうだと思うんですけど、社会に生きてると何かしらの成果が必要とされるというか。
はいはいはい。
そういう癖もあるかなと思うんですけど、だからやっぱ面談とかした後も、ここまでのことを聞き出しましたとか、こういうふうに前向きになれましたとか、
何かしらの結果が欲しいなってなっちゃうところを、ひたすらモヤモヤしたままで、分かんなかったねー。
で、もうそれでもいいかって思わせるような。
うんうんうんうん。
そういった対話を心の底からできるのって、宗教者なのかもしれないなと思って。
へー。
またこのやっぱ教会士とかの役割として、この相手が勝手に立ち上がるサポートというか、自分が手を引いて立ち上がらせるっていうのではないと私は考えてるんですね。
相手が勝手に立ち上がるか。
あなたは立ち上がる力を持ってるよっていうことを気づかせてあげることだと思うんですね。
それが本当の構成というか、自立であって。
で、そのためにこのリフレクティングプロセスっていうのはすごくいいなというか。
人に何かをしてもらったではなくて、あくまでも自分の中から見つけたっていう経験をしてもらえそうだなと。
そのためのすごい掘り起こす作業というか。