禅の歴史と起源
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
はい、今回は臨済の雑談会ということで、ゆっくり話していきたいと思います。
はい。
お疲れ様でした。やっぱり東洋はあれだね、何回も言うけれども、また、あのー、なんだろ、全問答か、特にね。
はいはい。
また違う頭使うっていうところでね、のんびり聞けるというか、不安になるというか、なんというか。
そうね。
うん。
やっぱりリズムがね、全然違う。西洋の、ちょっと途中でも言いましたけど、詰め上げていって詰め上げていって、結論に行くみたいなのと、
あとはやっぱりね、東洋だと言ってることはシンプルなんだけど、結局それ何言ってんのみたいなところが分からないみたいだね。
はいはい。
今回作ってみてどうだった?やっぱりさ、素人的にはさ、東洋はやっぱりこんな感じだよねってくくっちゃう感じはあるんだけれども、
やっぱり今までほら、仏陀もやって、禅もやってとか、空の話やって、流石やってとか、いろいろある中で、
はいはい。
輪際っていう人の、その輪際のなんかこう、なんだろうな、輪際とは何かみたいなさ、その中でもあると思うんだけど、その辺ってなんかこう、今回作る中でさ、やっぱ東洋の中でも輪際ってやっぱこうだなーとか、
うんうん。
そういうのを感じる場面とかもあったりしたのかな。
そうね、それで言うと明確にあって、なんか僕もそんなにこう、禅自体のことはやってたけど、なんとなく仏教の流れだよね、ぐらいに思ってたんですよね。
ほいほいほい。
そう、やっぱり輪際のことをやったりとか、その禅の歴史みたいなことを合わせてちょっと読んでたんだけど、やっぱり明確に、いわゆる中国の哲学、要は老子とか宗子とかさ、そういう中国で、あとは孔子とかもそうだけど、諸子百家みたいな人たちの考え方とか、そういうのが土台にあったとこに仏教が来て、
で、その仏教っていうものが中国的に解釈された結果の禅みたいな、やっぱそういう流れがあるっぽいんだよね。
へー、そうなんだね。じゃあ、そっか、禅っていうのはインド、ブッダの原始仏教とかのオリジナルではなくて、結構その中国的な、さっき言った老僧思想とか、そういうのがちょっと織り込まれて、中国の仏教みたいな意味合いになってくるのかな、禅で言うと。
そうね、やっぱりそういう思考が入ってるよね、みたいな。クーとかっていう言葉もやっぱり中国的に解釈されて、もともとインドだとシューニャっていう言葉なんだけど、それがクーになって中国に入ってきたときにどう解釈されるかとか、それをどう中国的な思想と結びつけるかみたいな流れがあったらしくて。
ちょっとその辺も、また老子とか僧子なのかな、名前で言うと。僧子か、僧子の考え方とかっていうところもちょっと今後触れながら、またやっていこうと思うんだけど。
禅の普及と変容
やっぱりニーチェとか、サルトルとかみんなそういう人たちやろうと思った時に、デカルトとかそれより前のサクアテスとか忠誠神学とかやらなきゃいけなかったものと同じで、禅を考えると思うと中国思想とかそっちもやっぱり遡らなきゃいけないなみたいな。
なるほど、そこはミックスされてるんだね。正当なインドのみじゃなくて、そこは中国文化的なところに入ってきたときにシーニャ、クーみたいにそもそも翻訳されたりとかしながら、その解釈もちょっと変わりながらみたいなところなんだね。
やっぱりその土地の人たちがどう受け入れるかとか、別に禅ってそもそもインドでは別に流行ってないというか、そんなに盛り上がらなかった動きだから。
なんなら弱輸入ぐらいになっちゃうのかな?
そうだね、そうだと思う。
チベット仏教とかそっちにまた行くと違うのかな?だから結構仏教もいろんな国に行く中で、日本もそうだと思うんだけど、やっぱり受け入れながらちょっとずつ変容してるみたいな話があって。
なるほど、ちょっと禅の場所見えた気がする。
だから今回リンザイっていう人にフォーカスされてたけど、縦の流れとか横の流れ、禅が日本に来てどうなったのかとか、別の国ではどうなのかとか、あとは中国の昔はどうかとか。
今回リンザイは唐の人だけど、それがもっと時代が経って、宗の時代になった時にどうなったのかみたいな話を見た時に、なんかやっぱ面白いみたいな歴史ってあるなみたいな。
そういうのを感じたかな。
まだ皆さんにお伝えできてないので、そんなのがあるんだぐらいだと思うんですけど、それも今後ソイレツラジオでは取り上げてやっていきたいなって思ってますね。
面白いね。やっぱり東洋とかでくくっちゃうんだけど、あくまでリンザイの禅っていうところで言うと、あくまでその唐の時代の、こういった仏に会ったら仏を殺せみたいな。
やっぱりそこはこの時代のリンザイが言った部分だよって、その後はまたちょっと時代が下るにつれてまたそこは変わっていくよっていうところは間違いなくあるんだね。
あるある。
やっぱり西洋哲学でもさ、やっぱりこうどうしても時代の流れとかさ、その世の中のやっぱり出来事っていうのと思想ってやっぱりリンクしてるよねみたいな。
後から解釈してるからそうなってるだけかもしれないけど、やっぱりそういうふうに見えちゃうじゃない。
この時代だからこういう考え方があったんだよねみたいな。
確かに後から見ると確かに確かに。
だからやっぱりそういうのが仏教だったりとか禅にもあるんだなと思ったし。
そういうふうに見ていくと、なんかやっぱりなんだろうな。
禅とは何かってやっぱり一言ではもちろん言えないし、哲学とは何かとかもそれは一言では言えないよみたいな。
そういうのを改めて感じた回でしたね。
面白いね。禅門道はやっぱり面白いねってさ、今回も禅だったからあったけれども。
以前やった禅門道は多分この臨済よりももっと昔の話だよね。
禅門道の歴史と修行
多分もっと前の話。時代的には。
そっからちょっと下って臨済のこの禅門道を聞いたみたいな話があるんだけれども。
そうするとあれだね、禅門道っていうさ、やっぱりその禅に携わる人たちが悟ろうと修行しながら禅門道をやると思うんだけど。
その時代時代でその禅門道の中身とかさ、その中に出てくる例え話とか言葉の解釈とかも禅門道の歴史みたいなものもありそうだね。
表面的なテクニック的かもしれないけどそこは。
うん、でも本当そうなんだよね。だからちょっと触れたかもしれないけれども、どこいつ触れたかちょっと忘れてしまったんだけれども。
なんかその禅門道でその生き生きとした言葉がやっぱり時代が下れば下るほどなんか定型文っぽくなって。
話としては鳥から飛んでいきましたって言った人に対して鼻をひねり上げて、別のお師匠さんがね。
ひねられた人がいててててって言って、なんだどこにも飛んでいっておらぬではないかっていう掛け合いがあるんだよね。
はいはい、そうなんだね。
要は鳥が飛んでいったとか悠長に言ってるけど、痛みを感じるとか現に生きてるお前は全然ここに行って飛んでいってないではないかみたいな解釈なんだけど。
それが後代に行けば行くほど鳥が飛んでいったって言った瞬間にいててててって答えるみたいな定型文?
はいはいはい。
それが鉄板ネタみたいになってたらしくて。
なるほどなるほど。
でもそれは全然善っぽくないというか。
面白いね。
善は言ってるだけじゃんみたいな。
本来教点とかって確かに勉強するものではあるけれども、逆に言葉の展開を知るべしみたいなところが多分善だとあるのかなと思ったんだけど、
善文道自体も善文道集というテキスト、教点みたいなものができちゃって、その中でやり取りされちゃってる、そこで満足してる人たちも出てきちゃうみたいな話なのかな。
そういう意味では、むしろ言葉から意味を全く剥ぎ取るみたいなことが行われたりとか。
あとちょっと今回説明しましたけど、善語と遁語っていうのがあった時に、やっぱりそのままのあなたが仏だとかっていうのはありえないから、やっぱり少しずつそういう自分の理想というか、そういう理想の仏っていう自分とは別の存在になるんだって、やっぱり善も。
それはそれで存在していて。
認識としてはね。
そっちからすると、臨済の言ってることなんてデジタル目だみたいな。
そういう意味もあるから、やっぱり一筋縄では行かない感情があるよね。
善のあり方
それぞれ苦労が伝わってくるね。
私もうちょっと大きく言うと、今回雑談だからちょっとバラバラ喋ってしまうんですけど、まさに前回の話の中でフケさんっていう弟子というか、臨済のどこで学んでいた人の話をしたと思うんですけど。
あれって人参食ってた人?
人参食ってロバじゃんって言われて、ひひんというかそのロバの泣き真似したみたいな人。
泣き真似忘れてんじゃん。
忘れちゃった。
そういう人がいたっていうのを言ったと思うんですけど、やっぱりそのありのままの自分でいいとかってなると別にそれも肯定されるんですけど。
果たしてその人が善相としてめちゃめちゃいい人になるかとか、社会的にちゃんと生きていけるかって言うと結構難しい部分もあると思うんですよね。
だからやっぱりその同じ善とか仏っていうのを目指してても、何ていうのかな、やっぱこう主義主張が違う。
善の中でも違うし、善等それこそ他の念仏宗とかでもやっぱ違うしとかっていう中で、目的は同じなのにやっぱりやってることが違うみたいなのってどこにもあるよねみたいな話とか。
なるほど。
あと善っていう同じ世界の中でも社会に馴染んで集団として生きていこうっていう人と、そのままクソくらいだって言ってる人がいて。
でもやっぱり集団とか世の中なんてクソくらいだっていう人だけだとそれは続いていかんよなみたいな話とか。
面白いね。仏教とか善宗でいうと悟りの境地に至ってる人なのに、そういう社会とうまく接続できない系というか、
かなり言葉遣い間違ってると思うけど、唯我独尊というか、俺様最強みたいな風な方に行っちゃう人もいるんだね。
多分ね、その人の性質として悟ってんだけどみたいな。
言ってたら正しいんだよね。社会に馴染むっていうのは要はもう外にある規範を受け入れるっていうことだから。
仏になるための社会ではない以上、そこに従う必要は確かにないんだけど、普通に考えると。普通というか、その人たちの側に立つとね。
必ずしもそっちに迎合するっていう風な選択をしなくてもいいってことになってくるってことだもんね。
でもやっぱり、宗教とか仏教徒っていうのも社会の中で生きているわけだし、当然ね、いろんな地域に立ちたら関わりもあるわけで。
歴史的な例と結論
立った時に、やっぱり何が目的かだよね。
善の集団を続けるために善をやっているんだったら、そんなの仏になるのと違う?みたいに言われたら結構しんどいだろうし、言われた方も。
まあね、宗教改革的なところ、感じが。
免罪婦ダメだ、みたいなこと言われても。
ルターとかは多分そうだったと思うんだよね。教会のためにあるんじゃなくて、やっぱり神のためにあるんだみたいなさ。
神と直接繋がろうみたいな話って、やっぱり言われた方からするとしんどいんだと思うんだよね。
ルターもね、教会と全面闘争するつもりでやったわけじゃないみたいなね。面白かったけどね。
そうなんだ、そういう人ではなかったかな。
コテンナ城で聞いたんだけど、もともと何十ヶ城の提言を書いたんだけど、
それって確かに教会に送りはしたんだけど、もともと別に拡散してバズらせてやるとかではなくて、
真摯に修道院で真学っていうのを真面目に勉強する中で、違和感をただただ覚えた。
すごい真面目な人なんだよ、だったみたいで。
それを単純に教会のお偉いさんに、調べたところちょっと違うかもしれないんですけどっていう提言を真面目に語り合おうとしたら、
なかなか勝手に教会に張り付けちゃったりとか、勝手にバラ撒いちゃって炎上したみたいな。
マジか。
ルターさんは本当に真面目な人で、別に炎上系YouTuberになろうと思ってなかったのに。
そこで釣り合いがやられちゃってっていう。
そうすると教会側も、なんだこいつ、潰しに来てるみたいな。
そこでちょっと不幸なすれ違いが起きちゃって。
時代背景的にも、ルターがやばいじゃん、殺されちゃうっていうか、
お前何やってるって教会から睨まれると破門されて殺されるみたいな時に、
教会権力と対立してた神聖ローマ帝国の諸皇たちがルターを囲まれてみたいな、
変なところに巻き込まれてちゃって。
そうなったんだ。
かわいそうな時の人みたいな感じがあってね、ちょっと熱かったんだけど。
なるほどね。
ごめん、ちょっと話ずれたんだけど。
それは面白いっつって知らなかったな。
本当に面白いからぜひ聞いてって。
聞いてみます、コテンラジオさん。
真面目にその道を突き進んだ人の悲哀みたいなものを感じるね。
なるほどね。
だから仏教でもあるんだろうね。
集団の中で真面目にさ、純粋に行けば行くほど尊いんだけども、
やっぱりそういった政治的なとか、組織的なところに巻き込まれちゃってとかね、
組織と人のカルチャーフィット
それを追求できなかったりとか、仕切った結果変なことになっちゃったりとか。
難しいよね。
下手すると不計算もそっち側だったりとかするかもっていうね。
はいはいはい。
組織って怖いよね。
よくあるじゃないですか、日本の西部の社会でも新卒の子が帰ってきて、
なんでこんなことをしてるんですかって聞いたら、それは今は言わないでみたいな、
みんなストッパーかけられるみたいな、みんなわかってるんだけどねみたいな。
うんうん、絶対これ非効率なのにみたいな。
尊託とかはね、まあ難しいですよね。
僕とかもやっぱり元々はちょっとアナーキーなところ、ちょっと皮肉屋というか社に構える部分があるから、
なんかそんな大の大人が集まって何やってるんだって思った時とかがあるのよ。
仕事してる時にね。
こんなことやって本当に何か意味あるの?みたいな。
20代の子とかはそういうのを上司に言っちゃったりするわけよ。
するね。
やっぱり30歳を超えていろんな会社で働いてるのを見た時に、
いやまあでもなんていうのかな、それもそれで大事だよねみたいな。
それは何ですかね、大人になったってことなのか、自分が鈍くなったってことなのかちょっとわかんないんだけど。
はいはいはいはい。
それはね、なんか最近感じるんですよね。
面白いよね。だからさっきの仏教とかで言うとさ、ちゃんと経典を学ぶべしと言っても学ぶ必要ないでしょ、みたいなね。
若い人が来た時にね。
言葉意味ないんだから経典学ばなくていいじゃないですか、みたいな。
金とか稼がなくたっていいじゃないですか、みたいなね。
そこにどう埋める人が応えていくかっていうね。
そうね。りんざいさんとかそればっかりやってたんじゃないかなって、お前が仏だって言ってたらさ、当然私が仏ですっていう人が多分あちこちから現れると思うんだよね。
はいはいはいはい。
私が神だみたいな人がバンバン来た時にさ、やっぱりどう見抜くかとかどう返してあげるかとかってやっぱりそれはすごい大変なことだと思うんだよね。
しかもね、別にね、悟ったっていう段位とかあるわけじゃないもんね。黒帯みたいなのがあるわけじゃないもんね。
そうね。段階が踏むものじゃないからそれをちゃんと見分けるみたいなこととか。
黒帯あったとしても多分ね、その流派みたいなのもありすぎてね、多分ね。お寺ごとに違うみたいなね、その黒帯認定の試験がね、基準が。
だからやっぱりすごい一期一会的ではあるんだよね。自分のところでは悟れないけど、あいつのところに行ったらいいんじゃないかみたいなさ、臨済さんが悟った時のエピソードもあったけれども。
実際そういうエピソードっていうのは他の人にも結構残っていて、あるところでは全然馬毛があったけど別のところに行ったらそこに馴染んだとか。
やっぱりそういう馬が合うみたいな話の世界ではあるみたいなんだよね、その禅っていうのは。
なるほどね。そう見ると面白い世界だよね。仕事も同じというか、転職。自分の合うところに転職しなさいみたいなやつやっぱりあるけどね。
仏教とか宗教の世界ってちょっと属性離れしてるとか、経済から離れてる感覚はあるけど、結構そっちを目指そうとしたら目指そうとしたら同じというかさ。
そうだね、確かに。本当そうで、今キャリアのお仕事してますけど、カルチャーフィット。カルチャーフィットっていうは組織とか会社の雰囲気とか文化とかっていうものがあるじゃないですか。
自分がどんな環境にいるのが心地よいかっていうところがフィットしないと、どんなにやってる仕事が面白いとか、授業に興味があるとかってなってもやっぱりやめちゃうというか続かないっていうのがあるんだよね。
単純なやりがいとかじゃなくてね。
例えばすごい変な話、毎朝朝礼しますみたいな会社があったとして、それ自体はその会社の文化だからいいんだけど、そういう決まったことを毎日やるっていうのができない人っていうのが世の中にはいるんだよね。
それにすごく窮屈に感じるとか、肩にはめられてるように思ったみたいなのがそこに入ってしまうと、どんなに仕事とかは楽しくても毎朝朝礼があるだけでやっぱりその会社にいたくないって思ってしまうとか、例えばね。
やっぱりそのカルチャーとか、ちょっとなかなか言語化難しいけど、そういう雰囲気みたいなものでその人のパフォーマンスが出るとか、その人があるしその人らしくいられるかどうかって結構変わるよなとかは、全然そこは仏教の世界であれ、今の仕事の世界であれ変わんないなって思うよ。
禅の人生哲学
そこはやっぱり素人からすると意外だよね。仏教とか、ひとくくりでくくっちゃうから。
まあ確かにそうだよね。
その中でみんな同じベクトルで同じ方向に向かって、属性から離れて修行していくんだなとかって思っちゃうけど、同じなんだね。
やっぱり先輩後輩みたいな、この師匠合わねえわみたいな絶対あるってことだよね。
そうそうそうそう。
だからやっぱり面白いなあと思うし、ちょっと雑談だから思いついた話あちこちしちゃうんだけど、
鎌倉時代の日本の仏教徒に、自修を起こした一平さんっていう人がいるんですけど、なんか聞いたことあるかな。
まあ教科書レベル、自修一平みたいなのがね。
そうだよ、確か踊り念仏の人かな。で、なんかそういう、こう、年仏を広めましたよみたいな感じで、なんかすごいハッピーな人だなみたいな風に思ってたんだけど。
うん、重いよね、踊り念仏って。
そうだね、ただのパリピじゃんって。
そうそうそうそう。
上級かなって思ったら、なんかこれもちょっと本当にちらっと読んだだけだから、もうちょっとちゃんと勉強して、自修一平さんの会をやりたいと思ってるんですけど、
なんか面白かったのが、一平さんも年仏を唱えたら救われるみたいなことを勉強して、
で、これめっちゃすごいじゃん、要は念仏とあるなんて別に誰でもできるし、その読み書きとかできなくても。
で、これでなんか俺、勝てるみたいな感じでやってたらしいんだよね。
なるほど、勝てるかいいなそれ。
なるほどね、大乗仏教のいいポジショニング見せたわーっていう。
言うだけでいいんだからみたいな。
で、布教をせった時にダムナビダブツって言ってくださいみたいなのをパッて言ったら、言えませんって言われた人がいたらしくて、
なんかそんな神とか仏のことも考えてないとか思ってないとか、
仏教と禅
あれは自分らが穢れた人間がそんな念仏とか仏の名を唱えるなんて、恐れ多くて無理ですみたいな、そんなことをやったらしいのね。
ちょっとごめん、内容うろ覚えだから正しい回なんだけど、
っていう時に、言えばいいって勝ちパターン見つけたって思ったけど、言えない人がいるんだって衝撃を受けて、
で、どうしたらいいんだって考えた末に、踊り念仏みたいなのが生まれたよみたいな。
すごいなー、アイディアマンだね。
ちょっとごめん、薄そうかもしれないんで、話半分で聞いていただきたいんですけど。
言えませんっていう人の反論に対して、じゃあ踊れって言って、その人踊るかって言われたらっていう疑問はあるけど、面白いね。
自分の声でいけると思ったけど、相手はこれじゃダメなんだとか、みんな俺と一緒じゃないんだみたいな気づきって、
その時すごいショッキングだったんだろうなって思うけど、でもこれも現代にもあるじゃん。
なんでこれできないのとか言った時にさ、例えば自分は毎朝起きれるけど寝坊してる人がいるみたいなことがあった時に、
起きれる人からしたら寝坊するってわけわかんないから詰めちゃうけど、それは起きれないよねとか、
なんか血圧とかの問題で、そもそも朝が悪いっていう人が世の中にいるんだみたいな気づきとかってあった時に、
なんていうのかな、何の話したかちょっと忘れちゃったんだけど、相手のことを知るとか、
みんなが自分と同じではないっていうことを知った上で、だからこそ自分がどういう場所とかカルチャーとか雰囲気のところにいると
心地よいのかみたいなことを知るって結構大事だよねと思ってて。
なるほどね、それはもうお互いだね、そっかそっか。
さっきの一辺の話でいうと、それはどっちかというと作る方というか環境を提供する側の話だと思うんだけど、
生身だべつと言いなさい、言えませんっていう人がいた時に、じゃあ踊ろうかって言って、もしかしたら踊ってくれるかもしれないですね。
自分が本気でそういう環境とか社風を作ろうとしていて、
その中でちょっとうまく適合できない人がいたという時に、そうやってでもちゃんとトライアンドエラーでいろいろ試していける。
基本生身だべつって言えばいいですよ、ダメですっていう人は踊ればいいですよ、踊れもしない人はこうすればいいですよっていう。
いいのか悪いのかは別としての柔軟性がやっぱりすごいので、ちゃんと広めていこう。
たぶんそれで本当にちゃんと救えると思ってるし、信じてるし、実際たぶん救われるしっていうところをちゃんとやっていくから。
それに対していろんな環境というのは提供される中で、提供される側もどこなんだろうな、
感覚だったりとか、もうちょっと俯瞰であったりとか、自分に合う場所っていうものを見せる感覚、センスっていうものはちゃんと磨いていくみたいな。
お互い様な感覚はすごいするね、面白いですね。
だからやっぱり受け取る側というか自分の側も、自分ってどこが合うんだっけとか、どんな関係があるんだっけみたいな話もあるだろうし。
これゴールデンウィーク明けに今撮ってるやつなんですけど、ゴールデンウィーク中に改めて自分何がしたいんだろうっていうか、
長期休みって結構するのを僕考えがちなんですけど、ちゃんと定期的に。
今自分は何がしたいんだろうとか、やっぱりどういうところに向かいたいんだろうとかっていうのを結構考えたんですけど。
極論としては、ノートにも書いたんですけど、スライドスラジオ1周年っていうノートの文章を書かせていただいて、そこにも書いたんですけど。
ブログサービスのノート?
そうそう、ブログのやつね。
やっぱりなんだかんだ、人がやっぱり幸せになってほしいというか、自分自身が幸せじゃないっていうところからこの哲学とか学び始めているから、
少しでもいろんな人が幸せとか日々豊かに生きるとか、毎日生きててよかったみたいに思ってほしいなっていうのが結構ずっとあるんですよね。
うん、なるほど。
なんかそれが、なんとなくハッピーみたいなことよりは、そもそも幸せとは何かっていう定義があってとか、
はいはい。
その中で自分にとっての幸せとは何かっていう、世の中一般の幸せと自分にとっての幸せは違う。
もっと言うと、ちょっとこれインド哲学の時にも言ったかもしれないんですけど、
やっぱり人生の目的って4つぐらいある。
カルチャーフィット
要はその快楽を追求するとか、自分の使命を果たすとか、あとは出家するとか、
まあそんないくつかの中で、それはやっぱり人によって違うんだって思うときに、やっぱり幸せの形って一つじゃない?
っていうと、そもそも自分ってどのタイプなんだっけっていうのをちゃんと判定して、
そのタイプにふさわしい行動とか考え方とかを身につけることで幸せに繋がるんじゃないかみたいなことを改めて考えてたんだよ。
ノートはそこまで書いてなかったかもしれないけどね、具体的にね。
それを本を書きたいなって改めて思ってて。
あ、そうなんだ。今のような話をちゃんと伝えたいと。
自分で書いて、Kindle出版したいなっていうのはずっと思ってて。
今年のときに話せばいいんじゃないの?また5回ぐらいで話せばいいんじゃないの?
違うの?やっぱり書き言葉と話したいって。
たぶんね、文字にそっちはしたほうがいいなと思ってて。
まあそうなんだね。
みたいな話とかをゴリ抜きに考えてたので、もしかしたらそういうプロジェクトが僕の中で勝手に始まるかもしれない。
なるほどね。自分がそうやりたいことっていうのが結構、自分の苦しみじゃないけど、そこをもうちょっと苦しんでる人がいるだろうっていうところに広がってきてるんだね、自分がどうこうじゃなくて。
そうだね。ある程度自分自身に関しては、幸せなんですよ。大前提。
日々すごく素敵な人と一緒に仕事したりとか、家族もいてみたいな感じで、本当に恵まれてると思ってるんですけど。
なんかね、もう、現世では無理だなって思ったのよ。
何が?
危ないな。
自分のメンタリティというか、根本的なものとして、何だろうな。
完全に満たされるみたいなのってないなって。別に皆さんそうだと思うんですけど、100%ハッピーみたいな人って、すごい才能というか素敵なことだと思っていて。
やっぱりそうやって逆に、みんながみんなそうではないとは思ってるんですけど。
幸せとは何かを考えてる以上幸せになれないみたいな言葉もあったと思うんですけど。
仕事と人生のバランス
対照化しちゃってるから、幸せっていうのは。
そんなことを考えると、自分自身が最強ハッピーになるとかっていうよりは、その探求というか、そこに人よりも時間を使ってる明らかにっていうのは思うから。
それを皆さんに伝えることで、テツラジオじゃないけど、やっぱり自分が時間を使ってる哲学っていうこととか、幸せとは何かみたいなこととかを発信するみたいな。
そういうところが自分の役割というか、やりたいことなのかなっていうのを改めて感じたっていう話です。
これちょっと長くなっちゃったんですけど。
そうか、自分の幸せ的な特徴が伝わってくるって話だよね。やりたいことと。
面白い。確かにさっきの使命化、引導、哲学的に言うと、ワークライフバランス。
この言葉もね、結構好意的に受け取られたりとか、逆にネガティブに受け取る人もいろいろいると思うんだけども。
そのバランスをね、結構ワークライフバランスっていうふうなことが言われ始めたときのバランスって、そのバランス自体が強要されてる感じがする気持ち悪さがある人もいるかなと思うんだけど。
たぶんそういうとこだよね。そのワークライフバランスもそうだそうだって言うと、結局なんかその押し付けっていうかね、それは一般常識みたいなとこで。
じゃあワークとライフのバランスを考えましょう。自分の最適なバランスってのをちゃんと考えましょうねと。
人に言われた、どうにかちゃんと休むべしっていうのは本当に幸せなんですかと。そうじゃない人もいるだろうしっていう部分だったりとか。
残業本当に嫌なんですかというとこあったりとか。あとワークとライフだけなんですかねとか。そもそもワークとライフって何なんですかねみたいな。
そういうとこでね、せっかくこういう言葉があるんだけれども、またそれに縛られる窮屈さも生まれてると思うからね。
なんか今のハヤトの話聞いて、言葉、もちろんそういう概念が生まれるっていう意味での対応性がね、どんどん出てくる。
みんな頑張って働きなさいって言ったりとか、勿論サボりなさいじゃなくて、バランス考えましょうっていう対応性が出てきたのはすごくいいことだと思うんだけれども、
年代による生き方の違い
それを自分の頭で考えましょうとか。かといって自分の頭で考えるってすごく難しいし、そもそも無理。自分とかそれ無理だから、そういうやつに、
やっぱりそこはね、しろうびな人たちにね、ちゃんと情報だったりとかね、テクニック、もしくは本質とは何か、そこを提供するっていう意味で、そのハヤトの言ってるような話ってすごくいいなと思うしね。
自分もこのソルテッドラジオでそういう意味で救われてるってあるからね。
やっぱりさ、それって時間を使えるかどうかだけだなと思っていて、例えばさ、僕とかはキャリアの仕事をしてるから、やっぱり1日中キャリアとか人が働くとは何かっていうのを考えれるわけよ。
普通に仕事をしてたらさ、そんなことを考えてたら、要は目の前の仕事ができないとかさ、ある種辛くなっちゃうみたいな感じになると思うんですよね。
だからこそ、例えばさっき兄貴がワークライフバランスって言ってくれたけども、例えば今僕らが言ってるのは、バランスってやっぱり取るのは難しい。
で、やっぱりその次の概念としてワークライフブレンドみたいな考え方があって、要はやっぱり仕事が充実してるから生活とか人生も楽しめるし、そっちも豊かだからこそ仕事にも針が出るみたいな、やっぱりそういう緩く繋がるような概念とかもあるよねって話をしたりするんですよね。
いいね。二言論じゃなくて一言論ですよみたいな話ね。
そうそうそう。やっぱり人間でそんなパツッと、もちろん分けることもできるんだけど、9時5時でパツッとやって、それ以降は働きませんっていうことももちろんいいんだけど、やっぱりそうなると9時から5時っていう時間が、
耐える時間とか、自分の人生から禁止された時間になっちゃうっていうのは、もったいないっていうことも言えますよねとか。
でもそれは別に人によってでいいし、逆にそこまでそんな考えたくないとかっていう人もいるからもちろん。
それはあくまでも一つの捉え方なんだけど、やっぱりそういうマスに言ってくれた通りやんけが、バランス取らなきゃいけないとかって思うと、果たして今の自分のバランスとかって、逆にそっちに捉えちゃったりするから。
面白いね。そっかそっか。確かにな。さっきそのバランスを自分の頭で考えるって表現しちゃったけど、それは結構二言論に捉えてる感じがしたね。なるほど。
面白いね。
例えば20歳の時はいいけど、40歳の時に同じ働き方はできないとかってなった時に、バランスを都度都度調整するとかがいいのか、
あくまでも時々の状況によって仕事の方も調整できるっていう方が、ある種レジリエンスがあるというか、人生100年時代の考え方とかするといいよねとか、例えばね。
うん。
なるほど、なるほど。
人生100年時代に向けた生き方
大変ですね。
面白がりますね。
なんかね、さっき人生の目的は人それぞれって言ったんだけど、そこにプラスして年代とか年齢?自分が10代の時と30代と50代と70代でやるべきこととか、取り組むべき課題って違うよねって考え方もそれはそれであると思っていて。
うん。
それでいいじゃないかと。
うんうんうん。
なんかね、人間そんな、なんだろうな、こう、一本調子というか、そんな風にはね、やっぱり生きていけないから。
うんうんうん。
面白いな。なんか、ほら今聞いて思ったのは、年齢ごとに違うとかってあった時に思い出すのが、ファイナンシャルプランニングとかで言うと、ライフプランニングとかって作るんだよね。
20歳の時に、自分のね、仕事がこれくらいあって、収入はこれくらいあって、支出がこれくらいあって、何歳で結婚をして何歳で子供を産まれると、自分が例えば35歳の時に子供が例えば5歳で、とかってバーって家族の年齢と、起きてくるイベント、必要な支出とかバーってやってくると結構こう自分の人生を考えるすごい良いきっかけになったりするんだよね。
で、この時に家を建てると、で、その時に子供の大学の費用と、ここ1世とここ赤字じゃんみたいなやっぱりそういうのがこう見えてくるのがライフプランニングみたいなのがあるんだけど、なんかキャリアとかもそれに織り混ぜてね。
それをそうすると自分がお金なのか、キャリアなのか、家族なのか、そのいろんなとこ、たぶんその焦点、その切り口がたぶん人生単位、自分の。で、見ていくと、自分って意外とお金じゃないんだとか、仕事なんだ家族いらないかもとか、こんな金がくらったら子供いらないかもみたいな、一人でいいかもとか、むしろ結婚すらいらないかもとか、結婚はしたいけど子供いらないかもとか、
たぶんいろんなね、自分のその価値観を築くチャンスとかあるのかなと思って。キャリアの方でもそういうのあったりするの?そういうなんかさ、人生カレンダーじゃないか、スケジュールみたいな。
キャリアの形成と年代別のテーマの違い
あるある、やっぱりこう、すごいざっくり言って20代はやっぱりこうある種、下積みというか児童代を作って、やっぱ30代で実績出して40代はやっぱりこう、
チームを固めていくとか、やっぱり後輩を作っていくとか、やっぱり50代とかになると、ある種組織全体を見るのか、自分の専門性を活かすのかってやっぱりどうしても年代ごとにテーマがある。
あとやっぱり特に難しいのは、今の日本でやっぱり女性のキャリアというのはすごく難しくて、どうしても妊娠・出産というところが、仮にライフイベントとしてあったとしたときに、
キャリアが一時的に作るのが難しくなってしまう。どうしても女性のキャリアは前倒しになってしまう。男性に比べてとか、出産というのは意識。
男性に比べてというところは客観情報としてお伝えした上で、じゃあどういうタイムスパンで何をやっていきましょうかとか、どういうところを目的にしていきましょうかとかっていうのはやっぱり話したりする。
なるほどね。そこを前提と、例えば妊娠・出産・結婚みたいなものを織り込まない業界とか社風とかのところに行っちゃうと、それこそ地獄ではないって話だよね。
自分がバリバリやっていきたいのにっていう。そうするとバリバリやっていきたいところに対応するような社風であればそこはいいけどみたいな、そういうミスマッチは起こる確率がちょっと高いってことだね。
なかなかお互いに難しい部分あったりとか、それこそ転職とかっていう場面に立ち会うことが多いのであれですけど、転職して2,3年経たないと昇給が難しいってなった時に、そのタイミングで子どもが欲しいってなると、
じゃあ本当に転職をすべきなのかとか、原職に残って、いわゆるマネージャーとかを経験した方が出産後のキャリアが広がるんじゃないかとか、やっぱりそういうところも考えていく必要がある。
なるほど。そういう仕事って、ハヤトの方のキャリア相談ってなってくると、キャリアのスタート地点から組み立てましょうじゃなくて、既に走り始めてる人の相談ってなっちゃうと、じゃあ今からできる取り得る手段は手札は?っていう話も含めるとそうなってくるのか。
やっぱり理想は理想として掲げるべきなんだけど、じゃあそこに本当に倒れつけるのかとか、倒れつこうと思う時にどれだけリスクが取れるのかとか、もちろん貯金のあるないとかっていうのも人によってやっぱり効いたりするし正直踏み込んで。
まあそうだよね。さっきのいっぺんさんのオド二年ぶつじゃないけどさ、自分がそう考えて走り出してみたら違ったみたいなこともあるもんね。自分が違ったとか、向こうが違ったとか。
理想と仕事これですって言ったけど、でもその仕事のことをよく聞いてみたら、全然違う仕事だったとか、実はその仕事向いてないってことが分かったとかってやっぱりあるから。
禅と人生・キャリアにおける共通点
やっぱりね、今日ちょっと後半すごい仕事の話になりましたけど、禅とかってすごい生活に密着してるっていうか、やっぱり生き方を考えざるを得なくなるなっていう感覚が僕の中にあって。
いやー面白いね。だしね、禅そのものも同じような構造になってるってのも面白かったよ。お師匠さん変えるとかね。
このお寺自分に合わないかもしれないけどさ、ちょっと安心するよね。そっち行けば必ずしも救われるわけではないというか、それぞれ同じような苦しみがあるというね。
これは完全に僕の世界観だけど、僕の世界観の中ではやっぱり自分とは何かとか、それを見つけてもそうだし、それをある種作っていく。
やっぱり自分探ししても見つからなかったみたいなさわらい話ってちょっと前にあったと思うんですけど、やっぱりそこで意思を持って作っていったりとか、こうなりたいって思った時に初めてその道が見えてくるって思うあったりもするから。
やっぱり仏になるってなった時に、じゃあその仏ってお前自身だって言われた時の探求の仕方。果たして今自分自身は全然仏ではないと。
やっぱり自覚があって、それは疑いだって言われてもその疑いはなかなか拭えないってなった時に、やっぱりじゃあ何をすべきかとかどう生活すべきかとか、どんな思考の仕方をすれば自分が仏だっていうことが自分自身にとって馴染むのかとかって、
やっぱりもう本当にこうある種生まれ変わりというか自分自身を作り変えるようなことだなっていうのはすごい感じるんですよね。
面白いよね。同じだもんね。悟りたいってやっぱり思わされちゃってるわけで、そっちの道に行くと思った最初って多分ね。
年収1,000万とか思わされてるじゃん。仏教っていいなとか。
年収1,000万行きたいっす、30歳でみたいな。
そうそうそうそう。大事ですと一緒だからね。
それ本当みたいなね。
そこはやっぱ面白いね。
そうそうそうそう。そこでたぶん1回ね、悟りとかなんだとか、ワークリフバランスはなんだ、1,000万って本当に大事なのかみたいな。
同じだなっていう。本当に同じなんだなっていうのはなんか今までその感覚なかったから。
面白い。
面白い、それは。お互い学ぶことあるんだなっていうね。
やっぱりね、やはり真剣に生きようとか、やっぱり自分にとって生きるとはみたいなところを考えようとする人には、やっぱり禅っていうね、1,000年、何百年前とかの話ってやっぱり参考になるだろうし。
やっぱりその時々の手段とか考え方が違うだけで、その姿勢自体がすごく似ているというか、すごく生きることに真摯だっていうことは、哲学者も含めて、西洋も含めてだけど、宗教的な人たちも含めて変わんないなって思うから。
それが楽しいからやっちゃうんだろうね、僕はこうやって。
これ自体も面白いしね、そういう自分の人生というか具体的な生きていくってところで応用も確かに自分なりに可能というかね。
むしろ逆にこういうのがないと自分の人生作る土台が確かにないかもなと思い始めちゃうよね、こういう話聞いてると。
はい、ちょっとそんな感じで気づいたらもう40分ぐらい喋ってるっていう。
結局長いね。
仏教と禅についての雑談
感じですが、ごめん、兄貴は大丈夫?話したいこととかなかった?
大丈夫です、結構長くなっちゃったしね。
ちょっとごめんなさい、僕がいろいろ話してしまったんですけど、本当にそういう、やっぱりただ節約のことを学ぼうとか、仏教とかそういうことを学ぼうとかっていうことも、もちろん面白さとしてご提供していきたいなと思うんですけど、
なんだかんだ聞いた方が自分の人生というとちょっと大きいけど、自分の日々が少し豊かになるにはどうしたらいいんだろうとか、そもそも自分がやりたいこととかやろうとしてることって本当に
そうやって自分で設定したことなんだっけみたいな話っていうのはすごく役立つんじゃないかなと思っていて、その人によってはとかタイミングによってはね。
なんかそんな気持ちで、これからも僕らは続けていこうとは思ってますし、それを別に受け取っていただくのは自由なので、受け取り方としては。
そんな部分も含めて楽しんでいただきたいなっていうのが改めて言葉にできてよかったなっていう回でしたね。
はいはいはいはいはい。
ゴールデンウィークで考えた自分の幸せとはそう、自分の目的とは。
危なかった、一三日目くらいとかちょっとやばかった。ゴールデンウィーク終了1日前とか、もう俺はダメだみたいな。
サザエさん、症候群じゃなくて。仕事始まっちゃうじゃなくて。
俺はこんな1年サザエデスラジオやって、楽しいとかってノートを書いたのに、なんか全然気持ちが晴れやかになってないじゃないかみたいな。
よくわかんない暗黒面に寄せたんだけど。
はいはいはい。
そうそうそう。
面白いね。ちょっとそれは引き続き文字にまとめてもらうのも一応さ。
また雑談会で経過報告をたまに吐き出してもらおうかな。興味あるわ。
もし興味あるという方がいらっしゃれば応援のメッセージをいただけると、僕の執筆意欲がバレるかもしれない。
執筆意欲ってなんだろう、別にやったことないからわかんないですけど。
ちょっと引き続き応援いただけると嬉しいです。
次回はお便り会挟んで。
次回のテーマについて
フサール原子力っていうのを次回のテーマとしてはやっていこうと思うので、次お便り紹介を挟ませていただいてそちらに入っていきたいなと思っています。
了解です。雑談会お疲れ様でした。
というわけで、引き続きよろしくお願いします。
お願いします。
今回もありがとうございました。