ああ、心いっきり感謝。
はいはいはい。
だからそういう意味では分解はできるかもね。
うーん、なんかわざわざ遠くて長い困難な道のりを越えてきてくれて都合がいいなーではないんですか。
都合がいいなーじゃなくて来なくてもいいわけだからきっと多分それは。
ああ。
でもなんかさ、例えばさ、会う約束をしてないけど、なんか例えばちょっと東京来たからついでに来たみたいな感じで会いに来てくれたら、それって別に助かるじゃないじゃん。
はい。
都合がいいわけでもないじゃん。
いやでも楽しい時間を提供してくれて都合がいいなーじゃないですか。
全然都合がいいにしたいわけよ、ちょっと待って。
いやそういうわけじゃないんですけど、なんか都合がいいって思ってることを感謝というキラキラワードで結局は包み込んでるんじゃないかなーっていう。
だからみんな要はもっと利己的な存在なんじゃないかってことを言いたいよ。
まあそんな単純にまとめる気もないんですけど。
っていうその結局ね、都合がいいなーっていう気持ちだったりしないのか、分解するとみたいな。
え、多分矢野さんは大体ありがとうって言うときの割合は都合がいいが9割なの?
そのー。
10割。
都合がいいなーっていうことなんじゃないかなって思いますね、大体。
大体。
それ以外の感謝はないってこと?
でも分解したらそれにたどり着く可能性を感じてるっていう。
分解して考えてないけどってこと?
うーん、なんか結局何かをもらったなー、自分が。
まあ、なんだろうな、惜しいものだったら感謝は増える。
そんなにいらないものだったら、一緒なんですかね、感謝のボリュームって。
あー、なんか何かしてくれたって声は同じだったとしても、
自分に都合が良ければ感謝はするけど、都合が悪かったら感謝しないんじゃないかってこと?
はい、なんかすごいいらないもので、何ならむしろもらって困るようなものをもらった。
でももらったってこと自体は一緒じゃないですか。
気遣いの面ではね、きっとね。
で、そしたら感謝の量って一緒なのかなみたいな。
一緒ではなさそうな気がするな。
そうなると自分の都合の良さレベルにどれだけ満たされてるかみたいなことにならないかなーって。
ただとはいえ別にゼロじゃない気がするからな、感謝はそこで。
だってさ、プレゼントでさ、逆に言うとさ、100%自分が欲しいものをもらう可能性の方がむしろ低いじゃん。
はいはい。自分が頼んでない限りは。
そうでしょ。で、だいたいそういうものじゃん、もらうものって。
それでもさ、まずその自分がこれ欲しいとは一旦置いといて、気にかけてくれたとかでもさ、
ちょっと嬉しいななのかありがたいななのか。
ありがたいは感謝だとしたらさ、感謝入るじゃん。
はい。
だから別に都合が良いではなくて。
だってむしろここで、都合は別にもともとなくても良かったわけだから。
はい。
良いかって言うと別にそんな良くはないけど。
うん。
だって好きじゃないものとしても。
でもそれでも多少嬉しいじゃん多分。
恋を向けられただけだから。
うん。
嫌いなもの、それこそ別に食べるものとして嫌いなものだとしても、
恋を向けられたこと自体を感謝するじゃん多分。
最近はちょっと告白ハラスメントみたいな言葉もあったりしますけど。
恋、そこまでいくとそうなんだけど。
腐っておいて。
例えば自分はじゃあ、なんだろうな、あんこが苦手ですと。
はい。
だけどそれを相手が知らずにあんこのおやつをくれましたって言ったら。
はい。
別に都合良くないじゃん。
まあそうですね。
そのシーンで。
はい。
でも別に感謝するじゃん多分。
ああありがとうって。
はいはい。
だから逆に都合悪くても感謝は成立する。
はいはい。
なるほど。
まあその自分が気にかけてくれたっていうのが、
自分の交流とか生存に有利な状況になってるなっていう都合の良さはあるかもしれません。
そういう意味でだね。
はい。
というので、私はそもそも自分が感謝ベタだっていう自覚があるんですよ。
ああなるほど。
何も考えなければ感謝っていうものにもでかく来るんじゃって受け取っても良さそうな感情を、
自分の都合がこういう意味で良かったから今感謝っていうことなんだみたいな、
そういうことを感謝っていうのかなみたいな解釈をひねってしちゃうんですけど、
この前、これ心からこれが一時的感情の感謝だっていうのが感じることがありまして、
これが自分の都合だとかそういう思考を一切取っ払った、
これがピュアな核となる感謝の気持ちでこういうやつだみたいなのが湧き上がったことがあるんですよ。
それがこの前誕生日だったんですけど、
誕生日に会社の後輩が薄暗いおしゃれなカフェみたいなところに連れてってくれて、
なんかバースデープレートみたいなやつが出てきたんですよ。
そのサプライズ仕立てっぽくやろうという雰囲気はさしてたんですけど、
私はそれを多分やるだろうなってことは分かってたんですよ。
気づかないぐらいの手でその場に座ってて、わーって言って、
その時に私にとっては結構誕生日は他の記念日とはもう気にならないぐらい重要な日なんですよ。
生まれてきてくれてありがとう日なんで、
他のみんなで固定で決まってる祝日とかと違って、自分だけのユニークな日じゃないですか。
なので、そういう誕生日への思い出と、後はその後輩がちょっとしたり顔でやってるこの様が、
すごい感謝の気持ちがめっちゃ湧き上がったんですよ。
いつもと違う出力になったの?
これが感謝ってやつかみたいな、もう味わったんですよ。
それはもう本当に受け取りやすい感謝というか湧きやすい感謝だと思うんですよね。
何かわかりやすく用意してくれて祝ってくれたみたいな。
ただその普段の鉛筆取ってくれたみたいなレベルのことでの逐一の感謝って、
そのピュアな感謝の念とはまたちょっと違う気がしたんですよ。
それは都合がいいっていうタイプの感謝なのかなとか思い始めて。
普通に誕生日のやつは都合がいいとかじゃなくて嬉しいだったわけよ。
確かに鉛筆取ってもらって嬉しいわけじゃないですからね。
ありがとうって書いてあったよね。
そうですね。
嬉しいの感謝の成分があったと。
そうですね。
って思うと、いろんな質の感謝がある割には、
その出力先がありがとうにだいたい集約されるみたいな。
言葉ですね。
ってなるのが、だからちょっと不思議な感じがするんだろうなと思いつつも。
ありがとうっていう言葉自体は毎日常的に仕事でもありがとうございますっていろんなものが頭についてるから、
めっちゃ出てる言葉だけど、すっごい感動した時もありがとうだし、
そんな些細なことでもありがとうだから、そんなの同じ言葉でいいのみたいに。
いや、そういうことではない。
だからその、ありがたいと思えるかっていうのはまず前提にありそうだよね。
それが当たり前のことなのか、普通はなかなかないことなのかの話には多分ありがたいってさ。
だからその、例えば物を落としたときに拾ってくれっていうのは普通は拾ってくれないっていう世界で捉えていて、
で、それを拾ってくれたらありがたいって思うけど、
拾ってくれて当然だろうみたいな世界観だったらあたまありがたいにはならないんだろうなみたいなところの気がするから、
で、放置を何に置いてるかはあるかもね。感謝が多い人と少ない人っていうのは。
それで言うと、鉛筆拾ってもらって、いわゆるさっきの莫大感謝とは違う感謝、都合がいい的な感謝に思うのは、
自分だったら普通に拾うからっていうのもあるなと思うんですよ。
逆にね。
逆に鉛筆拾ってって言われて、何の労力もなく多分拾うと思うんですよ。
ああ、そうだね。なるほどね。
で、別にそんな何も、自分は何も身を削ってもないし時間を削ってもないし、
普通に当たり前に何かやることをやっただけみたいな。
確かに。当たり前の基準が違っても感謝が薄れるパターンあるよね。
その創造力がないパターンとはまた別で、普通にやるじゃんみたいなことだよね。
そうですね。そうするとその基準にもう適応しちゃうんで、逆に言うと私はもしかしたら、
鉛筆を拾ってって言って拾ってくれないと、ネガティブな印象で終わる可能性あるなと思ったんですよ。
ああ、そうだね。拾って当たり前の世界にどうでしょう。
はい。拾ってくれないんだって。
そうすると当たり前の世界が厳しければ厳しいほど感謝のハードルも上がるよね。
そうですね。
自分がやられたときに、やってもらったときに感謝の言葉も出なければ、
やってもらえないときになんだよって思う可能性が高いってことだよね。
突然そのゼロ基準を高いところで持ってきてぶつけるっていう、当たり屋みたいな存在になるんですね。
そうだね。
はい。
しかも根っこになっているのは落ちているのは拾うの当然でしょってむしろ高いじゃん、行為としては。
そうなんですよ。
それちょっとかわいそうな感じがしてくるね。
本人目線で見たら、困っている人が助けるのは当たり前にやってるしってことでしょ?
そうですね。
何かそれこそなんだろうな、道が迷ってそうだなって思ったら自分から声かけますが当たり前だって思って歩いてて、
自分がいざ道迷ったときに、なんだこの街は誰も声をかけない、くれないのか。
そう、当然道ぐらい教えてあげるだろうみたいな。
道をかけてあげるっていうこと自体は優しい人のはずなのに、他者に関しては優しくない人になる。
そう。
その反転がちょっと困るね。
ちょっと。
行きづらいな。
行きづらい。
行きづらいな。
唯一すごく頑張って困っている人に道を教えてあげられるようになりました系の人は、どっちも習得できる可能性があると思うんですよね。
確かに。天然でできる人こそ得が高いと思いきや、イライラするシーンが増えると。
感謝を思ったり受け取ったりする量が減る可能性があるのかなみたいな。
確かに。それって結構大変だね。だってめっちゃ本人は色々人助けとかもしてるわけじゃん。
はい。
でもなんか自分はその恩恵を受けられないってことだもんね。その基準で動いちゃってるから。
そうですね。
むしろいつも枯渇すんじゃない?自分もこんなにやってるのに、なんでみんなやってくれないんだろうって。
そうですね。そういう人って大体気が回って、多分自分がどれだけのパワーを、何かを助けたりするのに咲くのかはわかるんで、想像力が比較的高いのかなって思うんですよ。
そうだね。
だから何かをしてもらった時に、自分の感謝自体を結構持てる場合もあるのかなって思うんですよね。
うん。だからしない場合のマイナスが大きそうだよね。
そうですね。
され、してもらえない時に。
当然のランクが。
そうだね。
なんで想像力的な問題とその当然の基準をどこに置くか的なのに。
うん。
そうですよね。夫婦で生きて違ったら結構なことになりそうだね。
そうだね。
実は常に気が利いてやってあげてて、やってくれないなってなるよね、そのパターン。
なりますね。
じゃあいざ突然、今日はやってくれるんだみたいな時があったらどう思うんだろう。
当たり前でしょ。
当たり前でしょうか。
そうですね。基本やっぱりそうなりますね。
あんなに、あの工程結構あるから大変だけどやってくれたってことはありがたいとはなんなくて、多分序盤は当たり前でしょうか。
どっちも優しくできた方が幸福度高そうだよね。
そうですね。
人に対しては助けてあげて、人からはそんなに期待しない。やってくれたら本当にありがたいみたいな基準になってたらさ。
どうやってこんな分離するんですか。
自分と相手で適応してるルール違うもんね、それ。
そうですよね。
同じルールを適応したらそうならないもんね。
自分が逆にものすごく崇高な存在だと思えばいいんですかね。
自分というのはミッションとしてやって当たり前の存在であると。
なぜならそれだけの高き志で生きてるから。
でもおそらく他の周りがそうかというとそうではないから、他のみんなはそういう基準が当たり前なんだろうな。
崇高な人が幸せになるかっていうとちょっとまたどうなんだろうな。
崇高じゃない側の人なのに、これが当たり前だと思ってない基準の民たちなのにやってくれてありがとうみたいな。
それ幸せにならなさそうだな。
もう1個あんのは人助けを、情けを人をためらうみたいな言葉じゃん。
はい。
もう相手のためじゃなくて自分のためにやってますみたいな。
人だとしたらこれは自分がやりたくて助けてるだけだから、周りからの期待は低い可能性があるんだよ。
自分がただやりたくてやってるだけ。
世の中の人はやりたいと思ってないけど、私これやるの好きなんだよね。
困ってる人いたら助けるとか、そうするとだいたいなんかいい気分になること多いしみたいな。
自分のためだけにただひたすらやってるだったら意外とその人は割といけるかもね。
あ、それですね。
あ、それかな。
それしかないっていうか。
それは、だからあ、席譲ろうみたいなのも、こういう時は譲るもんでしょっていうことじゃなくて、あ、なんか譲ってあげたいなみたいな。
譲ってあげたら気持ちいいから譲ろうみたいな。譲ったみたいな感じ。
それをすごいミクロな行いでも適応しないといけないですね。
鉛筆を拾うぐらいの一般的に良き行いというラインでもないぐらいのことも譲った気持ちいいみたいな。
ひたすらある種宗教観として得を積むぞみたいに思ってたとしたら、得を積めるチャンスだみたいな。
得チャンス。
あ、鉛筆落ちてる、これは拾うチャンスだみたいな感じで自発的に譲ってあげてるとか。
それぐらいミクロなやつも得チャンスだと思うっていう。
そのマインドセットで生きてる人たちなのかもね。
もしかしたらすごいなっていう、この人はめちゃめちゃ人助けもするし、人からの見返りも求めないなみたいな人は。
確かに今読んでる本で、私は何かをする時に、これは自分のためなんだって変換しないといけないんですよ。
というのも、そんな人のためみたいなキャラじゃないぞって思ってるんですよ。
ちょっと恥ずかしいみたいな。
言ってしまえばそうかもしれないんですけど、そんなフェアリーじゃなくて、どちらかというと自分のためっていう。
たまにあるじゃん、自分は立候補的なやつだ、私はみたいな雰囲気あるよね。
そういうコーティングを絶対するんですよ。
何なんだろうな。
それは分からないです。
なんかちょっと世間的に良さそうな行いでも、でもこれは多分おそらく自分にとってこういう都合がいいから、これ自分でやっちゃってるなみたいな変換を絶対するんですよ。
傷つかないためのマインドセットのかもしれないけどね。
誰かに一挙しないみたいな感じですかね。
結局、自分のためって思っておけばあまり相手の挙動に左右されないじゃん。
これはあの人のためとか世の中でいいとされてるからって言った時にはやっぱりね、がっかりしちゃうこと多いからね。
全部立候補的な意図があることに変換して生きてきたんですけど、それなりにすごい良い行いって立候補的に変換も難しいなって思うことがあるじゃないですか。
無償で何かやってあげるとか、流石に立候補に変換しづらいぐらい良い行いの時どうすればいいんだろうって思ってたんですけど、
今読んでる本によると、立派的な行動は全部理工的なんだと。
それをやってる時点で心の中では良い影響が湧いてるっていう。
心としては良い影響が受け取れてるから、自分が良いことをしただけで。