室見川の桜と風景
福岡市沢楽府の室見川のほとり。今、桜の並木の中をずっと歩いてきたんですけど、見てください。ずらーっと桜の木が並んでますよ。
これ、室見川緑地というんだそうですね。
僕は、ここちょっと橋があるんですけど、橋本橋っていうんですけど、この橋本橋のちょうど横に室積み団地というのがあって、この団地の中に住んでたんですね。
なので、いつも子供が生まれてからはここに連れてきて、ここでずっと一緒に遊んでましたね。この階段とかをね、階段登り降りしたりしながら遊んでました。
この竹博の裏に昔ね、それこそ橋本橋だったっけ?そういう名前の焼き鳥屋さんがあったんですけど、今はもうなくなっちゃいましたね。
日ごとにね、雲ひとつない。秋晴れのような春の一日です。本当に雲ないんだもん。
高差がひどいときには全然山なんかも見えないような感じなんですけどね。今のところまだそんな感じでもなくて。
このね、川の透き通った水、癒されますよね。これが飯森山といって、カノオ岳とかね、ずっと山がこう連なってますけど、その切れ目が海なんですよね。博多湾なんですけど。
そこで昔はね、30数年、40年くらい前くらいまでは、山を境に向こうが糸島郡かなんかで、こちらが福岡だったんですけど。
今は山を越えた向こうも福岡市になってるんですけどね。
いわゆるそこが糸島というところで、レンドラのおむすびの舞台になったところですね。
おむすびをやってるときに、「ここはあそこだ!」みたいな。
ここの場所、あそこなんだとかね。
逆に走ってるよね、とか言う。
福岡から、というか糸島から天神に向かっているはずなのに、なんかこのロケーションだったら天神から糸島の方に帰っていくような走り方してるよね、とかそういうのがね、非常にちょっとツッコミどころがいろいろあったんですけど。
いつもよく知っているところの風景が出てたっていうのはね、嬉しくて。
とうとう最後まで一話も逃さずに見ました。
はい、ということで、ちょっとまた歩いて戻っていくんですけど、これ今北の方に向かって歩いています。
向こうの方が、ちょっとビルとか見えるんですけど、もう向こうが海ですね、博多湾になってて。
今も実を言うとね、ちょっとね、あのビルに隠れているんですけど、のこの島とかも見えるんですよ、ここから。
そういうようなのこの島があったり、金印で有名な鹿の島があったりとかするんですよね、そういうところです。
これ広いんですけどね、広い沢原平野っていう広い平野なんですよ。
この広い平野っていうのが、この室見川が向こうの方に見える高い山、背振山って言うんですけど、
そこから土砂を運んできて、ずっとですね、土砂を貯めていってできた中石平野ですね。
非常に大事な、そういう意味では福岡を作り出した大事な川っていう、そういうような位置づけですよね。
教師としての思索
博見川と言います。こうやって走ったりウォーキングしたりしてる人多いですよ。
僕は本当30年ぐらい前はちょうどこの近く、ここに塔が見えるんですけど、すぐ近くの塔に住んでて、
朝早く起きて、ここに来て走ったりしてましたね。
それとかね、僕らっていうのは教師をやってたので、授業のいわゆる企画案みたいなのを作るんですよね。
どういう考えのもとにこの勉強をやるんだと、指導要領にはこう書いてあって、
この勉強の題材は、指導要領のここの目当てを達成するためにものすごく価値があるんだよと。
だからやるんだよと。やり方はこうだよっていう計画ですね。
時間の何時間目にこれやって、何時間目にこれやってっていう。
そしてその全体計画の中で、今日はその中の一部分でこの目当てを達成するためにこの授業をやるんだよという。
全体から始まって一番小さい、今日のこの時間というところまでずっと書き起こしていくような。
それは大変な作業なんですけど、それを書くために必ずやっぱり頭を絞るんですよね。
一体このやろうとしている教材って何に価値があるんだろうかとかね、そういうことを考え抜くわけですよ。
そういうときにね、僕はもう家で座ってやるっていうのが本当に苦手で、
なんかちょっと詰まったらね、もうすぐあそこの階段から降りて、ずっとここの道を歩いて。
遠くに実を言うとね、橋が見えるんですけど、あの橋まで行って戻ってくるまでの間にもアイデアができてるというような、
そういうような書き方をしてましたね。
もう歩き出したらアイデアが出るというのは、もう当時まだ30になったかならないかぐらいだったんですけど、
もうほぼ自信があったんですよ、僕。
もうアイデア詰まった、じゃあ歩きに行こうって。
歩いてる間にアイデアが出るという。
なので、後年ですね、もうここから引っ越して別のところに行ったんですけど、
近くに大きな池があって、一周700メートルぐらいかかる、
一周700メートルぐらいあるような池があったんですけど、
もう当時35,6,40ぐらいかな、
その頃は論文とかをしっかり書いて、これまでやってきたこととかを総括するような時期に入ってたんですけど、
論文とかいくつも書いたんですけど、
そういう時必ず僕はそこの池に行って、歩きながら書きましたね。
歩きながらどうやって書けるのかって言うんだけど、
当時、いわゆる携帯が出てきた頃で、
はじめは外でどうやってメモを取ろうかということをずっといつも考え続けていたわけですけど、
携帯でメモを取って、自分にメールを送ればいいじゃんかということに考え続けたわけですよね、2000年頃かな。
そうだと、それが一番いいわということで、帰ったらテキストが自分にあてにきているわけだということで、
それでもう外でどんどんメールを打って、自分があてに、何か考え続けたら。
で、何週も何週もするんですよ、その池の周り。6週ぐらいするんですよね。
4キロか5キロかなりますよね。
それぐらい歩いている最中に、ほぼ論文の骨格ができてしまったとかね。
そういうような筆筆の仕方を僕はしていましたね。
デジタル時代の執筆
なのでね、僕は携帯を見ないで打てたんですよ。
携帯っていわゆる昔の柄系ですよ。
柄系ってハードウェアとしてのキーボードが付いてますよね。
あいうえおとかね。
あれ、ちょうど5のところにポチッと時があるんですよね。
つまりそこがホームボタンなんですよ。
で、あそこにね、ポチッとあるので、まずそこに親指持っていくでしょ。
あはその左上。うは右上。
うじゃないの?あれなんだっけ。あかさか。作業か。作業は右上とかね。
そんな感じでもうわかるので、
ポケットの中に入れたまま打ってましたよ。確実に打てるんですよ、それで。
で、今日だったらキーだから、家業の2番目なのでね。
ホームポジションからパッと上に指をずらして2回パパッと打てばもうキーですよね。
そんな感じで、本当に見ないでブラインドタッチで携帯で見れるっていうゲートを持ってましたね。
みんなびっくりしてましたけど、だって携帯で論文書いてたわけですからね。
それぐらい当然でしょうみたいな感じでした。
で、iPhoneが出て大喜びでiPhone買って、一番困ったのはそれですね。
特記がないんでブラインドタッチができないっていう、それが一番困ったんですけど。
でも最高に良かったのは、当時シンプルノートっていうのが出て、
メモしたことがそのまま、何もその後メールとかで送らなくても、
メモしたいすればそのまま家のシンプルノートでもメモがそのままある。
これはもう最高に嬉しかったんです。
今はもう当然ですけどね、Googleドキュメントとかも同じだし、書けばそのまま同じものが開ける。
当時はわざわざ家の中でPCでシンプルノート開いてて、
そしてそれ見ながらiPhoneのシンプルノート売って、
ほんの数秒くらいで同じ文字がどんどんどんどんPCに埋もれて、
PCにどんどんその文字が並んでいくっていうのを見てね、感動しました。
それでね、やっぱりブログなんかそんな感じでガンガン書いていったという状況です。
その後Siriで、僕は今言葉でどんどん入れて、
僕は言葉で、声をSiriに喋ることによってテキスト化しているので、
もうそれで今もほとんど外で喋って、本とかも喋って書いてるんですけどね。
そういうようなデジタルによるメモとか知的生産の発端となったのが、
ここの室見川のこの道だという、そういうような話でした。
桜ももうあと2、3日というとこですね。