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2024-03-09 10:47

鳥山明氏は、私に漫画家の道を諦めさせてくれた恩人


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おはようございます。3月9日の土曜日の朝ですね。福岡市はものすごい天気です。昨日もそうでしたけどね。
昨日の夜、もう世界中をですね、鳥山明氏の不法が飛び交ったという、そういうことでしたね。
昨日の夜はノーションのセミナーの2回目をやってたんですけど、
それが終わった後ですね、ちょっと遅い食事を取りに降りて行きましたら、テレビのニュース、そこに出てて初めて知ってびっくりしたんですね。
鳥山明氏が亡くなってて、まさか68歳で亡くなるとは思いもしなかったですね。
世界の人々の反応が放送されてましたけど、日本の人だけじゃないんだなということを改めて思いました。
世界中の人に認知されて愛されてきた鳥山明さんの漫画だったんだなということを改めて思うと同時に、
日本の漫画ですね、ああいうものが生み出すものの力って本当にすごいなと思いましたね。
やっぱり今から20年くらい前ですかね、阿蘇さんが総理の頃、アニメの施設を作るって言って失笑を受かったことがありましたけども、
あの頃ってきっと時代が早かったんでしょうね。
実はあの頃、今でもずっと見られている有名なアニメがたくさん出たような時期で、
まだ日本人自身が自分の国が持っているアニメの力って十分に気づいてなかったのかもしれないなと思いました。
阿蘇さんがああいうことを思い切って打ち出したというのも、あながち悪いものではなかったなと、
あの時そういうのを作っておけばもっとすごかったんじゃないかなという気もしますね。
日本のコンテンツビジネスって本当に素晴らしいと思いますね、キャラクターの作り出す力ですね。
いやもう考えてみるとね、アメリカって言ったらディズニーのコンテンツ、キャラクターですね、IPですね、
そういうものって強力だけど、それ以外に、ディズニー以外に、シンプソンズとかもありますけどね、
そんなのない気がするんですよ。
でも日本って言ったらね、マリオもそうだし、ドラクエのキャラもそうだし、
ドラえもんももちろんそうだしね、様々なキャラクターがいますよね。
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それをね、本当に大事にしないといけないなというふうなことを思ったんですが、
その旧戦法となられた方ですよね、鳥山明らし。
1990年代の最初頃にドラゴンボールが世界へ向けて発信され始めたっていう、
この辺りから日本のアニメの素晴らしさっていうのがどんどん出始めたっていう話なんですけども、
鳥山明らしの作り出された非常に魅力のある物語が、
日本のアニメとかね、漫画の文化を世界中に知らしめる一番先頭に立って頑張ってくれたんだなということを
改めて昨日は思ったところです。
そういうのをね、本当に自分たち日本人、僕ら自身がやっぱり大事にしていかないといけないですよね、受け継いでね。
それはすごく思いましたね。
あとは鳥山明さんといえば、昨日ポストしたんですけど、
僕にね、漫画家になるという無謀な夢を打ち砕いてくれた恩人でもあります。
僕は小学校の教師だったんですけど、全然小学校の教師になろうというような気持ちも何もなくて、
僕の弟は早くから先生になるって決めて、中学校、高校、大学とひたすらそこの道をめがけて進んできたんですけども、
僕は大学に入るまで、教員養成の大学に入ったんですけど、
教員養成の大学に入ってさえも教師になるつもりが全然なくて、
もうずっと漫画家になろうと思ってましたので、そしてずっと原稿とかも書いてましたからね。
自分の親戚の中ではね、僕は大学に行った最初の人間なんですよ、当時といえばね。
昭和の中期ぐらいですけど。
だからとにかく大学に行くということだけが自分の中のゴールだったんで、
あとはどこへ行こうととにかく大学に行って、4年間勉強させてもらった中で、
漫画描きまくって漫画家になろう、ごめんなさいという道を考えてたんですよね。
大学終わった時点でもう東京行って漫画家デビューするんだぐらいに思ってて、
原稿もいっぱい書いてですね、封筒とかに入れて持っていけるようにしたりとかしてたんですけど、
今見返してみるととてもこんなんじゃダメだって思うような絵だったんですが、
当時の自分は上手いと思ってね、描いてましたよ。
で、その時にね、大友克洋さんですね、アキラ方ですよね。
あの人の絵には負けると思ってました。
あの人はすごいと思ってましたからね。
でも、あの人以外の漫画家には勝てるとかね、バカなことを当時思ってましたよ、僕。
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そんな僕がですね、鳥山明さんのジャンプの初連載、あられちゃんの第一回を見て、
見た瞬間、僕はもう辞めました。漫画家になろうという夢を。
こんな人と立ち打ちできるわけがないって思ったんですよ。
もう緻密な線、もう上手さだけじゃないんですよ。もちろん上手いんですけど、上手さだけじゃなくて、
線の美しさとイラストとしての構成ですね。漫画というよりもイラストを見せられているような感じだった。
もうお話のこの世界を表すイラスト、もう一つ一つの描き方、レイアウトって言いますかね、画面の切り取り方っていうか、
そういうのがね、一枚一枚がね、もう完成されたイラストのように見えて、
僕はこんな人がデビューするんじゃ、そういうところで僕がやっていけるはずがないと、一発でノックアウト食らいました。
で、もうダメだと、僕はもうこれ以上できんと思ってね、もう花柱を叩き折られてですね、
で、もう野に放たれてしまったんですけどね、どうしたらいいんだろうと思って、
教員養成の大学に行ってるのに、今後どうしたらいいんだろうと思ったっていうデタラメな話なんですけど、
まあそのまま教員になるなんて思いもしてなかったんですけど、そのままダラダラと大学に行って、
3年生で教育実習があるんですよね、1ヶ月間。
もう教員になろうなんて思いもしてないのに、1ヶ月間も教師の実習みたいなことをせないかどうかもやだやだと思いながら行ったんですよ。
その1ヶ月間で覚醒したんですけど、これはやりがいはあるぞと思ったんですよね。
これは、これはいい。授業をするっていうことなんてクリエイティブなんだって思って、
そこから僕はですね、目が開かれましてね、3年生の後半から4年生、この4年の中のたった1年と何ヶ月ですけど、
教員になるつもりで勉強しました。
だってもうその半年後には採用試験がありますからね。
だからその採用試験に間に合ったという、感覚がね、なろうとする感覚が何とか間に合ったという、
そういう状況でおかげさまで教師にならせていただいて、無事退職するまで勤め上げることができたんですけど、
そういう普通の人生を送らせてくれる道を選ばせてくれたのが鳥山明氏だったんです、僕にとってはね。
大恩人ですよ、彼はね。
そういう彼がですね、もう亡くなったかと。たった68歳。
僕のですね、4つ上ですね。僕の4つ上。
まだそんなに若いのにね、亡くなってしまったかと思うと、残念でならないですね。
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鳥山明さんのすごいところは、世代というかですね、世代を越えて各世代に思い出があるということかなというふうに思います。
僕らなんかもあられちゃんの一番最初から見てる世代。
それからドラゴンボールの世代があって、ドラクエのキャラクターで知ったという世代もあって、
そういうように何十年にも渡って、いろんなところのいろんな世代でやっぱり最先端で活躍をされていたという、そういうような方なので、
このショックというかね、残念さというのは、世代を越えてきっと昨日は共有されたことだろうというふうに思っています。
さて昨日からですね、作業用BGMというのを配信をしています。
昨日配信してですね、いいねもいただいたんで、今日また配信をしました。
どちらも僕が作っている曲です。
この曲はですね、今、次の作業用BGMライブを行うためのコンテンツを今作っているんですけど、
それらのコンテンツの中になるものなんですね。
なので一足先に公開をして、スタイブの皆様に聞いていただいているわけですけど、
これらのコンテンツを集めてですね、10分ぐらいのループ曲を作って、
それをずっと繰り返し流しながら、今回は5時間ぐらいのライブを挑戦してみようかなというふうに思っているところですので、
またライブの時にはお知らせしたいというふうに思います。
それでは良い1日を。
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