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2023-05-26 40:19

キズキノ学校波乗りライブ,1991年のLyustyle

テツサノさんの放送で「こんな時代もあったね、と」でコメントしきれなかったことについて,ライブ収録という形でお話しさせていただきました。
楽しかったと言っていただき,嬉しかったです。
#毎日配信 #毎日配信継続中 #1991年
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stand.fmでは、この放送にいいね・コメント・レター送信ができます。
https://stand.fm/channels/620fb62eeb302d8b48dca4b6
00:00
はい、時間になりました。緊急ライブを行います。ちょっとツイッターの方に送りたいと思います。
スタートしたよ。はい、ということでね、緊急ライブですね。
こんな時代もあったね、という、キズキノ学校で今朝配信されていた、1991年版の放送です。ずっとお聞きしていてですね、当時のことが思い出されてね、
えーと、終わったなとコメントしようがないなと思ったんですよね。コメントしたら大変なことになると思ったので、
ちょっとだけね、コメントさせてもらったんですけど、それだけでも膨大になるようになりました。
500文字ぐらい貼ってたんじゃないかな。それで、徹さんの方にね、申し訳ないんだけど、
あとは自分の方でね、配信をさせてくださいというようにね、お願いをしたんですよ。そうすると心よくね、どうぞ話してくださいって言ってくださったんで、
そんならね、ライブ配信ということで、させてもらおうということで、今ね、ライブ収録をしているところなんですね。
なのでまずね、徹さんへの感謝です。本当にありがとうございます。本当にこの徹さんのね、キズキノ学校の波に乗っからせてもらってのライブなんで、
本来ならね、コメントに残して、そしてそこでね、ちゃんと残さないといけないところなんですけどもね、
それをね、こういう形で、私のチャンネルでね、コンテンツを出すということに関して、非常に申し訳なかったんですが、どうぞと言ってくださったんでね、出させていただいております。
本当にありがとうございます。さて今日のですね、コメントしきれなかったものというところなんですけど、当時のね、1991年のリュースタイルっていうのは、どんなんだったんだということでね、お話をしようというふうに思っているんですね。
当時僕は31歳。教師生活8年目でね、4年生の担任をしていました。最初ね、社会情勢ってリュースタイルっていうことなんですけどね。
まずね、1月にね、湾岸戦争が勃発したんですよね。これね、びっくりしました。
イラクがクエイトにね、侵攻したんですけどね。前の年の8月ぐらいから、怪しいな怪しいなって言ってたんですけど、いよいよね、どうにもならなくなったみたいで。
で、1月になるとね、どうも新月の日が真っ暗な日にね、侵攻するんじゃないかとかいう話、テレビのニュースとかで言ってたんですけど。
で、ある日、お昼の放送かなんかでね、テレビかなんかで、侵攻しましたよ、みたいなのがね、出たんですよね。
03:02
職日かなんかで知らされたんじゃないかと思うんですけど。いやー、ついに始まっちゃったということでね、当時ですね、リアルな戦争というのを初めて感じたんですよ、僕ら。
それまで戦争というのはね、どこか遠くで行われているものという感じしかなかったんですよね。ベトナム戦争とか言ってもね。
でも今回はですね、ビジュアルにどんどん流されてくるんですよ。そのビジュアルに、ああ、今戦争があってんだとかね、ああ、今あそこが破壊されたとかね。
他にも、ゲームの画面のようなコックピットじゃなくて、遠くから操作して、そして弾頭の先につけられたカメラでね、ぐんぐんと目的が近寄ってきて、最後バーンと真っ白けになるところというような画面がリアルに世界中に流されていってね。
もう本当、世界中がビジュアルに戦争というものを見た、本当に初めてのことだったような気がしますね。
僕ね、それまでパソコンでね、PG-98っていうのを毎日F-15、ストライクイーグルっていうフライトシミュレーションのゲームがあったんですけど、毎日飛ばしてね、ミグやっつけたりね、相手の橋を爆撃したりして帰ってくるというようなゲームをしていたんですけど、いや、さすがにもう精神的にできないとなりましたね。
当時はそういう戦争に対しての心の耐性がまだなかったんですよね。子どもたちもすごく不安でしたね。
子どもたちからいろいろ質問とかあるんですけど、学校の先生が答えるということは、子どもの一生の判断に影響を及ぼすということがあるんでね、私の考えというのはなるべく言わないようにしていましたね。
いわゆるファクトですね。すでにこう言っていたということしか言わなかったんですよね。
そしたらね、保護者から感謝のお手紙をもらったことがあります。
いろんな考え方なりがある中で、先生はね、私が何か言うとあなたたちがずっと一生ね、その考えに引きずられることになるよという、そういうことでね、もう書かれていることしか言わないよと先生がお話しされたよということをね、子どもが書いて言ってくれましたと、そのことに対して本当に感謝しますというね、そういうふうなお話をもらったことがありました。
まあ、本当に今とその頃の湾岸戦争というのはね、今回のウクラナの件もすごくショックだったと思いますが、当時のショックもすごかったですね。
はい、それからね、バブル崩壊ですね。バブルの崩壊いつかというのは、諸説あるみたいなんですけど、まあやっぱり1991年の初め頃というのがね、やっぱりイメージがあって。
友達がね、電話があってね、今日の新聞取っておけよと電話してきたのを思い出すんですよね。これは一大事件だと。でもね、全然そういうことを当時は、何?みたいな感じで考えなかったんですよね。
06:10
株をしていたわけでも何でもないし、だからといって急にね、生活がなんか困ったり、社会の状況が変わったわけでも当時なかったし、なんかすごく騒いでいるのは一体何だろうなぐらいにしかね、思ってなかったんですよね。
数年後にね、前の日に何かを察知して、私の嫁が持っていた株を全部売って助かったんだというような話とかコラムで何か読んだことがあるんですけど、そういうことだったんだなと。でも僕たちにあんまり影響なかったなと思っていましたね。
翌年ね、92年に僕、オーストラリア日本人学校に派遣されるんですけど、まあ当時まだ日経器病めちゃくちゃ元気でしたよ。オーストラリアの人たちもね、日本人学校にね、現地の子供たちがね、日本人と一緒に学んで文化身につけようということでね、たくさん入学してくるんですよ。
なんで、現地校というのがあって、1、2組が私たち、そして3組はね、もう完全にオーストラリアの教師がオーストラリアのカリピュラムで教えるという、そういうクラスがあって、そしていろんな行事とか、音楽、体育、図工の3つだけ一緒にミックスでね、レッスンするというようなね、そういうような形になっていたんですけど、まあ元気がありましたね。
でね、将来ね、日本の企業に就職するために有利になるようにということで、ミドルネームにアキヒトと名付けたね、オーストラリア人の話もあったけど、いやー、今それから30何歳にその子がたなられてるんですけど、ミドルネームにその名前がついてる自分のことをどう思ってるんだろうなって、今ね、思いますね。
でね、いやー、ただね、3年いるうちになんかね、僕ら家賃額というのをもらってて、向こうで借りている家賃代はね、当時文部省ですね、そっちの方から出ていたんですよね。で、かなりの額が出てたんですよ。月、なんか40万円ぐらいするようなね、マンションとか住んでる人とかいたんですけど、
いや、それぐらいやっぱりそこにお金をね、現地にお金を払う、現地にお金をね、落とすっていうことが大事なことだったんでしょうね。なので、僕らはね、家賃、ほぼ満額もらってたんですけど、なんかだんだんね、2年目、3年目になるにつれて、なんか家賃額が減ってきたらしくて、私たちお金持ち出しですって言ってるようなね、方とかもいて、なんかじわじわと景気が悪くなってきてるという感じを
し始めたなーっていう頃ですね。94年ぐらいですかね。ただね、帰国するときには、向こうに行くときに300万円ぐらい、生活を始めるための資金として送ったんですけども、それと同じ額を、ドルをね、日本にまた戻したんですよ。
09:09
戻したときにね、250万ぐらいにしかならなくて、なんか50万損したなーとか思ったことがあったんですけど、ああ、そういうようなことなんかなーとかね、なんか思いましたね。帰ってきたのが95年で、オウム・シンリ教のサリンの事件がね、あの、勃発したような時だったんですけど、そこから一挙になんかいろんなことがね、あの、倒産したーとかそういうような話がね、起きていったような時代でしたね。
あと91年6月はね、あの、福元岳がね、あの、噴火したときだったんですよね。あれはショックでした。僕らね、あの、福岡のね、子供たちは、それまではね、中学旅行、長崎に行って、それから雲前、福元岳の周りの近くのね、温泉に泊まる、そして熊本にフェリーで渡って福岡に帰るっていうのが、ほぼどの学校も行ってたコースだったんですが、
この福元岳の噴火によってね、中学旅行のコースが変わっちゃったんですよね。これね、以後30年間、そっちへ行く学校っていうのがね、ほぼなんかいない状況になって、みんなね、どうしたかというと、当時できたハウステンモスですね、そっちに回るようになったんですよ。
1日目、長崎で歴史学習ですね、原爆とかがあったので、平和学習したり、またグラバテとかみたいな歴史の学習ね、そういうのをして、翌日はサセボに行って、1日ハウステンモスで楽しく、環境のことを学ぶという、その環境のことを学ぶという名目での楽しい遊びだったんですけど、そっちの方が楽しいわけですよね。
なんでね、うさかんさん、こんにちは。よく来ていただきましたね。今日も僕、ベラベラ喋ってますのでね、どうか聞いていただければありがたいです。
はい、その修学旅行がハウステンモスになっちゃって、まあそっちの方が楽しいんですよね。先生たちもね、はい、じゃあ行ってらっしゃいって言ってね、あと1日ずーっとほとんど休むっていうわけなんでね、ずーっと私たちも回りながらね、子供たちが楽しんでる様子を写真撮ってやったりとかしながらね、してもそっちの方が絶対楽しいわけですよ。
ところがね、やっぱりあのフゲン岳の方はね、やっぱり一気に来なくなっちゃったんでね、修学旅行が。
それで一生懸命ね、やっぱり30年ぐらい経って、雲前の観光の人たちがね、学校もあって来ていましたね。
やっぱりそこへ行くとね、フゲン岳の当時の防災の様子が学べるっていうことでね、そちらに戻している学校も今出てきているということで、まあ91年、フゲン岳の爆発というね、噴火というのがあったような年でした。
12:01
はい、それでね、文化の話なんですけどね。テレビドラマの話、木月の手伝いのお世話もされてましたよね。101回目のプロポーズとかね、東京ラブストーリーとかね、話してましたけど、僕ね、名前は知ってるけどほぼ見てないんですよね。
で、なんでかって言ったらね、当時、家に帰ってから寝るまでね、翌日の授業の準備とかね、そういうようなことばっかりしてたんで、家に帰ってご飯食べるでしょ。その時だけ家族3人一緒みたいな。そしたら入ってても自分の部屋行っても夜中過ぎまで仕事してるみたいな状態だったんですよ。
ご飯一緒に食べるときに歌番組見るぐらいでね、もうほんとひどい、ひどいっていうかね。そんな感じでしたね。なんでもうトレンディードラマっていうのはね、チラッと見たりして、おーかっこいいと思ってたんですけどね、見たことなかったですね、ずっとね。
でもね、カラオケとか飲み行ったときに行くじゃないですか。そこでみんなが歌うので、そのセイイエスっていうのが、ああ、その101回目のプロポーズの主題歌なや、とか、そういうのをね、後から知ったみたいなね、そういうような状態でしたよ。
カラオケの話なんですけどね、当時ね、当時までカラオケって倉庫タイプだったんですよ。広場にね、いわゆるレンタル倉庫みたいなのがずらーっと並んで、そこに鍵もらって、その中に入って、自分たちでダウンロードして聴くみたいなね。当時ダウンロードしなかったかな。聴くみたいな感じだったんですけど。
この頃からね、ボックスタイプ、今のルームタイプがね、なんか出てきだしてましたよ。で、みんなでよく行きましたね。
懐かしい、うさかんさん懐かしい。うさかんさん、倉庫タイプカラオケ入ったことあります?倉庫タイプに入ったことあるって人は、もうほとんど今いないんじゃないかと思うんですけども。
カラオケって、倉庫タイプができるまでは飲み屋さんのカウンターとか行って、そこのカウンターに100円玉10枚くらい積み上げてね、今度これかけてーみたいな感じでね、そこのスタッフの方にお願いしてかけてもらって、で回ってきたマイクで歌うみたいなのが普通だったんですよ。
それが倉庫タイプができて、みんながね、家族みんなで行けるようになって、そして食事とかもね、提供してもらえるようになって楽しいみたいになって、それで今のルームタイプですね。
それは91年頃にはまだそんな感じだったんですけど、まだダウンロードできる時代じゃなかったんじゃないかな。なんか自動的にレーザーディスクとかが動いてやってたような時代があるんですよね。だからまた新曲入ってないとか言ってたんですけど、今はどんどんダウンロードしてるんでね。
15:02
えっと作家さん、行ったことあるかしら? 覚えてないです。ですよね。今40過ぎたくらいの人はね、当時もあったんで、もしかしたら行ってることがあるかもしれませんね。当時ね、負けないこと投げ出さないこととかね、逃げ出さないこと。大島ブラザーズとかね、それとか。
愛は勝つですね。カンですね。それも愛は勝つとか前の年だったんですけど、リリースはね。この91年頃もみんなで本当によく歌ってましたけど、なんとね、この愛は勝つ、私の高校の時の友達の弟さんなんですよ、カンさんって。びっくりしましたけどね。カンってお前の弟か?みたいなね、そんな感じだったんですけど。
はい。カラオケ部の感じがそんな感じですね。文化って言ったらそんなんでしょうか。あと、鉄山さんのね、中に出てきたサンタフェですね。宮沢李恵さんの当時爆発的に売れた写真集って言われてましたけど、まだ当時Amazonもなし、そういうような情報は本屋で見るしかなかったですよね。
本屋で見ましたよ。うわ、宮沢李恵の写真集だと思ったけどね、さすがにそこで見るとか買う勇気はなかったですね。
当時、宮沢李恵さんって、パソコンのね、当時一強だったNECのPC-98、今日の放送でも言われてましたけど、このPC-98に対抗する形でね、タウンズっていうのが出てきたんですよ、FMタウンズ。
そのFMタウンズのCMに出てきて、とってもオシャレでキュートな娘さんっていうイメージでしたね。
今でも動画があるんで、「宮沢李恵FMタウンズ」って検索すると、とっても可愛らしい主婦さんのね、宮沢李恵さんが出てくるというふうに思いますね。
ということでサンタフェア僕は見もしないし買ってもないですね。
はい、というようなことでしたね。
あと今日の徹佐野さんの放送でね、「ジュリアナ東京」っていうのが出てきました。
当時まだディスコって言ってたんですかね。クラブですか、今。僕よくわかんないですけど。
本当ブームがあってね、ワンレンボー・イコンとかね、言ってたブームがあったんですけど。
福岡にも当時90年代当初にマリアクラブっていうのがあって、よく行ってましたよ。
でもね、短いとかでよく言ったんですが、一度ね、ドレスコードかなんかでね、入れてもらえなかったことがありました。
はい。えーって言ってました。これ入れてもらえないの?みたいな感じで。ダメだっつってから。
入れてもらえなかったことがありました。何だったかもう忘れたんですけどね。
18:05
はい、ということですね。あとですね、今ので当時の社会情勢というスタイルについてね、ちょっとお話ししたんですけどね。
湾岸戦争、バブル崩壊、不言だけの福岡ね、というようなことを言ったんですが。
えっとね、日々の生活というスタイルっていうところに話を進めていきたいんですけどね。
はい、ちょっとね、本当僕ね、当時の僕はね、もうダメな人間でしたよ。
ほんと昭和のね、親父の一番の典型ですね。家のことほとんどしてないですね。もうごめんとしか言わないですね。
ほんとね、あの専業主婦をしてくれてたっていうのもあったんですけど、それにおんぶに抱っこして、家のこと全部お願いねっていう、そんな感じだったんですよね。
共働きだったらまたちょっと違ってたかもしれないんですけどね。
ほんと典型的な昭和の親父。だからさっきも言ったように、家に帰ってご飯を食べるとき3人一緒。
終わったらもう書斎に引っ込むような感じだったんで。まあ子育てね、一緒にやるみたいな感覚が全然なかったんですよね。
ほんとひどい。今考えたらね、もうすまんとしかね、言いようがないんですけどね。
まあその結果がやっぱり今ですからね。まあ今はもう快振してね、こっそりお空洗いとかもやってますけどね。
今さら何よみたいな感じで思われてますよね。
当時ですね、僕ね、朝活をやってましたね。
朝5時に起きて、7時の出勤まで2時間ね、レポートを書いたりとかね、研究書を読んだりとか、その日の準備とかしたりとかね、してたんですよ。
それやるまではね、朝の4時とか5時まで本を詰めて、いつやってたんですよね。
宿題であるレポートとかがもうどうしてもできなくて、もう頭悩ませてもできない。
でも明日には出さないといけないということでね、ほんとにやってたんですけどね。
朝活やるようになって、朝ってめちゃくちゃ頭が冴えるじゃんと、アイディアも出るじゃんと、いうことをやるようになって、
12時ぐらいにはもう寝ようということで、寝れるようになったんですよね。
朝の5時になったらアイディアが出るよ、という自信がついてね。
やっぱり本当にそうでしたね。
もう12時になってまだできるわ、でもここのところは明日の朝5時にはできる。きっとアイディアが出てるわ、つって寝るんですよ。
本当にサササッとそこから先進むみたいなことがね、やっぱり本当なんだなぁとかね、思ってやってたのが当時でしたね。
だから朝活という言葉はないけど、早かったですね。
はい、パソコン通信、ご存知ですかね。
もうね、インターネット前のパソコン通信の時代ですね。
今のようにネットのウェブがあるわけじゃなくて、大きなサーバーに僕らがたくさんつないで、そこから情報を取るというね。
21:08
そこにみんなで情報を集めて、みんなそこに行って情報を取ってくるという、そういうようなのがパソコン通信だったんですけど、
僕1990年に始めてたんですよね。PC版という大きなのに入って、
毎朝自動パイロットでね、勝手にプログラム組んだら自動的に必要なところに回ってくれて、
だって電話代掛かりますから当時。電話でつないでたんですから。
なるべく短く行ってサッと書いておかなきゃいけないんで、
必要なところにパーッと行って、情報だけパーッと取って、
で電話が切れて、その後じっくり読むみたいなね、そういうことをやってましたね。
そこでですよ、MIDIにハマったんですよね。
今、鉄砂の校長が音楽されてますけど、
あの音楽ですね、要するにパソコンで音楽を作るという、そういう企画ですよ。
当時それにハマったのがね、鉄砂の放送にあったラブストーリーは突然、
これをダウンロードしてそれを聞くためのソフトっていうのがね、
当時フリーのソフトがあったので、それをパソコン通信で落として聞いたらピコピコなんですよ。
でも感動したんですよ。そういう音楽がいっぱい誰かが作ってアップロードしてて、
うわ、これら誰かが作ったのかと思ってね、すごい僕もやりたいっていう感じですよね。
まあとてもじゃないけど、今のような本物か作ったかわからんようなすごいものではないですよ。
ピコピコなんですよ。でもそれを素人ができるということにね、感動してね。
さらにミリ端子付きのキーボードって買ったら、リアルタイムで楽譜にね、
弾いたらそのままPC上の楽譜に音符が流れていくっていうことを知ってね、
もうそんな世界があるのかと思って、それで8月頃ね、
ミリ端子付きのキーボードを買って、お願いして買ってもらってね。
ソフトも手に入れて、ミリ端子とケーブルで繋いで、
初めてキーボードを押した瞬間、画面にポンと楽譜が現れたときはね、ものすごく感動しましたよ。
それでね、僕もそこからいわゆるDTM音楽を始めて、今も時々ね、音楽アップロードしてるんですけどね。
そういうような、そこからの始まりですね。
30年間くらいやってるというような感じですね。何もなってないけど。
僕ね、1990年、その翌年からオーストラリアに行くんですけどね。
日本人学校に行くんですけど、そこで毎週パソコン通信で日本にレポートを送って、
それがね、A4で最終的に250ページ超えの本になったんですね。
僕、本にしたんですよ。いわゆる自費出版という形で、当時まだKindleとかないからね。
自費出版したんですよ。25万円くらいかけてね、200冊印刷しましたね。
24:03
その本っていうのは、20年くらい経って初のKindle本としてね、復活するんですけども、
その走りっていうのはね、パソコン通信をね、やってたからだというような話ですね。
はい、というような形です。日々の生活というスタイル。
あと当時のね、仕事のスタイルということについて、さっさと話して終わろうかなと思うんですけどね。
使ってた機材は、木月の学校の放送に出てきたPC-98ですね。
VX2というやつで、1メガのフロッピーディスク。
1メガのフロッピーディスク。当時すごかったんですよ。1メガもあるっていう。
そのフロッピーディスクが2機搭載されてた。
メインメモリはね、128キロバイトぐらいじゃなかったから、キロバイトですよ。メガでもないんですよ。
キロバイトです。そういうパソコンで、上坂さん、フロッピーディスク。本当ですよ、フロッピーディスク。
あのね、まだペラペラの5インチっていうね、ペラペラのね、ちょっと大きいタイプのペラペラしたやつ。
3.5インチのプラスチックケースに入ったやつじゃなくて、もっと大きいやつですね。
こんな紙みたいなものにプログラムが入ってるのか?みたいな感じなんですけど、そういう薄い円盤。
それがエンベロープに入ってるんですけど、そのままカシャンって入れるんですね。
時々コーヒーがかかったとかお騒ぎするんですけど、それそのまま影干しして乾いたら使えるみたいな。
そういうようなやつで、まだメインメモリがね、1メガないという。
そういう状態で、西太郎のバージョン3からバージョン4になったんですね。
そのバージョン4にするとちょっとすごく機能がアップしてて。
これはさすがにね、1メガメインメモリを増やさないとちょっと使いづらいよーって言ってたんですけど、
なかなかその1メガ買うっていうのがね、1メガ買って増設するっていうのがめちゃくちゃまだ難しい頃。
というか高くてね、買えなかったんですね。
で、91年の終わり頃に初めてハードディスク買うんですけど、
ハードディスク当時1メガ1万って言われてた時代なので、
40メガで、それ1メガ1万なので、それ40メガみんながよく持ってたんですけど、
それって本来なら40万ぐらいするんですけど、それがね、やっと10万ぐらいになったぞーって言ってた頃なんですよ。
10万で40メガ、うらやましいけど10万も払い切らんなーって思ってたら、
その1991年に80メガで10万切ったんですよね。
すげー、80メガだーって10万しない?って言って、
嫁さんにお願いしてお願い、ハードディスク買ってーって言って買ってもらったんですね。
27:00
で、初めてハードディスクの世界を知ったということなんですけど、
ハードディスク話してたらキリがないのでね、ここ進んでいくんですけどね。
当時8ミリビデオっていうのがあってたんですよ。8ミリビデオ、カメラ一体型のビデオで、
8ミリテープっていうのが当時あってて、それが一番綺麗だったんですね。
カセットテープと同じ大きさだった。それを常に持ってて、
映画とか図工の時間にはね、
アフラナの葉の様子をビデオで撮って、それをそのまま子供に見せたりね。
図工では絵の具の使い方を、僕が絵を描いているところを撮って、
それをこんな風にするんだよーって子供に見せたりとかね。
そういうような使い方を使って、ほんと8ミリビデオをフル活用してましたね。
あと社会科で、柳川という地域があるんですけど、そこの川下りとか、そこまで行ってですね。
その様子を撮ってきて、取材してきて子供に見せるみたいなね。
そういうことをやってましたし。
子供たちの生活、給食食べる様子とかお昼休みとか撮って、保護者会で見せるというようなことをやってますけど、
まだ誰もやってなかったですね、そういうことはね。
そういう新しい機材の使い方っていうのを探すのがめちゃくちゃ面白かったですね。
はい、というような状況でね。
モバイル、当時からモバイルやってたんですよ、僕。
ソニーのワープロ専用機っていうのを初めて90年に買ったんですけども、
それストラップがついてるんですよ。
今ないでしょ、ストラップがついたワープロとか。
ストラップついてて持ち歩けるワープロだよっていうのがね、全面に押し出されてたんですよね。
かっこいいんですよ。
で、またその印刷機の部分が取り外せる。
だから印刷機は持ち歩かなくていいんですよ。
ワープロ部分だけをストラップで持ち歩いてですね、さっそく歩いていくわけですね。
めちゃくちゃかっこいい。
で、そのまま喫茶店とかに入ってパッと開いて打つという。
見たんですよ、僕がある時、90年のある時ね。
喫茶店で友達と話してたら、後ろにね、なんかかっこいいおじさんがね、
そのストラップ付きのワープロ持ってきて、
そしてカチャンって置いて、机の上で打ち始めたんですよね。
うわ、かっこいいと思って、うわ、あれやりたいと思ったんですよ、僕も。
外でワープロ打ってるこの人って。
当時はね、大きいワープロも出てたんだけど、
あんなもん持ち歩けないじゃないですか。おまけにストラップもないし。
ストラップ付きでね、持ち歩けるとかね。
それで僕もね、買ってもらったんですね。
はい、買ってーっつってね。
なんでね、僕それをとにかく持ち歩いて、
自宅のPCとモバイルのプロデュースっていうね、二大体制で。
よく言われました、当時の京藤先生ね。
あなたは、りゅうさんは、右肩に8ミリビデオ、左肩にワープロ。
30:04
めちゃくちゃかっこいいなーって言われたことがあるんですよ。
殺送とそういうふうに歩いてる人間って、当時いなかったですよね。
でも外でどんどん売って、帰宅してからパソコン98に移してという。
まあそれ、当時のモバイルのスタイルですね。通信とかまだないんでね。
2つのものを同期するということの魅力ですよね。
本当にそれはずっとこだわっていきましたね。
僕はその何か新しい機材、また何か始めたとか言ってますけど、
新しいものをどんどん買ってたんですけど、
それってね、もう本当にいかに授業に使えるかという視点からしか考えたことなかった。
カメラとかをね、本当に持ち歩いて撮りまくってましたね。
当時デジカメじゃないんですよ。フリムカメラですよ。
現像代かかりまくるんですよ。
なのに撮りまくって、その中からね、インスタの現像をしたものをその中から選んで、
資料に貼ったりとかね、教室に貼ったりとかね、してみたんですね。
金に射止めはつけんぞ、みたいな感じで。
破滅への道を歩いていたというわけですけどね。
というような仕事のスタイルでしたね。
うさかんさん、すごい先生ですね。そんなすごい先生いなかったですよ。
僕がおかしいんですよ、本当。
なんかね、家のことほったらかしでね。
もう本当にね、これ使ったら授業面白くなるんじゃないかとか、そんなことばっかり考えてね。
で、外に出張とか行くでしょ。そこでお土産にね。
なんかね、お土産屋さんに入ったらね、けん玉とか売ってるわけですよね。
お土産、けん玉とかどこでも買えるじゃないか、みたいな感じだけど。
このけん玉、クラウスのね、葉っぱがあるから、やっつかって帰って教室に置いとこうって。
で、けん玉やっつかいて教室に置いててね。
もうけん玉めちゃくちゃ上手になるから、ほんと数週間でね、もう50回100回できるようになっていくんですよね。
そんなものを置いたりとかね。家にお土産買わずに、教室にお土産買ったりとかね。
そんなことをしてましたね。
はい、まあみんなそんな感じですよ。
あとこのね、この91年という年はちょっと大きな年でね。
僕、次の年からオーストラリアに行っちゃうんですよね。
日本人学校っていうのに行きたいということで、書類を提出したのがこの91年なんです。
5月に書類提出しましたね。
で、書類に書いてあるんですよ、こんなのがね。
あなた、日本人学校に行くっていうことやけど、英語できるの?って質問に書いてあるんですよね。
英語とか識断し。
僕は高校で全く英語わからなくなって、大学入るときはマークシートに適当に、わからんから適当にマークしたら、なんとその半分取れたという。
33:03
そのラッキーで僕大学入れてて、もう英語ゴリゴリだから4年間僕第一外国語に英語を取らなかったんですよね。
それからなので何もわからないんですよ、英語って。
で、書類にそう書いてあったからね。
できます?って書いたら嘘だと思ってね。
テツサノさん潜って聞いていただいてありがとうございます。
一番最初に感謝の気持ちを述べておりますので後ほどアーカイブを聞いてください。
今日のこの放送はテツサノさんのお許しあってのことです。
本当にありがとうございます。
でね、英語喋れます?とか言ったら嘘になるなと思ってね。
こう書いたんですよ、その書類ね。
英語全然喋れませんと。
でもね、僕を派遣してくれたら3年間で英語ベラベラになって帰りますって書いてね、出したんですよ。
で受かっちゃったんです。
ゲーと思いましたね。受かっちゃったよ、みたいな。
で、10月に文部省面接に熊本に行きましてね。
で、92年の1月にシドニー派遣が決定するんですが、
当時シドニーってどこですか?みたいな感じでしたね。
シドニーってどこ?みたいな。
で、校長先生から電話がかかって、
あんたシドニー決まったよーって言われて、
そうですかー、でシドニーってどこですか?って。
何言うとね、あんたオーストラリア帯。
オーストラリアっすか。
で、どんなとこですか?
あの白い貝殻みたいな建物があろうが、あそこ帯って。
ああ、あの白い貝殻みたいな。
ああ、あそこですね、みたいなね。
そんな感じですね。
もうこれに。
はい、そういう感じでね、言ったんですけど。
はい、ということでね、英語に関してはね、
3年間でペラペラになりました。
本当に。
僕、十数年間英語から離れてて、
全く英語から離れてて、もう何が何かわからない。
で、受かっちゃったよ、どうしようということで、
中学校2年生の英語の本借りてきて開いたんですけど、
そこに書いてある言葉が読めないんですよね。
何これ、みたいな。
そんなんで本当に英語の国行けるのかとか、
思ってたんですけど、
まあ行ってですね、やっぱこうさっき言ったように、
現地校がある学校で、
学年会っていうのは、
いやでもね、英語で学年会やらないといけないんですよ。
必ず学年に1人、
オーストラリアの学級の他人の先生、オーストラリア人の先生がいるわけなんでね、
必ずそれでね、やらなきゃいけないんで、
まあそんなことやってたら少しは上手になりますよね。
で、そのうち、もう一つの要因はね、
あそこみんな運転めちゃくちゃ下手くそなんですよ。
僕が見ている前で何台事故が起こりましたかね。
右折しようと思ったら直進車とぶつかったりとかね、
もう狭いところを避けようとして擦ったりとか、
36:01
そんなのばっかりなんですよ。
で、彼らって日本人の運転技術の高さにね、下まくわけですよ。
そんなんですか?って言ったら、
いや、日本人ってあんな日本の狭いところで上手に運転してるんだから、
このここじゃめちゃくちゃ上手いんだよって言われてね、
そんなもんですかねって思った。
本当に思いましたらめちゃくちゃ大雑把ですよ。
だからね、自分がね、ぶつけられた時にどうするかということを常に頭に考えたわけですよ。
で、信号で止まるじゃないですか。
即座にね、バックミラー見て近寄ってきてないか近寄ってきてないか。
あの車追突するんじゃないかみたいなことばっかり考えてて、
追突された瞬間にそいつらに何というのかって。
そいつらに何と言うのかって。
でね、もういいから行けみたいな感じで。
なんで行かせるんだよみたいな感じで泣き寝入りしたみたいな話、
いっぱいあったからね、当時まだ。
そういう生活のそういう一番底辺レベルではまだ差別をされているわけですよ。
で、そういう状況で、
そういう状況で、
そういう状況で、
そういう状況で、
そういう状況で、
そういう状況で、
その底辺レベルではまだ差別をされているわけですよ。
なんでいかに喋るかっていうのを、
これを英語でなんて喋るかっていうことを、
3年間ずっと危機的な状況の下で考えてるとね、
先に頭に英語がベラベラ湧いてくるわけですよね。
で、とっさの時にパッと英語が出るようになってましたね。
それでね、やったと。
文科省に約束したことができたと。
で、あんなに英検4級さえ受からなかったのがね、
向こうで英検2級に合格したんですよ。
で、そんなのもあったし。
もうお前の英語は大丈夫だって、向こうのスタッフからも言われたしね。
それで、意気揚々と帰ってきたんですが、
成田に降り立った瞬間に全て剥がれました。
その1週間後にオーストラリア人となんか会うんですけど、
話しようかと思ったけど、
もしどろもどろで何も出てこなかった。
それまでの間に当時外務省に行って、
約束どおり英語ベラベラ喋りました。
これから僕はせっかく派遣していただいたんで、
日本の英語教育とかに、
まだ英語教育とか当時なかったんですけど、
また口からでまかせにね、
英語教育とかに力を入れていく所存でありますとか言って、
帰国報告して、
ちゃんと約束を果たせたしと思って帰ってきて。
1週間後に英語が上がるなんてとんでもない話でしたね。
はい、というようなことはまた次の1992の時の話になっていきますが、
鉄山さん聞いていらっしゃるんでね、
また1992とか1995とかの時には、
またぜひライブで配信させてください。
コメントしだしたら困らないんでね。
今日はですね、本当にライブ配信という形で、
コンテンツを残させていただいて、
39:00
本当に鉄山さんありがとうございました。
ということでね、今日聞いていただいた皆さん、
登っていらっしゃる方も何人もいらっしゃるけれども、
最後まで聞いていただいてありがとうございました。
ということでですね、お昼の緊急ライブ、
波乗り、
つむぎのみほさんありがとうございます。
楽しかったですか?
本当にありがとうございます。聞いていただいてですね。
はい、つむぎのみほさんありがとうございます。
ということでね、終わらせていただきたいと思います。
なお、大満さんの方の宣伝ですけれども、
今晩20時半からですね、大満さんと私とコラボのライブをさせていただきますということで、
これは大満さんの方のチャンネルでございます。
お時間あればどうぞいらしてください。
それでは今日は聞いていただいて、
あっ、つむぎのみほさん、英語が成り立って上がれ落ちるんですね。
上がれ落ちるんですよ。
僕、下りた瞬間ね、エクスキューズミーって言ったと思ったらね、
すいませんって言ってたんですよね。
それからね、英語出てこなくなっちゃった。
はい、またこれのね、英語が離れる話についてはね、またどこかでお話ししたいと思います。
それでは今日はどうもありがとうございました。
夜もお時間あればよろしくお願いします。
40:19

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