映画の概要と背景
こんにちは、おあです。小学生の子供たちはホームエデュケーションを選択しています。今の学校教育に疑問を持っている方や、今の学校には合わないけれど代わりとなる教育がなくて困っている方と一緒に、これからの学びの在り方について考えるチャンネルです。
第156回目の今日は、教育の罪と罰、映画型破りな教室を観て、というテーマでお話ししていきます。先日、型破りな教室というメキシコ映画を観てまいりました。
こちらは、2023年に公開されている映画なんですけど、さまざまな賞を受賞していて、日本では昨年ぐらいから単館映画です。とてもちっちゃなミニシアターで公開され始めているんですけれども、
こちらの映画は、私がもともと小学校、それは小さな社会というドキュメンタリー映画について、かなり批判的な発言をしているところに、でしたら型破りな教室をぜひ観てほしいというようなお話をいただきまして、私ずっと観たいと思ってたんですけど、なかなか東京で上映する機会がなくて、今回、
たった2日間だけ公開されているということが分かって、急いで観に行ってまいりました。しかし、皆さんもご存知の通り、私はもう学校ですとか教育ですとかということで、そもそも相当会議的な立場におりますので、この映画が
一人の教師と子どもたちが巻き起こした奇跡に世界中が感動したとかってキャッチコピーなわけで、また感動ポエム系みたいな熱血教師が子どもたちを導く系みたいな、ちょっと警戒していたわけですよね。
何よりですね、これね、学力最底辺から全国トップへって歌ってるんですよ。これが私は気に食わなかったんですよ。結局そこかいと、結局学力の話かいと、この教育が素晴らしいって言われてるのも結局トップにね、成績が優秀な子が出たからって、そこが評価軸なんかいっていうね、相当疑心暗鬼でですね。
なんですけど、この映画がいいよって教えてくれた方が、小学校、それは小さな社会を批判的な立場の方が教えてくださったっていうところで、そこだけをちょっと頼りにですね。
感動ポエムには騙されないぞと思いながらですね、見に行ってきましたんですが、とても良かったです。結論から言いますとね、やっぱりもうずっとこの2年間、私も学校って何のためにあるんだっけとかね、教育って何なんだっけとか、教師ってどういう存在なんだっけっていうことをもうずっと考え続けてきた中で、一つの答えとしてこの映画が示してくれたなと思うんですね。
ちょっと本題に入る前にちょっとね、言わせてください。これね、題名が型破りな教室ってなってるんですけど、これね、現代はラディカルなんですよ。
ラディカルっていうのは革命的なとか、旧清的なとか、徹底的なとか、根本的なとか、根源的なとか、そういう意味じゃないですか。
それはね、実にこの映画の内容を表現できている、マッチした題名だと思うんですけど、なぜこれをね、日本語訳にした方が型破りな教室って名付けちゃったのかなって。このネーミングがダサいですよ。なんでこうなった。誰がこんな訳した。残念すぎます。もうちょっとセンスなさすぎます。もうちょっとあったやろと。タイトルやっぱめちゃくちゃ重要だと思いますよ。
ちょっとね、一番大事なタイトルがイマイチっていうところがね、ちょっと気に食わないんですけど。はい、じゃあちょっと本題入ってきますね。
こちらの映画は実話に基づいた物語ということで、実際にですね、出てくるその教師のね、セルヒオ・ファレスさんという方は、実在する方で今も教団に立っていらっしゃる方だそうです。
舞台はメキシコで、麻薬の巨大組織が牛耳る治安がもう完全に崩壊している、はい、町のマーターモロスというところなんですね。そこにある小学校で起きたお話なんですね。
以前、第96回で僕たちの哲学教室を見てきた話という放送をしてるんですけど、あの小学校もそうだったんですけれども、ここも大変な社会状況の中に置かれた学校なんですよね。
鉄縄網で囲まれた学校で、銃撃音がしょっちゅう鳴り響いているような場所で。教師の出勤も命がけな地区ということなんですよね。もう通勤中に誘拐されたり殺害される例も多々あるということで。
映画の中でもパソコンが支給されたらしいんですけどね、学校に。それもうあっという間に全部、夜中のうちに全部盗まれてしまったということ。もう学校というよりも社会全体が機能不全状態なわけですよ。
警察も政治も崩壊しちゃっていて、貧困と暴力にまみれた世界になっているわけですよね。多くの子どもたちは小学校以上の教育は受けることができなくて、働く木口もないということで、勉強しても意味がないと。
お兄ちゃんは麻薬博備を手伝って家にテレビを買ってくれたと。だからそこに巨大麻薬組織が現れてですね、お金を配ってくれたり仲間を作ってくれたり武器を与えてくれたり、大人扱いしてくれるわけですね、子どもたちを。だから成功の近道に見えるわけですよ。
教育の重要性
子どもたちがどうやってその巨大麻薬組織に絡め取られていくかって言いますとね、7歳から12歳ぐらいの小学生は見張り役を応接買って、週に1万円ぐらいの稼ぎを得られるそうなんですよ。
次に中学生ぐらいになると運び屋というお仕事を与えられて、そこで銃や麻薬を運ぶわけですね。するとさらにお金がもらえるわけじゃないですか。で、高校生以上になるともう実際の実行犯になっていく。
強盗とか誘拐とか殺人までどんどんやっていて、使い捨てようにされていくと。彼らは殺されるか刑務所に行くか、組織に一生を捧げるかという人生の選択しかないと。
そんな最悪な環境の中にこの富原氏先生はですね、貧困の暴力の連鎖を断ち切る唯一の手段は教育だと。武力では麻薬巨大組織には勝てないと。選択肢を持てるように子どもたちを育てることが唯一の根本的な解決策なんではないかと。
富原氏先生は子どもたちにですね、教育は武器になると。だけどその武器は戦うためではなくて、別の世界を創造するために使うべきだと伝えたんですね。
富原氏先生の言っている教育というのは勉強のことなんかじゃないんですよ。自分で考える力のことなんです。支配と恐怖に抗うには、なぜとか本当なのっていう疑問を持つ力が必要なんだって。
この生き方しかないではなくて、もっと別のやり方があるんじゃないか、もっと別の生き方があるんじゃないか。自分の頭で考えられる力を育てる、引き出すこと、それが教育だと言っている。
だから富原氏先生は教科書も黒板も教室も机も椅子も必要としていませんでした。国が定める学習指導要領みたいなものもね、全無視でですね。なぜという子どもたちの内側から湧き出てくるなぜという問いから出発されているんですよね。
メキシコのようなもう社会全体が無法地帯状態の場所では、学校という囲いはどうしても必要なんだなということがよくわかる映画でした。外の世界があまりにもめちゃくちゃで、そもそも命が危ないという状況なわけですから。
だから学校という囲いの中で子どもたちを安全に保護してですね、子どもたちの心身の安全を確保しなければならないわけですよね。逆に言えば学校でしかもはや子どもたちの命を守ることができない社会状況があるということですよね。
日本もかつてはね、こうだったと思うんですよ。戦後やけの原のあの時代は、学校という場所があったから食事が与えられ、教育が与えられ、生き延びられた人がいたんですよね。たくさん。
あの時代は確かに学校を必要としていた子どもたちがいた。そしてその後の高度経済成長期にもですね、一応ですね、そういう教育で工場で働くというようなことができて生き延びられた人たちがいた。
あの時代には学校教育が果たした役割というのも一定程度あったと認められると思うんですよ。ただですね、1970年代にもなるとですね、型破りな教室で描かれているようなメキシコのような状態ではもう日本はなくなっていたわけですよ。
そしてあの時代、校内暴力や登校拒否が騒がれ始めたわけですね。あれは明らかにもう教育の終わりの始まりを示していた子どもたちからの大きなサインだったわけですよね。
もう1970年代には、とっくのとうに子どもたちは学校という装置に脳を突きつけていたんですよ。にもかかわらず、その時、何をしたかというと、学校は暴力を暴力で制するという愚行を選んでしまったんですよね。
その当時の学校の状況を告発されている、なおさんの暴力学校の告発放送会前後回、ぜひ聴いていただきたいですけれども。
つまり外の世界にはびこる貧困や暴力からという状況から子どもたちを救出してですね、学校という冷たい白いコンクリートの箱の中に囲って押し込めて何かを教えて、これを勉強しないと生きていけないっていうような大義名分のもと。
1時間目は人参を食べます。2時間目はジャガイモを食べます。3時間目は椎茸を食べます。4時間目はサンマを食べます。
あれもこれも全部食べないとまともな大人になれないっていうやり方で、学校は大事だ、教育は大事だって、それをやって許されたのはやっぱりね、せいぜい戦後の混乱期から1970年ぐらいまでのことだと思います。
つまり私が生まれた頃にはもうね、その学校の必然性、必要性、役割、存在意義っていうのはもうなくしていたと言って過言ではないと思うんですよね。
教育の闇と暴力
だけどね、そのやり方で日本が豊かになったと勘違いしたので、成功体験を積んじゃったわけですので、もうやり方を変えることもなく同じことをその後50年、今日まで繰り返してきてしまっているということなわけですよ。
もうとっくに時代は変わっているのに、思考を停止したまま自分が受けてきた教育をそのまままた次の世代に与え続けて、そして今やですね、教育という名の下、正当化された暴力やハラスメントが学校というブラックボックスの中で醸成しまくってですね、
肥大化した恐ろしいモンスターが今や完全にみんなを支配しているわけじゃないですか。みんなね、この学校モンスターの光の部分ばっかり喜んであがめ立つってありがたがってね依存しているわけですよ。
メキシコのようなね、もうめちゃくちゃな社会の闇の世界の中では確かに教育というのは光になり得ると思います。でも日本のね、今の豊かなこの国で光しか見ていない世界ではもはや罪なんですよ。
これだけの子どもたちが今、学校から不登校という形で逃げ出しているわけですよね。そしてこれだけの子どもたちが今、自ら命を絶っているわけですよね。
この肥大化した学校モンスターが行っている、日々行っている教育という皮をかぶった暴力。
あの白くて冷たいコンクリートの箱の中で行われている罪深い人権侵害。
私はね、この片破りな教室という教育の光に当てた側面を見せられたからこそね、ひるがえて今の日本の学校で行われている罪深い教育の公罪ですね。
そこに向き合わなければならないと、直視しなければならないと思ってますね。
私はこの片破りな教室を見て改めてね、やっぱりもう今の日本でこうして白い冷たいコンクリートの箱の中にね、子どもたちを囲う必要性なんてもうないなって。
私のような学校キャンセル会話みたいなマイノリティの人の間でもですね、あとは世間の中でも今の学校教育に批判的な立場を立たれている方でさえもですね、
やっぱりよくよく話すとね、結局みんなね、子どもたちを学校というあの箱の中に押し込めている、子どもたちを囲っているということに対してはね、何の疑問も抱いていらっしゃらない方がほとんどなんですよ。
つまり学校制度自体は全く疑っていないんですね。
なんか教育についてかなり似たような考えを持っている人でもですね、なかなかその学校自体には疑いを持たないんだなっていうところが私としてはなんか残念というかね。
子どもたちを囲うこと自体には何の違和感も持っていない。
私はせめてね、学校の先生にこそね、子どもたちを囲っているんだっていうね、罪悪感みたいなのはね、私は持っていただきたいんですよね。
それは言うなればね、アフリカの大自然にね、のびのび生きている野生動物をですね、保護してね、動物園の檻の中に囲っているっていうことと同じことなんですよ。
いや、絶滅危惧種だから保護しないとダメなんです、生きられないんです。
まあ、分かりますけれども、動物園をするなとは言いません。
でもせめてね、やっぱり本来の大自然の中から連れてきて、この檻の中に保護しているつもりかもしれないけど囲っているということのね、罪は分かっていただきたいんですよね。
私は学校の教室という狭いね、箱の中に子どもたちを押し込めているということに何の後ろめたさも持っていない先生は、私は教師をやる資格はないんじゃないかなとずっと思ってます。
あれ、なんかちょっとかなりまたドロドロした話になってしまいましたけど、もともと私この映画を見て、私が小学生の時、5年生で担任してくださった桑名みどり先生という先生がいまして、今でもずっと私はその先生のことを忘れていないんですよ。心にずっといてくれる先生なんですね。
その先生の話を思い出したので、しようと思ってたんですけど、なんかものすごいドロドロした話で終わってしまいましたね。はい、すみません。またどこかで桑名みどり先生にお話できたらいいなと思ってます。もちろんね、いまもう亡くなって何十年も経つ先生なんですけど。
今のね、私を形作ってくれたとまで言うと大げさですけれども、教師の役割っていうことを考えた時に、真っ先に私は桑名みどり先生をいつも思い浮かべているので、そんな素晴らしい先生がいたということも、どこかでお話できればいいなと思っています。
はい、お聞きくださりありがとうございました。また次回お会いしましょう。いいね、コメント、フォローお待ちしています。