2025-09-09 22:33

【第173回】やばいよ学校シリーズ④「崩壊する日本の公教育」

☘️これまで3回にわたって放送してまいりました「やばいよ学校シリーズ」🔥いよいよ本題に入ってまいります💪

📻【第170回】やばいよ学校シリーズ①「公教育は、もう、崩壊している。」👇 https://stand.fm/episodes/68b92cf94c8a4a8b81cd5293

📻【第171回】やばいよ学校シリーズ②「崩壊するアメリカの公教育〜日本への警告」👇
https://stand.fm/episodes/68ba31f787446300facecef8

📻【第172回】やばいよ学校シリーズ③新自由主義に侵されたアメリカの公教育👇
https://stand.fm/episodes/68be39f37d42b45d0030729e

☘️今回から鈴木大裕著📖「崩壊する日本の公教育」をご紹介してまいります👇
https://www.shueisha.co.jp/books/items/contents.html?isbn=978-4-08-721335-5

☘️自分で話していたらめっちゃ長くなってしまったのと、同じ話をしてしまったりしてなんだか分かりにくくなってしまったので、notebookLMというAIツールに頼ってみることにしました😅

☘️発音がおかしかったり、読み方が間違っていた李はするのですが、ざっくり、どんなことが書いてあるかは伝わるはずです💦

☘️次回はこの内容を基に、改めて私なりにお話してみたいと思っております🙌




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こんにちは、おあです。
はい、今回、いよいよですね、【やばいよ学校シリーズ】第4回目になるんですけれども、
鈴木大優さんの書籍【崩壊する日本の公教育】をご紹介してまいります。
なんですけれどもね、先ほどちょっと自分で話してみたところ、めちゃくちゃ長くなっちゃった上に、
なんかもうね、いろんなことが絡まり合っちゃって、ごちゃごちゃになっちゃって。
ちょっとね、どうしようかなと思って。
そのね、箇条書きにして私がね、私なりにまとめたものをですね、今回初めてですね、
【ノートブックLM】っていうGoogleのAIツールで、ちょっとまとめて見てもらったんですよ。
ちょっとそれを初めて使ってみることにしまして、そちらはね、文章投げ込むと音声にしてくれるわけなんですよね。
今ね、20分ぐらいの音声版にしてくれたんですけれども、ちょっとね、発音が変だったり読み方が間違ってたりはするんですけど、
ざっくりね、この書籍何が書いてあるかは一応伝わるなと思ったので、このままこの後音声をアップしたいと思います。
今回はとりあえず、この杉大雄さんの崩壊する日本の教育、どんなことが書いてあるのかなっていうことを知りたいという方のために、
ちょっと1回このままお流ししまして、次回改めてですね、この内容をもとに私がもう1回自分の言葉でお話ししてみたいなと思っております。
というわけで、これから20分程度のノートブックLMがまとめてくれた音声バージョン、お付き合いいただけたらと思います。それではどうぞ。
学校がまるで効率を追求する工場とか、あるいは顧客満足度を最優先するサービス業みたいになっている。
もしそんなふうに言われたら、あなたはどう感じますか。今日はですね、まさに日本の公教育で静かに、でも確実に進んでいるかもしれない、そういう大きな変化について一緒に深く見ていきたいと思います。
今回あなたが共有してくださった資料、あの特に鈴木大夫さんの著作からの抜粋はですね、現代の教育現場に効率とか競争という考え方が具体的にどういう影響を与えつつあるのか、非常に示唆に富んだ視点を提供してますよね。なんか教育のあり方そのものが問われている、そんな感じを受けますね。
そうですね。今回のテーマは日本の公教育の変容です。提供いただいた資料を道しるべにして、教育がまるで商品みたいに、そして子どもや保護者が顧客、お客さんみたいに扱われる、そういう傾向が強まっているんじゃないかという問い、それから教育内容の標準化とか成果主義、これが現場に何をもたらしているのか、この辺りをじっくりと掘り下げていきましょう。
03:00
そうですね。かつて日本が国際的にも評価されていた点の一つに、国内ならどこでも一定水準以上の質の高い教育を受けられるっていう教育の均一性とか公平性があったはずなんですよね。でもその理念が今、なんかいろいろな要因で由来でいるのかもしれない。その背景にある価値観の変化にも、ちょっと注意深く目を向ける必要がありそうですね。
この探求を通じて私たちが目指すのは、学校、先生、そして何よりも子どもたちを取り巻く根拠が、今どう変わりつつあるのかをより深く理解することです。市場原理とか標準化、説明責任、アカウンタビリティですね。こうした言葉が教育の世界でなんか頻繁に聞かれるようになったんですけど、それが具体的にどんな現実を生んでいるのか、あなた自身の経験とか考えと照らし合わせながら、一緒に考えていけたらと。
もしかしたら、あなたにとって教育って何だろうって、改めて問い直すそんな時間になるかもしれません。さて、早速このちょっと複雑なテーマを紐解いていきましょうか。
まず最初に、読んでいて特に引っかかったのがですね、教育がサービスとみなされて、生徒や保護者がお客様扱いされる傾向があるっていう指摘なんです。
資料によると、かつては地域社会全体でみんなの子どもを育てるんだっていう意識があったのが、次第に、我が子の学力とか将来の可能性っていう付加価値を高める、そのための手段として教育を捉える意識に変わってきてるんじゃないかと。これは具体的にどういうことなんでしょうか。
あ、それは非常に重要なポイントですね。ここであの興味深いのは、よく比較されるアメリカの教育システムとの違いなんですよ。
アメリカだとご存知のように住む地域によって学校の質、教育予算とか設備先生の質なんかが大きく違って、それがそのまま教育格差につながりやすい構造がありますよね。
一方で日本は全国一律の学習指導要領のもとで、公立学校なら基本どこでも同じ教育を受けられるっていう禁止性を制度として目指してきたわけです。
でも近年、過去家庭がより良い教育サービスを求めて学校を選ぶ、いわゆる学校選択制の導入とか、あるいは私立公立問わず、学校側が魅力的なプログラムを打ち出して生徒を集めようとする動きが活発になってきてますよね。
これが進むと、各家庭は消費者として学校を評価して選ぶようになる。皮肉なことに、それは教育の多様化とか活性化につながる面もある一方で、かつての日本の公教育が持ってた、誰もがアクセスできる普遍的な公教材としての性格を薄めてしまう可能性があるわけです。
なるほど。消費者としての視点が強まると、学校とか先生に求めるものもなんか香ってきそうですよね。
まさに、教員が単に知識やスキルを提供するサービス提供者として見なされる傾向が強まると、教育の本質的な部分、例えば子ども一人一人の人格的な成長を支えるとか、社会性を育てるとか、あるいは知的な探求心を刺激するといった数値化しにくいけど、でもすごく重要な側面が後回しにされちゃう危険性があるんです。
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お客様である保護者の要望に応えることが優先されて、時にはちょっと過剰な要求にもお答えなきゃいけないみたいなプレッシャーも現場では増えているみたいですね。
資料にあった我が子に不可価値をっていう意識は、教育を一種の投資みたいに捉える見方とも言えそうですね。そうなると、次に気になるのがその成果をどう図るのっていう点なんですけど。
その通りです。そこから今度は標準化と競争圧力っていう次のテーマにつながっていきますね。
資料で紹介されていたある小学校の事例はかなり衝撃的でした。授業中は1秒たりとも無駄にしない。
私語はもちろん手の挙げ方、ノートの取り方、座っている時の手の位置、うなずき方まで細かくルールが決まっている。
で、頻繁に行われる小テストとか到達度評価で子どもたちの学習状況が常に数値化されて管理されている。
効率っていう面では徹底しているのかもしれないですけど、なんだか息が詰まるような印象を受けました。これって極端な例なんですかね。
ただそこで描かれているような徹底した管理とか規律重視の姿勢っていうのは資料で指摘されているゼロトラランスっていう考え方の影響を色濃く反映していると言えるでしょうね。
ゼロトラランスっていうのは元々アメリカで始まった考え方で、いかなる規則違反を一切許さず厳格な罰則で対処するっていう指導方針です。
これが日本の教育現場にも形を変えながら浸透している側面があるのかもしれません。
それともう一つ大きな影響を与えているのが、2007年に完全復活した全国学力学習状況調査、いわゆる全国学力テストのような標準化されたテストの存在ですね。
ああ、全国学力テストですか。ニュースでもよく結果が報じられてますよね。
はい。このテストの目的は全国的な学力水準を把握して、教育政策とか学校現場での指導改善に役立てることにあるとされてるんです。
でもその結果が公表されて、学校間、さらには自治体間で比較されるようになると、どうしても点数競争が加熱しがちですよね。
その結果、テストで測定しやすい特定の教科の特定の能力、例えば知識の記憶再生とか、決められた解き方で問題を解く力とか、そういうものを伸ばすことに学校教育全体の重点が置かれてしまう。
資料ではこれを、学校がテスト対策に特化した塾みたいになってしまう塾化という言葉で表現していましたね。
塾化ですか。うーん、そうなるとテストで測りにくい能力、例えば自分で問いを立てて探求する力とか、他の人と協力して何かを作り出す力とか、あるいは芸術的な感性みたいなものはどうしても後回しになっちゃいそうですね。
09:15
その懸念は非常に大きいと思います。そして、こういう学位的で効率と規律を重視するシステムの中では、生まれつき落ち着きがなかったり、集団行動が苦手だったり、あるいは既存の枠にとらわれないユニークな発想、いわゆる型にはまらない子は、どうしても問題児扱いされたり、学習についていけずに取り残されたりしやすくなるんですね。
これは教育にとって非常に重要な問いを投げかけています。まるで工場で製品の品質を管理するように、一定の規格に合わない子どもたちを教育システムから排除してしまうような品質管理の論理が働いてしまってはいないでしょうか。
その品質管理って言葉はかなり重く響きますね。こうした現場の厳しさとか標準化への圧力っていうのは、単に学校内部の問題だけではなさそうですね。資料を読むと、もっと大きな経済界とか政治からの影響も指摘されてますけど、そのあたりはどう考えればいいんでしょう。
それほど強く求められるようになった背景にはですね、グローバル化する経済の中で国際競争に勝てる人材を育成したいっていう経済界からの要請とか、そういう要請に応えようとする政治の動きがあると資料では分析されています。
特に第二次安倍政権下で進められた学校における働き方改革なんかも、単に教員の長時間労働を是正するっていう側面だけじゃなくて、教育分野に民間企業のノウハウとかサービスを導入しやすくしたり、教育産業を活性化させたりすることで新しい市場を開拓しようっていう、いわゆる新自由主義的な価値観。
つまり市場原理とか効率性、個人の競争をより重視する考え方が教育政策の根底にあったんじゃないかと。
新自由主義、つまり市場の論理を教育にも持ち込むということですね。
そういう側面があるということです。具体的には、例えば2006年の教育基本法改正で、それまで領域だった道徳が教科を伴う特別な教科に格上げされるとか、国や親の役割、規範意識を強調する方向への変化が見られました。
さらに2014年の教育委員会制度改革では、地方自治体の主張の権限が強化されて、その意向が教育行政に反映されやすくなった。これで政治が教育内容とか運営に対して、以前よりも介入しやすくなった側面は否定できないでしょうね。
先ほど触れた全国学力テストの復活とその結果の一部公表も、こうした流れの中に位置付けられます。結果の公表は自治体間の熾烈な点数競争を引き起こして、例えば大阪府で導入されたメリットペイ制度のように、テストの成績を教員の評価やボーナス、さらには学校への予算配分に直接結びつけるような極めて成果主義的な動きも出てきました。
12:17
弟者 点数が先生のお給料とか学校の予算にまで影響するんですか?それは現場のプレッシャーも相当なものでしょうね。
こういう動きを大局的に見ると、教育が本来持っているはずの多様な目的、例えば個人の自己実現を支えるとか、民主主義社会の担い手を育てるとか、文化を継承創造するとか、そういうものよりも短期的な経済目標とか、特定の政治的価値観を実現するための手段として従属させられてしまう危険性があるわけです。
資料の言葉を借りれば、学校がまるで社会の求める人材を効率的に生産するための工場みたいになってしまうという懸念ですね。
なるほど。サービス業化して、塾化して、そして工場化する。そういう中で、実際に子どもたちと日々向き合っている先生方はどういう状況に置かれているんでしょうか。資料では、先生方がお客様である保護者や生徒の期待に応えなきゃいけない一方で、専門職としての教育理念も追求しなきゃいけないという板挟みの状態にあると指摘されていましたね。
まさにその板挟みっていう表現が、今の先生方の置かれている困難な状況をよく表していると思いますね。
加えて、さっきの標準化の流れとも関係しますが、授業の進め方とか生徒への対応、問題行動への対処法なんかがどんどん細かくマニュアル化される傾向にあるっていう指摘も重要です。
もちろん一定の指針とか基準は必要なんですけど、過度なマニュアル化は先生自身の専門性とか経験に基づく判断、創意工夫を発揮する余地を奪ってしまう可能性があるんですね。
つまり、先生はマニュアル通りに教える実行者になっちゃって、本来持ってるはずの何を、なぜ、どう教えるかを深く考えて計画する構想者としての役割がどんどん小さくなっていくってことでしょうか。
その構想と実行の分離という分析は非常に適応していると思います。教育っていうのは本来すごく複雑で個別性の高い営みなんですよ。
目の前の子どもたちの興味関心とか理解度、発達段階、あるいは家庭環境なんかは一人一人全く違いますから、それらに柔軟に対応しながら学びを深めていくプロセスこそが教育の醍醐味であり、専門性が求められる部分のはずなんです。
でも標準化と効率化の並みは、そういう教育の複雑さ、いわば職人技みたいな部分をあたかも単純作業であるかのように扱ってしまう危険性をはらんでるんですね。
資料にあった法隆寺の宮大工統領だった西岡強石さんの言葉がここで思い出されますね。木の癖を見抜いてそれを生かすのが本当の大工。木の性質を知らん大工はただの木引き、木を切るだけの人に過ぎんと。一人一人の子どもの個性、つまり木の癖を見ずに学位置的な方法、マニュアルで扱おうとするのは教育の本質から外れちゃうっていう継承のように聞こえますね。
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まさにその通りですね。さらにこういう状況を構造的に悪化させているのが、正規教員の採用抑制と非正規教員、臨時的任用教員とか非常勤講師とかですね、そういった方々への依存度が高まっていることです。不安定な雇用形態で十分な研修機会も与えられず責任ある立場を任されることも多い非正規の先生方が増えることは、教育の質の維持っていう点でも大きな課題です。
結果として多くの学校で深刻な教員不足が起きて、残された先生たちの負担がますます増えるっていう悪循環に陥っています。このように教育現場は多重の困難に直面していると言えるでしょうね。
ここまで教育のサービス化、標準化と競争、そして先生方の苦悩といった側面を見てきましたけど、少し視点を変えて学びそのものについて考えてみたいと思うんです。そもそも学力テストで測れる点数だけが本当に学力なんでしょうか。
それは教育を考える上で最も根源的な問いの一つですね。
自分の目で確かめ、自分の頭で考えて納得できるまで諦めないこと。この知的な好奇心とか探求心、批判的な思考力こそが本当の意味での学びにつながるんじゃないかと。
非常に同感です。教育の語源語がラテン語のエデュケア、エデュカーレですね。つまりその人が本来持っている能力や才能を引き出すという意味を持つという話も資料にありましたね。詰め込むんじゃなくて引き出す。この原点に立ち返る必要があるのかもしれません。
でも現代の教育システムはどちらかというと引き出すよりも詰め込む、あるいは型にはめる方向に向かっているように感じられますよね。そしてそれは学びだけじゃなくて遊びとか余白、いった人間が豊かに生きる上で大切な要素を子どもたちの生活から奪ってしまってるんじゃないかとも思えるんです。
ここが実に興味深く、また現代社会全体に関わる問題提起でもあるんですが、アメリカの教育哲学者のジョンリューイは、教育は人生の準備ではなく人生そのものであると言いました。
でも現代の教育は小学校は中学校に入るための準備、中学校は高校受験のための準備、高校は大学受験のための準備、そして大学は就職するための準備というように常に未来への手段として位置づけられがちじゃないですかね。つまり今ここでの学びとか経験そのものの価値が見失われがちになっている。
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まるでミッヒャエル・エンデの小説モモに出てくる、時間を節約することばっかり考えて結局は人間らしい豊かな時間を奪われてしまうハイロイ男たちの話みたいですね。
まさにその比喩は的確かもしれないですね。効率とか成果ばかりを追い求める社会の中で、私たちは時間、つまり生きることそのものの意味とか豊かさをどこかに置き忘れてきてはいないでしょうか。
子どもたちの生活から目的のない遊び、それは単なる気晴らしじゃなくて自由な探求とか創造性の源泉であり、他者との関わりを学ぶ場でもあるわけですが、そういう遊びの時間とか空間が失われていくと、人間らしい感性とか予測不可能な未来を生き抜くための柔軟な発想力も育てられにくくなるんじゃないでしょうか。
今回はですね、提供いただいた鈴木大優さんの著作などを手掛かりに、日本の公教育が直面している変化、特に市場原理の導入、標準化の圧力、成果主義の浸透といった側面について深く掘り下げてきました。教育がサービスみたいに扱われ、学校が競争にさらされ、子どもや先生の役割も静かにでも大きく変わりつつある、そんな現状がいろいろな角度から見えてきたように思います。
鈴木 そしてその変化の根底には、やっぱり効率とか競争、数値化できる成果を角に重視する現代社会の価値観が色濃く反映されているようにも思えますね。
子どもたち一人一人が持つ無限の可能性とか、知ること学ぶことの本来的な喜び、そしてただ生きていること自体の豊かさが、そういう効率とか目標達成の掛け声の因に隠れてしまってはいないか。一度立ち止まって、私たち一人一人が真剣に考える必要がありそうです。
鈴木 こうした教育の変化は、もちろん未来の社会を形作っていく重要な問題ですけど、同時に今の私たちの社会のありよう、そして私たち自身の価値観を映し出す鏡のようにも感じられますね。あなたも日々の忙しさとか、効率を求めるプレッシャーの中で、かつて持っていたはずの遊び心とか、人生における余白みたいなものを少しずつ失っていると感じることはありませんか?
教育現場の変化は、実は私たち自身の生き方ともどこかで繋がっているのかもしれません。
鈴木 資料の最後にも、ダライラマの言葉が引用されていましたね。
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教育現場の変化は、実は私たちの生き方ともどこかで繋がっているのかもしれません。あなたも日々の忙しさとか、人生における余白みたいなものを少しずつ失っていると感じることはありませんか?
鈴木 資料の最後にも、ダライラマの言葉が引用されていましたね。あなたも日々の忙しさとか、人生における余白みたいなものを少しずつ失っていると感じることはありませんか?
鈴木 ずいぶんの中で、私たちはどうすれば、教育の世界に、そして私たち自身の生活の中に人間的な温かさやつながり、創造性の源となるような遊びとか余白の感覚を取り戻していくことができるんでしょうか。その答えのヒントは、もしかしたら他の誰かや、どこか遠い場所にあるんじゃなくて、あなた自身の内側に見つかるのかもしれないです!
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