1. LIFE UPDATE │ YOHEI HAYAKAWA
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2025-10-06 44:42

【#269】「領域を超えて生きる」林和彦さん(神楽坂乳業代表/医師/教師)前編

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▼医師、教師、そして“ヨーグルト屋”。林和彦さんはそう名乗り、肩書きの境界を超えてきた。医療の現場で体を壊したことから始まった腸との対話。やがて還暦を迎えて病院を退き、退職金や貯金を投じ、自宅を担保に借金までして、「神グルト」の開発へと踏み出した。目指したのは単なる食品づくりではなく、がん患者を含む人々が働き続けられる社会を実現すること。その思いこそが原動力となっている。日常の前提を疑い、境界を超えた先に何が見えるのか──答えは、林さんの歩みの中にあった。


▼インタビュー後編

【#270】「社会的に死、起業で甦る。」


▼林さんが語り尽くす「神グルトラジオ」配信中!がん専門医から“ヨーグルト屋”へ──その転身ストーリーから始まる、新しい習慣のラジオ。健康のこと、人生や働き方のこと、そして腸活の素朴な疑問まで、リスナーの声にゆるっと本音で答えていきます。ヨーグルトを食べるように、月曜の朝に聴いて“心と体をととのえる”。そんな時間をお届けします。番組はこちら → https://listen.style/p/kamigurt


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※当選の発表は発送をもって代えさせていただきます。


▼ゲスト略歴

はやし・かずひこ/元・東京女子医大がんセンター長。がん専門医として35年以上、3000人以上の患者と向き合ってきた。自らの体調不良をきっかけに腸内環境の重要性に気づき、還暦で大学病院を退職。私財を投じて立ち上げた「神楽坂乳業」で“神グルト”を開発。現在は医師・教育者・“ヨーグルト屋”として活動を続けている。著書に『よくわかる がんの話』(保育社)ほか。


▼インタビュアー略歴

早川洋平(はやかわ・ようへい)/1980年横浜生まれ。中国新聞記者等を経て2008年起業。羽生結弦、吉本ばなな、髙田賢三、ケヴィン・ケリーら各界のトップランナーから市井の人々まで、国内外分野を超えてインタビュー。13年からは戦争体験者の肉声を発信するプロジェクト『戦争の記憶』にも取り組む。『We are Netflix Podcast@Tokyo』『横浜美術館「ラジオ美術館」』『石田衣良「大人の放課後ラジオ」』等メディアプロデュースも多数。

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サマリー

林和彦さんは神楽坂乳業の代表として、美味しいメディカルフード「神グルト」を開発しています。自身の健康問題をきっかけに腸内環境を改善する研究に取り組み、その結果生まれたヨーグルトの魅力について語ります。また、林さんは医師としてがん教育活動に貢献し、教員免許を取得しています。彼は教育の重要性を理解し、がん患者の職業支援にも取り組んでいます。さらに、ヨーグルトの開発を通じて企業経営においても社会貢献を目指しています。 林和彦さんはがん専門医から転身し、神楽坂乳業を立ち上げ、メディカルフードの分野での社会貢献を目指しています。彼は困難な起業の道のりを語りながら、特報や機能性表示のない本物のエビデンスに基づく食品作りを追求し、ハンディキャップを持つ人々の雇用支援にも力を入れています。医師、教師、実業家としてのキャリアを通じて、領域を超えた生き方を探求している林さんは、がん患者のケアを中心に異なる専門分野を経験し、その中で発達障害についての理解も深めながら、自身の人生観と死生観を形成しています。

神グルトの誕生
今日はですね、神楽坂乳業代表で医師、教員の林和彦さんをお迎えしてお話を伺うんですが、
ご紹介の、ご登場の前にですね、林さんと僕のつながり、今日なぜお呼びしたかということをまず皆さんにお話ししたいんですけども、
僕がね、プロデュースさせてもらっている健康エンターネット番組のスポキャスTVという番組があるんですけども、
そこで先日、全身MRIのですね、クリニックをやっていらっしゃる高原先生にゲストに出ていただいたんですけども、
その時に腸内環境をめちゃくちゃ良くするメディカルフードがあるよっていうふうに言われてですね、
ご存知のように僕は健康マニアなので、ちょっと食いついて話を伺ったら、神グルトっていうものがあるっていうのをですね、ちょっと聞いて、
その場で実は食べさせてもらったんですけども、これヨーグルトなんですけど、度肝を抜かれましてですね、
とにかくメディカルフードを産むの前にまず美味しい、クリーミー、レアチーズみたいっていう感じで、
感じのお腹もなんですけど、僕は先ほど話したように健康オタクで、いわゆる腸内環境とか色んなこと相当素人なりにはお金も時間もかけてきたつもりなんですけども、
お通じ含め本当にもう翌日から効果、翌日というかもう当日だったかもしれませんけど、速攻性がありました。
なのでもう家族で取り合いっていう感じですね、実際僕自体も今毎日食べさせてもらっているんですけども、
そんなわけでですね、こんなヨーグルト、まさに神グルトを作った方にお目にかかってみたいということでですね、
僕の方でアップを取らせていただいて、今日は神グルトの産みの親、かぐや津田区乳業代表医師、教員の林和彦さんにお話を伺いたいと思います。
腸内環境の研究
ということで前置きながらになりましたが、林さんよろしくお願いします。
はい、よろしくお願いします。
さあ、そもそもなんですけど、いきなりですけど、この神グルトって何ですか?
ヨーグルトっていうのは僕冒頭で話しましたけど、これ聞いてる方は何の前提もないので。
一番最初に作ったキャッチコピーは医師が作ったヨーグルト。
私は大学病院に35年いたんですけれども、その中で生まれたヨーグルト。話すとものすごい長いんですけれども。
いいですか?今日はゲストですからね。ものすごい長くていいですよ。
基本的に私はガンっていうのが医者としてのテーマで、大学病院に入ってからまずは消化器芸会になり、
それから早期発見のために内飾用意になり、そして抗がん剤の勉強のために留学して、帰国して、緩和病棟も大学に作り、
ガンに関して診断から治療、お見とりまで全部やるっていうのが自分のスタンスだったんですね。
一方で大学のスタッフとしてはいろんな管理職というのの仕事もあったりして、
毎日朝から晩まで教育研究臨床という大学でよく言うんですけれども、
その3本柱でヘトヘトになるまで働いてたって感じだったんですけれども、
ある時ですね、私が副委員長の時にちょっと悲しい医療事故がありまして、
その責任者、医療安全担当副委員長という立場だったので、
ご家族等の対応とか、あるいは警察とか厚労省の対応とか、
そういうものをやっているうちにどんどんどんどん自分がやっぱり病んでいってしまって、
体の調子がすごく悪くなっちゃったんですよね。
メンタルはもともと強かったと思うので何とかいけたんですけれども、
体がついてこなくて、特に一番ひどかったのは便秘です。
もともと会食会弁が自慢で、そんなこと悩んだこともなかったんですけれども、
そのストレスが極度に達した時に完璧に弁が出なくなって、
常識で自分で聞いてもピクリとも動いていなくて、
どんどん苦しくなるし食べれないし吐いたりするし、
最初はどこかにガンダムできたんじゃないかと思って全部調べたくらいなんですけれども、
友達に相談してもこのストレスじゃしょうがないだろうというから一生懸命耐えていたんですね。
患者さんに出す5倍量10倍量、自分が医者ですからある意味いくらでも薬を出せたので、
患者さんに飲ませたらみんながえ?というくらいの量を自分一人で飲んでたんですけれども、
ともかく辛い毎日で10キロぐらい痩せちゃうし、これはダメだと。
そのストレスが原因だと思ったので、その立場からは降りた時に改善するだろうと思ったんだけれども、
全く改善しなかったんですね。一回ダメになってしまったら治んなくて。
それまではガンの専門医だったんだけれども、
だからガンの専門医としてガンの研究室とか持ってたわけですけれども、
ちょっと考え方を変えまして、このままだと死ぬかもしれないと思って。
消化器の専門医でもあったので、考え方を変えて調滑。
医者として、医師として、あるいは大学の研究者として調滑に取り組んでみようと思ったんですよね。
自分を救うためでもありましたし。
勉強し始めてみると、なかなか面白い領域で、
これもしかしたら自分で自分のことを救えるかもしれないと思って、
そこから先はもう調滑の研究をするしかないなと思ったんですけれども、
もともとガンの専門医なので、まさか大学で自分のための調滑のヨーグルトを作らなきゃいけないじゃないですか。
気持ち的にはあっても。
しょうがないから自宅で子供らが出て行った後の子供部屋を研究室に改造して、
シュールな光景ですよね。そこの子供部屋なのにドアを開けると、
インキュベーターなんていう温度調整の効くものとか、
あるいはピペットとかですね、普段実験室で見るようなものが並んでいるわけですね。
ベンチフードとか。そこに帰って、それまではミッドナイト12時までは帰らないっていうのが
自分のもう何十年来のスタンスだったんだけども、もう8時に帰るようにして、
その夜の時間を自分のための調滑の研究に充てたというのがあります。
世界中からやっぱりいろんな医学情報が、やっぱりそこはすごく良かったと思うんですよね。
医者として大学でやって、研究者だったので、どの情報が正しいかとか、
健康情報っていうのは基本的にはもう99%嘘ですから。
その嘘の中から本当のことを見抜くのはむちゃくちゃ大変なんですよね。
でもそこの見抜く力みたいなのはさすがに35年もやってたので、多分あったんですよね。
世界的に有名な雑誌とか、あるいはそのいろんな臨床試験なんかを全部見て、
とにかく良いこと良いことというのを自分のために積み重ねていったという感じです。
毎日最初単位が1リッターになってしまうので、小さな1リッターの発酵器を使って、
毎日1リッターずつヨーグルトを作り始めたんですよね。
なんでヨーグルトになったのかというと、いわゆる調滑みたいなこと。
皆さんが知っている調滑、食事とか運動とか、全部やったんですけど全くダメだったんですよね。
もうその5倍10倍の下剤に頼るしかなくて。
そこでヨーグルトっていろんな可能性を秘めていて、調滑の中では最強だなって途中で思ったんですよ。
だからヨーグルトしかないと思って。
毎日毎日1リッターのヨーグルトを作っていたんだけども、当然むちゃくちゃまずいわけですよね。
もう匂いからするとこれ無理じゃねっていう。
もう煙獣粉と臭くなっちゃう。
匂うんですか?
匂いますよ、むちゃくちゃ。
発酵と腐敗の違い知ってます?
納豆も腐ってるって言いますもんね。
体に毒があると腐敗。
いい線ですね。
どちらも微生物が自分で代謝して何か別の化合物を作るみたいな働きですけども、
それが人間にとって有用な場合を発酵。
毒な場合を腐敗っていうのが古典的な解釈なんですね。
当然その当初できてたのは多分毒農法で。
がん教育の推進
もう臭いだけじゃなくてとてもちょっと口に入れるのもはばかるような。
で、無理矢理こう飲み込んでもウエッて入っちゃうような。
そんなものしかできなかったんですよね。
でもその効果だけを狙っていたので、我慢してそれを食べてた感じです。
ああ、そっか。もう美味しいとか関係なくね。
関係ない。本当に薬だと思って。
で、二口三口食べて、たぶん50g、100gが精一杯だったと思うんですけども、
あとは捨てる。
毎日毎日捨ててたらついに血液管が詰まっちゃってね。
または神様に怒られたりなんかもしましたけども。
そんな毎日だったんですけども、なんとかまずいまずいヨーグルトだったんですけども、
食べてると便通が確保できてきたんですよね。
効果は。
効果はあった。
で、薬の量も減らすことができて、この方向性だと思ったらなかなかブレイクスルーがなくて、
ところがですね、ある日本当に突然なんですよね。
毎日こう微妙な素性は変えてたんですが、ある日突然、
何これ。
美味しいっていうのができちゃったんですよね。
それが今の神グルトに繋がる第一歩です。
もうそっからさっきは2ヶ月ぐらいで今のほうができてしまったので、
本当に神様が偶然で授けてくださったヨーグルトだったんですよね。
でも全然売るつもりなんかないから、超ラッキーと思って。
しかも美味しかったんですよね。
こんだけ美味しくて、こんだけよく効くヨーグルトってないよなと思いながらも、
でも別に売るつもりもないから自分で食べてて。
家族も、最初は敬遠してた家族もみんな食べてくれるようになって、
仲の良い友達の中にあげるとすごい喜ばれて、奥さんの便秘なのが治ったとか言って。
もっと作れとかもっとくれとか言われるようになったけど、
さすがに大学人だったので、いやいや無理無理そんな忙しくて無理ってやってたんですよね。
そういうバックグラウンドがあった時に、さっき言ってたがんの仕事ですよね。
がんの医者としての仕事だけじゃなくて、社会啓発みたいなこともやっていて、
例えばがんの知識が国民の皆様に十分でないために、
別に学ぶ力がないというわけじゃないんですよ。
やっぱり情報が偏ってたりとか、あるいは一方的な情報に左右されたりして、
正しい知識は国民の皆さんが持っていただいていないことが多いんですよね。
そうすると結果的には国民の皆様というか患者さんが不利益をこもるので、
私のもう一つの大きな仕事はがんの啓発だったんですよ。
いろんな講演をしたりセミナーをしたりみたいなところだったんですけども、
そういうセミナーとかをやっても、
ただなかなか家でタバコバカバカ吸ってるお父様がセミナーに来てくださるかって言ったら多分無理ですよね。
大人になかなか伝えるのが難しくて、
効果がなかなか出なくて、
もうじぐついた思いだったんだけども、ある時、
じゃあ子供に行けばいいんじゃないかなと思って、
同じようなことを考えている啓発する人たちがいたので、
その人たちと連携をしてですね、
子供に教育しましょうと。がん教育というのを学校でやったらいいんじゃないかと。
それを始めたんですけれども、
がん教育の取り組み
一回、二回ならば大学病院のそばの小学校の先生とかがやらせてくれたりするんですけども、
それを大きな動きにしていくのはすごく難しくて、
文科省なんかも一応掛け合って、何度も掛け合っていたんだけども、
やっぱりなかなかわかっていただけない部分もありますよね。
その気持ちはわかるけどもとか、
いいことと思うけども、
学校教育はパンパンの中でがんという一つの病気について、
教科書に取り込むなんてことはできないと言われ続けていたんだけども、
でも、我々がやりたかったのはがんという病気を詳しく教えたい、
細かいことを教えたいということでは実はなくて、
がんという病気って命に関わる病気なので、
がんについて知ることで自分の健康のありがたみを理解したりとか、
あるいは、がんになった人に対する接し方とか思いやりとか、
そういったものを醸成できるんじゃないかというのががん教育の目標だったんですね。
でもなかなかそれもやっぱり進んでいかなくなったので、
やっぱり医者としてそういった教育を、
教育ってある意味、学校って先生の生育なので、
そこに医者がいくら行ったところで、やっぱり所詮よさ者なんですよね。
だからそこに溶け込むにはどうしたらいいかなって考えた時に、
自分が教員になっちゃえばいいじゃんと思って。
で、55歳の時に中学・高校の保健科の一種免許証と、
特別支援学校の一種免許証を取ったんですよね。3年かかりで。
さらっとおっしゃいましたけど、めちゃくちゃ大変じゃないですか。
働きながらだし。
そうそう。もう本当にいいおっさんが大学生、
あるいはそれ以外の子供たちと同じにレポートを書いたり、試験を受けたり。
今は通信大学で、通信大学の教育学部に行ったんだけども、
昔と違って通信大学でもスクリーニングとか結構あるんですよね。
その二手合わせるのも本当に大変で。
スクリーニングの教室なので、毎回メンバーが違ったりするんですよね。
そうすると、一生懸命私がスクリーニングの教室に何とか顔をかけ込んだような時、
結構生徒の人たちがいきなりみんな起立しちゃったりするんですよね。
もう完全に先生だと間違いなく。
そういうことか。ベテランの生徒ですからね。
そうそう。もういいおっさんもいいとこなので。
自分は生徒ですから、みんなが、「はあ?」って。
お前何しに来たんだって感じで。
先生になってお前いくつだよみたいな。どうすんだみたいなことを。
でもなんとなくしがみついて、振り絞って頑張って教育免許を取ったんですよ。
その教育免許って本当に自分で取ってみて、
本当に取って1年ぐらいした時に、こんなにコストパフォーマンスのいい自分の努力はなかったなと思ったんですよ。
今の最初の話聞いてるとね、とても大変で合わない感じですよね。
ところが、それまで学校の先生にしても、教育委員会にしても、文科省にしても、
また推計な医者が面倒くさいことを持ってきたみたいな感じだったじゃないですか。
それが教員免許を取って、教員になった途端、急にみんな仲間になっちゃうんですよね。
生意気を越えたというか、入ったというか。
相手の領域に入ることってこんなに有効なのかと。
今まで経営された先生方に、うちに来て何かお話ししてくださいとか、
教育委員会の講演のオファーとかも全校から来ましたし、
文科省も本当に急に態度を軟化させてくれた感はあるんですよね。
冷静に考えてみれば、自分の例えば医者としての立場で考えて、
私が例えば緩和病棟を大学でやったでしょ。
そこに見学に来た、例えばどこかの大学の心理学の先生が我々の見学をしていて、
あんたたちの患者さんへの接し方はあんまり良くないからこうした方がいいとかっていうアドバイスを
全員でしてくれたと思って。
内心、たぶん以前の私だったら、何言ってるのか何がわかるんだよみたいな。
医者でもないのにそんなことを軽々しく言わないでほしい。
こっちは命預かってるんだぜみたいなことを思っちゃったと思うんですよね。
でももしその心理学の先生だとして、
心理学の先生がこの領域に自分の力は絶対必要だなと思って、
気合い入れて医師免許を取ってきましたと言って何年が後に現れたら、
もう超たくましいじゃないですか。
そんな思いでくれてる先生がいい年で努力して医師免許を取ってきてこの領域に。
もう願ったり叶ったりというか、お願いしたくらいですよね。
ぜひお力を貸してくださいってなるじゃないですか。
そんなに偉そうなもんではないんだけども、
なんかそんな感じだと思うんですよね。
別に学校の先生って医師もそうですけれども、
基本的には本当に子どもたちのこと、患者さんのことだけを考えてる全流の人が多いんですよね。
ただ数が多いので、教員だって100万人いますから。
そんなにいるんですね。
だからそんだけいれば、ちょっとおかしな人ってやっぱり出てきちゃうじゃないですか。
それは世の中ね、もう諸行問わずそうですよね。
だからそれをあたかも全国の教員はみんなおかしいとか、
子どもたちに何されるかわかんないみたいな、そういう風潮にあると思うんですよね。
でもそうではなくて、ほとんどの教員は本当に真面目で子どもたちのことだけを考えていて、
その領域に教員として加われて、
それで例えば文科省や厚労省のそういう癌教育なんかに関する会議に、
教員の言葉で話し合うことができるってすごい大きいんですよね。
医師の言葉と教員の言葉は全然違っていて、
でも教員の言葉で私が説明をすると、
同席している教員の人たちはみんな本当に嬉しそうな顔で聞いてくれるんですよ。
逆に医者の人たちは意味わかんないみたいになるんですけど、
そこの間を上手に話をしていくと、みんながうまくまとまるみたいな。
だからこの資格って本当に取って良かったなと思って。
取った時58でしたけど、もう十分もとどったと思いましたね、その前の頃。
なんてことがあって。
それくらい啓発に力を入れていたわけですけど、
子どもの教育はそこで文科省も理解を示してくれて、
学習指導要領という教科書の法的なバックグラウンドに載せてくれたんですよ。
これすごい大きくて。
学習指導要領って法的な拘束力があるので、
もしそこに一行でも癌について学ぶって書かれたら、
どんな小さな学校の子どもも癌について学ばなきゃいけない。
先生は教えなきゃいけないってことなんですね。
そうすると大人の啓発と違って抜けがなくなるんですよ。
全ての子どもに届く。
これすごい大きくて、本当に一生懸命やって良かったっていう活動だったと思うんですね。
でもそれがもう形になって学習指導要領に載せてもらえば、
今度はもう何も言わなくても進んでいくので、
がん患者の職業支援
自分のやることは終わったなと思って。
その中でやっぱりやり残してきたのが、
がん患者さんの就労の支援なんですね。
がん患者さんは年を取れば取るほどかかりやすくなるとは言うものの、
例えば40代、50代ぐらいまでというのは、
実は女性の方が男性より2倍ぐらいが多いんですね。
だから働き盛りの層というのは、
例えば乳がんとか子宮頸がんの病気は、
もう2時代3時代から出てきますので、
そういう方々ってもう国の宝みたいな存在なんですよね。
やっぱりその2時代3時代の女性って、
その変な意味じゃなくてもそうじゃないですか。
やっぱり女性としても魅力的だし、
お母さんとかあるいは奥様とかパートナーとか、
いろんな立場で社会には参加しておられて、
でも今の女性はすごくリテラシーも高くて勉強もされてるでしょ。
だから本当国の宝なんですよ。
子供を産むだけが女性の仕事では全然なくて、
いてくださるだけで、いてくれるだけでいい存在なんですよ。
その人たちががんという病気に侵されるみたいなこともよくあるんですよね。
でもそういう人たち、別に女性に限らず男性もそうなんですけども、
やっぱりかなりの数の人ががんを経験したことで
職がなくなる。厳密に全くなくなったら生きてられないので、
完璧になくすってわけじゃないんだけども、
本来持っておられる素養や知識や経験じゃないところで働かせるを得ないみたいな。
そういう状況が結構あって、それは後遺症のためだったり、
あるいは実後体力が落ちたりとか、
あるいは何年も継続する治療のためだったり、いろんなことがあるんだけども、
そうすると、やっぱり今の日本のくじ持ちの一般企業の中ではどうしても浮いてしまう。
最初はがんになって復帰しました。
なんていうとみんながんばれ、みんなでカバーするよって言ってくださるけども、
でもそれが半年、1年、2年と続いていくうちに、
やっぱり心苦しくなって辞めちゃう人多いんですよね。
そういうのはとても残念だと思って、
そういう就労のお手伝いをずっとしたいなと思って、
実際その厚労省のがん対策企業アクションというのがあるんですけども、
そこでそういった就労支援とか、
あるいは企業の中でのがん検診の啓発みたいなことをやってきたんですけども、
その会議に出ているときに、やっぱり問題になるのはなかなか実効性が出ない。
企業経営とヨーグルト開発
10年前とあんまり変わらないような失業のデータが出たりする。
これ一体どうしようとみんなで考えて、
いろんなことはやってくるんだけども、やるんだけどもなかなか効果は出ない。
そのときに自分にふっと急に思いついちゃったんですよね。
今まで企業の人事担当の方とか社長さんとかをお呼びして、
あるいは我々がそういった企業に行って、
こうすればちゃんと継続して雇用できますからとかお話をしたりしてたんですけども、
その場ではいい話ですねとか持ち帰りますとか言ってもなかなか経路が広がっていかない。
そんだったら、なんかもう自分で会社とかやって、そこをモデル的な会社にしちゃって、
その会社自体で啓発活動をやった方がいいんじゃないかと。
がん教育の時の成功事例があったんです、自分の中で。
だから医者として何かを言うんじゃなくて、その人たちと同じ立場になって物を言えば説得力がある。
経営者の人たちに届けるためには自分は経営するしかない、経営者になるしかないと。
だから自分で企業ってできないかなって考えた時に、ちょうど時期が同じだったのがヨーグルトを開発できた時期だったんです。
やっと確信できましたけど。
だからあのヨーグルトを売れば会社で、多分あのヨーグルトよく効くし美味しいし多分売れるなと。
医療からビジネスへの転身
それで自分で会社を作れば、もしかしたらがん教育と同じようなプロセスでうまくいくかもしれないと思っちゃったんですよね。
それで決めました。
60歳を目前にしてたんですけども、
医療は自分の中でがんに関して、下界が始まって難縮治療とか肝分けやりとか抗がん剤の治療とかやってきたけども、
自分の能力とか気力としてはやりきった感があったんですよね。
だからもうそういった医療の第一線で患者さんに貢献するんではなくて、
先ほどの社会的なところで貢献すればいいんじゃないかと。
じゃあそのためにはやっぱり今まで持ってたものを全部捨てることになるので、
年取って定年なんとかじゃできないなと思って、
自分の中でも目標を歓歴の60歳に決めて、60歳で辞めようって決めたんですよね。
それに向けて休業準備したっていう感じです。
もちろんビジネス館って全くのどしろとなので、もう会計なんてわかるわけもなしに、
会計どころか材料を発注するなんてのもよくわかんないし、
ましてや通販サイトを作るとか、あるいは宅配するとか通信販売をするみたいな、
もう何が何かわかんないことだらけじゃないですか。
しかもやっぱりそういう思いで起業するならば、
単なるお金儲けしたくなかったので、いわゆる出資を受けることは自分の中で絶対しないと思ったんですね。
ビジネスパーソンなり出資者のご支援をいただくっていうのは機構がいいけれども、
少なくとも自分の周りで見てきたそういったビジネスパーソンの人たちって、
やっぱり100%エンジニアとか絶対いないじゃないですか。
だから自分がそんなヨーグルトをただ売るんじゃなくて、それで社会活動をしたいならば、
当然ビジネス的にはなかなか難しい世界になっていってしまうので、
そしたら絶対うまくいかなくなるなと思って。
だから起業した時にもう出資を受けないっていうのがあった。
そうすると全部一人でやらなきゃならないですね。材料の仕入れから、
発注から発注して、作って、梱包して大和のお兄さんに渡すまで全部一人でやる。
でも割と楽観的だったんですよ。大学のすぐそばに工房を作って、それをやり始めたんだけども、
多分このヨーグルト美味しくて効果的だから、半年ぐらいでバズって、
もう自分手に負えなくなってすぐ人を雇って、さっき言った会社にして、
いろんな提言をしていこうみたいに思ってたんだけど、バズんなかったんですよね。
あれって感じでした?
起業の難しさと苦悩
あれって感じですよ。だってもう医者としての収入はなくなるし、
当然いくら小さな工房を作ったって、やっぱり何千万というお金がかかっていくじゃないですか。
それで毎日の生活もあるし、当然収入にはならないし、機械一つだってとても高いし、
ヨーグルトの製造原価だって世界で一番原価高いと思うので、そうなっちゃったんですね。
うちのヨーグルトって自分の救うためにやったので、ともかくいいものと思ったので、
もうコストも時間も手間も何も考えないで作ったヨーグルトなんですよ。だから製造原価がむちゃくちゃ高いんですよね。
今すごく高いヨーグルトだと批判を浴びることもあるんですけども、
3500円。
700グラムで3500円って、ヨーグルトで3500円って何なんだよって。
私をあんまり知らない人は、さぞかし儲かってるんだろうねとか、何か勘違いしてないかって説明を得られるようなシーンもあったりするんですけどね。
もうクソハカチです、いまだに。
逆にこういう健康マニアの人からしたら全然高くないってよくわかりますけどね。
医者としても、あえてメディカルフードというヨーグルトを作りたくて、特保とか機能性表示っていうのはまやかしだと思っているので、そこは取らないできているんですよね。
でも本当に医薬品と同等かそれ以上の効果があるものならば、もう全然ある意味安いじゃないですか。
毎日の食で健康になれるって理想だし、自分が医者でやっていながら、やっぱり薬ってとっても不自然な行為ですよね。
少なからず副作用もある。そういう中で効果と副作用の兼ね合いで薬って、抗がん剤なんかは最大のものだけども、
そのしのぎ合いをする、病気になってそのしのぎ合いをする前に病気にならない方がいいに決まってるので。
だから毎日の食の中で、たとえばうちのヨーグルトの3,500円だけど、月に3瓶くらい召し上がっていった方が一番多いので、月1万円なんですよね。
そうすると1万円を、まやかさんがサプリの信者だけどさ、わけのわからないサプリとか使ってる人いっぱいいるじゃないですか。
だったらちゃんとした、ちゃんとしたって自分で言うことじゃないんだけども、ちゃんとした医者が作ったいいものを食べてよって思っちゃうんですよね。
ごめんなさい、さっきの話に戻ると、だからすぐバズると思ったからバズらなかったんですよ。
いいものを作ればすぐ売れるって考えたのは、やっぱりそれ企業があるあるってよく言われるんだけども、みんなそう思ってたんだよね。
もう自分が自信満々ながら、これみんな自分と同じ感覚で受け入れてくれるだろうと思う。
でも実際には全然そんなことなくて。出身も受けないから、単月黒字になるまでは誰も雇わないと決めたんですよね。
だから全部一人でやってた。当初半年ぐらいで一人じゃなくなる予定だったのが、なんと6年近く一人だったんです。
その間に生活もあるから、医者のアルバイトは細々と続けてたんですけども、週に1回だけ。
それだけで食ってるわけですよね。どんどん上げて動かされていく。
でもやっぱり分かる人が分かってくださって、だんだんだんだんお客さんが増えてきたんですよね。
5年半6年経つぐらいのときになんと工房では、やっと創液分岐点に達して黒字化したんですよ。
でもその時に我が家の全財産って7万円しかなかったんですよね。
記事とかで見ましたけど、本当に7万円。
神さんに12月にちょっとそこに座ってくれって言われて、夜寝るときにベッドに座らされて、
これ見てちょうだいって言われて出された貯金土地が7万円だった。
おお!って思いますよね。
やっぱり医者は35年40年近くやってきて、老後のお金とか退職金とか、決して多いお金じゃないんですよね。
退職金だって別に皆さんが思っているような金額ではなくて、普通のサラリーマンの皆さんと同じくらいの金額だと思います。
2000万とかそういう金額です。そういう金額の退職金とかも全部つぎ込んでるでしょ。
神田坂に自宅があったんですけど、それももう抵抗に入ってるわけですよね。
それで7万円しかないって結構恐怖ですよね。
そうですね。
60歳になって、60歳に過ぎてる人間が7万円しかなくて、
子供らの結婚なんて言ったってお金をあげられるわけでもなく、自分が病気になったら終わりだし、どうすんだこれみたいな時だったんですけどね。
でも神様がちゃんと見ててくださって苦労事故したんですよ。
すごい悩んだんですけども、もし自分があやかさんの年代だったら、40代50代だったら、地道にその授業を伸ばしていったと思うんだけど、時間がないと思っちゃったんですよね。
あと10年くらいの間に完結しないと、自分の思いを遂げられないと思ったので、ちょっと大きく勝負に出ようと思ったんです。
まだ頭がおかしいのね。本当にビジネスパーソンじゃないところは、あんだけ苦労したのに、またきっとバズるだろうと思ってるわけですよ。
だから大きく勝負に出ようと思って、栃木県に新しい工場を作っちゃったんですよね。
じゃあ生産体制をもっと…
そう、いっぱい作ろうと。
その時そういう考えを結構周りに言いふらしてたら、新聞記者の方とかも聞いてくれて、大きな記事にしてくれたりね。
そういう未来が急に開けたような感じがあって、黒字化したし、ここから先はもうブルーオーシャンだみたいな。
気が大きくなっちゃったのもあるんだけども、何億円もかけて工場を作っちゃったわけですね。
それが今になってまたなかなか大変なんですけども。
ちょっと現在進行形のところもあるけど。
でも別に私はお金儲けのために休止したわけじゃないし、子供らも独立してるし、神さんとミニチュアダックスフンドのワンコだけ食べさせていければいいみたいなつもりでいるので、最適な生活を維持できてるんですけどね。
メディカルフードと就労支援の目標
でもやっぱり目標としては2つあって、うちの会社の目標は、まずはメディカルフードという領域、せっかく医者として職に関わったんだから、
ある意味特報とか機能性表示の中でハテナと思うようなこと、国民の皆さんもいっぱいあると思うんですけども、医者から見るとハテナの嵐なんですよね。
そういうものではなくて、本当にエビデンスを出せるような職に関わっていきたい、それを作り出したい、そういう領域を作りたいというのが一つと、
さっき言った就労支援ですよね。別に眼科医者に限らず、何かハンディーがあるために、それは身体的なハンディーだけじゃなくても、
例えばお子さんがいらっしゃるなんてのもハンディーで、子育てとか大変じゃないですか。あるいは介護なんてのもありますよね。
そういう方々っていくら自分にモチベーションがあって能力があっても、本来の力を発揮できない方々、日本に何百万人居てると思うんですよね。
そういった方々が本来持っておられるパフォーマンスを最大限に出せるような雇用形態を作れないかなというのが次の目標です。
例えば今国がやってきているような働き方改革みたいなもの。医療の世界にも今それが入ってきて大変なことになっているんだけども、
それにどうしても時短の議論みたいになってしまって、うまくいかないに決まってますよね。生産性が落ちて収入が減るみたいな。
でも私、新しい雇用をするならばベンチャーしかないと思って、既存の会社に新しい働き方を導入するのはものすごい抵抗もあるだろうし、
財産性も悪いと思うんだけども、ベンチャーだったら最初からこういう会社だとそういう働き方って普通なんだよっていうのをベンチャーにしちゃえばいいんですよね。
そうすればその中で黒字化していくにはどうしたらいいかってことを考えると思うんですよね。
それを今はやりたくて、もうあと一息なんですけど、黒字化がなんとなく見えてきた。
素晴らしい。今、神楽坂乳業スタッフの方とかどういう感じの規模というか。
今ですね、栃木県の尾山工場に3人いてくれるんですね。
それもやっぱりこのメディカルフードなんて目指したもんだから、やっぱり私は最初からプロフェッショナルを一本ずりしていて、
一人は国立病院なんかで薬剤部長をやってた。抗がん剤のミキシングなんですよね。
もう一つは自分が時々行っていた病院のオペシスの男性看護師ですけども、
当然ながら清潔観念とか医療に関する理解は十分。
もう一人は薄膏の専門家です。自分で薄膏をやりたくて大手の手造メーカーの工場に行って修行を積んだ人。
その3人いれば完璧だと思ったんですよね。
医師としてのキャリアの始まり
ただ作るだけではいけないので、自分はマーケティングの方とか広報とかやろうと思って一人でやったんだけども、
それもやっぱりもう自分が限界に業務的にね。
一番最初に入れた事業員が実は長男です。
長男の話するとまた長いのでまた別の機会に。
長男にも入ってもらって、今は新宿の工房は長男と2人で営業広報みたいなこと。
それから工房で試作品を作ったり新商品を開発したり。
あるいは新宿からふるさと納税の委託を受けているので。
新宿なんて製造業が少ないから喜ばれるんですよね。
だからそれにも参加してそこでやっているみたいな感じですね。
ここから先新たな装飾メーカーを超えたらやっぱり規模も大きくしていきますので、そこで雇用を実現して。
売っている商品はもうアジア国家には自信があるので、
やっぱり秘書が作ったミディカルフードってすげえよなみたいな波を起こしていきたいなと思って。
素晴らしい。
そういう意味では僕今お話を聞かせて最初に自信があって行けると思ったら行けなくて、
その後またちょっと会ってみたいな。
だから今度こそ3度目の正直じゃないけど。
もうまた失敗するんじゃないかなと思うんですよね。
素人のくせになんでできると思っちゃうんでしょうかね。
今まさに素人のくせにっておっしゃいましたけど、
さっきの伺いたかったのが、もともと教員の部分もそうですし経営者もそうですけど、
素人だったけど、性域、領域を超える。
こいつそっち側に入って今もあるわけじゃないですか。
だから林さんの中で35年医師としてやってきた中では、もともといわゆるその時は医師じゃないですか。
領域を超えて何かをするみたいなのは、
医師の中でもちょっと異端と呼ばれるような何か研究をしてたとか、何かやってたとか、
いわゆる領域を常に超えるような人だったのか、
やっぱりさっきの教員っていう癌の教育のところで初めて領域を超えるような人間になったのか、
もともとパーソナリティとして持ってたんじゃないかなと勝手に思ってるんですか。
たぶん私、発達障害、
最近は発達障害という病名というかね、
言葉が一人歩きしてる感もあって、
もうみんなが俺発達障害だからっていうようになってるんだけども、
私自身も、自分はすごい生きにくいなと思ってたんだよね、人生で。
実際子供の頃から、例えば忘れるものが異常に多いとか、
あるいは一つのことを思うと他のこと何もできなくなっちゃうとか、
たまたま私はそれが医者になりたいと思ったから、
勉強とかの方に向いたから、あんまり露呈しなかったと思うんだけども、
実は58で特別小学校の免許を取ったときに、
発達障害とか深掘りしてみたら、
もう医者として診断してみてもドストライクの発達障害だったんですよね。
びっくりするぐらい高得点で多動性の疾患だったんですよね。
実際に言われてみたら思いつくことがいっぱいあるんだけども。
あと、自分の中でボーダレスっていうのはむちゃくちゃボーダレスで、
医者として例えば外科医になったやつは、
普通は外科医しかやらないんですよ。
自分の目数をブラックジャックに近づけようと思って、
外科医として接触もするわけですよね。
でも、私が入局した外科の医局って、東京都知事大の障害外科っていうところは、
入局した当時は日本で一番大きな有名な外科で、
医者だけで100人ぐらいいた外科医院。
外科の医局なんだけども、
もう神の手と言われるような教授がいて、
確かにその先生はむちゃくちゃオペは信じられないような極限のような、
ものすごいオペをされるんだけども、
でも、その先生が手術しても助からない人がいたわけですよね。
それを見ちゃうと、もしかしてオペって無理じゃね?と思っちゃうのね。
じゃあ何ができるかって言ったら、
じゃあ内視鏡で早く見つければいいんじゃないかと思って、
今度は内視鏡にわーっと傾注するわけですよ。
で、もう手術は持っておいて、内視鏡ばっかりやるわね。
でも内視鏡だって早期患だったら内視鏡を切除すれば、
本当にこう切ることなしに治せるし、
患者さんの回復も早いしね、後遺症も少ないし。
だけど、やっぱりやってると、
臨床やってれば手遅れの人とか来るわけですよね。
そうするとやっぱり、あ、じゃあ抗がん剤かと思って、
あるいは遺伝子なんてのもあるよなと思って、
抗がん剤と遺伝子両方勉強するって言ったら、
その当時日本ではなかなか難しかったので、
アメリカに行って勉強した。
で、帰ってきてみたら、
いやいや、やっぱり亡くなる時一番重要じゃね?と思っちゃうんですよね。
そうすると下界でも亡くなっちゃったし、
内視鏡も抗がん剤も専門医、指導医にはなりましたけども、
その分野の日本のトップってわけではなくて、
大学の教授レベルの知識と経験。
でもやっぱり目標は資格を取ることが目標だったわけじゃないから、
がん患者さんを最後まで見るっていう意味では、
やっぱりもう緩和に行き着いちゃったんですね。
だから結局、がんの最初から最後まで全部担当したと思います。
でもそんな医者ってあんまりいないと思います。
だからボーダーっていうのが自分の中でなくて、
それが医師という職業から外れちゃって、
教員にもなってみればいいんじゃないかと。
課題ががんということに関して、課題があったときに
それを医師として乗り越えられないならば、
教員になればいいじゃない。
医師としても教員としても乗り越えられなかったら、
実業家になればいいじゃんみたいな。
だから自分の中ではがんというテーマで一生こだわって
生きているつもりはあるんだけども、
他人から見ると、あれこれ何かもちょこちょこちょこちょこ手を出して。
うちの神さんに言わせると、
あんたは全部中途半端だって言われるんだけども、
本当にそういう生き方をしてきたっていう感じですよね。
未だに模索を続けている。
発達障害の理解
いつになったら終わるかわかんない。
でも今の話聞いてすごいがてんがいきました。
ボーダレスではありますけど、
それを横軸として捉えていろんな職業というかあるのであれば、
縦軸では常にそこにはがんが痛感しているわけですよね。
だからそういう意味でちょっと伺いたかったんですけど、
まさに35年とかもっとかもしれないですけど、
がんっていう病気をいろんな形で見てきて、
何千人って見てきて、
その中で林さん自身が得た人生観とか死生観って何か一つ挙げるとしたら何ですか?
一つで言うのは難しいと思うけども、
まずは原体験なんですよ。
私は本当に中学の時に父親が遺願で死んだんですけども、
それが一番の原体験だと思うんですよね。
私はちっちゃい頃からその父親が大好きで大好きで、
神様のように思ってて、
いつもちょこまか近くにいて、
司会だったんで自宅会議をしてたんですけども、
審査室に入って行っちゃうと怒られたりとか、
一日中24時間ずっと一緒にいたくらいで、
パパと離れるの嫌だから幼稚園に行かないって言って幼稚園に行かなかったとか、
そういう子だったんですけども、
そのさんやの父親が自分が中学の時に遺願で死んで、
その時にもう絶望なんですよね。
しかもその生活も一変して、
その当時歯医者さんってなんとなく景気良かったので、
すごいお金持ちのお家だったです。
でもそれがいきなり全くお金がない父親がいなくなったので、
母親は専業就業だったので、
収入ゼロじゃないですか。
その貧乏の恐怖。
バイトしないと学校行けない恐怖。
今までと180度全く違って、
今までだったら父親に相談すれば何でも解答が、
その父親がいないので自分で解答出さなきゃならない。
そんな中で、
うわっ、癌って人生むちゃくちゃ変えるなっていうのが擦り込まれていて、
もうこれ自分が今苦しい思いとか悲しい思いとか
ずっとそこから抜け出れないんだったら、
これを人生のテーマにしちゃえば、
自分自身を解決できるかもしれないって思ってたんだよね。
だってそうしなければいつになっても、
癌っていう病気はおじさんに治してもらう病気で、
もしかして失業したら別の行政の人に手伝ってもらったりとか考えるとか、
そうじゃなくて、自分がそっち側の一番のメインの方に入っちゃえば、
自分の苦しみから救えるんじゃないかって自分で思ったっていうのは、
今話してて思いましたね。
今聞いてまさにそれも領域を超えたさっきの教員とかと一緒ですよね。
癌側に行っちゃうっていうところがあるけど。
その頃は中学生で中央医学になってアルバイトとかしてるわけで、
かわいそうとは言われたくなくて、
言われるのがすごい屈辱で、
俺はかわいそうなんかじゃないっていうのをいつも思っていて。
だけど他のうちに比べてお金はないし、
例えばその医者になるって言ったって、
お得ないし収入ないから私立の医大なんか行けるわけないわけですからね。
そうすると国立に行かなきゃならないとか、
そういうのも結果的には良かったと思うんだけども、
やっぱり大変じゃないですか。
学費とかって、
普通だったら、何が普通ってわかんないけど、
一般的には学費を心配する受験生とかいないわけじゃないですか。
ある程度はあったとしてもね。
親が大変だなって思いはあったとしても、
そうじゃなくて自分で稼がないと学費ないようですから。
子供ってすごいリアルな人生の課題で、
急にその頃は子供らしくない子供だったと思いますね。
冷めて考えたりみたいな。
冷たい感じのどう生きればいいかみたいな。
ずる賢い子供だった。
だから大人の前では大人受けするような態度をとって、
バイトをしたって、
飲み屋みたいなところでバイトをして、
自分が苦学生みたいなことをわざと話してチップをもらうとか、
そういうずる賢い生き方を選択してきたので、
でもそれも本当に生きるのに一生懸命だったから、
将来的な目標として自分が何というのを解決するっていうのがあったから
やってこれたのもあると思うんですよね。
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